魔法少女まどか☆マギカ 続かない物語    作:FTR

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第7話

 食卓の上の燭台に灯ってた蝋燭は、既に燃え尽きていた。

 私の言葉が訥々と流れた時間が終わり、その後に訪れた沈黙の時間が長い。

 マミさんとほむらの視線は、初めて聞いた魔法少女の秘密に絶句する杏子に注がれたままだ。

 表情が抜け落ちた杏子は腕を頭の後ろに組んで宙を仰いだまま考えて込んでいたが、数分の後、ようやく言葉を発した。

 

「今日は帰るわ」

 

 そう言って席を立った杏子に、全員の視線の質が変化した。そんな面々に、杏子は変わらぬ強気な笑みを浮かべた。

 

「心配すんなって。ワルプルギスの夜をやる時はちゃんと参加するよ。今はちょっと夜風にでも当たらないと、せっかく食ったもんを戻しちまいそうな気がするんでね」

 

「あら、もしかして私たちが怖い?」

 

 やや悪戯っぽく響くマミさんの言葉に、杏子は首を振った。

 

「そういうんじゃないよ。一息に飲み込むには、ちょっと話が大きすぎてさ。頭を冷やしたいんだ」

 

「……気持ちは判るわ。でも、そういう時は誰かと一緒にいた方がいいわよ」

 

「まあ、そういう気分になったら戻って来るよ」

 

 玄関に向かう杏子を追って、私は席を立った。

 言葉もなくブーツに足を突っ込んで、杏子は振り返った。

 

「あんたが言う『考え方に一石を投じるだけの内容』ってのは納得したよ。嫌って程ね」

 

「信じられない部分もあると思う。でも、私が話したことは真実」

 

「疑っちゃいないよ。あいつらだって、最初は疑ってたんだろ? それなのに、今じゃあんたの説明を全く否定もしやしない。信じるしかないじゃん」

 

 そう言って少しだけ陰のある笑みを浮かべて杏子は玄関のドアに手をかけた。

 

「気を付けて。特に、さっき話した予想外の魔法少女のこと」

 

 私の警告に、杏子はちょっとだけ顔を顰めた。

 

「あたしがそんなのに負けるとでも?」

 

「彼女の特殊攻撃は危険性が高い」

 

「わーったよ、気を付ける。それでいいんだろ?」

 

「くれぐれも」

 

「了解。そんじゃ、帰るわ。飯、美味かったよ」

 

 そう言って杏子は夜の街に帰って行った。

 

 

 

 リビングに戻ると、お通夜のような重い空気がなおも漂っていた。

 

「お茶のおかわりは?」

 

「お願い」

 

 首を振るほむらに対し、マミさんは空になったカップを差し出してきた。

 新しい茶葉で紅茶を点て、お湯で温めたカップに注いでマミさんに差し出す。

 

「さすがに重いでしょうね、こんな話」

 

 できたての紅茶に口をつけて、マミさんが自嘲するように言う。

 一連の説明の中で、杏子には私の正体以外はすべてを話した。

 魔法少女の事。ソウルジェムの事。インキュベーターの事。そして魔女の事。

 ソウルジェムが魂の結晶であり、肉体はそれからおよそ100メートル離れると機能停止する外付けのハードウェアになり果てていることも、そして魔力さえあれば肉体が幾ら破壊されても甦ることが可能なこともすべて。

 否定の言葉を杏子が口にするたびに、ほむらがフォローを入れてくれた。

 互いのソウルジェムを交換し、100メートルほど離れて見せようかとまで言ってくれたのは予想外だった。私が知る彼女ならこんなことは言わないだろう。ほむらの中でどういう意識の変化があったのだろうか。

 

『それじゃ……あたしたちはゾンビにされたって訳か?』

 

 そう問う杏子の少しだけ震えた声がまだ耳に残っている。

 そんな重い雰囲気の中、マミさんが視線をほむらに向けた。

 

「ねえ、暁美さん」

 

 マミさんの声に、これまで沈黙を守っていたほむらが顔を上げた。

 

「何?」

 

「貴女は……どうやって乗り越えたの、この現実を」

 

 その問いに、ほむらは視線を宙に彷徨わせるように考え込んだ。

 

「もう、忘れてしまったわ」

 

「……そう」

 

 魔法少女と魔法少女のそのやり取りに、私は発すべき言葉を持たない。

 ほむらの越えてきた幾つもの世界と絶望を知っているだけに、私の持てる言葉にそれにつり合うだけのものがないのだ。

 それが何回目のループであったかは判らない。

 

『みんな、キュゥべえに騙されてる』

 

 それを悟った時から、彼女の地獄は始まっている。

 まどかを救えず、ワルプルギスの夜も越えられない無限の監獄の中をさ迷い歩けば、そんな感傷は擦り切れてしまうものなのかも知れない。

 過ぎ去りし日の遠景を見ているようなほむらの瞳を見ながら、私はそう思った。

 

 

 

 

 一夜が明け、この日も穏やかな日常は至って普通に流れていた。

 集合場所に定刻通りに出向くと、集まってくるいつも通りの3人。そして女子中学生としては至極平凡で、そして大切な日々の話題を会話として紡いでいく。今日もまた、そんないつも通りの時間が流れる一日が始まる。

 

 学校に到着して、昇降口から教室に向かう途中のことだった。

 廊下のど真ん中に紙袋が落ちていた。はて、何だろう?

 拾った私の手元を、さやかが興味深そうに覗き込んでくる。

 

「何それ?」

 

「本らしい」

 

 中を見ていいものか少々悩んだが、所有者を特定するためには必要な作業だ。雑誌と思しきその本を摘まんですらりと途中まで袋から取り出して、それが何であるか確認した瞬間に取り出した時の100倍の速さで袋に戻した。隣にいたさやかは見えただろうが、やや離れたところにいるまどかと仁美には見えなかっただろう。危ないところだった。

 

「ちょ……これ……」

 

「2人には知らせない方がいい」

 

 表紙を見てしまったさやかの顔は早くもトマトみたいに真っ赤になっている。その口を素早く人差し指で制しておく。

 

「どうしたの?」

 

「落し物ですの?」

 

 そんな私たちの様子に、怪訝な顔をしてまどかと仁美が訊いてきた。

 真相を伝えて2人の無垢な笑顔の変化を楽しむことには大いに魅力を感じるところではあるが、本当にやったらどこぞのヤンデレ予備軍に対物ライフルで狙撃されそうな気がしたので自重した。

 

「学校の怪談の本だった」

 

「まあ、怖い本ですか」

 

 私の適当な答えに興味を示す仁美の視線から紙袋を隠し、3人から距離を取る。

 

「職員室に届けてくる」

 

 それだけ告げて私は来た道を戻ろうとした時のこと。

 

「香波!」

 

 大声で呼びとめられて振り返ると、血相を変えた中沢君が駆け寄ってくるのが見えた。

 

「ごめん、そ、それ、俺のなんだ。拾ってくれてありがとう!」

 

 こいつだったのか。

 まだ私が中身を見ていないと思っているのだろうが、何と言うか……しょうがねえなあ男の子ってやつは。

 中沢君は非常に気のいい男で、私みたいな奴でも話しやすい人物だ。意識しているわけでもないだろうに聞き上手で話のテンポが良く、それがためにご存知の通りクラスのいぢられキャラになっているところがある。友達も多いようだし、正直私のような対人スキルに難がある奴からすれば羨ましい性格をしている。姉属性があることは今初めて知ったがな。

 そんなパーソナリティはともかく、学校にこの種の本を持ってくるというのはいかがなものか。こういうものは隠れて楽しむものだと思うし、今時ならばペーパーデバイスではなくPCのフォルダに保管しておくべきものだろう。

 

「え~と……」

 

 中沢君が出した手を無視して無言でじっと彼の目を見つめると、やがてだらだら脂汗を浮かべ始めた中沢君。

 私がかける無言無表情の圧力に顔色が赤や青にめまぐるしく変わる様子が非常に面白い。ひとしきり狼狽する彼の様子を堪能した辺りで勘弁してあげることにした。

 

「……中身は見なかったことにしてあげる」

 

 それだけ告げて紙袋を彼の胸板に押し付け、私は呆気に取られるまどかたちと赤くなっているさやかを引っ張ってそのまま教室に向った。

 

「ゆ、有季ってああいうの平気なんだね」

 

 まだ落ち着いてないさやかが少々言いづらそうに小声で呟いた。 

 

「騒ぐほどのことじゃない。男子中学生として、むしろ自然なこと」

 

「……さすがにそこまで達観できないわ」

 

「上条君に訊いてみればいいと思う」

 

「そんなこと訊けないよ!」

 

 初々しい反応が見ていて楽しい。さっぱりした性格の割に純情なさやかならではだ。日頃の態度とギャップがあるせいで実に可愛い。この辺が周知のこととなれば、上条君以外の男の子もこの子を放っておかんだろうになあ。   

 

 そんなことを思いながら教室に入り、窓際の自席から窓の外を見ると春の日差しが溢れる校庭と、その向こうに広がる街並み。

 

 見滝原は、今日も平和だ。 

 

 

 

 

 放課後、例によってまどかたちと街に繰り出した。

 いつもならばさやかも一緒なのだが、最近さやかは私たちの一団を離れて上条君の病院に行くことが多くなった。

 何しに行くか訊くのは無作法と言うものだろう。

 当人からはまだ正式な報告は受けていないが、残された私たちにしてみれば彼女を取り巻く状況は手に取るように判ってしまう。毎度毎度恋する乙女の見本のような赤ら顔で『ちょっと恭介の様子見てくるから』と言われているが、あれで内緒にできているつもりなんだろうか。

 

「いいなあ、さやかちゃん……羨ましい」

 

 行きつけのファーストフードでの座談会の場で心底羨ましそうに目を細めるまどかに、私はホットコーヒーを飲みながら冷静に意見を述べた。

 

「幸せ者には爆弾を贈るべきだと思う」

 

「ば……ひどいよ、有季ちゃん」

 

 些細な冗談に血相を変えるまどかだが、この場において、悲しい笑みを浮かべねばならない子がいることを私は知っている。

 まどかの隣で黙って聞いている仁美の微笑みが、どこかぎこちない。注視していなければ判らないくらいの、微かな揺らぎだ。

 まどかもさやかも気づいていない、あるかなしかの仁美のその変化。

 予想はしていたことではあるが、その彼女の様子は胸に痛みを覚える。

 まどかが花摘みに中座した時、私は少しだけ俯きがちの仁美に声をかけた。

 

「仁美」

 

「何でしょう?」

 

「できれば元気を出してほしい」

 

「え?」

 

 驚いて見開かれたその瞳に、彼女の内心の動揺が見えた。

 しばし無言で視線を交わすと、程なくして、一つため息をついて仁美は自首してきた泥棒のようなさっぱりした顔で微笑んだ。

 

「有季さんには、ばれていましたか」

 

「何となく」

 

「……上手く隠せていたと思っていたんですけど」

 

 そう言うと、紙コップを覗き込むように顔を伏せた。

 胸の痛みが、また一つ大きくなった。

 彼女の笑顔を曇らせたのは、紛れもなく私なのだ。 

 さやかと仁美を秤にかけ、さやかを取った。

 その結果が、目の前で仁美の形をして像を結んでした。

 

「……私で良ければ、話くらいは聞ける」

 

 罪悪感から逃れたくて言ったわけではないつもりではあるが、どういい繕っても否定できない偽善という虚飾に根差した薄っぺらな言葉を私は告げた。そしてまた一つ、私は自分が嫌いになった。

 それでも、そんな欺瞞としか言いようがない言葉に仁美の表情が一瞬だけ歪んだ。

 

「そうですわね……どうにもならなくなった時はお願いします」

 

「ごめん、私にはそれくらいしかできない」

 

「……そのお気持ちだけでも、充分すぎますわ」

 

 そう言って、少し間をおいて仁美は席を立った。

 視線で問う私に、寂しそうな笑顔を浮かべた仁美が言う。

 

「今日はこれで失礼します。まどかさんには、先に帰ったとお伝えください」

 

「大丈夫?」

 

「これでも折り合いは付けられていると思っています。でも、そんな優しいことを言われてしまうとボロが出てしまうじゃないですか。まどかさんに泣き顔を見られるわけにはいきませんから」

 

「ごめん」

 

 こみ上げる罪悪感ゆえに、私は今一度彼女に詫びた。

 

「では、また明日」

 

 こういうことの貧乏くじは、2人いればどちらかが引かなければいけないものだ。

 二者択一を考えた時、さやかが引いた時の悲劇を私は認めることはできなかった。認められないがために、私はさやかが飲むはずだったその毒杯を仁美の前に置いたのだ。

 その毒を呷って一人静かに悲しむ仁美の姿というのは、やはり受け止めるには相応の苦みを伴った。

 片方を救って、片方を切り捨てる。

 2つの想いは救えない。

 最初から判っていたはずの結末ではあったが、実際に味わってみればその果実は斯くも後味が悪いものだった。

 世間では掃いて捨てるほどある失恋の苦みではあるが、私の友人がそれを舐めるというのはやはりやりきれない。そのプロデューサーが自分であればなおさらのこと。

 

「あれ、仁美ちゃんは?」

 

 戻ってきたまどかが辺りを見回して首を傾げた。

 

「急な用事が入ったみたい」

 

「え、そうなんだ」

 

 何も知らず、目を丸くするまどかの無垢な視線が痛かった。

 そんな彼女の前で平然と友達面している自分が、すごく汚れたもののように思えた。

 

 窓の外に視線を向けると、晴れていた空に、いつの間にか黒い雲が増え始めていた。

 雨が近いのかも知れない。

 何となくそう思った。

 

 

 

 この世の中は、すべてがバランスによって成り立っており、誰かの幸せを祈った分、等量の呪いが祈った者に降りかかる。それが因果の巡り合わせというものなのだそうだ。

 その真理が偽りではないことを示すように、私が起こした蝶の羽ばたきは、静かな嵐となってその夜に顕在化した。

 

 その夜、2つの知らせが私の元を携帯の着信と言う形で訪れた。

 一つ目は吉報。

 それはマミさんからもたらされた物だった。

 今日の夕方、病院に出現した『お菓子の魔女』に快勝したらしい。

 経緯を聞くとほむらと一緒に立ち向かい、マミさんが1人でたった2手で葬り去ったとのこと。シャルロッテの変身と言う手品のタネが判っていれば不意を打たれることもなかったのだろうが、ほむらは出番すらなかったそうな。調子がいい時の乳鉄砲は手が付けられんというようなことを映画でさやかが言っていたが、これではいかんのだ。目的は魔女の駆逐とグリーフシードの確保の他に、ほむらとの連携を深めることだ。

 一通りの話を聞いた後、プロを相手に口出しするのは憚られたが、私なりに思うところを話すと、マミさんは感心したように唸っていた。出典は私の発案じゃなくて映像媒体だけど。

 その後ほむらとも連絡を取って一段落すると、時刻は10時になっていた。

 マミさんがシャルロッテを越えたことはまずは重畳。

 魔法少女の真実を知って逆上することも既に調整済みだ。このまま順調にいけば問題なくワルプルギスの夜を相手取る決戦への参陣が可能だろう。

 

 万事が順調だった。

 その時までは。

 

 好事魔多し。

 そんな魔が私の元を訪れたのは、その1時間後の事だった。

 

 ここ最近、父の帰宅はいつも日付が変わってからだ。

 宿題を片付けながらまだ先は長いなあ、と思って時計を見た時だった。

 壁にかかった時計の11時ちょうどの針を見た時、不意に携帯が着信音を奏でだした。

 父の電話番号を知らせる音ではなく、未登録の番号からであることを知らせるメロディ。ディスプレイを見ても知らない番号だった。はて、何だろうか。

 警戒の念を抱きながら受信ボタンを押して耳に当て、『はい』とだけ告げた私の耳に、聞き覚えのない声が届いてきた。

 

『香波有季さんの携帯ですか?』

 

「そうです」

 

『こちらは北見滝原消防署です。香波雅史さんのお嬢さんで間違いないですね?』

 

 消防署?

 私の生活において、およそ馴染の無いその単語と、そして父のフルネームに私の脳は一瞬停止した。

 直感が全身を支配した。

 全くの無警戒だった、凶報を知らせる電話。

 この電話は、取ってはいけなかった電話だったのだ。

 怯む私を置き去りに、電話口の消防署のスタッフは事務的な言葉を静かに紡いだ。

 

『落ち着いて聞いてください。お父さんが負傷して中央病院に搬送されました』

 

 

 

 そこから先の私の行動は、少し不思議な感覚を伴っていた。

 思考はほぼ完全に停止していた。停止と言うより、同じところをぐるぐると回っていると言うべきか。

 そんな思考を置き去りに、体は嫌になるほど冷静に活動を続けた。

 保険証を取り、財布と家族用のカードを鞄に押し込み、タクシー会社の電話番号を的確に押した。

 程なく来たタクシーに乗り込み、20分ほどで病院に着いた。

 タクシーの精算を済ませ、救急外来の受付に行った時、私は初めて自分が部屋着の作務衣を来たままだったことに気が付いた。

 

「待合室でお待ちください」

 

 受付で確認をした後に案内されて待合室の長椅子に座る私の所に、やや年嵩の看護師が来てクリップボードに付いた書類を提示しながら説明を始めた。

 父は、駅の階段で転落したらしい。警察が検証をしているが酒は飲んでおらず、おそらくはずみで足を踏み外したものと思われること。

 全身を強く打って肘を骨折している他、頭を強く打って意識がないとのこと。検査の結果、脳内に出血が確認されたので緊急で開頭手術を行っているところだという。

 そんな説明を聞き、頷いて返すこと幾度か。

 手術の同意書にサインをして欲しいと言われ、ボールペンを受け取った時にようやく私の体は意識の支配下に戻ってきた。

 生まれてから数えきれないほど書いてきた自分の名前を書こうとした時、ボールペンの先端が小刻みに揺れ始めた。その動揺はとどまるところを知らず、幾度かしくじったところで看護師が助け船を出してくれた。

 

「落ち着いてからでいいから」

 

 そう言って、プラコップに入ったココアを持ってきてくれた。

 ありがたく一口飲むが、味など判りはしない。

 まるで吹き荒れる暴風雨のように、私という器の中に莫大な負の感情が荒れ狂っていた。

 

 手術の終わりを待つ時は時の流れが遅くなるというのは何の言葉だっただろうか。アインシュタインは焼けたストーブの上に座ると時間は長くなるという例で相対性理論を説明していたが、今の私はその説明が良く判った。本当に、嫌になるくらい。

 僅かな灯りだけが灯った待合室の時計は遅々として進まず、そんな緩慢な打撃が無言のまま私を鞭打つ時間が続いた。

 午前3時を回り、どこかから気の早い鳥の声が聞こえてきた辺りで先程の看護師が歩いてきた。

 

「手術、無事に終ったわ。手術について説明があるんだけど、大丈夫?」

 

 頷く私を、看護師が医師の所に連れて行ってくれた。

 術中にもしものことがあったなら、私への案内はこういう形にはならないだろう。その点だけは安心できた。

 ドラマなどでは手術室のすぐ外でやり取りがあるのが常だが、実際にはその手の説明はプレパレーションルームというそれなりの部屋になるらしい。やや年配の担当の先生は夜勤の救命医かと思ったら、ちゃんとした脳外科医の先生だった。父の事があって呼び出された人なのかも知れない。

 静かに傾聴する私に先生がPCを使い、モニターに映像を出して父に施した施術を事細かに説明してくれた。リアルな手術風景を元に説明してくれるのはいいのだが、そんな過程より父が助かるのかどうかが私にとっては最重要項目だ。

 そのことを端的に問うと、先生はやや表情を歪めて述べた。

 

「現時点では何とも言えません。しばらく、集中治療室で様子を見させてください」

 

 説明はそう結ばれ、礼を述べた後でプレパレーションルームを辞した私はガラス越しに父と対面した。

 頭に包帯を巻かれ、挿管された父が、ベッドの上に横たわっていた。周囲に並ぶ機械の群れが、父が生きていることをガラスを挟んで伝えてくれていた。

 

「今日は私たちに任せて、貴女は一度家に帰って休んだ方がいいわ。連絡が取れる大人の人は誰かいる?」

 

 私は否と答えて病院を出た。

 駅に着くと、始発は既に動いていた。

 早朝の電車に乗る作務衣姿の女子中学生は卦体に見えたかもしれないが、私の脳容量はそんなことにまで思いを巡らせている余裕はなかった。

 閑散として車内で、列車の揺れを肩で感じながら私は手摺に頭をもたれていろいろなことを思い出していた。

 

 父と私は、14年間2人で暮らしてきた。

 体が弱く周囲の反対を押し切って私を生んだ母は、産褥の負担に耐えられずに力尽きて亡くなったと聞いている。

 以来、新生児の私を抱えて父は一人で仕事と育児、そして家事を取り仕切ってきた。

 子育てはきれいごとではない。下はだだ漏れだし、夜泣きすることもあっただろうし、急な熱発だってあったことだろう。

 父の同僚から聞いた話では、一時期は私を背負い紐で背負いながら仕事をしていたのだという。

 そんな時間を重ね、不可思議な記憶の影響もあって割と早めに自分の面倒を見られるようになって以来、私は率先して家事を請け負うことを申し出た。

 料理は好きだったし、何より父が家の心配をしないで仕事に行けるようにしてあげられることが何より重要だということを理解していた。

 忙しい中、私の誕生日には必ず家に帰ってくるようにしてくれていたし、夏や冬になればどこかに旅行に連れ出してくれた。片親であるがゆえに私が感じるであろう寂しさを、少しでも打ち消そうと心を砕いてくれている父に感謝したことは一度や二度ではない。

 小学校も高学年になると、早熟な連中が付き合いの悪い私にファザコンの烙印を押すこともあったが、私にとってはそれはむしろ勲章だ。

 私にとって最も大切な人。それが父なのだ。

 

 無人の家に戻り、習慣のままに洗面所で手を洗い、ついでに顔を洗う。

 タオルで水滴をぬぐって顔を上げると、鏡に見たこともない顔が映っていた。

 目が落ちくぼんだ、ひどい顔色をした女の子だった。

 これが今の私の顔なのか。

 表情に乏しく、愛嬌もなく、人として大切な何かが足りない私の顔が、いつにも増して酷い様相になっていた。

 これではいかんと両の頬を思い切り平手で叩いて気合を入れた。

 今は自分のことはどうでもいい。

 父の危機なのだ。頼れる人は、誰もいない。

 私がしっかりしなくてどうする。

 時刻は6時を回っている。

 まずは渡された資料を整理し、病院に持っていけるように必要な事項を記入する。捺印が必要な所には捺印をする。

 事務的な処理をすべて済ませ、確認の後に病院指定の封筒に入れる。

 次いで携帯を取り出し、学校に本日欠席の連絡を入れる。事情が事情なのだ、認めてもらわなければ困る。父の職場はメールアドレスが判らないので就業時間前に電話を入れることにした。看護師さんが言うには通勤途中の傷痍なので労働災害に認定される可能性が高いという説明があった。業務の意味でも労災の意味でも連絡は適切に行わなければならないだろう。

 私サイドの問題としてはまどかたちだ。詳しい理由は述べず、父が入院したので今日は休むとだけ書いて送った。

 

 出がけにざっとシャワーを浴びて代えの下着を身に付け、私服ではなく制服を着こむ。官憲相手に面倒なことになるのを避けるためだ。制服でも職質はされるだろうが、私服よりは説明がしやすいだろう。

 ガスの元栓を確認し、戸締りをして家を出た。

 

 いつもなら皆との集合場所に向かう時間に、私は駅に向かって歩いていた。

 奇妙な感覚だった。これが日常の延長だったら、ちょっとした冒険気分だったかも知れない。

 私とて日常からの逸脱と言うものに憧れがない訳ではないが、こういう事態に根差した改変はやはり起こって欲しくはない。

 だが、ここで打ち止めかと思った日常の改変は、更なる追い討ちとなって私の元を訪れた。

 

 駅へのショートカットのために、いつもの公園を通った時だった。

 

 見覚えのあるベンチに、見覚えのある女の子がぽつんと座っていた。

 あの時と同様に、その瞳は静かに虚空に据えられたままだ。 

 神名あすみ。

 接するのはこれで3度目だ。

 何故彼女がここにいるのか。昨日から幾度も考えたが、その理由は判らない。徹夜明けの今の私の頭となればなおさらだ。だが、小学生なはずの彼女がこの時間になぜこのような場所にいるのだろうか、と言う疑問だけは思考の表層に浮いてきた。ランドセル代わりのカバンを背負っていることから、不登校という訳でもあるまいに。

 それが判ったところで私に何ができる訳ではない。私に何かする気なら、もっと早くに棘鉄球をぶつけてきているだろう。

 今は彼女に係っている場合でもない、私は足早に彼女の前を通り抜けることにした。

 視線も向けずにあすみが座るベンチの前を通り過ぎ、そこから5歩進んだ時だった。

 

「お父さんは、無事だったの?」

 

 まるで流れる雲に話しかけたような、方向性が曖昧な声だった。だが、この周囲にいるのは私だけだ。そしてお父さんと言うキーワード。やはり私に話しかけたのだろう。私は足を止めて振り返った。

 そこに、いつの間に変身したのか銀色を基調にしたゴシックロリータファッションの魔法少女が立っていた。

 服装は魔法少女のものではあるが、その表情は先ほどまでと変わらない、感情の感じられない無機質な表情が彼女の端正な顔に張り付いていた。

 その表情と同様に無機質な瞳が、静かに私に向けられていた。

 

「お父さんは、無事だったの?」

 

 今一度、銀鈴を転がすような声が私の耳に届いた。

 間違いなく、その問いは私に対するものだったのだ。

 それを理解した時、幾つもの疑問符が脳裏を駆け巡った。

 こいつは、何故父の事を知っているのだろうか。

 

「大怪我をしている」

 

 探り針のつもりで最低限の情報を私は口にした。これに対してどういう反応を示すのか。対応を考えるのはそれからだ。

 その問いにあすみは俯きながらさらに問いを重ねてきた。

 

「そう、大怪我だったんだ」

 

 得体が知れない彼女の呟きに、私はうなじの毛が逆立つのを感じた。

 そんな私の心情を読んだように、彼女が俯いていた顔を上げた。

 その顔を見るんじゃなかったと、私は心の底から思った。

 酷薄な、刃物で切り込みを入れたような笑みがその顔に浮いていた。

 三白眼が刃物のように鈍い光を湛えて私に向けられている。

 あの時に見た、およそ太陽の下には相応しくない笑顔。

 そして、その歪な笑顔に吊り上った口が、想像もしなかった台詞を吐き出した。

 

「死んじゃえば面白かったのに」

 

 一瞬、理解できなかった。

 何を言っているんだ、こいつは。

 凍りつく私を今一度視線で舐め回し、あすみはひょいという感じに宙に舞った。並木の上を軽々と飛びながら、あっという間に視界から消えて行った。

 反応すらできない私の元に、空中から握り拳ほどの塊が落ちてきて足元に着弾した。

 一瞬鉄球が来たのかと思って身を強張らせたが、落着したそれは湿った音を立てて公園のアスファルトの上で潰れて果てた。

 

 黄色い、水気のある塊。

 

 それが一昨日、彼女に手渡したリンゴなのだと理解するのに少しだけ時間がかかった。 

 

 

 


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