『死んじゃえば面白かったのに』
病院に到着し、関係書類を入院受付窓口に提出した。
その場で退院や精算時の説明等も併せて受けたが、その間、私はずっと胃のあたりに得体の知れない鈍痛を感じていた。
手続きを終え、父のいるICUに向う途中でもその鈍痛は残ったままだ。
病室の傍らにあるベンチに座ってラインとコードまみれになっている父の様子を見つめながらも、私の中ではあすみの吐き捨てた言葉が脳内でリフレインしていた。
父の不幸を嗤ったあすみ。
彼女の言葉の真意が、私には理解できなかった。
彼女のあの台詞が、恨みのある人に対しての言葉ならばまだ理解できる。
だが、ほとんど見ず知らずと言っていい私に向って、何故あのような言葉が吐けるのだろう。あれは、もはや陰険という言葉の範疇を越えている気がする。
フィクションの世界でなら他人の悲劇を見ると酒が美味くなると嘯くイカレたエセ神父の話もあったが、彼女はそういった類のキャラクターの現実世界での体現者なのだろうか。
もし、彼女がそういうエキセントリックな人種なのだとしたら、私の先日の行動はとんでもないエラーということになるだろう。
神名あすみの生い立ちについては、公式な設定はないと記憶している。アンカーで決められたのは、キャラクターの概要だけだ。苛烈な虐待を受けていたという設定もあったようだが、あれはどこかの掲示板に書かれた後付けの文字列に過ぎないはず。
そんな記憶の中にある彼女の設定について、看過できない厄介な要素が一つあった。
それは、あすみが魔法少女になった際の祈りのことだ。
『自分の知る周囲の人間の不幸』
ひどい願いだとは思うが、もしあすみが本当に虐待を受けていたとすれば、その願いは妥当なものと納得できる。
ニュースを見れば、人とも思えぬひどい親に虐げられた子供についての報道は、悲しいことだが珍しくない。そういうことにニュースバリューがあるだけまだこの社会には救いがあるのかも知れないが、日本に限らず不幸な子供と言うのは古今東西どこにでも存在する。
そういう虐げられた無力な子が、かりそめとは言え力を手に入れた時、にっこり笑って世のため人のためにその力を使うだろうか。
賭けてもいい、そんなことをする奴は頭がどうかしている。己の身の安全と心の安寧のために、敵に対してその力を行使するのが普通だろう。
祈りの妥当性はともあれ、今の私にとって重要なのは、彼女のその祈りに継続性があるかどうかだ。
各魔法少女の祈りを考えてみると、それには有期と無期の2つの形態がある。
例を挙げれば『上条君の腕を治したい』というさやかの祈りと、『父の話を聞いてもらいたい』という杏子の祈りだ。
さやかの祈りは上条君の腕が治った時点で完成する有期の祈りだ。マミさんの祈りもこれと同じだろう。
これに対し、杏子の祈りは話を聞きに来る聴衆が彼女の父の教会を訪れるという継続性があるもの。『いつまで』という要素がそこにはない無期の願いだ。能力付与と言う意味ではほむらの祈りもこちらかもしれない。
これについて、あすみの『自分の知る周囲の人間の不幸』というものはどうであろう。
祈った時点で彼女の知る人すべてにその影響が及び、注文通りに不幸になっておしまいというのであれば、さやかと同じ有期の祈りだ。
だが、もし彼女の祈りが継続性があるものであり、それこそ彼女が不幸になれと思った人に不幸が訪れるという魔法を手に入れているのだとしたら、彼女の思惑次第でいくらでも不幸がばらまかれることになる。
本当にそんな力を持っているのだとしたら、彼女はもはや魔法少女ではなく疫病神だ。
だが、本当にそんなことが可能なのだろうか。
ひたすら不幸をまき散らすような力を持った場合、彼女の抱える因果とやらのバランスはどうなるのだろう。
さやかが魔女化したとき、さやか自身が生み出した呪いがソウルジェムの穢れを加速していた記憶がある。
他人を呪い、その他人の知人の運命すらもいじることを繰り返したのだとしたら、彼女のソウルジェムの浄化作業は穢れの増加に追いつくのだろうか。
そのあたりの詳しい力学は私には解らない。だが、それほど周囲に影響を与えていながら自身に影響がないというのはひどくアンバランスなように思えるのだ。
その辺の真相がどうであれ、私としては最悪のケースを想定しなければならない。
もし、あすみが私の不幸を念じた結果として今の父の姿があるのだとしたら、可能性としてその呪いは、私が大切に思う人すべてに影響していくだろう。
これは由々しき事態だ。
私にとって何が不幸かと言えば、私を取り巻く人たちに良からぬことが起こることほどの不幸はない。
正直、私は世間が広くない人間だ。それだけに、こんな私と関わってくれる人に対する価値観は私の中では最上位と言って差し支えはない。
はったりでほむらに『因果導体』の話をしたことがあるが、その因果導体であった白銀武のように、私のしでかしたことの影響でその人に死神の鎌が振り下ろされるのだとしたら、私はそれこそ自害すら考えねばならないだろう。
何とかしようにも、私には頼れる香月夕呼も社霞もいないのだ。
もし本当にあすみが敵にまわっているのだとしたら、対抗手段は2つしか思いつけない。
説得して勘弁してもらうか、あるいは彼女にいなくなってもらうかだ。
前者は無理だろう。そんな言葉に耳を傾けるくらいなら、私にあんな言葉を吐くわけがない。
残るは後者。
だが、これの難易度は恐らく前者とそう差がないように思う。
妄想の域を出ないのであれば、人を殺めることについては幾らでも想像はできる。だが、実行するとなるとそれは殺人だ。魔女を消し去るのとはわけが違う。相手が美国織莉子のような独りよがりなジェノサイダーならともかく、流石にまともに考えればできることではない。
無論父の事もある、本当に彼女の仕業なのだとしたら八つ裂きにしてやりたいとすら思うが、本当にやることを考えると禁忌をはじめとした名状しがたい抑圧が頭をもたげてくる。
それを振り払って実行に移すとしても、手段はどうするか。
私が包丁持って襲い掛かっても、十中八九頭をかち割られて返り討ちに遭うだろう。確実にやるのなら魔法少女であるマミさんかほむらに頼むしかないが、明確な根拠もないままにあすみを始末してくれとはさすがに言えない。ゲームの駒じゃあるまいし、彼女と事を構えるとなればマミさんやほむらだって命懸けなのだ。
考えれば考えるほど、思考が迷宮に入り込んでいくような気分だ。
決断をするにも情報が少なすぎて、どうにも考えが整理できない。
静かに眠る父の姿を見ながら、私はまとまらぬ思考のループを繰り返した。
時は私を置き去りに止まることなく流れ続け、午後になって父の様子を見に会社の人が来た。
人事だか総務の担当の人らしく、今回の事故は通勤災害になるので治療費は原則としてかからないという事を説明してくれた。労災と健康保険は両立できないことについても念を押された。細かい手続きは会社の方で病院側と調整してくれるらしいので、その種の作業が苦手な私としては助かる。
それ以外は何事もなく時が過ぎ、病院が定めた面会時間が迫るころ、もはや顔見知りになってしまった看護師さんが寄って来て帰宅を勧めた。
「ひどい顔色よ。帰って体を休めなさい。お父さんのためにも、貴女が倒れたら元も子もないわよ」
確かに、2日ほど睡眠も食事も摂っていなかった。
いずれも体が欲しないがために後回しにしていたが、さすがにそれではまずいということは自分の中の冷静な部分が指摘していた。
電車に乗り、重い体を引きずって家路を辿る。
街には既に夜の帳が降りており、あたりは煌びやかな照明がいつも通りに瞬いていた。
多くの大規模風力発電施設を抱えている他、郊外の一角に発電衛星からの受電設備を擁している見滝原では電力が安いこともあり、重工業をはじめとした多くの企業が進出してきている。
エネルギー関係に投資すれば企業が移転して来て人も増え、税収が増えればその分がさらにインフラに回される、という絵図面を元に推し進めてきた見滝原の開発事業だが、今のところ皮算用の通りにうまく行っているらしい。
これらの光源も、その安価な電力料に支えられてのものだ。
街を離れて郊外の住宅街に辿りつけば、閑静なそこには見知った我が家が静かに私の帰りを待っていた。
今まで繰り返してきた、ごく普通の日常の風景。
そんな日常が、やけに遠いものに感じられた。
玄関の鍵を開けて中に入ると、人感センサーが勝手に照明を点けてくれる。
ずるずるとスリッパを引きずりながらキッチンに入り、そのまま食卓の椅子にもたれて見慣れた天井を仰ぐ。
口から、長いため息が漏れた。
気力が擦り切れかけているせいか、気持ち以上に体も重かった。
さして鍛えていない私の心身が、そろそろ活動限界なのだろう。
今はもう、何も考えたくない。
眠ろう。
正直、疲れ切ってしまった。
考えるのは、明日の朝でいい。
寝る前に整理できるところを整理すべく、鞄の中から携帯を取り出した。
病院の中だったので電源を切ったままだったのを思い出したのだ。最近はあまり医療用機器に影響を及ぼさないようになっているそうだが、社会通念と言うのは思ったより融通が利かないものだ。
ディスプレイを見たら、着信が5件、メールも同数。
発信者はまどかとさやかと仁美、そして早乙女先生だった。後は学校からの事務連絡。
友達3人の連絡は、私の置かれた状況を知らないだけに距離感を計るようものであったが、思いやりの感じられる言葉が並んだメールにこめられた優しさがありがたかった。
早乙女先生からは状況について知らせるように書いてあったが、そこにもまた、職務以上の気遣いが感じられた。
人の優しさに、胸が詰まった。
こういう気持ちの時だけに、なおの事身に染みる。
できるだけ丁寧に返信を打っていると、唐突に胃が蠢動して音を立てた。
食欲はなかったが、体は熱量を必要としているようだ。
なるほど、お腹がすくと人間は弱気になるのかも知れない。
料理をする気力まではないので、棚に収めてあった先日のフランスパンの残りを手に取り、冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注いだ。
パンをちぎって口に運び、咀嚼して飲み込む作業のような食事。味ではなく、栄養価として食事を考えたのはすごく久しぶりだ。
キッチンで1人硬いパンを咀嚼していた時、玄関のチャイムが鳴った。
居留守を使おうかとも思ったけど、それをすると際限なくダメになってしまいそうな気がしたので、重い体を引きずって玄関モニターを覗く。
四角いディスプレイの中にいたのは、髪をリボンで結った愛らしい女の子だった。
慌てて玄関に向い、ドアを開ける。
エントランスに立っていたまどかが、私の顔を見るなりお化けでも見たように息を飲んだ。まあ、他人様に見せられる顔色ではないだろうことは自覚がある。
「どうしたの?」
いつもの調子で話しかける私に、まどかは戸惑いながら答えた。
「遅くにごめんね。どうしても心配で……」
……本当にいい子だね、君は。お姉さん泣いちゃうよ。
「……入って」
リビングに2人を通すと、まどかは目ざとくキッチンに置きっぱなしだった食べかけのフランスパンを見つけた。
その顔が歪むのを見て、私はいよいよ自分の煮え加減を悟った。玄関に出る前に隠せよ、私。
「お茶を淹れるから」
「いい。それより、ちょっと話を聞いて欲しいの」
まどかに言われ、なりゆきでソファに向かい合わせで座る。
「お父さん、大丈夫なのかな?」
まどかにしてみれば訊きづらいことをだろうが、必死に言葉を探しながら質問を口にしてくれた。
「まだ意識が戻らない。医者からは何とも言えないと言われた」
「……やっぱり大変なんだね」
「気を使わせてごめん」
「気なんか使ってないよ」
まどかは慌てて手を振って否定するが、これが気遣いでなくて何であろうか。
この子はいつもこうだ。
この子の持つその情の深さが、彼女自身を蝕んでいるような気がする。
もっと肩の力を抜いて、自分本位に生きれば人生楽だろうに。
私なんぞが偉そうに言うのもなんだけど、まどかを見ているとそういう気持ちにならざるを得ない。
そんなことを思う私に、まどかが言葉を続けた。
「あのね、相談なんだけど……有季ちゃん、しばらく私の家に来ない?」
「まどかの家に?」
意外な言葉に、思わず聞き返してしまった。
そんな私の問い返しに、まどかは頷いた。
「有季ちゃん1人だと大変だと思うし、お父さんが退院するまで、私にできることないかな、って思って。ママもそうした方がいいって言ってるし、パパも賛成してくれてるの。有季ちゃん来てくれればタツヤも喜ぶと思うし。どうかな?」
父のことは、まどかのママさんも知っているはずだ。恐らくはまどかの提案を二つ返事で了承したのだろう。
それはともかく、タっくんが喜ぶというのはないと思う。私の顔を見ると、どういう訳かあの子はいつも泣き出すのだ。
そんな事情はともかく、気持ちは嬉しいがやはり今はまずい。
私がおかれている状況が分からない以上、迂闊に彼女の家には行けない。私はあすみの影響を受けている可能性がある身だ。魔法少女の素養のあるまどかならレジストできるのかも知れないが、まどかのご家族を巻き込むリスクは冒せない。
「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも大丈夫。心配は要らない」
そう告げた私に、まどかは首を振った。
「有季ちゃん、全然大丈夫に見えないよ」
泣き出しそうな顔でまどかが詰め寄ってきた。
「いつもの有季ちゃんなら、パンをそのまま齧ることなんかしないよ」
やはりそう来るか。
『物を食べる時は必ず一手間かける』を座右の銘と公言しているだけに、そう言われてしまうと返す言葉がない。
答えず沈黙する私に、まどかが言葉を続ける。
「こんなことになってるのに、放っておけないよ。さやかちゃんや仁美ちゃんからも頼まれてるんだよ。今の有季ちゃん、見てられない」
まどかの真摯な言葉だったが、今度は私が首を振った。
「ごめん。気持ちは本当に嬉しい。けど、今はそっとしておいてくれるのが一番助かる」
心の中で土下座しながら、それだけ告げるのが精いっぱいだった。
差し出してくれた手を振り払うのは、まどかの気持ちを無碍にするようでこの上なく胸が痛む。それこそ焼けた鉄板の上でも土下座できそうな気持ちだ。
でも、これだけは許して欲しかった。
淫獣との暗闘はなおも継続中だし、そこにさらにあすみという爆弾を抱えた可能性があるのだ。ほむらとも盟約もある。この子とご家族を巻き込むわけにはいかない。
そんな私の言葉を黙って受け入れてくれたまどかの泣き出しそうな顔は、多分生涯忘れられないだろう。
「本当に、何かあったら連絡して」
「ありがとう。その時はそうさせてもらう」
「……それじゃね」
「気を付けて」
玄関先で小さく手を振って、とぼとぼという感じでまどかが去っていく。
考えてみれば、まどかのお願いを袖にしたのは初めてかも知れない。
こんないい子が知らないところでその魂を狙われているのかと思うと、やるせない思いが煙のように溢れてきた。
落ち込み続けていた意識にブレーキがかかったのは、そんなことを思った時だった。
5秒だけ目を閉じ、お腹に力を入れて私は再起動した。
負けるか、ちくしょう。
何故、私はこういうことを始めたのか。
もう見えなくなってしまった友人の後姿に、私はその根源を思い出した。
鹿目まどか。
私の動機は、彼女をはじめとした友人たちを助けるためだ。
こんな程度の障害は、まだぬるい。
『キュゥべえにだまされる前の馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな』
その約束を守るために暁美ほむらの超えてきた地獄は、こんなものではないはずだ。
まどかのことだけじゃない。目先の不幸や重圧、それらと記憶にあるこの街の行く末と友達の未来を天秤にかければ、まだまだ後者の方が重いのだ。
諦めるのはいつでもできる。
私を香波有季たらしめているものは、もっと往生際が悪いものであるはずだ。
今日はまず、体を休めよう。
明日から、また呪われた未来に繋がらない今を探す作業に戻ろう。
まどかの後姿を思い出しながら、私は煮詰まった頭でそう思った。
その決意で終わっていれば、今日はまだましな一日だったかも知れない。
だが、今日と言う日は、まだその厄介な凶弾を弾倉に残していた。
家に入ろうとした時、門柱の上に気配を感じて下を向きがちだった視線ふと上げると、そいつはそこに猫のように座っていた。
白い身体。
長い異形の耳。
そして、宵闇の中に鈍く光る赤く無感情な両の瞳。
私が息を飲んだことを確認するようなタイミングで、そいつは小首を傾げた。
『はじめましてと言うべきかな、香波有季』
加藤英美里のようなその声は、不気味なほど無機質な実感を伴って頭の中に直接響いてきた。
ここで来るか。
ここでお前が出て来るのか。
「……インキュベーター」
音にすればたかだか数音節の言葉に、ありったけの呪いを乗せて私は白い淫獣に向って吐き出した。
『キミと一度話をするべきだと思ってね』
ぞっとするほど平板な口調だった。
なるほど、感情がないというのは嘘ではなさそうだ。電子音声をうまい具合に調律したらこんな感じに聞こえるかもしれない、そんな感じの声だった。
返答はしない。こいつとは、よほどのことがなければ言葉を交わしてはいけない。それは私がこの騒動に首を突っ込むと決めた時に定めた基本方針だ。
幾人もの魔法少女が、些細な言葉尻を捕まえられてこいつの詐術に落とし込まれていたことは原作で見てきたことだ。その爪が引っ掛かるところを与えてはならない。
頭脳戦ではこいつの方が上手なのだ。
『反応してくれないね。キミに歓迎してもらえるとは思っていないけど、でも、キミがいろいろ立ち回ってくれたおかげで、ボクもずいぶんやりづらくなってしまったんだよ。苦情くらいは聞いて欲しいね』
そんな淫獣の言葉を聞きながら、私が考えていたのはまったく別のことだ。
私が知る限り、こいつのやることには基本的にすべて意味がある。
究極の効率主義者。マシンと言ってもいい。
そんな奴が私の元を訪れた。
その意味は何なのか。
私を取り巻く要素のどれとどれが因果関係を持つのか。
そんな私の思考を読み取ったように淫獣が言う。
『最初に断わっておくけど、キミの父親の事故についてはボクは何もしていない』
ああ、そうだろうとも。私も最初からそれは考えていない。
確かにこいつは何もしないだろう。
そういう種族だ。
人類の宗教観の中に悪魔と言う概念があるが、こいつはまさにそれだ。
よく『悪魔のような奴』と言うフレーズがしばしば『鬼のような奴』と同義で語られる事があるが、それは用法としては誤りだ。
悪魔は鬼のように直接的に人間に危害は加えない。
連中は人を惑わせ、その心を堕落させることを生業とする。その対価として魂を得るのだ。
化け物を殺すのがいつだって人間であるように、人を害するのもまた人だ。悪魔はその心に揺さぶりをかけているだけに過ぎない。
その特徴をこいつに当てはめると、恐ろしく馴染むのだ。
悪魔のような種族というより、人類の歴史において悪魔と言われる存在のルーツは、実はインキュベーターのことなのではないかとすら私は思う。
そして、次いで出て来た単語は、私が恐れながらも予想をしていたものだった。
『キミは銀色の髪の魔法少女の事を知っているよね? キミが警戒すべきは、ボクよりむしろ彼女の方だと思うよ』
奥歯が音を立てた。
やはりここであすみの名前が出てくるか。
『彼女についてキミがどの程度認識しているのかは正確なところはボクには判らないけど、キミは彼女との接触後も彼女に対して何の対策も取らなかったようだね。そのおかげで、キミの能力の範囲がある程度把握できた』
一瞬、呆気に取られた。
私の能力とは何のことだ?
予期せぬ単語に疑問が鎌首をもたげたが、ありがたいことに淫獣自身がその問いに答えてくれた。
『キミを造ったという情報思念体というものがどういう存在か。マミからキミの背後にいるその存在のことを聞いてから、ボクたちなりにずいぶん調査をしたよ。もちろん、そのインターフェースというキミの事もね。でも、結果から言えば何も判らなかった』
こいつはネタを真に受けて、絵に描いたような無駄な努力をしていたらしい。生憎、幾ら調べても『赤い洗面器の男』のオチと同様、未来永劫の謎だろうさ。
『それだけに、ボクたちはキミの能力を計りかねて困っていたんだ。場合によっては、キミとキミの背後にいる存在と衝突することも予想されたからね。でも、今回の事でいろいろ観測することができたよ。キミの活動の方向性とキミの魂の位相の揺らぎから推測すると、キミの発現できる能力は、高度な計算によって算定された断片化された未来予想じゃないかな? それも限られた範囲の情報だけを、キミは操っている。そして、それ以外の能力は普通の人間と変わりはない。違うかい?』
何も知らずに聞いていれば噴き出してしまいそうなトンデモ理論だが、私は総毛立つ思いだった。
これは恐ろしいことだ。お出ましが遅いとは思ったが、まさかここまで私の事を調べることに腐心していたとは思わなかった。
高度な計算なんてあたりは言われたこっちとしても何のこっちゃだが、魂の位相と言うのはぞっとするフレーズだ。もしかしたら私の持つこの記憶についてまで、こいつは掘り返すことが可能なのかも知れない。
そんなことを思いつつも無反応な私に、淫獣は一つわざとらしいため息をついた。
『キミの能力がどうであれ、キミがボクたちより先に鹿目まどかの才能を発見してコンタクトを取っていた事には驚いたよ。そのおかげで、鹿目まどかに魔法少女になってもらうことは少し難しくなってしまったけどね』
当たり前だ。そうなるように努力してきたんだ。少しは効いてもらわないと私としても立つ瀬がない。
『今ではマミもあの暁美ほむらと手を組んで、鹿目まどかのガードをしている。こうなってしまってはもう交渉すら覚束ない。ボクとしても、打てる手は限られた物にならざるを得なくなったよ。そういう意味では、神名あすみが魔法少女になったのは香波有季、キミのせいと言えるだろうね』
唐突な淫獣の指摘に、私は一瞬絶句した。
私のせいとはどういうことだ?
何を言っているんだ、この畜生は。
その言葉に反応した私の微かな表情の変化を、淫獣は拾ったらしい。
『もしキミがこの事を意外に思っているのなら、キミは自分の立ち位置を理解できていないね。マミや暁美ほむら、そして佐倉杏子を束ねているのはキミだ。ならば、まずキミに働きかけるのは当然だろう? 特にマミは強力な魔法少女だからね。彼女のガードを越えてキミと言う存在を排除するためには、ボクとしても手段が限られてくる。神名あすみはその役を担うのにうってつけの魔法少女だ。マミがボクと決別することになった時に、この街に彼女のような素養の高い子がいてくれて、しかも魔法少女の契約をしてくれたのは幸運だったとしか言えないよ。彼女ならマミを凌駕し、そしてキミをも無力化できるかも知れないという期待はあったけど、今の君を見る限りではその効果は予想以上だったようだね』
並べられていく言葉を、聴覚神経が拒絶する。
息がつまり、知らぬ間に呼吸が乱れ始めた。
私が魔法少女神名あすみがいる世界に生まれたのではなく、私がいたから魔法少女神名あすみが生まれたのだと、この淫獣は言っている。
正直、信じられなかった。
そんなことがあり得るのだろうか。
しかも、こいつの言葉をそのまま飲み込んだ場合、神名あすみを唆して魔法少女にしたのは、私をまどか魔法少女化計画の盤上から排除するためだと言う。
宇宙の延命のためではなく、ただ邪魔な存在を追い払う目的のためだけに、1人の女の子を魔道に引きずり込んだのか。
ここまでどぎついことをやってくるのか、こいつは。
『さて、少ししゃべりすぎたかも知れないけど、ボクが言えるのはここまでかな。キミがこれからどうするのか分からないけど、できればこれ以上干渉しないのがお互いのためだと思うよ。キミもこの宇宙の一員なら、ボクたちの活動についても理解してくれると信じている。気が変わったら言ってきてくれ。鹿目まどかを魔法少女にすることに力を貸してくれるのなら、ボクはいつでも歓迎するよ』
そんなこと死んでもするか、ボケ。
淫獣のふざけた捨て台詞に血圧の上昇を感じた時、異変は起こった。
「そんなこと、許す訳ないでしょう」
氷のような冷たい言葉と同時に、淫獣の体に一瞬で直径9ミリの風穴が10個ほど蜂の巣のように空いた。
魔法でも使ったのか、銃声は聞こえなかった。ただ、幾つもの薬莢が落ちる乾いた真鍮の音だけが宵闇に響いた。
声が聞こえた方向を振り向くと、ホールドオープンした自動拳銃を右手で構えた魔法少女が道の真ん中に立っていた。見覚えがあるその拳銃は、確かマドラックスが処刑用BGMをバックに使っていたやつだったと思う。
その隣には、見慣れたマスケットを抱えたマミさんがいた。
そんな2人の姿を見た時、自分の中で張りつめていたものが少しだけ崩れた。
体の力が抜け、その場に座り込みそうな私に向って2人の魔法少女が寄ってくる。アスファルトの上で血まみれの骸を晒している淫獣を一瞥もせずに。
「念のため訊くわ。話はできる?」
『できない』と答えたら張り手や鉄拳が飛んできそうな目つきでほむらが言った。
そんなほむらの表情が、この上なく頼もしいものに見えた。
私は孤軍ではない。
そのことを、これほどまでに嬉しく思う時が来ることは予想したこともなかった。
「問題ない」
そう、問題はない。
ただ緊張の糸がちょっとだけ切れただけだ。
一つ息を吐いて気合を入れ直し、私は顔を上げた。
「入って。話さなければならないことがある」
感想いただきましてありがとうございます。
個別の返信はストーリーに触れる可能性から難しい旨何卒ご了承ください。
今後も頑張って練って参りますのでこれからもどうぞご贔屓にお願いいたします。