魔法少女まどか☆マギカ 続かない物語    作:FTR

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第9話

 私はこの世界の味方だが、どうやらこの世界は私の味方ではないらしい。

 

 

 

 

「ごめん、しくじった」

 

 リビングに案内した後、最初に謝る私にほむらはいつも通りに冷静そのものの視線を向けて言った。

 

「まず、貴女の方で何があったか説明して。私たちの方でも問題が発生したことを伝えなければならない」

 

「問題?」

 

「追って話すわ」

 

 ほむらの言葉に、知らず私の喉が鳴った。

 この局面で見込まれる問題って何だ。彼女のその言葉に、もの凄い脅威を感じた。

 問題と言うからにはろくな話ではないのだろうが、私の方にも同時多発的に発生した予想できなかったトラブルがある。まずはこっちの事情を説明しなければならないだろう。

 第1級の敵性存在とコンタクトし、しかもおまけまで付けられてしまったのだ。

 背筋を伸ばして粛々と、レポートとして言葉を紡ぐ。

 私の『父』にあたる父性個体が重傷を負って入院していること。 

 まどかの来訪に合わせるかのように淫獣が来たこと。

 あすみは自然発生的な魔法少女ではなく、私たちに対して放たれた淫獣の刺客なのだということ。

 そして、淫獣は今なお鹿目まどかというエネルギー資源を諦めていないことを順々に述べた。

 そんな私の説明が終わった時、一番ダメージを受けたのはやはりマミさんだった。

 

「ごめんなさい。私がしゃべりすぎたのかも知れないわ」

 

 そう言って眉を顰めるが、これは仕方がないだろう。

 

「貴女がインキュベーターに対する確認時に私の情報を伝えるのは想定していた。貴女から伝わらなくても、結果はあまり変わらないものになったと思われる。誰の責任と言う問題ではない」

 

 この事については私としても織り込み済みのことだ。魔法少女の秘密を知る統制外の存在ということで、どっちみち淫獣は私をマークしてきただろう。その攻勢は緩やかであろうと思っていたところに、間髪入れずにあんな物騒な子を用意して来ると思わなかった私が甘かったのだ。

 そんなことを思う私に、ほむらが顕微鏡の中で蠢く細菌を観察する科学者みたいな冷ややかな視線を向けてきた。

 

「その魔法少女が狙っているのは貴女。それは間違いないのね?」

 

「インキュベーターの説明ではそうなっている。状況を見ても、現時点ではそう考えるのが自然」

 

 そう、自然ではある。

 だが、その自然な中に感じるのは、微かな不自然。

 

「……インキュベーターにしては直接的ね」

 

 私の中の違和感を、ほむらが肯定してくれた。彼女も同じ違和感を感じたらしい。

 彼女の言うとおり、奴の行動基準を考えるとダイレクトにヒットマンを送り込んでくることは、確かに搦め手を好む淫獣らしくない。

 マミさんとの決別がどのようなものであったのかはその場にいなかった私には推測することしかできないが、恐らくは穏やかな展開ではなかったことだろう。

 そこでマミさんを敵性と認識したとしても、放っておけばやがて魔女化してエネルギー回収をするだけと言うのが奴らの基本スタンスなはずだ。

 その時点であすみという駒を用意したあたり、それが露骨なまでに私対策ということは推測できる。春休み当時はほむらもいなかったし、杏子ともコンタクトを取っていなかったのだからこれは間違いないだろう。それくらい情報統合思念体、そして対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースという存在を警戒したのだろうと思う。

 そこから私の事を調査し、その行動パターンを観察していたとなれば、当然私がまどかの魔法少女化阻止を目的としていることは判るだろう。

 だが、それについて一つ解せないことがある。

 私を駆逐するという、そんな単純なことだけが奴の目的なのだろうか。

 行動が直接的、という部分はある程度納得できなくもない。何しろ相手は奴がこれまで贄にして来た人生経験が浅く視野も狭い小娘ではなく、物事の核心を知っており、その行動パターンも目的も不明な得体が知れないTFEI端末なわけだし。

 注目すべきはそれらの事実を考えた時、そんな状況を踏まえた上の今回の奴の来訪にどのような意味があったかだ。

 インキュベーターの行動には、すべて意味がある。

 原作アニメでまどかに纏わりついて無駄としか思えない話をしていたことも、悪魔のささやきの一環であったことは作品を見た人ならば分かるだろう。

 そんな奴の目的は何か。

 奴の言葉を鵜呑みにした場合、奴の芸風を知っている身としては、そこからの展開がどうなっていくかを考えれば思い浮かぶ仮説は自然と負のベクトルを持つ。

 それらの情報を元に組み上げていた仮説が、かつて目の当たりにした淫獣のおぞましいほどの奸智に裏打ちされた罠に向って帰結していく。

 奴の目的が、自分の姿を私に見せつけることによって自身の脅威が私に迫っていることを明確に見せつけ、私に行動を促すものだと考えるとパズルのピースがかみ合ってくる気がするのだ。

 ほむらも同じように不穏なものを感じたようだ。

 

「素直に考えれば、目的はあいつにとって脅威である貴女を無力化すること。でも、貴女の口ぶりだとそれだけじゃないと考えているみたいね」

 

 私は首肯した。

 確かに素直に捉えると最大の目的は私の排除。動機は淫獣の活動の妨げになるから。

 だが、それだけではないだろう。絶対に。

 敵はインキュベーター。そんな可愛い奴であろうはずがない。

 私の排除から起こる連鎖の果てにある事象こそが奴の目的だろう。

 

「仮説として聞いて欲しい。これは、鹿目まどかを魔法少女に追いやるための遠謀と思われる」

 

 私の言葉にほむらとマミさんの表情が硬くなった。

 

「……どういうこと?」

 

「インキュベーターが期待するところは、私が私にとって脅威である神名あすみという存在を、貴女たち魔法少女の力をもって排除する行動に出ることと推測する。魔法少女同士の衝突を促し、その結果ワルプルギスの夜に対抗する戦力を削ぐことが目的である可能性が高い」

 

 人の情につけ込む。それこそが奴の最も忌々しいところだ。

 淫獣がオクタヴィアに杏子をぶつけ、ほむらの孤立を謀ったことを私は知っている。

 記念すべきTV版第1話の冒頭において、窮地に陥るほむらを餌に契約を迫っていたことも。

 多分、これもその種の仕掛けだろうと私は思う。

 手持ちの情報を見る範囲ではワルプルギスの夜と言う存在は、淫獣にとってはまどか籠絡のためのツールに過ぎない。

 私たちがワルプルギスの夜を抑えられないとなった時、私が良く知るまどかという女の子の性格を考えるとその後に発生するであろう惨劇を座視する可能性は低い。私たちの勢力が窮地に陥っただけでも心を揺らすことだろう。淫獣は絶対そこにつけ込んでくる。

 実際、ほむらかマミさんの一人でも削れば、対ワルプルギスの夜のための戦力は著しいダメージを受ける。それだけで淫獣にとってまどかの籠絡はぐっとやりやすくなるだろう。

 おまけに仮にあすみが返り討ちに遭ってもインキュベーターの懐は全く痛まない、ノーリスクでかなりのハイリターンが狙える仕掛けだ。

 この仮説が正しいとしたら、これぞ淫獣の面目躍如と言う感じの嫌らしさだと思う。

 

 

 私が告げたそんな仮説に、ほむらもマミさんも苦いものを食べたような表情で黙り込んだ。

 両名とも、淫獣にはひどい仕打ちを受けただけにまた少し恨みが嵩を上げたのだろう。

 

「それが本当だとしたら、貴女はどうするつもり?」

 

 考えたくなかった部分に、ほむらが踏み込んで来た。

 そう、どうすればいいか。

 結局私が取れる手段はシンプルで、でもどこかにその皺を寄せなければならないもので。

 私が抱えるあらゆるものを幾何学的で複雑な構造の天秤に乗せて、その傾斜を測る。

 でも、その天秤の示す結果については測定前から私は分かっていた。

 必要だったのは、その結果を受け入れるだけの私の中の何かを整える要素だけだ。

 それは覚悟とか勇気とか、言葉にすればそんな陳腐な単語で片付く類のもの。

 それらの整理において、私の背中を押すのは友達たちの存在だ。

 最後に天秤の両端に載ったものは、そんな友達たちが泣かなくて済む未来と、私自身。

 まどかの背を見送りながら心の中核に塗り固めたその決意を寄る辺に、私は天秤の示した結果を告げる。

 何があっても、これだけは告げねばならない。

 それがただの強がりであったとしても。

 数秒の沈黙の時間を費やしたのち、私は言葉を紡いだ。

 

「状況を勘案すると、現状で最も適当な対策は積極的にインキュベーターの行動に反応せず、鹿目まどかのガードを継続し、ワルプルギスの夜の襲来に備えること。その状況を維持し、貴女たちは神名あすみとの接触は可能な限り回避するべき。私の事は私の方で対処する。ワルプルギスの夜と対峙する前に、貴女たちを失うリスクを犯すことは回避しなければならない」

 

 マミさんもほむらも杏子も、誰一人失う訳にはいかない。

 あすみ対策には魔法少女を以て応じるしかないと思っていたが、こういう状況となってはワルプルギスの夜討伐までは面倒を彼女たちに押し付けることは避けねばならない。

 端的に言えば、私がいなくても現状を維持できれば事は成るのだ。切り捨てるべき部分がどこなのかはそのことだけでも判断できる。

 ワルプルギスの夜の襲来まで数週間。

 最悪、その間を凌げば局面は変わる。そこまで耐えれば、あすみ相手に武力行使することも選択肢になる可能性が出てくる。

 

「ちょっと、悪い冗談はやめてよ。貴女は戦えないじゃない」

 

 慌てたマミさんが私を睨むが、私は首を振った。

 

「現状の対処としては、この問題は切り離して考えることが最善手。貴女たちを動員した場合、どうしても神名あすみと積極的に衝突することを選択しなければならなくなる。現状で彼女と対峙することは良い結果を生むとは思えない」

 

 尚も反論しようとするマミさんを私は制した。

 

「貴女の気持ちは嬉しい。でも、鹿目まどかを魔法少女にしないことはすべてに優先する。また、ワルプルギスの夜の殲滅もそれと並ぶ重要事項。私のことを優先して貴女たちにもしものことがあった場合、それらの事項の達成に支障が生じる可能性が高い。ワルプルギスの夜は強大。貴女たちの誰かに落伍されることは絶対に避けなければならない」

 

 言うまでもないことだが、マミさんはワルプルギスの夜と闘う際の最大火力だ。攻撃力については彼女がいなければ勝ちへの算盤は弾けない。ほむらは作戦の要だし、杏子と言う前衛がいないとマミさんも力を発揮できない。

 そんな私の言葉に、ほむらが援護射撃をしてくれた。

 

「この場合は、それが正解でしょうね」

 

「この子を見捨てろと言うの?」

 

 私に向けていた冷静な視線を、ほむらはマミさんに向けた。

 

「必要とあればそうするわ」

 

 おお、流石は古手梨花ちゃまも顔負けの千年の魔女、バッサリ言ってくれる。

 それでいい。こういう思い切りの良さは好感が持てる。

 

「あ、貴女……」

 

「早合点しないで」

 

 般若面みたいなおっかない形相になったマミさんに、ほむらが間を置かずに言葉を足した。

 

「今の仮説が正しいとしたら、現状維持を続ければ困るのはインキュベーターも同じはずよ。それに、時間が経てばまた対応も変わってくるでしょうけど、現時点で直接的に仕掛けて来ないということはあっちもそこまで上手く協調が取れていないと考えるべきでしょうね。あるいは、最初からそのつもりがないのかも知れない。状況を注視するのは選択として悪くないわ」

 

 ほむらの言葉は正しいと思う。

 淫獣の思惑はともあれ、私たちがこの状況をシカトしたとしたら奴も現状維持は都合が悪いだろう。そうなると現状打破としてあすみを焚き付けるくらいはすると思うが、あすみがそれに素直に乗って来ない可能性もあるかも知れない。あすみが淫獣に唯々諾々と従う状況なら戦端は既に開かれているはず。

 それはつまり、私がつけ込める余地があるかも知れないということだ。

 武力に依らない直接的な接触。

 分の悪い賭けだとは思うが、私が賭けられる場はそこにしかない。

 あすみを見限って別の魔法少女をけしかけて来る可能性もあるかも知れないが、その時はその時だ。

 

「繰り返しになるけど、私の問題は私の方で対処する」

 

「でも、貴女一人じゃ……」

 

 マミさんの表情にはまだ不満の色があったが、取れる手は他に思いつけない。

 今の私ができることは、精一杯虚勢を張ることくらいだ。

 

「心配しなくていい。運が悪ければ死ぬだけのこと」

 

「冗談でもやめて」

 

 そんな私の冗談に、ほむらが冷え冷えとした視線を向けてくる。

 

「冷静ね。それが貴女が与えられた役割なの?」

 

 ほむらの言葉の意味が分からず首を傾げる私に、ほむらの言葉が続く。

 

「できればここで聞いておきたいわ。インターフェースと言うのは何の事なの?」

 

 無表情のまま私は小さく唸った。

 淫獣とのやり取りを聞かれていたか。

 久々に浴びるほむらの敵意ある視線に、私は小さく息を吐いた。

 さて、どうしよう。こいつに中二病な設定語りは効くだろうか。電波なトークをここで繰り返すことは簡単だが、人生経験と言う意味では私より奥行きがあるものを重ねてきたこいつには相応に練ったシナリオがないと通じない気もする。当然そんなものを練っている余裕はない。

 使えそうなネタを脳内検索すると、1件ヒット。

 仕方がない。あっちの設定を持って来よう。

 

「当該情報は禁則事項に該当する」

 

 淡々と、機械の表示のように文字列を並べる。本当なら人差し指を立てて後藤邑子的ににこやかに言いたいところだが、そんな雰囲気ではないし。ほむらの隣でマミさんが怪訝な顔をするのは想定内だ。信用できる人にしか話せない事実だとでも取ってもらえると助かるのだが。

 

「父性個体というのは?」

 

「遺伝学的な概念におけるジェニターに該当する存在。2系統存在した私の原型の一つ。それ以上の情報は禁則事項に該当する」

 

 嘘は言っていない。うん。

 

「……では、情報思念体、というのは?」

 

「禁則事項に該当する」

 

 目力で私を八つ裂きにするような圧力でほむらは私を睨む。小さな蝋燭くらい圧で消せるんじゃないか、これ。

 

「……それが、インキュベーターと同じような存在ではないという保証は?」

 

「証明することは現時点では不可能。情報統合思念体の目的において、鹿目まどかを魔女化させないことは絶対的な方針であることは信じて欲しい。状況からも、そのことは推測してもらえると思う」

 

 しばし視線を交わすと、ほむらはため息をついてソファに座り直した。

 今日のところは勘弁してくれたらしい。

 おちゃらけた冗談に真面目成分を半分ほど混ぜ込んだ設定の詳細を語ることは簡単だが、現時点ではまだ種明かしをしないほうがいい。マミさん籠絡のための方便だったものが淫獣にまで効いている現在、このアドバンテージは私の生命線だろう。

 しかし、運命の追い討ちは、なおも我が身に降りかかってきた。

 自業自得の形で。

 

 

 

「私の方からの報告は以上。そちらの状況を教えて欲しい」

 

 私の問いに答えてくれたのはほむらだった。

 

「ここに来る前、工場地区の一角で魔女と戦ったわ」

 

 静かな口調で並べられたその説明を理解した瞬間、私は息を飲んだ。

 魂が凍る感触と言うのは、こういうのを言うのかも知れない。

 工場地区。

 このタイミングで出るとしたら、あれしかない。

 

「……『ハコの魔女』」

 

 呟くような私の確認に、ほむらが頷いた。

 

「そう。殲滅はできたけど、魔女の口づけを受けた被害者たちを無事に救出することはできなかった。初動が遅れたことは私たちのミスね。弁解しようがないわ」

 

 ほむらが発したその言葉の意味が膨大な負荷となって私の精神にのしかかってきた。

 

 仁美。

 

 その名前を思った時、一瞬で口の中が乾燥するほどの黒い感覚が私の心理の奥底から湧いて出た。

 奥歯が微かにカタカタと音を立て始めた。

 

「被害者たちの状況は?」

 

「全員意識を失って、救急搬送されたわ」

 

「……そう」

 

 救急搬送されたということは発生した塩素ガスの影響を相応に受けたということ。重篤な塩素ガスの影響は気道浮腫や肺水腫による低酸素。手当が早ければ死にはしないが、タイミングはどうだったのだろうか。

 最悪なことはなかったと信じたい。もし仁美にもしものことがあったら、私のやって来たことはすべて無意味なものに成り果てる。

 まどかも、さやかも、仁美も、皆が笑っていてくれないと意味がないのだ。

 絶句する私に、ほむらが言葉を続けた。

 

「誰がいたのか、心当たりがあるようね」

 

「志筑仁美」

 

 頷いて答えた私に、ほむらの表情が歪む。

 

「もう驚くのには慣れたけど、本当に何者なのかしらね、貴女」

 

「彼女は?」

 

「他の被害者と一緒に搬送されたわ」 

 

「私たちがもっとうまく対処できればよかったんだけど」

 

 マミさんが申し訳無そうに言うが、これは不可抗力だ。相手のある事だし、斬った張ったの現場ですべてをうまくやれと言うのは酷と言うものだろう。ここは感情を切り離して考えねばならない。

 

「貴女たちが対応できなかったのなら、それは仕方がないこと」

 

 そう強がりを口にしながらも、私はのしかかる後悔の念に押しつぶされそうだった。

 やってしまった。

 最も恐れていた、私の友人に累が及ぶ状況。

 仁美は、とことんまで普通の子だ。

 魔法少女の適性がある訳ではなく、資産家のお嬢様という付加価値こそあれ、ごく普通の年頃の女の子なのだ。

 普通に学校に行き、普通に美味しいものを好み、普通に恋する女の子だ。

 宇宙生命体に見初められたり、おかしな前世の記憶がある異常者ではない。

 そういう人の枠を外れた輩が暗闘する場所とは無縁の場所で、そのまま素直に幸せなおばあさんになるべき存在なはずなのだ。

 ハコの魔女の存在は二人には伝えてはあった。

 それに、私が伝えずとも、ループを繰り返したほむらなら抑えているはずの情報だと思っていた。

 勿論彼女の事は心配ではあったけど、ほむらならばその辺はうまくやるであろうとたかをくくっていたツケが回ってきた形だ。いや、事前に言っておいたからと言って上手く事が運んだ保証はない。

 魔女の出現のタイミングは、私は覚えていない。さやかが魔法少女になるかならないかの辺りと言う曖昧な記憶があるだけだ。こればかりはほむらの経験則頼みだったのだが、その経験則でもカバーできない予想外の出現ということは、どこかで何かの歯車が狂っていたということなのだろう。

 心当たりは幾つもある。

 仁美の精神が、私が知る状況と異なり著しく安定を欠いていたことを私は知っていた。その仕掛け人も私だ。

 あれこれかき回し、その結果がこれだ。

 これもまた、あすみの呪いの一環なのだろうか。

 2人と言葉を交わしながら、私は感情が顔に出ない自分の性質に感謝していた。

 すべてが表情に出ていたら、きっと泣き出しそうな顔をしていただろうから。

 

 守ろうとした器の罅が、また少し広がった。

 その罅から零れ出す幸せな日常と言う名の水が、一滴、また一滴と消失していく。

 

 

 

 その夜、私の胸中に到来したものは、例えようもない焦燥感と無力感だった。

 

 

 

 


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