学院長室は、本塔の最上階にある。
トリステイン魔法学院の学院長を務めるオスマン氏は白い口髭と髪を揺らし、重厚な造りのテーブルに肘をつき、退屈を持て余していた。
ぼんやりと鼻毛を抜いていたが、おもむろに引き出しを引き、中から煙管を取り出す、
すると、部屋の隅で書き物をしていた秘書のミス・ロングビルが羽ペンを振った。煙管は宙を飛び、ミス・ロングビルの手元までやってきた。つまらなそうにオスマン氏が呟く。
「年寄りの楽しみを奪わんでくれんか、ミス································」
「オールド・オスマン、あなたの健康管理も私の重要な仕事なのですわ」
オスマン氏は椅子から立ち上がると、理知的な顔立ちが凛々しい、ミス・ロングビルに近づいた。
椅子に座るロングビルの後ろに立ち、重々しく目を瞑る。
「こう平和な日々が続くとな、時間の過ごし方というものが。何より重要な問題になってくるのじゃよ」
オスマン氏の顔に刻まれた皺が彼のすごしてきた歴史を物語っている。百歳とも三百歳とも言われている、本当の年齢など、彼ももはや覚えていないらしい。
「オールド・オスマン」
ロングビルは、羊皮紙の上を走らせる羽ペンから目を離さずに言った。
「なんじゃ? ミス──────」
「暇だからといって、私のお尻を撫でるのはやめてください」
オスマンは口を半開きにしたまま、よちよちと歩き始めた。
「そして都合が悪くなるとボケた振りをするのもやめてください」
どこまでも冷静な声で、ミス・ロングビルは言った。
オスマン氏はため息をついた。深く、苦悩が刻まれたため息であった。
「真実とはどこにあるんじゃろうか? 考えたことはあるかね? ミス・ロングビル。我が師に言わせれば、真実は──────」
「オールド・オスマン!」
図書室から慌てて走ってきたコルベールは、学院長室に通じる扉を勢いよく開けて部屋に飛び込んだ。
「························」
「························」
「? オールド・オスマン? ミス・ロングビル?」
一瞬、変な残像が見えた気がした。
気のせいだろうか、一瞬二人が険悪なムードになっていたように見えたのだが、ロングビルはいつものように書類整理を行い、オスマン氏は貫禄たっぷりの校長先生らしさを出すために腕を後ろに組んで窓の外を眺めている。
「··················なんじゃね?」
中にいたオスマン氏は何事もなかったかのように腕を後ろに組んで重々しく闖入者を迎え入れた。部屋の隅に置かれている机には、秘書のミス・ロングビルが机に座って書き物をしている。
実はセクハラする前にもオスマンは問題行動を取っていた。
ついさっきまでオスマンが使い魔のネズミ、モートソグニルを使ってロングビルの下着を覗き見るというセクハラ間違いなしの行為を行い、それが理由でオスマンがロングビルに蹴りまわされていたのだが、二人は素早く定位置に収まり、何事もなかったかのようにいつもの日常に戻っていた。
そんな事があったことをコルベールに微塵も悟らせなかったのを見ると、ナイスコンビネーションの上に、とんでもなく見事な早業である。
「たた、大変です!」
「大変な事などあるものか。全ては小事じゃ」
「ここ、これを見てください!」
コルベールはオスマンに今朝からずっと読んでいた書物を手渡した。
オスマンはそれを見ても一切表情を変えなかった。別に珍しくもなんともないものを持ってこられて、逆にため息までついてしまった。
「これは『始祖ブリミルの使い魔達』ではないか。まーたこのような古臭い文献など漁りおって。そんな暇があるのならたるんだ貴族達から学費を徴収するうまい手をもっと考えるんじゃよ。ミスタ················なんだっけ?」
「コルベールです! お忘れですか!?」
「そうそう。そんな名前だったな。君はどうも早口でいかんよ。で、コルベール君。この書物がどうかしたのかね?」
「これも見てください!」
コルベールはノクトの左手に現れたルーンのスケッチを恐る恐るといった感じで手渡した。
「っ!!」
それを見た瞬間、オスマンの表情が変わる。
先程までの下心は一切なくなり、雷撃でも浴びたように動きを止めた。オスマンはそれを認識しつつも、表情が動くことはなかった。
目が光り、厳しい色になって、秘書のロングビルに一次的に退出してもらうように言った。
「ミス・ロングビル。席を外しなさい」
するとロングビルは言われた通り立ち上がり、軽く一礼すると部屋から出ていった。
彼女の退室を見届けると、オスマンは口を開く。
「詳しく説明するんじゃ。ミスタ・コルベール」
△▼△▼△▼△
「はぁ····························終わった」
王様らしからぬことをしてしまうことになったが、ようやくゴミの片付けが終わった。
片付けを一人でやるなんて狂気の沙汰だと思う。今まで家事についてはほとんどやって来てない人に片付けを任せればさらにやばいことになるに決まっているのに。
しかしやり切った。
自分の中で精一杯やって教室を片付けた。これで文句を言う奴がいたら問答無用でぶっ飛ばす自信がある。
「俺が一人でゴミの片付けをしたなんて、イグニスに言ったら驚きと感動のあまり泣き出すんじゃね? もしくは、あいつ卒倒するかもな」
なんてことを思うノクト。
なにせ彼は基本堕落に満ちており、自分で何かをやったり、何かをしだすなんてことはなかった。ほとんど側近であるイグニスにやってもらい、自分は誰かがやってもらえるからいいなんて思考で今までやってきたので、自分一人で部屋の片付けをするなんて、自分でも驚きだった。
ゴミを処分し終えたノクトは、改めて食堂へと向かう、先ほどの重労働のおかげで腹が空いて仕方がない。教室を出てルイズがいる食堂に向かっていたノクトは、ふとある事に気付いた。それはノクトにとって非常に重要なことで、これからのことに関わることだった。
「························俺、こっちに来てから石みてぇなパンと水みてぇなスープしか食ってねぇけど、今後もあれしか出てこねぇのか?」
こう見えても、というかノクトはグルメ派だ。
好き嫌いや偏りがあるものの、味に関してはめちゃくちゃ敏感だ。粗末な物が出されてことのないノクトからすればあんなのが口に合うわけがない。なんなら大っ嫌いな野菜の方がまだ味があってマシに思えて来た。それほど、今日のは不味かった。本当に犬の餌を食ってる気分で、正直不満しかない。
「聞く耳持たねぇと思うけどダメ元でルイズに掛け合うか」
こればかりは死活問題だ、早めに改善しないとならない。
実際、先程から自分のお腹が飢えているのか部屋中に響き渡るぐらい大ブーイングを起こしている。空いた腹を抱え肩を落とし、そして食堂に向かおうと顔を上げた。
「あの、お腹空いているんですか?」
「へ?」
と、後ろから声が掛かった。
振り向くと、そこにはどっからどう見ても貴族には見えない少女がいた。
この学院では滅多に見ない黒髪をカチューシャで纏めており、顔にはそばかすがある。彼女はノクトの顔を見て一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔を浮かべてこちらに近づいてきたのだ。
「················えっと、あんたは?」
「私ですか? 私はこの学院でメイドをしている、“シエスタ”って言います」
「メイド?」
確かに格好からしてメイドのようだ。どうやらこの学校は貴族たちのためにメイドといった使用人までも雇っているらしい。
するとシエスタは急に伺うような視線を向けて、ノクトの顔を覗き込んで来た。
「もしかしてと思ったんですけど、あなたはひょっとしてミス・ヴァリエールの使い魔になったっていう····················」
「ああ、そうだけど················俺の事知ってんの?」
「はい。なんでも、召喚の魔法で平民を呼んでしまったって学校中で噂になってましたから」
そう言うと少女はにっこりと笑った。
この世界に来て初めて見る屈託のない笑顔。今までずっと低民貴族どものからかいの笑いしか見ていなかったから、こんなにも心が晴れるような純粋な笑顔を見て、迂闊にもまぶたの端から一筋の涙が伝うところだった。
「この学校で雇われてるってことは、あんたも魔法使いなのか?」
「いえ、私は違います。あなたと同じ平民です。貴族の方々をお世話するために、ここでご奉公させていただいてるんです」
「ふ~ん」
実際の所は平民じゃなくて王族なのだが、さすがにそんな事を説明するわけにはいかない。なので、ノクトは普通に挨拶をする事にした。
「そうなのか。俺はノクティス・ルシス・チェラムだ。呼びにくいからノクトでいいよ。よろしくなシエスタ」
「ノクト··············変わったお名前ですね。よろしくお願いしますノクトさん!」
「おう·······で、なんの用?」
「いえ、たいした用事というわけではないんですが。ミス・ヴァリエールの使い魔が平民だって聞いてから私たちの間でも話題になって、どんな人なんだろうって思っていたところに見慣れない格好をした人がいたのでもしやと思って声をかけに行ったら··················ちょうどあなたのお腹が鳴ったのが聞こえてしまいまして」
と、言いながらくすっと笑いをこぼした。
彼女の目にはほのぼのとした光景に見えているようだが、当の本人にとってはそれどころではない。聞かれたくないものを聞かれた。こればっかりはどうしようもないが、しかし自分の不甲斐なさを見られてめっちゃ顔を赤くしている。
「あの、もしよろしければ今からノクトさんの分を用意いたしますけど、どうですか?」
「え?」
その瞬間、ノクトは何を言われたか理解できなかった。
数秒の空白を用いてようやく今日初めて会ったメイドさんの殊勝コメントの意味を理解すると、なんでか勝利の余韻に浸かった気分になった気がした。
「······················いいのか?」
「はい! ここで会えたのも何かの縁ですし、もっとノクトさんのことを知りたいので!」
「いやでも、わる──────」
そう言い切る前に、自己主張するかのごとく一段と大きな腹の音が鳴り響いた。
それを聞いたシエスタは、再びくすっと屈託の無い笑みを浮かべると、ノクトの手を引いて歩き出した。
「どうぞ、ついてきてください。賄いものでよろしかったらお出しします」
△▼△▼△▼△
ノクトが連れて行かれたのは、食堂の裏にある厨房だった。
大きな鍋やオーブンがいくつも並んでいる。早朝から先に寝かしておいたスープの最後の手入れをしたり、今まさに味見しようと小皿に少量のスープをよそっていた料理人がゆっくりとした動作で責任者のシェフへと小皿を渡していた。そして今日の朝出した料理のソースがしつこくついた皿をシミ一つ残さずに洗っていたり、コックやシエスタのようなメイドたちが休むことなく忙しげに一生懸命に料理を作っている。
「ちょっと待っててくださいね」
ノクトを厨房の片隅にある椅子に座らせると、シエスタは小走りで厨房の奥に消えた。しばらくすると、お皿を抱えて戻ってきた。
皿の中には温かいシチューが入っており、香ばしい匂いが食欲を刺激させてくる。
「貴族の方々にお出しする料理のあまりもので作ったシチューです、賄い食ですがよろしければ食べてください」
「悪いな、ありがたくいただくよ」
ノクトはそれを受け取ると、スプーンで一口すする。
「ど、どうですか?」
「あ、美味い。朝のスープとは比べ物にならない」
「本当ですか! お口に合いましたか?」
「ああ、ここにいる人達って料理上手いんだな。すっげぇ美味しいわ」
「よかった、おかわりもありますから、ごゆっくり」
シチューを食べるノクトの様子を見てシエスタはニコニコと微笑んだ。
確か後でルイズと待ち合わせをしているはずだったが、今はそんなことは忘れて恵の光を一身に受ける。ノクトにとってはこの世界での初めてのまともな料理が来たので、それを美味しく深く味わうようにしてあっという間に平らげた。
「ご飯、もらえなかったんですか?」
「いや、もらえたのは貰えた。でもあいつが用意していた朝の食事があまりに貧相だったんだよ。パンなんかすげぇ硬ぇし、スープなんか水で薄めたような感じで全然美味しくなくってさ。貴族の方が上だってわかっても平民の扱いがなってなさすぎだろ。もうちょっと俺を人間扱いしてくれてもいいと思うんだが」
「あはは···························でもまぁそうですよね」
シエスタは先程とはうってかわってしんみりとした口調で、そして恐る恐ると言った。
「もしメイジたちが本気になったら、私たち平民が何しようが敵わないですよね·······················」
「?」
暗い顔をして俯くシエスタが言ったその一言に、ノクトの眉が不審げに動く。
が、シエスタはなんでもないって感じですぐに切り替えて、ノクトに笑顔を向ける。何事もなかったかのように振舞って来たので、ノクトは何も言わずに食事を用意してくれたことに感謝した。
「ご馳走さま、ありがとなシエスタ。おかげで腹が膨れたわ」
「よかった、お腹が空いたらいつでもいらしてください。私達が食べているものと同じものでよかったら、お出ししますから」
「おう、ありがとな!」
うれしい提案である。
ここまでしてくれるとは流石に予想外だったが、これでルイズが食事を用意してくれなかった時の抜け道を確保することができた。
「せっかくご馳走になった事だし、礼として何か手伝うこととかないか?」
「えっ? そんないいんですよ、困った時はお互い様ですし」
「そう、困った時はお互い様。だから俺もなんか手伝うよ。一食の恩は返さねぇっといけねぇし」
それを聞いて、シエスタは可愛らしく顎に指を当ててうーんと言いながら、大きなケーキと皿がたくさん並んでいるのを見た。
丁度食後のデザートを配ろうとしたところだった。
「では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか。こちらのケーキを運ぶのを手伝ってくださいな」
「おう、任せろよ」
そう言うとノクトは、シエスタと一緒にトレイに置かれたケーキを持って食堂へと向かった。
△▼△▼△▼△
銀のトレイを持ち、食堂に出たノクトは、シエスタとともにケーキを配って行った。シエスタがはさみでケーキをつまみ、ノクトの持つトレイから手際良く貴族達に配って行く。
と、そこでノクトの動きが止まった。
視線の先に、あのムカつく奴がいたからだった。金髪の巻き髪にフリルの付いたシャツを着た気障なメイジ、薔薇をシャツのポケットに挿している。
(あ~、あいつか)
ノクトをからかうように宙に浮かべたあの気障野郎に周りの友人たちが、口々にあいつを冷やかしている様子が見えた。
「なあ、ギーシュ! お前、今は誰と付き合っているんだよ!?」
「誰が恋人なんだギーシュ!?」
その冷やかしに彼はすっと唇の前に指を立てると、お得意の気障な台詞を言った。
「付き合う? 僕にそのような特定の女性はいないのだ。薔薇は多くの人を楽しませるために咲くのだからね」
(····································)
その言葉を聞いて、ノクトは思わず鼻で笑う。
物腰や言い回しなどはグラディオの方が数段上だったが、あいつも中々言う。ほんっとう、よくもまぁそんな戯言を抜かすものだ。いつか痛い目見るに違いない。
と、その時、ギーシュのポケットから何かが落ちた。ガラスで出来た小壜だ。中に紫色の液体が揺れている。ノクトはしゃがみ込んで小瓶を拾うと、ギーシュに言った。
「おい、落としたぞ」
「·······································」
「?」
だがギーシュは振り向かなかった。
どうやら聞こえていて無視しているらしい。仕方ない、とノクトは思うと一旦トレイをシエスタに預けて、拾い上げたものをテーブルの上に置いた。
「ここ置いとくぞ」
それにようやく反応したのか、ギーシュは苦々しげにノクトを見つめるとその小壜を押しやった。
「これは僕のじゃない。君は何を言っているんだね?」
「は? お前こそ何言ってんだ? そんなわけねぇだろ、お前のポケットから落ちたんだから」
するとその小瓶の出所に気付いたギーシュの友人達が、大声で騒ぎ始める。
「おお? その香水はもしや、モンモランシーの香水じゃないのか?」
「そうだ! その鮮やかな紫色は、モンモランシーが自分のためだけに調合している香水だぞ!」
「そいつがギーシュ、お前のポケットから落ちてきたって事は、つまりお前は今モンモランシーと付き合っている。そうだな?」
「違う。いいかい、彼女の名誉のために言っておくが······························」
(······························もしかしてこいつ)
と、ノクトが何かを察した時だった。
ノクトが察したと同時にギーシュが何かを言おうとしたとき、後ろのテーブルに座っていた茶色のマントの少女が立ち上がりギーシュの席に向かいコツコツと歩いてきた。
栗色の髪をしたかわいらしい女の子。
あいつは確か、昨日ギーシュといた子だ。スフレを作るのが得意だとか言って、それを是非食べて見たいとか確かこちらにいるギーシュ様は言っていたな。
「ギーシュ様··························」
そう呟くと、少女はボロボロと泣き始めた。
(ああ·············やっぱりこいつ)
早すぎる伏線回収であったが、予想通りだったことにノクトは呆れてしまう。
女の子はわなわなと震えており、涙を見せないようにして顔を下に下げている。明らかに怒っている。修羅場の予感がしたが、ここは止めるべきではない。最後まで見守ろう。
「やはり、ミス・モンモランシーと····················」
「か、彼らは誤解しているんだケティ。良いかい、僕の心の中に住んでいるのは君だけ····················」
しかしケティと呼ばれた少女は、思いっきりギーシュの頬を引っぱたいた。パシーン! という小気味良い音が食堂内に響き渡る。
「その香水があなたのポケットから出てきたのが何よりの証拠ですわ! さようなら!」
「··········································」
ギーシュは頬をさすった。
すると今度は遠くの席から、一人の見事な巻き髪の少女が立ち上がった。ノクトはその少女に見覚えがあった。ノクトがこの世界に召喚された時、まだこの世界の言語が理解できていなかった時に、ルイズと口論していた少女である。
厳めしい顔つきで、ギーシュの席までやってくる。
さらなる修羅場の予感がして、ノクトは内心心臓の鼓動を早めながらその様子を見ていた。
「も、モンモランシー、誤解だ。彼女とはただ一緒に、ラ・ロシェールの森へ遠乗りをしただけで·································」
と、何かまた言い訳をしようとしているが失敗している。その証拠に、彼は冷静な態度を装っていたが、冷や汗が一滴額を伝っていた。
「やっぱり、あの一年生に手を出していたのね?」
「お願いだよ。『香水』のモンモランシー。咲き誇る薔薇のような顔を、そのような怒りで歪ませないでくれよ。僕まで悲しくなるじゃないか!」
(いや········そもそもお前が原因)
と、呆れたようにノクトが思った直後、モンモランシーはテーブルに置かれたワインの瓶を掴むと中身をどぼどぼとギーシュの頭の上からかけた。
まさに見事な修羅場である。
そして、
「この嘘つき! 最っ低ッ!!」
どこかの世界にはこういう言葉がある。
あなた方も聞いているとおり『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイによる福音書 5章39節)
ということで、追加として勢いよく鋭い一撃を反対側の頬にお見舞いした後、怒鳴ってその場から去って行った。常人ならオーバーキルだが、沈黙の中でギーシュはハンカチを取り出すと、ゆっくりと顔を拭いた。そして首を振りながら芝居がかかった仕草で言う。
「あのレディ達は、薔薇の存在の意味を理解していないようだ」
(························マジかこいつ)
元凶であるのに一切悪びれてない。
あの子たちはお前の身勝手な行動のせいで傷ついたというのに、何も思ってない。あんなことをしでかしても平然でいるその根性だけは流石だなと思うが、ぶっちゃけクソ野郎だ。そんないつまでも気障っぽく振る舞うギーシュの様子にノクトは呆れたような表情をしてから、シエスタから銀のトレイを受け取って再び歩き出す。
「····················待ちたまえ」
「あ?」
急に、後ろから呼び止められた。
振り返るとギーシュは椅子の上で体を回転させて、すさっ! と足を組んだ。いちいち気障ったらしい仕草に、ノクトは内心ムカッとしていた。
「君が軽率に香水の壜なんか拾い上げてくれたおかげで、二人のレディの名誉が傷ついた。どうしてくれるんだね?」
「····································は?」
呼び止めておいて何を言い出すかと思えば························まさかの人のせいか。
ノクトは半ば呆れた口調で言った。
「いや、お前が二股をかけてるのがそもそもの原因だろ。なに人のせいにしてんだよ」
「ッ!!」
いともあっさり返される正論に、ギーシュはグウの音も出ない。
「その通りだギーシュ! お前が悪い!」
「ふっ、ふはは、いやこっちとしては良い物を見せてもらえたけどね」
「あはははははっ!! ああ、ギーシュには悪いがモンモランシーにぶっ飛ばされた君の姿は傑作だった!!」
周りの友人達の笑い声で、ギーシュの顔にさっと赤みが差した。
ぐっ!? と刃物が胸にぐさっと刺さったかのように顔を顰めているが、すぐに平常心を取り戻し、
「良いかい? 給仕君。僕は君が香水の瓶をテーブルに置いた時、知らないフリをしたじゃないか。話を合わせるぐらいの機転があっても良いだろう?」
「いや知らねぇし。お前が蒔いた種だろうが、それを八つ当たりのように人のせいにされてもこっちが困るわ」
さらに友人達の笑い声が大きくなり、ギーシュの顔がさらに赤みを増す。
「で? もう行っていいか? これでも俺は仕事中なんだ。これに懲りたらもう二股なんて真似はすんなよ」
これ以上は間違いを起こすなよと助言したつもりだったのに、ギーシュにはどうやら逆効果だったようで余計に苛立たせてしまったようである。
そしてその直後、ギーシュは何かに気付いたような表情を浮かべた。
「そう言えば···········ああ、君は確かあのゼロのルイズが呼び出した平民だったな」
「だからなんだ?」
「さすがはゼロのルイズの使い魔だ! 主人が出来損ないであれば、使い魔も出来損ないというわけだ!」
「······························あ?」
感情が消えた。
あいつが言った言葉が耳に届いた直後、ノクトの顔からあらゆる感情が消えていた。ノクトはギーシュの方を冷たい眼差しで見つめると、いつもよりも低い声で問いかける。
「············何が言いたいんだお前は?」
「言った通りさ。出来損ないのゼロのルイズが召喚したなら、その使い魔も出来損ないというわけだ。そんな使い魔に貴族の機転を期待した僕が間違っていたよ。どこへなりとも行きたまえ」
「·····························」
ノクトの唇から、薄く薄く息が漏れた。
沈黙するノクトの耳に、あいつの馬鹿みたいな言葉が届いてくる。周りは流石に二股したギーシュが原因なのに、平民の使い魔に対してあそこまで言ったことに軽蔑しているのか黙っている。
「·····························」
その時、ノクトの手に強烈な力が篭る。
頭が破裂する。
今まで抑えていたものが全部綺麗に弾け飛ぶ。脳内が怒りで包まれて行き、制御していた理性が解放されて行く。
そして彼は、気障でうざく言ってくるギーシュに対してこう言った。
「そうかそうか、そりゃ悪かったな。気が利かなくて」
「ああそうさ、君のせいなんだからよく反省するんだね」
「ああ、よく反省しましたよ貴族様·················でも、一ついいか?」
「なんだね?」
へらへらとしている気障野郎は未だに余裕そうに、そして平然としているが、その態度を崩す一言をノクトは容赦なくぶつけた。
「·················そんなに俺より気が利くんなら、なんであの程度の場を切り抜けられなかったんだ? お得意の機転があるんならあいつらを傷つけることなく場を収めることだって出来たはずなのに、なんでお前は自分の責任を他人のせいにしかできなかったんだ? 平民である俺にもわかりやすく教えてくれよ貴族様?」
「!?」
「正直がっかりしたわ。気高い貴族がそんな幼稚なことしかできないなんて、怒りを通り越して呆れるしかねぇわ。二股がバレれば俺に責任を押し付けて、しかも何の関係もないあいつを馬鹿にすることしかできない奴が貴族だなんてな?」
その言葉でギーシュの顔が怒りで震え、目が光る。
「ど、どうやら君は貴族に対する礼儀を知らないようだね······························!」
「少なくとも、お前みたいな品のない貴族にはお目にかかったことがないな」
二人の異様な雰囲気が空間を震わせる。
周りにいた奴らもこの状況に息を飲んだ。この後の展開を予想してしまったからだ。
二人はしばらくお互い睨み合っていたが、やがてギーシュの方が先に口を開いた。
「良かろう。君に礼儀を教えてやろう。ちょうど良い腹ごなしだ」
「··············場所は?」
「貴族の食卓を平民の血で汚すわけにはいかない。ヴェストリの広場で待っている。ケーキを配り終わったら来たまえ」
ギーシュはくるりと体を翻し、食堂を後にする。
ギーシュの友人達がわくわくした顔で立ち上がり。ギーシュの後を追った。一人はノクトを逃がさないために見張るつもりのようでテーブルに残っている。
ノクトはそれを確認すると、後ろのシエスタに振り返った。
すると彼女は、どういうわけかぶるぶる震えながら、ノクトを見つめていた。
「あ、あなた殺されちゃう····················ッ!!」
「?」
「貴族を本気で怒らせたら······························ッ!!」
そう言うとシエスタは、走って逃げて行ってしまった。
ノクトがきょとんとして彼女の後ろ姿を見ていると、そんな彼に先に食堂についていたルイズが駆け寄ってくる。
「あんた! 何してたのよ! 見てたわよ!」
「ああルイズ。悪いな、待ち合わせしてたのに」
「悪いなじゃないわよ!! って、そんなことよりもあんた何勝手に決闘なんか約束してんのよ!」
「つってもなぁ~、もう決まっちまったし」
この期に及んでまだそんな態度でいるノクトにルイズは腹をたてる。
ルイズは一瞬そんなノクトに言葉に詰まる、しかし気を取り直し強い調子でノクトを見つめた。
「あんたの気持もわかるわ、でも聞いて。あれでもギーシュはメイジなの。あんたは平民なんだからメイジに勝てないの!」
「····························」
「あのね? 絶対に勝てないし怪我するわ。いや、怪我ですんだら運がいいわよ! 早く謝ってきなさい! 今なら許してくれるかもしれないわ!!」
「謝る必要ねぇし、なにも間違ったことを言ってねぇのに。それに先に因縁をつけてきたのはあいつだろ?」
「なんでそんな意地張るのよ! これは命令よ!! 痛い目見る前に謝ってきなさいッ!!」
「···························心配すんなよルイズ」
「え?」
彼はルイズの横を通り過ぎ、振り向かずになにも感じさせない底冷えするような声でこう言った。
「
「!?」
ビクッと、ルイズは震えた。
青年の声が耳に届いた時、一瞬感じたことのないものを感じ取った。少なくとも、ノクトから今まで感じ取ったことのないもの。おそらく、ノクトは特になんも意識していない。無意識の中で、彼はそのセリフの中に一つの感情を込めたのだ。
ルイズはそのままなにも言わず、ただその場に佇んでしまっている。
「ヴェスなんちゃら広場ってのはどこだ? さっさと案内してくれ」
「こっちだ、平民」
ルイズを無視してノクトは歩き出し、ギーシュの友人の一人が顎をしゃくった。
「·····································································ッ!!」
ルイズは止めることだって出来たはずだ。
すぐに走れば追いつけるし、使い魔の代わりに主人である自分が謝れば済むことだった。
だが出来ない。
出来ないのだ。
ルイズの意思とかではなく、ルイズの生存本能がそうさせていたのだ。
少なくとも彼女は感じてしまったのだ、
「················································································」
ノクトの表情は変わらない。
むしろ、この時を待っていたという顔をしている。
ようやく、驕り高ぶった低級貴族どもに思い知らせるチャンスがやってきた。そう思うと、何だか楽しくなってきた。ダメだとわかっているのに、弾けるような解放感を抑えれれなかった。今、自分がどんな顔しているのか、ノクト自身には想像つかない。
ともあれ、これだけは自覚していた。
まだノクトらしさはあるものの、その中にある『王』としての器。
それをあいつらに見せつけようとするように、彼は純粋に笑って歩いて行く。
一切の同情も、哀れみもない。
ただ自然と笑みをこぼしていた。
散々自分をコケにした愚かものを地の底へと打ちのめすべく、かつて『真の王』と呼ばれた男が決闘の場へと歩いて行く。