□■冶金都市グロークス・地上
雨は降り続いていた。空から続く無数の直線をかき分けて、キュビットが走る。だが、その足取りは困惑と驚愕に揺れていた。その理由は一つ。
「クソ、なんで逆さまなんだ!」
重力が逆転しているからである。
ユーリイの雨、アイテールの権能は既に都市全域を覆っている。その影響を無防備に食らった彼らは、あっという間に重力を奪われ……そして、マイナス域に突入した。
現在、散り散りのキュビットたちは皆一様に……空に向かって落ちようとしていた。足元には果てしなく抜ける天空……改め、奈落が見える。キュビットはアパルトマンの壁を這う配管の隅を爪先で踏み、外壁をどうにか走り抜けた。後ろでは壁から剥がれた配管が重力に従い、
そう、彼が走っているのは逆さまの街。屋根は足元に、頭の上には大地がそびえ、そして眼下には曇天が待ち構えている。
完全にしてやられた。はじめは身体を浮遊させる程度だった重力は、いまや逆転した重さとして完成されている。無数の家並みはまるで切り立つ断崖絶壁のようだった。壁に張り付きながらキュビットは舌打ちをする。足を滑らせれば、空へとまっさかさまだ。なにより火急のことは……
「逃げんな、コラァ!」
後ろから吶喊してくるジンジャーだった。
「ちょろちょろ、逃げやがッて、往生際の、悪い!」
傘を差したジンジャーが吠え、そして増殖する枝が街を破壊しながら進軍する……
(なぜ傘を?!)
キュビットが首をかしげ、そしてあたりを見回す。
飛び移れそうな足場は少ない。他人の家に入り込むのは出来れば避けたかったが……背に腹はかえられないだろう。
「クソ……不法侵入だ!」
キュビットは窓を蹴破った。いいこともある、もう反作用でいちいち浮遊することはない……代わりに曲芸じみた立ち回りを強いられているが。
かつては天井だったところに土足で踏み込む。薄紅色に塗られた部屋の真ん中で、小さな子供が目をぱちくりさせていた。
「おにーちゃん、どうして天井を歩いてるの?」
「あー……気にしないでくれ、すぐに出ていくから!君も逃げたほうがいいぞ」
キュビットが天井を走る。この状態だとドアノブが低すぎて……つまり、高すぎて開くのに難儀するのだ、などと下らない知見を得ながら、部屋を三つ通り抜け、ガラス窓をこじ開ける。バルコニーの手すりに雲梯のようにぶら下がり、キュビットは大通りへと直面した。屋根はない。まるで大河のようだ。どうやって渡ればいいか想像もつかない。
「体勢を立て直したいんだが……これ、合流出来るのか?」
呟きつつ、身体を揺らす。目の端に映ったバザールの日避け布に向かって跳躍する。キュビットはバタバタとはためく厚手の布を踏みつけて無様に走った。逆転していない布の感触はえもいわれぬ奇妙さだ。そして、その背後で裏路地が爆発する。
「みーつっけたァァァァァ……リンズ!」
『《ブランチストライク》』
巨大な枝の一撃が大雑把な狙いでキュビットを吹き飛ばす。だが、
「ギリギリ、セーフ!」
その手が鉄柵を掴む。凡そ四、五階建ての集合住宅だ。露出した階層構造は、ひっくり返ってなお健在だった。キュビットが階段の裏を失踪し、踊り場を飛び越え、棟から棟へと飛び移る。
「……一般人が巻き込まれてないことを祈るぞ」
半ばやけくそで言う。まぁ、ここは地球ではない。平均的なティアンなら十分超常の力を備えている。ある程度の災害ならいなせるだろう。問題は、
「……チェストォ!」
後ろから建物を飛び越えて現れた女だ。
右腕は消し飛んでいるが、その左手には未だ焔の爪がある。雨粒が蒸気へと変じ、シュウシュウと音を上げていた。
《タイガー・スクラッチ》とヘスティアのコンボの危険さがそれだ。一発では終わらない……ある程度の持続性がある。一人では勝てない。そして集団戦は壊された。
「いつ終わるんだ、あの焔は!」
キュビットが毒づき……そしてその眼前に壁が出現する。君臨する
「こな、くそ!」
キュビットが飛ぶ。残された道は一つ、城塞を乗り越える道。だが、逆転世界にあってはその壁の高さは……致命的。
「……うぉ、おお!」
城壁の端を掴み、身体を支える。跳躍の衝撃を殺しきって尚、姿勢は不安定だ。
下は見ないことにした。奈落へと垂れ下がる脚を叱咤し、爪先を持ち上げる。身体を向こう側へ移せれば、どうにかなるだろうか。
まるで断崖絶壁。絶体絶命の彼の後ろで、致命的な声が響く。
「……大変そうね?楽にしてあげる」
水の沸く音。木の這いずる音。そして、熱。
「《
「キュビットどの、掴まれ!」
焔が炸裂し、雨が蒸発し……そして誰かがキュビットの腕を引き寄せた。城壁が無敵の盾としてジンジャーを阻む。女の怒号が雨にぼやけていく。
「五体満足であるな?走るぞ、あの屋根を伝っていくのだ」
「あァ、ありがとう……Ⅳ世」
キュビットはそこにいた人物ーーⅣ世に感謝の声をあげた。
城塞の強度は折り紙つきだ。奇しくもそれは今回、キュビットに味方した。壁の裏側、少しだけ凹凸に富んだそこをありがたく上り、城壁のへりの裏を走る。そのままⅣ世とキュビットは民家の屋根の裏面に足をかけた。
「Ⅳ世、また会えて良かったよ」
「あぁ、だが状況は良くはない。あそこにいた面々の殆どは……」
老騎士が下を指差す。おりしもそのとき、誰かが足を踏み外して落ちていくのが見えた。
「空へ落ちてはどうしようもないのである。恐らくは人を浮かせるワールドであろうが……広い。抜けられるとは思えんな」
「同感だ」
キュビットがため息をつく。次の瞬間、彼の左足が屋根の端を踏み抜いた。
「……うォ!」
「ッ!大丈夫か!」
冷や汗がほほを伝う。木屑と漆喰のかけらが正しい重力に従って、
「まともに動き回ることすら至難だ……幸い、彼奴らはまいたようであるが」
老騎士が嘆息する。と、その顔が歪む。
「どうした、Ⅳ世」
「いや……あれは何であると思う?」
Ⅳ世が指差した先。路面を逆さまに(つまり、通常の重力に従って)歩くそれは、輪郭だけは人の形をしていた。この状況、もはや呑気な通行人などいないがゆえに、間違えようなどないが。
顔には目鼻立ちの造形などなく、ただ申し訳程度の凹凸を見せるのみ。金属色の表面は鈍く磨かれ、細身の体躯には鋲が打ってある。そう、
「……
キュビットとⅣ世が身体を固くする。人形のほうでも二人を見つけたのか、鈍色の両手を上げる。そして、その前腕に仕込まれた鎌がギラリと舌なめずりをした。
◇◆
■【
「あはは、面白いのね」
ファティマがベッドの上で足を遊ばせながら笑う。その傍らで、エリコのメイデン体を模した
「でも、逆さまになってるほうの目で見るほうが楽しかったかも」
『……【降水王】に連絡を取りますか?』
「ううん、いいわよ、難しいだろうし」
ファティマが楽しげに言う。その右瞳には、美しい青い光が宿っていた。
それはエリコの権能が一つ、《リモート・アイ》。城塞内部に遠隔視覚を繋ぐだけのささやかな能力だが、戦術上の有用性は高い。これが有る限り、ファティマは部屋にいながらにしてエリコ内部の全てを監視できる。
そう、ここは未だ地下の深く、ファティマの居室だった。何層もの装甲や隔壁、岩盤に隔てられてなお、彼女は地上を監視できる。人形を操れる。
そう、人形の操作をも、だ。
「あ、一体やられちゃったわ。強い人がいるのね」
ファティマが悲しそうに呟く。その指が
「囲んでやっつけなさい」
人形を操作する。
それは【
通常の【傀儡師】系統であれば不可能だった。どう頑張っても操作射程距離の範囲外。それを埋めるのは、エリコの能力……副作用。
「あら、ジャムが不機嫌だわ」
ファティマは左目を壁際に向け、エリコの方に指を向けて言った。
「ご飯が足りないのよ。エリコ、言ったじゃない、ジャムはジャムが好きだって」
『申し訳ありません』
傍らのローテーブルから瓶を取り上げ、エリコが立ち上がる。その足が壁の前で止まり、そこにあった虫籠のようなケージにジャムの瓶を差し込んだ。その指がふと、軋む。
『……貴様ごときが、よくもファティマの寵愛を……』
『Grrrrraa!』
壁際のケージの中で、ジャムライカがジャムの瓶を嘗め、満足そうに喉を鳴らす。鱗の生えた四つ足がパチパチとケージを叩いた。
『貴様さえいなければ……』
「……?エリコ、何か言った?」
『いえ、なにも』
エリコが再び椅子へと腰かける。この分体にはエリコ本体の意識を乗せている。ゆえに、エリコはその意志でジャムライカを睨み付けた。
ジャムライカがここにいることにも、無論明確な理由がある。【教授】ウーは理由のない行動は起こさない。
「にしても、こんなに大きくなると大変ね。もう少し小さくても良かったかもしれないわ」
それは、エリコのことだ。ファティマが寝返りをうち、ふと上半身を起こす。エリコは心得た手付きで、柑橘の香りをつけた水をピッチャーから注ぎ、よく冷えたコップを差し出した。
「お人形も大きく出来たら良かったのに」
『そうですね。第七形態への進化の際は、そのように取り計らえるよう努力いたします』
エリコが静かに言う。ファティマは水を飲み干し、ほっと息をついた。
◆
■【城塞乙女 エリコ】
その<エンブリオ>は、TYPE:メイデンwithラビリンス。城塞の姿を持つ乙女。そして能力特性もまた、城塞そのものだ。
堅固なる城塞。その存在こそ、エリコの特殊能力である。剣も魔術も、何であろうとその壁を破ることは出来ない。それはメイデンとして彼女が卓越した部分だからだ。他の同類と比較して些か受動的ではあるが、これもまた一つの
破壊不可能という論理。しかし、その絶対性を支えるために、エリコは多大なるデメリットを背負うこととなった。
それは、コスト。最大効率を誇る《
だが、その理屈は逆に……十分なMPさえ費やせれば大きさは天井知らず、という特性も孕んでいたのだ。それを可能にしたのは、ウーの能力。
【劣級貯蓄 ストアリカ】である。
ストアリカはウォーキッカとほぼ同時、二番目に創造された初期ロットの<劣級>。当然というべきか、その能力特性は際立ってシンプルだ。
そして、ファティマがストアリカを孵化させたのは凡そ一年前。余剰魔力は全て結晶に変換されてきた。ゆえに、溜め込んだ魔力もまた一年分。上級魔法職の一年分である。
それを全て捧げたのだ。エリコの膨張度合いも当然というものだろう。
《不滅の壁》は捧げたMPに比例して大きさと持続時間を変える。計画に支障はない。積み重ねた時間こそが、パワーに直結してくれる。
(ですが、対抗手段がないわけではない。敵の中に気づいたものがいないようなのは僥倖でしたね)
エリコは自らも香りつきの水を飲み、思考に耽った。
エリコの城が破壊不可能なのは、物質ではないからだ。体積と実体こそ備えているが、本質的には捧げたMPの塊……魔力で構成されている。たとえば【呪術師】のような、【吸魔】の状態異常であれば端から崩されてしまう。
そう、魔力だ。変質した魔力の塊は、もう一つの性質を偶然併せ持った。
それはーー
◇◆◇
□【高位従魔師】
『射程距離の延長だ』
フードを深く被ったMoooは息を切らしながら紙片を掲げた。
『この城の能力。魔法、或いはMPを使用するものなら全てが対象だろうな』
「急に、なんですか、今、そんな、場合じゃ……!」
ユーフィーミアが息も絶え絶えに文句をいう。彼ら二人は、【グロークス市立図書館】と銘打たれた門柱のそば、鉄の柵に掴まって必死に移動していた。既に十メートルは進んだだろうか。
例えるなら、奈落の上で綱渡りをするようなものだ。路面から
「ぁあ、落ちるッ……!ほんと、こんなとこで、文字を、書くなんて、器用、ですねッ!」
全身を使って鉄柵にしがみつく。腕には疲労の感覚がのしかかり、状態異常の表示すら垣間見える。必死に、しかも上下逆さで鉄柵を横に這う彼らは、通常の人間から見れば大層間抜けに映るだろう。生憎、退っ引きならないのは事実なのだが。
非常事態で通行人がいないか、いても辺りを見回す余裕すらないのは僥倖だった。こんな屈辱、ユーフィーミアには耐えられない。
『これは根拠のある考察だ。先の交戦で俺は魔法職の攻撃を観察していた。たとえ流れ弾でも明らかに消えるのが遅い』
Moooが紙切れをひらひら揺らす。
『実演しよう。見ていろ』
紙切れが落ちる。それをMoooは魔力式の銃器で撃ち抜いた。緑色の光が尾を引いて飛び、飛び、飛び……
『これは最下級の銃だ。本来至近距離でしか撃てないものだが、いまやあそこまで届く。幸運なのは、この特性が無差別に発動していることだが』
「そんなこと、良いから、助けて……!」
ユーフィーミアが苦しげに喘ぐ。Moooは渋々片腕を貸し、彼女を引っ張りあげた。
『あそこに人工林の庭園がある。枝に座れば少しはましだろう』
「んじゃ、そこに、向かい、ましょう、早く!」
ユーフィーミアが死にそうな声で叫ぶ。Moooは枝に手をのばし、頭上から樹冠を足元へ広げる木々にしがみついた。ユーフィーミアもそれに続く。
「助かったァ……!」
幹に背を預ける彼女を眺め、Moooもまた痺れを振り払うように両手を動かした。
『さっきの話だが』
「……射程距離延長、ですか?」
『あぁ』
Moooがさらさらと文字を書き付ける。
『普通、魔法には限界射程がある。永遠には飛ばせないし、遠隔地への干渉にも限度があるんだ。だが、この城はそれを……仲介し、延長しているようだ』
彼らの推測は正しい。唯一間違っているのは、厳密にはこれはエリコの能力ではない、という一点だ。
エリコは魔力を変質、固形化させ、自らのラビリンス体を実体化させている。そして、固められた魔力の塊は、同じく魔力から構築される魔法を……さざ波のように伝えていた。
変質した巨大なMPの塊が媒介となり、魔術の射程距離を伸ばしているのだ。それは副次的な作用であり、エリコの制御下にはない特質だったが、とはいえファティマとエリコはこれを都合良く利用していた。
メモ用紙は二枚目に突入する。Moooは忙しなくペンを動かしながら続けた。
『通信妨害も恐らくは他者の能力だな。お得意の<劣級>か。出力はそのまま、都市クラスの能力へと昇華されている。だが、これは無差別だ。俺たちの術も(MPを使用するものなら)この城の内部では際限なく拡大できる。問題は……』
「活かしかたがない、ってことですね」
ユーフィーミアが悲しげに呟く。
「あたしたちの能力とは噛み合わない……いまのところ、相手の有利だけ。せめて【カフス】が生きてれば違ったでしょうけど」
無差別の能力が必ずしも双方に利するとは限らない。エリコの特性で利を得るのは、都市全域に通信妨害をばらまいているジャムライカのような存在だ。ユーフィーミアやMoooにそれはない。広域に散布したいものはない。
「サトリも……たぶんダメですね。接触は射程じゃなくて発動条件、かつ識別マーカーだから……」
ユーフィーミアが左手を撫でる。
『さて、行くぞ』
Moooが身体を起こす。ユーフィーミアは疲れ顔で口を開いた。
「……ずっと気になってたんですけど、あたしたちどこに向かってるんですか?」
『言っていなかったか』
首をかしげるMoooに、ユーフィーミアは頬を膨らませた。
「聞いてません」
『すまない。自明だと思っていた』
紙の上をペンが走る。持ち上げられた紙片が風に揺れる。
『爆破された市庁舎。その跡地だ。恐らくそこからもう一度、地下に入れる』
◇◆◇
□【司令官】ビビッド・キュビット
「勝てそうか……!?」
「無理だ!」
キュビットとⅣ世が跳躍する。その後ろ……逆さまの路面を、鈍色の人形が行軍していた。
数は七。歩は遅いものの着実に彼らを狙い、そして間合いに入った途端、鋭い鎌が襲いかかるのだ。犠牲になるのは二人だけではない。既に何人か、一般の市民すらその鎌に屠られ……消えることなく死体を路上に残していた。
「この足場では……」
老騎士がぼやく。彼らが走っているのは、煉瓦を積み重ねたような四角い街だ。取っ掛かりは決して多くない。逆転した重力の世界で、踏みしめられるのは空へと垂れ下がる町並みの、ほんの一部。曇天が足元から彼らの焦りを照らし出す。
「あそこ、屋根の装飾!」
キュビットが叫び、Ⅳ世が下へと飛び降りる。曲線を描いて、三階の出窓の石飾りの縁へ二人の足が着地した。白い石が摩擦音を吐く。
「ここは彼らにとっては高所、暫くは時間を稼げるであろう」
Ⅳ世が息をつく。窓枠を握りしめ、二人は頭上から自分達を見上げる人形を見上げた。ブリキの扁平な顔面がありもしない目で視線を送る。
「足は遅いが、硬い。手間取れば囲まれて落ちる」
Ⅳ世が斧を撫でる。その目は、さらに遠くにも人形がいることを見定めていた。
「こういう手合いは本体を叩くのが定石だが……」
「【傀儡師】は見つからない。相手だってバカじゃない、俺たちの
人形使いのメリット。それは戦闘行為の代行と、その複製にある。とはいえ、普通なら射程の限界があるのだが……それを埋める能力だ、ということくらいは容易に想像がつく。現状を見ればそれくらいは解る。
そして、ロングレンジの住人が敵前に出てくるはずもない。
「そもそも、この逆さまの能力もだ。どうやってこんな広範囲に……」
キュビットが頭を下げ、そして仕切り直すように首を上げた。
「なんにせよ、目的地は決まってるけれどね」
「市庁舎跡だな」
Ⅳ世が頷く。
「敵は強い。すべてを相手にしてはおれん、大将を落として素早くけりをつける……終わらせるためにな」
その目が決意に燃える。静かに、微かに、そして、確実に。
「必須なのは、市民の安全と再合流。モハヴェドは無事であろうか……」
路上の死体に目をやり、そして職務に忠実な軍人を思って、Ⅳ世がため息をついた。彼はティアンだ。死ねば……それで終わり。この都市に抱く思いの重みも違う。
「……Ⅳ世」
ふと、キュビットが顔を強ばらせた。その手元でヤマビコが淡く光る。
「何か……」
老騎士は尋ねようとして、気づいた。雨の音に混じって、鈍く震える音がする。大地を叩く音がする。
「……これは」
「お、おい、誰かァ!」
頭上。叫び声と共に、一人の男が路地からまろびでる。彼は街角を握りしめ、空へと落ちる身体を必死に繋ぎ止めた。<マスター>だ。
「誰か……助けてくれ!後ろから……」
言葉は半ばで無為に消えた。その顔が苦悶に歪み……粟立って膨らむ。不気味な白色へと皮膚が染まる。そして、力を失った肉体が手を離す。光の塵の塊がゆっくりと、空へと尾を引いて落ちていった。その背後で、蒸気が渦を巻く。
「……蒸し焼き?」
「《
路地を焔がなめる。降り注ぐ雨が高温の蒸気へと変じ、街角を炙った。
「腕一本の借り……逃がすわけないでしょ?」
その言葉と共に、紅の女が路地を歩く。薄暗い道を炎が照らす。その目が逆さまにしがみつく二人を見上げた。
「いいざまね」
「壁を乗り越えたか……!」
ジンジャーには大樹の竜がついている。城塞を踏み越えることは決して不可能ではない。そして、追われるに足る因縁は十分にある。
「この逆転もお前の仕業か?ジンジャー!」
キュビットがわめく。女は氷のような視線でそれに答えた。左手で握った傘が揺れる。
「違うけど。……除外されてるとはいえ、先手を取られるのも嫌だし」
「ならば、どきたまえ」
Ⅳ世が重々しく告げる。
「我らには用がある。その道を阻むなら……」
「それは、こっちも同じよ!」
言うが早いか、ジンジャーは傘を投げ捨てた。その柄を枝が掴み、自由になった左手が炎を帯びる。
「……だが、炎の爪は消えたな!」
ヘスティアの必殺とて永遠ではない。使いまわしが利くとはいえ、効果時間は既に終了していた。傷もある。ゆえに、
「クロスレンジは許さない」
ジンジャーの左手が蠢く。指の一本一本に、炎の弾丸が灯る。
「《
五連装の炎が風を割いた。キュビットたちが飛び上がり、躱しきれずに呻く。二人は砂まみれの壁に、まるで断崖を歩く山羊のようにしがみついた。少しでも上へと登攀し、死角を目指す。
「くっ……!」
炎の弾丸がその身に食らいつく。持ち合わせた威力は僅少。だが、消えない火だ。雨が蒸発し、蒸気が二人の肢体を少しずつ灼く。
「遠距離偏重タイプへのシフト……そんな戦い方も出来るとはな!」
「そうよ?近づこうにも、こうすれば無理よね?」
そう言って、ジンジャーは通りの中央へと飛び出した。ざわめく枝がそれに続く。周辺に掴める出っ張りはない。
「それとも、地面にでもぶら下がってみる?無理だと思うけど」
ジンジャーがせせら笑い、炎は舞い踊る。水蒸気が皮を、肉を、熱で殺していく。遠間の戦法に隙はない。当たらずに当て続ける、それだけのこと。単純な計算式で、二人は蒸し焼きになる。あるいは、耐えかねて自ら遥か天空へと飛び降りるか。どちらでも構わない。
「あたしとしては、這いつくばってほしいけどね?……こんなふうに」
ジンジャーの爪先がからかうように、そばの路上の死体を指す。
「選べばいいよ?好きな方をさァ!」
「では、選ばせて貰おう」
老騎士が呟く。その身体が獰猛な猫のようにしなり、たわむ。次の瞬間、全身鎧を鳴らして、Ⅳ世は跳躍した。
「……?」
ジンジャーは困惑する。目測に狂いはない。その距離を跳んだとしても、ジンジャーによくて精々掠れる程度。その後は墜落だ。
(けれど、ここで無意味な賭けをする人間じゃないわよね)
ジンジャーは慢心しない。彼女の右腕を消し飛ばした奴らだ。一歩、二歩、三歩下がって間合いを取る。相手の策を見極めるために。
空中。上下逆さの老騎士が手斧を構え、振りかぶる。その瞬間、ジンジャーは目を見開いた。
(《危険察知》!?この距離で、当てられると!?)
明らかに斧の間合いではない。<エンブリオ>のそれにも遠い。にも関わらず、ジンジャーの感知能力が警鐘を鳴らす。彼女の足がもう一歩、下がり……
「そう、その位置が良かったのさ」
刹那、ジンジャーの足元で起き上がった死体が、携えた銃で彼女の胸部を消し飛ばした。
◇◆
(ドラグリンズ……破損したか)
背後に携えていた杖は真っ二つに折れていた。能力の鍵が消えたことで召喚されていた大樹竜が断末魔すら上げられずに消える。
【爪拳士】は決して耐久戦士ではない。至近距離の直撃は、ジンジャーの胸を抉り、背中に大穴を開けていた。当然、足にも力が入らない。
痛みこそないが、ぬるりとした血の塊が喉を伝う感覚のおぞましさにジンジャーは顔をしかめた。ミンチになった上半身を、さっきまで死体だった男が見下ろす。
「……テロリスト、一人を射殺、だ」
「……お前は、憲兵の……」
モハヴェド・アルリン。銃身から煙を上げる武装を撫でながら、彼は忌々しげにため息をついた。
「……ティアンはこの浮遊能力の対象外だったようだな。お陰で、奇襲が成立した」
鋭い視線が路傍の死体たちを這う。モハヴェドの足はジンジャーと同じく、正しい重力を踏みしめていた。女が呻く。
「ハッタリ、かぁ……やられたなぁ」
「遺言は……それだけか?」
モハヴェドがそう呟き、そして心底うんざりしたように顔を歪める。ジンジャーがせせら笑うように小さく首を振った。
「そうだな」
焼けついた銃をひっくり返す。振り抜かれた銃床が女の頭蓋骨をへし折り、【爪拳士】は光に崩れて消えた。
モハヴェドが振り返る。
「よく察してくれたな」
「できれば、儂の現状も察してほしいのである」
両手で街灯にぶら下がりながらⅣ世が言った。その後ろでキュビットも建物を地面に向かって上る。
二人が気づけたのは偶然だ。死体に扮して待ち伏せなど、奇策にも程がある。ジンジャーの隙をついたのはいいが、あくまで結果論だ。
「それに、人形を忘れているぞ」
「あぁ」
ゾンビのように迫り来る人形を前に、モハヴェドが使い物にならない銃を投げ捨て、予備武装のナイフを構える。小さな刃を侮るように見つめ、モハヴェドは身体を弛緩させた。
「もちろん……手伝ってくれるのだよな?」
◆◆◆
■【芸術家】モーリシャス藤堂
ジンジャーが死んだ。その事実に、藤堂は驚いたように眉をひそめた。実際のところ、完全に意外ではなかったが。
傷もある。油断もある。倒される可能性は十分にあった。
「気を付けなきゃあいけねえな、俺だって立場は同じだからよ……」
今やまっさらに戻っている、
「ま、今のところ問題はないしな」
「……!」
その右前方。Moooが銃を構え、発砲する。それを藤堂は腰すら浮かさず、バカにしたように見た。
「ベタベタ野郎、お前、<エンブリオ>を破壊されてたな?サブ武器の銃撃戦じゃきついだろ」
アルマリカは鎧だ。生半可な銃弾では抜けない。そしてMoooは銃士としては片手落ちに過ぎない。
「んでもって、後ろの【審問官】は非戦闘員か。こりゃあ敗けの目はねェな」
その視線の先では、Moooとユーフィーミアが裏路地の石塀に掴まっている。足場の有利さは歴然、戦力としての差も歴然。
「既に二、三人仕留めた。お前らも同じだね」
「な、なめないでくださいよ?あなたなんか、このMoooさんが蜂の巣に変えちゃうんですからね!」
「……」
Moooの沈黙に違う色が混じった。市庁舎跡までは残り一〇〇メテルほど。藤堂を前に、その道のりは長すぎる。
「……認めよう」
藤堂は強い。いや、厄介か。<劣級>を得て、その戦力は明確に増している。
「……こちらも……手は抜かない……」
「まーだその選択肢があったことに驚きだよ、俺ァ」
藤堂はなにもしていない。アダムもアルマリカも動かしていない。それでも、二人の戦力では藤堂を排除できない。ゆえに、二人も藤堂を無視できない。
(それとも、何か隠し球があるのかね?だが、ソラリスは完全破壊済。サトリはそもそもティアン専門の筈だ、十中八九必殺もその流れ。そして本体……上級職の能力は俺に通じない)
「お前らさ、もうこっちについたら?」
藤堂は不意に、気の抜けた声で言った。
「あ、フード野郎はムカつくからなしだな……じゃ、ユーフィーミア、こっちにこいよ」
勝ち目なんてないだろ、と藤堂は続けた。
「それとも、心情的な義理でもあるってか?」
「……それは」
「愚問だな」
ユーフィーミアを遮ってMoooが続ける。
「……この街だけでも多くのティアンがいる。カルディナ全土ならそれこそ数えきれない」
ユーフィーミアが驚いたようにMoooを見つめた。
「人の数は、人生の数だ。無二の命の数だ、それをむざむざ踏みにじらせるなど、許せるものか!」
その言葉には信念があった。人道を貫くという信念が。ユーフィーミアが目をパチパチさせ、藤堂が立ち上がる。
「まぁ、お前は願い下げなんだけどな……《
粘土が海のように盛り上がり、溢れ出し、そして収束する。藤堂が翳した掌から、その身体を土の奔流が包み込む。そして、
「ーー《
アルマリカの黒鎧の上。傷を埋め、装甲は更に厚く。藤堂の鎧が、暴力的な迄に膨張した。棘、刃、もはや人を通り越して獣のごとき体躯が敵意にいきり立つ。
アダムの必殺は、変形の制限解除。それを<劣級エンブリオ>たる鎧の強化に費やしたなら、もたらされる戦力は更に倍増する。破壊と暴力の権化は、まさに『武装』。
「試運転だ。派手に散れや!」
その手は猛虎のそれに変じていた。黒光りする三本の爪は、おのおのの一本がまるで剣のように大きく、鋭い。そして、殺意に濡れている。
「……ッ!」
【高位従魔師】は【審問官】とともに飛び上がった。
「この短期間でそんなコンボを!?」
「お褒めの言葉ァ……」
右手がしなり、
「……どうも!」
灰色の石塀が粉砕された。
瓦礫が舞い散り、粉塵が絶叫する。細い路地の狭い空へと飛び降りた二人は、逆転自由落下の途中で高層階の
「……ここまで来れば」
「高みに逃げた、そう思ったか?」
そのすぐ横で、藤堂が笑う。空中、高度約一〇メートル。
「甘いんだよ!」
路地の壁に爪をかけ、黒い虎は天へと上っていた。その手首の位置、小さな銃口が炎を孕む。
「……!」
Moooが咄嗟に狙撃銃を掲げ、そしてアルマリカの炎ビームがその銃身を破壊する。砕け散った破片にユーフィーミアが顔をしかめ、そして藤堂が跳躍した。その爪が斬撃の花を咲かせる。
「カハッ……!」
血が飛び散る。鋭い刃の花束は、脆弱な【高位従魔師】の身体を容易く切り裂いていた。紅の花弁がフードを汚し、布地が細帯に変わる。虎が獰猛に吠えた。
「嬲り殺しだ……遊んでやるよ」
◇◆◇
■【降水王】ユーリイ・シュトラウス
ガスの雲は湿り気のせいか、重々しく路上を埋めていた。その中に墜落した二人を、【降水王】が覗き込む。
「……死にました?」
それはまだらしかった。当然だろう。エシの
「ならば十分」
そう呟いて空へと登るユーリイを、空の流星が呼び止める。
「シュトラウス……」
「ブラーさん。どうかしましたか?」
少年は首をかしげる。その傘を握る手が少しだけ、強くなる。
「怖い顔ですねぇ」
「あぁ、やっぱりそうだ」
空中で不気味なほどに静止したブラーが呟く。仮面の一つ眼が赤く輝く。
「【
「おっと……」
面倒なことになった、とばかりにユーリイが肩をすくめる。ブラーは熱水のように突沸した。
「超級職!お前、なんで【降水王】なんて肩書きがついてんだァ?おい!」
「前任の
「そういう話じゃないんだよ……!」
ブラーは叶うなら今すぐユーリイを噛み殺したいとでも言うように、その歯を打ちならした。
「お前、会ってからずーっと隠してたのか……え?おい、笑ってたのか?僕は上級止まりだってか?超級職ゲットしてウハウハだったわけか?さぞ楽しかっただろうなぁ!」
「こうなるから言いたくなかったんですよね……」
ユーリイが小さくぼやく。それを耳敏く聞き付けて、ブラーが絶叫した。
「今なんて言ったァ!」
「いや……」
ユーリイが息を吸い込む。彼は飛びっきりの笑顔でブラーに向かって言った。
「まぁ、ブラーさんも頑張ってればそのうち取れますよ……あれ、でも【盾巨人】って、超級職はあるんでしたっけ?」
「……殺す」
そして、アシュトレトが吠える。その前兆を見てとるより素早く、ユーリイは虚空を蹴り飛ばしていた。風が切り裂かれ、世界が揺れる。
「やめましょうよ~こういうの。時間の無駄じゃないですか」
「うるさいぞ、シュトラウス!腕の一本くらい取れりゃいいんだ!」
「あなたの突撃食らって腕一本で済むと思えないんですよね」
さっきの逆、上方に立っているユーリイが悲しげにぼやく。
「あなたたちは<劣級>が欲しいんでしょう?大人しく友好を保つことをおすすめしますよ」
その言葉に、ブラーが心底忌々しげにマントを翻す。
「……主導権を握ってるつもりか?」
「つもり、じゃあない。事実です」
ユーリイが空から飛び降りる。濡れた砂まみれの屋上に、その足がつく。
「今度こそは、引っ掻き回されるわけにはいかない……あなたの直情径行にね」
「いちいち上からなんだよ、お前は。僕より強いつもりでいるのか?」
その軽薄な傲慢さを、しかしユーリイは咎めなかった。むしろ感嘆するように、憧憬するように、ただ沈黙する。そして、
「……おや、これはこれは」
「……詰めが甘かったな」
目下。会話に花を咲かせる二人を遮るように、ガスの黒々とした煙から肉厚の鉈が飛び出した。
「
ユーリイがそれを躱し、そして傘を構える。石突が硬質の銃撃音を吐く。
「《ヒート・ガトリング》」
赤熱した銃弾の雨が煙を貫く。だが、
「《
屹立する分厚い塩の壁が、その勢いを削り取った。煙が晴れ、雨が飛沫をあげる。
ユーリイが路面を見下ろす。そこではグリゴリオとシマが、黒煙を気にかける様子もなく、ただ身体を半身にして油断なく構えていた。
「……【石化】対策を持っていましたか。運がいい」
エシの【石化】ガスはそこまで強力ではない。十分なENDと然るべき薬でもあれば対抗が可能だ。
「けれど、僕に攻撃を仕掛けたのは悪手ですね」
そのアドバンテージを捨ててまで、得られたものは何もない。この状況、敗北をほんの少し先延ばしにするだけだ。
雨も未だ降り続いている。《上昇方程式》を作動させ、蹴り飛ばせばけりがつく。ユーリイが踏み込み……
「……そんなことだろうと思いましたよ」
即座に反転した。風を切ったその腕が振るわれ、背後に隠れていた
「……化け物が!なぜ!」
「動きがワンパターンだからです」
ユーリイが訓示を垂れる。
「自分の隙は弁えています。目の前の粗雑なチャンスに容易く乗せられるからこういうことになる……稚拙な二段構えなど、あまりにも、ぬるい!」
その手がカークの喉を離し、そして即座に左腕を握りしめる。裏切りの代価を払わせるために。
「【劣級成長 グローリカ】回収します」
その指が勝ち誇るように肉を抉り、カークが絶叫する。枝の狙撃銃がごとりと音を立てて落ちる。
「や、やめろ!俺の……!」
「あなたの?それは見解の相違ですね」
<劣級>。それは、かの偉大なるカリスマの力。恐るべきエキドナの落胤がひとつ。
「そう、これこそがオーナーの偉大さの証……あなたごときが所有できるものでは、ない!」
ユーリイの言葉もまた、熱を帯びる。その手が力を増し、笑みが獰猛さを深めーー
「……!」
ーー鮮血が飛び散った。
カークの血ではない。屋上の地面を汚すそれは、ユーリイの血だ。
ユーリイが即座に仰け反り、身体を逃がす。空中で横たわった両足が、虚空を蹴って離脱する。それを追うように閃いた刃が、獲物を取り逃がした悔悟に光る。
片手を費やしてまで傘を差した襲撃者が、不快そうに呟く。
「浅いか。三段構えでもダメとはね」
「なぜ……!」
最小限に躱したはずのユーリイが、しかし動揺を露にして言う。
「なぜ?」
「なぜ、生きているのですか……!」
その問いに、【影】
To be continued