第一話 The C:囚われ人
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白い岩の砕かれた欠片は、一つ一つが人の背を越すほどだった。ざらついた表面には嵐に運ばれてきた砂が溜まり、風を凌ぐ僅かな草木が渇いた葉を伸ばしていた。
そして、一匹の大猿が岩を上った。
その油断のない目が夜を見透かすように動き、そして二度、甲高く叫ぶ。
堰を切ったように溢れ出したのは、獣たちの群れだった。ただし、どこかおかしな群れだ。
猿、狼、鳥、虫。大小を問わず、種々雑多のけものたちが足並みを合わせて歩いている。その群れはやがて岩場の中央、窪みのようになった所に至ると、その足を止めた。黒い影たちが水のように陰に溜まる。幾重にも輪を描く獣たちはまるで池に石を落とした波紋のようであった。
土気色の猿は一段高くなったところに腰を据え、じっと群れを見つめた。その口が開く。
『……ずいぶん、減った』
響いたのは、深みのある低い声だった。淀みなく滑らかな、紛れもない人の言葉だ。
『サビアハ』
猿が呟く。小さな音を立てて黄金虫が飛び、猿の膝に止まった。
『ガラシュリ』
虫もまた、黄金虫の軋むような鳴き声ではなく、穏やかな女の声で言葉を紡ぐ。その言葉は猿のガラシュリだけではなく、辺りを囲む獣たちの、知性を湛えた瞳すべてに向けられていた。
『……逃げ延びたのは二百十余。うち、五十が死に、五十が……“
獣たちが黒い夜空を仰ぐ。微かな笛のように弔う獣の叫びが風を満たした。
『……【
虫のサビアハが言う。獣たちは体を揺らして囁いた。
『決して赦されぬ……』
『決して赦されぬ……』
『決して赦されぬ……』
一頭の大猫などは、がちがちと牙を打ち鳴らして見せた。怒りと屈辱が大気を張り詰めさせる。
『取り戻さねば!』
『されど、“掟”を破ってはならぬ』
一頭の亀が歩み出る。歯の無い嘴から、亀が老婆の声で断じた。
『見られず、悟られず、潜まねばならぬ。数多の父祖が護り伝えた戒めじゃ』
その言葉を敬うように、獣たちは一斉に頭を下げた。大猿もまた首を落とし、そして言う。
『妙案がございます』
『何か』
亀が唸る。生臭い水の匂いが漂った。
『如何にして王を救えるのか』
『我等は滅びの道を歩んできたが、それは偏にあの“
ガラシュリは言った。
『我等もまたあの恐るべき力を使うなら、王を救えるでしょう』
獣たちはどよめいた。毛が、羽が逆立ち、さざ波のように囁きが走る。
大亀も咎めるように口を開いた。
『賢明なるガラシュリよ、それは掟に触れはせんかえ?』
『堅牢なるムバライよ』
大猿はゆっくりと頭を下げた。
『人界へ伝手を持つのは危うきこと。氏族が姿を晒すのは確かに赦されますまい。ですから、あの裏切り者を使えばよい』
『卑しきヘシリンシか』
亀のムバライ老は噛み締めるように言った。
『果たして使えるものか?』
『戒律の外にいるものが幾ら掟を破ろうと構いますまい。既に奴に守るべきものは何もない。喜んでその身を捧げるでしょう。むろん、奴とは私が話します』
再び獣たちが揺れた。牙や嘴が口々に言う。
『ガラシュリ、よい』
『ガラシュリ、偉大』
『ガラシュリ、強い』
『おお、賢明なるガラシュリは優しいぞ!』
ムバライ老は涙を流していた。
『ガラシュリよ!自ら穢れへの橋となるか!その気高き行いは必ず汝を禊ぐであろう!』
『身に余る言葉に感謝を』
ガラシュリがみたび叩頭し、ムバライ老は言った。
『では、すべてガラシュリに任せる。必ずや王を……』
『この身を捧ぐ心です』
ガラシュリはそう言うと、月の無い夜を仰いだ。戒めを想い、再び石のように静まった獣たちの他に、音を立てるものはもう無かった。
◇◆
□■同刻・“監獄都市”ペルヌ
「面白い囚人が入ったよ、シェメシ」
黒い円柱のごとき見た目の男が呟いた。頭には円形の笠、そこからすっぽりとヴェールのような布を垂らし、その手には大きな硝子板のような道具が握られている。その表面では光の文字が延々と蠢いていた。
「あくまで風の噂だけれどね、その中にも真実はあるものだよ。もし本当なら……」
「赦されざる大罪だな、ヤレアハ」
隣でそう言うのは、ひとりの女だった。
浅黒い肌は黒檀のように美しく、褐色の髪は複雑に編まれている。身に纏うのはほんの少しの麻布と、全身に刻まれた荒々しく猛々しい純白の刺青のみ。殆どすべての裸身を晒してなお、その態度には気品と誇りがあった。
「冶金都市での騒動は、凡そ数週間前……ずいぶん手間取ったものだ」
「中央の最重要区画に入れてあるそうだ。検分するかい?」
「勿論、速やかに……この用事が済んだらな」
その柳のような指がしなる。厚い石壁、暗い廊下の全てを通り抜け、距離も視線も飛び越えて、いと高き権能が姿を顕す。
「《
そして、そこから遠く離れた場所、黒い通路を外壁に向かって忍び足で駆けていた三人の男たちが突如……倒れ伏した。あまりの勢いに潰れたカエルのような呻き声が上がる。
「ちくしょお、見つかってたか……」
「てめえがもたついてたせいだぞ、コラァ!」
「うるせぇ、お前がこの道選んだのが悪いんだ!」
もがき、わめき、無様に這いつくばって罵りあう彼らを映像越しに見つめ、シェメシと呼ばれた女は立ち上がった。耳飾りが揺れる。
「【
『了解しました、閣下!』
通信の返答をよそにシェメシは黙って扉を開け、ヤレアハがその後に続く。戸口からは冷たい夜の空気が入り込み、星空が頭上に君臨していた。
「房の現状使用率は?」
「おおよそ八割。この先
二人が立っているのは、金属製の通路だった。硬質な足音が夜に溶けていく。鉄柵と金網が周囲を固め、その向こうには砂漠を裂く奈落の壁がある。
砂礫の荒野に空いた裂け目、その内部には、大地に隠れるように楕円形の巨大建造物がそびえている。地下方向の高さに君臨する都市、とでもいうべきか。
黒い金属製の外壁が夜を映し、無数の通路がそのおもてをはい回っている。都市ひとつが、砂漠に埋もれているのだ。
そんな通路のひとつ、最上層の連絡路を、二人は堂々と歩いていた。
「外層は既に溢れている。次からは中央にな」
「あぁ、わかっているとも」
首肯するヤレアハの、ヴェールの中のその瞳が剣呑な気配を孕む。
「やはり、虫が彷徨いているようだね」
「始末してくれるのだろう、ヤレアハ、我が弟よ?」
「姉君よ、シェメシよ、このわたしが期待を裏切ったことがあったかい?」
ヤレアハが笑う。その分厚い手袋に覆われた掌が、金属と樹脂の
「任せておきたまえ」
恐れるものなど無い。二人こそ、此の地の君臨者。
ここはカルディナ大砂漠に佇む、罪と罰の坩堝。力も徳もないものたちの行き着く先、社会の底だ。
シェメシとヤレアハが治めるこれは、歴史あるペルヌ大監獄。“監獄”とはまた別の……ティアンのための牢獄である。
「……さて、噂の囚人か」
シェメシは呟いた。ヤレアハがしずしずと扉を開ける。
最重要区画の牢獄は、どれも静まっていた。
正方形のコンテナーが幾つも連ねられ、奥まで続いている。その内部にいる囚人たちは、軒並み沈黙していた。意識を失っていたのだ。
その最奥。明かりさえ薄い二つの独房のうち、ひとつをシェメシは見据えた。猫のように足音のない歩みが、素早く彼女を運ぶ。
「ふむ、見かけはただの子供だ」
「けれど、紋章は刻まれてある」
ヤレアハは“囚人”を見て、言った。
「不可思議だね」
「不可思議だ」
シェメシは吐き捨てるように言った。
「恐るべき罪……天地の摂理への離反……」
独房はなんの変哲もない鉄格子で出来ていた。その奥で、鎖に縛られた囚人が身じろぎをした。
「……汝を終身刑に処す、トビア・ランパートよ」
鋼鉄に戒められた少年を、シェメシは睨んだ。トビアはその視線に気づくこともなく、ただ、静かに眠り続けていた。
To be continued