■ペルヌ大監獄 屋上部
トビアの頭上に佇む赤い巨人へ向かって、シェメシはつるぎのごとく鋭い眼差しを向けた。
「どういうからくりかは知らないが」
女は裸身を惜しみなく太陽に晒し叫ぶ。
「【従魔師】【精霊術師】【陰陽師】その手のタイプはひとつ重大な欠点を抱えている。術者を制圧すれば、従魔も消えるということだ!」
次の瞬間、【幽閉王】の裸身が突進した。
どれだけステータスの低い超級職であってもレベル0と比べることすら烏滸がましい。トビアのAGIとすら呼べない貧弱な主観時間ではシェメシの足音すら捉えられなかった。ブラーから学んだ先読み術も、直線的な突進ではどうしようもない。
けれど、赤き<劣級>は別だ。
シェメシはまるでレーシングカーのように急ブレーキをかけ、振り下ろされた拳をかわした。それが大監獄の石を軽々と砕き、破片の一つが彼女の頬を切り裂く。
「もういちど言ってみなよ」
トビアは挑発した。ブラーから学んだものだ。
「欠点がどうしたって?」
「小僧めが!」
獣のように【幽閉王】は吠えた。その手が何かを掴むような仕草をしたとたん、その手のなかに武装が顕現する。《瞬間装備》だ。
「この【幽閉王】をそのような安い挑発で揶揄したこと、後悔させてやるぞ」
現れたのは、鎖でつながった二対の乾坤圏だった。
「【
鈍い金属色のそれを振り上げると、【幽閉王】は再び突進した。
紅い巨人がトビアを完全に守る構えで迎え撃つ。けれども、その乾坤圏はどこかおかしかった。
拳で撃ち合うたび、巨人の動きが鈍っていくのだ。トビアは唇をゆがめ、巨人に命じた。
「何かおかしい。何かおかしいんだ。それに触れすぎるな!」
「判断が鈍すぎる!」
女はせせら笑った。
巨人の手がどんどんと鈍っていく。片方は振り上げるのもやっとのようだ。まだかろうじて動くほうの片腕で必死に防御を固めている。
【紅蓮鎖獄の審問官】の能力は《自動加算》という。
一度触れ合うたび、その触れ合った敵の武器や腕に1ポンド相当の
「もうすぐこじ開けられるぞ」
【幽閉王】は踊るように乾坤圏を振り回しながら叫んだ。
トビアは所詮まだ子供だ。ただの子供が力を手にしたところで容易く仕留められる。悪ガキの躾に大した苦労がいるはずもない。
「脱獄囚め。すぐに牢に戻してやる。この紅い化け物を駆除したあとで、その後ろにいる変身者ともども――」
「だからだめなんだよ、あんたは」
トビアは呟いた。
その眼には怯えも恐怖も無かった。シェメシがそれをおかしいと睨んだとき、赤の巨人が重たげに引きずっていた拳を振り抜いた。
【幽閉王】シェメシは躱せなかった。
躱せるはずもなかった。完全に前のめりになっていたのだから。怯えも驕りもない目つきで、トビアは言った。AGIに差のありすぎる挑発が、耳障りに、逆鱗を撫でさするようにゆっくりと響く。
「重さを加算しているなら、その分攻撃力は増えると思わない?」
次の瞬間、数十ポンドが加算された拳が砲弾のように【幽閉王】を撃ち抜いた。
「すごい!」
【変身王】クオンはネミリアオを抱き寄せながら、思わずそう呟いていた。
レベル0の子供が、こうも容易く超級職を屠ったのだ。簡単すぎる。それはこの紅い巨人兵がどれほどのリソースを有する怪物であるかを端的に教えていた。
「こんなに強いひとだったなんて思わなかった」
「買いかぶりだよ」
トビアは言った。
「僕はこれに命令してるだけだ。それに、あれで死んだとは思わない。とどめを刺してから、ここを出よう。その子も一緒に連れて――」
「それは許さん」
トビアは殴られたように振り向いた。
拳に撃ち抜かれたところ、まるで砲弾が炸裂したかのような道筋の先では、【幽閉王】がゆらりと立ち上がっていた。
額が割れて血が出ている。同じくらいに赤い舌が、それをぺろりとなめた。
「こんなものか」
はじめは、意味がわからなかった。【幽閉王】は続けた。
「なんだ、こんな程度の攻撃力なのか。避けて損をした。これなら受けられる。私ともあろうものが焼きの回ったものだ」
こんなもの。こんなものと断じて見せたのだ。
トビアの手にした<劣級>の力を。
「どういう意味だ」
「どうもこうも。すまないと謝っておこうか」
シェメシはそう言うと、手から吹っ飛んでいた乾坤圏を一瞥し、さっと指を振った。それがごとりと動かなくなり、赤の巨人を苛んでいた荷重も消える。装備解除したのだ。
「謝っておくよ、小僧、娘、ネズミ。私はもうこれから【看守】ではなくなる。ここまで頭にきたのは初めてだな。本当に済まないと思っている、なぜならば、これから私はペルヌ大監獄の管理者として脱獄囚を引きずり戻すのではなく、ただ一匹の醜い人殺しとして――」
そこで、彼女の顔が獰猛に歪んだ。
「――醜い人殺しとして!貴様たちをこの指で縊り殺すからだッ!」
その指が地獄行きを示唆するようにしゅっと地へ向けられる。
その褐色の肌で、全身に刻まれている白い入れ墨が動いた。
盛り上がったのだ。石のように固まって刺々しく膨らみ始めたのだ。
「《
確かに、それはまるで花が開くようだった。
アラバスターのように白いそれが【幽閉王】の全身を飾っていく。
「この私が、なぜ女の身で裸身を晒しているか疑問に思わなかったのか?」
彼女は言った。トビアは攻撃しようとしたが、できなかった。今手を出せば、先手を軽弾みに撃てば間違いなく後手で殺される。
「まさか、まさか乙女が肌を晒して歩き回るのが望んだことだとでも?違う。私はこれでも貞淑な臆病者なんだよ。この重武装がないと怖くてたまらない。恥ずかしながらな。好きで裸だったわけではない」
怒りと敵意を込めて女が言う。
「全身の装備スロットが埋まっているから、ああだったのだ」
今や違う。
白亜の鎧が彼女の体のラインを縁取り、鋭い短剣のような爪すらその手には生まれている。
「【白亜忌 アラバストラ】。この私が残念ながら討伐した、討伐したことになっている神話級<UBM>だが。使いたくはなかった。こんな力に頼るのはこの【幽閉王】の矜持に反する」
「入れ墨型の特典武具……!?」
トビアは戦慄しながら呟いた。
ブラーからは武装についても学んでいる。基本的に、装備スロットを占有する数が多いことは使用者にとって引き算、つまりその特典武具のスキル出力にとっては足し算として作用しうる。
そして、神話級。
神話級は<
「……<
トビアは言った。
【幽閉王】はゆらりと揺れると、突如、石を踏み砕いて倒れるように突進した。赤い巨人がさっきと同じように受け止める。だが、さっきとは違う甲高い音とともに、その肉の硬い破片が転がった。
強靭なはずの緋色の肉体がいとも容易く傷ついたのだ。さっきまでとは攻撃力の桁が違う。巨人の赤い腕には、ひび割れの傷跡がまるで花弁のように花開いていた。
「これなら詰められる」
女、【幽閉王】の名を持つティアン、白亜の猛獣と化した準<
「さあ、我が《花葬》の前に散るがいい。小僧」
◆◆◆
■ペルヌ大監獄 内部
【哨戒王】ヤレアハは、シェメシの実弟である。
当然、獄内では副官のような立ち位置だ。むしろムラっ気のあるシェメシに代わってここを統括しているのは彼の補佐によるところが大きい。
だから、シェメシの判断がなくとも部下を処断するくらいのことは簡単だった。
「チャールズ君」
その雑用係を呼び止めて、ヤレアハは言った。
「君はアルター王国から来たんだったな」
その青年はゆっくりと振り向いた。
ティアンだ。間違いなく左手には何もない。だが、それがいくらでも偽装してのけられるものだとヤレアハは知っていた。
「君の動きは調べたよ。君はここにやってきてからずっと、なにかを探したりするようにそこらじゅう彷徨きまわっていたな。一部には権限を与えていない禁止領域も含まれていた。好奇心旺盛で済ませてもいい。だが――」
ヤレアハはつぶやいた。
「思うに、君が、“ブラー”じゃないのか?」
チャールズはあっという間に汗をだらだらかいて動揺した。ヤレアハは続けた。
「ん?違うのかい?君は本当は<マスター>なんじゃないのか?ティアンのふりをして」
「おっ、仰っていることが、ちょっと、その、よく……」
「その物言いが怪しいと言っているのだよ。イエス・ノーで答えないその物言いがね。アルターというのもね。あれは最近までアルターにいた。身元の細工くらい仕込めただろうな」
ヤレアハが剣の柄に手をかけた。
「なにかご機嫌を損ねたのであれば!」
弾かれたようにチャールズは平伏し、許しを請うような眼差しを持ち上げたが、ヤレアハは知らぬ存ぜぬのようすで腰の剣を抜いた。
なんの変哲もない長剣だ。
「斬ってみればわかる。万が一、冤罪だったとしても大丈夫だよ。君が私の執務室にいることは誰にも知られていないから、私にはなんの咎めもない」
チャールズは蒼白になって立ち上がり、逃げ出そうとした。
が、AGIが足りなかった。
「逃がすものか」
ヤレアハが一歩踏み込み、ひゅっと切っ先が硬いものを裂く音がした。
チャールズは糸が切れた人形のように倒れた。その首が断ち切られてごとりと落ち、絶命した胴体が転がりながら扉にすがる。
「おや、まるで屍体じゃないか」
ヤレアハはため息をついた。
「幻影かな。それとも本当に死んだのなら光の塵になるか。どっちにしろ部屋が汚れずに済む」
けれど、そのどちらでもないようだった。
チャールズの屍体はずっとそこにあった。幻影が解除される様子も、アバターが分解される様子もない。
そして、執務室の後ろに積んであった荷物ががたがた動いた。
「ひゃひゃひゃ!」
ヤレアハは振り向いた。
それは確かに笑い声だった。神経をヤスリで逆撫でするような、掠れた不快な声だった。
「ひゃひゃひゃ!」
なかば咳き込むようなそれがヤレアハを嘲笑っている。
「ひひ、はは、は!まったく、血の巡りの悪いやつだなあ、おまえは」
そして、小さな荷物の扉が開いた。
「その哀れなチャールズ君は正真正銘、本物のティアンだよ。いくら僕でもこんな監獄に変装で乗り込もうなんてそんな頭の悪いことはしないさ。彼には金を掴ませて僕の駒になってもらっていたんだ、ま、捨て駒だけどね。それとも釣り餌のほうが例えとして上手いかな」
そこにあったのは、否、いたのは、襤褸切れにくるまれたなにかだった。
箱からまろびでるようにして這いずってくる。人間ではあるはずもない。赤ん坊かそれよりやや大きい程度のものでしかないのだから。
けれども、それが膨らんだ。
「傑作だったよ。ああも格好つけて推理したのに大外れとはねえ、ヤレアハ君。どうせチャールズなんて名前だから<マスター>っぽいなんて思ったんだろう?見えている結論は見せ札だということを忘れるな。見せてるんだよ、この僕が!」
手をついた。
足を踏ん張った。
襤褸切れがばさりと揺れ、はためいてから落ちる。その後ろにはまるで奇術のように、仮面の男が車椅子にゆうゆうと腰かけてヤレアハを睨んでいた。
「やあどうも、我が親愛なる抜け作くん」
喉を爆破されたようなかすれ声で、仮面の男が言う。
ヤレアハは驚きを隠しもせずにつぶやいた。
「ブラー・ブルーブラスター!」
指名手配犯の一人だ。
先のグロークス市でのテロ、それにドラグノマドでの迷惑行為、諸々が積もって国際指名手配された<マスター>だ。悲しいかな、決してこの手の人間は珍しくないのだが。
「だが、どうやって?」
ヤレアハは首を振った。
「この厳戒態勢の監獄にどうやって入ってこれたというのだ。出入りする人間にはすべて《真偽判定》をかけていた。入れるはずがない。君の<エンブリオ>は偽装や幻惑の能力ではないはずなのに」
「頭が悪いやつと話すの疲れるんだよね」
ブラーは言った。
「おまえが運び込ませたんだろう?この大荷物。籠城するからとか言ってさ。そこの『かつてはチャールズでした』君にコンテナを紛れ込ませるようにさせたんだよ。怪しげな行為の演出にもなるしな」
ブラーは吐き捨てるように言った。そこに、ティアンの死に対する同情など微塵もないのは明らかだった。
「ひどいやつだよおまえ。無実のティアンを殺したんだぞ。かわいそうなその『さっきまでチャールズだったんだけど今はもう違うんだな』君の命をなんだと思ってるんだ?え?ヒューマニズムが服を着て歩いているような僕としては厳しく糾弾せざるを得ないな」
「しかし、そんな小さな箱に人間が入れるはずがない。アイテムボックスでもないただの箱だ。そう、アイテムボックスの類は中身を確認できないから持ち込ませなかったのに」
「つくづくバカだなお前。見なかったのか?さっき」
車椅子のうえでブラーがため息をつく。
あの小さな体躯。ヤレアハは息を吸い込んだ。そして、今、車椅子に腰掛けているブラーの手足は、明らかに普通のものではなく……
「まさか」
「そうだよ。あの毒のせいだ」
ブラーは吐き捨てた。シューシューと人工的な呼吸音が鳴り、しゃがれた声ががらがら響く。ブラーが最後に戦った赤い巨人は、シバルバという<エンブリオ>の毒に冒されていた。
「手足が腐り落ちてさあ。内臓も半分くらい持っていかれたし、肋骨はろくに残ってない。肩甲骨と脊髄もお釈迦だったよ。それでも死ななかったがね」
その手足は、金属色をしていたのだ。
ヤレアハは唸った。その概念には心当たりがあった。実物を見るのはもちろん初めてだが、機械で人体を補った人間をどう呼ぶかくらいは知っている。
「サイボーグ!」
ブラーは歯ぎしりしながら頷いた。
「そう。<マスター>の能力でね。“鉄医者”ヨハン・ヨハンソンは人体を機械改造する<エンブリオ>を持っている。破壊された身体はあの爺さんに作り直してもらったんだ。おかげでものすごい料金を取られたけどね、くそっ、【
サイボーグ・ブラーは突沸するように怒鳴りながら車椅子の車輪を空転させた。
「アバターを再構成したいが、デスペナルティになると監獄行きだからなあ、いやいやこんな身体で我慢してやってるんだ!こんな砂漠のど真ん中まで来させやがって!面倒にもほどがあるぞ全く」
「アイテムボックスか」
ヤレアハは息を吸い込んだ。
義手も義足も車椅子も、小型のアイテムボックスにしまいこんでいたのだろう。そうなってしまえば、彼本体の肉体はおそらく驚くほど小さいのだ。生命維持の仕組みを含めても、箱に入ってしまうくらいには。
「なんといたわしい。そんな身体で」
その一瞬、ヤレアハは言葉を切ってから続けた。
「そうか。それほどにあの少年が大事か」
ヤレアハは言った。
「あのトビアという少年だろう?君の目的は。美しい友情だね。そこまでしてなお<マスター>とティアンとの間の絆があるとは」
「友情?」
ブラーは初めて聞いた言葉みたいにそれを返した。シューシューと呼吸補助器が唸りを上げる。
「友情?友情だって?はっ、はっは、はあ!馬鹿じゃないのか?いや失敬。馬鹿だったな。さっきおまえの低知能は証明されているから正しくはこうだ。その薄汚れた口で気持ち悪いこと吐いてるんじゃないぞ愚物が!と言うべきだった」
仮面が明滅する。
「おまえに僕の考えなどわかるものか。知ったふうな口を利くな」
そこでなにかを思い出したように、ブラーは仮面の下でニヤッと笑った。
「友情。友情!言うに事欠いてそれとはな。貴様のようなうそつき、卑怯者のクズが友情なんて言葉を知っていたとは驚嘆に値する。おめでとう。心からおめでとう」
「どういう意味かな」
ヤレアハは柔和な物腰を崩さなかった。
ブラーはそれすら耳障りな音でせせら笑ったのだが。
「お前だよ」
サイボーグ・ブラーは言った。
「ティアンのふりをした下種な<マスター>だろう、と言ってるんだよ。ミスター『自分はヤレアハでございます』君?」
そこで、初めてヤレアハが顔を歪めた。
◆
「突拍子もないことを言い出すんだな」
ヤレアハは言った。
ブラーは鼻を鳴らした。
「《真偽判定》があるからな。違うなら言えばいい。はっきりと言ってみなよ、自分はティアンのヤレアハだと。僕の《真偽判定》を絶対に誤魔化せるという自信があるのなら」
嘘は見抜かれる。
少なくとも、見抜かれる可能性がある。誰がどんな看破能力を持っているか分からない以上、『明言する』ということには大きな意味がある。
しばしの沈黙があった。
ヤレアハはゆっくりと肩をすくめた。その唇が開く。
「ああ。私は、<マスター>だ」
ヤレアハはゆっくりと左手をかかげ、その何もない手の甲からなにかをはがし取った。途端に幻覚がはがれ落ちていく。
そこにあったのは、嘲笑するハートマークの紋章だった。
「なぜわかった?」
静かにヤレアハは尋ねた。ブラーは車椅子のうえでふんぞり返っていた。
「一番は物言いだな。このゲームは世界観にこだわってる。ティアンの話し方はどこか中世的だ。そこ行くとお前は怪しいんだよなあ、気をつけてはいるんだろうが。<マスター>……プレイヤー特有の知識、立場が顔を出してる。さっきもそうだ。なんで『<マスター>とティアンの友情』と言った?人間ってのは自分の所属を前に置くことが多い。ティアンなら『ティアンと<マスター>の友情』と言うだろうね」
「そんな薄い理屈で」
「きっかけは何でもいいのさ。そう思って観察すればお前は怪しすぎた。ま、一番の決め手はログアウトをこの部屋で見たことだけどね。そっちの寝室は夜中空っぽだったな。ティアンが夜も眠らずに何してるんだ?その空っぽの部屋から朝になったら出てきてたろ」
ブラーは言った。
「気持ちの悪いことをする。ティアンに成り代わるとは……精神干渉系能力者だろう?お前は」
「そこまで見抜いているのか」
ヤレアハは冷たい顔つきで言った。ブラーはつらつらと話し続けていた。
「あの姉貴がティアンなんだからお前もティアンのはずだろ。そうじゃないのはなにかで誤魔化しているからだ。だが家族を誤魔化すのは不可能に近い。精神に細工したな」
ブラーは言った。
「記憶をいじったか書き換えたか……そういう<エンブリオ>が無いわけじゃない。カルディナは特に多いと聞いてる」
「まったく……まあ、だが、いい。そのとおりだ。本物のヤレアハはすでに死んでいる」
ヤレアハ、或いはヤレアハだったものはそう開き直ったように頷いた。
「わが能力は【愛別離苦 ゼパル】。TYPE:アポストルwithガードナー。能力特性は、“愛するものに代わること”」
ヤレアハは得意げに言った。
「私の能力はね、他者の認識をごく部分的に改変する。この私が、彼らには最も愛するものに見えている。哀れなシェメシにとっては、戦死した弟ヤレアハそのものなのだ。もっとも、言動や記憶までコピーできるわけではないから実にささやかな改変だがね」
「気持ちの悪い。何の意味があるんだ、それに」
ブラーは心底気味悪がっている言い方で言った。ヤレアハは静かに熱を込めて答えた。
「使命だからな」
ヤレアハはそういうと、《瞬間装備》で金属製のロッドを取り出して構えた。
「私は使命を持ってここに来ている。選ばれたんだ。君のような凡愚にはわかるまい、この高揚感が。ただ何もなく遊んでいる君たちとは違う。ここは単なる
ヤレアハはサイボーグ・ブラーに向けて棒の先端を向けた。
「それが我が祖国、そして祖国の“諜報特務庁”が有する戦略級管理AI【レクイエム】の出した結論だ」
ブラーが欠伸をした。ヤレアハが続ける。
「テクノロックの【オーバチュア】が失敗したからな。外部からの攻撃は不可能だとわかった。だが内部からの調査は無駄ではないらしい。こうして君と戦い、ティアンとしての立場を振るうこともまた実験の内なんだよ」
「つまんない話」
サイボーグ・ブラーは車椅子の上で伸びをした。機械の動く音がした。
「で?外はいいのか?すごくドンパチやってるぞ。僕が煽ったマヌケどもがリル目当てに集ってきてる」
「そちらはいい。もういいんだよ」
ヤレアハは恍惚として言った。
「今、私は君と戦えればいい。いいデータになるだろう。外の雑事は、すでに、手を打ったからね」
◆◆◆
■少し前
その場所はペルヌ大監獄においても禁域の一つだった。
寒い。地下はるか深くにおいてもなお似つかわしくない寒さが辺りを覆っている。ヤレアハとゼパルは、そこを堂々と歩き回り、やがて一つの監房にて足を止めた。
「ここだな」
『本当にやるのか?わが主よ。言っておくが、ストックはこれであとひとつなんだぞ』
「かまわない。それだけの事態だからね」
ヤレアハは肩をすくめると、監房に持ち出した鍵を突っ込んで回した。
ガチャリと金属の動く音がして、施されていた術が崩壊する。
あらゆる精神系状態異常が解除され、【凍結】がひび割れてほどけた。
「さあ、何百年ぶりのお目覚めかな?」
そのなかにいたのは、ひげをたくわえた老人だった。
老衰死などで出獄させるほど、甘くはないのだ。
「おお」
老人は喘いだ。
「おお、おお。なんだ?これは。ここはどこだ?」
『案外意識がはっきりしてやがるな。早めに済ませるぞ』
「ああ。やってくれ」
ヤレアハの言葉に、ゼパルはその赤い鎧を震わせて老人に近づく。耄碌した顔を甲冑が覗き込む。
そして宣言があった。
『《
ゼパルはゴエティアに列挙された悪魔のうち、愛と感情を司る霊である。彼の力に当てられたものは、心で最も愛し、敬愛し、恋焦がれるものの姿をヤレアハに見てしまう。声も身体もそのままだ。認識を書き換えているのだから、矛盾に気づくことはできない。
他者の精神への切り取り支配、やや変則的だが、これもアポストルの特性たるドミネイターの一種である。
「おお、おお。陛下!」
何百年も前から氷漬けにされていた老人は、いきおい唸った。
「陛下、このような下賤のものにお姿をお示しになられますとは光栄の至り。前後不覚であるのが恥の極みでございます」
老人はそう言って平伏した。ヤレアハは優しく尋ねた。
「うむ。壮健であったか?私が誰かわかるかね、言ってみたまえ」
「あなた様はわが栄光のお方」
ヤレアハは舌打ちしそうになるのをこらえた。
ゼパルの能力は認識の改変までだ。誰に見えているのかは聞き出さなければならない。
「名前は?」
「恐れ多い。このような卑しきものにあなた様の名を口をする権利があろうはずもございませぬ」
「いい。許そう。いま大事なのは、おまえの頭がはっきりしているかどうかなのだ」
「はっ……では、恐れながら」
老人は伏して答えた。
「あなた様は地上で最も偉大なるお方、万物を統べる王……【
「……そうか」
ヤレアハは満足げに頷くと、荒々しく言った。
「おまえが正気であることはわかった。では命じよう。いま、この城の周りには賊軍がおる。とるにたらぬハエだが、不快は不快というもの。蹴散らしてくるがよい」
《真偽判定》は機能しない。認識が書き換えられていることに加えての副次効果だ。もっともヤレアハは【詐欺師】の能力を組み込んだたぐいの装備品でその対策も打っているが。
「承知いたしました、陛下」
老人はどうどうたる武人の足取りで、回廊を歩いていった。
ヤレアハはほくそ笑んだ。
「ああ、行ってくるがいい。【覇王】の家臣の一人にして、残虐で鳴らしたかの王たちのひとり……」
その名前は、監房の扉に刻まれている。
「処刑人系統超級職【
To be continued