通学路、と言われて通常思い浮かぶままの光景、つまりは住宅や店舗やその他諸々の建物のど真ん中に横たわる道を、俺は走っていた。
部活動のトレーニングでも、趣味のランニングでもない、必要だからそうしているだけの行為。早く走るのをやめたいと思いながらも、俺は必死に走る。
ホームルームが始まるのが8時40分。それまでに着席していなければ、それは遅刻となる。そして今の時刻が…8時35分。どれだけ早く見積っても、現在地から教室までは5分では辿り着けない。それでも、俺は走っている。
次に遅刻をすれば進級が危うい、とか、お前のような真面目さのない奴には紹介する大学も就職先もない、とか、そんなことを言われたのがつい昨日だからだ。
昨日の今日で遅刻などすれば、昼休みや放課後なんかに呼び出され、なぜ関係のない他人のためにそこまで?と思えるほどに長い説教を食らわされることは確定している。俺はその未来を避けるべく、点滅し初めた信号を渡る。…まぁ、ギリギリセーフって、ほぼアウトだというような気もするけれど。
予想より早く学校について、上履きに履き替え、階段を上り、いくつかのドアを通過する。
目当てのドアを勢いよく引き、そのすぐ近くの席に座り、時計を見る。時刻は8時39分。ギリギリセーフ。胸を撫で下ろし、タオルで体を拭く。…明日は確実に筋肉痛だろうな。そう確信できるほどの運動不足を恨んではみるが、きっと明日になっても体なんか動かさないだろう。
そこまで考えたところで、何か違和感を覚える。…いつもは俺が遅れて来るのを茶化してくる奴がいたりするのに、今日は俺のことなんか誰も気に留めていないようだった。
「何かあったの?」
俺が隣の席の木下さんに話を聞くと、木下さんは黙って前の方の席を指さした。
「…あれ、珍しいな」
俺の反応を見て、木下さんはびっくりしたような顔をした。
「…ニュース見なかったの?」
俺が話を理解していないのを感じ取って、木下さんは小声で説明してくれた。
どうやら昨日の夜、川原は自殺をしたらしい。そういえば近くの駐車場に『KEEP OUT』と書かれたテープが張り巡らされていた。
「ていうか、同じマンションだよね?なんで知らないの?」
昨日の夜はヘッドホンを繋いでゲームをしていたし、そんなことを知らせてくれる家族もいないから。そう説明するか迷ったが、言わない方がいいかと思い、ただ俯くだけに留めておくことにした。木下さんはやがてため息をついて、啜り泣く女子生徒の元へ歩いていった。
自殺、と言われても、いまいちピンと来なかった。彼女…川原は元来明るい子で、マンションが同じだというだけの俺に対しても友達のように接してくる、所謂陽キャという奴だったように思う。
やがて担任の宮内先生が、随分と疲れた様子で入ってきた。先生は川原の席を一瞥して、少し申し訳なさそうに言う。
「全員席に着いてくれるか」
生徒達は大人しくそれに従う。教室をぐるりと見回して、俺がいることも確認したあと、先生の話が始まった。
「えー…知っている者も多いと思うが、昨日クラスの川原が亡くなった。その事について全校集会があるから、体育館に移動する」
言われて、俺達はぞろぞろと体育館に向かう。誰に言われるでもなく、誰一人として私語もしないまま、神妙な面持ちで歩いていく。
この学校の体育館は校舎から割と離れた位置にあるため、渡り廊下も他の学校より長い。そこを歩く間、俺は川原について考えてみた。
あいつは中学生の時にこっちに越してきた。慣れないことばかりだと思うから支えてあげるのよ、とまだ元気だった頃の母に言われたのを今でも覚えている。
初めて会った時から明るい奴で、これなら心配なさそうだな、と上から目線で思ったのを覚えている。中学の後半なんて、寧ろ俺の方が課題やらテスト勉強やらで助けてもらっていたのに。
同じ高校に進学することになった理由は、家が近いからというもの。俺も…おそらく川原も、特にやりたいことなんてなかったのだろう。卒業式の日、高校に行ってもよろしくね、と笑顔を向けられた。
…そして、俺達は高校3年生になった。お互い違うコミュニティで暮らしていたのに、3年生になってまた、同じ委員という接点ができた。昔のように…とまでは行かなくても、そこそこ話をするくらいの関係性ではあった。
だから、俺にとっては不思議だった。いつ見ても川原は川原で、自殺というワードからは遠く離れた存在だと思っていたから。
やっぱり色々あるんだろうなぁ、なんて浅い感想を抱いているうちに、体育館に到着した。
クラスの女子の一人は未だに泣き止まず、何人かの女子に付き添われながら、立つのがやっとという感じで列の真ん中にいた。…葛木、円歌、だったかな。苗字は覚えられても、名前までは覚えられない。正真正銘、ただクラスが同じだけの子だ。
俺が死ぬ時、これほどまでに悲しんでくれる人間はいるんだろうか。幸せじゃない人間の例に漏れず、そんなことを思う。
話自体は全校生徒を集めてまでするものか?という内容のもので、マスコミの取材には手を貸すな、誰にも余計なことを言うなという、極めて事務的なものだった。…人ひとりが命を落とすことの重さなんて、こんなものなのかもしれない。
先生達のほとんどがマスコミやらの対応に追われているのか、それとも生徒の心情を慮ってなのか、全校集会が終わると下校になってしまった。校内に残ることも寄り道も許さない、と釘を刺されたし、理由は前者が大きいんだろうな。
帰り道、川原が最後に見たはずの公園を眺める。いつもは子供やその親で賑わっている場所に誰もいないのは少し不気味に思えたが、それだけだった。
ドアを開ければいつもの部屋。何があるわけでもない、だけど何も不足はない、俺にとっては完璧な部屋。…ここに川原が来たのは、いつが最後なんだろう。もう覚えてもいないほど昔のことなんだろう。
トレンドワードに並ぶ『女子高生 自殺』の文字。やっぱりマスコミは取材に来たらしく、案の定生徒はその取材を受けたらしい。涙ながらに川原のことを話していたのは、葛木ではなかった。同じクラスでもなければ学年も違うような、学校内で見たこともない女子生徒。そんな人とまで関わりがあったんだなぁ。考えれば考えるほど、死ぬ必要に迫られていたとは思えない。
気付けば、俺は川原のことばかり考えていた。…こんなに考えることがあったのか、と驚いてしまうほどに。同じマンションに住み、同じ学校に通っていただけ…と言う割に。今更何かを考えたところで、意味なんかまるでないというのに。
原因の分からないやるせなさが、俺に川原のことを考えさせる。あの笑顔が、あの声色が、あの雰囲気が。全て過去のものになってしまったことが、何度川原についての報道を見ても、信じられない。
ただベッドに倒れ込んで考えていると、普段ほとんど鳴らないインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには泣き腫らした目の葛木がいた。
彼女はおそらく、川原のことを聞きに来たんだと思う。それか、やるせなさの行き場を探している。どちらにせよ彼女が求めるほどのものはない。
「…こんにちは」
俺が声をかけると、葛木は黙り込んだまま会釈をした。そしてするりと俺の横を抜けて、部屋の中に入ってきた。
止める気にもならず、かと言ってもてなす気にもならない。ダイニングチェアに座り込んで啜り泣く彼女の横で、俺もただ黙り込んでいた。
「…今から、理不尽なことを言うね」
やがてほとんど枯れてしまった声で、葛木はそう呟いた。
「同じマンションに住んでて、なんで春歌のこと気にかけてくれなかったの」
俺はただ黙って、その言葉に頷くつもりだった。…でも案外刺さってしまって、言い返す。
「葛木こそ、友達なんだろ。なんで気付けなかったんだよ」
…言葉には、不思議な力がある。思ってもいないことを口に出すだけでも、心は軽くなっていく。ただ、お互いにこれが意味のない言い合いだと気付いていた。
また静まり返った部屋の静寂を割くように、葛木は俺に言う。
「…本当は、お願いがあって来たの」
葛木はなにか決意をした目で続ける。
「一緒に、春歌のことを調べて欲しい。私も須貝も、そうしないと前に進めないと思う」
まさかそんなことを頼まれるとは思っていなかった。なぜ俺に?という顔でもしていたんだろう、聞くまでもなく答えが返ってくる。
「気付いてないかもしれないけど、春歌と関わりのある男子なんて、須貝くらいだから」
そう言われて思い返せば、確かに川原は男子と接触がなかった。意識的になのか結果的になのかは分からないが、女子と一緒にいるところは見かけても、男子といるところは見たことがなかった。
「…だから、協力して欲しい。お願い」
深々と頭を下げられる。…まぁ、俺だって知りたいことがないわけではないし。
「できることは少ないかもしれないけど…いいよ。一緒に川原のことを調べよう」
葛木は安堵した表情で、ありがとうと言った。それからメモ帳とペンを取り出して、俺に知っていることを聞いてきた。最近のことはよく知らないが、中学の頃のことは知っていたので、それなりに役には立てたと思う。だいぶ分かってきた、と嬉しそうにする葛木を見て胸を撫で下ろす。
「…もうだいぶ遅いけど、帰らないの?」
時計を見た葛木の顔が一瞬曇る。それから、今日はありがとう、と帰っていった。
もしかして、家が厳しいんだろうか。申し訳ないことをしたのかもしれないな。一人になった部屋は、いつもよりも静かだ。
…しかし、川原のことを調べよう、か。俺は人が死んだ時は、どうすることも出来ずにただ絶望して、時が解決することを待つものだと思っていた。実際母が死んだ日の幼い俺もそうしていたはずだ。別に辛くないみたいな顔をして、誰にも心配をかけまいとして、一人で泣いていた。
あんな風に、前の向き方なんて考えたことがなかった。…でも、今回は協力させてもらえるわけだし、俺も前を向けたらな、と思う。
川原がいないだけで、俺の周りはこんなにも悲しみが充満している。だけど、そんな人達に囲まれていても消えない悩みを抱えていたのなら、俺もその正体を知りたい。…もう解決することはできないけれど、同じ気持ちを共有した上で、納得したいのかもしれない。
これは誰かが飛んでしまった世界で、残された人々の物語。