もうじき夏も終わる。珍しく課題を早めに終わらせてしまったので、俺はこの時期になっても暇を持て余していた。課題を早めにやらないことは、夏休み後半の空虚さを打ち消してくれる方法だったのだなと心の底から思う。
夏休み中も特に進展はなく、やはり川原春歌という人間は俺達にとってそれ以上でも以下でもないのだという結論に行き着いてしまっていた。…だからこそ、川原春歌という人間がなぜそこで人生を終えたのか、それがずっと分からないままなのだけれど。
…暇を持て余していたので、何故かちゃんとした服を着て、何故か花束を持って、何故か母の墓前に立っている。何故か葛木と一緒に。
俺は幼くもなかったのに、未だにちゃんと母の死因を知らない。何かの病気だということは分かっているが、それ以上のことは分からない。川原の死の理由を考えている際に漏らしてしまったこのセリフが、異様な今日を生み出している。
葛木は俺の母親のことを知らなかった。今までちゃんとコミュニケーションを取ったこともないただのクラスメイトなのだから、それはそうだと思う。この話をしたら驚いたような表情を浮かべ、だから一人暮らしなんだ、と納得していた。
何故今日ここに来たかというと、今日が母の命日だからだ。夏の終わりと共に、母の人生も終わってしまった。覚悟ができていたかどうかで言えば、できていると口では言ってみるものの、いざその時が来て気付いた。母とはたまにしか会えないが、こんな日々が続くものだと思い込んでいた自分自身に。
俺はずっと昔から、そう思い込んでいる節がある。人間誰しもがそうだと思うが、明日は絶対じゃない。今日という日の、今この瞬間ですらも。いつ終わるか分からない恐怖を誤魔化すように、先の予定を立てたりする。…そんな日々を積み重ねて、いつか終わりが来る。俺もそうなんだろうと思う。
「本当に長いこと来てなかったんだね」
枯れてしまった花や墓石の周りの雑草は、放置されて時間が経っていることを示している。…それくらい、受け止めきれていないのだ。未だに。
「…ここに来ると、来る度に複雑な気持ちになるから」
母の儚かった人生のことや、それでも健気に笑っていたこと。そんな美しくも物悲しい思慮や記憶もそうだが、何よりここに来る度に、どうして死んでしまったんだという気持ちになるのが、俺はたまらなく嫌だった。母は死にたくて死んだ訳じゃないんだ。そう頭では分かっていても、心は納得してくれない。
葛木にはそんな俺の心情は伝わっただろうか。…まぁ、どちらでもいい。とにかく、俺は今日この場所から過去の精算をしようと思う。雑草を抜いて、墓石を拭いて、花を替えて。そんなことで今までの行いがなかったことになるわけではないとは思うが、そんなことをしてみるだけでも見えてくるものがある。
結局墓という場所は、ただ母の遺骨が埋まっているだけの、形式上の終点でしかないということ。一生懸命に墓石を磨いてみたところで、何か返事があるわけではない。形がなければ悼んでいることを表現できない人間のための儀式だ。
この場で何かを思うことに意味があると信じ込んでみても、そんなものあるわけがないのに。形がなければ思い出すこともない出来事なんかに価値があるとは、俺には到底思えなかった。
だから、俺には部屋の仏壇で充分だ。せめてあちらでは健やかに過ごせるようにと祈り続けることは、別に部屋でもできる。
それならば何故、人間はこんな回りくどい方法を選ぶのだろうか。時間を取って、維持費を払って、わざわざ足を運ぶほどの理由はあるのだろうか。部屋とこの場所を比べてみる。
ここは小高い丘にあって、周りには大きな道路もなければ、家も多くはない。吹き抜ける風は夏だというのに涼しくて、少しだけ物悲しい。
老後の理想の暮らし、と言われて、一番に思い浮かぶような場所だ。…死後もそんなものなのかもしれないな、と思う。
お墓というのは、一般的に『終の住処』だと言われている。魂はここにはないが、せめて朽ちていく体だけでも健やかな場所にいて欲しいという願い、なのかもしれない。
受け継がれていくしきたりには意味があって、それに足る理由があるものだ。俺にはまだ分からないだけで、もっと大人になる頃には理解できるようになっているかもしれない。…大人ではない自分にそう言い聞かせてみる。
俺にとってこの場所は、きっとずっと不幸の象徴なんだと思う。俺自身の、そして母の。
だからこの場所を好きにはなれないだろうし、足繁く通うこともないだろう。
「…また来年、かな」
俺がそう言うと、葛木は不服そうな顔をした。
「何かある度に来ればいいじゃん。報告とか、相談事とかさ」
俺はそれに笑って返す。…上手く笑えていただろうか。
「…まぁ別に、好きにすればいいけどさ。須貝自身の気持ちでしかないわけだし」
いつか、ここに来る心構えが決まる頃が来るなら。気軽に足を運べるようになるなら、それでもいいと思う。だけど、今の俺にはできそうにもない。…今だって、この世を全て恨んでいるみたいな表情を抑えるのに必死だ。
「雨が降って、風が吹いて、命が芽吹いて、そして終わって…それでもここには、大切な誰かがいる。それだけで、通うには充分な理由だと思うよ、私は」
葛木は遠い目をして語る。…その視線の先には、きっと川原がいるんだろうと思う。
不幸というのは、認識した瞬間に不幸になってしまう。だから今の自分を幸せだと思う。そうすれば、何があっても幸せなままでいられる。
中学生の頃、難しすぎて分からなかった厭世観というやつが、少しだけ分かった気がする。身の丈を知ることや、自分が自分でしかないことは、マイナスなことばかりではない。むしろそうやって、自分が上手に生きる術を学ぶべきなのだ。
俺は母や、その周りの人間が語るこれらの言葉が嫌いだった。努力でどうにもできないことがあるなら、生まれてきた瞬間に人生が決定してしまうから。…でも今は、この考え方に深く共感している。
俺は俺でしかないし、母は母でしかなかったし、川原だって川原でしかなかった。勝手に期待をかけて、勝手に裏切られた気になっていたのは、むしろ俺達の方だった。
自分が思う以上の期待をかけられたり、身の丈に合わない人物像を押し付けられたりする苦しみを、理解しようとはしてあげられなかった。
俺は事あるごとに母に病状を聞いたし、それが治るという言質を得ることに必死だった。…今思えばそれは、母にとっては辛すぎるものだっただろうと思う。
一番治したいのは自分自身だっただろうし、一番呪いたいのも自分自身だっただろう。それなのに、勝手に期待した俺によって、無理やり笑わなければいけなかった。…人生最後の時くらい、なんの気兼ねもなく生きさせてあげたかった。
きっとそんな自分自身に対する嫌気が、この場所を忌避させてきたのだろうと思う。俺にとっても母にとっても良くない行いをしたという自覚が。
だから…だから俺には、泣く資格なんかないんだろう。今までも、これからも。
無理矢理前を向かせてきたのだ。今度は俺が、無理矢理にでも前を向く番だ。
「…そうだね、近い内にまた来るよ」
その時は。そう言いかけてやめた。俺は一人でこの場所に来て、一人で全ての過去を清算する必要があると思ったから。
嗅ぎ慣れた線香の匂いが、その煙が、空高く昇っていく。…これは、部屋ではできないことかもしれない。
この煙はどこまで昇るのだろうか。もしかしたら、母まで届くのかもしれない。