新学期が始まる。心機一転を誓う度、自分の継続能力のなさを思い出したりするものだが、それでも今学期こそはと思うことをやめられない。…俺は俺なりに、過去を悔いていたりするのだ。
珍しく、一番乗りに学校に来てみたりする。もしかしたら、そう思うことをやめられなくて。でもやっぱり、川原の席はない。これが本来、当たり前の形なんだろうと思う。
頭の中で思い描き続けているもしかしたらを期待しなくなるのは、いつになるんだろう。規則的に並ぶ机の、一つだけ空いたスペースを眺めながら、やるせない気分になる。
「あれ、早いじゃん」
聞き慣れた声がして、俺は顔を上げる。夏休み中は私服だったから、制服を着た葛木を見るのはなんとなく新鮮な気持ちだ。
「おはよ。早く起きたから」
手短に返して、俺は自分の席に着く。葛木もそれ以上は何も言わず、自分の机に鞄を置いた。
無音の時間が流れていく。気まずくもないが、心地いいわけでもない。俺は少しだけ寝ようと思って、机に突っ伏してみる。…こうしていても怒られないというのは、なんだか変な感じだ。
一人、また一人と誰かが登校してくる物音が聞こえる。挨拶をしたりしなかったりしながら、当たり前の一日を過ごす準備をしているようだ。
やがてこの教室内も、声で満たされていく。笑い声だったり、相槌だったり、軽い顰蹙だったりと、その内容は様々だ。…夏休みを挟んだことで、このクラスは当たり前を取り戻したらしい。
「おはよ」
また誰かの声が聞こえる。…多分、隣の席の木下さんだと思う。久しぶりに声を聞いた。
「おはようってば」
繰り返されて、俺は顔を上げる。…挨拶を交わすような間柄だとは思っていなかったので、誰か他の人にしたのだと思っていた。
「おはよ。まさか俺にしてるとは思わなかった」
おどけたように返すと、木下さんはなにそれ、と笑ってくれた。
「…本当に、なくなっちゃったんだ。春歌の席」
木下さんの声には、寂寥感みたいなものが滲んでいた。適切な相槌を持ち合わせていないので、ただ黙ってやり過ごす。
「なんか、大人になった?」
それからすぐ、木下さんは俺に向けて微笑んだ。…まぁ、身長くらいは伸びたかも。そう返すと、そういうことじゃなくて、と呆れたような顔をされた。
「なんていうか、雰囲気?がちょっとだけ違うなって」
…どうやら割と、俺のことも見てくれる人がいるらしい。俺はなんだか照れ臭くなって、返事を濁した。
「やっぱり子供かも」
くすくすと笑う声。…この人、人生二週目だったりするんだろうか。元々大人びている人ではあるのだが、大人びているでは説明がつかないくらいの落ち着きがある。
「そういえばさ、夏休み前のテスト頑張ったでしょ」
まぁ、そこそこは。そう返しながら、夏休み前の努力を思い出す。間違いなく俺の人生では一番頑張ったし、後にも先にもこれっきりにしたいほど苦痛ではあった。
「…あれってやっぱり、彼女の為だったりするのかな?」
木下さんが眺めるのは、空っぽになってしまったスペース。てっきり葛木のことを言われると思っていたので、俺はわかりやすく動揺してしまった。
「やっぱり。好きだったんでしょ」
…俺はもしかしたら、分かりやすいヤツなのかもしれない。まぁ、それなりに。そう返すと、木下さんは満足げな表情を浮かべる。
「伝えればよかったとか、そう思ってたりする?」
俺は首を横に振って否定する。そもそも相手が死んでしまってから気付く思いなんか、そんなに強いものじゃなかったということなのだろう。今は喪失感が邪魔をしているだけで、きっと憧れだとか、そういうものでしかなかったんだと思う。
「…やっぱり。本当に似た者同士で、お似合いだったのに」
どういう意味?と聞こうとした時、予鈴が鳴った。いつもより早く宮内先生が教室に入ってきて、全員出席しているかどうかを確認した。…まぁ、俺がいる時点で、全員出席が確定していると言っても過言ではないと思うのだが。すき
全員、か。俺も俺で、もうこの状況に慣れてしまっている。川原をクラスメイトにカウントしないことに、違和感を覚えなくなってしまった。
「じゃあ、SHRを始めるぞ〜」
一日目はきっと、課題の提出くらいで終わってしまうだろう。ぼんやりと話を聞きながら、珍しくやってきた課題のことを思い出したりした。…なんでこんなことを、面倒事だと思っていたんだろう。自分に対して不思議な気持ちになる。
今だって望んでやりたいほど好きなわけでもないが、絶対にやりたくないと思うほど嫌いでもない。
それよりも、木下さんの話の意味を考えることにした。隣を見てみると、木下さんは真面目に話を聞いているようだった。
お似合いだったのに。その言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。なんで木下さんは、俺にそんな話をしたんだろう。発言の意味というよりも、その発言をした理由の方が気になっている。
今更そんなことを言われても、俺にも木下さんにもどうすることもできない。きっとそれは抱えていちゃいけない気持ちで、捨てていかなきゃいけない未練で、思い出してはいけない過去だ。
「…さっきから、どうしたの?」
いつの間にかHRは終わっていた。木下さんとはずっと目が合っていて、俺は視線を逸らす。
「さっきの話のこと?」
俺が視線を逸らしたにも関わらず、木下さんは積極的に話しかけてくる。なぜだかは分からないが、今日はそういう日らしい。
「別に大した意味なんかないよ、ただお似合いだと思ってただけ」
それはきっとそうなんだろう。ただお似合いだと思った。俺と川原がそんな風に見えていた人も、世界中に何人かはいるかもしれない。目の前の彼女のように。
俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、なんでそれを今俺に言ったのかということだ。
「…たださ、何となく、その気持ちは忘れなきゃとか思ってそうだなって」
まるで、心を見透かされているかのようだ。そんな話をしたこともないのに、木下さんには分かってしまうらしい。俺は否定も肯定もせず、ただ黙っている。
「別に、忘れたかったら忘れるでもいいとは思うんだけど。でも、無理やり忘れようとしても、いいことって何もないから」
…じゃあ、どうしろって言うんだ。やるせない怒りが頭の中を埋めていく。
俺だって分かっている。無理に忘れようとすればするほど、鮮明に思い出してしまう出来事があること。
「こんなことを解決してくれるのは、時間だけだと思うんだ」
その言葉で、俺の怒りはすっとどこかへ消え去ってしまう。空虚な感情だ。それがいいと思うことも、それを嫌だと思うこともできないまま、ただ時間だけが経っている。こんな地獄を、俺はあとどれだけ続けていったらいいんだ。
それを木下さんに言っても仕方がないと分かっている。分かっているからこそ、俺は何も言えずにいた。
「ねぇ、やめたら?円歌と過去を引き摺ったりするの」
そう言われて、木下さんの方を見る。木下さんは確かに微笑んでいて、そんな言葉を吐いたあとだとは思えなかった。
「円歌に聞いたよ。春歌の死因を探ってるって」
木下さんは授業の準備をしながら、淡々と話し始める。
「2人ともつらいのに、なんでそんなことしてるの?忘れることでも飲み込むことでもなく、なんでそれを選んじゃうの?」
俺はただ黙って、話の続きを待った。
「春歌が死んだ理由なんて知った所で、春歌が戻ってくるわけじゃない。じゃあ、どうしてその理由が知りたいの?」
木下さんは俺の答えを待っている。夏休み中何度も疑問に思ったことだ。…もしかしたら、俺はまだ課題を終わらせていないのかもしれない。