「…ねぇ、その話長引きそう?」
割り込んできた声は、間違いなく葛木のものだった。
「長引かないなら、須貝に用事があるんだけど」
木下さんは葛木にそう、と一言だけ返し、黒板の方へ向き直る。俺は葛木に連れられて廊下へと向かった。
「…そろそろ授業始まるけど」
俺が声をかけるも、葛木はそれを無視して進んでいく。どこに行くんだろうと思いながらも、俺は着いていくことにした。
「何話してたの」
葛木は廊下の角で立ち止まり、振り返って聞いてきた。俺が事細かに説明すると、葛木はうんざりしたような顔をする。
「…ほんと悪趣味。好きにさせてくれればいいのに」
別に無視していいから。ていうか無視して。そう言い残して、葛木は去っていった。…あの二人、仲が悪いのかもしれない。
まぁ、死生観だって人それぞれの価値観なわけで、それがすれ違ってしまうこともあるだろうと思う。俺が川原の死を忘却によって乗り越えようとしている人達に不快感を示しているように、川原の死に積極的に触れに行くことを良しとしない人間もいるだろう。
どれもこれも、死んだ人間に対する勝手な妄想であることは間違いないわけだけど。結局のところ、死人に口はないから。だからこそ俺達はその原因を探っているし、木下さんはもう触れないであげて欲しいと思っているのだろう。
そんなことを考えていて、一限目に遅刻した。俺の頭の中からは、授業のことなんて飛んでしまっていたのだ。
「…円歌、怒ってたでしょ」
教室に入って一通り怒られ着席すると、すぐさま木下さんが話しかけてきた。
葛木のことを下の名前で呼ぶあたり、別に仲が悪いというわけではなさそうだ。…共通の知人、みたいな感じなのかもしれないな。一緒にいるところはあまり見たことがないから。
「まぁ、多分ね。勝手にさせてくれってさ」
木下さんはくすくすと笑う。
「別に勝手にすればいいと思うんだけど、須貝くんを巻き込むのは違うなーと思って」
葛木の方をちらりと見ると、真剣にノートを取っているようだった。
「二人はどういう関係なの?」
俺の問いに、木下さんは少し考える。
「部活が同じなの。私と、円歌と、春歌は」
そういう繋がりか。俺は納得して、そろそろ消されてしまうだろうなぁという板書を書き留め始める。
「まぁ、もう出てないんだけどね」
ノートを取りながら、木下さんはそう言った。…まぁ、そうだろうなと思った。部活の仲間が自殺してしまって、それでも出続けるというのはなかなか厳しいものがあるだろう。
「先生も無理して来なくてもいいって言ってくれたし…受験もあるし」
ため息をひとつついて、木下さんは続ける。
「…進んでいくんだよ。あの子以外、全部の時間がさ」
今日という日も、明日も、明後日も。俺達の時間は止まらずに進み続ける。いくら戻ろうと足掻いてみても意味がないと分かっているから、その流れを受け入れている。…そう、川原の死も、もう戻れない過去で、残ってしまった結果だ。
「だから、前を向いて生きるべきだと思うの。…忘れるとか、忘れないじゃなくて」
今は自分のやるべきことを。ね?そう言って、木下さんは寂しそうに微笑んだ。何か声をかけるべきなんだろうか。そんなことを考えているうちに、あっという間に授業は終わってしまった。
休み時間になり、いつも通り自販機にジュースを買いに行く。何となく同じジュースを買って、何となく席に着いて、何となく誰かが話しかけてきたり来なかったりして、何となく次の授業の時間になって…という日々の繰り返しが、今学期も始まるのだろうと思う。
その何となくの時間でできることは、もしかしたら俺が考えている以上に沢山あるのかもしれない。将来の為になったり、そう遠くない未来の為になることが。
それでも俺は、この習慣を変える気はなかった。当たり前に存在してくれるいつも通りが、俺にとっては大切だと分かっているから。環境が変わったり、状況が変わったりする度に、こういうルーティーンを大切に思うようになっていく気がする。
「お前、いつもそれ飲んでるよな」
同じクラスの有島に話しかけられる。あまり評判が良くないジュースを、俺は気に入ってよく飲んでいる。…そんなことを、他の誰かも知っている。別になんてことない日常のワンシーンだ。
「好きなんだよ、これが」
入っていてもいなくても変わらないような気の抜けた炭酸に、いくつかのフレーバーが織り成すただひたすらに甘味にステータスを振ったみたいな味。その出来損ない加減が、俺は好きだった。
「それ飲むと、歯溶けそうになるんだよな〜」
溶けねーよ。そう返して、二人で笑う。いつも通りだ。俺に友人と呼べる人間はあまりいないが、有島はそんな数少ない一人だ。夏休み中も何度か遊んだし、これから先も多分そうだろうと思う。…何かが起きなければ。
「どした?」
変な顔でもしてしまっていたのか、有島は俺の顔を覗き込んでいる。何が?と問い返すと、何でもない、とまた前を向いた。
「…なんか、悩み事でもあんのか?」
聞かれて、言葉に詰まる。ないといえばないんだろうし、あるといえばあるのだ。人の考え事なんて大体がそんなもので、自分の中では立派な悩みでも、人に話してしまった瞬間にお粗末なものに思えて仕方なくなる。
「ほら、夏休み中も何度か誘っても断ったりしただろ?ずっと心配だったんだよ」
あれはただ、葛木との用事があって…と言いかけてやめる。何だか面倒な噂とかになったりしてしまいそうだと思ったからだ。課題が終わらなかったんだよ、と言うと、なるほど、と納得される。…何となく罪悪感を感じる。
「まぁ、なんかあったら言えよ。友達なんだし」
おう、と返し、自分の席に戻る。…あいつはあいつで、怯えているのかもしれない。人の命は突然無くなってしまうものだし、明日なんか保証されてはいないということに。
クラスメイトの死というのは、近しい関係だったであろう木下さんや葛木だけでなく、特に関わりがなかったはずの有島にまで影響しているようだ。それくらいに人間は、当たり前を失うことに弱い生き物なんだろう。俺だって、ずっと怯えている。怯えているからこそ、習慣をなぞったりしている。
川原が残していったもの。それは喪失感や絶望感だけでなく、この変な焦燥感だってそうだ。何かしなきゃと思うから、意識的に何もしないを選んでいく。どこかぎこちなく、今日という日を演じている。須貝薊という人間を、このクラスでの立ち位置を、明日を信じている人間を。
本当に乗り越えなきゃいけないのは、こういう違和感なのかもしれないな。おそらくこのクラスの当たり前の活気も、空元気みたいなものなんだろうと思う。心の底から笑えるような出来事があっても、帰る頃には思い出していく。あの空っぽのスペースを、あそこにいた人間のことを。
こんなことも、繰り返せば慣れるものなんだろうか。慣れてしまえば楽なんだろうな。時というのは残酷なほどに早く、過去を過去にしてしまう。この感情から逃げ出す唯一の方法がここに居続けることだというのは、なんというか、ものすごく皮肉だ。
考えないようにすることだけが立ち直る方法じゃない。俺や葛木はそう考えて、できる限り時間を尽くして考えている。…じゃあ、木下さんはどうなんだろう。
ここでじっと耐え続けて、いつか心の底から気にしなくなる時が来るのを待っているのだろうか。…いや、そうじゃないから、俺に話しかけてきたりしたんだろう。本当は辛くて仕方ないはずだ。
同じように川原の死に囚われている人間でも、考え方が違えばアプローチの方法も違う。俺が彼女を慰めるためには何ができるか。そんなことを考えてみるのもいいかもしれない。
「木下さん、放課後時間ある?」
俺がそう聞くと、木下さんはびっくりしたような顔をした。…まぁ、それはそうだよな。
「ちょっと話がしたいんだ。葛木と三人で」
木下さんは戸惑いながらも了承してくれた。…あとは葛木を説得するだけか。葛木円歌という人間からは、何となく首を突っ込んで欲しくなさそうな雰囲気を感じるんだよな。最低限必要な人間以外とは関わりたくない、みたいな。俺もそのタイプだとは思うが、葛木はもっとその性質が強い。
普通に誘ったら、奇跡的に了承してくれたりしないかなぁ。
葛木に了承してもらうための誘い文句を考えているうちに、二時限目も終わってしまっていた。