彼女は、それきり蹲ってしまった。…川原と同じ場所で、川原と同じように死のうとしたのに、川原のことが嫌いだというのは、どういうことなんだろう。質問しようにも、今はそんな空気感ではない。彼女が落ち着くのを待ってから、話を聞いてみることにしよう。
啜り泣く声を聞きながら、久しぶりに来たこのマンションの屋上を見回してみる。時代遅れにも開放されているこの場所が好きで、昔はよく遊んでいたのを思い出した。
ここに来なくなったのは、ここ以上に魅力的な場所を見つけたからなんだと思う。あの森の奥や河川敷といった場所に赴くようになったからだ。行動範囲が広がる度に、ここの重要度は下がっていった。
あの時よりも、空が近く感じる。その分、狭いとも思ってしまう。それは俺が大きくなったのか、それとも世界の見方が変わってしまったのか。俺にはよく分からないが、とにかくあの頃から変化した部分であることは確かだ。
彼女の横に座り込む。まだ泣いているようで、顔を上げることはない。…屋上を見回すことはできても、この下だけは覗き込むことができなかった。俺にとってその行為は、まだ生々しすぎるから。例えるなら、膿んでいる傷跡を弄り回すようなものだ。
彼女の啜り泣く声も、やがて止まる。それでも顔を上げることはなかった。
「…なんでここにしようと思ったの?」
俺が聞くと、彼女はぽつりと答える。
「あの子の関係者にとって、ここは特別だと思ったから」
まぁ確かに、少なくとも俺にとっては特別…というか、特殊な場所だ。来たいようで来たくなかった。彼女を見つけない限り、ここに来ることはなかっただろうと思うほどに。
「川原を恨んでる?」
その問いに、彼女は答えなかった。…やっぱり俺には、何も分からない。川原のことが嫌いだった。それなら、川原のいないこの世界を捨ててしまう理由なんかないはずだ。だったらその怒りは、他の何かに向いているんだと思う。川原本人というよりも、川原の死そのものとか。
「大切すぎたんだろうな、川原のことが」
俺がそう呟くと、彼女は顔を上げた。
「違う、そんなわけない、だって、だって私は…!」
そこまで言って、彼女はその先を言い淀んでしまう。俺はただ黙って、その言葉の続きを待った。
「私は…あんな嘘、つかれたくなかったのに…!」
彼女はそれだけ言い残して走り去ってしまった。俺はこれ以上追い詰めてしまいたくなくて、後は追わなかった。
嘘、という言葉が妙に引っ掛かった。それは彼女にとっての個人的な話なのか、それとも川原が死んだ理由に関係があるのか。それがどちらであっても、彼女には話を聞いてくれる人が必要なんだろう。…もし話を聞いてくれる人がいなくてこんな事をしたのなら、俺が聞いてあげたいと思う。なぜか、彼女のことは放っておけない。
それは恐らく、同情みたいなものなんだろうと思う。きっと彼女も傷付いて、訳が分からなくなってしまったんだろう。それを川原のせいだと言い切ってしまうつもりはないが、あいつが好かれすぎていたというのも理由の一つだろう。…本当に、死ぬべきではない人間だったんだな。
川原が最後に見たであろう空も、こんなに狭かったんだろうか。どこまでも広がっているように見えても、その全てを巡ることができるわけではない。いつの間にか手の届くものしか見えなくなってしまったということなんだろう。…きっと本当は、昔よりも広く見えるべきなんだ。手の届かないものへの憧れを捨ててしまうべきではない。
屋上を後にする。…日が落ちると、冷たい風が肌に染みる季節になった。夏が終わって、秋になる。好きな季節のはずなのに、どうにも今日はその風を心地いいとは思えなかった。
心も、気温も、天気まで下り坂だ。俺の心を写し取ったような雨粒が、外付けの階段を隙間なく濡らしていく。
やっぱり、気分は晴れない。今日解決したはずの悩みとは違う悩み事で、頭を埋められていく。…死んでしまったことを、恨めしいとすら思うほどに。
川原春歌という人間の人生は、俺のそれよりどのくらい濃いのだろう。知れば知るほど、存在自体が大きくなっていく。
部屋の鍵を開ける。少し雨に降られてしまったし、早めに風呂を沸かしてしまおう。…風呂に入ったら、何もせず寝てしまおう。済ませていない買い物も、終わりがないように思える悩み事も、全て忘れて。
…目が覚める。一晩寝たら気分も晴れるかと思ったが、晴れ渡ったのは外の天気だけだった。朝日って、どうしてこんなにも眩しいと思うのだろう。カーテンを開けながら、そんなどうでもいい事を考える。
昨日買い物をしなかったので、今日は朝ご飯がない。行きがけに何か買おうと決めて、それならばと早めに家を出る。…現場検証も、そろそろ終わりなんだろう。河原の死に場所の黄色いテープは撤去されて、見た目には普段通りの公園に戻った。
ここに活気が戻るのも、時間の問題だと思う。人の心の傷や悪い印象というのは、だんだんと洗い流されていく。波に打たれて削り取られていく岩のように。
俺自身の意識だって、きっとそうなっていく。屋上から下の公園を覗き込めるようになって、公園にも立ち入れるようになって、心の底から笑えるようになって…いつか他の人を、好きになるんだと思う。
そうなる前に、早く解決してしまいたい。川原春歌という人間の一生について。場所をここにした理由も、その若い命を散らしてしまった理由も、未だ何一つ分かってはいない。…この熱量が続くうちに、俺は川原春歌を理解することができるだろうか。しなければならないんだ。そう決意を新たにして、いつもよりも早い電車に乗り込む。
「…あれ、早いね」
同じ車両には偶然にも木下さんがいた。挨拶を返して、手すりを掴む。
木下さんは読んでいた文庫本を閉じた。
「いつもこの時間なの?」
俺が聞くと、木下さんは頷いて答えた。
「早起きな割に、上手な朝の時間の使い方は分からなくて」
確かに俺も、朝は苦手だ。低血圧で頭は回らないし、それでも時間は待ってはくれないし。
「…まぁでも、今日は須貝くんに会えたからいいか」
木下さんはそう呟いて、目線をこちらに向ける。
「昨日はありがとう、須貝くん。おかげで仲直りできたよ」
俺はどう返したらいいか分からなくて、目線を逸らすようにしながら、どういたしまして、と一言だけ言った。そんな様子を見て、木下さんはくすくすと笑った。
「昨日はあんなに真っ直ぐな目をしてたのに。変な人だね」
その言葉をどう解釈したらいいかは分からないが、とにかく昨日は必死だったのだ。二人の関係が崩れてしまわないように、これ以上悪い思い出になってしまわないように、俺達は俺達なりに、前を向いて生きられるように。…そうでもない限り、素の俺なんてこんなものだ。
「まぁ、俺なりに頑張ったんだよ」
俺がそう返すと、木下さんは少しだけ俯いて、本当にありがとう、ともう一度お礼を言った。なんだか照れ臭くて、返事はできなかった。
最寄り駅について、コンビニに寄る俺と学校へ向かう木下さんで進路が別れる。木下さんのまた後でね〜という声に、手を振って返す。
コンビニって本当に、選択肢が多すぎる気がする。パン売り場の前で、俺はずっと悩んでいる。ジャム&マーガリンか、つぶあん&マーガリン。双方にそれぞれの良さがあるが、こういう甘いパンを2つも食べると、どっちの味もぼやけてしまう気がする。…悩みながら、俺は木下さんと会えてよかったと思っていた。電車に乗り込むまで重苦しかった気分が、少しだけ晴れやかになったから。
今日も一日、後悔のないように生きよう。そう考えて、俺はメロンパンを手に取った。