人々が生を実感する瞬間というのは、案外活動をしていない瞬間だったりすると思う。お風呂に入ったり、ご飯を食べたり、ベッドに横になったり。言い換えればオフである時間に、生きているんだとぼんやり思うもので。逆に言えば、活動をしている時間はそんなことも考えないほど、当たり前に生を享受している。そんなことを、布団の中でぼんやりと考えている。
いくつになっても、朝は頭が働かない。起き上がるでもなく、かと言って二度寝をするでもなく、ただじっと横になっている。時々襲い来る眠気の波と戦うことだけが自分の使命だとでも言うように。
起きているだけでは意味がない。刻一刻と時間は進んでいくし、そうなれば遅刻の可能性も高まっていく。それは分かっているのだが、いかんせんゆとりのある生活とは無縁なようで、朝日が射し込む天井を眺めたりしている。
…こんなことをしていても仕方ない。そのくらいの判断ができるくらいは頭が回るようになったので、俺はゆっくりと布団から出る。
立ち上がっても伸びをしても、眠気は覚めない。何時間寝てもその感覚が変わらないことに不満を抱く。
洗面台の鏡で見る寝起きの自分は、いつものことだが不機嫌そうで、何にも興味がなさそうで、世の中がどうでもよさそうな顔をしている。所々跳ねた寝癖を手で抑えたりしながら、そんな不機嫌顔と向き合ってみる。
何を考えて、何を気にして、何を大切にして生活しているのか、自分自身のことなのに分からなくなることがある。脳を言語化したり、分泌している物質を解析したりして、客観的に自分を理解したいと思う時が。…そんなことはできやしないから、この先も俺は苦悩を続けるんだろうけど。
そんなどうでもいい物思いに耽っている間に、制服のボタンは一番上まで留まっていた。こうなってしまえば後はもう、外に出るだけだ。その外に出るだけ、が一番難関なんだけど。
できたら、こうやって無意識のうちに終わってしまうことだけをやって生きていたい。考えて考えて、それでも失敗して、また失敗しない方法を考える…というのは、終わりのない迷路を歩き続けるようなものだと思うから。それでも、そうはいかないのが人生というものだということを、まだ十数年しか生きていない俺でも身に染みて分かっているから、今日も考えるために外に出るのだ。
気温もだいぶ落ち着いてきて、ついこの間までまだ夏なのか、と嘆いていたのが嘘みたいに快適な日差しの下を歩いていく。まだ回らない頭では、景色なんかに感慨はない。…いつも前を通る、あの公園を除いては。
段々と子供達も遊ぶようになったあの公園に、俺は未だに立ち入ることができていない。川原のことを知りたいと言いながら、川原が人生を終えた場所に踏み込もうと思えない。何かあるわけじゃないし。そんな言葉を言い訳にして、今日も公園を避けた。
それでも、ずっと入れないわけではないと思う。川原の死がある程度消化できるようになって、傷を触っても痛みを伴わなくなって、思い出が美しいものになった時、俺はここに入ることができるだろう。まずはそこを目指すべきだと思う。決意というほど重々しくはないが、今の自分を変えようとする意識。それを持つことはきっと、この先の人生にいい影響を及ぼすと思う。
駅に着く。サラリーマンと学生で溢れ返るこの箱の中は、何度味わっても苦痛でしかない。一つとして同じもののない話し声も、混ざりに混ざって鼻に届く匂いも、湿度の高いこの空気も、全てが好きになれないままでいる。…昼間はそんなことは思わないのに、なぜか朝だけはこんな文句が出てくる。眠気とか憂鬱さとか、そんなものが生み出す苛立ちが、矛先を向ける先を探しているのかもしれない。
かと言って、学校の最寄り駅に着くまではここから逃げ出すことはできない。吊り広告を眺めたりスマホを弄ったりしながら、少しでも意識を他のものに向けようとする。
いつになったら、俺はこういったものに慣れていくんだろう。受け入れて、許容して、それでも笑っていられるような人間になりたい。…そう願うだけで、それが叶うなら苦労はしない。受け入れたフリも許容したフリも、作り物の笑顔も耳障りのいい言葉も、変われない自分からの逃避だ。
電車を降りる。いつも通り、近くの私立高校の生徒とうちの学校の生徒がわらわらと階段を登っていく。学校までの道で、知り合いに会うことはなかった。そういえば久しぶりに、早くない時間に登校している。…ここ最近の自分がおかしかっただけで、これがいつも通りなんだけど。
教室にはもう木下さんがいた。なんだか久しぶりに、木下さんの隣に座った気がする。最近は俺の方が早かったから、木下さんが俺の隣に座っていたから。…まぁ、そんなに大幅な違いがあるわけではない。
「おはよ」
たまには俺から挨拶をしてみる。木下さんは笑顔で挨拶を返してくれた。
「いつの間にまつりちゃんと仲良くなったの?」
…やっぱり。聞かれると思った。俺は夏休みに公園の前で会った時のことを話す。これが話すようになった理由というわけではないが、別に嘘は言っていない。
木下さんも納得してくれたようで、人と話すのはいいことだよ、と年長者のようなことを言って会話を終えた。
やはり、抱えたものがあると日常生活は上手くいかなくなるものなのかもしれない。今日も、葛木とはまだ話していない。元々話していたわけではないので、少し前の関係性に戻っただけとも言えるが。
それでも、やっぱり声を掛けないのもおかしいなと思い、葛木に声を掛けてみる。…なんとなく人を寄せつけない雰囲気があって、用事もなく俺から話し掛けるのは気が引ける。
「今週の土日、どっちか空いてる?」
意外にも会話は弾み、休日の予定まで聞かれてしまった。…なんだか墓穴を掘っていっている気分だ。
「どっちも空いてるから、好きな方でいいよ」
こうして久々に葛木と休日を過ごすことが決まった。日曜日に会うことになったので、課題や買い物は土曜日のうちに済ませた方がいいだろう。
…呆気なく、一日は終わっていく。心配事というのは殆どが杞憂に終わるというが、まさにそれを実感した一日だった。そうして今俺は昨日と同じ公園にいて、まだ川原が人生を終えた現場に立ち入れないという話を、桐野に聞いてもらった。
「私も、まだ入れないかもなぁ」
平均台のような遊具を器用に歩きながら、桐野はこともなげに答える。それが当たり前のことであるように。
「でも、いつか入ろうね。私一人じゃできないかもだけど」
桐野は俺の顔を見て笑う。…そうか。一人で乗り越えようとする必要はない。桐野だっているし、葛木も木下さんもいる。あそこにたった一人で行く必要はないんだ。
なんでそんなことに気付かなかったんだろう。辛い時は頼ればいいんだ。お互いにそう考えているべきだし、一人で抱え込もうとすることが第二の川原を生んでしまうかもしれないと分かっているはずなのに、なぜか俺はそれを選ぼうとしていた。
「…確かにいつか乗り越えられるかもね、一緒なら」
一人でやらなければならないことなんて、この世にはそんなに多くない。分け合って、負担し合って、ようやく生きていられるのが人間なんだ。
遊具を渡り切ってこちらに向き直る桐野に、そう声を掛けてみる。
「うん、一緒なら、きっと」
桐野の一点の迷いもない目が羨ましい。俺もいつかこうなれる日が来るといいと思う。…ただ、今は。もう少しだけ、弱い自分でいるのも悪くない。そう素直に思えた。