息が詰まりそうになる。固くて飲み込めない何かを、必死で飲み下そうとする。葛木がもう一度口を開くまでの沈黙は、きっと数秒間しかなかった。それなのに、永遠とも思える数秒間だった。
「…って聞いて、簡単に言えるようなら、もうとっくに話してくれてるよね」
葛木は俺から目線を外す。…強ばっていた五感が解れ始めて、俺はやっと、普通に息が吸えるようになった。
「でも、いつかは話してくれるよね?」
葛木の表情は、あまり見たことがない落ち着いたものだった。多分これが本来の葛木で、川原が死んでしまって以降は余裕がなかったんだろうと思う。
「…ごめん。絶対に、いつかちゃんと話すよ」
俺がそう言うと、葛木は笑ってくれた。…心が痛くなる。俺と桐野が抱えている秘密は、話してしまえばそれだけで全てが解決してしまうようなものだ。川原の死の理由も、それを葛木や木下さんに相談しなかった理由も、そして川原が川原でいられた理由も。
だけど、だからこそ二人には、まだ話せそうもない。今まで見てきた川原春歌、その根幹を全て揺るがすような事実だから。…俺だってまだ、ちゃんと受け止めきれているわけでもない。知り合ってからの年数だけで言えば、俺が一番長いのだから。
「まつりはさ、ちゃんとした子なんだよ、本当は」
葛木は突然、桐野の話を始めた。俺は意図が理解できなくて、話の続きを待った。
「…でも、春歌と出会ってから変わっちゃった。自分を守る盾を手に入れたみたいに、いつも余裕そうな態度を取るようになって。そのくせ、いつも何かを気に病んでるんだよ。それを相談してくれもしないまま」
葛木は俺の方を向き直す。
「だから、須貝には相談できてるみたいでよかった。これからも、話を聞いてあげてね」
桐野まつりという子は、俺には計り知れないような逡巡のもと出来上がっているような子なんだろうな、というのは、薄々気が付いていた。きっと何も考えずに川原と同じ末路を辿ろうとしたわけではないだろうし、そこにいたから俺に秘密を打ち明けたわけではないだろうということは。
俺は頷いて、今後も桐野には気を付けないといけないなと気を引き締め直す。…きっと葛木や木下さんも、同じような人種だろうとは思うけれど。
皆何かを抱えて生きている。表面上には窺い知ることのできない、根の深い何かを。
そして、それを自己解決する術を持っていない。誰かと分け合うか、時間が解決してくれるかのどちらかに期待をするしかない。…前者の場合、そんな勇気を獲得するしかない。
幸い、俺達にはまだ、まだ時間がある。そんなに長いものではなくても、少なくとも川原よりは。…川原だって、死を選んでいなければ解決できたのかもしれない。一人で無理をしないで済む方法だってあったのかもしれない。
だけど川原は、一人で抱え切ることを選んでしまった。誰にも気付かれないように、誰も後を追わないように、その事実とそれを乗り越える糸口だけを残して。…もっとも、そこまで狙っていたのかは、本人にしか分からないことだけど。
「…今日はさ、須貝の話が聞きたいな。春歌の話じゃなくてさ」
葛木の言葉に、俺は少し驚いてしまう。…考えてみれば当たり前の話だった。俺が葛木に対して川原の友達という以上の情報を持ち合わせていないのと同じように、葛木も俺のことを川原のご近所さんくらいしか知らないだろう。
「…あー、野菜だと茄子が一番好きだよ」
だけど、俺は自分の話をするのが苦手だった。自分の周りで起こった物事に対して自分なりの意見を言うのは得意な方だと思うが、それは俺という人間の情報ではない。俺が何に対してどう思ったかなんて一過性のもので、次に同じ状況に出くわしても同じことを思うという保証はない。その日の気分とかそれまでの経験によって、簡単に変わってしまうものだ。
「一番最初に紹介することがそれ?」
…俺の渾身の自己紹介が葛木にはウケたみたいで、それからは色々なことを質問された。日によって一番好きな食べ物が変わることとか、趣味と呼べるほど熱中していることがないこととか、計画を立ててものごとをこなすのが苦手なこととか、あまりプラスとは言えない情報まで、俺は全てさらけ出してみることにした。
「春歌が気にするのも分かるよ」
生きている感じがしないとか、あまりに不自然だとか言いたい放題言ったあと、葛木はそう言った。
「なんか不安定なんだよね、全部が」
不安定。初めてそう言われたが、なんとなくしっくり来てしまった。地に足が着いていない感じ。今死んでしまっても、別に悔いは残らない感じ。俺という人間を表すのに、こんなに適切な熟語があったとは。
「…でもさ、それって今からでも何にでもなれるってことだよ」
葛木は真剣な顔で言う。
「何か熱中できることを見つけて、心から好きだって言えるものに出会って、それと真摯に向き合ってさ。そうやって、幸せになっていこうよ」
その言葉はなんというか、すごく沁みた。同じようなことを言う人は大勢いると思うが、それでも葛木の言葉だからなのか、俺は心から頷くことができた。
「…葛木の話も聞きたいな」
俺がそう言うと、葛木は照れくさそうだった。俺の話を散々聞いたのだから、葛木の話も散々聞かせてもらおうじゃないか。俺がそう言うと、葛木が話し出したのは昔の話だった。
優秀な父と母。それを受け継いだ、優秀な兄。そして、自分には何もなかった。だから、自分が嫌いだった。…やがて両親は自分に期待をしなくなって、降って湧いたような自由がそこにはあった。好きなことをしようと思った。好きなことをして、自分は自分だと主張してやろうと。
だけど、そこに好きなものなんてなかった。両親や兄に認められたい、見返したいという気持ちだけで生きてきた自分にとって、その目標を持たない人生は経験不足すぎた。
非行に走ることも、かと言って活動的になって何かを始めてみることもできないまま、周りに合わせて生きてきた。…そんな時に出会ったのが、川原春歌だった。
「…で、その春歌も失ったってわけ。だからさっき須貝に言った言葉は、自分自身に対しての戒めでもあるんだよね」
なるほど、さっきの言葉が妙に沁みたのは、そういう理由もあるらしい。確かに葛木の言葉は、そう生きている人間だからこそ説得力があるものだと考えると合点が行く。
「じゃあ、お互い頑張らなきゃってことだ」
俺がそう言うと、葛木は嬉しそうに、そういうこと、と言った。
「…でもなんで突然、俺の事なんて知ろうと思ったの?」
葛木は少し考えてから言う。
「困難を一緒に乗り越えなきゃいけない人のことを知らないなんておかしいなと思って」
…俺がおかしいだけなのかもしれない。やっぱり、他人との接し方の正解は分からない。間違うことが怖くて、避けて通ってきた道だから。それでも今、それを面倒だとは思わない。むしろ積極的に関わって生きていくべきだと思う。
「…間違っちゃうかもしれないけど」
思わず漏れた不安に、葛木は当たり前のように答えた。
「間違うことは怖いけどさ、でも、間違いがあるから正解があるわけだし、間違った数だけそれを選ばなくなっていったら、最終的に間違わなくなると思わない?」
頭に浮かんだのはいつも通りのネガティブ思考だった。それは葛木が強い人間だからそう思えるだけなんじゃないのか、とか。…だけど、それを否定した先にしかポジティブはない。別に根明になりたいわけじゃない。だけど、根暗でいることが幸せへの道だとは思えない。だから俺は、自分を変えるしかない。何度誓い直しても不安だけど。
「…私達には、時間があるんだからさ」
空を見上げて、葛木はそう言う。…きっと葛木も焦っているんだ。焦るからこそ、残り時間のことなんかを考えてしまう。常に不安で、自分と周りの差なんかを気にしている。
置いていかれたような気持ちになる。そんな結末だけは選ばないように。二人公園のベンチで、未来の話なんかをした。