人生が終わる時、本当に走馬灯を見るのだとしたら。それはこんな瞬間を切り取るものであって欲しいなと、切実に思う。
何気ない会話、どこにでもある当たり前の風景が、一番の幸せなんだと考えるから。中身のない会話、心に波風を立てることのないコミュニケーションが沁みていく。
そういえば、長いことこんなに気を抜いている瞬間はなかったような気がする。問題を抱えていてもいなくても、心の中にあり続けるのは川原のことだったから。気を張っていると言いたいわけではないが、それでもリラックスしていると言うには程遠い状態だった。
それが、条件さえ揃ってしまえば心の底から笑える状態になったことは、俺の中でどう処理したらいいか分からなかった。そういう時間が増えるのは精神衛生上はいい事だと思うのだが、やはり川原のことが薄れていくというのには抵抗がある。
…俺はこの先も、こんな気持ちに悩まされることになるんだろうな。大人になるということや、歳をとるということが、どうにも嫌になってしまう。このまま時が止まってしまえばいいとか、そういうことではないけれど。
説明しがたい感情の流れ。これだって明日には忘れてしまうものなのに。やがて行き着く諦めや悟りに抗い続けるように、俺はこの感情をずっと抱いていたいと思っていた。
やがて辺りは暗くなって、俺たちは帰路に着いた。帰り道の電車も、ここ最近では一番笑ったかもしれない。俺にとってはそれが、暖かくて痛かった。低温火傷みたいに、確かな痛みだけが心を埋めていた。
帰宅してすぐ、俺は横になってしまった。制服のままで。明日のことなんて何も考えず、このまま寝てしまおうとすら思った。楽しいはずのできごとを楽しかったという言葉だけで終わらせられないのは、思ったよりもダメージが大きいものだった。
きっといい気持ちで眠れるはずだ。そう思っていたのに。俺は勝手に、裏切られたような気持ちになっていた。そんなわけはないのに。
…川原さえ生きていてくれたら、俺はこんな気持ちを味わうことはなかったかもしれないのに。ずっと考えたくなかったそんな言葉が頭をよぎって、それを必死に否定する。
よりにもよって、こんな自分の勝手な気持ちを川原のせいにしてしまうなんて。自己否定が止まらなくなる。桐野が後を追おうとした時も、こんな気持ちだったのだろうか。
天から伸びる鎖のような、そんな得体の知れないものに心を縛られている。どうしようもなく硬いのに、決して見えることはないもの。
…あぁ、もうこのまま死んでしまえたら、俺の気持ちは変わらないのに。もしかしたら向こうで川原に会えるかもしれないのに。それでも俺の体は、俺の心は、それを許してはくれない。勝手に生きようと足掻き続ける。生きる為に希望を探して、それに裏切られたら代替品を用意して、その繰り返しだ。
どこで間違えてしまったんだろう。俺も川原も。答えの出ない問いが頭を埋めていく。どうでもいい考え事は、考えても仕方がないから答えが出なくて、答えが出ないから考え続けてしまう。ループに嵌っているみたいに。
寝よう寝ようと考えるほどに、頭は冴え渡って悪いイメージが回り続ける。俺にとってそれは慣れた感覚だったが、今日は嫌に痛かった。
…こうなったら、外にでも出よう。明日のことは明日の自分に任せて、今はこの気持ちをどこかに捨ててしまおう。そう決めてからは早かった。俺は服を着替え、外に出る。思ったよりも寒かったが、どうしてか上着を着る気にはならなかった。
澄み切った空気が満ちている。今日はいつにも増して星が綺麗に見える夜だ。暗くて、静かで、冷たい空の下。俺は相変わらず、こんな夜が好きだった。
街灯が照らす道を、ただ気の向くままに歩いてみる。…初めてこんな風に夜を歩いたのは、いつのことだったっけ。
思い出せる限りでは、一人暮らしになってすぐのことだったと思う。あの時はちょうど今日みたいに、精神的に不安定で眠れなかったから。
夜に吸い込まれるように散歩をしたあの日が、俺にとっては生きる糧だったのだ。当たり前に生きて、当たり前をこなすための、ちょうどいい非日常として。
そういえばいつだったか、川原とも夜の散歩に出かけたことがあった。俺が夜に出かけていることを話した時に、どうしてもついて行くと言って聞かなかったから。くだらないことを話しながら、二人でブランコに乗った。
「このまま時間が止まっちゃえばいいのにね」
そう言って笑う川原と同じことを思っていた。今思っても、本当に止まってしまえばよかったのにと思う。…どれだけ願っても無駄だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。
結局、川原と夜遊びをしたのはそれが最後だった。俺はその後も不定期に散歩をしていたが、まさかあれが人生で最初で最後の川原との夜の散歩だとは思っていなかったから、特に誘ったりすることもなかった。…そもそも、あの頃の俺や川原があの時間に外出しているのは、条例違反だし。
あの時漕いだブランコというのは、川原の事件があった公園のブランコだ。…だから俺は、懐かしむようにそこに行くことすらもできない。俺が公園に入らなくたって、川原がそこで死んだことはなくならないのに。見ないふりができるようなものでもないのに。ただ遠くから、川原はあそこに落ちたんだと思いながら眺め続けることに、意味なんてないと思うのに。
逃げるようにして早歩きをしていたら、いつの間にか駅前に着いていた。照明が消えて誰もいない駅は、他のどこよりも異様な空間に見える。ここは人がいることが当たり前の場所で、暮らしと営みの境目の場所で、一日の活動を始めては終える場所だから。
そうではなく、ただ暮らしの延長線上で、一日を始めるつもりもないままここにいる。そんな非日常感が、俺にとってはここに来てよかったと思う理由だった。多分誰からも理解はされないだろうが、普通はしないことというのは意外にも心を軽くしてくれるものだ。
自動販売機でカフェオレを買う。無遠慮な明かりは購買意欲を促しているようには見えないが、それでもそこに自動販売機が存在しているということを示すだけで、こうして俺のように商品を買っていく奴がいる。だから、これはこれでいいのかもしれない。
冬の時期の自動販売機のラインナップは、夏のそれよりもワクワクする。コーンポタージュだったり、おしるこだったり、夏の間は見ないものが並ぶから。特に買う訳でもないのだが、おしるこがあると嬉しくなる。
こんな無駄なことを、いくら考えていてもいい。なぜなら、俺は今時間に追われていないから。もしかしたら俺がこの時間が好きなのは、そういうことなのかもしれない。何かを気にしなくて済む解放感だとか、現実から逸脱しているような不思議な感覚が、きっと愛おしいものなんだと思う。
コンビニはまだ明かりがついていて、お客さんも二人か三人くらいいる。あそこだけ生活をしていて、あそこだけ時が進んでいる。それを眺めながら、立ち止まってしまった俺はカフェオレを飲む。…隔たりがあるように感じる。不愉快ではない疎外感。俺と彼らは近いけど同じではない別々の場所で、お互いの暮らしを進めている。そんな風に思うことが、何となく俺を現実に引き戻した。
…帰ろう。今日をこのまま寝ずに過ごしたら、どうせ明日の自分は今日の俺を責めるだろうから。きっと大丈夫だ。帰りさえすれば、眠ってしまえる。暖かくして、目を瞑って、なるべく何も考えないように。空き缶を捨てて帰路につきながら、そんなことを願った。