救世主妄想、という言葉を、俺はこの間初めて聞いた。
幸せな人間は不幸な人間を助けるべきだという考えが根底にある人間にとって、不幸な人間を助けられる人間こそが幸せである、という認知の歪みが生まれてしまうという心の動きらしい。
端的に言って川原は、その妄想に囚われていた。抱える必要のない問題を抱え込んで、それを解決できる人間であることこそが自分の存在意義であると信じ続けていた。
…一方で、それが間違いであることも知っていた。人を助けられるから幸せなのではなく、幸せな人間は人を助ける余裕があるだけだということを知っていた。
妄想と現実の狭間で、きっともがき苦しんだんだと思う。誰も、それに気がつけないままで。もしくは、気が付いても声を掛けられないままで。
今考えれば、その存在は完璧すぎた。弱ってしまった人の前に現れて、それを解決して見返りを求めない。そんなことは、俺達にはできないだろうから。
それでも、川原にはそれができてしまった。それを幸せだと信じていたから。人を救うことが、人の役に立つことが、人の心を癒すことが。
川原春歌は、俺たちが思うより特別な人間じゃなかった。…ただ、それだけのことだった。
それだけのことが、俺達には重くのしかかっていた。救われて、残された人間として。
普通に考えたら、負担にならないはずがないのだ。人の心の拠り所になるということは。それでも俺達は、勝手に川原を特別視して、勝手に川原を信仰して、勝手に川原を大きな存在にしてしまった。…それに応えようとすることを、分かっていたはずなのに。
葛木にそう打ち明けた。…長い沈黙の後、葛木から出た言葉はたった一言だった。
「…ごめんね」
俺達には、それしか言えることがなかった。罪を詫びること。もうそれすら叶わないのに、意味がないとわかっているのに、それでもやめられなかった。
申し訳ないという気持ちは、吐き出さない限り消化できない。募り続けていた想いが爆発して、葛木は泣き出してしまった。
遠い思い出が蘇る。きっと川原にとって俺は、都合良く救いを求める隣人だったのだろうと思う。あの時納得がいかなかった川原の行動が、今になってやっと理解できた。
なんとも言えない虚無感が、放課後の部屋に充満していく。射し込んでいた西日も沈みかけて、辺りは暗くなり始めている。
俺達にとって川原春歌が救いであったように、川原春歌にとっても俺達が救いだった。悩んで、足掻いて、救いを求めている人間が。
…それでも、それに応え続けるには、川原は小さすぎたんだ。俺達は背負わせすぎてしまった。実際、取り返しがつかなくなるくらいに。そしてその事実を乗り越えられるほど、俺達の傷は癒えていない。
だから、俺には待つことしかできない。葛木が泣き止んでくれるのを。桐野が立ち直れることを。俺自身が、前を向いて歩けることを。
目的はとうに、川原の死の理由を知ることではなくなっていた。…いつからかは分からないけれど。
川原がいないこの世界で、俺達がどう生きるのか。川原の死を乗り越えるということではなく、川原の死を受け入れること。それを考え始めなければならない時がきた。きっと、そういうことなんだと思う。
「…ごめんね、ごめん…」
葛木が泣き止むのを待つのは、これで何度目なんだろう。もう長い付き合いになってしまった。この感覚にも、この時間にも、もはや慣れてしまいそうだ。
いつかの自分はきっと、今のこの状況を裏切られたと思うんだろう。手を離されて、やっぱり掴まなければよかった、なんて思うんだろう。弱い自分を覆い隠すための強い言葉を、空っぽのどこかに宛てて投げたりするんだろう。
だけど、今の俺はそうじゃない。ちゃんと分かっている。ままならない世の中のことを、それを受容して生きることを、自分が恵まれていることを。それは川原がくれた、俺が俺として生きるために必要な考え方だ。
結局何も返せなかった。川原の思惑通りに。その事実は俺をやるせなくさせるし、過去を悔いる原因にもなる。
だけどあの過去がなかったら、今の俺はこうして葛木に話はできていないだろう。人知れず消えるようにいなくなって、先のことも全部どうでもいいという顔をして、また救いを待ってしまうだろう。
帰り道、やっと泣き止んだ葛木は、それでも言葉を発することはなかった。連れ添って歩く間、何の会話もなく時間だけが過ぎていく。
錆び付いたフェンスの脇を歩きながら、潰れてしまった店の看板を目印に駅の方向に曲がっていく。…まだ、俺達には救いが必要だったのかもしれない。川原が救いたいと思って、救い続けてくれたはずの俺達なのに。
「…寄り道していい?」
やっと口を開いた葛木から出たのは、そんな言葉だった。俺はもちろん了承する。
電車で向かった先は、葛木の家の最寄り駅…なんだろうか。よく分からない。とにかく、俺の知らない駅であることは確かだった。そういえば、俺は葛木のことをよく知らない。突然部屋に訪ねてきて、そこから関わるようになった人間だから。…今思い返してみれば、衝撃的な出会い、と言った感じだ。
連れて行かれた先は、遊具も少ししかないような、小さな公園だった。
「私が一人になりたい時によく来てた場所」
そう言って、葛木はベンチに座る。隣を指されたので、俺も座る。
「…私はずっとここで、日が昇るのを待ってた。誰よりも早く起きて、誰よりも早く着替えて、誰よりも早く家を出て。そしてここで、ちょうどいい時間になるのを待ってたの」
…何故、とは聞けなかった。きっと何かがあるのは分かっているが、そこに踏み込んでいいかの判断ができなかったから。
「時間って、思ったよりすぐ過ぎるから。家にいるよりも、ここにいる方が楽だった」
なんとなく、家庭内の不和、みたいな言葉が頭に浮かんだ。俺には想像もできないことだけど、そういうつらさがあることは理解できる。
「その日もいつも通りここで、朝日を眺めてた。…昇り始める日って、実際ちゃんと直視できる唯一の太陽なんだよ」
葛木はこちらを向いて、少し笑う。朝焼けのイメージ。俺は最近、いつそれを見ただろうか。
「…そしたらね、春歌が声をかけてきて。何してるのって」
俺と同じだ。…でも本当に、どこで俺や葛木の悩みに気がつくんだろうか。心の底から不思議で、今考えてみれば不気味。それでも俺や葛木にとって、それは必要な救いの手だった。
救いたい、という気持ちは、きっと川原の中では強迫観念みたいなもので、恐らくそういう人間のサインを絶対に見逃さない努力をしていたんだろうと思う。誰もが感じることのできる小さな違和感を、絶対に離さないみたいな。
そうして、そういう人に手を差し伸べる。
「まるで、太陽みたいだな、って思った」
俺は葛木と全く同じことを考えた。そうだ。川原は太陽だった。こちらからは何の表情も見えないし、その意図もよく分からない。ただそこに存在していることだけが確かな、眩しすぎる光。
「…だから、あの子の影には気付いてあげられなかった」
俺達はずっと照らされていたから、川原に落ちた影のことには気が付かなかった。きっと誰もが、それを抱えていたはずなのに。
俺達の会話は、また止まってしまう。辺りは真っ暗で、もう人の気配は感じなかった。街灯が無遠慮に照らすベンチの下で、ただ俯いて時が過ぎるのを待つ。
明日も日が昇るのを、当たり前のことだと思えないままで。