静寂と、ラジオ番組の音と、エアコンの柔らかな風が流れる。俺はただ黙って、メモを取る葛木を眺めていた。
それにしても綺麗な字だなぁ。俺は少し感心しながらメモを眺める。俺の言った夢のことや、その場所のことまで、事細かに書き記している。
「そういえばさ」
葛木は急に顔を上げ、俺に話し掛ける。
「須貝と春歌はどうやって仲良くなったの?」
俺は少し考えて、それから言う。
「仲良くなったというか、俺が一方的に絡んでたっていうのが正解なのかな」
葛木は意外そうな顔をした。
「中学生の時の俺の方が、もっと社交的だったんだよ」
今みたいに一人でいることを気楽だと開き直れなかったから、そうするしかなかったんだけど。中学生の頃のことを少しだけ思い返した。
思えば本当に、マンションが同じことだけが俺達の接点だった。
中学生の頃は、そんな事は考えもしなかった。ただ母の言いつけ通り、俺が支えてあげないと、と思っていた。
「…ふーん、なんか意外」
あまりにも淡々と会話は進む。意味も山も谷もない会話だけが重ねられて、時折沈黙がそこに佇むことに、特に違和感はなかった。
「…そろそろ、夏が来るね」
葛木は窓の外を眺めて言う。同じように窓の外に目をやると、入道雲が高く積み上がっていた。
「夏だなぁ」
何の中身もない返事をする。…それ以外に、特に言葉は思い浮かばなかった。
「…今年も、変わらずに夏が来るんだ」
葛木は視線をノートに戻す。俺はグラスに口をつけて、傾ける。喉を冷たいものが通り過ぎていくのを感じる。
「もう、春歌はいないんだ、本当に」
静寂も、中身のない会話も、それを殆ど話したことのない相手としていることも、ひとつも気まずくないのは。明確に、今の葛木の言葉が理由だった。
俺達は今もまだ何となく、この世界を夢だと思っている。いつもいて当たり前の存在がいなくなってしまったことを、どこかで受け入れられていない。
昨日も今日も、何となくで過ごしている。過ごすというよりは、やり過ごしているのに近いのかもしれない。それなのに、こんなに上の空でも回っている世界が、どうしようもなく現実に引き戻そうとする。
昨日から…厳密に言えば一昨日から、この世界に川原春歌はいない。
それはどうしようもなく、一分の疑う隙もなく、事実なのだ。
葛木は押し黙ってしまった。ペンを置いて、ただテーブルの上を眺めている。思い出だとか、感傷だとか、色んなものが頭の中を渦巻いているのだろう。
俺もそれに倣って、思い出を辿ってみたりする。…考えてみれば、5年にも満たない短い期間だった。
俺たちのこれからは、多分とてつもなく長いだろう。もしかしたら川原との関わりなんて、いつの間にか擦り切れてなくなってしまうようなものだったかもしれない。
卒業して、数年経って、アルバムを読み返して。写真なんかを見つけて、そういえばいたなぁこんな奴、なんて微笑むような、そんな程度の存在だったのかもしれない。
ただ、今の俺や葛木にとってはそうではない。川原春歌という、そこにいるのが当たり前の存在だったのだ。
「…なぁ、今日はもう」
帰ろう、と言い切る前に、葛木はペンを取った。
「他に何か、思い出とかはないの?」
…あぁ、一人で抱え込めないタイプなのか。俺はそう解釈して、中学生の時の記憶を辿る。
そうは言っても、その頃からまだ2年ほどしか経っていない。人が変わるには短すぎる時間じゃないだろうか。
「咄嗟には浮かばないな。葛木の方は?」
もしかしたら、俺の見た事がない川原のことも知っているんじゃないだろうか。そう思って聞いてみる。
「うーん……」
しかし、葛木の話の中にも、俺のイメージにない川原春歌はいないようだった。なんとなく違和感を覚えるくらい、ずっと川原春歌であり続けているような、そんな気がした。
「あの子の本音を聞いたことがある人なんて、実際いないのかもね」
葛木はノートを閉じる。ふと時計を見ると、ここに入ってから2時間が経過していた。
席を立って会計を済ませる。…2時間が経ったとはいえ、時刻はまだ昼下がり。別に遊びに来た訳ではないが、葛木は帰りたくないようだし、せっかくならと思い提案する。
「…よかったら、また家で話す?」
俺が言うと、葛木は驚いたような顔をした。
「…うん。ありがとう」
それから少しだけ笑って、歩き始める。…よくよく考えたら、親友が自殺した現場の近くの家に気軽に誘っていいものなのだろうか。言い切ってしまってから後悔するが、まぁ本人が良さそうだからいいか、と思考を放棄する。
「そういえば、春歌は須貝の家、よく来てたの?」
中学生の頃は頻繁に。そう答えると、葛木は不思議そうな顔をした。
「なんで来なくなったの?」
聞かれて、少し表情が固まってしまう。
「…母さんが死んでからは、なし崩し的にね」
気にしていないというように、淀みなく返事をする。上手く取り繕えているだろうか。
「…あ、そっか、ごめん変な事聞いて」
明確に、葛木の表情は暗くなってしまう。違う。踏み入られたくないわけでも、話したくないわけでもない。ただそれを気にしている自分が、それすら超えられる気配のない自分が、とても嫌なだけだ。
それを上手く説明することはできないまま、家の前に着いてしまった。
鍵を開けて、中に入る。
「川原はこのぬいぐるみが好きだったんだ」
わざとらしく明るく振る舞う。ぬいぐるみを手渡すと、葛木は両手で抱えたそれをまじまじと眺めていた。
その間に何か飲み物でも…と思い冷蔵庫を開けると、それらしきものは何もなかった。そういえばここ3日くらいは課題が忙しかったりして、買い物に行っていないんだった。
「…一人で住んでるの?ここ」
葛木は部屋を見渡して言う。…確かに一人で住むには広い部屋だ。
まぁね、と返し、部屋の窓を開ける。
「昔はそこが俺の部屋だったんだけど」
リビングから見える引き戸。その先は子供部屋なのだが、今は学習机と仏壇が並んだ、何ともアンバランスな部屋になっている。
「…今は、だいたいリビングにいる」
ソファで寝たり、ダイニングチェアでだらだらテレビを見たり。俺が一人で生活するのに、寝室らしき空間は必要なかった。
「ふーん…一人暮らしって大変じゃない?」
まぁ慣れだよ、と返す。今現在ですら、買い物を忘れているし、風呂のお湯も溜めっぱなしなのにも関わらず。生活できているというには程遠い。
「でも少し…憧れる部分もあるかなぁ」
誰だってそうなんじゃないかと思う。家族がいた頃は、小説の中で下宿をする主人公なんかを羨ましいと思ったものだ。別に、思っていたほどいいものでもなかったけれど。
…もしあの時、俺が塞ぎ込んで拒絶したりしなければ。川原は今でも、この部屋に来たりしていたんだろうか。考えたって仕方のないことが頭を埋め始める。
脳みそも換気できたりしたらいいのにな。吹き込んできた風に当たりながら、そんなことを思った。