時は流れ、時刻は夕暮れ。やさりと言うべきか、俺達の中にはこれ以上、川原春歌はいなかった。ずっと見てきたはずの人物は、ノート1冊分にも満たない思い出で終わってしまう。それはやはりそれだけ、俺や葛木が川原を見ていなかったということなのだろう。…だから、と言うか、そうあるべくして、俺達は気付けなかったんだろう。
俺は俺で、ノートに川原のことを纏めてみたりした。たったの3ページ。俺が川原春歌という人物を描き上げるには、それだけで充分なようだ。…これが絵画なら、輪郭さえもぼやけていることだろう。当たり前とは得てしてそういうものなのかもしれない。
俺が得ているのは川原の情報ではなく、当たり前を失ってしまうということの結果だけに思える。明日なくなってしまうものに気付くのは何週間経ってからなのか、そんなことを考える。
自分の無力さに爪を噛んだり、頭を掻き毟ったりする。意味のない行動を、意味もなく繰り返してしまう。…とても現金だと思う。いざいなくなってしまってから、その有り難さに気付くというのは。
こうしていてもしょうがない、という苛立ちと、こうする以外に何がある、という苛立ち。2つの同じ感情に苛まれながら、この夜が過ぎるのを待つ。
ただ何となく、何となくでいい、光明が欲しくて仕方なかった。…きっと俺は、こんな辛い思いをするくらいなら、と思っているんだろう。そんな自分も嫌だった。
代わりに消えるのが自分だったらどれほど楽だっただろう。そんなことも、考えるだけ無駄だ。感情と呼べるもの、情緒と呼べるもの、それが全て掻き出されているような気分だ。
…気が付けば朝になっていた。眠ったのか、考えているうちに日が昇ってしまったのか、全く見当もつかない。何か用事でもあればいいのに、生憎と今日も休日だった。ぼんやりとベッドの上で物思いに耽る。もしかしたらここで始めた今日を、ここで終わらせてしまうかもしれない。それくらいに、起き上がる気力がなかった。
目を瞑っても眠れる気はしない。何か音が欲しくなって、聞きなれた音楽をかける。
あんなに好きで、ずっと聞いてきた曲なのに、心を動かされることはない。
…こうしていても仕方ない。ベッドから立ち上がって、カーテンを開ける。眩しくて、俺は目を細めてしまう。窓いっぱいに、日常が広がっている。
何とも平穏無事な景色だ。数日前、この真下で散った命があるとは思えない。
携帯の通知が鳴る。珍しい、父からの連絡だった。要件は川原のこと。随分と取り乱している様子で、所々誤字が混じっている。俺は久しぶりに、父に電話をかけてみることにした。
数回のコールの後、電話口で久々に響いた声は、やはり懐かしいと思った。
「…久しぶり」
どう声をかけたらいいかわからなくて、弱々しくそう言う。同じように久しぶり、と返ってきて、そこから会話は止まってしまう。どうにも意味のある言葉は出てきそうになかった。
「…自殺、だったんだって?」
以外にも父はそこに踏み込んできた。うん、と一言返す。きっとこれから先紡がれる言葉は、今の今まで生きている人間らしい言葉で、俺には共感できそうにないな、という予感がした。
「生きていれば、きっといい事があっただろうに」
終わってみれば8分程度の通話。その中の、ほんの一言が頭にこびりついている。生きていれば。そう思うのも仕方ない気がするが、そうではなかったから…というより、そう思えなかったから、川原は死んでしまったんだろう。
でも、父の言いたいこともわかる。最愛の人を病気で亡くしてしまった父にとって、死とは不条理にその先の人生を奪う物だろうから。
与えられた命を途中で投げ出さないことも、人生に区切りをつけるためにその先を捨てることも、俺にはどちらも正しいように見える。恐らく、正解は一つじゃないんだろうと思う。…どちらにせよ、途中で死んでしまったという事実が残るだけだ。
どれだけ考えても、川原にしてやれることはもう何一つない。その遣る瀬無さが、俺の思考の終わりを早くさせる。泣いても喚いても、もう川原は戻ってこない。それなのに、今更川原のことを考えて、何か意味はあるのだろうか。ずっとこびり付いているそんな思考が、どんどん大きくなるのを感じる。
もしかしたら、葛木も同じことを考えているかもしれない。そう思って、葛木に電話をかける。なぜか、そうすべきだと思った。
『…もしもし』
電話越しの声は低かった。
「ごめん、寝てた?」
俺が聞くと、葛木は否定した。寝られなかったらしい。
「俺も寝られたのかどうか、微妙なところ」
そう言うと、電話の向こうからはくすくすと笑い声がした。
『なにそれ。変なの』
笑ってくれたことに安堵する。そのまま、くだらない話をしたい気分だ。話題はなんだっていい。だけどただ、覚えておくのも億劫なくらいの、くだらない話をして。大きくなりすぎてしまった思考に答えを出すのを、遅れさせたいと思っている。
『…ねぇ、なんで急に電話してきたの?』
その意図が伝わってしまったようで、葛木はそう突っ込んできた。俺は正直に、今思っていることを吐き出した。
『…そう、だね。私もそう思う』
葛木はぽつぽつと語り始めた。
『私にとって、春歌は一番の友達だった。だけど、本当に話したかったことは言えなかった。そうしたら…春歌は心配すると思ったから』
俺は相槌を打ちながら、ぼんやりと考える。俺は何か、川原に言えなかったことがあっただろうか。言いたいことも言えないこともないくらいに、疎遠になってしまったような気がする。
『…春歌にとっても、きっとそうだったんだろうと思う。私や周りの子達に心配をかけたくなかったんだ』
幸せになって欲しい人間にほど、自分のマイナスな部分やネガティブな部分を見せたくない。…人間とは、つくづく面倒な生き物だと思う。
『でも、私はやっぱり、納得できないから。だから、納得したいだけなのかもしれない。それがあの子の為だとか、もう二度とあんな思いをしたくないからとか、そんな理由をつけて。私はただ、自分の納得の為に動いているのかもしれない』
葛木の声のトーンはどんどん落ちる。何か口を挟むこともできないまま、俺は話の続きを促す機械のようになってしまう。
『…だけど、それでいいんだと思う。少なくとも、私は』
葛木の言葉は、何となく不安定だ。言いたいことがまとまっていないような、結論だけが先に出ているような、そんな状態。だからこそ、本心なのだろう。
『私は私の幸せの為に、あの子の不幸の理由を知りたい。ちゃんとあの子を悼むことが、今の私にとっては幸せなんだと思うから』
俺は、頬を叩かれたような気分になった。…正直、そこまで考えたことなんてなかった。
何を話したかも覚えていない。何か適当なことを言って、通話を切った。高校の面接だとか、先生と一対一で話している時のような、早く逃げ出したい感覚に襲われてしまって。
もっと深く考えるべきなんだ。人の死や、その人自身について。常々感じ続けている人への興味関心の薄さが恨めしくて、下唇を噛む。
軽い気持ちで取り扱うべき事件ではないのは、分かっていたはずだった。…いや、分かっていたつもりになっていただけだった。そして何よりも、俺の川原に対する感情の薄さが暴かれた気分だった。
俺は、このまま川原のことを考えていてもいいんだろうか。…答えを与えてくれる人は、もはや誰もいなかった。