時計の秒針が忙しなく今を過去にしていく音だけが響く部屋の中で、俺は一人椅子に座らされていた。
…なんだか釈然としない。連絡をせずに休んだのは葛木も同じなのに、俺だけが呼び出されて、俺だけが放課後の時間を浪費させられている。
控えめに言ったって贔屓だろう。というか、こんなに長く席を外す用事があるなら呼び出すなよ。愚痴が頭の中に充満していく。いつか部屋を埋めんばかりのネガティブに心を支配されてしまう前に、早くこの場から解放されたいと願っている。
それにしても、どの学校にもある指導室とかいう部屋は、本当にこんなことに使うためだけに設置されているものなんだろうか。俺はよく呼び出されるが、俺以外の生徒がここに来ているのを見たことがない。
「悪い、待たせた」
考え事をしているうちに、宮内先生が入室してきた。…おいおい、40分待たせてその一言かよ、さすが社会人。そんな皮肉が浮かんで、それを咄嗟にかき消した。
「お前は、なんというかこう、時間にだらしない部分があるというのは分かっていたんだが…無断で欠席をするようなタイプだとは思っていなかったから、一応な」
宮内先生は言葉を絞り出すようにしながら、話を進めていく。
「ほら、お前と川原は同じマンションに住んでたんだろ?そういうのも関係あるのかと思ってな」
俺はただ頷くだけで会話を終わらせようとする。関係があると言ってしまうわけにいかないというのもその理由の一つだが、関係ない、と言い切ってしまうのが怖かった。
「…まぁ、その辺は別に深入りしようとかじゃないんだが」
俺の態度に思うところがあったのだろう、宮内先生はそこでその話を切った。
「今までのお前の出席状況で、昨日欠席がついたのはだいぶマズい。その辺はわかるな?」
申し訳なさそうな表情だけを浮かべて頷く。…あぁ、そういえば俺って、進級危ないんだっけ。そんなことも忘れてしまっているくらいに、最近の日常は目まぐるしかった。
「…お前だって大事な生徒の一人なんだし、これ以上欠けることなく進級したいと思ってるんだ。少なくとも、俺はな」
俺だって、進級できることならしたいし、昨日は別に間に合いそうだったし…色々な想いが頭の中を巡っていく。
「何か、将来の目標とかないのか?何になりたい、とか、何をやってみたい、とか」
少し考えてみる。将来の目標。…思えば中学生の頃から、この手の質問が苦手だった。やりたいことなんて特にないと思うのは子供らしくないし、そんな返答を求められているわけじゃないと分かっていながら、それでも自分には何もなかったから。
そんな経験があってから、俺は死んだ目で俯くことしかできなくなった。
「…まぁ、今すぐ見つけろみたいな話じゃない。ただ何かやりたいことができても、それが自分の選択範囲外になってしまう可能性だってある」
…多かれ少なかれ、夢や目標なんてそんなもんなんじゃないのかな。叶う場所にある夢だけが褒められて、自分の格に合わない夢は笑われて、劣等感や敗北感の中で自分自身を知る。それが正しい形なんだろうか。
「とにかく、来週の中間テスト、相当いい点を取らないと厳しいぞ。他のことに気を取られる前に、まず自分のことをやれ」
はい。頑張ります。そう言うと、宮内先生は指導室のドアを開けてくれた。
やっと解放されて、帰路に着く。
…他のことに気を取られる前に、か。俺にとって進級より大事なことでも、大人から見たらそうでもなかったりするんだろうな。そういう意味で、俺はどうしようもなく子供だ。
校門を出ると、葛木が待っていた。
「…呼び出し、私のせいだよね。ごめん」
しゅんとした様子で、あんなに強引に俺を連れて行ったのと同じ人物だとは思いづらい。おかしくて、俺は少し笑ってしまった。
「気にしないで。もともと遅刻が嵩んでたのは俺のせいだし」
言いながら、二人で歩く。…まぁ、誰かに見られたりするような時間でもないだろう。もうすぐ沈むというのにまだやかましい太陽を手で隠しながら、駅に向かう。
「…そういえば、他の友達は?」
話の流れで、気になっていたことを聞いてみる。
最近、葛木は一人でいることが多い。何をしていても一人なので、今日は俺から声を掛けてお昼を一緒に食べた。
「喧嘩した…というか、お互いにね、八つ当たりをしちゃった部分があって」
…あぁ、川原のことで。俺は納得して、それ以上何も聞かなかった。
多くの生徒との帰宅時間帯がズレていることで、電車の中は静かだった。車輪がレールの継ぎ目を通過する時の音が、いつもより心地よく感じる。
幾度か人を降ろしたり乗せたりして、ようやく俺の最寄り駅に着いた。
二人で降りて、改札を通る。
「…全然聞いたことなかったけど、最寄り駅一緒なんだっけ?」
俺が聞くと、葛木は首を振った。
「私はもう少し先」
当然、と言うように降りたので聞きはしなかった質問をする。
「じゃあ、なんで降りたの?」
きょとんとした顔をして、葛木は答える。
「なんでって…用事がなきゃ行っちゃいけないの?」
そうでもないけど、と曖昧な返事をして、駅から数分しか歩かない家に帰る。
部屋は熱気が籠っていて、本格的に暑くなってきたことを知らせている。
「…付けよっか、エアコン」
今年初めて浴びるエアコンの風。昔はこれがすごく苦手で、一日中付けておくことはできなかった。だけど今ではすっかり慣れてしまって、これがないと生きられないと思う時すらある。
「そういえば、須貝はテストどうなの?」
聞かれて即答する。
「ヤバい。相当頑張らなきゃ進級も危ないってさ」
葛木は何故か嬉しそうに笑う。
「そうだと思って、テスト対策考えてきた」
それはすごく助かるが、何故そこまで?そんなことを考える俺を他所に、葛木はノートを数冊取り出した。
「これだけ覚えとけば、今回のテストは大丈夫だから」
俺はそれをぱらぱらとめくる。
「…これだけって、だけっていう量じゃないんだけど…」
俺が言うと、葛木は不思議そうな顔をした。
「要点だけ纏めたつもりなんだけど」
…知らなかったが、もしかして葛木って成績がいいのか?皆勤がどうとか言ってたし、勉強ができるタイプなのかもしれない。
「…まぁ、頑張るよ。ありがとう」
そう言って席を立とうとすると、葛木に止められる。
「頑張るよ、じゃなくて、今から頑張るの」
…まぁ、なんとなくそんな予感はしていた。俺は諦めて机に向かい、筆記用具を取り出す。
「須貝には、進級してもらわないと困るんだよ」
その言葉通り、葛木は真剣に勉強を教えてくれた。俺の基礎学力が低いせいで想定ほど進まなかったのを気にして、ここから一週間毎日勉強を見ると言われた。俺はありがたくその提案を受けて、勉強に専念してみることにした。
「…じゃあ、今日の夜もサボらないように」
葛木はそう言い残して、8時前に帰っていった。俺は残されたテスト対策のノートを眺めながら、何となく嬉しくなっていた。
一緒に進級したいと言われることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「…頑張るぞ」
一人呟いて、またペンを取った。