努力をしたことがない人生だった。意味がないと決め付けて、そういうものを避けてきた。
努力をせずにできないことよりも、努力してできないことの方が怖かったからだ。努力した結果叶わずに、あぁやっぱりな、と自分を嘲笑する自分がいる想像をするだけで怖くて仕方がない。
それでも、やらなきゃいけない時はある。今まで逃げ続けてきたツケを払わされる時がある。そうなってしまったら、腹を括るしかないのだ。
俺はペンを取り、ただ必死に問題を解いていく。分かるもの、分からないもの、見たこともないもの、見たことがあるけれど思い出せないものと、頭が痛くなるような文字列が並ぶ。
あぁ、なんで真面目にやってこなかったんだろう。そんな言葉が頭に浮かぶ度に、どうせ反省しないのに、と冷めた自分に言い聞かせられる。
やるしかない、やらなきゃ終わりだ。そう考えながら、ひたすらノートと向き合う。
葛木が貸してくれたこのノートは、きっと要点がまとまっていて、分かりやすいものなんだろう。俺にはそんなことも分からない。それくらい、何もやってこなかったのだ。
過去の自分にイライラしても、いくら昔を悔いても仕方ない。大事なのは今だ。今を逃してしまえば次はない。そう思いながら、人生で初めてちゃんと勉強をした。
頑張るというのは、思ったより簡単ではなかった。どこまでも言い訳ができるのと同じように、どこまでも努力はできるから。
当たり前の話、到底間に合わないと思って勉強をしている。ずっと頑張ってきた奴に、今だけ頑張った奴が勝てる世界では不平等だから。
だけど、それを掴まなきゃいけない。周りがずっとしてきた努力を、今だけの努力で越えなければいけない。
寝食も忘れて勉強に励んだ。貧血で倒れそうになる日もあった。その度に、満たされる自分がいた。
あぁ、俺は努力ができる人間だったんだ。
そう思えば思うほど、休むことができなくなっていく。多分、本当はそれじゃいけないんだろうけど。
非効率でも、非合理でも、泥臭くてもいい。
ただ、自分が自分を肯定できる何かを、掴み取りたかった。
自分のこともできない人間が、他人のことなんて考えられるはずがないから。
俺はここで、そんな自分と別れなければいけない。
…また、いつの間にか夜が明けた。そんなことを思うのは、これで何日目だろう。眠ったのか気絶したのか、はたまた無意識にペンを取り続けたのか、俺には判断もつかなかった。
ただ、どこか胸がすくような思いがあって、朝日を見るのが好きになった。
夜を越えて朝を迎えることが、嫌でなくなってきた。
それを成長だと捉えて、また遅刻ギリギリまでペンを取った。
そんな日々を繰り返して、テストを迎える。
全て終わった時、人生で初めて手応えというものを感じた。
やった。俺はやったんだ。
どこか人のいない場所でガッツポーズでもして、無意味に叫びたい気分だ。
自己採点もせず、来週以降の返却日を楽しみに待つ。…というほどの自信はなかったのでさすがにやってみた所、どうやら大丈夫そうだった。
初めてなんの後悔もなく返却の日を迎える。各教科担当の先生の驚く顔が面白くて、勉強も悪くないと思う。…というか、俺が平然と悪い点を取って、当たり前のように進級しないと思っていたんだろうか。
まぁ、そう思われていてもいい。結果が全てだ。
返却された答案は、全てギリギリだったものの合格点だった。これで俺は、赤点がないまま二学期を迎えられることになった。…自己採点よりいくらか低くて、びくびくしながら答案を眺めたりもしたのだけれど。
放課後、葛木に最大限の感謝を伝える。答案を見せながら、それはもう必死に。
「いや、別に…須貝の頑張りでしょ」
そう言いながら、心底ほっとしたような表情を浮かべてくれた。
「本当に助かった!ありがとう!」
もう一度念を押すように感謝をして、その場を去る。また宮内先生に呼び出されているのだ。
「失礼します」
部屋に入ると、宮内先生は笑顔で迎えてくれた。
「とりあえず、一学期はセーフだな」
握手を求められ、素直に答える。
「ありがとうございます。先生が釘を刺してくれたおかげです」
半分泣きそうになりながら伝える。俺の心中はまるで今から卒業する生徒のようで、自分でおかしな感覚に陥ってしまう。
「二学期は釘を刺さなくてもいいように頑張ってくれよ」
二人で笑い合い、指導室を後にする。明日が終業式なので、荷物を半分持って帰ることにした。…一日では持って帰れないほど、荷物をロッカーに溜め込んでしまっているからだ。
今日はテストの返却があっただけなので、補習のない俺はもう下校だ。教室に入ると、もう誰もいなかった。
いつもの騒がしさのないこの部屋は、何だか別の空間みたいだ。…ただ一つ、瓶が置かれた机の周りを除いては。
二学期には、この机は撤去されるらしい。だから今日と明日で、この光景を見るのも終わりだ。
寂しいような、すっきりするような、そんな気持ちだ。
川原が飛んだ日は、普通の平日だった。
俺も、恐らくはその周りも、こんなことになるだなんて誰も思っていなかったはずだ。
案外、この世界で生きているのも悪くはなかったと思うのに。そう無責任に思ってしまう自分がいる。
俺が楽しいこと、俺が美しいと思うもの、俺がやりたいと思うこと、それらは川原にとってもそうとは言いきれないものばかりだし、川原の辛かったことや苦しかったことは、俺には全く分からない。
今生きている人間と、死んでしまった人間。その隔たりは俺が考えているより大きくて根深いんだと思う。
俺は崖際にいたつもりだったが、実際飛んでしまった人の気持ちなんて理解できない。下を向く勇気もないまま縋り付いて、いざその勇気を出した人に対して勿体ないなんて思っている。
…俺はもしかしたら、この人生の諦め方を学ぼうとしたのかもしれない。どう考えて、何を覚悟したら命を終わらせられるのか。それを知りたくて、川原の死の理由を探していたのかもしれない。
そんな素っ頓狂な思考にすら納得できてしまうほど、俺の川原に対する感情は歪んでいて複雑だ。きっとこれから先も、俺が川原の死を紐解きたい理由は二転三転するだろう。それでも、俺が川原の死の理由を知りたいと思うことに変わりはないと思う。
「何してんの、早く帰るよ」
教室の扉を少しだけ開けて、葛木が言う。
「ごめんごめん」
そう返して、教室を後にする。…さようなら、川原がいた証。それ以上でもないが以下でもない、大切な場所。ここが残された理由は多分、俺を満足させてくれるようなものではないけれど。ここが残っていたおかげで、学校でも勉強に励むことができたのは間違いない。
川原には助けられてばかりだ。昔も今も。何だかおかしな気分だ。もういない人間に励まされているというのは。
川原がいなかったら、俺はこんなにすっきりした気持ちで一学期を終えられなかったと思う。…こんな風に、ずっと助けられていくのかもしれない。川原との思い出とか、幻影に励まされるように。
一学期を助けてくれた川原の足跡は、もう消えてしまうから。これからは俺の力で頑張らなきゃいけない。というか本来、それが当たり前なんだ。
俺は過去に縋り付きたいと思って、川原が死んだ理由を探しているわけではない。だから、一つ一つに別れを告げていかなければならない。そして今日がその第一歩になるんだ。
一学期、頑張らなかった自分と、川原が一学期を過ごした空間に、さようなら。