緋色の空に鐘は鳴る   作:穢銀杏

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序幕

 

「なあ、やっぱりやめておこうぜ。まずいよこれは、明らかに――」

 

 声をふるわせ袖を引く、幼馴染みの柔い手を、

 

「臆したか」

 

 せせら笑って千切るように振り捨てた。

 

 今ならわかる、あれが間違いの元だったのだ。

 私の人生はあの瞬間から、それまで夢寐にも描かなかった、奇妙奇天烈摩訶不思議な方向へ、どうしようもなく素っ飛んでいってしまったのである。

 

「臆したなら、帰れ」

 

 何故あんなことを言ったのだろう。

 両の脚から力が抜けて、膀胱の中身を今にもぶちまけそうになっていたのは私とて同様だったというのに。

 

「私は、行く。ひとりだろうと行ってやる」

「そんな」

 

 ああ、たぶん、あの顔が悪い。

 あと一突きで堤が破れて、中身が滂沱と溢れ出す。涙腺決壊を間近に控えた幼馴染みの情ない(つら)を見ていると、つい無用の勇をふるいたい気がむくむく湧いて、思いもかけず強いセリフを吐いたのだ。

 

 私が女で、幼馴染みが男であったということも、そういう気分を大いに後押ししただろう。

 

 ――男のくせに、なんだこれしきで、情ない。

 

 異なる性の持ち主を、爪先で責め、弄ぶ。

 その残忍な快感が、私の判断を狂わせた。もっと、もっとと。引き際を忘れて嗜虐の悦に浸り続けてしまったのである。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 山峡(やまあい)の村に、私は生まれた。

 

 紺碧が岩に砕けて流れるほとり、猫の額ほどの地面を掻いてどうにかこうにか生き永らえる農家の娘だ。

 

 この渓流に、伝説がある。

 

 百年余りも昔の話、田植えも近い新緑の候。日の出とともに寝床を払って這い出してきた村人たちの見たものは、上から下まで見渡す限り赤一色に染まりきった川だった。

 

 ――すわ、祟りかや。

 

 口々に言いさざめいてはみたものの、しかしながら心当たりがまるでない。

 祭礼をおろそかにした覚えはないし、余所者を泊めもしていないのだ。つい昨日まで、すべては正常そのものだった。罰を当てられる要因など、どこに潜在していたのだろう。

 

 が、現実にこうなってしまっている以上は仕方ない。近付けば、ほのかながらも流れの上には生臭さが漂っていた。あからさまに血臭である。こんな水で育てた米が、食い物になるわけがない。至急、対策が必要だった。

 

 村の九割方までが神社に押しかけ、祓いの祈祷を懇願する一方で、何人かの若者たちは別な行動に打って出ていた。

 

 ――たぶん、上流に何かある。

 

 直感といっていい。

 その「何か」を突きとめるため、腰兵糧を用意して澤を遡りだしたのだ。

 

 二刻(よじかん)も進み続けたろうか。

 

 彼らの前に、それが出た。

 

 枝を大きく天に広げたブナの古樹。その腹に空いたうろ(・・)の中からドバドバと、赤黒い液体がひっきりなしに噴き出している。噴き出しては地面を伝い、やがて澤へと落ち込んで、いっぺんに朱に染め上げている。

 途方もない濃度であった。

 

 ――こいつか、こいつが元凶か。

 

 異界の景色に慄きつつも、若者たちは適切な処置を施した。河原から適当な石を見繕い、うろ(・・)の底の窪みめがけて突っ込んだのだ。

 まるで始めからそう(・・)と決められていたかのように、互いのサイズはぴったり合った。血の噴出は停止した。(たに)はふたたび、瑠璃の名器も及びはしない清澄さに回帰した。

 

 ほどなく樹にはしめ縄がつき、毎年一度、村人総出でこれを拝む風習まで出来てしまった。私もこれに、物心つく以前から――そう、父の背中に負ぶわれて、参列したものである。

 

「迷信だ」

 

 そのとき胸に芽生えた畏れを、断固として切り捨てた。

 

「いやしくも明治の聖代に、ありがたき文明の世の中に、こんな迷信をいつまでもありがたがってるべきじゃない。ひとつ正体を暴いてやろう。そう言ったとき、お前だってはっきり頷いたじゃないか」

「そりゃ、頷いたよ。だけどさあ」

「だけど、は無しだ」

 

 私が迫力を以って臨むと、あいつはいっぺんに縮こまる。

 それがわけもなく面白かった。

 

 ああ、返す返すも度し難い。なんていやなクソガキだ。こんなやつはいつの日か、手痛いしっぺ返しにあって千辛万苦(せんしんばんく)のたうて(・・・・)ばいい。

 

 いや、いつの日か、などとあまりに悠長な物言いか。

 

 その瞬間はすぐに来た。

 

 藪漕ぎ、渡渉、岩登りを繰り返し、道なき道をゆくほかなかった嘗てと違い。

 例の祭事の都合もあって、安全な山道が出来ている。十二歳の小娘だろうと、そこまで往って還ってくるのにまず半日とかからない。

 ただ両脚を動かしただけ、それだけで。

 

 ――血潮のブナが、私の前に立っている。

 

 より多くの光を受けるため、一寸でも長く、高く。周囲の木々に遅れはとらじと枝を伸ばすその様は、不気味な伝承とも相俟って、地殻のいちばん奥深くから太陽めがけて突き出した、悪魔の巨腕のようにも見えた。

 

闇刈(くらがり)ィィ……」

 

 幼馴染みが、私の姓を呼ばわった。

 御一新の際、私の父祖はいったい何を考えて、個性的にも程があるこんな名字を態々冠したのだろう?

 奇矯を好む因業な血が、私の皮下にも脈々と息衝き続けているのだろうか――。

 

 愚にもつかない、そんな疑問が、瞬間脳裏をかすめていった。

 

「――っ」

 

 ものも言わずに、私はうろの中へと両手を突っ込み、問題の石を掴まえた。

 

雫歌(しずか)ァッ!」

 

 思えばこれが初めてだった。

 あの気弱な少年が、私の名を呼び捨てにしたのは――。

 驚きで身が浮き上がる。

 そのはずみで呆気なく、封印石も外へ出た。

 

(あっ)

 

 両の瞼を思いきり下ろす。

 反射的な行動だった。

 暗黒の中で、なにごとかに待機した。

 が、待てど暮らせど、どんな劫罰も訪れはしない。

 

 それみたことか、所詮これっぽっちのものよ――

 

 再び瞳に光を入れて、過呼吸一歩手前の少年を顧み、そう言ってやろうとした刹那。

 

 

 

 ごぽり――

 

 

 

 死にかけの老爺のおくび(・・・)のような音が響いた。

 

 ごぼり、ごぽり、ごぽごぽと。次第次第に断続的になってゆく。

 

 千曳の岩にも匹敵し得る抵抗力を感じつつ、私は正面に向き直る。

 

 赤かった。

 

 赤い、ねばねばした液体が、うろ(・・)の底から染み出して、ゆっくり嵩を増しつつあった。

 

「樹液さ」

 

 私は、笑おうと努力した。

 が、表情筋が裏切った。

 引き攣り、こわばり、名状し難い出来損ないの貌になる。

 そうと自覚した途端、逆上がきた。

 

 私はがばりと身を寄せて、いよいよ幹を伝いはじめたその粘液を舐め上げたのだ。

 

 そこから――ああ、そこから先は――舌がめらめらと燃え出して――私の血が、やにわに重く――喉の奥から、聞いたこともない獣の聲が――。

 

 裏返る視界。

 爆ぜる心臓。

 沸く脳漿に、爪が埋まって裂ける皮膚。

 組み変わってゆく、なにもかも。

 天地は融けて境を失い、その先に開いた深淵へ、恍惚と共に堕ちてゆき――。

 

「――はっ!」

 

 私は現在(いま)へと回帰した。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 肩口から、脇腹にかけ。ばっさり斬られたショックによって、走馬燈を見ていたらしい。

 ほんの束の間、遠い遠い故郷の夢を――。

 

「ん、しょっと」

 

 自分で作った血の海に、両手をついて立ち上がる。

 視線を上げれば、清らげなる道衣姿の女性がひとり、薙刀の切っ先をこちらに向けてたたずんでいた。

 

「いやあ、惚れ惚れする切れ味ですね。業物だ」

 

 その輝きをわずかに曇らすあぶら汚れの正体を、私はむろん知っている。

 私の脂肪だ。

 抵抗むなしくまんまと斬り下げられた際、べったり付着したものだ。

 

「肩甲骨から背骨まで。真っ直ぐ刃が通りましたよ、凄かったなあ」

「死ににくいのは、そなたも同じか」

「まあ、いろいろワケがありまして。主に若気の至りですがね。どうですここらで、お互い元人間の外れもの同士、武器を下ろして友誼を結んでみるというのは」

「断る。身の上話がしたいのならば、閻魔の前で存分にやれ」

「あらら、つれない。お堅い人だ。それは生来のご性情? それとも余程、旦那様が嫉妬深い方なので?」

「――」

 

 返答は、鋼の旋風だった。

 

「あっは!」

 

 両手の血を硬化させ、篭手を形成、迎え撃つ。

 切れ味は身を以って理解した。

 真正面からの「受け」は自殺だ。

 刃に対して、常に適切な角度を保っておく必要がある。

 難しいが、やってやれないことじゃない。

 私が普段、誰と稽古してると思う。

 隊長の剣舞に比較(くら)べれば、なんのこれしき――!

 

「おっとぉ!」

 

 刃がうねった。

 防御をするりと抜けてくる。

 なんたる操作の妙であろうか。

 左の耳が付け根から、斬り飛ばされて宙を舞う。

 瞬きひとつ、身を翻すのが遅れていたら、耳どころか頭部自体がスイカみたく両断されていただろう。

 膂力ばかりか、技術まで。

 

「流石は龍神の奥方だ――でも、だからこそッ!」

 

 左手側の硬化を解除。

 霧状に拡散、目晦ましにと派手にぶちまけ、側面へとまわりこみ、残った右を振り下ろす。

 柄で防がれた。

 構わない。

 鍔迫り合いに似た体勢へと無理矢理にでも縺れこむ。

 

「我々は、『暁鐘連盟』は決して貴女を諦めませんよ。私一人を撃退しても、事態はちっともマシにならない。もっと強くて怖い人が来るだけです。組織を相手に、どこまで息が続きますかね? 結局最後はジリ貧です、抵抗は損しか生みません」

「よく喋る。まるで商人(あきんど)の口調よな」

「大したものですよ、ここ最近の商人どもの羽振りときたら。――そのあたりのこと、時代の趨勢、ご存知です?」

「水底の岩が教えてくれる。徳川の世が、終わったらしいな」

「五十年も昔の話ですからね、それ! やっぱり外に出ましょうよ。お国の御用なんですよ。どうせ避けられないのなら、自発的に協力するのが吉ですよ。こっちが従順を証明すれば、向こうも結構、融通利かせてくれますよ」

「主人に尾を振る狗の姿だ。そなた、言ってて哀しくならんのか」

「うーん、ちっとも。よく躾けられていますゆえ」

左様(さよ)か」

 

 秀麗な眉が、嫌悪に歪んだ。

 これはいけない、売り言葉に買い言葉となったかな。

 鍔迫り合いを解除して、互いに大きく飛び退る。

 間合いが、空いた。

 

「駄目だな、私は。また隊長に怒られる」

 

 なるたけ生かして連れて帰りたかったけれど。

 先方はもう、すっかりつむじを曲げてる様子。私の言葉を聞く耳なんて、欠片も残ってないだろう。交渉術の改善は、追々図ってゆくとして。

 

「やんぬるかな、是非もなし。ここから先は殺し合いです。――抜かせていただきますよ、こちらもね」

 

 私の手が、虚空を掴んだ。

 

「……ッ! 貴様、きさま、なんという――!」

 

 流石である。

 これっぽっちの予備動作を目の当たりにしただけで、私の得物がどういうものか、ほぼほぼ看破したようだ。

 やはり、惜しい。こんな逸材、そうそう出逢えるもんじゃない。

 消してしまうには、あまりにも――。

 

「なんたる穢れ、呪詛に塗れた毒物を、我が聖域に持ち込むかァッ!」

「言ったはずだぞ、時代だとッ!」

 

 爆発する憤激に、こちらも烈昂の気迫で報いてやった。

 

「妖魔だろうが神仙だろうが独り高しとしてられる、そんなんじゃもうないんだよ。遅かれ早かれ、どうせこう(・・)なる、受け容れろ。慾の堤は破れてしまった。禁忌を禁忌のまま放置していてくれるほど、今の人間は優しくないんだ。だから、さあ、来い、私と共に、子安峡の乙姫よ。怒涛に砕かれたくないのなら、怒涛に魁るしかないのだと、貴女ならわかっているだろう!」

 

 届け、頼む届いてくれ、届いて心を動かせと、祈りを籠めつつ言葉を紡ぐ。

 が、いかんせん、あまりに必死であり過ぎた。

 

「馴れ馴れしく(わたし)を呼ぶな、虫唾が走るッ。愚にもつかぬその戯言を、今すぐにでも止めてくれよう!」

 

 勢いが盛んであればあるほど、理解は却って遠ざかる。どうもそういうものらしい。

 こちらの誠意は微塵たりとて伝わらず、ただ火に油を注いだだけの結果となった。

 人が人を言葉で以って鎮めるなどと、しょせん夢物語でないか。

 

「この、頑迷固陋の標本が!」

 

 私は(はし)った、諦観を置き去りにするように。

 

 景色が猛然と背後(うしろ)に流れる。

 

 間合いは刹那でゼロに戻った。

 

 影が交わり、破裂音が鳴り響き。

 

 そして漸く、本当の死闘が開始(はじ)まった。

 

 

 


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