緋色の空に鐘は鳴る   作:穢銀杏

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千古の謎も恐ろしくない。
神話への反逆も、否定も恐ろしくない。
真理をわれ等の手に握りたいのだ。長い間の科学者の徒労は、決して徒労ではなかった。
(昭和十二年、式場隆三郎)



第二幕

 

 さる医学者の説くところでは、武器の扱いになんの心得もない素人が、それでもナイフや懐剣などの日常的な刃物によって誰か他人を殺めたいと思った場合、一番いい「やり方」は凶器を逆手に持つことである。

 逆手に持って標的に抱きつき――これは前からでも後ろからでも構わない――、自分ごと串刺しにする勢いで刺す。胸なり腹なり背中なり、刺して刺して刺しまくる。

 

 ()から()へ引き込む向きの、その運動こそ。

 

 ずぶの素人をしてさえも、容易にしかも確実に、命に届く傷を与える道である、と。

 白昼堂々、大衆向けの通俗本で発表してのけていた。

 

 納得のいく論だった。

 であるがゆえに、その納得と同じだけ、

 

 ――おいおい、無検閲で通していい情報か?

 

 当局に対する不信感すら芽生えたものだ。

 

 

 

 そして、今。呼び出した呪物、骨の刃を握るわが手も、また逆手。

 

 

 

 必要だからだ。

 必要だからこうしている。

 すっと自分の身体を見下ろす。

 この剣の本当の力を発揮するには、何よりもまず、どうしても。ここ(・・)を流るる私自身の紅血で刀身を濡らしてやらねばならない。

 

「……わかってるだろ、出し惜しみは無しでいこうや」

 

 呟いて、私は私に覚悟の臍を決めさせる。

 

 狙うは一点、心ノ臓。人を失くしたあの日から、単なる循環器を超えて、最も濃い血が溜まるようになった場所。私と深淵を結ぶきざはし(・・・・)。それを使わない限り、この薄気味悪い触手野郎はとてものこと滅しきれまい。逆にこちらが滅ぼされると、本能部分で理解した。

 だが、しかし。

 

「お――ぉお、うぅおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 流石にこれはシラフのままで、涼しい顔してぬけぬけと実行できる行為ではない。

 咆哮が要る。

 獣性そのままな雄叫びで、あらゆる恐怖を体外へ叩き出してしまわぬことには――。

 

 出しきった。

 振り下ろす。

 刺した。

 

 ずぶり――。

 

 肋骨の合間を押し広げつつ、拳大のその筋肉の塊へ。

 深く、深く刃を埋めた。

 

「ぬ――ぐ、はぁ、あ。――」

 

 不快感に総毛立つ。

 痛みの中から、何かが溢れた、何なのだこの感覚は。

 熱さでも、痒みでも、渇きでもなく、そのいずれでもあるような。

 形容不能な気味の悪さが卍巴(まんじともえ)と入り乱れ、自我を、正気を、浸蝕してくる。

 

 こらえきれない。

 

 堪えるよりも、卒倒を恋うた。

 もうこのまま、すべて投げ出し、倒れたい。

 駄目だ、仕事が残ってるだろ。

 やり遂げるまで、眠れない。

 せっかく緋柳隊長に色よい報告ができそうなんだ。

 だったら気張れよ闇刈(くらがり)雫歌(しずか)、お前がこの世に存在している意味なんて、もうそれ以外になにひとつ、何も、何も、塵芥(ちりあくた)の一片ほども残っちゃないんだからさあ――!

 

「でぇ、りゃぁあああああああああああああああァァッ!!」

 

 再度、絶叫。

 他人のものを無理矢理継ぎ合わせでもしたかのように意の通らない利き腕を、あらん限りの力を籠めて引き戻す。

 

 ずるん――

 

 粘着質な音を立て、刃が肉からこぼれ出た。

 

 そう、刃。

 

 もはやこれを、この物体を、木杭と見紛う素っ頓狂は世界の何処にも居はすまい。

 宝剣の名に相応しく。こんなに立派な、三尺に迫る刀身が、冴え冴えと伸びているのであるから。紅玉を打ち延ばしたとしか思えない、片刃仕立ての、まばゆい真紅が。

 

 

 

 ――と、見惚れている暇もなく、三方向から触手が殺到。

 

 乙姫様は、よく引きつけていてくれたけど。流石にそろそろ限界か。

 構わない。仕上げは良好、否、それ以上、この純度ならいけるはず。

 

「――ふっ!」

 

 斬った。

 三本ぜんぶ、一呼吸(ひといき)で。

 ほとんど抵抗を感じなかった。

 正宗の名刀を豆腐めがけて振り下ろしても、まだ手応えがあったろう。

 

 逸脱の切れ味としかいいようがない。それあって、初めて可能な業だった。

 

 しかし本命はむしろこれから、切断面の変化にこそある。

 さあどうだ、どうなる、見せてみろ。

 

「おお――」

 

 果たして反応は激甚だった。

 白から黒へ。米研ぎ水の色彩が、瞬きする間に染まりゆく。

 美濃紙に墨汁をこぼしたように――と表現できればいいのだが、生憎とこの黒の中には墨の気品など厘毫たりとて見出せぬ。

 

 何年も掃除されてない、(ドブ)川の底に溜まった汚泥――。

 

 それ以外のどんな喩えも不適当であったろう。

 実際、起きている現象はそれに近しい。

 

「まこと、おぞましや」

 

 苦っぽいこと胆汁みたいな声がした。

 

「この猛悪さ、もはや現世にあっていいものではないぞ」

「それは姫様、失礼ながら料簡が狭い」

 

 すぐ後ろから、乙姫様の声である。言葉が通じる程度には、落ち着きを取り戻したらしい。

 結構至極なことだった。

 

 

 

「この骨刀との組み合わせにより、私の血は酸によく似た性質を帯びます」

 

 手首を軽く揺らしつつ、背中越しにぽつぽつ語る。

 

「切創から浸透し、あらゆる組織を腐爛させ、瘍壊(ちょうかい)して形もなくす。そういう効果を持っている」

「知っているとも、身を以って味わわされたゆえ」

「貴女に叩き込んだのは、手首由来の血ですから。毒性はまだ弱い方です」

 

 指先、掌、手首、肘窩(ひじうら)――末端から中枢へ近くなればなるほどに、有害性と刃長とが増してゆく。そういう仕組みになっている。

 

 …さりながら、弱いというのはあくまで相対。彼女に打ち込んだ分量とても、平均的な体格の成人男性程度なら、二十秒足らずで地面の染みに変えてしまえる威力を有す。

 にも拘らず、再生阻害で済んでいる点、子安峡の乙姫様の身体にはよほど高度な対毒機能が備わっているに違いない。

 

 そのあたりもまた実に魅力的だった。好奇に脳を灼き尽くされた研究班の狂人どもが知ったなら、涎を垂らして大喜びする逸材だろう。奇蹟のたね(・・)を抽出して解析して再現して量産したいと(こいねが)う、あの連中の目論見が今度こそ(・・・・)もし成就したなら、既存の医学薬学をどれほど前に進ませる? いったい幾つの「不治の病」を、ちょっとした風邪と同程度の地平にまで引き下げることができるのだ?

 

 門外漢の私ですらも、口の中に唾が湧くのを抑えきれない想像だった。

 

「けれどもこれは心臓由来、いまの私に実現可能な最高濃度」

 

 捕らぬ狸の皮算用を覚られぬよう、用心しつつ語を継いだ。

 大丈夫、早口、裏声、吃音その他、みなことごとく避けている。不自然さはなかったはずだ。下心には蓋をして、隠しておくに如くはない。処世術と呼ぶにも足らぬ、ごく当然のたしなみ(・・・・)だろう。

 

「言外の苦痛、地獄めく倒錯した感覚を経て、漸くのこと成したもの。中途半端な性能じゃ、それこそ立つ瀬がないでしょう」

「ちっ」

 

 水面を手ぬぐいではたいた(・・・・)ような音がしたが、振り返らない。

 首はあくまで前方固定。

 視線の先では、黒の浸蝕、なお()まず。

 燎原の火の勢いで、細胞という細胞を次から次へと喰い荒らし。

 触手は今や切断面から遥か先、半ばまでもが溶けてグズグズになりつつあった。

 

「このまま根の根の根までイッてくれれば楽なのだけど――ああ、自切しましたね。流石にしぶとい、容易に死んではくれないようだ」

 

 厄介な、と、つられて舌打ちしたくなる。

 いや、当面の厄介要素――敵の脅威度、私がくたばる可能性は著しく減少したが。それが却って、別の厄介を生んだかもしれない。

 

 交戦相手の力量が、自己を遥かに上回り、その差くつがえし難く懸絶せりと認めた場合。生命は普通、逃走を選ぶ。

 

 自己保存は蓋し強烈な欲求だ。理性も本能も、こぞってその判断を後押ししよう。狂瀾を既倒に廻らすのだと、最後までシャカリキに頑張り通し、踏みとどまって闘えるのはめだって稀少な例に属する。

 

 三本纏めて斬られて以降、威嚇のように身をくねらせるばかりであって、次の攻撃をてんで繰り出さぬ点といい。あの寒天の化け物も、一般的な判断の方へ傾斜しつつあるらしい。

 

 ――となると、だ。

 

 思考停止で真正面から突撃するのは文明人のやることじゃない。

 いい気になって雑魚を蹴散らしてる内に、肝心要の大将首を取り逃がす、凡愚の典型みたようなのに嵌り込むのは避けたいところ。

 賢明ならば、少なくとも賢明であろうと心掛けているならば、布石を打っておくべきだろう。

 

「後詰めを頼んでよろしいか」

「退路を塞げと?」

「話が早くて助かります。ここまで骨を折ったぶん、どうしたってあの触手には死んでいただく。万に一つの生き残りの目も潰すため、お力添え願いたい」

「承知した。なに、案ずるな、奴の本体――核の在処はとうに突き止め済みである。忍びて逃げるが如き真似、もとより許す心算はないわ」

「……」

 

 聞き逃せない発言だった。

 ぎぎぎ、と首をねじ曲げる。

 

「あの。その在処とやら、教えてくれれば、事態はもっと楽に始末できるのですが」

「で、あろうな」

「私に語る気はないと?」

「なろうものなら、とどめはわが手で下したい」

 

 乙姫様は、凄い格好になっていた。

 道衣はもはや襤褸切れ同然、ところどころ素肌がのぞき、そこは例外なく鬱血して甘藷のようになっている。

 激しい打撲傷を受けた証拠だ。

 

 ――どこの暴行現場から逃げてきやった。

 

 一瞥するなり誰であろうと、そう叫ばずにはいられまい。

 そんな風体。

 が、ただ一点。

 目だけが違う。

 眼窩のくぼみに添うように、ある種の昏さ――妄執に取り憑かれた者特有の、青みがかった陰翳がある。

 その一点あるがため、全体の印象が根こそぎ反転してしまっている。

 

 ――女とは、おそろしい。

 

 自分を棚に上げておもった。

 

「とどめはわが手で、ね。そりゃ、物事の順序からいえばそうでしょうけど」

「けど、なんぞ」

「闘争にあわよくば(・・・・・)を持ち込むのは違和感が――ああ、いや、結構。やんぬるかな、是非もなし」

 

 彼女の前でこれを言うのは二度目であった。

 言って、前方に向き直る。

 触手の方も次の行動を決したらしい。威嚇は終わった。総身に緊張がみなぎっている。弓につがえられた矢のようだ。逃げるにしても、まずはこちらに打撃を与え、混乱させねば不可能なりと覚ったか。

 

「押し問答をしている余裕はなさそうだ。いまは小異を捨てて大同する時。ようがす、私が折れましょう」

「かたじけない。借りができたな、忘れぬぞ」

「――」

 

 ほう。

 借りといったか。

 認めたか。

 そんな言質を与えれば、清算として私が何を要求するか、ここまでの接触で重々承知の上であろうに。

 

「ふふ、ふふふふふふふ…」

 

 たまたま口がすべっただけか、それとも端からこれ(・・)を狙っての狂言だったか?

 

 まあいい、まあどちらでも構わない。どっちだろうと、()には期待が持てそうだ。戦いの後の展開が、俄然楽しみになってきた。

 

 もたもたしていられない。

 ここは腕によりをかけ。

 俎上の鯉を、ひとつ盛大に掻っ捌いてやるとしよう。

 

 


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