──中央暦1645年1月20日 第二文明圏──
グラ・バルカス帝国の第二文明圏撤退から数ヶ月後。レイフォル国の首都『レイフォリア』は様子を一変させていた。
現在の時刻は深夜12時、今まで通りならば皆寝静まり、あたり一面が暗闇に包まれている。しかし今の様子は違う。
日付が変わったというのに関わらず、繁華街の明かりは未だに消えていない。大通りの人並みは途絶えることはなく、川の流れのように続いている。
そんな最中、居酒屋『列強酒』は随分と賑わっていた。店内は喧噪に包まれ、一瞬の沈黙すら存在していない。席はほぼ満席、店員たちが慌ただしく行き交う。ただ、その表情は忙しさの割には随分と清々しいものだ。
おそらく多忙な苦労に見合うほど、相応の給料や待遇を用意されているのだろう。
レイフォル人の若者『アスター』は周囲の状況に息を飲んだ。店内から故郷の光景を見るたびに実感する。
「レイフォリアの光景は劇的に変化したな……以前の時とは大違いすぎて、同じ都市に見えないぞ」
人々の様子があまりにも違う。以前は鬱蒼な雰囲気に覆われ、いつも地面を見ていた。そう、皆疲れきっていたのだ。
ただ今は違う。陽気な雰囲気に包まれ、空を見上げている。支配者に怯えることもなく、堂々と道を歩いて笑えるのだ。
明日の生活を憂い、悲観論や自暴自棄に陥ることもない。未来の希望に悩まず、日々を力強く生きている。
そうでなければ娯楽類に金を使い、酒を豪快に飲むことすら出来ないだろう。
アスターは過去を思い返す。これほどの繁栄は今まで見たことがない。敗戦前の最盛期ですら、優に上回っているように思える。
「俺もそう思う。何というか街全体が活気づいているよな。良くも悪くも。毎日祭りに近いというか……なあアスター、ムー国の方々にバンザイでもしないか?」
長年の友人『ハイネ』はニヤニヤと笑みを浮かべる。その目つきからして本気の発言ではない。ほぼ間違いなく冗談の類だろう。
しかし、アスターは笑えなかった。表情はあからさまに強張り、碧眼の視線はトゲトゲしく冷たい。
「おいおい、ミゲル。お前がそんなことを言っていいのか? レイフォル陸軍の士官様だったんだろ? 自慢の愛国心はどこに行った。お国のために頑張っていると言っていたじゃないか」
彼はミゲルから目を逸らす。視線は一点に留まらず、不規則気味に動き続けている。きっと動揺のせいだろう。
『バンザイ』
太陽神の使いが行っていたという神聖な仕草。戦闘や勝負に勝利した際に使用する。自分の喜びを示すものだ。
それは軽々しく行うべきことではない。ましてや、暫定統治国の『ムー』に対して。レイフォル人の同胞だとしても言語道断である。
たとえ統治体制が良好だとしても、その誇り高き魂まで売り渡すことはできなかった。
「俺たちはレイフォル人だぞ」
アスターの胸にはかつて故郷のために戦った誇りと、複雑な感情が渦巻いていた。
彼はハイネの冗談に笑うことができなかった。
いや笑えないどころか、どう反応すればいいのか分からず、ただ困惑して立ち尽くす。
ハイネはそんなアスターの様子を見て、自嘲気味に口元を歪めた。
「個人的な冗談だよ、真に受けなくていい。すまない、全然笑えないよな」
ハイネは賑わう街並みから視線を外し、遠い宙を見上げる。その瞳はどこか暗く、彼の心底にある複雑な感情が滲み出ていた。
「今の現状に思うところがあってさ。極めて個人的なものさ。そうつまり、ムー国の占領統治についてだ」
「なるほど、それで?」
「世界連合軍の方々には感謝している。それは間違いない。あの暗黒期を粉々に砕き、グラ・バルカス帝国の連中を徹底的に叩きのめしてくれたからな。本当に感謝しきれないよ。あれほど痛快な出来事は今後ないだろうし」
アスターはハイネの言葉に深く頷く。
かつてグラ・バルカス帝国は自分たちこそが世界最高の民族であり、野蛮な他民族を支配し、世界を正しく導くべきだと豪語していた。
その統治は傲慢かつ粗暴で、少しでも不満を口にすれば、暴力でねじ伏せられた。
だからこそ、神聖ミリシアル帝国の艦砲射撃がレイフォル中に響き渡った時、人々は歓喜した。
その光景はアスターの脳裏に焼き付いている。グラ・バルカス帝国の艦隊が逃げ惑い、無残に散っていく様はまさに最高の見世物だった。
彼らを追い詰めたデスバール艦隊には、心からの感謝しかなかった。
「ムー国の統治は素晴らしい! これは間違いなく断言できる。生活が見違えるくらい楽になったからな。金や物に困ることもない」
ハイネは言葉に力を込め、語り続ける。
「役人たちの態度も悪くない。俺たちに真摯に接して、対等に見てくれるからな。時折、価値観の差異を感じることもあるが、それは仕方ないことだ」
ムー国は元々の言語文化が比較的近いとはいえ、あまりにも親切すぎた。
その裏には何かあるのではないか。それはアスターを含め、多くのレイフォル人が感じていることだった。
彼らは勤勉だった。時間やルールを当たり前のように守り、毎日黙々と働き続ける。その姿はまるで意志を持たないゴーレムのようにも見えた。
賄賂や恐喝など一切行わず、不正があれば厳しく、しかし正当に咎めてくる。
ハイネの真意にアスターは気づき始めていた。
彼が本当に言いたいのは、あの独立を勝ち取った時代よりも、今のほうがはるかに良いのではないかということなのだ。
元軍人のハイネだからこそ、今の状況に一層驚いているのだろう。
かつて心から待ち望んでいたはずの独立と、その後に待ち受けていた絶望的な現実は、このムー国の統治がもたらした安寧によって、ひどく霞んで見えていた。
「なあアスター、このビーフジャーキーは美味いぞ。レイフォリアエールとも相性抜群だ。ムー国から輸入してきたやつだよ。ほら、お前も食べてみろ」
ハイネはそう言って、数枚のビーフジャーキーをアスターに手渡した。アスターは半信半疑のまま、それをまとめて口に放り込む。
(こ、これは美味すぎる!?)
絶妙な固さだ。硬すぎず、かといって柔らかすぎない。噛むほどに肉本来の旨味がじわじわと染み出してくる。
その原理はわからないが、酒のつまみとしては完璧だ。一口食べれば、やみつきになること間違いなし。
(香辛料の質も良いな。どんなものを使っているんだ?)
使われている香辛料は珍しいものだった。
花や柑橘類のように華やかな香りではなく、肉そのものの香りを引き立てる。
きっとムー独自の特産品なのだろう。一口食べただけで食欲が湧き、唾液が止まらなくなる。
ハイネはアスターの反応を見て、わざとらしく笑い、さらに料理皿を差し出す。
「どうだ、美味いだろ? 海藻サラダも食べてみろよ」
「すまんな……うん、普通に美味い。野菜の品質まで高いとか反則すぎるだろ。『第二文明圏の食糧庫』は伊達じゃないというべきか」
ムー国といえば、工業分野が圧倒的に進んでいるというイメージが強かった。
しかし、その農業もまた驚異的だ。広大な国土、多様な気候帯、効率的な農法、そして独自の農作物。農業に適した環境がこれでもかというほどに整っていた。
さらにムー国政府は大規模な公的支援を行っていた。
農作機械の購入費や管理費を補助し、農薬や肥料にも多額の資金を投入する。加えて、農家には税制上の優遇措置も適用されている。
その結果、ムー国の農業生産量は突出して多い。
品質面でも優れており、第二文明圏はおろか、世界の盟主である神聖ミリシアル帝国ですら、ムー国の農業には太刀打ちできていなかった。
「それにしても、野菜がずいぶん冷えているな。科学式の冷蔵庫でもあるのか?」
「さあ、詳細はわからないが。安価になったと聞いている」
アスターの疑問は消えなかった。
科学式の冷蔵庫は依然として高価な代物だ。独立時代の貴族でさえ、所有している者は少なかった。
列強酒の質は悪くないが、この店の資金力で買えるかと問われれば、話は別だ。
その時、店内に設置された魔導通信器具から、けたたましい音が鳴り響いた。
《臨時ニュースです! 臨時ニュースです!》
アスターたちは耳を疑う。
この音は滅多に聞くものではない。店内のざわめきが静まり、全員が魔導通信器具に注目した。5秒後、ルーンポリス報道局のニュースキャスターが姿を現す。
《失礼します。先ほど、ムー国政府より発表がありました》
「おや?」
「び、びっくりした!」
「やばい出来事でも起きたのか?」
周囲の人々がざわめき始める。緊張感が走る中、キャスターは淡々とニュースを続けた。
《オタハイトの現場取材班によれば、ムー国政府はレイフォルの現地労働者を募集するとのことです。主な理由として、同地域のインフラ整備と経済復興をあげています》
《労働者の募集条件は二つ。成人年齢に達していることと、肉体労働に自信があること。たったこれだけです。食事の無料配給も行われ、月給は──》
彼女は淡々と、しかし抑揚をつけながら話し続ける。アスターは自身の耳を疑った。提示された労働条件はあまりにも良すぎる。
一般的な労働者の給料を三倍も上回っている。しかも、それは最低限の額なのだという。
「おいおい、本当かよ!?」
「今の給料の何倍もあるじゃねえか!」
「ムー国に感謝するぜ!」
「このビッグウェーブに乗るしかない!」
その日、レイフォル人たちはムー国の求人窓口に殺到した。数万人規模の定員はたった一日で埋まってしまった。
予想以上の反響だったらしく、ムー国政府は急遽、新規の雇用対策を立てる運びとなった。