「ぐぅっ!!?……んん……」
鳥の囀りが、ダイワスカーレットの眠りを緩やかに覚まさせた。
咄嗟に手で目覚まし時計を探そうとして、その時、自分が机に突っ伏していたことに気がついた彼女は、手持ち無沙汰となった手を、目の前のノートに乗せた。
凝り固まった背筋を伸ばそうとし、背筋を背もたれに深く押しつけた瞬間、ふわり、と肩から何かが落ちた。
「……」
自分のベッドに敷いてあったはずの毛布である。誰がかけてくれたのか、それはもはや考えるまでも無かった。
「……借り作っちゃったわね……」
短い嘆息と、規則正しい秒針の音、そしてもう1人の呼吸音が、薄暗い部屋に澄み渡った。
天井を仰いでいた彼女は、いくらかすっきりとしてきた瞳を、目の前のノートに向けた。
「……」
走法、練習法、食事……ありとあらゆる角度からレースで一着を取るための手段が記された、彼女だけのノートである。今朝、彼女がここで寝落ちていたのも、このノートの更新を、特に入念に行なっていたからに他ならない。
その余白には、あののっぺりした水色の生き物が描かれている。
(そうだ……タキオンさんに頼まれていたんだった)
明瞭な思考回路となった彼女は、ふるふると頭を振り、頬を軽く叩いた。そして、隣の友人に配慮する様にゆっくりと立ち上がり、しっかりとした足取りで、洗面所へと向かった。
身だしなみを整え、まだ朝焼けが抜けない下へ姿を現したダイワスカーレットは、ジャージに隠された恵体を震わした。
いつもならば、このまま寮の外へ出て、30分は自主トレーニングを行うところである。しかし、まず彼女が向かったのは、蓮の葉が浮かぶ池であった。
「……」
さく、さく、と、やわらかな雑草を踏み締める音が鳴り響く。すると、葉が落ちてきたわけでもないのに、水面に波紋が走った。
訝しむ間も与えられなかった。
波紋の中心がボコボコと泡立ち始めたからである。
「っ!」
咄嗟に身構え、いつでも人間の数倍もの威力の蹴りを繰り出せるようにする。
しかし、ぬぅっと池の底から姿を現した存在に、彼女の驚きとすこしの恐怖に染まっていた表情は、あれよあれよの間に呆れへと変わっていた。
そんな彼女の前に姿を現したのは、水中で太い尻尾をぶんぶん振り、その都度水面に波紋を走らせる、水色の生き物であった。
「ぬおー」
「……」
なんとも気の抜けた挨拶である。とりあえず、頭を抱えそうになった彼女は、少しかがみ、両手でヌオーの両頬を掴んだ。ひんやりとした感覚が気持ちいい。興がのって、ふにふにな頬を揉みしだいてみた。
「ぬおー」
すると、太い指の手を彼女の手に重ねたヌオーは、嬉しそうにつぶらな瞳を挟め、くねくねと身を捩らせた。
「ぬおー」
「フフ……さてはアンタ、ほっぺた触られるのが好きなのね」
もちもちの頬に虜の彼女の言葉に、ヌオーは肯定するかのように頷き、一鳴き。
「ぬおー」
決して同室のあの子には見せないような、無邪気な笑みを浮かべていたスカーレットは、すこし名残惜しそうに、手をヌオーから離した。こてん、とヌオーは首を傾げる。
しかし、スカーレットもスカーレットの事情があるのである。
「ごめんね、私走ってこなくちゃ」
「ぬおー」
気の抜けた返答であった。無性に、彼女は自身を曝け出したい気分になった。そんな自分に、彼女は一つため息を吐いた。首を傾げたままのヌオーの瞳は、スカーレットをしっかり映している。
「アンタに言ってもわからないでしょうけど、アタシ、今日選抜レースなの。沢山のウマ娘と走るのよ」
「ぬおー」
「アタシ、一番になりたいの。だから、最近色々気を張り詰めてて……でも、アンタのおかげで結構楽になったわ」
そう言った彼女の脳裏に、“ライバル”がよぎった。ヌオーは、変わらずスカーレットを見つめている。
「ま、パパッと全力で一番もぎ取ってくるから。そしたら、またアタシと遊びましょ」
「ぬおー」
「ふふっ、じゃ、後でね」
スカーレットは踵を返した。ヌオーは、前と同じように、その後ろ姿が見えなくなり残影だけになっても、しばらくの間、立ち尽くして見守っていたのだった。
ヌオーの生態・その1→ほっぺを触られるのが好き