皐月賞、今日の天気は大雨。バ場は不良で私が今まで走ったレースの中で最も悪いです。ですが、私の憧れの人……シービーさんの皐月賞と似たシチュエーションで少しだけテンションが上がります。
こういう荒れたバ場はリリィさんのようなパワーがあるウマ娘にとって有利です。ですが、問題はありません。私のパワーなら不良バ場でも問題無く逃げられます。誰よりも速く駆け抜け、誰にも先頭を譲らずに勝利する。……そのためにもまずは落ち着いてスタートダッシュを決めましょう。
私の全身に雨が降り注ぎます。眼球に当たる雨粒すら無視して私はゲートが開くのを待ちます。
……極限の集中。過去一番と言えるほどに私は集中していました。……それ故に、彼女の行動に一瞬気を取られてしまいました。
(……えっ?)
まさか、まさかの選択です。白いバ体が……リリィさんが真っ先に駆け抜けてハナを奪った。……いや、ハナを奪われたのです。今まで彼女は逃げを選択したことは無かった。いや、無いと思わされていた? ……どちらかは分かりませんが、これは非常にまずい状況です。こうしている間にも彼女は先へと駆けていきます。前に……前に、出なければ……
「……リリィは逃げができたのか……? いや、彼女の脚質の多彩さなら考えられないこともないが……」
「……隠してたってことか? この日のために今まで使わずにいたってのか。……それにしてもすげぇ雨だな。走ってる奴らは大丈夫なのか?」
反応を確かめるために青路トレーナーの方を見るが、一切表情に変化はなかった。当然か、担当ウマ娘の情報をわざわざ漏らす必要はない。
「……いえ、リリィさんのあれは逃げではありません! バクシン的直感がそう告げていますッ!」
「……? どういうことですか、バクシンオーさん?」
「ハイッ! 彼女の最初のスタートダッシュは完璧でした。私もレース中であればバクシンだと錯覚してしまうほどに。ですがッ! それ故に完璧すぎたのですッ! あれは誘っているんです、ブルボンさんをッ!! ……ッ!! 見てください! ブルボンさんがリリィさんからハナを奪おうとしています! 恐らくこれが彼女のバクシン的作戦なのでしょうッ!!」
「……お前ってさ、レースの最中じゃなければすっげぇ頭回るよな。……それを維持できればマイルも何とかなるだろうに……」
シロノリリィからハナを奪うためにスピードを上げるミホノブルボン。しかし、その表情には焦りが見えた。
「レースをしていると、どうしても内なるバクシンを抑えられませんからね。私もまだまだ未熟ということです! ですが、いずれ必ず克服して見せましょう! 距離適正と共にッ! ハッハッハ!!」
半分ぐらい呆れつつも視線をレース場に戻す。
「……まだレースは始まったばかりだ。お前の作戦、見せてもらうぜ」
「……リリィね、この作戦の事『リリィちゃんスペシャル』って言ってたのよ……」
青路とサクラバクシンオー以外は吹き出した。サクラバクシンオーは「良いセンスです!」と頷いている。
「……えっと、リリィさんらしくてかわいらしい名前だなって思いますよ!」
「これが14歳のネーミングセンスか……? まぁ、そこも彼女の魅力だが……」
今回のレースのために私が考えた作戦……『リリィちゃんスペシャル』は、まず雨が降ってバ場が荒れている事が前提でした。荒れていれば荒れているほど後の作戦が通しやすくなります。もしも雨が降ってなかったら根性と気合いで乗り切る予定でしたが。
どうして荒れたバ場がいいのかというと、荒れたバ場を走るのにはパワーが必要で、かつ通常よりもスピードが出にくくてスタミナの消費も増えてしまうからです。私のスピードはブルボンちゃんには及ばず、スタミナはライスちゃんに及びません。ですが、私はパワーだけは誰よりも強いです。だから荒れたバ場である必要があったのです。さすが私、かしこいですね!
そしてもう一つの理由なんですけど、私は荒れたバ場の方が走りやすいというのもあります。良バ場で走るよりも疲れにくいし、何より私のパワーならスピードが落ちたりしません。なのでバ場が荒れた方が都合が良かったのです。
では作戦を説明します! まずは最初、スタートダッシュが肝心です。誰よりも早く前に出てブルボンちゃんからハナを奪う……『逃げと錯覚させる事』、これが最初の作戦です。
そして次が肝心です。次の作戦は『ブルボンちゃんにハナを取らせる事』です。幸いにもブルボンちゃんは私の作戦をちゃんと『逃げ』だと誤解してくれたようです。この作戦が通らないと私がここで終わってしまう可能性があるのでドキドキしました。
なぜせっかく奪ったハナを譲る必要があるのか? と思う人もいると思います。これは単純にブルボンちゃんを消耗させるためです。スタミナを減らし、思考を圧迫させることがこの作戦の目的です。だから譲っちゃってもいいんです。
あと私は逃げが出来ません。前に誰もいないと寂しくなっちゃうからです。今もすっごくドキドキしています……。
お? ブルボンちゃんが私からハナを奪いましたね。作戦は順調です! そしてこの作戦にはブルボンちゃんを前に出させる目的もあります。さぁ、まだまだリリィちゃんスペシャルは続きますよ!
『素晴らしいスタートダッシュを決めたシロノリリィですがミホノブルボンがハナを奪い返しました。1コーナーから2コーナーへ向かっていきます。現在先頭はミホノブルボン。その後ろぴったりくっついてシロノリリィ。3バ身離れてライスシャワー──』
シロノリリィの作戦に翻弄されるミホノブルボンだが、ライスシャワーは冷静に状況を観察していた。
(……不良バ場は、やっぱりちょっと走り難いな。……リリィちゃんの最初の逃げは多分ハッタリだと思う。ブルボンさんを消耗させるため……かな? そう思う理由は前にリリィちゃんが『逃げは寂しくなるからや!』って言ってたから、多分だけど……)
ライスシャワーは戦況を見ながらある疑問を抱いた。それは……
(どうしてライスに、ブルボンさんをマークさせないんだろ……?)
ミホノブルボンを消耗させるだけならばライスシャワーにマークさせれば済む話だ。事実、シロノリリィのマーク技術はライスシャワーのそれには及ばない。今回は自分がミホノブルボンをマークする予定だったし、シロノリリィならば少し考えれば自分がマークをするという考えに辿り着いたはずだ。あえてそれをしないという事は、今回の状況はきっと何か狙いがあるのだろう。
(……何を狙ってるの……リリィちゃん?)
だが、それならそれでいい。ここからでもできる事はある。
──ライスシャワーは前方の二人に向かってプレッシャーを解き放った。
(ブルボンさんもリリィちゃんも……纏めて潰してあげるね)
『第2コーナーを抜け、向こう正面に入った。順位を振り返っていきます。依然先頭はミホノブルボン……おや? 少し様子が変ですね? 続いてシロノリリィ。3バ身離れて内にライスシャワー──』
(……こ、れは……!?)
ミホノブルボンの身体に重圧がかかる。噂に聞くライスシャワーのプレッシャーだ。
(……こんなものを、リリィさんはたった1人……それこそ18人分纏めてくらっていたなんて……! 恐ろしい人です……)
ただでさえ走り難い不良バ場だというのに、オマケと言わんばかりにライスシャワーからのプレッシャーだ。一瞬だけ後ろを振り返ったが、シロノリリィはちょっと嬉しそうな表情をしていた。
(……重すぎますね、私には……)
スタートダッシュの失敗、それを取り戻すために消費した体力、さらに襲いくるプレッシャー……。それらは確実にミホノブルボンから余裕と体力を奪っていた。そしてもう一つの想定外が……
(……いつもより、ラップタイムが遅れている。……やはり、不良バ場の影響がありますね)
ミホノブルボンの走法は、ラップタイム走法と呼ばれるものである。ある一定の距離を一定のペースで走る走法で、スプリンター故にスタミナに不安のある彼女が長い距離を走る為にトレーナーと共に習得した走法だ。
彼女の正確な体内時計と、尋常じゃないほど鍛えられた肉体によりその走法の完成度は非常に高いものとなっている。それ故に現在のスピードがいつもよりも遅くなっている事に気がついた。
(……本来のスピードならリリィさんを振り切れるはずでした。ですが、彼女は私に遅れる事なくついてきている。これではリリィさんの脚を削れません……)
想定外が重なる。コースの直線を走り、3コーナーを目指す。だが、焦るミホノブルボンに追い討ちをかけるようなことが起こった。
ライスシャワーからの重圧が消え、一瞬怪訝に思った次の瞬間、尋常ならざる程の熱が背後から襲いかかった。
──漆黒の少女の左の瞳から、蒼炎が溢れ出す。
(……っ!? まさか……
まだコーナーに入っていないのにライスシャワーは仕掛け始める。ミホノブルボンを捉える為にロングスパートを始めたのだ。
(……想定外が……多すぎるっ……!? いや、泣き言は言ってられません、これは『皐月賞』です。これぐらい起こって当然でしょう……!!)
『ライスシャワーがここで仕掛け始めた! まだ仕掛けるには早いかもしれないが大丈夫か!?』
『彼女のスタミナなら捉えきれると踏んだのでしょう。凄まじいレースになってきました』
(……大丈夫、私にはまだ『領域』がある。……冷静さを取り戻しましょう……)
レースは終盤へと突入する。……決着の時は近い。
ライスシャワーが領域を発動する前に遡る。彼女がシロノリリィに感じた違和感、ほんのわずかな違和感が小骨の様に引っ掛かる。
(……レースは順調。だけど、なんでだろ? 何かがすごく引っ掛かるの……)
言葉にできぬ靄。通常なら気付かぬ筈のそれにライスシャワーだけは気付いていた。シロノリリィと常に一緒にいた彼女だからこそ気付く事が出来たのかもしれない。
(……多分、きっと……今までのリリィちゃんの行動は布石だ。最後に『何か』をするための……)
……分からない。だが、ここが分岐点になる。そう直感が告げた。
(……まだコーナーに入ってないけど……仕掛ける。そうしないと多分、大変なことになるから……)
ここからのロングスパート……そして使うと決めた『領域』。脚にかかる負担は相当なものになるだろう。
(……もってね、ライスの脚)
プレッシャーを引っ込め、精神を集中させる。――そして、己の想いを解き放つ。
領域『ブルーローズチェイサー』
蒼炎を纏ってライスシャワーは加速する。本来のスピードを超え、限界を超えた加速で先頭を目指す。
(……リリィちゃんにも、ブルボンさんにも……ライスは負けないっ! ……ライスだって、咲ける……っ!)
『第4コーナーカーブ! ウマ娘達がどう動くか目が離せません! この直線で勝負が決まるぞ! 内から来るか外から来るか、目が離せません! 中山の直線は短いぞ! 後ろの娘達は間に合うか?──』
(……先頭は……渡さないっ!)
ジワジワと背後からプレッシャーが迫る。内からライスシャワーが、外からシロノリリィが己を追い越すために速度を上げる。
確かに想定外が多かった。自分の体力も、思考力も確かに削られた。だが……
(私は屈しない……私は止まらない……私の……私達の……夢の為にっ!!)
コーナーを抜け最終直線に突入する。
負けたくないのだ、負けられないのだ。必ず勝たねばならぬ、その強い想いがミホノブルボンの心を具現させる。
(起動開始、リミッター解除…セット、オールグリーン。ミホノブルボン、始──)
最高の集中力で『領域』を発動させようとしたその瞬間……
──それを待っていたんですっ!
ミホノブルボンが最も集中力を高めたその瞬間、己の隣で雷鳴の如く轟音が轟き、それと同時にシロノリリィの姿が消えた。
全力全開MAXフルパワーリリィちゃんボンバー!!
シロノリリィの最後の作戦……それは、ミホノブルボンの領域を
幼少期より母から使用を禁じられた必殺技……『リリィちゃんボンバー』が炸裂する。己の超怪力をターフへと叩きつけ、姿が消えたと錯覚するほどの超加速でシロノリリィがラストスパートをかけた。
「────っ!?!?」
いくらウマ娘の聴力が優れていようとスパートの足音で怯む事はそうそうない。だが、シロノリリィの常識離れのパワーとここまで積み重ねてきた疲労と思考の圧迫、それに加えて最も集中しているときに放たれた爆音。それらが積み重なった結果、ミホノブルボンの領域は霧散した。
──領域、不発。
「…………あっ……」
怯んだのは一瞬。だが、それは時速80キロを超える速度で走るレースにおいて致命的だった。その一瞬でシロノリリィとライスシャワーは己を交わし、遥か前方を駆ける。
「…………い、や……! ……いや!!」
乱れた心と集中力……もう一度領域を出すのは、もはや不可能だった。……残されたのは己の身体と『夢』だけ。
「……いやだぁっ!!!!」
それでも、ミホノブルボンは遥か前方の白と黒に追い縋る。
『シロノリリィここで抜け出した! ライスシャワーも上がってくる! 残り200、ミホノブルボン食い下がる!』
白と黒の少女は咆哮する。
「「うああああぁぁぁぁ!!!!!!」」
『シロノリリィ! 脚色は衰えない!』
泥すら跳ね除け、大雨の中を切り開く。
『シロノリリィ、リードは1バ身!』
──そして、白い少女がゴール板を駆け抜けた。
『強さを見せつけて、シロノリリィがゴールイン! 圧巻の走りでレースを制した! 勝ったのはシロノリリィ! 皐月を制し、三冠の一角を手に入れました! 2着はライスシャワー。3着に入ったのはミホノブルボン──』
始まりの一冠、皐月賞を制したのはシロノリリィ。白く輝く少女が雨と泥を化粧にし、始まりの一冠を勝ち取った。
「──はぁ……はぁ……」
ゴール板を駆け抜けて、少女は歩く。いまだに心臓の鼓動はおさまらず、どこか夢を見ているような心地だった。
「……私、勝ったの……?」
自分を祝福する声がぼんやりと聞こえるが、当事者だというのにどこか他人事のように感じる。恐らくとてつもない声量だと思うのに、その音は自分の耳を通り抜けていく。──だが、この声だけは何よりもはっきりと聞こえた。
「──おめでとう、リリィちゃん」
「……ライスちゃん」
愛しい少女からの祝福。それだけははっきりと。
「…………私、本当に勝ったの……?」
「……そうだよ、リリィちゃん。リリィちゃんが勝ったの。……皐月賞で勝ったんだよ」
「…………夢みたい。…………信じられないよ……」
勝ったと言われても未だに実感が湧かない。そんなシロノリリィをライスシャワーは優しく抱きしめた。
「……夢じゃないよ。……ねぇ、周りを見て?」
シロノリリィが顔を上げると……そこには数え切れないほどの笑顔があった。誰もがシロノリリィを、このレースを走ったウマ娘達を祝福していた。
「おめでとー!」「すごかったぞー!!」「熱いレースをありがとうー!」「ライリリッ!! あ゛っ!!」「リ゛リ゛ィ゛ち゛ゃ゛ん゛さ゛い゛こ゛う゛だ゛よ゛ぅ゛ー!!」「最高のレースだったぞー!!」
「………………あっ……」
ポロリとシロノリリィの瞳から大粒の涙が溢れる。
「…………あっ……あっ……!!」
「……おめでとう。……おめでとう、リリィちゃん」
いつの間にか雨は止み、祝福を告げる太陽が優しくシロノリリィを照らす。
「…………っ……!! …………う、うああぁぁぁぁん……!!」
感情が溢れる。涙が止まらない。わんわんと泣くシロノリリィを、ライスシャワーは優しく抱きしめ続けた。
「……リリィちゃん、もう涙は止まった?」
「……うん。ありがとうライスちゃん」
嬉しさのあまりに大泣きしたシロノリリィだったが、これだけ泣けば流石にスッキリしたのだろう。今は目元がうっすら赤くなっているがにこにこと満面の笑みで観客席に手を振り続けている。
「……んふふ。……えへへ!」
「……負けちゃったなぁ。ちょっと……ううん、すっごく悔しいや」
「えっへへ! どう? 私の作戦、すごかった?」
「うん、とってもすごかった。……でも、次は負けないから!」
「私だって負けないよ! もっともっとライスちゃんに……みんなに勝ちたいもん!」
「ライスだって負けないもん!」
お互いに見つめ合い、顔を綻ばせる。シロノリリィがライスシャワーに抱きついてきたので、ふんわりと抱擁しレースの影響で乱れた髪を手で梳かしながら頭を優しく撫でる。
(……ライス、本当に幸せだ。大好きな人と走れて、それをみんな笑顔で見てくれる……。本当に、本当に幸せだ……)
気持ちよさそうに頬擦りするシロノリリィを撫でていると、不意に彼女がこちらの頬へと手を伸ばしてきて……
「……? どうしたの、リリィちゃ……」
シロノリリィがライスシャワーの頬に啄む様なキスをした。
「……あのときのお返し♪」
レース場の時が止まる。――そして、爆弾の様な歓声が破裂した。
その様子を見ていたウマ娘達……もとい全ての人々が各々出せる限界の奇声を発した。言葉にできぬ感情を声に乗せ、場は混沌と化す。
シロノリリィはとても幸せそうな表情でライスシャワーに身を預けていた。そして、ライスシャワーは──
「………………ぷぇ?」
……惚けていた。
愛しい少女からの突然のキスに脳がオーバーヒートを起こしたようだ。かわいいですね。
ターフに咲いた可憐な花に、虹が降り注ぐ。雨上がりの爽やかな空が人々を祝福していた。
次は掲示板回です。