人々を映す眼が外側にあり傾倒しないのは、世界の管理者や観測者が良くも悪くも平等な役割を担うがゆえ。好むか好まざるか、望むか望まざるかは関係なく、いかなる人や妖さえ天秤にかけて然るべき判断を下す。在るべき居場所が在り続けるためならば、己が身を超えて世界の意志そのものとなり、生きとし生ける者の味方となり敵となる。
幻想郷は全てを受け入れる。それはとても美しく残酷なことだ。
外界なる表舞台、幻想世界なる裏側にも該当しない第三の境界。常識的な人間も非常識な他の妖怪も立ち入らない敷地には、逸れ者の異邦人を一時にでも擁したという、前代未聞の歴史を刻んだ管理者の屋敷が鎮座する。ここに正面から出入りするのは幻想郷でもごく一部の妖怪のみ。
一世界を創造した賢者の一人であり、人と妖怪の均衡を司る巫女の対極たる大妖怪であり、創造と破壊という物事の根底を揺るがす超越的な力の持ち主である、などと聞いて思い浮かぶ人物のイメージとは何か。その容姿だけを見ても判るような一例として、強者の風格や大物感しかないような、物腰厳かな完璧超人を想像する。
然るに『超人』が正しいとしても、『完璧』とまで断言できるとは限らない。あらゆる問題を一人の力で解決に導く者が、他の手足を智慧や力として要するか否か。どんな者にも一人ではできないことがある――それを理解して認めるからこそ、凡才で優秀な式神を傍に置いて日々こき使っている。
「おかえり~。どうだった?」
「手に入れました。老舗和菓子屋『甘笠』限定、レインボー黄金苺大福竹やぶ風味はこちらに」
「不定期でしか作られない、珍妙にして極上の隠れた甘味……この組み合わせが癖になるのよねえ。お茶入れてくれる?」
――とどのつまり八雲紫は、好物の茶菓を自ら里まで買いに行く日もあれば、部屋から出るのが億劫なのでもう一本の手足を使い走る日もある。出不精で面倒くさがりな性格を思えば、どちらが頻繁でごく稀かは判りやすい。買い出しでも殺しでも主の命には忠実に従う藍にしても、名高き妖怪賢者に仕える直属の配下と言えば聞こえはいいが、現実はもっぱら雑用に駆り出される苦労人。
妖怪として意見する場合はあっても、式神として口出しすることはない。どんなに些細でくだらない頼みごとや、理不尽な命令でも文句一つ言わず、心に思うことなく機械的に任務をこなすのが式神の仕事だ。それは述べた通り、忠実な式として動く場合の話であり、任務を完遂して式神の任を解かれた後は想定されていない。
「たまには運動しないと太りますよ。走り込みでもしてはいかがです? マヨヒガの子たちと一緒に」
「遠慮するわ。食べても余計な脂肪は蓄積されない体だから」
「では試してみても? 私も同じかどうか」
「だめ」紫はにっこりと笑いかける。「それにほら、美味しいもの食べて安静にしないと身体が。ねえ?」
「言い訳が古いです」
好きな菓子をむさぼり食うのみならず、屋敷の外に出ない理由とまで絡めて正当化しにかかる紫を、藍は主人ゆえにと盲信せず即座に否定した。月界の件で心身を蝕んだ瑕穢の影響など、体の内も外も疾うに消えて跡形もない。完治という二文字を紡いだのも、控えていた甘味を元気一杯に頬張り始めたのも本人である。
同じ口調で「お茶が怖いわ」と二度目の催促が行われる。茶を飲んで一息つきたいのは同意見とのことで、これ以上は藍も口うるさく言わず、「かしこまりました」と頷いて縁側から出ていき、紫は畳に敷かれた万年床にだらりと横たわる。いつも被っている帽子と愛用の扇子は枕の傍に置いてある。
「んー……」
仰向けのまま体を伸ばす。盆に乗った菓子とお茶が来るまで、うつらうつらと遠目に羊を眺めることにした。
元気に柵を飛び越えるには早すぎる。走り回るなら手の届く場所か、さもなければ立ち止まり、仲間内で談笑する時間であるべきだ。一匹も一人も逃してしまえば、障子が開く前に追い出されてお終い。夢と現の境界を跨ぐ合図は至福の訪れと共に。
ぼーっと眺めているうち、ふと見やれば一匹が群れを離れて走っている。羊のくせに柵には見向きもせず、もの凄くゆったりとした速度で近づいてくる。自信過剰な笑みが現実味を帯びた。
「あー」紫は不満げな声を出す。「なーにしに来たの? こんなとこまで遥々」
瞼を開いて体を起こした。それが誰かを考える時、楽しみを手にした式神か否かを疑う必要はない。正体を隠す気が皆無なら中身を見通すことも、ありのままの姿に疑問を投げつける手間暇も要らない。
不法侵入とは見なすまい。罰する法律も規則もないのだ。どっしりと椅子に腰かけて頬杖を着いている。この部屋には真新しい清潔な座布団が十六枚あるだけで、わざわざ持参しない限りは腰を下ろすしかない。相手は当然に覚えのある姿だ。
「用がなければ門前払いか? 遅いね遅い。お前の顔を見に来るのに理由を考えるのも面倒だ」
「それもうなってると思うけど。理由に」
「じゃあそれでいい」
腕組みして一人納得した様子だ。硬さのある尊大な口調で力強く喋るのは、艶やかな長い金髪の凛とした顔立ちの少女。冠を頭に被り、橙色の狩衣と深緑のスカート、北斗七星らしき模様を散りばめた前掛け。どことなく誰かを連想する。
格好も特徴的だが目を惹くのはやはり、石か鋼か硬質で重量のある素材で作られた大きな椅子だろう。本人と一緒に前触れもなく出現した物だ。折り畳みや小さな座椅子ならともかく、どう見ても持ち運ぶ用途の代物ではない。そしてもう一つ、椅子の角に畳が擦れて傷がつく可能性に紫が触れないのは、ふわふわと宙に浮いているからに他ならず。
「まあ正直、お前を見ても面白くない。穴が開くほど見たって、本当に開くわけではない。ワケなんぞ考えるだけ無駄だがね」
「本音を出すのが早いわね」
「早い方がいいからな。当然だ」
目を凝らさずとも少女は盆を膝に乗せており、ゆったりと何かをばりぼりとかじって頬張っている。ごくりと唾を飲み込んだ紫に気づくも、僅かに思案して「私のだ」と切り捨てる。食べたい物が口に入らなかった時、いい気分になる者がいるはずもないと、紫は初めて苛立った表情を浮かべて体現した。
「紫よ」脚を組み直す少女。「幻想の地が必要な形を成した時……かつてお前が果たした役割、上げた功績は大きい。それは現在も変わらん。なればこそ私の考えを今日、他ならぬお前に話して、私なりに『認識』を与える。この場でな」
「珍しいじゃない。貴方が情報の共有を持ちかけるなんて」
常識的な視点から物を言うならば、幻想郷の創造主たる賢者達は、紫を含めて一人一人が癖の強い変わり者の集まりだ。立ち位置と目的を同じくする一枚岩と評しても間違いはない一方、他の妖怪や神霊の例に漏れず自由奔放である。立場上のまとまりが揺るぎないだけで、各々の思考や振る舞いまでは共通していない。
思考や言動が見通せず読めない者は多いが、少女は他の人間や妖怪、神霊の比ではない。秘密主義か否かを語る次元の話ではないのだ。丸裸にひん剥かれて全ての秘密が失われた時、その存在は魂ごと消滅に帰するだろう。決して誰にも正体を知られてはならない。
「ふむ」少女の意識が逸れた。「全くもって。なんせ……」
険しい顔で黙り込む。張り詰めた重々しい空気の中、紫もいつになく神妙な面持ちで見返した。
「――あれがあれだったのだからな」
「もう少し言葉を選びなさい貴方」
会話には正しい言葉のやり取りが必要だ。初めての会話で『あれ』や『これ』だけで意味が正確に伝わるのは、相手の思考を逐一読み取り一方的にまくし立てる覚妖怪くらいだろう。たっぷりと時間をかけて出てきた言葉がお粗末では解ることも解らない。
だが変わり者同士、紫にも少女との共通点はある。無駄な緊張感を出して一瞬で台無しにしても、発言をたしなめるだけで聞き返さず、再び口を開く時を待っていた。
「我々は目の当たりにした。変わらず過ごしてきた者共に、ある変化を強要した出来事……この辺りでひとつ、それに対応した便利な裏方を用意すべきと思ったのさ。お前も『妖』なら解るだろう?」
尊大な口調と姿勢を崩さず、境界の妖怪を相手に対等な物言いを続ける。自身が妖怪であることを指摘されても、紫は口を開かず黙って見つめるだけだった。些細な疑問を抱く余地さえなかったのだ。
――数か月前に発生したとある異変。八雲の妖怪達を始めとする関係者の間では『朧月の変』と呼ばれている。善も悪も何もない、完全なる無の色彩が月に霞を作り、生きとし生ける全ての人も妖も神も、その奥に見え隠れする月の眼は魅入らせた。
今日では常識となった弾幕勝負に依らない、かの吸血鬼異変ともズレがある異質さ、妖怪や幻想郷の在り方を根底から覆す規模と絡めて『大異変』なる呼称が使われるほどだ。
甚大な被害を月界にもたらした、言葉の通り悪夢のような一夜だったが、地上では誰一人として死なず、血を流すこともなく終息を迎えた。ここで言う被害とは破壊や死傷など表面的な影響に過ぎず、深刻な事態を垣間見たのは裏側の方だ。
幻想郷に暮らす人間と妖怪。形ある生物が人間を生むとすれば、形なき概念は妖怪や神を生む。妖怪達を怖れる人間の心を喰らい、神を畏れ崇める人々の信仰を糧とする――そんな彼らが怖れるものは一つ、始源であり全ての根源たる畏怖や無理解、それらを宿す心が人々から永遠に失われること。怒りも悲しみも、怖れや畏れも奪い去る無限の夢は害悪でしかない。
妖怪達が力も存在も失う瀬戸際にまで追い込まれた月の夜。あの出来事を受けて、幻想郷を代表する妖怪達の間で上がった議題がある。
「慣れだけでは解決できない問題がある。遊びの例外に該当するってだけなら、やりようなど腐るほど見つかるがね。誠に残念ながら我々の常識が通用しない不慣れな事例もある。これまでとは違った働きかけが必要な時だ」
この世界で発生する紛争や問題は、命名決闘法に基づく弾幕勝負を以って解決する。力ある妖怪同士、力なき人間との争い事から血生臭さを取り払い、互いの力の差にかかわらず、対等な闘いを繰り広げることができる。妖怪は自らの強大な力を存分に振るいながらも、生きるために必要な人間の数を減らすこともない。平和的な遊びと表現される所以だ。
元から幻想郷に住まう者、結界の外から入ってきた者、別の世界から移り住んだ者も皆、弾幕による競い合いを肯定して受け入れている。異変を起こして巫女達に立ち塞がり、無事に解決できるか否かを試して見届けるのだ。その一方で、同じ人間や妖怪同士で意見が食い違う場合もあるように、規律に従わない者も存在する。
欲望のままに暴れ狂うはた迷惑な輩が現れても、妖怪達が実力行使で容易く制圧できるなら何とでもなる。それに該当しない怪物が現れた場合は深刻だ。無血の闘いが殺し合いの戦いとなれば、力の劣る人間達が真っ先に命潰える。妖怪とて無事では済まないだろう。あの異変を起こした黒幕がいい例――否、度が過ぎた唯一の例だ。
「分からないわね。私に話す理由でも?」
「礼儀だよ」深く腰かける少女。「お前が目を掛けているのだ。それが道理でもある」
「ご丁寧にどうも」
紫は仰向けに寝転がり、天井を映しながら冷めた反応を返すだけだった。一応は客人である少女の目の前で。何かを期待するように観察していた本人も、いくら待っても変わらない態度を見て折れたのか、仕方なしに笑って「だがね」と続ける。
「分からないのだよ私も。いつまでも調伏せずに置き続ける訳が。好い代案でもあるのかな?」
「悪党じゃないもの」
「おっと、思い違いだ。言葉のナントカさ」
救いようのない者もいれば、救う価値のある者も、救い出された者も、救わんとする者も存在する。妖怪賢者が愚直に一括りにしていたら、少女は屋敷に姿を現さなかった。
善も悪も全てを受け入れる幻想世界とて例外はある。仇なす害悪は友でも家族でも恋人でも差はなく、感情を否定した賢者達は戸惑いなく淡々と、遍く手を下す。大抵は消え往くだけだが、稀に有益と判断された場合、賢者達の手にかかり調伏されて彼らに下るのだ。洗脳や呪縛の類で無理やり従わせることもあれば、対等な契約の下に式神の秘術を施す場合もある。
少女はよく知っていた。いわゆる穏健派に属する彼女は忠実な式を操るのみで、力で押さえつけることに関心を向けない人物であると。
「お熱なのね」紫は目を開けた。「そこまでの価値を認めていたなんて。じゃないとそんな話、私にしないものね。貴方が」
「思う存分、悩みに悩んで悩み尽くした結果だよ。見たまんまじゃむしろ――逆だったがね」
人間にとって妖怪は天敵だ。その妖怪にとって天敵となる人間を捨て置く道理はない。妖怪を畏怖せず糧にもならない人間が役に立つのか。世の理と存在意義を忘れて妖怪の世界に足を突っ込んだ人間が、いかなる事情とて否定し尽くされるように、善悪など無関係に一片も残さず消し去り憂いを絶つだろう。従来の意向を見直して、異なる方向に舵を切ったのは、個々の思いを起因とする親切や気まぐれではない。管理者達の行動原理は『幻想郷』そのものに在るのだ。
とは言っても今現在、これから先もずっと、表舞台に立ち続ける主役は『弾幕』を置いて他にありようがない。そこにもう一人を配置する場合、美しさも華やかさもない、誰の目にも映らない裏方に徹するしかない。ごっこ遊びの舞台において博麗の巫女を表、境界の賢者を裏と位置づけるなら、舞台を裏側から支えるのは裏方だけで十分だろう。
最高に常識的で当然の考え方に取って代わった――否、選択肢として新たに加わったのは、従来とは違った非常識的な考え方。消すべきものを消さずにあえて残して、在るべき世界の形を維持するために組み込む歯車とすることだ。
「消すのは勿体ない。それなら生かすまで……あの力は我々にとって実に好都合だ。立ち位置もな」
目に止めたのは天敵となる直接的な要因や、身体的な強靭さをも併せ持つ部分だけが理由ではない。強大な人外達に精神と肉体の二方向から対抗し得る有力者でも、妖怪や糧となる里の人間は舞台の主役であり、裏方に充てることは断じて許されない。
絶対的な規律に縛られない者、つまり外から来た異邦人では話が変わる。式神と同じかそれ以上に器用に柔軟に、自由自在に動かすことができて、動かすにあたり不都合や不利益の少ない、事と次第では全くない人材となり得る。それも何の因果か「裏方に回るのが得意な身の上」だ。見逃す理由を探す方が難しい。
「で、要らないんだろ? 私が代わりに貰うって話だよ」
「ふうん」紫は欠伸をする。「貴方をお嫁さんに欲しがる物好きな男の人なんて、居るとは思えないけれど。この世にもあの世にも」
「自己紹介かね。的の真ん中だな確かに」
「あの二人は可愛いわよね。貴方と違って」
「そうだな、あの狐は愛い。お前と違って」
果たして他に誰もいない状況が関係するのか、見苦しいやり取りも真顔で平然と行う二人。互いを貶しながら互いの部下を褒める奇妙な光景は暫し続いた。
縁側から差し込む光が布団の上に線を引いている。少女は膝に置いた盆が空になった頃、ふわふわと浮かぶ椅子から見下ろした。紫が体を起こしたのは少女が現れた時に一度きりで、以降は客人の振る舞いなどお構いなしにだらけており、無防備な姿を隠そうともしなかった。まるで部屋に自分しか居ないかのように。
「なあ紫」少女は滑らかに言う。「ここに来てこうして話したが、相変わらず何も言わないなお前は。認めたと受け取って構わんのだな――容認か黙認か知らんが――これから我々が成すこと全てを」
紫は二つの選択肢を示された。此度の決定に異議を申し立てて該当する人物を自らの手で押さえるか、公平なる管理者として何もせず時が過ぎゆくのを待つのか。今回は行動を起こすか否かの明確な違いから、自分の答えを提示して意思決定を行わない場合、自信家な少女の意向が無条件に反映される。だらけるばかりで異を唱える気はないようだ。
満足げに笑んだ少女。気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「やはりお前が口を出す領分ではなかった。他人はお暇する時間だな」
賢者なる肩書、異名を有する管理者。日の当たらない裏方から表舞台を支える者は、表の世界を生きる妖怪とは相容れない立場にある。
八雲紫と直下の式神達は、目的を達するために必要な役割から離脱した。あまりにも呆気ない終わり方だった。
「――よろしかったのですか? 紫様」
和室の静けさを破った一声。縁側の障子を風がガタガタと揺らし始めた。いつの間にか少女の姿はなくなっている。
藍は縁側の陰で聞き耳を立てていた様子。疾うに瞼を開いていた紫は、柔らかな口調でたしなめた後、寝返りを打ちながら「うん」とだけ言った。
「例外ばかりが絡むのでは予測が立ちません。見張らせますか?」
「放っときなさい」紫は面倒臭そうに唸る。「何をどうするかなんて興味ないわ。どうなるのかだけ、ゆっくりと待ちましょう」
傲慢で多面的な人物が吐き出した正論。管理者に迫られる選択は確定的な分岐ばかりで、肯定か否定かは関係なしに大した違いは生まれず、最後には同じような結末に行き着く。そこに何かが起こり得るとすれば、個人や集団を超えた一世界の意志に変化が訪れた時である。