長き放浪の末に辿り着いた場所。固く閉ざされた扉の奥に垣間見る現実は真実か否か。一思いに後ろを振り返るのも好いだろう。
よく見ればどこにでもなく、よく見ずともどこにでもある後ろ戸。表舞台を弾幕に取って代わられた今日では、名も意味もすっかり失った陸の孤島としており、辺境の端っこに人や妖知れずひっそりと存在している。より良質で理想的な物が手に入れば旧い物はお役御免、押入れの奥深くに収納されて日の目を見る機会は失われる。不要な物として捨て去らない理由は選択を残すためで、かび臭いソレを久々に引っ張り出したのは、必要な選択肢を増やす時が来たからに他ならず。
物好きにも踏み込む者は、外界人とて絶無に等しいはずが、此度は斯くも逸れし珍客が来訪した。好奇に満ちた秘神による導きを受けて。
「……久方ぶり、でもないかもね。下手したら初めて。開くかも判らない、色彩すら想像できない扉を幻視するんだもの」
ぎゅっと作られる握りこぶし。額を伝う汗。立ち塞がる黒衣の男を前に、里乃は緊張の糸で縫い付けられた。
ただの一度も感じた覚えがない力の渦、威圧を放ち続けて止まない強大な瞳力。絶対なる主の威光に身を包んでもなお、対峙するだけで押し潰されそうになる。写輪眼なる未踏の概念が生みし重圧は、静かに佇むだけで有象無象を寄せつけないかのようだ。
「驕りは真実を覆い隠す。他でもないオレの選択こそ物事の……世界の真理から導き出された答え」
男は両腕を下ろす。不意に発した「ジャララ」という重苦しい音と共に、鈍く黒光りする鎖が袖の中から顔を出した。太く長い先端に付属した枷を反対側、左手首に嵌めて一本に繋げると蛇のようにうねり、触れ合う金属音が激しく威嚇した。冷徹な赤い眼光が里乃を捉えた。
掌に光弾を形成させて身構える。緊張と喉の渇きが襲う。里乃はごくりと息を呑み、荒れ果てた大地を踏みしめる。男が身動きした途端に見開かれた目。
「すでにお前らに――…希望はない!」
地面を蹴って飛び出す二人。里乃は絶え間なく光弾を撃ち込むも、迅雷のごとく疾走する忍の動きを捉え切れず、地面に次々と大穴を作るのみ。巧い弾丸が群れを成しても的を掠りもしない。すり抜けるのではない、速さと身のこなしで単純にかわされ続けている。
男が再び消えた瞬間、耳元を騒がせる鈍重な音。里乃を捕捉した鎖が宙を漂い、その体を絡め取らんと蠢く。眼前に迫っていた姿が手を伸ばしている。
「――っ!」
始まって早々に直感が教えてくれる。指先一つでも触れたらお終いであると。僅かでも接触を許せば最後、どことも知れない閑静で不気味な場所に押し込まれ、輝かしく暖かな陽の日を浴びることは二度と叶わない。不自由を良しとしない妖怪達にとって、永遠の束縛と沈黙は死よりも怖ろしい末路でしかなく、人間とて冗談では済まされない。
横と背後に鎖、前方には男の姿。地中をもぐらのように掘り進む力も時間もない中、咄嗟に足裏を蹴りかけた時だ。何かが足首を掴んだ。枯れたはずの地面から突き出した樹の根が、上空に避難しようとした里乃を縫い止めたのだ。
振り払おうと力を込めてもがっちりと掴んで放さない。その間にも男は迫る。
「ならっ!」
人差し指がくいっと動いた。かわされた光弾の一つが軌道を変えると、飛去来器のように里乃の方へと戻る。一直線に手を伸ばさんとする動作は止まらず、男を背後より捉えた。
光弾は獲物を吹き飛ばさなかった。今度は体をすり抜けたのだ。まさにその瞬間、全くの同時に接触せんとした鎖と、その手が腕ごと里乃の体をも透過させた。舞い込んだ隙を見逃すはずもなく、足元の樹を瞬時に破壊して飛び上がり、標的を仕留め損ねた男から距離を取る。
「惜しかったわね。なかなかの詰めようだったけど、様子見に入るようじゃ甘いわ。お汁粉に砂糖と蜂蜜をぶっ込むよりずっと」
「一時の危機を退けて安堵する者は早死にする。それが現実というヤツだ」
「警告のつもりなら、さらに甘々ね。この状況で敵に……」
ふと違和感を覚えて言葉を切る。前方に映していた男がぐにゃりと歪んだのだ。
姿が一気に大きくなる――その見方が思い違いだと気づいた時には、鎖で体を絡め取られていた。間合いを取っていたはずの男が見下ろしている。
喋りながらも決して気を抜かなかった。警戒を怠らず慎重に帰していた。近づけば不利になると判っていた。それなのにたった数秒の間で術中に嵌ったのだ。
「うー……?」
鎖は頑丈で引き千切れず、振り解けもしない。呆気なく劣勢に追い込まれたようだ。
山を打ち崩す怪力と莫大な妖気を抑え込むとされる、地底の鬼縛りの拘束具ほどではないにしろ、死ぬ気で抵抗しても人の力では破れない代物だ。自由を取り戻すには妖怪の力でもなければ無理だろう。人間が自力で叩き壊せる程度で対妖用を名乗れるはずもない。同じ枠内に在れば当然に影響を受ける。
「この数秒でお前は終わる。隠岐奈の居場所を吐かせてからな」
呼吸を乱しながらも辛うじて男を見上げる。反抗的な視線が見返すと赤い眼が細まり、今度こそ触れんと頭部に手を伸ばした。
無言に徹していた里乃が息を吐いた。間もなく「やっぱり」と声を絞り出すと、男の動きがピタリと止まる。
「――逆よねこれ。道を塞ぐ役目は私であって、貴方じゃない。なのに私が貴方に挑んでるみたいよ」
焦りの色が嘘のように失せている。初めから存在しなかったのだ。同じように流れに身を委ねていた男も、圧倒的な優位に立った矢先に手を引っ込めるばかりか、あろうことか鎖を緩めて里乃に自由を与えた。一切の躊躇もせずに。
「あくまで試すのが私、試されるのが貴方。立ち位置が狂ったら、趣旨と方向性が歪むわ。それじゃ意味ない……普通にやりましょうか」
「どうだかな」オビトは横を向いた。「どっちでもよかった。あのまま終われば手間が省けたからな」
「失格にしちゃうよ。私が駄目と言うんだから、駄目なの」
どさくさに紛れて願わくばと飛び出した儚い言葉は、里乃のぴしゃりとした一声で泡となり消えた。是が非でもテストに合格させて引き入れるという、隠岐奈にとっての『希望』を打ち砕かんと気合を入れたオビトの目論見と共に。ちなみにオビト自身も彼女の力を試す方向で動いているので、勝利を得ると不合格になり、敗北に帰すると合格という真逆のルールの下で実施されている。
隠岐奈が持ちかけたテストを承諾した上で、後ろ戸を潜ってこの世界に踏み込み、お膝元にて二童子との戦いに突入した。この時点ですでに主導権は里乃に在り、まんまと身を投じたオビトをどう扱うかも本人次第。分かっていて付いてきたオビトは、相方より控えめな里乃が強引な言動を露わにしても異を口にしなかった。
(だが……)
失格かはともかく不合格、向こうにとっての合格に終わる可能性は否定できない。あの隠岐奈が写輪眼に差し向けた配下にしては、手ごたえをまるで感じなかったからだ。その存在が規律となる試験官の意向を無視して、先ほどのやり取りを数秒ほど延長していれば、とっくに里乃を乗り越えてもう一人か、二人を従える賢者に相まみえていただろう。精神的な干渉に弱い妖怪ではなく、強かな人間を選んでぶつけるのは正解と言えるが、種族による優位性のみで覆るような術ではない。
誰しも抱くであろう違和感。その程度の予感が的中しないはずもない。か弱い『人間』を演出していた里乃はすでに、打って変わって落ち着いた様子で佇んでおり、口元には悪戯な笑みさえ浮かべていた。
「まあでも、さっきのあれ……表立った力を直接、大まかに把握する分には役立ったわ。加点しとくわね」
「好ましいかは微妙だな。内容だけに」
隠岐奈の勢力下に入るためではなく、入らないための道を探る一環で勝ち取る合格、もとい不合格である。此度の試験で肯定的な評価を得ようとも受ける側に利点はない。
意識を乗っ取られていた舞とは異なり、里乃の瞳には正常な光が宿り、言動にも異常は見られない。首の後ろ辺りに渦巻く気配は相変わらずとしても。
「もちろん好ましいよ。勿体ないくらいだわ」
里乃と舞はどちらも元人間。八雲紫が九尾の狐に式神の術を施して己が手足としたように、隠岐奈もある術をかけて二人を忠実な配下に迎えた。主人と身も心も同じくする二童子として、その日を境に人の身を外したのだ。二人は本体かつ象徴たる秘神と同一体であり、高い眼力と智慧は並の妖怪を超えている。僅かな応酬だけでも力量を見定める程度は容易い。
「欲しいものは逃さない。どんな手を使ってもね……お師匠様の意志よ」
――希少な人材に求められるのは特異性。忍ゆえの素早い身のこなし、妖怪にも引けを取らない強い力など、他でも代用できる部分は長所に過ぎない。幻想世界の人間や妖怪ではあり得ない、異邦人ゆえの身軽な立ち位置や、肉体的な死を拒む妖達に精神的な死をもたらす、特有の瞳力と『チャクラ』が主な理由だ。畏怖や信仰など、人の心を根源とする人外達にとって、内面に働きかける力は特別な意味を持つ。
実際のところ、かつての異変を解決に導いた実績がある以上、何もせずとも一定の評価は下る。そもそも此度の試験を持ちかけたのは外来人、『元』外来人とも言えるオビトの力を、始める前からある程度まで認識していたからだ。でなければ限定的な意味を含む試験など考えもせず、時間を割くこともしない。
諸々の事情を知る里乃達に言わせれば、単なる力の誇示や再確認の意味合いが強いテストである。合否は初めから重要視されておらず、オビトがどう振る舞おうとも決定権を持つのは隠岐奈を置いて他にいない。
「だからこそ、だ。こっちも手を抜かんのはな」
全ては掌の上で転がされているに過ぎない。早いうちから気づいていたのは同じだ。護るべき世界を強固に作り固めるためならば、過激で強引な手段も辞さない人物であると。慈悲も甘さも見せない相手に、戦場ではないからと加減を入れるほど愚かにはなれない。闇黒テストと銘打った秘神の試練を真正面から打ち破るだけだ。
「そうね」里乃は微笑む。「『だからこそ』、よ。ここからが本番……心ゆくまで見定めてあげるわ」
力ある異邦人とて人間に変わりはない。本人にとっては大人げない、過ぎた舞台であると解っているのかもしれない。それでも里乃は戸惑いも未練もなく、周辺を漂う空気に揺らぎをもたらした。
「――私たちがねっ!」
今度はオビトが身構える番だった。一人しかいない少女が紡いだ言葉に疑問を抱き、真相を確かめんと本人にぶつけるまでもなかった。客人を迎えんと現れたもう一人が答えを示したのだ。
水松色の髪をなびかせる人物。後ろ戸を潜る前に会ったばかりの姿が、いつの間にか里乃の傍に足を着けていた。爽やかで明るい笑みを口元に浮かべて。
「ごめんね」舞はオビトを見据える。「三人で一人の摩多羅、二人で一人の童子……少しばかり大げさで、卑怯に映るかもだけど、君にはそうするだけの価値がある――さあ、始めようっ!」
すでに彼女の内に隠岐奈の意識はない。秘神に仕えし二童子がそろって何かの印を結んだ瞬間、眩い金色の光がオビトの視界を埋めた。
思わず一歩退いて顔を上げた時、再び映ったのは優雅に佇む舞が一人。里乃の姿は消え失せていた。咄嗟に辺りを探るも他のチャクラは感知できない。
二人がそろい踏みして事が始まると予感した矢先、里乃は相方を残してどこかに去ったか身を隠した。舞が入れ代わる形で現れた理由とは何か。
「気になるかい? もっと僕らを見てほしいなあ。愛しい愛しい君にはさ」
からかうような含み笑いを耳にして、オビトは眉をひそめる。人間の里で会話を交えていた時と比べると、雰囲気に言い知れない違和感を覚えたのだ。再び隠岐奈か誰かに乗っ取られた様子はないが、あの時の面影は見られない。
幻想郷の妖怪は内面が読みづらく、掴みどころのない者ばかりが勢ぞろい。今回も例に漏れない。本当の舞がどちらだったのか、今となっては判りようもない。知る必要もないのだろう。
「後ろか……見過ごせんな。何が覗くにしても」
ふと頭を過ぎったのは、幸運をもたらす胡散臭い白兎の表情。気まぐれか思惑ありきか、義理もないはずの異邦人に贈った言葉。この流れを予期したものなら意味があるはずだ。戯言では終わらない何かが。
日常の中でたまに感じる誰かの視線は、気のせいで済むものばかりではない。目を背けるのは逃避でしかなく、手遅れになる前に注意深く見返すべきだ。この写輪眼を以って。
「オレの瞳力に執心だったな。お前の主は」
「だけじゃないさ。もっと色んなものが見えているよ」
「お前は奴の分身も同然……その身をもって味わうのが手っ取り早いだろう」
舞が仕掛ける前にオビトが動いた。練り終えたチャクラが両眼の周りに集中、瞳力となり解き放たれる。真っ赤な瞳を無防備にも直視した瞬間に硬直、悪戯な笑みを貼りつけたまま呆気なく倒れ伏した。
早々と静寂が訪れる。オビトの頭上に左巻きの渦が発生すると、空間に生じた穴から棒状の物体が落下した。光沢のない黒一色の棒を手に握り、ぴくりとも動かない舞との距離を詰めていく。
(さて……)
写輪眼の基本瞳術が一つ『幻術眼』で行動不能に陥らせると共に手早く神威で頭をねじ切る。体とチャクラを縛る外道の杭や鎖でも代用は可能。空間ごと歪める術に硬さや守りは関係ない。単純だが効果的な手順だ。遠距離特化型の左眼神威は、瞳術・天照ほどではないにしろ、発動の際に生じるチャクラの動きが分かりやすい方で、感知能力や身のこなしに優れた手練れには気取られ手を打たれやすいが、幻術を組み合わせて身動きと抵抗力を奪い去れば問題はない。忍を含む人間相手はもちろん、肉体的な終わりが存在しないとされる妖怪でも、物理と精神の両方から働きかける力は致命傷となる。
ここが試験も何もない本物の戦場で、敵を仕留めるつもりで動く場合の話だ。テストと称するやり取りで手抜きを否定しても死ぬことはない。それよりも問題は、舞が妖怪ではなく人間――隠岐奈の影響下にある底知れない人間であり、本来なら幕引きであろう手段で片がつくかも判らないこと。やりづらい相手だ。
あるいは一から百まで買い被りで、この一手で本当に終わるなら喜ばしいが、物事がそう巧く運ばないのは理解できていた。
「……百聞は一見にしかず、ねえ」
舞は横たわったまま口を利いた。震えも詰まりもなく正常で、歓喜さえ混じった声色。拍子抜けするほど呆気ない流れには理由や裏があるものだ。
「知りたきゃ行動あるのみ、食らうのみ……模範的だし話も早い。いい線行ってるよ、お師匠様と同じって見方」
じっと立って考えを巡らせるだけでは解らない物事もある。得体の知れない感覚は初めからあったのだ。境界の妖怪と肩を並べる人物は格が違うとでも言うのか、体を動かしても正体を見通すきっかけは掴めず。いかにして万華鏡写輪眼の瞳力を真正面から打ち破ったのか、その理由は不明瞭なままだ。幻術が内面に及ぼす影響の度合いに関して、精神に重きを置く妖怪よりも人間の方が小さいのは事実だが、当然ながらそれだけでは決まらない。
名前が同じなら結果も同じとは仕組まれたかのようだ。こちらは種族や手段に差異がある。問題は後者であり、幻術に落ちて一時は停滞していた流れが、舞が身動きする直前に正常に戻った。もう一人の舞との違いとして、自前の術や技を駆使して自力で解いたのではない。チャクラの動きを細部に至るまで注視すれば判ることだ。見た目の変化だけなら一目瞭然でもある。
「気にかかる口ぶりだな。後ろに奴がいるとすれば――」
「丁寧に言うね」舞は体を起こす。「僕ら『二童子』を相手に、お得意の幻術は役に立たない。特別な力でも何でもないよ」
チャクラの主導権を握って異常な流れを引き起こすのが幻術。己の体内を巡るチャクラを氷結させる形で主導権を守るなどして、ゆえにと舞の言うように、何か特別な力で無効化したわけではない。彼女自身は「何もしていない」のだ。どちらかと言えば幻想郷よりも、忍界の常識で考える方が理解は容易い。
――異なる意識の内在。宿主の中にもう一つの、つまり己の内に他者の意識や人格が別個に存在する場合、自らにかかった幻術を解除して影響を拭い去るための有用な代替手段となり得る。代表的なのは尾獣を体に宿した人柱力だ。尾獣の力を完璧に制御した忍に幻術は通用しない。似たような理屈で言えば、主人の意識が介入した式神モードの八雲藍や、己が体に神々を依り憑かせる天と地の巫女も該当するだろう。
隠岐奈の影響下に在る舞、里乃は幻術が標準で効かない。寝転がって無防備に構えても変わらない。主を引きずり出すなり繋がりを切るなり、やりようはあれど具体的な方法が見つからない限り、一睨みで昏倒させて手間暇なく突破とはいかないようだ。
「それとさ。その顔、君でも気づかないみたいだね。どーやら」
ゆったりと腰を上げて向かい合う舞を、オビトは訝しげに映す破目になった。いかにして対処に至ったかを今しがた理解したところに、新たな介在を匂わせる言葉を愉快げに並べ始めたのだ。疑問が生じるのは必然だった。
「お前の後ろでざわつくモノ……奴とお前を繋ぐ何かとまでは想像できるが、そこから先が解らんのはその通りだ。いったい何が……」
目に映らないのは言わずもがな、写輪眼を通すと辛うじて『渦』が確認できる。視覚以外なら感知を以って気配を察知する程度。隠岐奈に絡む何かが二童子の背後に在ると分かったところで、正体を知るためのきっかけとはならない。情報もなく無知のままに幻想郷を歩き回っていた当時を思い起こす状況だ。
材料がなく思考しても一向に好転しない。となれば残るは舞の言う通り――。
「火遁『豪火球』」
札を持たざる者による宣言が奇しくも響いた。体内でチャクラの生成を瞬時に終えると、高速で印を組みながら息を吸い込み、焼けつく朱色の火炎が口内より吐き出される。灼熱の火球が地面を抉りながら突進した。
オビトが不穏な表情を露わにしたのは、術を行使した後でも前でもなく、炎が生まれた瞬間だった。
「……どういうことだ? これは」
事は火を見るより、文字通りには火を見れば明らかだった。放たれた火球は不自然に小さく弱々しい様相で、舞へと到達する前に揺らいで空中分解、跡形もなく失われて消えたのだ。
見慣れている物はもちろん、八雲の屋敷で体を動かしていた頃に使用した物と比較しても劣るありさまだ。ましてやいつもの調子と感覚でチャクラを練り、印を組んで発動した術に不足が生じるはずもない。当然だが手加減はしておらず、するにしてもここまで情けない結果を生むような調整はしない。無様な言動を否定する程度の自負心はある。
原因は一つしかあるまい――そう思ったところで舞は不敵に笑んだ。心を読んだかのように、不気味とも言える面持ちで。
「今のは何となくあったんじゃない? 違和感とか」
間髪容れず左目が見開かれた。視線を向けた姿に歪が生じると、周りの空間ごと左巻きに捻じれ始める。この瞬間にもオビトは疑わしげな表情を隠さず、見返した舞は渦に巻かれる寸前にゆるりと回避、神威が中断されると空間の歪みは元通りになった。
今度は間違いない。幻術をかけた時には気づかなかった現象の正体が、最も得意とする性質変化の忍術に固有瞳術を重ねて垣間見えた。人や妖怪が決まって有する「程度の能力」が不明だった舞は、単なる強弱を超えたものを持つことになる。
「まさか、オレのチャクラを? だとしたらお前の力は……」
二童子が主とする隠岐奈は八雲紫と立ち位置が同じだ。有する能力が相応に匹敵する代物でも不思議はない。物事の境界を操るという、概念に作用する類の異質な力は、その影響下に置かれた式神自身も扱えるのだ。
「僕らの、だよ」舞は爽やかに訂正する。「目に映らないのはまあ、仕方ないさ。僕らが『踊り』を捧げるべきはあの方……それが物事の道理だからね。けれどもこの舞台に立って、君の精神はさぞ魅せられたことだろう」
すかさずオビトが振り返り、鋭い眼光が背後へと走る。背中に感じた視線は本物か気のせいか、どこを探しても見当たらないのは相も変わらず。果てしない荒野と上空に浮かぶ扉の群が映るのみだった。
万全の状態で十全に機能しなかった火遁や瞳術。眼で視て判るだけではない、ほんの一瞬の間に覚えた異物感は、舞の意味ありげな表現と答えを示し合わせるのに役立った。不調や偶然でもない定められた外的要因――この体に宿る『チャクラ』を意図的に弄ったとすれば。
「精神の力に作用する……他人のチャクラに直接干渉して制御する能力か。厄介だな」
術の発動にはチャクラの練り上げから始まる。人体を構成する細胞一つ一つに宿る生命の力、すなわち身体エネルギーと、心や精神に内在する精神エネルギーの二つを練り合わせて『チャクラ』を作る。細胞レベルで全身に張り巡らされた、経絡系と呼ばれる管を通じて運搬、必要に応じて印と組み合わせて発動する。
その中には印を必須とせず、必要としないものも存在するが、いずれにも共通するのは、どんな術であれチャクラを用いること。それを作るために二つのエネルギーを扱うこと。適切に練り上げて安定性を持たせた物に、外部から圧を入れて安定を失った、不適切な物と成り果てる場合があるとすれば、急激な『変化』が致命的となる段階を置いて他にない。
生成の最中は状態の変化が絶えず発生し続ける。発動の瞬間まで違和感に気づかなかった辺り、チャクラを練り上げた後か、前となる精神エネルギーの段階と考える方が自然だろう。根源的を超えて始源的な後者なら厄介極まり、両方に作用するなら途方もない。確かなのは『術』自体を弄って小さくしたわけではないこと。
「いや、もっと単純だよ。君が思ってる以上にね」
笹の葉を握る右手が動いた。それだけでオビトの表情がこわばり、何かを感じた様子で写輪眼を自らの体に向けた。
次の手を打つために練り終えて、体内の経絡系を巡っていたチャクラの流れが急速に勢いを失っていく。ゼロとはならず僅かに残っただけで、先ほどの豪火球と同程度かそれ以下の、不出来な術にしかならないと一目見て判るほどだった。相対する敵を仕留めるには到底至らない。
練り上げ自体も思い通りにならず。混ぜ合わせる身体エネルギーに対して精神エネルギーが極端に足りない。必要分の材料がなければ何も作れないのは自明の理だ。
「使いようでもある――こんな風にさ」
再び笹の葉がざわついた、まさにその瞬間。底を尽きかけていた精神エネルギーが急激に溢れ出すと、失われた分がみるみるうちに戻るだけではなく、おまけと言わんばかりに濃くなり、そして増えていった。増加分は量に換算すると微々たる程度とはいえ、今まで通りに忍術を駆使して立ち回るには十分だ。
「……なるほど、な。よく分かった」
忍界で言う精神エネルギー、つまり他者の精神力を自在に上げ下げする。稗田阿求に倣って名づけるなら『精神力を上下させる程度の能力』だろうか。使い方次第では途轍もなく強力で反則的だが、常識を超越してばかりの幻想世界を創造した賢者ならば、ぶっ飛んでいるくらいが分相応で、それより下は不相応とさえ思わされる。
思いのほか衝撃は小さかった。非常識的な出来事よりも、常識の内にある出来事の方が驚愕に値する機会が多いのは、すっかり感覚がマヒして戻らない証拠だろうか。忍界で言えば暁や五影クラスの忍達、下手をすればマダラや千手柱間、さらに下手をすれば六道仙人やカグヤがその辺にゴロゴロいるようなものだ。
それでもなお幻想郷が消滅しないのは、非常識を地で往き代表する者共が管理者の地位に座するからであり、何より幻想郷自体が常識を知らない場所ゆえである。
「ふむむ? 絶望か希望の言霊か。どっちなのかな?」
口元を手で覆い「ぷぷぷ」と子供っぽく笑う。オビトが真面目にじっと見返していると、舞は息を吐いた。
「あの方が君を強くも弱くもできるのはご覧の通り。だから本当はさ、君を今より少しでも強くして、さっさと合格させるのも手だった。でも君は――」
「オレが勝てば不合格、負ければ合格……そっちの方針とは真逆だ」
「……なんだよねえ。律儀に認めちゃってさ、お師匠様。そうなったらもう、君をできるだけ弱くして合格させるしかない。不合格を阻止するしかない。ヘンな話だけどね」
やれやれと首を振って呆れたように喋るも、口元の嬉しそうな笑みは失せていない。明るく感情は豊かながら、得体の知れない感じは時が経つほどに増す一方で、表情に霧がかかっているようだった。消えた里乃も姿を見せないままだ。
「――これさ、どうにかなる状況かい? 君の強さを精神的に取り上げたら最後、心を射貫く『眼』は殊更に必要な役割を果たせない。白旗揚げたって誰も恥とは思わないし、決断は早い方が潔くて格好いいと思うな」
どんな力も使われる前に封じ込めたら意味をなさない。使われても不出来では脅威となり得ない。精神力を上げて味方を強化する一方、下げるのも自在で敵対的な行動を妨害、一方的に封殺して抑え込むと思われる効力は、良しも悪しも汎用性が高く攻守共に隙がない。管理者としての身の上に当てはめる場合、敵を打ち倒す戦闘向き以上に、内外からの脅威を制圧して秩序を守る防衛向きの能力と言える。
畏怖の具現たる妖は人を喰らい、力で争い合う生き物でもある。平和的な弾幕が秩序を作る幻想郷といえど、外から入り込む妖怪達が漏れなく、大人しくルールに付き従うことを快諾する者ばかりという保証はない。有事に備えた手札の中でも、始源的で単純極まる賢者達の力はそれだけで抑止となる。
「確かに……」
ここで初めてオビトの口元にも笑みが浮かぶ。舞の指摘が図星を突いて泣きに入ったり、自嘲したりと後ろ向きな感情は微塵もなく、前へ前へと向いた表情が刻まれていた。余裕を崩さない舞も目を細めて注視する。
今在る世界を全ての『歪み』から守り抜かんと動く者達の想い。それを知ってもなお此度の舞台を軽々しく、ちっぽけなものとでも見ていれば、立とうとも思わなかったのだ。
「……厄介ではあるがな。オレも遊んでるわけじゃない。この程度で諦めを口にする覚悟なら、お前でさえここには居なかった。違うか」
「違いないね。当然だろうさ」
「同じだ」オビトの目が開いた。「オレがこの舞台を降りないのも、な」
――突如として発生した膨大なチャクラがオビトの体を包み込むと、可視化された月草色の渦が炎となり燃え上がる。人間の上半身を模った巨大な骨格を形成、筋肉組織と表皮が瞬く間に張り巡らされ、現出した巨人らしき像が揺らめいた。
隠岐奈達が価値を見出した写輪眼の瞳力、幻術とは唯一異なる枠組みに在る瞳術。舞が詳細には把握していない力の一つである。管理者としての視点で見る場合、物理的な破壊に特化した性質は妖怪の力で十分に代用可能であり、異界出身の未知なる異能とて写輪眼ほど重宝はされない。隠岐奈の配下として立つ舞は僅かに眉を動かしただけで、特筆すべき反応は示さなかった。
「僕の言葉を受けて披露した手札。とっておきに値するかどうか、確かめてあげるよ!」
舞は逸早く動いていた。巫覡を思わせる禍々しい姿に臆さず地面を蹴り、距離を取るどころか勢いよく突進する。勝ち気で挑戦的な表情が迫り、笹を握り締める右手が今一度に動くと、左掌に集束する深緑色の光が須佐能乎を眩く照らした。
「生涯消えない烙印をプレゼントだ――…っ!」
情報が絶無に等しい『忍界』なる異界出身の人間。この世界に現存する唯一の『忍』。
孤高の妖怪でもないのに一人で過ごす時間が圧倒的に多く、仲の好い者も悪い者もおらず、自分の身の上を語らず口数も少なければ、力を持つ外来人の割に騒ぎ一つ起こさない。ただでさえ影に忍びすぎる上、流行りの弾幕遊戯に全く関与しない者の情報を精確に掴むのは至難の業だ。
保有する能力の全貌は解明に至っていないが、精神の力に満ち溢れる姿を見れば一目瞭然である。忍界で言うチャクラを用いた術ならば、白日の下に晒された数々の忍術と大差はない。鎧が堅牢でも引き剥がすのは容易いことだ。
「……あれ?」
動きを止めて首を傾げる舞。自信ありげに掌から放った光弾は、チャクラが作るはずの壁を壊すどころか、ひび一つ入れないまま砕け散り消えた。月草色に燃ゆる炎の向こうにオビトが見え隠れしている。
一瞬だけ呆然とした後、気合を込めたかけ声を何度も発しながら勢い任せに弾を連射しまくり、その度に掻き消された光の粒がキラキラと宙を彩る。だめ押しとばかりに翡翠色の光線を幾重にも束ねて射出するも、煙が晴れた先に見えた鎧はやはり無傷。内部に収まるオビトは動いてもいない。
「瞳力に意識をかけすぎたな」
巨腕が掴みかかり、出遅れた舞の体を捕まえる。そのまま軽々と持ち上げて目の前に持ってくると、像の中に佇むオビトを正面から見下ろす形になった。振り解こうとしても巨人の指はびくともせず、炎のようなチャクラに触れても熱さは感じない。
「おかしいなあ」舞は困ったように喋る。「『瞳術』じゃないのかい? これも」
幻想郷で言う妖力や魔力、鬼が持つ気力などは、事細かな差異はあれどチャクラと同じ括りに入る。精神か肉体、もしくは両方に宿り、人や妖達が様々な術や技を行使するために必須のエネルギーだ。ゆえにその力の源、始源的な部分と仕組みを見極めさえすれば、どんな能力も攻略は難しくない。
精神的なエネルギーを基とするチャクラ。写輪眼の瞳術も、他の術もそれを用いている以上、術の精度を強制的に下げて無力化できる。光弾一発で粉々に破壊できる『はりぼて』の鎧と化すほどに。見た目にしてもチャクラの塊であることは明らかだ。強かな精神力を内包する人間ゆえの読みだったが――。
「いや……もしかして」
「その通りだ」オビトの目が赤く光る。「この瞳術は文字通り……別物だ。お前の能力も通らん」
精神的な力の源に干渉して上下させる概念的な能力。チャクラを用いて作り出す性質変化の忍術、陰遁に類する写輪眼の幻術も通用しない。特に後者は舞達が隠岐奈の影響下にある分、なおさらに効果を発揮しない。であれば話は簡単で、精神エネルギーを主としない、身体エネルギーに依拠する力が有効な手札となる。真っ先に思い浮かぶのは体術だが、お誂えとなる物が一つとは限らない。
――第三の瞳術・須佐能乎。そう呼ばれる所以は、両目に二つの固有瞳術を開眼して初めて発現する三つ目、という意味だけを指すわけではない。写輪眼の瞳術に分類されながらも、術者の眼ではなく体に宿るという特異性だ。つまり須佐能乎は同じチャクラでも、精神ではなく身体エネルギーを拠り所とする唯一の瞳術である。
ゆえに使用するとチャクラを大量に消費すると共に、全身の体細胞に深刻なダメージをもたらす。痛みを殺してなおも使い続ければ失明、最悪の場合は死に至る諸刃の力だ。このリスクは他者の万華鏡を両目に移植して開眼する『永遠の光』を以ってのみ解消できる。
(この反応、やはり……)
須佐能乎も確かにチャクラを用いるが、根っこは体に宿るがゆえに生命力と強く結びついた、身体エネルギーに傾いた術である。永遠の光を得たことで燃費が桁違いに良くなり、ここ数か月で練磨して使い慣れたこともある。チャクラを一から練り上げて発動する忍術や幻術と違って、微量のチャクラを紡いで作った『糸』を用いて動かす要領だ。手裏剣や傀儡など忍具を扱う感覚に近い。
早い話、精神エネルギーの上下を弄るだけでは、須佐能乎を無力化することはできない。よしんば戦い方を変えても、生半可な力では破られない絶対防御だ。破るほど大きな力は忍の足腰による立ち回りで対処しつつ、かわせない攻撃は武具に付与した神威の力で対処すればいい。
殺すべき敵ならば握り潰して終幕。試験だからと無用な情けをかけて拘束を緩める選択肢もない。考えを改めるまで時空間に閉じ込めるのが一番だろう。隠岐奈の部下とて紛れもない人間ならやりようはある。
「お前が諦めるならオレも苦労はない。何か別の力を隠しているか、さっき消えたあいつと二人がかりで来るか――」
直後にオビトの表情が一変する。舞を捕らえていた須佐能乎の腕が突然に砕け散り、自由を得た人影がふわりと宙を漂った。
月草色の炎が不自然に揺らぎ弱まり、段々と薄れていき、風に吹かれるように掻き消えた。鎧を呆気なく剥がされたオビトは頭上に注目する。
「――そうさせてもらうわね。だったら」
目の前に居たのは舞ではない。今しがた手を逃れて、須佐能乎を破ったのはもう一人。
「……状況が不利とでも判断したか?」
ずっと失せていた姿がある。そして入れ替わるように舞が居なくなっていた。
「うーん……正しくは『そうしていた』、かしら。私たちは二人で一人、これまでもそうだったわ。まあこのご時世、こんなテストは貴方が初めてだけどねえ」
落ち着き払った様子で着地する。何の能力も持たない人間とは今さら思うまい。
舞では歯が立たなかった須佐能乎を容易く無力化した。二童子として舞と共に太極を描き、対となる手足として隠岐奈に忠を尽くす、里乃が何を隠し持つのかを探るのに難しく頭を悩ませる必要もない。精神エネルギーを自在に弄るだけでは攻略できない、身体エネルギーに依る瞳術を打ち破ったのだ。
「精神の次は身体エネルギー……生命力とはな。そいつを弄り回すのが里乃、お前の能力ってわけか」
「半分正解かな」里乃は素っ気ない。「ひとつだけ訂正するなら、逆。舞なのよね、それやったの」
「あいつが? ならさっき、オレのチャクラに触れたのは……」
「私しかいないわ。役割を綺麗に分担してるのよ。二人でね~」
里乃の言葉が真実ならこうだ。精神の力を制御して好き勝手に調節を施すという高尚な力を存分に振るい、写輪眼の幻術や本来なら通るはずの忍術に無傷で対処してみせたのは、対峙していた舞ではなく消えていた彼女だった。となれば今さっき身体エネルギー、つまり生命の力を弄って須佐能乎とのリンクを切断、強制的に解術して拘束から逃れたのは――否、里乃を解放したのは霧消した舞の方。初めから全てが逆だったのだ。
誰かがそこに悠然と立っていて、何らかの動きや流れが目の前で起きたとすれば、その人物の仕業であると見なす方が自然だ。断定はせずとも前提として動きはするだろう。二人に一杯食わされたようだ。
「賢者、管理者、創造主……その名と立場に相応しい力だ。仇なす者共を制圧するにはもってこいだな」
役割の分担。精神エネルギーを主とする忍術や幻術などには里乃が、身体エネルギーを主とする体術や須佐能乎には舞が、必要に応じて各々が出てきて無力化を図る。精神と生命の両方から働きかけて動きを完封する隙のないやり方だ。まさに難攻不落、金城鉄壁の布陣と言えよう。なればこそ疑問を挟む余地がある。
(…………)
二つに分極した陰と陽が一つとなり生まれる力。二童子を称した里乃と舞が二人がかりで手を下さない理由は何か。太陽と月のように昇っては沈むを繰り返す意味とは何か。能力を誤認させて隙を作るため、という分かりやすい狙いで闇黒に身を潜ませるだろうか。二人は現在に至るまで一度も肩を並べておらず、入れ替わりさえ瞬く間で、気づいた時には終わらせている。
裏に回ることが、背後に下がることが必然、揺るがず変えようのない道理であるかのように。切っても切れない明と暗の因果を教え込むかのように。
「錠のない扉は何回でも開くわ。貴方が立ち続ける限り、何度だって繰り返される。その度に廻り始めるのよ――」
里乃の不気味な笑み。くすんだ紅色の珠が体の周りに一つ、また一つと浮かび上がり、踊るように舞うと無数の珠が螺旋を描いた。本人を中心に渦巻いて止まず、高密度に収束したチャクラが激しく火花を散らす。悉くがオビト一人に向けられている。
地面を蹴ろうとしたオビトが不意によろめいた。間もなく体勢を崩すと、照準を絞る里乃の眼前で片膝を着いてしまう。一筋の汗が額を伝った。
(体が……)
足腰が急に立たなくなり、体中から力が抜けていく。鎧を剥がされた辺りから感じていた、右半身のざわつきがさらに増している。反撃や回避に移ろうにも満足に四肢が動かず、時間をかけて攻撃の準備をする里乃よりも遥かに無防備な姿を晒すしかない。その間にも光は着実に膨張し続ける。
目に映らない『後ろ』に隠れた舞に代わり、精神力を裏から弄り回していた里乃が現れた。これを受けてチャクラの生成を再開したところで、どちらか一方を握られていては不出来な様に変化はない。チャクラは精神と身体エネルギーの二つを練り上げて作り出す物だ。
それでも、である。里乃の能力は本人が表に出てきた後も継続しているが、舞が出ていた時よりは融通が利かないようで、練るにあたり少しだけ、本当に少しばかりの余裕が生じた。
どちらがマシかと訊かれたら今だろう。言うなればチャクラは、身体エネルギーという『手』を使って、精神エネルギーという『材料』を混ぜ合わせる、という作業に似た要領で練り上げる。身体ではなく精神の方に幾分か傾くために、後者を弄られるよりは拘束力が下回ることになる。
もっとも、それは強いて言った場合であり、忍術や瞳術を満足に行使するための助けには到底ならず、体の自由が利くことも想定されていない。状況は何一つ変わらないのだ。
「このテストでは弾幕なんて飛び交わない……札の出番もないわ。そのぶん死ぬかもしれないけど、善処はするつもり。死んだらその時は――あらためて貴方を殺すわね」
無血で平和な闘いでもケガ人や死者はたまに出る。血肉が飛び散る物騒な戦いではそれ以上、本物の戦場に蔓延る凄惨な殺し合いとなればさらに上だ。いずれの場合でも忍として、降りかかる最悪の事態を回避する程度の力は持ち合わせている。だが必要な手札を取り上げられて、丸裸も同然では遊びの場でも命を落とすだろう。
これが試験ではなく戦場ならば、たとえ一秒とて隙を見せるのは命取りとなる。武装さえ無様に解除されては論外、今まさに隙を作りすぎている。大勢の敵に囲まれた状況なら目も当てられない。里乃の発言が比喩や解釈違いでも何でもない、言葉通りの意味なら残るは死に往くのみ。
「なのに貴方は、殺そうとしないのね……私を。自分が死ぬかもしれない状況で」
「……ただの力試しだ。戦場でもなければ、殺すべき敵もいない」
「残念ねえ」里乃は微笑む。「せっかくの優しさも、ここでは甘さになるだけ。それじゃ元も子もないわ。命が惜しくないの? 貴方」
生命力と精神力の根源を弄るという厄介な能力にも付け入る隙はある。里乃も舞もぎりぎりまで下げるだけで下限を突き破る気配がない。命の源を一滴も残さず失い、枯れ果てた生物が死に至ることを、テストゆえにと体現させる気がないだけなのか。
限度があるのか個人差があるのか。弱点となる穴か試験の方針かは不明ながら、練り上げができないわけではない。十分に練られず術が満足に扱えない状況に追いやられただけだ。ほんの僅かでも可能性があり、最後まで諦めずに足掻き続ける意味までは、この時にも失われてはいない。
「惜しさも未練もない。元はなかった命だ。今ここにいるのが……己で道を選んだ結果だとしても」
「ご立派ね。あの方が喜ぶわ」
この世界で果たすべき役割を全うした時から見据えていたのは一つ、終わりを迎えた者が在るべき場所へと戻るための一本道だった。元より疾うに潰えて失われていた命など、惜しくなるほどの物でもない。期せずした目覚めと脈動を思い出して、生への執着を未練がましくも抱いていたら、生き延びるためにと殺すべき者共を底の底へと叩き落としただろう。
なんてことのない寄り道だ。平穏な毎日を過ごす人々の姿を、もう少しだけ見たいがための。
ずっと捨て去り、忘れ去っていた景色だからか、ふとして芽生えた――否、気まぐれな妖怪に気づかされて、気づいていなかったことに、気がついたのだ。
「ただ……勿体なさはあってな。命があるうちに知っておいて損はない。死ねば闇の中に消えて、二度と日の目を見ないだろう」
そしてもう一つ。この世でたった一つだけ、見つかっていない答えがある。
ここでは関係のない話なのだ。独り言のように紡がれた言葉を聞いて、里乃が眉をひそめて黙り込んでも、それ以上は語らずオビトは目を閉じた。
「オレはこの勝負、むざむざ死ぬつもりも、お前らに譲るつもりも一切ない。だからお前は――」
ろくにチャクラを練られず、体も動かない無力な人間は片膝を着いたまま、挙句の果てには視界を断って瞼の奥に身を潜ませた。
渦巻き、渦を巻く。里乃の笑いが消し飛び、形成していた巨大な光が解き放たれるのと、閉ざされていた口が動くのは同時だった。
「殺す気で、来い」
莫大な魔力の奔流が駆け巡る。高々とそびえ立つ真っ赤な閃光。迸った淡紫の光が一筋の異彩を刻んだ。