賑やかな観客の一人も居らず、歓声や拍手の一つも響かない、寂しげで盛大な舞台に幕が下ろされた。
騒擾が去り、静寂に包まれた後戸の国にて空を仰ぐ。隠岐奈が立っていた場所には、直径にして三メートルほどの黒い球体が在る。
他には誰もいない。黙り込むオビトを除けば、誰一人として。
(…………)
口の端から伝う血を指で拭い、踵を返して歩き始める。
ぼやけた視界、息が上がり、足取りは重い。傷だらけの体は血が滲み、足跡と一緒に点々と地面に残されていく。荒れ果てた大地を踏みしめる度に痛みが襲うも、心臓の鼓動は落ち着きを取り戻していた。
瞳力が解除された左目に黒い瞳が戻る。隠岐奈の能力による干渉を長々と抑え込んでいた外道の術は、騒乱の終息と共に解かれていたが、右目からは薄紫色の波紋模様が消えていない。
(まだ……)
壊れかけの歯車で回る舞台が終幕を迎えても、残された役目を果たさずして降りる道はない。代わりを演じる代役はいない。いるべきでもない。喜怒哀楽を刻んだ面を持たずとも、主役が居なければ表現は不要だ。秘神が目一杯に踊り狂った分で足りる。
面を被るにしろ被らないにしろ、異色の役者が消えて色彩を戻した舞台に再び上がり、騒がしく自由奔放に感情を表現すべきは一人、面霊気の少女を置いて他にいない。
幻想世界は彼女を、彼女は自らの居場所を失ってはならない。在るべき形に生じた歪みと綻びは直さなければならない。
――お人好し。最後に聞こえた声が、ふとして脳裏をよぎる。肯定せず否定もしなかった言葉が。
秦こころ。あらためて思い返しても、ともに過ごした時間は長くない。ほんの僅かと言ってもいい。縁があって何度もかかわりはしたが、特別に深い繋がりを持つわけではない。この身を投げ打ち、友を助けたいがために命を、『チャクラ』を燃やした時とは違う。思惑塗れの置き土産か、投げつけた言葉としては的外れで、あまりにも遠いと思わされる。
オビトの口元に浮かぶ笑み。これまでの歩みに漏れず、色々な理由ありきの義務感が駆り立てるに過ぎないのだ。定められた分岐点で顔を合わせた胡散臭い少女の、知ったような口振りの通りに。やはり他の者のようにはできそうもない。
贅沢なのだろう。それでいいのだ。何者からの影響を受けず、己自身で考えて判断し、行動に移した結果だ。それもまた自分らしさである。
(あいつ、は……)
行き場のない面霊気を受け入れた、物の怪達の生きる場所。創造主たる境界の妖怪・八雲紫。彼女の超人的な力を以ってしても、生き物を待ち受ける生と死の定めを歪めることは、不可逆の境界線に触れることは叶わない。
常識という常識を破ってばかりの楽園、そこに在る非常識な物事をも通さぬ非常識。それは同時にオビト自身が持ち合わせる常識でもある。幻想世界と忍界、いずれにとっても非常識的な定義の一つが、右目に宿る六道の光。
遥か古の時代を生きた僧侶であり、全ての忍の始祖であり、忍宗の開祖となった六道仙人・大筒木ハゴロモ。彼と同じく輪廻の力を己が身に宿し、肉体と精神を同じくする者は、穢土と浄土、対極にある二つの世界の外側に立つ。長寿の妖怪や神霊に為せぬことが、短命な人間に為せないとは限らない。
足を止めたオビトは瞼を瞑り、ゆっくりと、そして確実に印を組む。何もない静けさに耳を澄ませながら。
(…………)
――輪廻眼・外道『輪廻天生』。死した者の肉体に己が魂を注ぎ込む転生術にも該当しない、生き物に宿る命そのものを創造する瞳術。命ある者を傷つけ、殺める数々と対をなす――それは去っていった者を連れ戻すための、たった一つの方法。
顔に御札を貼りつけた動く屍や亡霊とも違い、生前と変わらぬ姿で舞い戻る。「生き返らせる」というより「元に戻す」とする方が正しく、死者の『蘇生』と時間の『逆行』という、不可逆的な概念を二つ同時に書き変える力でもある。
その代償は術者自身の生命力。精神エネルギーであり、身体エネルギーであり、人間に宿る生命エネルギーでもある。
術の扱いは取り巻く状況によりけりで、対象者と穢土の概念的な距離が遠いほどに困難を極める。つまり死亡時期の新古と、死体が現存するか否かで可否や程度が決定される。死して間もなく真新しい遺体が丸々と残されているか、疾うの昔に朽ちて皮の一枚も残っていないかの差が、雑に言えば最も大きくなる。条件が同一なら現存する方がやり易い。行使者の体力やチャクラの状態、一度に適用する人数次第でも変動する。
こころの場合は厳しいだろう。時期は新しいが肉体は跡形もない。穢土転生で紛い物の死体と魂を事前に用意すれば、考えなしより負担は軽くなるが、言わずもがな『穢土転生の術』を扱えなければ意味がない。大蛇丸のアジトから巻物を失敬して会得していたとしても、血液や毛髪などの個人情報物質を保有していない。どう足掻いても不可能と言わざるを得ない。
根こそぎ使い果たすことになるだろう。尾獣を抜き取られた人柱力の死が、覆しようのない絶対のルールであるように――全てのチャクラを失った人間は死するが道理。六道となり生と死の境界線を踏み越えたところで、対価もなしに取り戻せるものはない。都合よく何度も易々と弄り回せるほど、命とは軽々しいものではない。
忍らしく駆けるための『脚』。否。術を使うための『腕』。否だ。この脈動に勝り代わるものはない。そうして初めて望んだ結末へと行き着く。望んだ道を選び進まない理由はない。
(『友人』、か)
本当に何気ない、くだらないとさえ言えるような、そんなやり取りだった。だが一方で、感情なき仮面で己を偽っていた十数年を含め、幻想郷に来てから一度として求めず、考えず、思いもしなかった言葉。沢山の絆や繋がりを肯定こそしても、自身がそれを欲したり、輪に入りたいと望んだことはない。
それでも、たとえ心にもない形だけの物だったとしても、この心には色濃く刻まれた。今となっては確かめようのない答えでも、長らく忘れていた懐かしさなら土産話として上出来だ。
寄り道をしたのなら、両手で抱え切れないほどの、もっと多くを持ち帰るのも悪くない。その気持ちにも嘘はない。早くに気づいていれば、今よりもさらに広々とした景色が見えていたのだろう。後悔や未練はないものの、興味関心は否定し切れなかった。
(隠岐奈……)
お人好しなる言葉が脳裏をよぎった時と同じように、ふとしてあの顔が浮かんだ。
駆り立てる使命感、絵に描いたような正義感、善人のような親切心や気まぐれ、過去の贖罪とも関係のない――「失いたくない」、さらに言えば「助けになりたい」という思いこそが、求めていた答えだったとすれば。在るべき世界の歪みを否定せんとする、それらしい考えの陰に隠れた真実とは、かくも幼子のように単純で純粋なものだったのか。頭ではあり得ないと、馬鹿馬鹿しいと思いたくとも、異物として吐き出されなければ徒労でしかない。
理由なき理由。自分本位で身勝手な考え方だ。然るにそれが皆の平穏に寄与する結果をもたらし、持って生まれた「らしさ」でもあるならば。嘘偽りなき本意であるならば、無理に否定し尽くすことはない。おぼろげな遠き日の記憶に在った『うちはオビト』が、本当に「このような」人間だったのならば。
「そうだな」
理由ありきにも嘘はない。ひとつである必要はない、というだけの話だ。二つも三つも、いくつでもいいのだ。紛れもなく本心が紡いだ思いであるならば。もう二度と己を偽らないと決したあの時から心は変わらない。変わりようもない。
だからこそ、だ。この行動も真実であり、吐き出される言葉にも嘘はない。
「ならオレは……助けたいから、そうするまでだ」
口元には笑み、湧き上がる充足感。数々を抱きながら今一度に空を見上げる。いつの間にか後戸の国は、輝かしい星々が瞬いて降り注ぐ、幻想的で美しい様相を見せ始めている。雲間から差し込む光が広がっていく。
かけがえのない友、仲間を守るために命を燃やした時、人々の繋がりを断ち切らせんがために己が身を捧げた時、いずれにも似ていながら――あの時とはどこか異なる、晴れやかな感情が胸の内を満たしている。壮大な夢を子供心に語り、乗り越えるべきもの、目指すべきものを真っ直ぐに見据えて、本当の『夢』に思いを馳せるかのような。
ずっと欲しかったものが今まさに、手を伸ばせば届く場所に、目の前に見えたかのような――。
(今度ってのが、あるんなら)
ひとつだけ。ただひとつ、心残りがあるとすれば。誰かを信用こそしても『友人』とまでは思わず、思うことを許さなかった者として、きっかけをもたらした者には何も、何一つも語ることができなかった。
隠しごとをせず、腹の内を見せ合う、などとまでは望まずとも、同じ目線でしっかりと語り合うことができていたら、『うちはオビト』として分かることも多かったはずだ。なんならさらに先へと踏み込み、ここへ来るまでにかかわりを持った者達とも、何かしら違った話ができたかもしれない。
もしもこの“次”が、目を閉じた先にあるのなら。初めから真っ当な道を歩めるのなら。叶わぬ泡沫の夢に終わらないのなら。皆と同じ場所で楽しげに笑い合うことさえできてしまうのか。土産話が底を尽くのは早そうだが、雑多なお喋りにでも興じながら、些か以上の期待を込めて待つのもいいだろう。
(悪くない、かもな――…)
印を組む指に力がこもる。熱を帯びた血液が体内を巡り、隅々にまで行き渡る。少しずつ意識が遠のいていく。
時の訪れを告げるかのように、涼やかな風がふわりと頬を撫でた。オビトの目が見開かれる。
「――ッ!!」
刹那。何かが腕に圧しかかり、強く締め上げた。
ほんの一瞬の出来事で、状況判断に大幅な遅延が生じた。頭の中が色彩豊かに染まりながらも辛うじて理解できたのは、組み終わらんとした印が解かれたことだ。途中で気が変わるなり、怖気づくなりで足を止めたわけでは断じてない。突如として現れたもう一本の腕が、手首をがっちりと掴んで押さえつけたのだ。
直前まで姿も気配も察知できず、完全に意識の外を突かれていた。瞳術の行使も忘れて距離を取ろうとしたが、死んでも放さないと言いたげに、度を超したもの凄い力で振り払えず、数秒後に再発動した神威ですり抜けることを――右目の『輪廻眼』を解除することを強いられた。
オビトは焦りを隠さず、体勢を立て直すなり、急に現れた何者かを映した。
「…………」
後戸の国に幽閉されたも同然の、この状況で気配もなく湧いて出る輩など、ごく一部を除けば相当に限られる。笹の葉もなければ茗荷も見当たらず、傲慢な笑みもないのは、見知った連中ではなかったからだ。同一の姿を模るか否かは例に漏れず、内面を視通すだけで判る。別人であるとの結論に至る決め手となった。
服装以上に特徴的なのは髪型で、獣の耳を模したような尖りが二つある。手に持つのは笏の形をした木の板、あるいは本物の笏。耳当てに大きく書かれた『和』という字は、三狼を守護する鉄の国の侍を連想させるものの、忠義を尽くす側より尽くされる側に見えなくもない。
記憶を辿ろうとするオビトだが、突然すぎる出来事で呑み込めていないのか、困った時に役立つ書物の内容も思い出せなかった。
「正体は解りかねるが、ろくな結果を生まぬのは明らか。己が魂を磨り潰してまで為すべきではなかろう」
厳格な口調と神々しい雰囲気を醸し出す少女は――道教と仏教の仙人・豊聡耳神子は、後戸の国にてオビトの前に姿を見せた。これまで影も形もなかった上に、くだんのテストとも無関係な部外者が、初対面となる外来人の元へと自らの意思で赴いたのだ。
神子が割って入った時にはすでに、生と死の境界を跨ぎかけていた者にとって、状況を瞬時に把握して冷静に構えるには早すぎた。この場に乱入した新手となれば当然、隠岐奈の仲間とでも見なすしかない。大樹が地面を突き破って出現するのは時間の問題だった。
「逸るな」
神子は諭すように呟き、手元の笏をスッと一振りする。眼前の景色がぐにゃりと歪むと、体を貫かんとした樹木が光の屈折のように折れ曲がり、神子を避けて背後へと向かう。標的を仕留め損ねた樹木は地面を深々と抉った。
「私はお前が殺すべき敵でも、その一味でもない。奴らとは一切の関与をしておらん。無意味な殺生に傾倒する愚者として立つ気なら、喜んで性根を叩き直してやるがね」
息を切らすオビトの目が細まった。命尽きることを許さない状況で、続けざまの害悪を予感して先走りはしても、落ち着いた様子で淡々と喋る神子を前に自制心が作用したのか、溢れ出す殺気が少しずつ薄れ始めた。警戒は解かないものの、二度目の印は寸前で解除された。
我に返って矛を収めると、深呼吸ののちに沈黙。それから「何者だ?」と鋭く問いかけたオビトに、神子はあらためて名を口にする。二童子達への関与を先んじて否定したおかげか、長引きかけた臨戦態勢は早々に解かれ、不穏な空気を作り出す事態も未然に払拭できたようだ。突きつけていた笏を懐に仕舞うなり、神子は一息ついた。
事前の情報収集に抜かりはない。見た目はともかく名前を聞きさえすれば、どんな人物かは初対面でも忽ち判る。名さえ知らなかった隠岐奈達と違って、稗田家の当主が編纂する資料で確認している。この場では関係のない内容ばかりだが、あえて言うなら「後戸の国に居るはずのない」人物の一人である。
そんな彼女が何の因果で、そもそもいかなる手段で入り込んだのか。外部とを行き来する手段が限定される、別空間の類であるのは神威の時空間と同様。八雲紫の境界操作が生み出す空間干渉に通ずる能力を、幻想郷において『仙人』と呼ばれる神子が扱えるとすれば、外とは隔絶された異空間同士を行き来するのも不可能ではない。仙界なる別世界の住民が後戸に現れたことも含めて、予想や常識を簡単に覆す世界で「あり得ない」を口にするのは愚かで無意味だ。
「お前がいつから、どこに居たのかも知らんが……」
体力と精神を鮫肌以上に削りながらの立ち回りだ。余所に意識を割く余裕が片時もない状況であれば、隠密や秘匿とは無縁で判りやすい妖精の一匹とて察知できる道理はない。視界から外れるだけで誤魔化せるなら、物陰や閉鎖空間かどこかでじっと息を潜めるまでもない。ゆったりと深みのある神子の声を耳にして以降、不思議とオビトに冷静さが戻り、ごちゃ混ぜだった頭の中を整理して慎重を期す程度には落ち着いていた。
写輪眼を直視しても物怖じせず、言葉を続けようとしたオビトを無言で制止する。神子の口元に微笑が表れた。
「入ったのはついさっきだよ。覗き見たのはそれより前だが。お前たちの過激なやり取りをこっそり観させてもらったのはまあ、その通りだと頷いておこう。価値のある見世物は久方ぶりだ」
「お前が奴の仲間なら」オビトは神子を睨む。「オレの前に出てきた理由は知れてるがな……違うってなら何の用がある」
忍界における常識は、幻想郷における非常識にもなり得る。短命な人間が引き起こす未知の事象に関心を抱く妖怪は少なくない。だからといって、“写輪眼”を勢力下に取り込まんとした隠岐奈の思惑とは無関係と仮定しても、忍の技を拝みたいがための接触と見るのは論外だ。やりようが掃いて捨てるほどある中で結論づけるには、神子の言動は不可解な点が多い。
「用もなく会いに来るのはイヤか。苦言を呈するには遠いが、その辺はやはり人間だな」
人間で言う気分屋を軽々と通り越すのが妖怪。なんとなく遠方に足を運んで、特に何もしないまま帰ってきたりと、一見すると意味のない行動も平気でする。人間にとって彼女らの言動が不可解で予測しにくい理由だ。
幻想郷における種族の括りは人間と妖怪に大別される。ここで言う妖怪は人間以外を指しており、特定の種族や個人の名称のみならず、獣も妖精も幽霊も神も総じて同じ扱いを受ける。人並外れた力を有する、というだけで妖怪と見なされると言ってもいい。超自然的な能力を振るう元人間とて例外ではない。本人の性格にも表れているとすれば、時も場所も選ばずふらっと姿を見せても疑問はない。
しかしながら、あのタイミングで邪魔しに入った神子の行動に、それが常識だからと鵜呑みにして納得するほど馬鹿ではない。言葉を返すに値しないと閉口したオビトの心を読んだのか、神子は「そうか」と一人で頷いた。
「いやなに、少し待ったをかけただけだ。見ていられなかった、とか付け足せばあるいは……それなりに柔らかで好い印象を持たれるのかな? 初対面のお前にも」
「知った口で堂々と語るほど……」
「分かるとも」神子は視線を外さない。「あの秘神だけではない。貴様は酔狂にも己が魂を自ら砕かんとしたようだが、それだけの力が在っては実に勿体ない。ここで潰えた場合の損失を考慮すれば必然、生かす価値がある……という判断になる」
左目の能力も、それを使って具体的に何をしようとしたのかも、知る由もないと思われたのは僅かの間だけ。視通すような目つきと言葉を確認するまでの話だった。
神子が言い終えた瞬間、オビトは挑戦的な笑みを見せた。やはりそうなのだ、と。
会ったばかりで顔も知らなかった聖人も、隠岐奈と変わらない。考えの根底にあるのは損得や利害に過ぎず、見出した利用価値を繋ぎ止めるためなら犠牲も厭わない。立場によっては正しくもある姿勢を声高に非難したり、否定する道理はなくとも、相違は対立の火種を起こす。衝突は避けられまい。
摩多羅隠岐奈。首魁を退けた後に想定すべきは二童子だ。最後まで参戦しないままに終わった、あの二人が出張る前に事を終えるつもりだった。よもや彼女らの代わりに、仙界の豊聡耳神子と相対するなど何者に予期できるのか。
否、できるはずもない。頭の片隅にも名さえなかったのだ。
(この場を切り抜けなければ、やりようは……)
弾幕がなければ闘いは戦いとなる。神子の実力は未知数だ。仙人として仙術や空間操作に類する能力を持ち、藤原妹紅のように炎を自在に操るほか、スキマ妖怪や蓬莱の姫が持つ能力にさえ干渉できるとの話もあるが、はっきりとした情報はない。こればかりは目や肌で体感しなければ判りようもない。
体力とチャクラが持つかどうか。線引きとしては危うくもギリギリと言わざるを得ない。間もなく火ぶたを切る血戦を生き延びるのは元より、輪廻眼・外道の術を不足なく組み直すために、ある程度の余力を残して退かせるのは最低条件だ。隠岐奈ほどデタラメな能力でもなければ勝機はあるはずだと、情けなくも希望的観測に則って摩多羅以外の神にでも祈るしかない。死ぬか生きるかの分岐に追い立てられた以上、能力も分からない手練れを相手に余裕を持ち続けるなど、奇跡でも起きない限りは――。
「――なんて趣味の悪い冗談はまあ、置いとこうか」
ちょうどその時だ。荘厳な雰囲気と堅苦しい口調にひびが入り、なにやら不穏で不相応な空気が流れ始めたのは。
「殺り合うまでもないのだよ。君が血迷って飛び出さなければ、何事も起こらない」
神子がいつ敵意と殺気をさらけ出しても、焦らず落ち着いて対応できるよう、全神経を集中させて冷静に身構えていたオビトは、またしても不意を突かれる破目になった。
ただし今度は、不審そうに眉を動かすだけで表情は変わらず、鋭い目が神子を捉え続ける。
「オレの為すことを『血迷った』愚行だのと宣うんだろう。止める気なら殺り合うだけだ……今ここで」
「そりゃそうなる。無駄に命を捨てるなんぞ、滑稽極まりない。私からしたらね」
「お前に何が分かる。決めるのはオレだ」
「まったく」頭を掻いた神子。「じゃあ君はいったい、その力を以ってどこの誰を取り戻さんとする? 竹林のあれではないのか」
判り切った問いを投げつける始末だ。不思議そうに首を傾げる演技を追加してまで。言葉遊びに入る流れだろうと予感はしつつも、お見通しなら話が早いと思い、白を切るような神子に「そうだ」と直球で返答する。
竹林の永遠亭で療養生活を送り、元気になって、退院までもう少しだった矢先に、隠岐奈の企みによって後戸の国へと引きずり込まれた。そして失われたのだ。初めからどこかで視ていたらしい神子が口にする台詞としては、ふざけているようにしか聞こえない。神経を逆撫で、弄ぶ腹積もりで吐いた言葉にしても、今さら快も不快もありようがない。
「あの子との関係……さっきのあの流れを視ても、てっきりそうだと踏んでいたがね。当てが外れたのか」
「聞いていたのか? 言葉遊びも大概にしろ。オレがくたばるか、お前が消えるか……道は二つだ。さっさと来い」
「道なんてご立派なものを踏むには早すぎるぞ人の子よ。現実をきちんと知って、とっとと引き返すべきだ。誰も損をしなくなる」
「もういい」オビトが流れを切る。「じっとしていろ――!」
赤と薄紫、異色の瞳力と体を巡るチャクラを一気に解放させた。掌に収束する黒一色の物質、オビトの体に月草色の炎が揺れ始めたところで、のんびりと見ていた神子がぽつりと一言。
「生きてる、と言ってもか?」
気の抜けたような、何気ない一言で十分だった。流れ往く時間の外へと放り出されたか、オビトだけが取り残されたかのように、体の動きがぴたりと止まる。
なおも表情も感情も不変、戦う意思も武装も顕現させたままに、神子を映しながら「何?」と返す。奇しくも生じた疑問は、侍とは関係のないヘッドホンを無事に通り抜けたようだ。どこかほっとしたように、呆れたように見返す彼女の耳に入ったのだ。
「ああ、面霊気の話だもちろん。取り違うなよ」
「面霊気?」
「よかったな。目一杯に喜びたまえよ、ほら」
「それがなんだ。そいつが何を指すにしても、ここじゃ場違いだ」
生真面目な表情で、ふざけた様子もない。聞き違いや逃避ではないと判っていても、神子の目は丸くなるしかない。面霊気に分類される妖怪が何人もいて、その中の誰かを話題に出したとでも思っているのか。
やむなしと言える状況とて、真実を説くべきと判断した神子は、場違いならぬ“勘違い”の輪廻に巻かれ続ける人間を前に、地獄の閻魔に倣って白黒はっきりつけることにした。無用な殺生や面倒ごとを嫌うのは彼女も同じだ。
「うちはオビトよ」神子の咳払い。「お前がさっきから失われたと盲信して止まん、面霊気の娘は――べつに『死んでいない』し、『消えていない』。ちゃんと『生きている』。そう言っておるのだよ」
今度は間違いない。直接的で分かりやすい言葉選びで断言した直後、不変だったオビトの表情が動いた。
声が吐き出されたり、体の動きに表れたりと、ありふれた反応は見せないが、溢れ出す非友好的で物騒な諸々が薄れ往き、嘘のように消え始めた。全てではないにしろ、目に見えないものも含めて。
「さっき」オビトの目が開いた。「オレが何をしようとしたのか、お前に判ったのは……」
あり得ない話ではない。この眼で実際に視ていない、というだけでは否定する理由にはなり得ない。全知全能の神か何かでもない身で、己の考えや常識が絶対的などと言い切るのは、あまりにも傲慢で無知だ。非常識の具現が至るところに跋扈する世界では議論に値しない。輪廻眼を持たない神子が、生前と同じ姿と中身で死者を蘇らせる能力を振るうのも、同じくして「あり得る」話にしかならない。散々と思い知らされたのだ。
消えたはずの少女が無事だった。何も難しいことはない、神子か誰かが疾うに生き返らせていたのだ。超人的な力を持つ妖怪や神が代わりを引き受けていたのだ。命ある者を『輪廻天生の術』でこの世に呼び戻すなどは前提から、道理から誤っている。神子が無駄と口にするのも当然だろう。
(そうか……オレは)
失いたくないものを一度は失った。しかして最後は失わずに済んだ。理想的で喜ぶべき結末へと帰着したはずが、心に巣食った陰りは消えない。握った拳に力が入り、圧しかかる無力は以前にも増して酷くなる。
救われたのだ。潰えるはずだったこの命さえも。何もできぬままに終わった。こうなってはもはや、何をどう心に思い、口に出すべきかも分からない。
「うん? なんだ、本当に気づいてなかったのか。あれを見破るには慣れが要るが、しかし……」
「なんとでも言うといい。惨めに惨めを重ねたって、それより下は……イヤ、上はないだろうしな」
「言いすぎだな」神子は明るく笑う。「だからお前は未熟なのだ――あの子が後戸を潜り抜けたことなど、一度として『ない』というのに。いい加減に現実を見るべきだぞ」
それから神子は「門を叩いて修練を積むか?」などと、自然の流れで勧誘の話に突入するつもりだった。生き生きとした言葉が途中で切られたのは、「一度もない」の部分を聞いた途端にオビトの顔が上がり、神子を捉えた目が瞬いたからだった。
呆けたような表情は困惑と疑心に変わり、体を引きずって神子に詰め寄る。すぐには言葉が出てこない様子で、正面から無言でじっと映していたが、不意に「何故だ?」と急かすように、すがるように問いかけた。
「待て……神子、なんでそんなことが言える? 何の根拠があって言い切れる? 消えちゃいなかった……それじゃまるで……」
ぼやけた視界が揺らぎ、体がふらつく。耳鳴りが収まらない。傷の痛みや疲労も忘れて追憶を辿る。
先ほどの『死んでいない』や『消えていない』という言い方は、『生きている』と合わせて二つの意味を含む。過去に命を落としたが、後に何らかの方法で穢土へと舞い戻り、現在は生者として在る場合。そしてもう一つは、彼女の言うように――初めから死んでも消えてもおらず、自身の認識が誤っていた場合だ。
神子は見返すだけで答えない。頭にちらつくのは面霊気ではない、秘神の憎たらしい顔。体の力が抜ける感覚まで本物なのか。
(イヤ……そんな……?)
この世界で常識は通じない。常識に縛られては見えるものを見失う。もちろんその通りだ。見飽きた景色は重々承知している。だが『消えた』と思い込んだのは、相応かつ明確な理由があってのもの。秘神の物言いを真に受けて決めつけたわけではない。
目に見える外側ならいくらでも変わる。他人や物を装い、本物と偽って騙すことも容易い。目に見えぬ内側となれば別で、秘神が生み出す人型共のように、中身までそっくりの紛い物を作ろうと、本物にはなり得ない。あの瞬間に目で視て肌で感じたのは、内外共に本物の『秦こころ』以外の何物でもなかった。なかったはずだった。肉体が壊れた直後に薄っすらと見えた、白い御面さえ見間違いだったというのか。
本当に全てが偽物だったのなら、いかにして視抜けるのか。摩多羅神の放つ威光が先行して、真実を映す目を曇らせたのか。このように言えば己を納得させられるのだろうか。仕方がないからと、少しはマシな言い訳にでもなれば、形だけでも救いになるだろうか。侮蔑や嘲笑に値する凄惨な様相を呈しても、大なり小なり恥を覚悟して歩かなければ、打ち寄せる波の音は耳を騒がせて止まない。
(なんてこった……隠岐奈のやつ、食わせやがったのか……ッ!)
闇黒テストは思わぬ形で終幕を迎えた。合格も不合格もない、敗北という二文字が頭をよぎり、直後に完全敗北の四文字に増えた。性懲りもなく別の答えや抜け道を探したところで、どう足掻いても覆らず、変わりようのない残酷な現実が鐘を鳴らす。そのせいか心に生まれた感情は、年端もいかぬ幼子のように素直で、面白おかしく滑稽で、なんだかよく分からないものがごちゃ混ぜになって渦巻いていた。
――此度の行いは全て、長ったらしい茶番だったのか。否だ。彼女らと共に立っていたのは、戦場の名を借りただけの『舞台』。舞台とは役を演じる場であり、それ以上の色彩を持たない。隠岐奈や二童子、寝床にいない方の面霊気でさえも、自分達に割り当てた役割を真剣に、あるいは無心に演じたに過ぎないのだ。数々の『本物』さえ用いて。
(…………)
目の前に神子が居ることもあり、何かを喋ろうと口を開きかけたが、直前に気が変わり言葉を呑み込んだ。このままではらしくのない戯言をべらべらとまくし立てかねない。それこそかつての、仮面で顔を隠していた頃に良くも悪くも世話になっていた、あの口喧しかった白団子のように。
二の舞まで演じるのは御免だ。舞台から下りていたのは幸いか。
何十本も張っていた糸がぶちぶちと切れては垂れ下がり、煙のように吹き消えていく。足の力が抜けて体を支えられなくなり、重力に従って下へ下へと落ちていく。神子の姿は視界から消えており、端っこにある丸い物へと一瞬だけ意識が向いた。
陰りのない心、陽の下にいるかのような温かみを感じながら、形容できない心地のよさが満たしていく。会って間もない人物の言葉を受け入れたのは、一抹の希望に縋りたかったからか、あるいは。
『楽しかったよ。ありがとう』
沈み往く意識の中で微かに聞こえた、結びとなる柔和な声は誰のものだったのか。
雲の晴れようとは裏腹に、夜の闇に埋もれて沈み、時間をかけてその場を後にした。
――◇◇◇
ぽつり、ぽつりと垂れる滴が、水面に波紋を広げる。湧き上がる感情の群が表現されては現実的な色味を帯びる。
真っ白な霧の奥に見え隠れする数多の表情、もとい感情。喜んでは怒り、悲しんでは笑ったりと実に豊かで、同じ表情は一つとして見せない。この世に二つもないからだ。
どんな表情も見る角度によって変わる。見下ろしたり、見上げるだけでいい。虚ろげに開かれた半眼も、真一文字に結ばれた口元も、喜怒哀楽を始めとした様々な感情を紡ぎ出す。解釈によっても異なり、そこに込められた意味や価値に変化が生じては無数に分岐し、星の数ほどある八百万の神々にも引けを取らぬ色合いを生んでいく。
生まれ方に違いはあれ、始まりは一緒だ。信仰や畏怖を根源とする神や物の怪を作り、時には壊して、引き寄せるものこそが感情であり、人々の心である。これらを橋渡しして繋ぎ止める役を担った、代役もない表情を見せる唯一無二こそが『面霊気』なのかもしれない。
どこか他とは違った感覚が触れる。これほど多くの表情が、今でははっきりと分かる。迷い人を拒んでいた霧もいつしか晴れ始めた。どうやら目覚めの時が来たようだ。
分かりやすい合図だった。何気なしに思っただけで、体の痛みが拭い去られたのだから。
「…………」
瞼に覆い被さるのは陽の光ではない。ゆっくりと目を開けて映ったのは、眩しさや輝かしさのない薄明かり。窓から差し込む青白い光を受けて、暗い室内がぼんやりと浮かぶ。
仰向けに寝転がったまま、ベッドの柔らかさも忘れて、しばらくは天井の模様を無心に数えていたが、ふと体を起こそうと力を込めようとした。手と足首から先が辛うじて反応するだけで、立ち上がることさえ一苦労、というよりも立ち上がることができない。体力とチャクラの酷使で相当な負担を心身にかけたようだ。
足掻くだけ無駄と即座に白旗を揚げたオビトは、大人しく静寂に耳を澄ませることにした。
(……また『コレ』か)
意識が戻ったと思えば、どこかの部屋に寝かされていた。布団なりベッドに飽きもせず。向こう(忍界)に居た頃には、とくに仮面を被って以降は稀有中の稀有だった体験をしたのは、幻想郷に来てから何度目かも判らない。誇るに値しない慣れが出始めるのも時間の問題だろう。
ところが厄介にも、今回は一味も何味も違う。地面に足が立たず、仰向けの状態から抜け出すことも叶わない。息を吸って吐くだけの置物にでもなった気分だ。体に取り込んでいた九体の尾獣を失い、向こう数か月は動けないほど弱り切って虫の息だった、ボロ雑巾以下の容体と成り果てていた頃に比べると幾分かマシと言いたいが、傍から見た姿は当時とほとんど変わらない。
飢えた猛獣の檻に放り込まれた生肉のように、無防備な姿を晒しながらも死にたくないと思うなら、窓なり扉なりを誰かが蹴破って「御命頂戴」と宣わないように祈るか、五分以上も長居しないように願うかの二択だろう。強引な手段で執拗に命を狙われては堪ったものではない。
(静かだな……)
時刻は夜中の三時を回る辺り。人や草木は眠りに就き、転じて物の怪達が酒を飲んで騒ぐ時間帯。枕元にある小さな棚の、置時計の針が親切にも教えてくれた。さらにここが後戸の国ではなく幻想郷で、身近と言っても差し支えない『永遠亭』の一室であることを教えたのは、清潔な白いベッドと丸窓の外に広がる竹林だった。
何者かの手で運び込まれたのは間違いない。目や首をなんとか動かして、オビトは自身の姿をあらためて観察する。こころが着ていた物と同じ患者用の寝間着で、常用する衣服と手袋、履き物も付近に見当たらない。傷の手当てをしたのだろう、真新しい包帯が巻かれているが、傷はすでに塞がり痛みもない。名医による治療の賜物か、神樹の生命力を内包した体細胞の高い治癒力か、もしくは両方か。暗く静かな環境にあるおかげか、霞が抜け切れていなかった頭も冴えてきたようだ。
――早々に浮かんだのは当然、正体を知るのは禁忌とされながら、名前を口にするのは構わないという、あの秘神以外にはない。強引で過激な手段を散々と振りかざし、途轍もなく強烈な経験と記憶を短期間に刻み込んだ人物だ。
暴力や殺戮とは縁のない、平和な日常を過ごす人間は元より、殺し合いが日常茶飯事だった忍にも非日常的と思わせる、嘘も真も含めた数々の理不尽を、隠岐奈は己の都合で躊躇なくぶつけた。テストと称した諸々によって、命を落とす一歩手前まで追いやられたのだ。
オビト自身、憤りや不快感も特になく、無関心も同然で問題視していなかった。生への思いなど個人レベルに縮小した事情を始めとして、幻想郷における『人間』という一種族としての見方、一世界の管理者の立場から見た考え方など、大なり小なり複数の視点から物事を考えた上で、過去の経験から人間と人外の線引きが明確にできていること、元より幻想郷が「そういった」場所であると理解に至っていたなどの理由が大きかった。
隠岐奈の所業や自身の容体など、オビトにとっては二の次だった。後戸の国に姿を見せた仙人、豊聡耳神子の物言いが真実か否かを自分の目で確かめるにあたり、永遠亭に居る現状は好都合だ。
(…………)
覚えのない部屋に一人。個室ではあるようだが、永琳の研究室に併設された重篤患者用の個室とは異なり、大きめのベッドが一人分しかない以外はこころが寝起きしていた一般患者用の部屋と概ね変わらない。経過の観察と定期的な検査、軽いリハビリを何回か残すのみとなり、主治医による管理下から移されたのだ。
永遠亭。他所の例に漏れず、内部の空間が特殊な力で弄られており、建物の外観以上に広すぎるため、住人の案内なしで歩き回るのは難しい。ここから妖気の有無を精確に感知するには体調が万全ではない。
夜明けまでは数時間、誰かが様子を見に訪ねるのを悠長に待つ道理はない。動けないからと二度寝に入る気分でもなければ眠気もない。足を運んで確かめるべきだ。幸いにも体が動かないだけでチャクラは練られるため、負担をかけず印も要らない神威ならば、(仰向けに寝転がったままになるが)こころの居る大部屋へと移動するのに数秒。何度も行き来した場所で、顔を合わせた人物ゆえに印づけは済ませてある。行動を起こすなら早いに越したことはない。
「人間なのにお早い」
「遅いくらいだ。睡眠を摂るなんぞ、意識を失いでもしなければ……」
流れ作業のような感覚で片手間に、独り言のように淡々と返していたオビトが口を閉ざす。右目を中心に生じて「ズズズ」と空気を吸い込みながら拡大しつつあった左巻きの渦は、情けなくも一瞬で雲散霧消してしまった。
これまで死んだと思っていた、失われたと思い込んでいた人物が本当に生きているのか――神子の言葉の真偽を確かめるために必須の作業を途中で放り出して――否、それさえ通り越して、頭から完全に吹き飛んで跡形もなく消えるほどの、衝撃的という表現では到底に収まらない何かが起きたのだ。
(……?)
声のようなもの、明らかに声だ。理知的な会話に用いる『言語』であり、獣ではなく人の形を成した『言葉』。そもそも返事をしたからには聞き取ったことになる。
だとしてもおかしい。部屋には誰もいないはずだ。姿なき声が鼓膜を振るわすなど、幽霊や怪奇現象の類による悪戯だろうか。いくらこの世界ではありふれており、人々の平和な暮らしの一部であるといっても、ここまではっきりと、しかもすぐ近くから聞こえるものだろうか。
幻聴、つまり幻覚の類にでも知らぬ間に嵌っていたのか。永遠亭において幻聴だの幻視だのと言えば、欠こうにも欠かせない人物は一人いるが、違和感が拭えない声だった。具体的にはかけ布団の内側、腹部の辺りに温度を保有する何かが埋もれており、右手首にも――近いもので言えば髪の毛のような、人によっては恐怖でしかない感触が覆い被さっている。いずれも音の発生源と一致していた。
体が動かないオビトは振り払うことも、ベッドを離れることもできないまま、掛け布団の膨らみは徐々に正体を明かしていく。
灯台下暗しと言うべきか、近くどころか真横に居たのに気づかなかったことや、負傷や消耗具合を差し引いても不自然に身動きが取れない体にしても、何者かによる策略込みであると思わざるを得ない。意識がなければ警戒や対策のしようがなく、どこの誰に体を弄り回されても不思議ではないのだ。
「んんー……」
うつ伏せで唸りながらにゅるりと現れた。謎の緊張感で額に汗しかけていた、オビトの表情が一転して呆れ果てる。冒険心などくすぐられはしない。
ここで二つ目の『だとしても』。そこから登場する理由も経緯も何もかも、毛の先ほども意味が分からず、分かりようもない。考えても納得できる答えに辿り着かないのは、寝起きと病み上がりで本調子ではなく思考力の低下が著しいからか、灯台以外に原因があるのか。
「何をしてる?」
この状況で最も相応しい直接的な疑問を容赦なくぶつける。断りもなしに、頼まれても断固として出さない許可もなしに懐、もとい布団に潜り込む輩など、忍から見れば命を狙って虎視眈々と息を潜める暗殺者も同然で、クナイなり起爆札なり武具を隠し持たずとも、宣戦布告にも等しい行為に変わりない。出てきた瞬間に鮮血が迸り、頭が宙を高々と舞っても文句は言えない。口にもできない。
ならば何故にオビトが行動を起こさない(起こせない)のはともかく、殺気や敵意さえ微塵も露わにせず、落ち着いた様子で構えられるのか。始末すべき敵でなければ、懐に入り込んだからと刃を向ける道理があろうか。あるはずもない。それでも理由だけは分からないので、先手を打つように素早く問うた次第である。
「『秦こころ』……お前は?」
不意を突かれたはずのオビトは落ち着いていたが、付け足すように飛び出した疑問はどこか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。ご丁寧に名前まで呼んだのだ。
すっかり見慣れた、見飽きたもの。どんなに高度な幻術破りでも決して否定できないのは、そこにある姿が現実であるからだ。もう二度と映すことはないと、本気で思い込んでいた顔がある。感情が表に出ずとも、事の経緯や理由に優先して確信の追求に走ったのは、誰の目から視ても言い訳のしようがない。
「ん、聞きたいか」
「そうだな」オビトは瞼を瞑る。「叩き出すのはその後だ」
「じゃあ言わぬ。墓まで持ってく」
「何もしない。言え」
布団の中に戻りながらもごもごと喋る輩に折れるまでは一瞬だった。頑張っても逃げ切れない現状を素直に受け入れ、初めから諦めていたこともあるが、後戸の異空間で意識を失って以降の経緯も含めて、この不可解な状況を作った理由が気になるのも確かだ。自分の頭でごちゃごちゃと考える気は、今のオビトになかった。
じーっと見上げていたソイツは、再び顔を出して「湯たんぽ」と一言。反応に困ったオビトは黙り込むしかない。「何?」と聞き返したのは何十秒か経ってからだった。
「あいつら」こころの声が低くなる。「笹と茗荷の奴から全部聞いた。向こうであの人――『摩多羅の神』と何をしてたのか。それがあって今、私とおそろいになってることも」
おそろいと言っても現状、重症なのは此方だろう。手足が自由に動くかどうか、歩き回ることができるかどうか、その差が歴然としているだけでも判断は容易い。
永遠亭に来た頃は身も心もおぼろげだった彼女も今や、明日にでも退院が見込めるほど容体は安定している。屋敷の外のどこに姿を見せても不自然ではない、という一つの証明にもなる。安全な場所であえて言い訳をするならば、あの状況で隠岐奈に消された『もどき』を目の当たりにして、本人ではあり得ないと否定する方が無理な話だ。
(…………)
屋敷に運び込んだのは最後に会った神子ではなく、行方知れずだった笹と茗荷、二童子たる舞と里乃だった模様。隠岐奈とのやり取りもある程度に明かしている。本人達から一連の出来事を聞かされたようだ。
「居たのは二人だったか? 他は……豊聡耳ってのは一緒じゃなかったか」
「その二人だけ。どうして?」
「向こうで少しな……」
考え込むオビトを前に、こころは閉口してじっと観察し始めた。オビトの服を掴む手がぎゅっと握り締められる。
此度の騒動、こころは直接的に関与しておらず、後戸での出来事も知る由はなかったが、“闇黒”テストと銘打った力試しで納得のいく答えを貪欲に求めた隠岐奈が、欲するものを引き出すために偽装した『もどき』を介して間接的なやり取りは行われた。彼女が尊大な口調と態度で力一杯に体現したように、無関係と言い切れないのは口惜しい。なにしろ常識的な手段や執念には程遠かったのだ。
「貴方。ここに来た時、氷みたいに体が冷え切っていたよ。だからずっとあっためてたんだが、寝てしまったようだ。ここの暮らしに慣れ過ぎたのかも」
「死にかけていた訳か……思ったより負担をかけていたな」
当然と言えばその通りだろう。万華鏡写輪眼に続いて輪廻眼、血継網羅の求道玉まで持ち出し、体中のチャクラと瞳力をフル回転させて臨んだのだ。デタラメな力を振るう秘神に真っ向から抗ったのは大きい。
今にして思い返しても、本来なら殺すべき敵ではない者に、あそこまでの手数を殺す気でぶつけたのは初めての経験だ。あの場で冷静さを欠いて体力とチャクラの下限を下回り、取り返しのつかない事態を呼び込んでいれば、某死神にどこぞの川を小舟で渡されていただろう。壮大な嘘を悪びれもせずに堂々と並べ立てた秘神の言動は少しばかり腹立たしいが、生かされた現状を否定できる言葉が見つからない。今頃はどこかでほくそ笑んでいるのだろうか。
理不尽こそが幻想郷。呑まれることに文句をぶちまけるのではなく、呑まれないように上手く立ち回るしかないのだ。
「それならもっと効率のいい方法がある。お前が体を張るよりな……ここは永遠亭だ」
人間湯たんぽ、もとい妖怪湯たんぽ、面霊気湯たんぽと言っても効果は知れている。『おしくらまんじゅう』に見るように、体温を持つ生き物同士が身を寄せ合い、凍える体を温める方法も有効ではあるが、家屋も布団も人もいる恵まれた環境下で実践する意味は薄い。火遁で燃やすのはやり過ぎだとしても、熱い湯を注いだ物を適当に放り込むだけでかなり変わるだろう。体温を正常に保つ便利な丸薬もあるかもしれない。
「私が湯たんぽになれば温まる、とか言ってたぞ。で、布団にダイブした。なんか面白かった」
「適当なことを。誰だ、そんな戯言を吹き込んだのは」
「笹を振り回す馴れ馴れしい奴」
「……またあいつか」
棒読み気味な声を聞いた瞬間、烏帽子を被った少女の姿が脳裏に浮かんだ。にっこり笑顔で陽気に手を振っている。考えが読めない連中では何をしでかすか予測できない。
「服を脱いで裸になれば効果十倍らしいが、それは止めた。風邪引きそうだったし、変な感じしたし。済まぬ」
「鵜呑みにするな」
意図は不明ながら、舞が去る前に入れ知恵をして珍妙な行動に走らせたようだ。砂糖と塩を故意に入れ間違える悪戯っ子がいても、仕掛けた相手に気づかれなければ、はた迷惑な土産を置くだけ置いて回れ右しても勝ち逃げは容易い。こうなるとやりたい放題である。
こころは不意に無表情のまま唸り、視線を落として口を開いた。
「――でも。助けになりたかったのは、本当」
静かな病室にはっきりと響いた声。目に見える表情から感情は覗えない。覗えるのは目に見えぬ声色、見えるとしても言動の方だ。そして吐き出された感情は嘘をつかない。
こころの感情が集約された言葉に感じられた。心に何を思い、喋ろうとも表情が全く動かない様子は、知らぬ者からすれば感情が欠落したように映るだろう。本当は誰よりも感情が豊かで、多彩な表情を持つ妖怪なのだ。
「この前だって、原因を作ったのは私だ。何もしないでいられなかった」
「お前のせいじゃない。気にするなとも言ったぞ」
「駄目だ」こころは首を横に振る。「私にも嫌なことはある。この気持ちに嘘はつけない。つきたくない。やれることは知れてるけど、私なりに役立ちたかった。もっと早く分かってたら……」
訴えかけるのは言葉だけではない。感情が込められた、絞り出すような声を耳にした瞬間、気負いすぎだと見なしていたオビトの胸に、ずしりと重いものが圧しかかった。オビトの視線が病室の天井を映す。
自らに為せること。それが見つからず、考えても分からなければ、歩みを止めるしかない。己の無力を噛み締めるしかない。
人はそんな状況に陥った時、小さな光明にも縋ろうとする。変わらぬ一つの感情を向け続けるこころならば、行き場のない激情をぶつけようとするだろう。ここに彼女の姿があるのは、彼女自身が自らの気持ちを無下にせず、思うがままに行動した結果だ。その想いを否定して掻き消すことは、心を殺すにも等しい愚行。身勝手な振る舞いに他ならない。
熱さのない湯たんぽ。長居しない温度。狭苦しさのおまけつき。比べて奥底にしっかりと伝わり、残り続けるものがある。どうやら一つを返すだけでは満足できない性分のようだ。
「何を言っても受け入れず、か。そういうことだな」
「私の口から言うのもおかしい、とは思ってるんだが。どうにも感情が溢れて、抑え切れない……」
「身を案じていた訳だ。妖怪のお前が人間を」
感情豊かな面霊気。表情豊かなポーカーフェイス。ど真ん中を射たような二つ名を持つように、感情の起伏と表現が誰より分かりやすく、体の動きを用いた表現さえ不要と言わしめる。特別な瞳力を用いて覗く必要もない。面霊気ゆえに表情が動かず、覚妖怪のように心が読めずとも、感情のこもった声を聞くだけでいい。それだけで心は伝わるのだ。
今にしても見事に体現されている。頬がぷくっと膨らまないだけで、声にはこれでもかと含まれている。視線を向ける手間も要らないようだ。
「なんだ悪いかこのヤロー。他の奴ほど捻くれてないぞー。私はー」
「だったら」オビトは笑う。「もう貰った」
布団の中でもごもごと喋り、もぞもぞと動いていた頭が、ひょこっと外に出てきた。石竹色の瞳が視線を合わせようとするも、オビトの目はすでに瞼の奥に消えており、開きかけたこころの口は再び閉ざされた。
「死んだものと思っていたがな、オレは。とっくに……」
こころが横から、正確には下の方から「今は違う」と上ずった声で付け足したが、オビトは肯定も否定もせず無言だった。少しばかりズレた指摘であるだけで、的を外していないからだ。こころや隠岐奈達に出会う以前から、この命など失われていたも同然であり、本当に失っていた時期もあったからだ。
意図して発した言葉ではない。気を許したわけでもない。きっぱりと否定できていても、不思議と言葉が吐き出されるのは、体が弱り切って冷静さを欠いているからか、既視感があるからか、あるいは。
「今は……悪くない、そう思うようになった。面倒ごともそれなりに多いが、この暮らしを人並みに謳歌できるなら、もう少し寄り道するのもいいってな。それだけでよかった」
少し前までは――否、ずっと前までは思いもしなかったことだ。二度目の生を受けるより以前の十数年間はもちろん、在るべき“向こう”へと戻るまでの猶予を与えられ、為すべきことを為すために命を燃やしていた頃と比べてみれば、真っ当な平穏を謳歌する現在が奇怪にも思える。
結局のところ、心の底では失いたくないのだろう。未練はないと何度も言い聞かせてきた場所で、焦がれた陽の下を散歩していたいのだ。通りを行き交い、楽しげに笑い合い、生き生きと暮らす人々とともに。
どんなに騒がしい毎日を送ろうとも。外来人として妖怪に命を狙われようとも。独りよがりの思いが誰の目にも映らずとも。この目に映る“本物”の景色さえあれば、終りを先延ばしにした甲斐もある。望んだものはそれだけだった。
「なのに、オレという人間は……望まれてもいるって訳だ。贅沢な話だろう」
こころは無事を祈ったのだろう。一応という括りで言えば、過去に似たような言葉を受けたことはある。それでも彼女の言葉を聞いて初めて実感が湧いたのは、どす黒い血に塗れて汚れ切っていた体を不器用に拭き取り、不格好ながらも皆に近しい場所に身を置いたおかげなのか。おかげと言えるほど喜びを感じているのか。
そしてこの安らぎは本物なのか。分からないことは積み上がるばかりだが、彼女が紡いだ言葉は伝わった気がした。自身の気持ちはどうなのかと問われると――。
「この感情は、正直……オレにもよく分からん。お前はどう思う? 面霊気」
静けさの中で投げかけた疑問。なおもこころの口は開かなかったが、代わりに体を密着させて答えた。
温かな体温が伝わり、感情が流れ込む。二人はお互いに身を任せた。
面は人の身に触れて初めて意味を持つ。被らなければ単なる物に過ぎず、多彩な表情を見せることはない。顔を晒す人間は役にも成らず、人の身を外すことはない。主役も脇役もない虚ろな舞台が沈黙の中にあるだけだ。この状況を作り出したのが他ならぬこころなら、彼女はすでに役者として舞台に立っていたのだ。晴れやかで麗しくも滑稽な舞を披露するために。
数多の感情を司る付喪神・面霊気。彼女ほど生き物の感情に深く触れる者はいない。人の心を見透かす目を以っても映らず、感じ取ることもできないものを、秦こころは掬い取ることができる。
きっと彼女になら判るはずだ。自分でもちっぽけであると見なし、再び『うちはオビト』として歩き始めて以降もロクに顧みず、ガラクタのように雑に扱ってきた命の火が、その存在が必要とされていることへの思いが。堂々と差し出された贅沢な“お返し”を自身がどう感じているのか、その本心を知れば少しは前に進めるだろうと思ったのだ。
かつてない平穏に心地のよさを感じながらも、異物感が抜け切らないのは、自らの命さえ投げ出しているからだ。この命を必要としてくれる者が一人でも存在するならば、意味を見出すきっかけが掴めるかもしれない――。
「教えない」
気の抜けたような、ゆったりとした声が答えを示した。気づけばこころの無表情が目の前にあった。
当然のようにオビトは聞き返した。二度や三度ではない、何度も聞き返した。予想だにしない結末など受け入れないと言いたげに、飽きるほどに具体的な答えを求めた。それなのにこころは、その度に同じ返答を歌うように生き生きと繰り返すだけで、愉快げに喋った理由を明かそうとはしない。唸り声とともにうつ伏せになり、わざとらしく寝息を立てる始末である。
「そうか……被っても分からなかったか。力ある妖怪にも」
「そんなこと言ったって無駄。言わぬ。こう見えて口は堅い」
どう思うかを問うたに過ぎない。できるか否かを問うたとしても、分からないの一言で済む話である。それがまさか、包み隠していた本心を吐き出す場面とも違うのに、どこぞの妖怪のような秘密主義に走るとは思うまい。摩多羅の神に倣って秘匿する意図でもあるのか。
「……なんで言わない。交換条件か? 望みでもあるのか」
相手が知りたい情報を握り、交渉の手札として使う。あらゆる取引の場で見飽きた光景だ。何かしらの見返りを求めて発した言葉なら、この後の流れは知れているが、忍はともかく常識破りの妖怪が相手では展開が予測しづらい。筍採りなどのお遊びから命のやり取りまで、何でもありの連中こそが妖怪だ。
――などと小難しく考える場面だろうか。デタラメでぶっ飛んだ条件を、この状況で堂々と突きつけるだろうか。こころがすぐさま「とんでもない」と言いたげな表情、もとい感情を露わにしなければ、冗談抜きで警戒して身構えていただろう。無防備な体をベットに寝かせた状態のままで。
「企みはないけど、教えたくない。口チャック。永遠に黙秘する」
「だから何故だ。なければ隠す理由もない……あるから言わんのだろう。誤魔化しが下手だぞ」
「貴方には借りを作ってばかりだが、それだけは聞けない。済まぬ」
「何をそう隠そうとする。お前には関係ない些細な情報を……」
借りたものを返したがる律儀さとは裏腹に、一歩も譲らず頑なな態度を貫き通すこころ。先手を打って黙らせる抜け目のなさ、動かない表情は元より、声からも感情を排して覆い隠す念の入りようだ。ぽつぽつと無感情に喋り、無表情と合わせて微塵も読み取れない。
感情を司り、豊富な変化を起こすがゆえに、秘匿に走ると一転して付け入る隙が失われる。オビトは見事に黙り込んでしまった。
「ふっふっふ」こころは誇らしげに鼻を鳴らす。「貴方の心は、私だけが知っていればいい。独り占めしてやるのだ」
何をどう訊いてもロクな返答が得られず、不敵な含み笑いを漏らすだけで話が進まない。というより成立していない。食い下がっても時間だけが過ぎ行く。
閉口したオビトは堅牢な布陣を敷いたこころを見返していたが、最後には折れて視線を天井へと戻した。こころも仰向けで布団から顔を出したまま、同じ場所にじっと視線を向ける。暫し沈黙が続いた。
「人から教えられても意味がない。自分で気づかなきゃ駄目なの」
機械音のような抑揚の声に感情が戻っていた。表情という判りやすい部分が動かないため、感情の変化を知る手段に乏しいと思いがちだが、声を聞いたり、体の動きや顔色にもしっかりと、他の妖怪以上にはっきりと表れる。こういった場合はむしろ、あえて視線を外したり、目を瞑るなどで余計な情報のやり取りを遮断する方が、普通に耳を傾けるよりも話が頭に入りやすいものだ。
知ってか知らずか、天井の模様を数える地味な作業が功を奏したのか、全く別の理由か。こころの声はオビトを何度も揺さぶった。
「でも大丈夫、きっと分かる時が来る。私はそう思ってる」
「説得力が違うな、面霊気の言葉は」
不明瞭な感情を語る上で秦こころの存在は欠かせない。言葉の説得力はそこから生まれる。
思わせぶりを通り越した言動を見せるばかりで、包み隠した中身を明かす素振りもないはずが、その裏に隠された重要な意味を期待するあまり、紡がれた言葉を逐一精査する。人の身を越えた妖であることへの贔屓目もある一方で、彼女の持つ能力が理由として大きかった。
「もっと頼っていい。貴方は」
気づきもしなかっただろう。初めから的を外していたなどと。こころが言葉を切って静けさに耳を澄ませるか、羊を数えて夢の中へと旅立っていたならば、知らぬままに朝を迎えていた。
寝返りを打って向き直り、綺麗な石竹色の瞳にオビトの顔を映したまま、ゆっくりと口を開かなければ。穏やかな声を月明かりに乗せて運ばなければ。
「困ったことがあったら。辛いことがあって、泣きたくなったら、頼ってほしい。その時は、手でも胸でも貸してやる。どこに居たって、駆けつけるから……絶対に」
精一杯に絞り出した言葉。燃えるような視線。余計な感情が入り込む余地もない。月並みな表現ながらも、今度は隠し事も嘘偽りも持たず、純粋な想いを少女は告げた。
僅かに驚いた表情を見せたのち、オビトは仰向けのまま「そうか」と一言だけ返した。正面から受け取る代わりに。
「そんなのは一生分、味わい尽くした気分だがな。こっちに来てからも、あっちにいた頃も……」
人間にとって十数年は長い。苦しみも痛みも血とともに流し尽くし、枝先から崩れ往く枯れ木のように成り果てたと言える。黒い影が取り巻く朧月の暗夜が過ぎ去り、散々と浸かった血生臭さとの縁も切られたと高を括っていた時期もあったが、争いごとは大なり小なり起こり得るのが現実で、此度のように中心的な当事者として巻き込まれることもある。
「……だからこそ、か。」
真の平穏など幻想に過ぎないのかもしれないが、これまでとは違った形で降りかかる騒がしさなら、同じく違った視点から物事を見ることができるはずだ。
周囲に目もくれず、自らをも省みず、何もかもを背負い込み、独善的な振る舞いにばかり傾倒すれば、手を取り合う人と人の心の繋がりを否定することになる。まっすぐに歩けずふらふらと、独りよがりな生き死にに執心だった過去との決別は、新たな景色を映すための一歩に他ならない。今を生きるなどと偉そうに宣いながら、いつまでも逃げ続けていては、それこそかつての友に笑われかねない。
今度はできるかもしれない。つまづいた時に引っ張り起こしてくれる者の存在を意識し、幼子のように素直な気持ちで手を伸ばすことが。後ろめたさも罪悪感もなしに、困った時に助けを求めることができたなら、この目に映る皆の姿も、己自身も違って感じられるはずだ。そう確信を持って進むのも面白いだろう。
「好きにするといい。オレもそうさせてもらう……今になって後悔しても遅いぞ」
ごちゃごちゃと考えるのは止めだ。傲慢で身勝手で、強かで愛情深い摩多羅との、あの過酷な戦いを生き延びたばかりで疲弊し切り、ろくに頭が動かない。ボロ雑巾のような体にされてベッドに寝たきりとなり、スペースの半分を占領する妖怪一人を追い出せないほど、身体的にも精神的にも弱り切っている。言い訳のしようは掃いて捨てるほどあるのだ、一生に一度くらいは“だらけて”みるのも悪くはない。
ただし――杞憂でしかないにしても、感化されて熱しすぎた感情を露わにしないように。いつもの表情だけは失わないように。
「我々は愛し愛される友だっ。そこんとこじゃ私が、リードにリードを重ねて首位を独走中っ。他の奴らになんぞ負ける気はせんっ!」
高らかに言い放つこころ。勝ち誇った声色で、自信に満ち溢れている(と思われる)表情。福の神とひょっとこの面がぐるぐると回る。感情が豊かで直情的、表現も直接的であるせいか、言動に裏表を感じさせず、激情の火花が散って止まない。負けず嫌いや強引さのある物言いもどこか、多面を隠し持つ秘神に通ずるところがある。物静かで他人に無関心だった頃の面影は跡形もない。
「あの時も思ったが……人と妖怪、オレとお前が思う『友』の定義は同じなのか。そうも喧しく主張されては不安な気もするな」
外界と幻想郷における常識がすれ違うように、言葉の解釈や物事の道理が人間と妖怪で噛み合わないのはよくある話だ。あって然るべきと言えるだろう。
自分なりの考えを持つなら尚更だ。それぞれの目標や夢のために切磋琢磨し、ひとたび戦場に立てば、後ろを任せる仲間として共に戦う。妖怪達の楽園であり、平和的な弾幕や札を用いた命名決闘が主流となる幻想郷においては、ほとんど意味をなさない定義である。面を被った十数年分と合わせて、身も心も忍として戦時を生き抜いてきたオビトにとって、広く浸透する一般的な定義は必ずしも当てはまらない。
「色々あるぞ。こうやって寝たり、一緒の舞台に立つ。扇子を手に踊ったり、肩組んで里を歩いたり、家で煎餅とかを『あーん』する? 楽しそう」
「ささやかだな。永琳にでも吹き込まれたか」
いつぞやの見舞いの場にはもう一人。不死の蓬莱人であり完璧超人であるが、好奇心旺盛で知識に貪欲な面を持ち、幼子のような探求心と悪戯心を発揮させる者。彼女の前では何をしていても掌の上で転がされている気分に陥りがちだ。
まくし立てるわりには疑問の声も混じっている辺り、半ば意味も分からず発言しているのかもしれない。社会や集団を形成するのが当たり前である人間はともかく、個としての意識も力も、生命力も桁違いに強すぎる妖怪では、人間が育む絆の定義に疎くとも仕方がない。寿命の長さも拍車をかけるのだろう。山の天狗や月の民とて例外ではないと思わされる。
「お馬鹿さんめ」こころは声を尖らせる。「きっかけだ、それは。あくまでな。はっきり言って今の私は、脳みそ空っぽにしてわちゃわちゃしたいのだ」
「何が楽しいかは知らんが、そんなものなら明日にでもできそうだ。無茶をするよりはずっといい」
「今日にでも屋敷を出られる。切っても切れん親愛の証として、夜通し付き合ってもらうぞ! 我々の門出を盛大に祝福するのだ!」
「……騒がしくなるな。以前が寡黙すぎたと思うほどに」
散歩やら煎餅はともかく、能楽を特技とする面霊気の舞台は一見の価値ありだろう。心や感情に訴えかける動きは理論よりも身近で取っつきやすく、不慣れや無知でも気軽に楽しむことができる。何より秦こころという人物を深く知りたいならば、幻想郷縁起などで付喪神や面霊気に関する知識を深めるのみならず、能への造詣を深めておいて損はない。
御面と仮面の面繋がり、似て非なる共通点を持つ、奇妙なる同士としても。
「だが。その前に――」
まともに体を動かせないオビトは、目だけを隣にいるこころに向けた。こころは神妙(と思われる)な表情で見返すも無言。
重苦しい空気にもならず、それから「狭いぞ」と呆れたように言い放つまで二秒もかからなかった。
「いい加減に離れろ。オレより元気な奴が占領するもんじゃない」
「私のほうが眠い。六十六倍は眠い。ここはもう私の寝床になった」
「百以下じゃ話にならん。今のオレは永眠しかねない……外に寝かせるぞ」
「しないくせにー。できないくせにー」
「そう思うか? お前の目がいかに曇り切っているか、身をもって思い知らせるのもいい――」
体内でチャクラを練り始める。経絡系が脈動し、熱を帯びたエネルギーが全身を力強く巡る。瞬く間に一か所に収束すると、瞑っていた目を勢いよく開いた。
「…………」
そしていつもの黒い目が。万華鏡どころか写輪眼の模様さえ表れていない。使い慣れた瞳力は疲労に負けて形を成さず、チャクラの流れも急速に弱まり、落ち着きを取り戻すまでは早かった。ほんの数秒足らずである。
こころは口元を手で押さえている。無表情で。右手はオビトの服をがっちりと掴んで放さない。ならばと力づくで引き剥がしにかかるも、その選択はあまりにも愚かで、口に出すのも馬鹿馬鹿しいほど初歩的な間違いだった。
忍とはいえ人の子は人の子、本物の妖怪を腕力だけでねじ伏せるなど、酒に弱い人間が酒豪の鬼や天狗に飲み比べで勝ちに行くよりも無謀で非現実的。華奢な体つきは見せかけ、内側には妖怪特有の途轍もない怪力を宿している。これが力自慢の鬼ともなれば測り知れない。最低でも五代目火影ほど常軌を逸した馬鹿力をもって初めて拮抗できる次元の話だ。この世界の住民を外見だけで判断すると寿命を縮める一番の理由である。
要するにオビトは、初めからどこにも逃げられなかった。こうなると頼りになるのは一つ。
「……離れてくれ」
「うへへー。よいではないか~。よいではないか~」
儚き願いは空しく散り往く。気を好くした面霊気の手が怪しげにうごめき、しがみつくように密着して頬ずりする暴走っぷりに手も足も出ないまま、オビトは月明かりが差し込む丸窓を眺めながら日の出を待つのだった。
――◇◇◇
少しかび臭い和室にて。古びて色あせた畳に敷かれた万年床、枕元には急須と湯飲みを乗せた盆、無造作に置かれた白色のナイトキャップ。丸く膨らんだ掛け布団がもぞもぞと動く。縁側の障子が僅かに開いており。薄明るい陽の光が差し込んでいる。
何度か動いた後、ぼさぼさの長い金髪が現れた。寝ぼけ眼を不機嫌そうにこすりながら欠伸する。
「それで――…」
紫は心底だるそうに体を起こすと、緩んだ表情でぼんやりと呟いた。心なしか妖しさも胡散臭さも失せている。
この部屋にはもう一人。旧知の仲ゆえに気を遣わないだけで、親しい間柄でもない客人が居る。紡がれたのは独り言ではない、少し前にふらっと来て、屋敷の式神に話も通さず居座っている、はた迷惑な招かれざる神へと向けられた言葉だった。
「――…なんだっけ。失敗したって? 貴方らしいじゃない」
扉から入るが、扉から入ることは滅多にないという矛盾を抱えて、今日も彼女は姿を見せた。紫としては悪い意味で慣れがあり、いちいち指摘するのも面倒と結論づけて、疾うの昔に文句を言うのを止めている。
ちなみに神出鬼没は紫の代名詞でもあり、人のことを言える立場ではない。自他の特徴や性分など関係なしに、心に思ったことを口にしたに過ぎないのだ。
「万年出不精が戯けたことを。頭の痛くなる答えなんぞぶら下げて来るものか」
布団から離れた場所に隠岐奈が胡坐をかいている。座り慣れた椅子は見当たらない。服装もいつもの狩衣ではなく、竹の模様をあしらった薄黄色の着物姿。大人びていた容姿はすっかり元通りになっている。
興味なさげに「ふうん」と流すように返した紫の、なんともやる気のない態度など意にも介さず、隠岐奈は腕を組んで満ち足りた表情。お約束と思った紫は空気を読み、上機嫌である判り切った理由を仕方なく尋ねた。
「見たいもんが見られたからな。好し悪しさえ判れば上々だ」
「好かったの?」
「そりゃあね」即答する隠岐奈。「あんだけ絞り尽くして、ぶっ壊れずに済んだ。隠し玉もあった。失敗どころか大成功さ。機嫌だって好くなる……面と向かって侮辱されようが水に流しかねんよ」
「へえ」
聞き流しながら適当に相づちを打つと、枕元の盆に手を伸ばした。手慣れた様子で急須を傾け、湯飲みに注いでも、ぬるくなったお茶から湯気は昇らない。スキマから淹れたてを取り出したり、手足のような式神を呼び寄せて淹れ直すのも億劫なので、今回は特別にぬるま湯で喉を潤した。あとで美味しい茶菓と一緒に寝起きの休憩に入ればいい。
一応は客人である隠岐奈の前でも構わず、のんびりと一息ついた紫は、隠岐奈の小綺麗で珍妙な服装に注目した。
「だからそんな格好? 柄にもなくおめかしして、祝勝会でも開くの? 貴方一人で」
「着替えただけだ馬鹿者。素っ裸で人前に出る趣味はない。お前ならやりかねんが」
上機嫌で話していた隠岐奈は、服装の指摘を受けて初めて苛立ちを見せた。嫌味な腐れ縁の口から言及されたことや、後戸で手傷を負わされたことへの憤りというよりは、お気に入りを手放す破目になったことへの無念さに近しい。配慮する気のない紫は同情も哀れみもせず、湯飲みを手に塩辛い対応を続けた。
「手酷くやられちゃったのね。観に行けばよかったかな」
「おかげで一張羅がボロ切れになった。それも“綺麗に”だ。さっき捨ててしまったが、記念に残してもよかったな。あんなに心燃ゆる舞台はいつ以来かも分からんよ」
隠岐奈は一人頷きながら言う。寝起きで頭が冴えておらず、なんならもうひと眠りしたい紫としては、早々に話を切り上げてお帰り頂きたいという、態度にも堂々と出している本音がある。好き勝手にさせておけば延々と語り続けると思い、不自然さが出ない程度に流れを変えることにした。
「でも今、居ないのよね。貴方がたの下に。その野蛮でくだらない“てすと”を潜り抜けたなら。貴方は貴方で、力づくで捕まえたり、頭の中を弄ったり、調伏したわけでもない。本命を逃がしてるんだから、失敗は失敗と素直に認めなさいな」
彼女が此度の企てに思い至ったのは、この世界に類を見ない特異な能力に興味を見出したことが直接的な理由ではない。裏方が自ら打って出てまであの人間を欲したのは、数か月前に発生した異変を受けて、有事の際に備えた最適な手段を一勢力下に収めるため。自由に使える手札をそろえるためだ。どこに居ても目の届く場所、身近なところに置いておけば、何か起きた時に独断で滞りなく対応できる。幻想郷を護るためなら大胆で過激な言動も辞さない、強引さと傲慢が具象した人物らしいやり方だ。そして妖怪以上に妖怪染みている。
自ら見定めた標的を、隠岐奈がみすみす逃すはずもない。何度か死んだ程度で諦めるなど万が一にもあり得ない。その魂さえ完全に滅びて消えない限りは、地の果てを越えても追いかけて手に入れるだろう。感情的な心境の変化をまず起こさない秘神が考えを改めるとすれば、標的が利用価値を失うか、そもそも買い被りだったか、あるいは――全く別の方向に価値を見出したか。
「何を抜かす」隠岐奈はきょとんとする。「居るじゃないか」
「うん?」
「あの空の下に居るかぎり、終りなんぞない。やるべきことも変わらんよ。むしろたった一回であそこまで深く知れたのだ。次は果たしてどうなるか……今から楽しみで仕方がない。お前じゃ分からんだろうがね」
「あんまり執着するのもいかがなものかと思うけど。しつこい女は嫌われるわよ」
「お前が軽すぎるのさ。それに無気力だ。手段が多いに越したことはない」
幻想郷に住まう人間や妖怪達は皆、あの青い空の下で平和に暮らしている。しかしながら、地上で唯一の楽園を守るために、妖怪達を外界の常識から護るために、博麗大結界や式神という賢者達の『目』を隅々まで張り巡らせている。そこには当然、摩多羅隠岐奈の影響力も深々と根を張っている。外来人にしろ何にしろ、あの人間が幻想郷に生きている限り、隠岐奈の手からはどう足掻いても逃れられない。
それが現実だからといって、隠岐奈のような輩に狙われ続けるなど、人間から見れば鬱陶しいを通り越して恐怖でしかない。あの人間が同じように思い、本気で逃れたいと考えるなら、管轄外である地底や仙界、魔界などにでも引っ越すしか道はないだろう。
使われる側の三下は正直に突っ込むだけだが、使う側の頭は状況に応じた手札を大なり小なり、いくつも備えておくのが常。一世界を裏から見守る管理者達も概ね同じだ。強力な物となれば、是が非でも手中に収めて利用せんとする。そのために隠岐奈はあと何回、真っ暗な裏方から顔を出すのか。あの人間は騒ぎに巻き込まれるのか。よほど目に余るようなら、普段はまず一堂に会さない、曲者ばかりの賢者達を招集して、身勝手で自由奔放な隠岐奈の行動をけん制する案でも出すべきかもしれない。
「いっそ力づくなら早いんじゃない? 妖怪たちも慣れたものだし。野蛮な貴方にはお似合いよ」
困った時の実力行使。とりあえずの争いごと。お遊びにしろ喧嘩にしろ、幻想郷ではよく見られる光景だ。
ごく一部の例外を除けば、何かしらの異変を妖怪が起こして、人間たちが解決に乗り出す構図が出来上がると、血の気の多い連中は決まってお祭り状態に陥る。傍から眺める者たちも凄まじい盛り上がりを見せる。命名決闘に関与しない外来人絡みでは、弾幕や札を使わないのだろうが、それらに倣ったやり方に切り替えるなら、いつも通りの騒ぎと大して変わらなくなる。とある異変の元凶を経験した隠岐奈にはぴったりだろう。
「それじゃ意味がない」隠岐奈はあっさり否定した。「欲しいのは強い奴だ。見せかけは要らん。使われるだけの駒、意志もなく操られるだけの傀儡じゃ、真の力なんぞ発揮できない。つまりあいつだがね」
「知ったように言うのね。たった一回、ほんの少し顔を合わせただけでまあ」
「妖怪どもに比肩する力なんぞ、貧弱な人間は持たん。心の強さを根源とする力なんぞ、体の丈夫な妖怪どもにはない。奴がその一人だってのは、今回の接触でよ~く分かったんでね。私なりに納得できた」
妖怪、つまり人間以外の種族のほとんどが、途方もない寿命と引き換えに肉体的な成長を捨てている。ゆえにどれだけ長く生き、力をつけ、知識を蓄えたとしても、外面とそれに結びついた内面、精神は成長せず退化もする。強大な力と引き換えに心の強さを捨て去った、などと言い換えもできるだろう。これは人間の体から生まれる人間と、人間の心から生まれる人外という、始まりの違いが関係している。
生まれ方に差異があれば、命の拠り所となるものにも違いが生じる。人間が肉体的な変化に弱い一方で、妖怪は精神的な変化に脆い。ゆえに人間は力の強い妖怪を怖れ、妖怪は恐怖や畏れを食らい、その影響を強く受けてしまう。
くだんの人間に当てはめるなら、人の精神に訴えかける瞳力という分かりやすい要因以上に――どんな状況にあろうと折れない強靭な精神こそが、隠岐奈の目に留まった最たる理由なのだろう。
「つまり……どういうことだってばね?」
心安らかに狐を数える作業に戻りたいと思いつつも、僅かに興味を覗かせた紫は、とぼけ気味に尋ねる。隠岐奈は若干不満げな表情で唸り、頭を掻きながら「つまりだ」と珍しく言葉を借りた。
「どっかに収まってたんじゃ、力があるだけの奴らと変わらん。あれには上も下も枷になるのさ」
隠岐奈はそう言いながら腰を上げると、見せつけるように長い後ろ髪を払い、愉快げな目つきで布団の方に視線を投げた。背後には禍々しい扉が浮かんでいる。紫は欠伸交じりに見返しつつも、ここにきて初めて口元に笑みを浮かべた。
「ほぉら。慎ましい笑顔にでも頼ればよかったのに。信頼って大事よ」
「それもいいがね。大事な面も世話になったんだ、ささやかな願いはいったん鞘に納めよう。来たるべき日を心待ちにしているよ」
上も下もないと聞けば、残るものは一つしかない。面白いほどに単純明快な答えだが、口に出すのは無粋と思ったようで、最後まで触れなかった。玩具のようにぱかっと軽快に開いた扉を潜ると、勝手に来訪した秘神は勝手に消えていった。
静けさが戻るまでは早かった。残りのお茶を一気に飲み干すと、何事もなかったように布団に横たわり、夢の中への切符を手に瞼を瞑る。
「色々あると思うけど。頑張ってねえ~……」
寝息を立て始める前に紡いだ言葉は、どこの誰に向けられたものか。どんな意味を含んでいるのか。スキマ妖怪のみぞ知る真実は、本人と一緒に夢の中へと旅立った。その終わりを待ち望む意味が果たしてあるのか。
否、律儀に待つだけ無駄だろう。面の奥に隠れた真意のように、彼女の秘密はまた一つ増えたのだ。