OBITO -廻光-   作:大兄貴

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始まり

 麗らかで過ごしやすい晴天。和室と縁側を隔てる障子が開け放たれ、温かな日の光が差し込んでいる。某紅白巫女に倣い、縁側に腰かけて茶を楽しむには絶好の日和で、眠気に欠伸が出るほど過ごしやすい。

 

 外を見やれば手入れの行き届いた――というより、近々人に見せる予定があるのだろうか? とでも疑問に思うくらい、庭園は管理が行き届きすぎている。真面目で頑固で怖がりな庭師の存在を嫌でも匂わせるほどだ。その一方で腕は未熟なのか、仕上がりが不自然に綺麗すぎるせいか、自然体が削られて人工的な産物に見えなくもない。これではせっかくの美しさも張りぼて気味で台無しと思えなくもない。

 自然体が残された箇所もある。松や他の樹も枝は無難に整えられ、縁側の傍には大小様々な盆栽の群が几帳面に並ぶ。鉢植えの植物たちも目一杯に陽を浴びて健康的に育ち、色とりどりの綺麗な花を咲かせている。

 縁側を駆ける涼やかな風は心地よく、虫のさざめきは聞こえない。

 

「…………」

 

 少し前まで和室に敷かれていた布団一式は、部屋の隅っこに折り畳まれて置いてある。押入れがないので畳に直に。

 畳んだ布団を隅まで運ぶという簡単な作業に関しては、例外的にこの部屋では地味に面倒な労働となる。面倒臭がりな巫女なら少なくとも、口うるさく言われようと一蹴して、その辺にポイと放置する程度には。

 というのも、この部屋――実に五百畳以上はあろうかという、大規模な宴会や葬式を想定するどころか軽く超越した途轍もない大部屋で、どう考えても人ひとりが寝起きする広さの和室ではない。しかも家具の類は一つもなく殺風景なので、ふざけたようなただっ広さが際立つ。縁側の障子も部屋を仕切る襖も広さに比例したとんでもない枚数で、就寝の時は隅っこの縁側に近い場所に敷いて眠る方が無難である。

 

 もっとも、非常識的な和室の広さに度肝を抜かれたのは、随分と前の話だ。寝起きを繰り返したおかげで現在は慣れがある。慣れ親しんでいると言ってもいい。

 

 寝巻用の白い装束を脱ぎ終えて、着替えは済ませていた。

 短い黒髪に黒い目、分厚く丈の長い黒衣。背の高い男が縁側で日の光を浴びている。

 

(……何度目か)

 

 清々しい朝を感情に乏しい表情で迎えた人物――『うちはオビト』は、幾度となく積み直される書物の山と同様、『幻想郷』という世界で過ごした数日よりも夜を多く数えたせいで、慣れを通り越して我が家と思える感覚が芽生えていた。

 それを喜んだり悲観もせず、いつものように小さな庭の見事な景色を眺める。

 

 小さな庭――部屋一つ分で五百畳という、馬鹿馬鹿しい広さの家屋と比較した言い方だ。周辺を樹々や壁が囲んだり、隅っこに在ったりと、庭の敷地面積が極端に狭いわけではない。部屋数にしても二十以上は存在する。日々平和に過ごす住居が普通の木造建て家屋ではない、というだけの話だ。いったん縁側に出てから室内を振り返るだけで謎は解ける。

 答えは『空間』だ。部屋は外から見ると精々が二十畳、障子や襖の枚数も数える程度。ところが踏み入った途端、畳の数が一気に増えて部屋が広々と変化する。驚いて外に出ると元に戻る。なおも驚きつつ入ると殺風景に。つまり内部の空間が外観に不釣り合いなほど拡張されている。珍しくないが摩訶不思議ではある。

 

――ここは時代の流れと共に、その存在を非常識として否定されたり、人々から忘れられたり、突然に消えたりした者達が流れ着く唯一の楽園――ではない。

 

 大雑把な位置としては幻想郷と外界の狭間。正確には双方を隔てる『博麗大結界』の内部に存在する特殊な空間内、さらに言うなら空間の奥の奥地、誰にも見つからない場所にひっそりと佇んでいる。神社から見ると丑寅の方角にある。

 屋敷の主は、かの有名な境界の妖怪――『八雲紫』。普段は使用人に管理を任せてどこぞへと消えているか、屋敷内のどことも知れない自室もとい閉鎖空間にこもり切りで出てこない。同じ屋根の下だからと頻繁に見かける人物ではない。

 ちなみに幻想郷へと繋がる門は、開閉するかどうか以前に存在しないために、通常の方法では出入りも許されない。そして辺境の辺境に位置する場所ゆえか、住人も紫を含めて人ならざる者ばかり。

 

 庭の茂みがガサガサと音を立て、赤色の鞠がポンポンと跳ねて縁側の方へ転がった。茂みの中から顔を出したおかっぱ頭の少女が、オビトの姿を見つけるなり「おう」と声をかける。

 

「いっつも思うけどよ。起きるの早けりゃ着替えも早いって、生き急ぎすぎじゃねえか? もうちょいのんびりしろって」

「そんな自覚はないがな……朝っぱらから元気な奴だ」

 

 転がった鞠を拾い上げて手渡すオビト。やたらと男らしい口調の少女は、受け取るなりキシシと悪戯っぽく笑う。

 

「子供は風の子、元気な子ってな。あたしにこそぴったりだぜ」

 

 魑魅魍魎共が跋扈する屋敷に身を置く人間は、現時点でオビト一人のみ。つまりこの童子は人間ではなく妖怪である。

 曰く外の世界では、寂れた古い旅館で座敷童子(見た者に幸せを、家には富をもたらすとされる精霊の一種)として平和に暮らしていた。ある日、ふとしたきっかけで故郷を離れて幻想郷に流れ着き、以降はなんやかんやで八雲の式の式の右腕の式として、毎日を楽しく自由奔放に過ごしている。

 幻想郷に辿り着くまでの経緯が所々曖昧だったり抜けているのは、以前のことを何故かぼんやりとしか覚えていないから、との話である。

 

 出会いは数か月前に屋敷を訪れた当時にまで遡る。精々が鞠やら鬼ごっこやら、かくれんぼやら子供の遊びに付き合っただけで、印象に残る思い出は特にない。

 遊ぶと言っても別にオビトが童心に帰ってノリノリで遊びに興じていたわけではなく、屋敷に置かせてもらっている恩を、住人達が望む形で返しているに過ぎない。他にも屋敷の雑巾がけから食材の買い出し、幻想郷の各地に配置された式神達の仕事を補佐したりと、色々と手を貸していた。

 大結界の維持管理を行う式神も何人かいるが、引き受けたのは人の身でも為せる内容の依頼のみ。専門的な知識も技術も経験も素人は持たない。

 

「どっか行くのか? 今日も」

「体を慣らしにな」

「またぁ~!? そればっかじゃねえかよ、つまんねっ!」

 

 妖怪など人外の類は見た目と年齢が一致しない。少女の外見的な年齢は十かそこらだが、実年齢は不釣り合いなほど上だ。紛うことなき人間であるオビトも、人外並の生命力を擁する特異な体細胞が右半身を蝕む影響で、外見年齢は実年齢よりも若く見える。

 傍から見れば我儘な妹に接する兄者――もしくは姉上に絡まれる弟である。

 

「……なんだその顔は。嫌な予感ってのを過ぎらせるが」

「だから構えって――」

 

 知ってか知らずか、不満げな様子で口を尖らせると、無駄に洗練された見事なフォームで鞠を手に振りかぶり――「言ってんだろぉーがっ!」という甲高い大声と共に全力投球。途轍もない威力を包んだ狂暴な球が地面を抉り飛ばしながら風を裂き、巻き上げた砂塵の中を目で追えぬ凄まじい速度で突っ切って標的を目指す。

 小さな体とて紛れもない妖怪、本物の鬼や吸血鬼には及ばずとも、人間の男よりも腕っぷしは強い。まともに食らえばオビトでも消し飛ぶだろう。手で受け止められる威力でも、楽々と回避できる速度でもない。ならばと『写輪眼』の動体視力を駆使するか、『神威』ですり抜けてかわした場合、漏れなく屋敷に直撃して大損害が生じるだろう。命は助かる代わりに住人達の雷が落ちる。

 選択と決断と実行に移すための残り時間は一秒もなく、腕や脚どころか指一本動かす程度の暇すら与える気はない様子だ。

 

「また今度だ」

 

 少女の目の前に移動していたオビト。結果的に何を壊したり誰を粉微塵に変えるでもなく、投球された鞠は付近から跡形もなく消え失せた。突如として二人の間を隔てるように捻じり巻いた、渦状の歪に吸い込まれて。

 間もなく再び歪が発生すると、渦の中から吐き出された鞠を手に受けた。破裂もせず傷一つないそれを返還する。遊びをやんわりと断られた割に、少女は楽しそうな表情を隠し切れていない。

 

「元気じゃねえかお前も。ちょっと前までは逆だったってのに」

「一日でも早くと足掻いた結果だ。世話をかけたな」

「堅苦しィなおい。たまには息抜きしろって、団子でも食えよ」

「要用があれば、な」

 

 小さな童女でも筋骨隆々な大男でも、齢数千年を生きる大妖怪でも高位の神様でも、相手が誰だろうとオビトの喋り方は変わらない。

 しばらくの間は鞠つきに興じていたが、庭の景色を眺めていたオビトが部屋に戻ると、いったん止めて縁側に腰かけた。鼻歌交じりに脚をぶらぶらと揺らす。

 すぐに出てきて縁側から庭に下りる。手袋を着用する後ろ姿を眺めていた少女は、「もう行くのかよ」と不満げにぼやいた。平穏な屋敷に不相応な着込みようだ。

 

「暇だし付いてってやるぜ。お前のひひひを暴くの楽しいからな絶対」

「生憎と私用だ。来るなら構わんぞ」

「あーくそっ」少女は悪態をついた。「あたしが追えねえの知ってるくせによ……」

 

 何だかんだ今日も笑って見送る流れになったようだ。右眼を中心に発生した渦に巻かれて、オビトは忽然と姿を消した。

 

 

――◇◇◇

 

 

 八雲の屋敷。幻想郷と外界の境界線に位置しており、妖怪達には神出鬼没だの胡散臭いだの口々に囁かれる、どころか大っぴらに語られたり悪口も言われる八雲紫が住居とする唯一の建物。頻繁に遭遇するのは主に仕える式神やその他だけで、家の中を歩き回る本人の姿はまず見られない。

 純和風の立派な外観はともかく、内側は某悪魔の館や夢幻の館と同じように、紫や式神達の手により空間を弄られていて、建物の規模に不釣り合いな広さを誇るのは周知の事実。オビトが寝起きする一室の他にも空間操作の悪戯、もとい恩恵を賜って異常に膨れ上がった部屋はいくつもある。

 

――理屈としては『空間』と『物』の上下関係が鍵を握る。

 畳でも襖でも障子でも布団でも、床でも壁でも天井でも――物がどこかに在る時には、建物の内外にかかわらず、一定範囲の空間内に収まることになる。でなければどんな物も在ることがない。物とは空間なくして存在し得ないのだ。

 空間は物を支配下に置く。物は空間の支配下に置かれる。空間が物に対して何か言えば、物は上下関係から従わざるを得ない。命令が下るとその通りに動いて形を変える。屋敷の空間が擁する全ての物が、命令通りに行動を起こして場所を譲り、「空間という広さが存在できる場所」を作っただけの話だ。その一方、空間が在るのは建物の外側も同じなので、内側に命令されたからと押し退けて広がることはできない。ゆえに屋敷の大きさや外観には全く変化がない。そういう意味では『空間操作』は、手で触れた空間を介して物を自在に操る力とも言える。

 ちなみに空間の上には『時間』がある。時の流れはあらゆる物に変化を与えて奪い去り、いかなる空間の内にも存在して動き続けている。時間も空間も物も圧し潰して塗り替えるような、時空を歪ませるほどの力でもなければ、これらの上下関係は覆りようがない。

 

 八雲の妖怪達が扱うものとは別種だが、某メイドのように人の身なりて似た力を振るう者がいる。新米の式神でもある座敷童と微笑ましい(かもしれない)やり取りを繰り広げたオビトである。

 

(…………)

 

 屋敷が在る地点からは遠く離れた場所。万華鏡の瞳術・『神威』による時空間移動を行使できる者に距離は関係ない。

 人気のない森の中に、人知れずひっそりと開けている広場。少し体を動かすのに使える程度の広さだ。八雲紫の命を受けた直属の式神・藍が提供した場所で、使いやすいようオビトが独自に手を入れて現在の姿になった。

 朝の散歩や森林浴に洒落込もうと足を運んだわけではない。誰も寄りつかない、このような辺境の地を定期的に訪れては特訓、もとい体の機能を戻すための訓練に励む理由は、数か月前の一件が絡んでいる。

 

 スキマ空間にて八雲紫と会話する中で、最後に声を聞いた途端に眠気が襲ったかと思いきや、次に目が覚めたのは見知らぬ和室――八雲の屋敷にある、あの無駄に広々とした一室だった。意識を失っている間に紫本人か、その部下か誰かに運ばれたらしい。

 意識が戻った時に見た光景と、体の感覚はハッキリと覚えている。縁側から差し込む日の光が眩しく、丸一日眠りこけたと思っていたところ、直後に和室を訪れた式神の一人は涼しい顔で「ひと月以上は眠り続けていた」と話した。長寿で気の長い妖怪の感覚では一日、下手をすれば一時間にも満たない、ほんの僅かな時の流れとて、人間である忍の感覚とは異なる。遅刻癖が重症でも寝坊という程度で収まる時間の経過ではない。

 あれから数か月も経っている。向こうで過ごしていた数日も随分と遠退いた。長らく意識が戻らず眠り続けていたなど初めての経験だ。半身を大岩に潰されて意識を失い、その後に拾われて運び込まれた薄暗い地下空間で目を覚ますまでの、幼少期のあの頃をも軽く超えている。

 

(……皮肉、じゃないな)

 

 右半身に植わる特殊な体細胞。いわゆる『柱間細胞』と呼称するよりは、『神樹』が内包する莫大な生命力の塊、産物と見なす方が正しい。心身が未成熟な幼少期に、この体細胞を大量に移植されて命を繋いだ結果、生命維持に必要な全てを細胞だけで賄う肉体となり、飲まず食わずや致命傷でも死なない特異な体へと変貌した。

 自然の豊かな地球という惑星を循環する、途方もない自然エネルギーを餌として喰らった世界樹だ。人ひとり分の力と大地の生命力とでは比較にならない。その成長前の姿である『十尾』の巨大な力はよく知っている。枯れ木も同然である『外道魔像』とて人の手に余る。

 この半身は千手柱間の体とは似て非なる、神樹に喰われて作り変えられた生物の成れの果て――『白ゼツ』と呼ばれるモノに他ならない。六道の子より受け継がれし陽の魂とは全く異なる悍ましい力の産物だ。しかしながら、握り潰すべき害悪とでも見なして、切り捨てるつもりは毛頭ない。

 真っ暗闇の内で命の鼓動を感じたのは。失っていた絆を取り戻して、最期に友と別れの言葉を交わしたのは。今日まで生き延びて歩いて来られたのは、何故か。腕が千切れても脚が吹き飛んでも、脈打つ心臓が消し飛ばされても命を繋ぎ止めた、化け物染みた生命力が体の奥まで蝕むがゆえだ。それを今さら皮肉と思って自嘲するほど後ろにはいない。

 

 それでも、だ。奇妙には感じた。違和感や異物感を覚えはしたのだ。

 人間が生きるために必要な『睡眠』。この体はそれを取らず必要としない。消えかけた命を拾った十三か十四の辺りから十数年を過ごしていたが、物騒な鎌を手にした白髪の死神と遭遇しただけで、襲い来る睡魔を見かけた経験さえなかった。精々が消耗した体力やチャクラを戻すために短い休養をとる程度で、数か月前に幻想郷を訪れるまでは一度も。

 あの世界に踏み入ってからだ――多くの危険や死の淵に立たされたのは同じだったはずが、何かと意識を失って眠りに落ちるのは幻想郷に来て以降のみ。数える程度ではあるが何度も。今回は布団の上でひと月もだ。和室に差し込む日の光に気づくまでの体感の方は、刹那の時にも満たなかった。

 以降も何度か睡眠という不慣れな容態に身を委ねたが、体調が回復して安定し始めたおかげか、また以前のように眠らない夜を過ごすようになってきた。布団に横たわるのはもっぱら、屋敷の書庫から持ち出してきた書物を楽な姿勢で読み耽る場合だ。

 そして最近は屋敷の妖怪達が勝手に寄り集まり、部屋に長々と入り浸るようになった。妖怪が床に就いて動かない朝昼、活発化し始める夕暮れ以降の時間帯、就寝せずに一日中を起きて活動し続けている人間は珍しく、お喋りや遊びの相手には都合が好いという、妖怪本位の一方的な理由で。この事態を見越して部屋を広げたのかは定かではない。

 

「『火遁』」

 

 黒衣が風になびく。森の樹々に囲まれた場所だが、周辺は開けていて見通しは良好だ。

 印を組んで大きく息を吸い込み、体内で練り上げたチャクラを込める。目線の先に適切な高さでそびえ立つ、土遁で作られた黒茶色の壁を睨むと、胸辺りに止めた状態から勢いよく吐き出した。

 口内より噴き出した火炎が球状に膨れ上がり、火と熱を撒き散らす火球が地面を焼き抉りながら突進する。数秒後に到達して衝突と共に爆発、激しい火炎に呑まれた壁は轟音を立てて崩落した。大量の土塊が辺り一面に散らばる。

 五つの性質変化の中でも火遁は最も得意で思い入れもある。扱えて初めて一人前と言われていた『豪火球の術』を会得して磨き上げるために、日夜汗水流して修業に明け暮れていた。うちはという名門一族の中で落ちこぼれていた、自分の力を周りに示して認めさせるために。いつも前を歩いていた天才に追いつき、そして追い越すために。

 得意ゆえに最適と言える。チャクラの練り上げと印、性質変化と形態変化、術を発動して物質を起こす全体の流れを、細部にまで意識を巡らせて何度も正確に繰り返して心身に感覚を叩き込むためには。鈍って落ちた遁術の精度を戻すための訓練である。

 

 屋敷で初めて目が覚めた後は、起き上がる際に多少のぎこちなさを覚えただけで、体の機能の低下は思ったほど視られず、広い庭を少し散歩して回るだけで身体的な鈍りは消えた。容体も環境も時間も何もかも異なるがゆえか、変わり果てた肉体に正常な体の機能を戻すために四苦八苦していた頃と比較すると、感覚と慣れを思い出すのは随分と早く呆気なかった。

 体細胞による高い回復力の賜物か、八雲紫の力か何かが入り込んだのか――布団の近くで何故か座禅を組んでいた妖怪曰く、術や能力を行使しても問題なしとのことで、精神的な鈍りを排除する段階は早々に訪れた。足裏や膝、手や腕、全身に集めて駆けたり跳んだり、垂直の壁や水面を歩いたり走ったり、あちこちを瞬身で飛び回ったり――忍術に本腰を入れ始めたのは、忍としての基礎は全て押さえた後だった。豪火球にしても当時はもっと弱々しく小さな炎だったものだ。

 同じ術でも特異体質に分類される血継限界の『写輪眼』に関しては、生まれと生き方が体と精神に刻み込んだ感覚と慣れは微塵も薄れず、長い時間の経過を以っても衰えはなかった。とりわけ神威は手足も同然に機能している。

 

「――経過は順調のようだ。戻れる日も近いと思うよ。その調子が続くなら、ね」

 

 オビトの動きが止まる。穏やかで飄々とした声が急に響いたのは、こっそり後をついてきた好奇心旺盛な座敷童が樹の陰から現れて、不可能と思われた追跡を完璧にやり遂げたと自慢げに口を開いたからではない。鞠を全力で投球しても遠すぎて届かない。長い距離を一瞬で移動できる上、声を発するまで姿も気配も気取らせない者など候補は絞られる。

 否、考えずとも判ることだ。八雲の妖怪達の支配下に置かれた、幻想郷とは異なる空間に身を置く人物で、声にも聞き覚えがあるとなれば。

 

「世話をかけたからな。早い方がいい……お互いに」

「真面目ねえ。こっちも同じだろう? それは」

 

 宙に開いた黒い裂け目に体を通して、ふわりと傍に降り立った人物。

 肩まで届く金髪に金色の瞳、漢服にも似た服装。目を惹くのは九本のもふもふした尻尾。忍界で何度も映した姿は四足歩行で、縁もゆかりもない別個体以外の何物でもないとはいえ、九本の尾と強いチャクラは嫌でもあの巨体をよぎらせる。

――八雲藍。境界の妖怪・八雲紫の手で調伏されし九尾の妖狐。主より八雲の名を唯一与えられた直属の式神であり、数多の式達の中で最も強大な妖気と力を内包する大妖怪であり、お買い物など日々の雑用を完璧にこなす優秀な小間使いでもある。血生臭い戦争から廊下の雑巾がけまで何でもござれだが、オビトとのやり取りも雑用の範疇であり、凄惨な殺し合いを繰り広げるために姿を現したわけではない。

 

「やはりいつ見ても消えない……この物珍しさは。人の身を外れた異界人で、認識の外ともなればね。そう会えるものじゃあない」

 

 長い袖で口元を隠すと、じっとオビトを観察する藍。この場に立つ姿を映したのは二度や三度の話ではない。

 そもそもオビトは何ゆえに、長い眠りで生じた鈍りを取り去るためにと、このような辺鄙な森にまで足を運ぶのか。神威を使えば数秒で立ち入れて、体を動かす分には不便がない環境でも、その神威で行き来できる時空間で事足りる。手間も時間も環境も上でさえある。座敷童も狐も他の妖怪も誰も存在せず、誰からの介入も(紫などの例外を除けば)受けず、誰にも迷惑をかけず、どれだけ派手に暴れても文句を言われない専用の隔絶世界だ。この森を特訓の場として選択する必要性は薄い。

 ちなみに同じ瞳術の使い手は幻想郷や忍界でも他に存在せず、現在は完全にオビト個人の所有物である。

 

「悪いね。不便をかけて――もっと自由にやれる方が好いだろうに。貴方は」

「体を少し動かすだけだ。不足はない」

 

 理由はオビトではなく藍の方にある。屋敷に運び込まれた人間を看る立場の妖怪として、自分達の目と手の届く場所に置きたいのは当然だ。

 精神に重きを置く妖怪達の存在を揺るがす瞳力と、異質で強い力の流れを宿す、前例のない外来人に対する監視の意味も含むが、主人の命を受けて復帰に助力する友好的な関係にある。オビトという人間の本質を理解する八雲の式は、多重の結界と強力な封印術で塗り固めた座敷牢なりで厳重な管理下にも置かず、屋敷内での行動にも制限をつけず、外を自由に歩き回ることにも異論を唱えなかった。

 この世界ではどこに居ても藍達の目は行き届く一方、隔絶されて存在する時空間内部での出来事を知る由はない。向こうでオビト一人にかかりきりとはいかない。

 

「まあでも、この辺りが潮時かな……視たところ。やってみようか? 自由に」

「何?」オビトが注目する。「……そろそろとは思っていたが。お前がやるのか?」

 

 何度目かの訓練を始める前に言われた仕上げの話だ。体の機能が回復して元に戻り、チャクラを不足も滞りもなく練られて、忍術を十全に扱って戦えるまでに体調が良化したその時は、八雲の妖怪が実戦の手解きをする。

 闘いではなく戦いであり『スペルカード』は使用しない。途中で向こうの気が変わっても使わず使えない、というよりもオビトは一枚も所持しておらず、ごっこ遊びに関与した経験もない。理由は外来人やら男やら無関心やら色々だ。誰かが紙の枚数を言い始めたり、神威のすり抜けに回数と制限時間を求め始めたらお終いかもしれない。

 

(実戦、か……)

 

 相手が誰かはオビトも知らされていない。八雲紫本人や座敷童は候補から外れるとしても、藍であれば不足どころか十分すぎるだろう。並外れた妖気や身体能力はもちろん、妖怪らしい頑丈な体と高い生命力、長きに亘って培われた妖術や幻術など、数知れない豊富な手札を駆使して立ち回る。尾獣ならずとも九尾の妖狐として、大妖怪の名に恥じない実力を持つ人物だ。

 それに加えて、境界の賢者直下の式神で大結界の管理者の一人という、他に類を見ない特別な立ち位置ゆえか、御札や陰陽玉と巫女の霊術に、主譲りの超人的な頭脳がもたらすスキマまで使いこなす。集団持ちも一人一種の独立体でも同じ者はいない。

 式神の術の性質上、憑依の影響を受けて統制下に置かれると、主と同等の力を発揮できる。式神憑依モード全開の彼女との手合わせは、あの八雲紫と一対一でやり合うに等しい。手解きとはいえ一瞬も気が抜けない戦いとなろう。

 

「それもいいがね。試したいことが少々……アレを起用してみよう。意味のあるやり取りになるだろうさ」

 

 試したい物事とやらの内容を明かす前に、藍の人差し指が空中を横になぞり、パチンと鳴らされる。宙に開いた裂け目から何かが吐き出された。

 前例に倣って綺麗に足を着けたと思いきや、寝そべった姿勢で落下したために、頭側に伸ばした腕を枕にしたまま横向きに倒れ込んだ。腕を組んだ藍が呆れた表情で見下ろす。

 

(ひま)なら好都合だな。少し手伝ってもらおうか」

「うぐー……」小さな声が漏れる。「……(いとま)ならしたいわ」

 

 金髪に金色の瞳、青いメイド服に白い前掛け。従者のような格好の少女は気だるそうに腰を上げた。

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