雲ひとつない麗らかな晴天――とはお世辞にも言えない、どんよりとした曇り空。雨粒は地面を打たず、道行く人々は傘も差さないが、雲間から下りる陽の光はか細いもので、いまいち気分が晴れない空模様だ。
天気が気分に及ぼす影響は大きい。青しかない晴れの日に気分が高揚し、上機嫌で鼻歌交じりに一日を楽しく過ごす者。手塩にかけて作った坊主の祈りも虚しく、ざーざーと雨が降りしきる日には気分が落ち込み、何をする気力も失せて頭を垂れる者。遠足や運動会を忌み嫌う子供のように、晴れの日を嫌い、分厚い雲を待ち望む者もいる。万場一致でどちらか一つに全ての票が集まることはまずない。
その一方で、天気や季節、時間帯などの外的要因に左右されず、気分の浮き沈みが極めて少ないか、皆無という者もいる。晴れだろうと曇りだろうと、雷雨だろうと大型台風が直撃しようとも、気分は高ぶり、落ち込むか、どちらかに傾きもしない。
浮き沈みも起伏もどこ吹く風、変わらぬままに道を行く。今日の天気はまっさらだ。
竹林の奥の奥、さらに奥深くに人知れず、ひっそりと佇む大きな屋敷は、遥かなる故郷を追われた姫君を匿う隠れ家。永遠の魔法は長きに亘り、月のように輝く穢れなき威光から、その身を脅かす外敵から彼女を守り続けている。
であったのは少し前までの話。流れゆく時間の外に建物を置き、人の目から隠して遠ざけていた加護が役目を終えて以降は、見違えて風通しの良い屋敷へと帰着した。今日では外部の人間や妖怪達に存在を知られており、立地が最悪の部類に入る割には他所からの出入りがある。幻想郷でもありふれた場所の一つとなった。家屋は無人ではなく、現在も人が住んでいる。
少しだけ開いた障子。縁側から差し込む陽光は微々たるものだ。屋敷は竹林の奥深くにある上、今朝から生憎の曇り空であるのも重なり、部屋の中は薄暗い。辺りは静まり返っている。
「…………」
部屋の奥、壁際に寄せて置かれた横長の机。座布団に腰を下ろした人影。赤色に光る不気味な目を動かしながら、紙面に素早く筆を走らせている。
夢中を通り越して一心不乱に、休憩も挟まずぶっ続けで作業に集中していたからか、手つかずのお茶はとっくに冷めており、立ち昇っていた湯気は消えている。普段なら真っ先に無くなる茶菓もそのまま。自分ひとりの世界に入り込んでいるかのようだ。
「うっす、いるか~……って暗っ!」
すぐにかしばらくか、どれだけの時間が経ったのか。そんな中で縁側の障子、ではなく反対側の襖が喧しく開き、これまた元気でうるさい声が、静けさと薄闇が包む陰気な室内に響いた。
返答はない。聞こえていないのか、無視を決め込んでいるのか。机に向かって黙々と作業に没頭するだけで、声の方を見もしない。
開け放った襖に手をかけたまま、暫し動きを止めて待っていたが、反応がないと分かると息を吐き、仕方ないと言いたげな呆れた表情で踏み入る。部屋の隅にある洒落た四角い行灯に近寄り、手を入れて火を灯すと、目に優しい光が室内をぼんやりと照らした。
「……ん?」
ここで初めて口を開いた。手を止めていったん筆を置き、今しがた気づいた様子で振り返る。薄紫色の長い髪が揺れ、丸みのある赤い目が向けられた。くしゃくしゃの兎耳が頭に二つある。
入室したのは背の低い少女。ふわふわと癖のある黒髪、口元には不敵で胡散臭い、悪戯っ子な笑み。頭には同じように兎耳が二つ。どちらも地上の妖怪兎ではあるが、背の低い方は迷い竹林に、高い方はこの大きな屋敷、永遠亭を住まいとしている。外見だけでも違いは判りやすい。
「なによ、来てたの? あんた」
「耳腐ってちゃ世話ないねー。返事もできないとかペット以下じゃん」
てゐはからかうように鼻で笑い、軽口を叩きながら机に近づいた。鈴仙は面倒臭そうな顔で見返した後、皿に乗ったごま団子を取って頬張り、冷めたお茶で喉を潤す。湯飲みをコトンと置き、再び筆を掴んで作業を再開。
「うっさい。こっちは作業中……忙しいのよ色々」
「明かりもつけないで? どんだけよ」
尋常ならぬ集中力の弊害。周りの音も聞こえなくなり、身の周りの状況にも意識が向かなくなる。ほんの少しの経過と思いきや、時計の針がいつの間にか何周もしていたり、すぐ隣に誰かが居ても気づかなかったり、照明を灯すのを忘れていたり。鈴仙を始めとする妖怪も人間の例に漏れない。
「働き詰めは体に毒だし、非効率だよ非効率。いいんかねえ~お師匠様の助手がさあ」
「好きでやってるだけだし。そんな意識ないっての」
物事の好き嫌いが感覚に及ぼす影響は大きい。面倒でやりたくもない作業を惰性や義務感で嫌々こなす時、一刻も早く終わらせたい思いから効率を重視したり、作業量と費やした時間に伴わない疲労が体に圧しかかったり、時間の経過が遅く感じることもある。体以上に心が拒んでいるからだ。
その一方で趣味など、自分が好きでこなす作業には、疲労も時間も忘れて集中できる。熱中するあまり効率も度外視する。三十分のつもりが数時間も経っていたり、後になって疲れがドッと押し寄せるものだ。今は疲れ知らずで余裕のある鈴仙も、作業後は一気にくるかもしれない。
何かを為すために肉体は必須だが、より重要なのは内面である。体力があろうと気力がなくては何事も続かず、始める気にもならないものだ。彼女を突き動かすものは果たして。
「あんたヒマなのね。やることないの?」
「ズレてるなあ」てゐはケラケラと掴みどころがない。「できる奴は時間の配分、ガス抜きも上手いもんさ。自由時間もちゃ~んと確保できるし、不調もないから次の活動に繋げられる。出来が違うのよん」
ない胸を張って自慢げに言いながら、横から手元を覗き込むてゐ。
机の上には何枚も紙が散らばり、なにやら事細かに一枚一枚、びっしりと書き込まれている。傍には開かれた手帳も置かれており、そちらにも同じように書き込みがある。てゐは目を瞬かせた。
「ん~。なになにぃ~……?」
悪戯な兎を無視して筆を動かす鈴仙。覗こうとした瞬間に「見るなっ!」と真っ赤な顔で必死に隠そうものなら、てゐとしても弄り甲斐があって面白かったが、それにしては動じず、至近距離でも堂々と構えるばかり。ぶつぶつと独り言も漏らしている。
「なにこれ。こんな仕事、頼まれてたっけ? めんどそう」
初めこそてゐも、里で売る薬の一覧表か何かを作っていると思っていた。薬師に手製の薬を持たされて、人間の里まで遥々足を運ぶのは、鈴仙に任されるお仕事の一つだ。
しかしよく読んでみると、内容はどうも誰かの行動日程のようだった。朝昼晩、翌日の朝までの行動が二十四時間、分刻みで事細かに書き記され、円や棒グラフまで用いて詳細に示されていた。〇時から〇時までは家に居る、外出は〇時、〇時にはどこに寄る、帰宅は〇時などの情報が、いくつかのパターンや傾向で分けられている。お客の一日の行動を完璧に把握して効率的に回る算段なのか、文字通り一日分の情報を丸ごと徹底的に調べ上げたようだ。
グラフの方は所々、というより大部分が空白で埋まっていない。特に深夜帯。規則正しい人間は夢の中であろう時間帯だ。てゐは腕組みして「ふーん」と一言。
「いつになく熱込めてんね。これ誰?」
執念さえ感じる途轍もない熱量は、些かどころか過剰である感じも否めない。〇時にどこで誰々と顔を合わせるかの記載まである。相当な上客なのだろう。これではまるで探偵か粘着質なアレである。
「誰って。あの人間」
「いや人間ばっかだしあそこ。答えになる答えを言えってばよ」
小ばかにした目つきで見下ろすてゐ。横から小うるさく喋りかけられても、鈴仙は気にも留めていない様子。
人間の里は外来人を含め、幻想郷で最も人間が多く集中する区域で、当然ながら人口比は人間が圧倒的に上だ。数の劣る妖怪ならともかく、種族の名を出すだけで個人を指し示すのは不可能。これが博麗神社や紅魔館、魔法の森など、居住する人間が知れている地名であれば、いとも容易く特定できるだろう。逆に妖怪となると一転して判らなくなる。
顔も上げない鈴仙の口ぶりは、てゐの記憶にもある人物であると言いたげだ。
「――オビトよ。決まってるでしょ」
心の底から落ち着いた声。先に口を開いたのは鈴仙だった。真っ赤な眼光を紙の上に走らせながら。
てゐは少し黙り、左斜め上へと視線を向けた後、思い出したようにポンと手を叩いた。
「そゆことね」
名が判明していれば話は早い。里に住む人間は数あれど、『オビト』なる人物は知る限り一人のみ。それも外から来た異邦人だ。竹林やこの屋敷を訪れたこともあり、住人とのかかわりを持っている。入院患者を見舞う客としても、患者として運び込まれた過去もあるようだ。タケノコの件でも。
つまり鈴仙はオビトの行動日程を詳しく、熱を入れて徹底的に調べ上げていた。てゐが納得に至ったのは、名前を思い出したからではなく、その理由に見当がついたからだった。
「いい客になったもんね。あんたにしちゃ上々。たまには役に立つじゃん?」
薬売りは商売である。やはり客はいるに越したことはない。儲けが多くて悪いことはない。少なくともてゐはそう考えていた。永遠亭を取り仕切る薬師・八意永琳が、経済的に困窮する者に薬を無償で配布したり、無料で診察を行ったり、支払いに期限を設けないなど、金銭への興味関心が薄いか皆無である一方、商魂たくましいところがてゐにはある。
ここで言う『いい客』とは当然、より多くの商品を購入し、利用する頻度も突出して高く、永遠亭の財政を潤わせるのに一役も二役も買いまくる上客、お得意様を指す。
利用客は主に人間。というより人間向けの薬を売っており、妖怪は滅多に利用しない。肉体的に貧弱な人間は、よく怪我をして、治りも遅く、掠り傷と言える程度の傷で寝込んだり、死に至る原因ともなる。回復を助ける薬は人間の命綱だ。
――今ではお調子者の鴉天狗も避けて通る謎多き異邦人、うちはオビト。密かに仕入れた情報によれば、外から流れ着いたばかりの人間でありながら、里を拠点に複数の店を持つ経営主。相当に豊かな財を成しているとの噂もある。人里で薬を売って回る鈴仙とも面識があり、永遠亭とのかかわりも深い。逃したくない上客の一人に数えられても不思議ではないだろう。
となれば、だ。鈴仙の探偵染みた、あるいは粘着質な奇行にも合点がいく。あの人間を語る上で外せないのは、人の身に不相応な神出鬼没っぷり。居住地は判明しているが、いつどこに姿を見せるのか判らず、普段の行動パターンが不規則で読めない。境界の妖怪にも通ずるほどだ。草の根を分けて捜し回ろうにも、多くの兎達が生息する竹林の中ならともかく、人間の生活圏では十分に目が行き届かず、行動も大幅に制限される。あまり派手に動けば人間や、管理者の妖怪に目をつけられるのがオチだ。
苦労して調べ上げる価値はあるだろう。普通ではないのだから、常軌を逸した行動にも頷ける。ところが。
「客って何?」鈴仙は初めて視線を向ける。「うちの薬を買ったことなんて、一回もないけど。オビトは」
「あん?」
にやついた笑みを薄め、てゐは眉をひそめる。話が噛み合っていない。
いくら神出鬼没ゆえにと、常連どころか客でもない人間の動きに目を光らせ、執念深く追いかける意味があるのか。まだ狙いを定める段階で、客として取り込むには至っていない、という話だろうか。
そもそもこの鈴仙が、特定の人間や妖怪の行動日程をここまで、病的なほど念入りに調べ尽くす姿など見たためしがない。本人にとっては金銭以上に価値のある、他の者にはない何かを見出したのだろうが、彼女をよく知るてゐにも思い当たる節はなかった。
「じゃあなにさ。ニンジンでも作ってんの? 物によっちゃひいきにしようかねえ」
どこかの狐が豆腐屋の品に尋常ならぬこだわりと執着を持つように、里にある行きつけの青物店でのみ取り扱われる人参には、掴み所がないてゐも素直に一目置いている。金の山を積んでも手に入れたい至上なる逸品だ。その美味しさたるや、口にしない期間が少しあるだけでも落ち着かず、禁断症状が出ると言っていい。切っても切り離せない関係である。
あの人間が農業にかかわり、素晴らしい結果を出して、人々から功績を称えられ、里でも有数の人参王として君臨したとすれば。無視はできない。里における今後の動きに多大な影響を及ぼすだろう。
「そんなんじゃないわよ。あそこのやつは好きだけどね、私も」
兎だからとてゐほどは入れ込まず、こだわりは強くないものの、美味しい人参が好物には違いない。
ただし、忌み嫌う兎鍋に入った具材は、何であろうと食さない主義である。兎鍋の恒久的かつ不可逆的な排斥運動は、兎角同盟の活動目的の一つだ。
「ま、まさか」てゐが動揺する。わざとらしい。「積もり積もった日頃の恨みを晴らさんがための監視体制……隙を突いて背後からグサッと……!?」
「何言ってんのあんたは」
屠るべき標的が神出鬼没で強かとなれば、ありふれた方法で仕留めるのは難しい。ふらっと目の前に躍り出て、考えなしに突っ込んでも、返り討ちに遭うのが関の山。というかそんな物騒な主張は、不自然なほど飛躍した根拠なき妄言だ。
「おやぁん? 違うみたいに言っちゃって」
「違うから。もっと個人的な理由よ」
鈴仙は馬鹿馬鹿しいと一蹴すると、視線を戻すなり一言。
「会いたいから」
その瞬間。てゐの動きが止まる。銀色の眼が時を止めたかのように。凍りついたようにピタリと。
嫌に滑らかで怪しげな囁き声。真っ赤に輝く双眸が細まり、口元が不気味に広がる。くすくすと不穏な含み笑いのおまけつき。室温が急激に低下したように感じられた。
予想外の言葉に若干不意を突かれただけで、てゐの心に怯えや怖れはない。それでは他の者はどうだろうか。言動と雰囲気に相まって危うく聞こえる発言を耳にして、今の表情を直視してしまえば、言い知れぬ恐怖に支配され、背筋を冷たいものが伝うだろう。
このような印象を受けるかもしれない――病んでいる、と。
「ふーん……」
陰を通り越して暗黒に包まれた横顔。ギラギラと危険な輝きを帯びた赤眼。
てゐは暫し黙り込んだ後、ぷっと噴き出した。何かを察した様子でやれやれと首を横に振り、にやつき混じりの呆れた表情を見せる。鈴仙は「何?」と問いかけた。
「いやまあ、分かるよ? あんたにもそ~いう話があるってのはうん、面白いっちゃ面白い。ついに馬鹿れーせんにも春が来ましたーってね。弄り甲斐あるわ~」
「急にうっさいなあ、耳元で」
眉間にしわを寄せる鈴仙。てゐは鬱陶しがるのも構わず、べらべらと饒舌にまくし立てながら、「遊べる玩具を見つけた」と言いたげに「けどさ?」と上機嫌で続ける。
「いくら好きっつっても、やりすぎはどうかなあ。嫌われちゃうよ? うわキモ……ってなったし。正直」
愛情とは複雑だ。友愛や恋愛、家族愛と数あるが、度が過ぎた好意は執着に取って代わられやすい。傾倒はやがて過激で一方的な情となり、時に殺意をも生む。命のやり取りに発展し、血飛沫で彩ればまさに本末転倒。凄惨で目も当てられない結末に行き着くだろう。絆を育む人間ならいざ知らず、孤を好む妖怪としては珍しい光景だ。元月の兎となれば殊更に。地上の穢れに無縁だった余所者も、今ではすっかり見違えている。
詐欺師は裏表があり、息を吐くように嘘をつき、秘密主義を徹底して崩さない。そんな兎が気まぐれか、心に思ったことを包み隠さなかった。幼子のように素直で辛辣な指摘を容赦なく浴びて、今度はカチンと頭にきたようで、鈴仙は「はあ?」とムキになって見やる。てゐはにやつくばかりで平常運転。
「前から思ってたけどさ~。男できたら依存しそーよね、あんたって。無知ほど危ないもんはないし?」
「なによその偏見。舐めてんの?」
物事の無知や不慣れは付け入る隙を生む。悪意に満ちた巧みな言動に騙される人間もいるだろう。比べて妖怪には、人間とは違ったやり方がある。気に食わない輩は問答無用で叩き潰し、何事も力づくで強引に解決できる。妖怪が他人の助けを借りず、独りでも生きられる直接的な要因である。
とりわけこの鈴仙は、数ある妖怪の中でも隙がない。生き物が発する『波長』を精確に見抜き、自在に操る特異な能力の前では、抱えられた嘘や隠しごとも意味をなさない。言葉巧みに懐柔せんと図ったところで無駄に終わるだろう。相手が同じ妖怪か、相応の力を有する人間でもなければ。
ただし、内面は別である。強い力や異能の存在は、個人の性格面の問題を否定できる理由とはならない。真っ当な人間もいれば、鋭利な刃物以上に危うい妖怪もいる。逆も然り。
「鏡で見りゃ分かるよ。今のあんた、傍から見たらヤベー奴だし。眺めてる分には楽しいけどね」
「だから。何の話してんのよ、さっきから」
「照れんなって。好きなんでしょ? あの人間がさあ。手土産次第じゃ応援してやんのもヤブサカじゃないよん」
相手が他人でも知り合いでも、格上の妖怪や神々だろうと、人から頼みごとをされた時は、相応の報酬を頂戴したりと抜け目がない。お気に入りの人参を五十本も献上すれば、一通りの願いは聞き入れるだろう。妖怪は自分本位でブレない者が多いが、てゐは特に我が道を行く。
明るく笑いながら鈴仙の肩をバンバンと叩いた。部屋の障子がガタガタと風に揺れ、机に落下した筆が音を立てる。
「はあ――?」鈴仙は目を瞬いた。「いや、違うから。そういうのじゃないし別に。騒いでまで言いたかったのってそれ?」
「だって面白いじゃん。そっちの方が」
「残念でした。馬鹿はあんたじゃないの」
人間はともかく、幻想郷の妖怪にとっては無縁か、極めて僅かと言える物事がいくつかある。その中でも一、二を争うものが何かと訊かれたら、ずばり色恋沙汰。仲の好い友人よりも圧倒的に話題が不足している。
その辺りの事情は、妖怪達が持つ様々な肉体的、精神的な性質や特徴、人付き合いに不向きな性格、乱雑な普段の言動などを考慮すれば、誰しも容易に辿り着く答えである。人間と遜色ない身なりや感情を持つとはいえ、一世界で共生の道を歩むにあたり、数多の障害や制約が必然的な妨げとなるほどには、双方は生きる世界を異にしている。
てゐ自身、何事も恋愛中心で考えるような性格でもなければ、他人の色恋で盛り上がるほど興味もなく、黄色い声を上げる歳でもないが、希少ゆえの新鮮さや面白味、暇潰しとしての価値は見出していた。寿命が長ければ気も長い、何周も回った妖怪や神々にとって、短命で貧弱な人間が育む愛や絆は物珍しく映るものだ。
「なーんだ、つまんないのっ。面白いと思ったのに~」
もっとも、「そうだったらいいな」という程度の軽い気持ちで冗談半分に投げた話題だ。思いはしても思い込みはせず、初めから本気にはしていない。長生きする妖怪は互いの異なる部分を人間以上に知り尽くしている。鬼気迫る奇行の動機が見当違いであっても、そっぽを向いて少しばかり残念がるだけで、てゐは驚愕も動揺もしなかった。
からかいの気を薄めると、仕方なく当初に立ち返り、丸一日分の行動を把握してまで接触したがる具体的な理由を、てゐは素直に尋ねることにした。作業を再開した鈴仙は「修行みたいなものよ」と答える。
「なに、真面目ちゃん? あんたにゃお似合いだねえ。なんでそんなんしたいの?」
「あんたも知ってるでしょ」鈴仙は息を吐いた。「私の周りをうろついてる奴。最近、しつこく付きまとってくる『あれ』」
「ムジナだね。兎なのに」
「うるさい!」
お前が言うかという典型的なやり取り。正論にも聞こえる物言いでも、論点をすり替えただけで、鬱陶しい『あれ』の言動を否定する返しとしては成立していない。詭弁や屁理屈というやつだ。それを踏まえて言い返す選択肢もあったが、弄ってくるだけの生意気な白兎に真面目に反論するのも馬鹿馬鹿しいと思い、論理ではなく感情を気楽にぶつけ返すことにした。
「はあ……分からないでしょうね、あんたには。私の苦労」
苦労兎、もとい苦労人がため息を二度も吐いた理由は簡単。手を焼いているからに他ならない。
鬱蒼とした竹藪や岩の陰、屋根の上や軒下、堂々と背後から。身の回りにある気配と視線。最近になって姿を現し、何かと周りで見かけるようになったのは、二度目となる月面の騒動――命名決闘に基づいた一つの『異変』が発端だった。あの騒ぎが終息して以降、今日に至るまで延々と付きまとわれている。理由など見当もつかない。
普通の人間や妖怪なら悩みの種には遠い。追っ払う手段は掃いて捨てるほど用意できる。何が厄介かと言えば、相手が普通ではないこと。さらに言えば、自身がどう頑張っても力及ばないことだ。圧倒的を通り越して絶望的な差が開いている。その差を埋めるのは天地がひっくり返り、月が地上に落下して文明が滅びても、絶対に不可能であると本能的に諦めざるを得ないほどだ。
力の差があるなら基本に返り、対等な勝負ごとでケリをつける。そう思って弾幕と札を用いた決闘を提案しても、本人曰く『異変』の範疇ではない上、そもそも勝負に乗る利点がないとの一点張りで了承しなかった。合意に至らず争いごと自体が発生しなければ、弾幕勝負など成り立たない。完全に行き詰ってしまった。
「うわ、めんど。よかった~こっち来なくて。その調子で寄せ餌やっといてよ」
「ほんっと、妬ましい……」
曇天よりもどんよりとした表情で、どこかの緑眼を思わせる台詞を恨めしげに呟いた鈴仙。てゐに当たっても仕方がないため、落ち込むだけで反応しなかった。
「相談すりゃいいじゃん。困った時のお師匠様っしょ」
「したわよ」鈴仙は即答した。「真面目に取り合ってくれないんだもん。遊びの範疇とか、実害がないとかって。いっそ屋敷を壊しでもしたら、あの人の逆鱗に触れて……」
「お~っと? 聞き捨てならないなあ。お師匠様に言ってやろっと」
真剣に悩んでいる様子の鈴仙と違って、てゐは他人事で明らかに楽しんでいる。親身になって相談に乗る気などサラサラないからだ。鈴仙の方もてゐの性格は知っており、打ち明けているつもりはない。世間話のように何気なく喋っているだけである。
この竹林と屋敷において、被害を受けているのは鈴仙一人。てゐはもちろん薬師も姫様も、健康マニアも毛深い狼も、下っ端の妖怪兎も他には誰一人、標的として捕捉されたことはない。鈴仙だけにご執心なわけだ。
「とにかく」慌てた鈴仙の咳払い。「力づくで追っ払えない、遠ざけられない、屠れもしない。決闘もダメ……だったらもう、やりようは一つだけ」
非友好的か否かにかかわらず、自身に近づく何者かを遠ざけるにあたり、実力行使という便利で手っ取り早い方法を使えない場合。誰の助けも借りられない状況下で、自分よりも格上の相手に出くわしたとなれば、素直に逃げ回るしか生き延びる道はない。万が一にも勝てない輩に噛みついたところで結果は知れている。いくら鬱陶しいからと、命を失うかどうかの瀬戸際でもない状況で無謀な特攻を仕掛け、事態を悪化させては元も子もない。
嫌な奴から逃げる。いたって真面目で有効的な戦術だ。ここが戦場なら戦略的撤退なる言い方もできる。相手が此方よりも遥かに強大で、どう足掻いても倒せない輩ならむしろ、賢明な判断を下したと賞賛されるだろう。無駄に被害を拡大させる方が論外である。
といっても孤立無援だ。逃げ回るばかりでは負担は大きい。姿を見せる度に走って逃げていては、普段の生活にも支障が出る。自身ではなく相手に“逃げてもらう”か、その場から動かずとも“身を隠してやり過ごす”ことができれば、余計な時間や労力を使わずに済むだろう。慣れている方法ならば負担も懸念もない。
「……でも悔しいけど、今のままじゃ無理。それ相応に準備しなきゃね」
鈴仙がオビトとのかかわりを積極的に望む理由。それは彼女自身と、あの異邦人が持つ特異な能力がそれぞれ関係している。
波長操作。自他が発する様々な『波』を手に取り、自在に操る能力だ。分かりやすい例を挙げるなら、光の波長を弄り、振れ幅や向きに変化を加えて、相手に幻覚を見せたり、自分の姿を消すことができる。音なら幻聴を引き起こしたり、無音の世界を作ったりと自由自在。感情や精神の波動に訴えかければ、心の内に狂気を生むこともできる。頭の中へと干渉して脳を乗っ取れば、五感に関係なく人ひとりを制御下に置ける。非常に強力で汎用性も高い能力だ。鈴仙は兎達の中でも、この力を最も巧みに使いこなす実力者である。
自分の姿を消したり、相手の感覚を狂わせる能力だ。逃げ回るにはもってこいだろう。しかしながら、そこまでの力を持つ鈴仙でさえ、べっとりと付きまとう不埒者を退散させるには至っていない。理由は簡単で、力が違いすぎるからだ。波長を弄って抑え込める程度の常識的な相手なら、鈴仙を含め誰も苦労はしない。
鈴仙の力は相手にとって、自らの常識で対処できるものに過ぎない。当たり前の域を出ていない。言い方を変えればこうなる。
「はーん。だからか。大変だね」
常識が通用しなければ、非常識的な方法に頼るしかない。ここで言う『常識』とは外の世界ではなく、幻想郷から見た言葉であり、妖怪や神々に馴染みのある物事だ。この場合の『非常識』とはつまり、博麗大結界の内にも外にも存在せず、本来なら在りようがない『異物』を指している。文字通り別の次元に位置づけられる、誰一人として知りようがない定義や概念である。
単なる力の強弱や優劣ではない。あくまで“幻想郷には存在しない”という部分が重要なのだ。
「よかったじゃん、ぴったりの人材が近くにいて。まさに幸運ってね」
「まあね。見放されてないってことよ。まだまだ」
あの異邦人はそれに該当する上、お誂えとなる相性の好い能力を持っている。似通った性質の波長は溶け込み、混ざり合い、同調しやすく親和性がある。その力を磨いて高めるには適している。
修行とは己の力を高めるための鍛錬だ。苦手を克服するにしても、得意分野を伸ばすにしても、持ち得る全てを出し尽くし、己の限界を突き破るために苦を強いる。苦痛なくして成長はあり得ない。どちらかと言えば後者の方が、そのための足がかりを掴みやすいので楽に感じることも多いが、ある程度まで完成されて安定している分、伸ばし難くもある。生半可な絞り方では成長など望めない。
そこで『瞳術』が役に立つ。酷似した能力だけではない、視覚を用いた力の扱い方も両者に共通する部分だ。波長操作は五感全てに作用し、波さえ捉えれば感覚に依らずとも影響を与えるが、鈴仙は視覚に訴える手段を最も得意とし、他の何より強い効力を発揮できる。同じ瞳術を相手取る時にこそ全力でぶつかり、本来の力を存分に出し切ることができる。これ以上に相応しい相手はいないだろう。
「けどかわいそう。あんたみたいな奴に好かれてさあ。向こうだって選びたいでしょ~に」
「だから違うっつってんでしょ! いちいち勘繰るなっての!」
「おやぁ? 否定したいだけならぁ、感情的にならんでもよくな~い? あんまり無駄に騒いでるとぉ、図星じゃんって思われちゃうよん」
「無駄にしつこいからでしょ。ぶっ飛ばすよ」
癇に障る口調を隠さないてゐ。いつも通りの態度で突っかかる白兎に対し、いつになく負けじと強気に出ながらも、鈴仙は自信を持っていた。血の滲む鍛錬を重ね、努力が実を結んだ暁には、辺りをうろつく目障りな影も、身の毛もよだつ視線も気にせずに済むだろうと。自らを脅かすモノから身を守ることさえできると。それが成長という形で体に、心に表れるだろうと。
未知なる瞳力は『波長操作』の形に変化をもたらす。これまでとは違った方向へと導き、ゆっくりと枝を伸ばし、いつの日か届くだろう。月や地上で長き時を過ごすだけでは決して到達できない場所へと。
「ていうかそれ、織り込み済みなの? そうは思えないけどねえ~今のあんた見たら」
「これから。順序立てて行かなきゃね」
机の上にひしめく膨大な情報。空白は目立つが、込められた熱意は本物だ。すでに話がついているなら、ここまで念入りに調べ尽くす必要はない。話し合えば済む問題である。
「どうすんの。土下座しちゃう? 物で釣る? お色気作戦? 意味なさそ~」
「まずは交渉ね」鈴仙は無視した。「会って話すところから……正直にね。隠しても仕方ないし」
隠しごとが通じない妖怪は少なくない。人間の場合はほとんどおらず、外来人となれば絶無に等しい。あの異邦人は見事に例外で、普通に看破されるのが関の山。心の奥底まで視通す強い瞳力だ。そもそも鈴仙としては、些か利己的なだけで、不純な企みや謀を持つわけでもなく、隠すほどの動機ではないと思っていた。
手土産は煎餅でいいだろう。と、鈴仙は心の中で頷いた。
「お断りされたら?」
「ひたすら交渉。粘り強く行くだけよ。他は論外」
「わぁお、平和主義。力づくかと思ったけど、あんたにしちゃ大人しいじゃん。似合わなっ」
幻想郷に住む人や妖怪達、誰しもが知る一般常識として、平和的や力づくと聞いて思い浮かぶのは弾幕勝負。どれほど短気で喧嘩っ早く、血の気の多い暴れん坊でも、紛争に力ではなく弾幕や札を用いるのは、遵守すべき規律を忘れずにいるからだ。
しかしながら、てゐの言葉が指し示すのは決闘ではなく戦闘。余所者の人間や妖怪の中にも闘いを楽しむ者はいるが、持ち札を一枚も持たず、弾幕を作ることもできず、興味関心もない異邦人に持ちかける意味はない。つまり力づくとは必然的に殴り合い、殺し合いの意味になる。手合わせを断られた場合、鈴仙が実力行使に踏み切り、得意の能力を駆使して一戦を交える展開も、好戦的な妖怪なら十分に考えられる。その段階でも瞳術同士の衝突になるため、彼女にとっては望むところだろう。
「知った口叩くなっての。人を好戦狂みたいに。今は昔みたいな――…こほんっ、あいつらと一緒にされちゃ困るわ。心外」
「へえ?」てゐの目が探るように動く。「言うようになったねえ。あの臆病兎がずいぶんと……これだから時の流れってのは面白いよ、ほんっと」
視線は泳がず、毛も逆立たない。どっしりと構える鈴仙に、腰が引けていた昔の面影は――ないことはないが――以前に比べると見違えたものだ。その姿を近くで視てきた一人として、過大評価ではないと言っていいだろう。
とある経緯から地上へと逃れ、迷いの竹林に初めて姿を見せた時の鈴仙は、びくびくと怯えるばかりだった。疑心暗鬼で人間不信、目に映るものは人も妖怪も片っ端から遠ざけた。右も左も分からない以前に、肌に合わない、その魂を侵す穢れが蔓延する土地では無理もない話だ。永遠亭という受け皿、面倒見のいい元同胞達の助けもあって、落ち着きを取り戻すまでは思いのほか早かったが、短いながらも茨の道ではあった。
時の経過と人々のかかわり、幾度かの異変を経て、少しずつ変わっていった。臆病で人見知り、口下手な面も。彼女にとって転機となり、大きな変化をもたらしたのは、やはりこの間の月の一件だろう。情けなく震えていた月の兎も、今日では地上の兎を堂々と名乗るほどに成長した。
そしてもっと伸びるはずだ。風変わりな外来人とのかかわりを通じて、目を見張る成長を遂げるだろう。まだまだこれからだ。
「やってみれば。せいぜい楽しませてよ。私たちをさあ」
「嫌よ」鈴仙は穏やかに微笑む。「目一杯に楽しむのは私……今に見てなさい。生意気な口も利けなくなるわ。停滞しっぱなしの退屈な盤面、ひっくり返してやるから」
筆が机にコトンと置かれた。スッと腰を上げると、長い後ろ髪を払う。前髪をかき上げ、瞼を開いた。
何時間も座り続けていたわりには、疲労も痛みもない。感じないだけかもしれない。
自分のやりたいことを、好きなだけしていた。それだけのことだ。
「ま、期待しないで待ってるよ。子兎ちゃん」
最後まで消えない表情。てゐはにやりと不敵に笑い、部屋を出ていく後ろ姿を見送った。