漆黒の空に瞬く星々、無数に散らばる煌めきを鏡写しにする大海。静かなる水面は波を立てず、水の触れ合う音も聞こえず。平らな砂浜が柔らかく包み込み、優しげな吐息でそっと吹き消すかのようだ。
静かの海はその名の通り、豊かさも荒々しさもない、静かで落ち着いた砂浜。背後には鬱蒼した樹々が立ち並び、賑やかな都からは遠く離れている。
浜辺に佇む一つの影。潮風に髪をなびかせる女性が一人。どこか愁いを帯びたような表情で海を眺めている。薄紫の長い髪を黄色のリボンで後ろにまとめ、紫がかった赤い瞳が時折、瞼の奥に見え隠れする。
「ふわぁ~……や~っと休めるよもう」
少し離れた場所に複数人。頭に兎の耳がある少女、三人の玉兎が砂浜に座り込んでいる。今しがた口を開いた一人は、体をうーんと伸ばしてリラックス中。もう一人は大の字で仰向けに寝そべり、あと一人は大人しく横座り。口々に「疲れた」だの「団子食べたい」だのと愚痴をこぼしながらも、仲間内で楽しくお喋りする気持ちも忘れていないようで、すっかり世間話に花を咲かせている。
しばらくは三人で盛り上がっていた。そのうち一人が振り返り、「依姫様~」と声を張り上げて呼びかける。いくら騒がしくとも視線を向けず、眉一つ動かさなかった薄紫髪の少女は、名前を呼ばれて初めて顔を向けた。
「あと、どのくらいかかるんですかー? 全部終わるまでー」
綿月依姫。彼女はただの月人ではない。玉兎達をまとめ上げる人物であり、都を守護する立場から『月のリーダー』とも呼ばれる。ここにいる三人は軍人ならぬ軍兎で、戦闘訓練を受けた兎で構成される大隊に所属している。
――ただし名ばかり軍隊である。都で有事が発生した時、騒ぎを収めるための戦力として期待できるのは、軍を統括する依姫しかいない。永すぎる平和や、瑕穢を禁忌とする考え方の代償と言うべきか、今日では軍の存在意義が形骸化しており、依姫と一部のエリート以外はほとんど、割合にして全体の九十九パーセント以上が実戦経験不足で戦力にならない。経験豊富な地上の軍隊には逆立ちしても勝てないほどだ。依姫自身が突出して高い実力を持つことも要因の一つではあるが。
「さてね」依姫は冷静に返答する。「具体的にはなんとも。完全に元通りとなれば、手間暇がどうしても、ね」
そんな惨状ゆえ、都を防衛する軍隊よりも、雑用をこなすお手伝いさんと評する方が圧倒的に正しい。現在に当てはめて言えば、都の復興人員に投入する方が遥かに役立つ。上からの命令に忠実で、手足のように動かす要員としては、嘘のように優秀な人手となる。適材適所である。
軍事よりも復興。現状では特に該当する言い方だ。こういった時にこそ兎達の助けは必要となる。
(…………)
ここ数か月間の動きは全て、月の民が忌み嫌う瑕穢を理由とする。件の仙霊による二度目の侵攻が行われるより前――都の全機能を一時的に凍結させて、月と地上を繋げる槐安通路を開いて利用した、あの『異変』が起きるより以前にまで話は遡る。
都の開闢以来、前代未聞と言わしめた大事件。月の都や幻想世界とは異なる次元より入り込んだ、途方もない悪意の塊によって引き起こされた。都は甚大な被害を受け、その影響は騒動が幕を下ろしてからも、今日に至るまで尾を引いている。都中に蔓延した穢れの浄化作業は一筋縄でいかず、毎日のようにあちこちを走り回り、玉兎達を可能な限り総動員して、二十四時間の監視体制で事に当たらせていたほどだ。
作業は現在も続けられているが、最近になってようやく一区切りつき、体に鞭打って仕事に忙殺される日は少なくなった。束の間の休憩や息抜きに時間を充てて、凝りすぎた肩の力を抜けるのも、それなりに余裕が生まれたからだ。
「依姫様だって、ちゃんと休むべきだと思います。私たちの何百倍も仕事量多いですし……ちょっとくらいガス抜きしたって、だ~れも何も言いませんっ」
「そうですよ」他の玉兎も同調する。「美味しいものを食べれば、疲れなんて吹っ飛んじゃいます。たまには一緒にどうですか?」
「あ、いいお店知ってるよ。みんなでいこいこ」
あのお店に行きたい、あれを食べたい、どうせ搗くなら林檎か桃味の餅がいいなどと、自分の好みをこれでもかと前面に押し出しながら口々に意見を交わす。
日々の疲れを癒すものとは何か、嬉々として語り合う玉兎達。依姫はにこりともしないが、表情に厳しさや険しさはない。言動をたしなめることもせず、否定する素振りもない。座って楽しそうにお喋りする三人とは対照的に、物静かで落ち着いた雰囲気のまま、再び海の方へと視線を戻す。
「ほらほら、依姫様も。ね? 行きましょうっ!」
「私は結構です。貴方たちで好きになさい」
「え~? 付き合い悪いですよ~。そんな無理しなくても……」
もう一人も不満げに口を尖らせる。冷たさや棘のない穏やかな口調ながらも、部下からの誘いを淡々とお断りする依姫。玉兎が言い終えてから返答まで一秒もかからなかった。
一人が好きだとか、集団行動が苦手だとか、内心では兎を嫌っているだとか、個人に依拠した理由でもなければ、そのような事実もない。玉兎達のまとめ役であり、その高い地位から都の内情にかかわる一人として、自由奔放な振る舞いが許される立場ではない、というだけの話である。もっとも、命令通りに動くだけの兎と立場が同じならば、輪に入ってお喋りに興じていたかと言うと、肯定するのは難しいだろう。依姫自身の生真面目で禁欲的な性格は、のんびり屋で享楽主義的な兎とは必ずしも合わない。
おまけに現在は、復興作業を指揮する責任者としての立場もあり、自由に使える時間はさらに少ない。日課だった剣術や精神の鍛錬も、時間を大幅に削らざるを得ない状況。作業の合間に息抜きする暇を見つけるだけでも大変なのだ。
「無理などしていませんよ。こうして海を眺めるだけで十分……」
静かの海を一人訪れてからというもの(三人は道中で勝手に合流して付いてきた)、口角を下げていた依姫の口元が、玉兎の不満を耳にして初めて微笑する。心なしか目元も柔らかくなり、表情も僅かに明るくなった。
「食事ならお姉さま――…こほんっ、あの人でも誘ってみては? 今なら屋敷で暇を持て余していますから、喜んで同席するでしょう」
「豊姫様ですか? 抜かりはないです! 二十回目からは数えてませんっ!」
綿月豊姫。綿月姉妹の片方で、依姫の実姉である。途端に兎達がこぞって反応し、ぱっちりと開いた目に綺羅星が浮かんだのは、彼女らが豊姫を好意的に見ているため。
慕われる理由はいくつかある。真面目で堅物気味な依姫とは性格が真逆で、天真爛漫で自由気まま。飄々と掴みどころのない面もあるが、お喋り好きで話しやすく、初対面でも打ち解けやすい。太陽のように明るい笑顔のおまけつき。兎に本を読み聞かせたり、食事会を頻繁に開いたり、稽古に勤しむ皆に桃やお菓子を差し入れるなど、いわゆるお偉方の一人でありながら、一般の兎達との距離が近しい。
姉と妹、兎達からの評判はどちらが上か、判り切ったことは言うに及ばず。あえて言うなら上だけにずっと上だ。依姫としては兎達と仲良くしたい、懐かれたいとは毛ほども望んでおらず、興味がないの一言で一蹴できる話である。
こういった場では仲が良いかどうか、慕われるかで付き合いに差が出るものだ。それなのに三人が思いのほか食い下がり、性懲りもなく「行きましょう」を連呼するのは、今の依姫にとって好ましい反応と言えるだろうか。しまいには一人が駆け寄り、腕を引いて駄々っ子のように主張する始末だ。
「他を当たりなさい」
「ご馳走しますから~……ねぎ唐辛子カレー醤油団子~……」
「二十回も言わないわ。二回でも多いくらい。三回は論外ね」
そろって頬を膨らませる三匹の兎と違って、依姫は安易に感情を露呈させず、珍妙な味覚を持つ兎の発言にも突っ込まない。仏の顔もなんとやら、ということわざは辞書に載っているだけで、いつでも適用されるわけではない。
「あっ、ぜんざいも美味しくって――」
「いい加減にしなさい。稽古でこってり絞られたいの? だったら喜んでご一緒するけど」
「ふぇ~ん」
穏やかな表情で受け答えしていた依姫だが、あまりにもしつこいためか、凛とした厳しい目つきに戻り、鞭を打つようにぴしゃりと黙らせた。
外敵から都を護る玉兎軍、しかして戦場では烏合の衆と成り果てる。統率する依姫も戦力としては初めから期待しておらず、日々の訓練や稽古は全体を通して非常に緩い。その程度でも兎達は根を上げ、面倒臭がってサボる者も多いくらいだ。地上の軍隊と同等かそれ以上の過酷な訓練を課すと言えば、我侭で諦めの悪い輩も一発で押し黙る。そして姉の人気が急上昇する。
「稽古より復興ですっ。頑張ってるんですよ~こんなでも」
だが、それでいいのだ。今は訓練よりも他にやるべきことがある。もっと大事なことがある。
この状況下でも兎達から、皆から笑顔が失われないのは、ひとえに豊姫のような、色々な方法で皆を励ます人達がいてくれるおかげだ。とりわけ彼女はあの騒動以降、都を『散歩』して回り、同じ月の民として、同じ目線で精力的に人々と語り合った。それこそ二度や三度、二十や三十では収まらないほどだ。どんなに巨大な戦力、軍事力を束にして比べても、今の都に彼女ほど欠かせない人物はいない。
兎達が熱心に話す食事や遊びにしてもだ。ここにいる三人だけではない、都に住まう皆が必要としている。様々な形をした心の支えを取り上げる気など、依姫にはなかった。
「帰ってきますよね……すぐに。私たちの居場所は」
「……とか言い続けて結構経った。百年かかるかも」
「この調子なら明日にでも終わるって! 何事もないしあれから」
「分からないよ? 幸せ一杯な夢を見ちゃうかも。前みたいに」
「洒落にならない冗談やめて。フツーにぐっすり寝たい」
「見てるかの人がほら、あんたの後ろに……」
「うるさいっ!」
「そっちもね~」
しょうもないやり取りを繰り広げる三人。耳に障る騒がしさでこそあれ、何事も全力で楽しむ性分は時に憧れの対象となろう。
永い付き合いでお馴染みの宿敵はともかく、今の兎達にとって『幸せ』だの『夢』だのとは、必ずしも好意的、肯定的な意味を持つ言葉ではない。むしろ真逆で、胡蝶夢丸などで見る特大の悪夢を片っ端から掻き集めて腐らせ、ドロドロになるまで煮詰めて放置し、さらに酷い惨状となったモノの数万倍、数億倍もタチが悪いと言わしめる代物。三人とも嫌でも経験し尽くしている。
「夢と言えば――」玉兎は思い出したように喋る。「この前のあれも……地上人絡みだったんですよね、たしか」
「『あれ』ぇ?」もう一人の間延びした声。
「ボケないでよそこで。争いと穢れが持ち込まれたから、都があんなになっちゃったんでしょ。毎日のように汗水流してるじゃない、私ら」
「あ、そっちか。クソダッセーシャツの方かと思った」
「私はロケットかと思った。あとスキマ妖怪」
「だからボケんなってば!」
三人が一斉に想像したものが違うのは、玉兎の言う地上人が関与した異変は一つに止まらないからだ。
最初の一人が口にした事件とは何か。判り切ってはいるが、候補を一つずつ潰していけば、無用な情報を切り捨てられるだろう。
今より千年以上も前に、増長した地上の妖怪達が都に攻め込んで勃発した月面戦争か。否だ。その後、幻想郷と呼ばれる妖怪の世界が世に生まれ、スキマ妖怪に唆された人間の巫女と愉快な仲間達が、大筒に乗って月へと突っ込んだ事件か。否である。差し迫った脅威に対応するため、月の都とその全機能、全ての住民を地上へと遷都させる極秘の指示の下に動き、最終的には失敗に終わった――否、望むべくして落ち着いた計画か。それも違う。夢幻の月光が月面と地上を照らし、月も地上も関係のない『無』の中へと世界を引きずり込まんとした、数か月前の事件である。
「…………」
依姫は答えなかった。都の復興のために頑張る兎達の気持ちを理解していても、世間話のように軽々しく表に出すべき話題ではない。依姫自身はそのように考えていたからだ。
この手の話題で正しい情報をやり取りするのは、実姉である豊姫を含めて数えるほどしかいない。都を管理する一人であり、賢者の一角に数えられる人物――稀神サグメもその一人だ。あの戦いを最後まで生き抜いた唯一の月の民として、事件の後にそれ相応の特別な扱いを、良くも悪くも上から受けたものだ。あまりいい思い出ではない。
上層部による都の『遷都計画』が実行に移された二度目の異変は、地上での流行りごとを持ち込んだ、半ば遊びも同然の騒ぎでもあったが、一度目は思い返してみても、都の存亡にかかわる事件と評するべきだろう。今世紀どころか開闢以来、都の永い歴史上でも最悪に入ると、裏側に座するお偉方にも言わしめたほどだ。あの時とは違う結末を迎えていたなら、こうして兎達と話すことも、静かな海を眺めることも叶わなかった。
「少し前までうわさになってました。『地上人じゃない地上人』が月にいたって」
「なにそれ」もう一人が怪訝そうに言う。「地上人じゃないんなら、地上人じゃないじゃん」
「いやだから。地上人じゃない地上人なんだって。地上人だけど地上人じゃないの」
「なんかもうワケ分かんなくなってきた……地上人ってなんだっけ」
今になって火がついたのか、興奮気味に情報を交換する三人とは裏腹に、依姫は瞼を瞑るだけでなおも無言。
――情報が錯綜しすぎて具体性を著しく欠いた、不明瞭で不確かな形のまま行き渡ったようだ。真実を覆い隠す半端な情報は、物好きな人々の間で囁かれるだけの、根拠や確証のない噂話へと姿を変えやすい。同時にそういった人々のことを、馬鹿馬鹿しい話を鵜呑みにして信じ込む愚か者であると、冷めた目で見る者も出てくる。世の中は均衡を保つようにできている。
正しい情報は表に出回っていない。事態を重く見た上層部の何人かが、都の混乱や人々の不安を払拭する名目で、騒動の後に情報統制を徹底して実施したためだ。兎の言う『地上人じゃない地上人』と接触したり、現場となった三神結界の向こう側に入り込んだ玉兎も何人かいたが、上とのかかわりを持たない者は総じて特別な処置を受け、不都合な事実は悉く隠蔽された。
以前の遷都計画に絡めて言っても、都の中枢を握る連中の秘密主義の結果でもある。しかしながら、甚大な被害に反して大きな混乱が起きることもなく、今日まで都の復興に注力して来られた。清濁併せ呑んで目の前の問題を解決すること、今できるのはそれしかない。
(地上、か……)
都でも高い地位に座する者は様々な特権を持ち、それに関連する事細かな法が整備されている。組織における命令系統や居住区域に関する決まり事などが分かりやすい。その中には地上に関するものもあり、面倒な手続きを簡略化して地上へと下りることが許されている。
月の民は基本的に地上人を見下しており、地上に蔓延する瑕穢を忌避するため、該当する権利を行使する者が極めて少ない一方、地上と接点を持つ何人かは例外に位置づけられる。依姫もその一人であり、地上に住まうとある人物に会うために、色々と理由を付けては都を抜け出すことがある。あの事件が起きる前までの話だが。
とある人物――八意永琳は当事者の一人。彼女の安否ははっきりしている。騒動の後に地上から送られてきた、量子印つきの封書を受け取ったからだ。今度は誰の策略に巻き込まれるでもなく、自分の意思で書き記した手紙を。屋敷で姉と一緒に目を通した時は、安堵の気持ちが一気に溢れたものだ。おかげで復興を放り出してまで様子を見に行く必要がなくなった。
(でも……今は)
ただし、ひとつだけ気になっていることがあった。それはたった今、兎達が“なんとか崩壊”を起こしかねない、というよりすでに起こしている原因――『地上人じゃない地上人』。噂でも架空でも何でもない実在する人物だ。
地上でも月でもない、どこか別の世界からやって来たらしい、いわゆる『外来人』に分類される人間である。
成り行きとはいえ、戦場で肩を並べて共に走り、最後まで生き抜いたもう一人。一切の私情や感情を抜きに淡々と事実を述べるならば――現在の都があるのは、その人間の力添えがあってこそ。此度の事件を解決に導いた張本人である以上、最大の功労者であることは疑いようもない。
もっとも、月の民から見れば余所者には違いない。易々と理解は得られないだろう。心身に穢れを持ち、地上から来たとのことで、地上人という認識になるはずだ。傲慢で自尊心の高い上層部の連中に面と向かって話したところで、返ってくる言葉など判り切っている。個人として思うところもあるため、心の内にひっそりと仕舞い込み、姉を含めて誰にも明かしたことはない。
復興がさらに進んで、自由な時間をもう少し取ることができたら、合間を利用して地上へと下りる計画を密かに立てている。恩師である八意永琳にも会えるので、日帰りの地上旅行はかなり前から確定事項となっていた。一度だけでも会話する機会が欲しいと思ったのだ――。
「――…依姫様。依姫様っ?」
ハッとして目を瞬いた。気づけば三人とも近くにいて、不思議そうに顔を覗き込んでいた。
「どうかしたんですか? ぼーっとして見えましたけど……」
いったいどんな顔をしていたのかと思いながらも、兎達に尋ねるはずもなく、咳払いして「いいえ」とだけ呟いた依姫。
頬が微かに熱を帯びているのを感じた。口に出すのは馬鹿馬鹿しい。
「長居しすぎたか……そろそろ戻りますよ。休憩時間はおしまい」
「えー、もうですか? せっかく来たのに~」
「勝手に付いてきておいて。戻らなかったら帰れないわよ」
静かの海。ひとり物思いに耽りたい時にも決まって訪れる。都から遠く離れたここに。人の気がなく静かで落ち着けるなど、利を考えて選んだ場所ではなく、何気ない気持ちで足を運んだ。
また近いうちに海が見えるだろう。その時が来るのを心待ちにする。そう思いながら背を向けて歩き始めた。
「じっと待つのが醍醐味ですよ。逸る兎は足を取られましょう」
音なき風の音が止む。心安らかだった目が見開かれたのは、しゃがれた声が後ろから聞こえたからだ。