星々は奥ゆかしく瞬き、浜辺に打ち寄せる波の音は、煌めきを散りばめた砂底へと呑み込まれる。
合間の息抜きに海を訪れていた依姫と三羽兎。適当なところで休憩を終わらせ、都へと戻るために踵を返して飛び立とうとした矢先に聞こえた何者かの声。
先んじて反応を示したのは仲良し三人組。そろって不意を突かれたようで、びくっと身を震わせるなり反射的に振り向いた。依姫の方は背を向けたまま、暫しの間を置いてゆっくりと振り返り、老人のようにしゃがれた声の主を目の当たりにした。
「えっ、いつの間に……誰?」
玉兎の一人が驚いた様子で呟いた。無理もない反応だろう。声がしたのはすぐ後ろ、今しがた視界に入っていた場所。ほんの少し前まで四人が立っていた地点に、何者かの姿がいきなりあったのだ。
老人という表現も、声のイメージも的を射ていた。白いあごひげを蓄えた禿頭の翁が一人、浜辺に胡坐をかいて座り込んでいたからだ。古びた一振りの釣竿を構えており、見た目は完全に獲物の当たりをじっと待つ釣り人。傍には魚籠も置かれている。
顔を見合わせてひそひそと喋る三人。ちらっと視線を投げては戻すを繰り返すだけで、突如として現れた翁が誰なのか、いつからそこに居たのか、何故に釣り竿を持って海に来ているのか、好きな団子の味は何なのか、頭に浮かんだ疑問は積み上がるばかり。何も分からないので挨拶をすると、翁も返してふぉっふぉと笑った。もう一人がホッとしたように胸を撫で下ろす。
三人はどうやら、この翁を風変わりな老人と見なした様子だ。生命が棲みつかない海に釣り糸を垂らす、常人とはズレた感覚を有する変わり者。孤高なる芸術家や哲学者のように、一般人にはなかなか理解されないような、そんな人物に違いないと。それだけであると。
変わり者。確かにその通りだろう。月の海に糸を投げる月人など他にいない。真っ当な指摘である。しかしながら当然、依姫と玉兎では物事の視点や考え方に差異がある。ありすぎる。両者の見方に明らかな違いが生じた理由だ。
(…………)
目の前で堂々とお喋りして、お構いなしに挨拶までした兎とは異なり、依姫は立ち止まったまま黙り込んでいる。
その間にも三人は物珍しそうに、面白半分にちょっかいを出しては、好奇心旺盛な性分を積極的に披露する。傍から見れば孫に囲まれるお爺さんだ。
「あの~。なんで釣り竿なんです? 何もいませんよここ」
「おや」翁はのんびりと返す。「そんなことはないぞ? 大物が沢山おるのじゃ」
「大物? どこどこ? でっかい魚……くじらとか?」
「いんや、もっと大きな獲物さ。小魚なんぞとは比べもんにならんよ」
「またまた~。地上じゃあるまいし」
兎は調子に乗りやすく、乗せられやすい。嘘吐きだが素直で騙されやすい。根拠がなく出処も分からない話を信じ込み、周りに言いふらすような真似も平気でする。
明日には仲間内でまた一つ、新たなうわさ話が囁かれるだろう。命なき海に命を見出す奇妙な老人に出会ったと。
「どうかのう。お主らが知らんだけで、そこいらに散らばっておる。それが世界というものじゃ」
「うーん」一人が首を傾げる。「そりゃまあ……どこに何があるかなんて、よく分かんないし。というか分かるわけないし」
「いるかもなあ、とかくらいは思うかも。こんだけ広けりゃあね」
誰もその最果てを知らない。妖怪や神々にも似た怖れや無理解を生み、無限の可能性が眠る未知の領域だ。
なればこそ人々は思うだろう。自分達の知らない景色の数々が、そこに広がっているかもしれない。大昔に滅んだ古代生物の生き残りが、誰も見たことのない未知の生物が、深き海の底に眠っているかもしれないと。
海は宇宙にも例えられよう。頭上に目を向けてみれば、八百万など優に超える無数の星々が悠然と輝く。途方もない数の惑星や銀河が渦巻く。誰もその正確な数を知らず、本当の姿を知らず、その場所へと辿り着いたこともない。人の考えが及ばない世界であれば、ごちゃごちゃと思考を巡らせても無意味かもしれないが、物事の可能性を肯定する理由にはなり得る。
広く深い水底。兎達が覗き込んだところで、暗きに横たわるモノの正体は見えないのだ。
「だからこうして耽々と待っておったのよ。とびきりのヤツがかかるのを……」
竿の先がぴくりと振動した。兎達はうんうんと頻りに頷きながら聞いているが、分かったふりであるのは一目瞭然。にっこり笑いを貼りつけていても、浮かない表情は隠せていない。
長いあごひげを撫でる翁。兎達はその周りに集まり口々に何かを喋っている。警戒を解いた三人は少なくとも、釣りに没頭する翁を無害な人物と判断した様子だ。穢れ多き地上人とは違うのだと。
「貴方たち。いつまでも喋ってないで、さっさと持ち場に戻る。休憩時間はとっくに終わってるでしょう」
毅然とした声が浜辺に響き渡った。少し驚いた様子で振り返る三人。
やり取りを傍から見ていた依姫。打って変わって厳しい口調で、鋭い目つきに変化していた。部下が我侭を言って駄々をこねても、呆れるだけで軽く流していたはずの、先ほどまでの姿はどこにもない。冷徹な雰囲気まで醸し出している。
お調子者で不真面目な兎達も、急な変わりように面食らったのか、戸惑いながらも「はいっ!」と元気よく答えるなり、依姫の方へと小走りで戻った。依姫は翁へと再び視線を向ける。
釣りでも銛でも網でも、海で魚を獲るのは地上人くらいのものだ。その点だけを取り上げて言えば、釣り竿と魚籠を持つ老人を、地上から入り込んだ招かれざる客として、然るべき判断を下して対処する選択肢もある。然るに翁が瑕穢を持たなければ、三人が警戒を解いて近づくのも無理もない。地上人にべたべたと触る兎もいるほどだ。現にそんなものは感じられない。
依姫が同じ結論に至らないのは、単純な二元論で答えを出すほど浅はかでないこともある。最たる理由が何かと言えば――生死の概念に囚われているか否か、月の民か否か以前に――翁が『生きた人間』であるか否かさえ、初めから不明瞭に映っていたからだ。
「こうも言えるのう。逸る兎は足元を掬われる……と」
刹那、空気が激変した。腰の鞘から大太刀を抜くと同時に、翁を中心に発生した風が周辺一帯に吹き荒れる。
振り向きかけた玉兎達は一斉に崩れ落ち、砂を蹴って飛び出した依姫が真横を駆け抜けると、座り込んだままの翁へと向かった。
「……ッ!」
砂浜に胡坐をかき、釣り竿を構えて微動だにせず、顔も向けなかった翁の姿が、太刀を振るう前に忽然と消えた。
素早く呼吸を整えて柄を握り締める。額を一筋の汗が伝う。身構えたまま後ろを振り返ると、折り重なるように倒れ伏している三人の姿が映った。何らかの力の干渉を受けたようだが、意識を喪失しただけで別状はないようだ。
――突然だった。前触れはなかった。無意識だったかもしれない。
事が起きる直前、体内に熱いものが溢れてドクドクと脈打ち、気がつけば得物を抜いて走り出していた。意図した行動の結果ではなく、向こうの出方を予感したわけではない。正体も判らない相手に先走って斬りかかるほど、好戦狂ではない自覚と自負はあるのだが――。
「惜しいのう」
しゃがれた声は再び背後から聞こえた。振り向いた先には案の定、消失していた翁が五体満足で立っていた。釣り竿を肩に担ぐように持ち、魚籠は腰に提げている。皺だらけの顔には愉快げな笑み。
「あと僅かでもお喋りが続いていれば、そろって向こうで再会できたものを。実に惜しいことよ」
依姫は今一度、砂の上に倒れている三人を見やる。
月人は永い寿命を持つに止まり、蓬莱人のような不老不死では決してない。怪我によっては致命傷となり、命を落とす場合もあり得る。ゆえに翁の言葉は穢れを持たぬ月人にも該当するが、やはり意識を飛ばしただけで肉体は無傷。目に見える外側に異常はなさそうだ。
ただ、内側は雑にしか判断できない。三人を無力化した力の正体は不明であり、未知の能力である可能性を考慮すれば、都の医療施設に運んで詳しく調べる時間が必要だ。内面を精確に視通す特別な能力を持つわけでもない。
「そう。残念ね。とても」
果たして何者か。裏切り者か、迷い込んだ地上の民か、この機に乗じた侵略者か。いつから居たのか、どんな能力を持つのか。何も情報がない現時点ではっきりと判るのは、非友好的な言動を見せたこと。月の民に被害をもたらす結果を生んだこと。
事実さえあれば十分だ。意図した行動か否か、いかなる理由を持とうが問題ではない。ひっ捕らえて都に連行する立派な拘束理由があれば。手間を省こうと考えたところで、素直にべらべらと喋る保証もなければ、真偽も判らぬ情報を鵜呑みにする道理もない。真相の究明を含めた諸々は後でいい。
「単刀直入に」翁に向かい合う依姫。「今から一緒に来てもらうわ。都までね。事を荒立てる気はないけど、従わなければ止むなし。大人しくして頂戴」
相手が地上人でも月人でも、それ以外の何かでも。身柄を拘束する際は基本的に、それなりに長ったらしい口上を形式的に、ご丁寧に伝えてから実行に移すものだ。
つまり例外もある。行動どころか、此方が口を開く前に手を出して、平和的な解決を自ら放棄した野蛮な輩に遠慮も配慮も不要だ。昔ほど厳格ではない、現代の緩い規律に照らしても、個人の裁量に任せる問題は多々ある。正体の判らぬ相手であれば特に、明文に固執しない臨機応変な対応が必要だ。
物事の機敏に疎い玉兎に無理は言うまい。それでもだ。地上の巫女やスキマ妖怪の気配も見逃さない、此方の目を欺いて姿を現した時点で、この件を捨て置いたり、他に丸投げする気は完全に消え失せた。屋敷から貴重な古酒を盗み出される方がまだ穏やかだろう。
「そうかね。荒立てたように見えたがのう。殺気丸出しで斬りにきおって……死ぬかと思ったわい」
依姫の眉が動いた。突発的に生じた異物染みた感覚は落ち着いていたが、抜かれた太刀は鞘に納まらず、曇りなき白刃を露わにしたまま。話のために一時的な構えを解いたに過ぎない。
生き延びるために敵を屠る。争いの意思は本来、穢れを忌み嫌う月の民に相応しい色彩ではない。最も遠いものだ。それで直ちに己の魂に、寿命に影響は及ぼさないとはいえ、当然ながら依姫の心境は穏やかではない。払拭するためにも行動を起こさなければならない。
「『殺気』ね……だからあんなことを? 小さな兎にまで手を出すとはね」
「ふむ」依姫を見返す翁。「引っかかるのう。さっきのあれは、アナタの意思かい? 娘さん」
実のところ、最後の妥協点は消えていなかった。武力に頼ることなく問題を収めるための平和的な方法だ。何も知らぬ部下達に危害を加えた件は『いったん』置くとして、両手を上げた翁が降参の意を示し、都まで大人しく付き従うならば。得物を鞘に納めて踵を返す可能性は十分に残されていた。無用な面倒ごとを避けたい依姫としても、そちらの方が好都合だった。
可能性は一瞬で潰えた。それも不可逆的に。お構いなしに高々と跳び上がり、手にした釣竿が刀のように降り下ろされたからだ。
咄嗟に太刀で受け切ると、翁はぎりぎりと押し込んだ。腰の曲がった老体とは思えぬもの凄い力で。
「思い切った判断ね。一線を越えたからには、もう遅いわよ。悔やんでも」
この瞬間、依姫は即断した。力による紛争の解決を。地上で流行っている遊びよりも遥かに暴力的で野蛮な、穢れを生みかねない禁忌の行為と理解しながら。
否、それこそ『もう遅い』だろう。このようなやり取りは嫌というほど、体の芯まで、心の底まで経験し尽くしている。過去に幾度となく都に戦いを仕掛けた宿敵、忌まわしき仙霊と三界の神。千年ほど前の月面戦争にて対峙した数多の妖怪達。そして都の歴史上、最大規模と言わしめた血戦。色濃い記憶は長く残り、ふとした小さなきっかけでも蘇る。
いよいよ地上の民のように穢れ始めたのか。月の民として永く生きてきたおかげで、今さらどうという話にもならないが、違和感という形では残り続けるだろう。
「捕まえると? 私はただ、のんびり釣り糸を垂らしていたいだけ。老い先短い老いぼれの生きがいをどうか、奪わないでくだされ」
「そういうのはもっと早く言ったら? あんなの見せた後で。誤魔化す気さえ感じられないのだけど」
「心外ですな。まるで――」
翁の不気味な笑みが初めて薄れた。探るように目が動き、竿を掴んだまま左手を依姫に向ける。
赤褐色の光が掌に集束し、急速に形成された光弾が至近距離で炸裂した。依姫の鋭い一閃が同時に走り、迸った斬撃が竿ごと翁の体を押し負かせる。吹き飛ばされた体は海へと向かい、水飛沫を上げながら海面で何度も転がり、凄まじい衝撃とともに大きな水の柱が上がった。依姫は太刀を下ろすと、身を翻して三人のもとへと向かう。
相変わらず気を失ったままで、ぴくりとも動かない。近くで声をかけても、仰向けにして頬を叩いても、目覚める気配はない。眠りに就いているかのようだ。
「……まさか」
胸の奥がざわついた気がした。太刀を傍に置いて一人を抱き起こすと、その額に手を当てて瞼を瞑り、意識を集中させた。肌を通して流れ込む力の波が伝わり、頭の中にある膨大な情報を手繰り寄せ始める。細やかな欠片が合わさり、必要な情報として明瞭化されていく。
都に住まう玉兎、とりわけ軍に所属する軍兎。彼女らは一部の例外を除いて、全員が『物事の波長を操る力』を標準で扱うことができる。知力や運動能力のように、能力の精度には個人差があるが、心身の状態や微細な変化が波として現れる部分は共通する。それら一人ひとりの情報を詳細に把握し、まとめ上げて率いる立場の者として知り尽くさない道理はない。
生き物の体内を巡る、力の源となるエネルギー。地上で言う『妖力』や『魔力』の流れは、容体の変化で乱れが生じやすい。意識を失った時などは顕著だ。せき止められたように停滞したり、あるいは二つが同時に生じる。その動きに覚えがあれば、原因を突き止めるのはさほど難しい話ではない。
(やはり……『幻術』)
ありもしない幻を体感させる。身近なところで言えば、生き物が発する波長に干渉できる兎の能力だろう。使い方を応用すれば、五感に訴えかけて感覚を操り、様々な幻覚を見せることができる。都においてはありふれた力だ。
能力の影響で玉兎達の幻術への耐性は高い。それなりに厄介な精神的干渉にも耐え抜く。そんな三人が抵抗も許されず一瞬で意識を奪い去られた。並外れた使い手には違いない。幻術使いという一つの括りで見れば、かつて地上へと去った兎を思い起こさせるほどだ。早い話が普通ではない。
肉体的に打たれ弱い玉兎なら、目を回して海面をゆらゆらと漂っていた場面でも、あちらはどうやら――。
「――まるで」
吹き飛ばされた翁が落下した地点。そこへは目もくれず、依姫の視線が向いたのは三人の頭上。翁は復唱しながら竿を振るい、再び太刀と打ち合った。
「こちらから仕掛けたとでも仰りたいようで。そこまで血の気が多く見えると?」
「見えるも何も、体現したばかりでしょう。自分から」
「どうでしょうね」翁は低い声を出す。「私もアナタも、そうせざるを得なかった……としたら。意味は違ってくる」
意識の外を突かれたおかげで、凡その力量を見通すことができた。なにせその時点で並大抵ではない。この短時間でふるいに掛けたわけだ。
幻術をかけて感覚を狂わせたり、視認が不可能なほどの速度で動いたり、透明になって姿を消したわけでもない。時間を止めたわけでもない。できるとすれば、意識や感知の類が及ばない場所、こことは違う別の空間を介したと見るべきだろう。
別空間に干渉する力――『空間操作』は稀有な能力ではない。玉兎達の『波長操作』ほど一般的ではないだけで、他と比べると数は少なくない。高い地位や神格を持つ有力者なら手足を動かすように扱える。依姫にしてみれば、同じように知り尽くす能力の一つだ。身近な血縁者も同系統の能力を持っている。
知り尽くす力で隙は生まれない。かといって知らないだけなら、知識や経験の問題でしかなく、依姫を惑わせる理由とはなり得ない。僅かな動揺も見せなかっただろう。
「あからさまに含みのある言い方ね。どういう意味かしら」
二度目の一閃が迸る。弾き飛ばされた竿が回転しながら高々と宙を舞い、鋭い刃が容赦なく標的を捉えた。真正面からまともに受けた翁は、少し離れた砂浜に叩きつけられる。得体の知れぬ動きを見せようとも、実力差は歴然としており、依姫の方は掠り傷ひとつ負わない。
力なく横たわっていた翁が身動きする。ゆっくりと体を起こすと、近づく依姫を眺めてにやりと笑う。
「人は身の危険を感じた時、自らの命を守らんと動く……そうしたのはむしろ、私だった。アナタではない……」
ひ弱な老人。見たままで言えば、今でもその通りだろう。若返って腰がまっすぐに伸びたり、巨大で恐ろしげな怪物に変身する様子はない。
比べて少し前までの口調も言動も、目つきも雰囲気もすっかり見る影もない。嘘偽りで塗り固められていた姿だとしても、追い詰められて化けの皮が剥がれ始めたというよりは、飽きて自分からばらし始めたように感じられた。気取るような喋り方と失われない余裕、急激な変わりようがそう思わせるのだ。
刃を交えて以降、表情が様変わりしたのは依姫だけではない。隠された本性が引きずり出されたのか。
「当たりが来ても」翁は座り込んだ。「はしゃいで突っ走るのは愚かです。実に浅はか。焦り逸ったところで、そこの兎の二の舞を演じるだけ。それでは意味がない」
散々と太刀を振るっても、縛り上げて連行する意思は持ち続けていた依姫だが、加減の必要性は疾うに捨てていた。翁へと向けられた冷徹な表情と、首筋に突きつけられた刃が物語っている。
なおも翁は物怖じせず、自分を見下ろす依姫に笑いかける始末。何をどう言われても、手を出されても動じない態度、軽快さを帯びる口調も、依姫が態度を硬化させる要因だった。時が経つほどに状況は悪化の一途を辿り、双方を取り巻く空気も悪くなるばかり。しかも翁の言葉は続いている。
「ですからもう少しだけ、平和で退屈なお喋りに興じる気でいましたが。こうなっては仕方ありませんね……」
「もう結構です」
依姫は僅かに視線を落とすと、ため息交じりに自嘲気味な声で呟いた。
はしゃいではおらずとも、突っ走ったことは否定し切れない。原因は不明ながら、冷静さを欠いて自らを抑え切れず、得物を抜いて斬りかかった。後の祭りではあるが、そもそも怪しい輩を捕まえるだけなら太刀を抜かずとも事足りる。順序が逆になったようだ。
懐から取り出した一本の組紐を翁に見せる。体を縛り上げるには細く短い物だ。目の当たりにした翁が言葉を切って目を細める。
「おや。なんです? それは」
「来てもらう、と言ったでしょう。従わなければ……ともね。そのための道具と思っていただいて構わないわ」
――フェムトファイバー。須臾を編み込んだ紐。最も小さな単位としての時間を、特殊な技術で繊維化して無数に繋ぎ合わせた組紐だ。
生物が認識できない僅かな時間、須臾という単一の素材のみで作られている分、紐の効力を弱める余計な不純物が混在しないため、強度が高く経年劣化も起こり得ない。つまり生死の概念、寿命が紐には存在せず、一切の穢れを寄せつけない。月の民にとっては特別な意味を持つ道具である。
ゆえに組紐は、地上の生物に対して高い効力を発揮する。その一方で単純に強度が高いため、鋼鉄の枷や鎖などよりも遥かに頑丈な拘束具として使用できる。加えて普通の紐や縄よりも柔らかく軽量で扱いやすい。穢れを持たない輩を捕縛する時にも適している。
(……用心はするものね)
あの事件で大きな被害を受けて、都は以前よりも無防備な様相を呈している。悪意の化け物や件の仙霊に見るような侵略者が、再び攻め込んで来ないとも限らない。有事に備えて必要な諸々は常に持ち歩いて然るべき状況だ。復興の最中だからこそ気は抜けない。
そして今現在、その可能性を疑っている。最悪の予想が的中したと仮定すれば、生け捕りにして都へと連れ帰り、正体も含めて情報を洗いざらい吐かせ、真実を白日の下に晒すまでは予定通り。今後の具体的な動きにも役立つ。
状況は有利である一方、油断は禁物だ。幻術や空間操作を使うに止まるなら、組紐を持ち出さずとも制圧は容易だが、隠している力を向こうが出し切ったとは決めつけられない。
何より瑕穢を持っていない、あるいは持っていても感じさせない。厄介なのは後者だ。月人の体を隠れ蓑に隠蔽するような輩でさえ、神格の高い神々の目を欺くことは叶わなかった。強い力を持つだけの輩とは思えないのだ。
「言葉を返しましょう」翁はくくっと笑う。「言ったはずですよ。こうなっては仕方がない、とね」
組紐が触れんとした瞬間、瞼に覆われていた目が露わとなり、口元が裂けるように歪んだ。
翁は手を伸ばした。離れた場所に突き刺さった釣り竿がひとりでに動き、大量の砂埃とともに引き抜かれ、二人の方へと勢いよく飛んだ。
依姫は同時に動いていた。否、動かされた。体の奥に熱いものが再び脈打ち、翁の首筋を狙って振り下ろされる。間に割って入った竿を軽々と両断し、込み上げる何かを抑え切れないまま、穢れなき白刃が翁の体を斬り裂いた。驚愕に見開かれた依姫の目が、趣味の悪い舞台衣装の奥から現れた本性を捉える。
真っ二つになった竿は空中で分解し、細やかな光の粒と化した。距離を取った人影の掌に寄り集まり、釣り竿を模した長い形状に変化した。腰に提げた魚籠が赤く発光し始めている。
「やれやれ、こうも早く。せっかちな方ですね」
皺一つない若々しい顔、すらりと伸びた背丈。失われた時間を玉手箱から取り戻し、本当に若返ったという見方で片づく話なら、どれだけ気持ちが楽だろうか。