OBITO -廻光-   作:大兄貴

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ウラシマ

 深きへと沈む。息苦しく、手足の感覚を失い、意識が混濁する。

 堪らず息を吐けば、力なく気泡が昇り、重く冷たい水がまとわりつく。

 生への叫びが空しく木霊した先、底なき底に待ち受けるものとは?

 酒池肉林の桃源郷も、身も心も安らぐ理想郷も、夢にまで見た楽園とてまやかしだ。

 怒りと絶望、虚無の果てに辿り至るのは、狂わし渦巻く居城。

 腐り朽ちた水先案内人から見やれば、欲深くも大口をこじ開けた虚栄の門。

 潜った先に出迎えるのは、顔のない顔で笑う踊り子。

 張りぼての羽衣と扇子で飾り立てた姫君。骨のように真っ白な手を差し伸べる。

 水に濡れた体を灼熱の劫火が包み、朱色に燃え盛る一羽の雛鳥が産声を上げた。

 

 焼け焦げた針はもう、時を刻まない――。

 

 

――◇◇◇

 

 

「待つのには慣れてましたがね。今回の獲物は食いつきが早かったようで」

 

 皺の刻まれた顔は嘘偽りの仮面。体表を覆っていた翁の皮が切り裂かれ、乾いた破片となりボロボロと崩れ落ち始めた。本当の姿形は内側から現れたのだ。

 灰色の髪、蝋のように真っ白な肌、溶け込むような目の色。数百年前の貴族を思わせる古風な和装。左右の側頭部から生えた幅広の角が顔の方に巻き、額を覆い隠している。持ち物の釣竿と魚籠は、それらの形状を模した赤色の物質に変化していた。地上で言う妖怪の妖力や魔力、都で言えば神々の霊力や神力に該当する力の産物だろう。

 

「獲物」太刀を構え直す依姫。「大物、とも言ったわね。どこの誰を指した言葉?」

 

 男が掲げる目的も正体も依然として不明。一方で釣りに例えた言葉が誰を示すのか、なんとなく分かった気がしたが、あえて単純な疑問を期待せずにぶつけた。

 

「問答ですか。私を捕らえるのでは?」

「嫌いじゃないのよね? お喋り。だったらいいじゃない、少しくらい付き合っても」

 

 相手が欲しい物を気前よく提供するとは限らない。紛争の場では情報の真偽を精査する時間も手段も不足しがちになる。事を有利に運べる場所に連れて行く方が確実だが、慎重に口を動かすことから始めるべき場面もある。解らない輩に突っ込んで痛い目を見るよりはマシだろう。

 家族や友人らとの世間話とは違う。どうせ喋るなら情報収集に利用せんと思惑が生じるものだ。

 

「悪くはありませんがね。それも――」

 

 丁寧だが砕けた口調でそう言いながら右手をかざした。赤褐色の光が急速に集束、掌から撃ち出された大きな光弾が標的を狙う。

 依姫は緩やかな、流れるような動きで一太刀を繰り出し、瞬く間に両断された弾が一つは遠方の浜辺へ、もう一つは海の方へと飛んで消えた。男は同じ動作を絶え間なく繰り返し、後続して次々と襲い来るも、その度に慣れた様子で見事に捌き切る。

 雑で適当なやり方はお遊び、よくて軽い運動にしかならない。地上の戦力を怖るるに足らずとする月の民にして、明確に脅威と言わしめる要因は極めて少ない。男の立ち回りも例外ではなく、攻撃の威力や規模、速度を含めてあらゆる面が不足している。玉兎を一瞥で昏倒させる強力な幻術とて決定打とならない。事実、これまでを無傷でやり過ごした依姫に疲労の色はない。

 

「回りくどいのはわりと好みですが、立ち話だけでは少々つまらない。納得のいく答えが欲しいなら、それ相応に長く生き延びることです。アナタがたなら得意でしょう」

 

 茶化すように喋る男。永遠に近しい寿命を持つ月の民に時間の長さを語るなど、皮肉めいた言葉選びである。依姫の方も堪え性と絡めて返そうと思ったが、向こうの思うつぼである上、乗るだけキリがないと判断して撤回した。

 じっと当たりを待つことが釣りの醍醐味と宣い、釣り人を自称した男は喜んで待ち続ける。お目当ての獲物が食らいつくまで。それだけで情報は事足りる。余計なお喋りに興じるくらいなら、腰を上げた時点で目的を達したと見なして、早々に此方から本題に入るべきだろう。

 

「それで?」依姫は冷たく言う。「『私』は何も知らず、のこのこやってきた。人気のない海に。都から遠く離れた、この場所に。兎たちもおらず孤立無援……待った甲斐はあった?」

 

 何らかの目的ありきで接触したのは言うに及ばず。兎達に手を出した時点で捨て置く理由は失われた。

 今日この時間、ここを訪れたのは偶然の結果だ。異様な男の存在を事前に察知して、入念な下準備をした上で臨んだわけではない。でなければ都への必要な連絡を疾うに済ませて、諸々の対応に着手している頃だろう。復興が何事もなく順調に進んでいた弊害か、僅かに生じた隙に付け込まれたと指摘を受けても否定できない。

 よほどの無知か、力の差も解らぬ馬鹿か、月の神々をも脅かすような手練れでもなければ――真正面から月の民に、都に喧嘩を売る無謀な真似はしない。以前に大筒に乗って月に突っ込んだ地上人一行のように、流行りのお遊びで勝負を持ちかけるならいざ知らず、男が『戦い』のための武力を用いたのは言い訳のしようがない。そこまでしてこなしたい用事とは何か、無関心を貫くことは困難だった。都を守護する側の一人として。

 

「ええ」男は呆気なく認めた。「余裕もそれなりに。こちらの用が早く済みましたので」

「用?」

「といっても、あまり時間をかけるのはどうか……という思いもありましてね。本命を見つける前に『避難所』にでも逃げ込まれては面倒ですから。手間暇には代えられません」

 

 真っ当な懸念だろう。都に入り込んだ地上の民は忽ち察知される。穢れ切った地上人の魂は、穢れなき月では異物として目立ちすぎるからだ。白い花畑に咲いた一輪の黒い花よりも遥かに。少し時間を掛ければ、復興作業に人員を割き尽くし、他所に割く余裕が失われている状況下でも、片手間に楽々とこなせるほどだ。

 非友好的か否かにかかわらず、侵入者は拘束して連行するまでは確定事項。大抵はその後、地上へと送り返されて事態は終息するが、稀に留める場合もある。都にとって危険と見なされた輩は牢行き、他は都での行動に一定の制限をかけるだけで、普通に食事やお酒で持てなすことも珍しくない。

 

「余所余所しいじゃない。月の民にしては」

 

 この男に当てはめるなら、悪い意味で特別扱いされるであろう末路は想像に難くない。意味ありげな言葉から察するに、都の内情に関しても怪しい部分がある。武力抜きにしても看過できない言動だ。

 

「構いませんよ。探りなど入れずとも、喜んで断言して差し上げます。私は『月の民ではない』、とね。今さら隠す意味はありませんから」

「自信家ね」依姫に驚いた様子はない。「まあでも、少しは気が楽になったわ」

「お役に立てたようで」

 

 月人の裏切り者か、地上からの侵略者か。否、月の民かそれ以外か。立ち位置が判明しただけでも動きやすくなり、やりようも変わる。依姫が口にしたのは皮肉でも嫌味でもない、本心から紡いだ安堵の言葉だった。

 

(…………)

 

 その言葉に本来の意味を持たせる場合、男が真実を語ったという前提が要る。しょせんは口だけで確証は得られていない。

 瑕穢を感じられない以上、持たないとは言い切れず、月の民かそれに類する輩である可能性は否定できない。どれだけ特異な術や技を使おうとも、これまでに遭遇した連中で、有る無しが不明確な余所者など一人もいなかった。得体の知れぬ男に出遭うまでは。今のままでは見事に何も分からない。

 正体がなんであれ、此度に相まみえるまでは、その存在さえ察知できなかったのは事実だ。この場所に姿を見せなければ、どこに身を潜ませているかも判らなかった。ひとたび姿をくらませれば、何らかの行動を起こさない限り、独力による追跡は不可能に近しい。そこから先はいったん都へと戻る必要がある。

 

「それとこれとは別。なおさら捨て置けないわよ、こうなってしまっては」

 

 此方も馬鹿ではない。静かの海は都から遠いものの、『裏の月』の一部であり隅々まで目は行き届く。何もせずとも都側に情報は伝わり、増援を含む具体的な動きを起こすのは時間の問題。遅いか早いかの違いでしかない。

 手っ取り早く終わらなければ、そのための有利な舞台を時間をかけて用意すればいい。曰く本命に行き当たったらしい、企みありきの男が今さら踵を返して雲隠れしたとしても、事に対処する猶予を手に入れるだけだ。後はどうとでもなる。

 

「この際です」男の瞼が閉じる。「見ていただく方が、言葉などよりも多く伝わるかと。百聞は一見に如かず、という故事はご存じでしょう。余所者の私が思うに、アナタはその資格を持つ――“大物”だ」

 

 そう言い終えるが早いが、男の目は再び開いた。

 

 直後。呆気に取られた依姫の表情が、みるみる驚愕の色を帯び始めた。

 意識が持っていかれる。履き物が押す砂粒の感触、太刀を握る手の感覚さえ忘れかける。頭をよぎる言葉は、こんなことはあるはずがない、などと皮肉な表現を含む。受け入れるべき幻想は遥か眼下だ。

 怖れなし、されど動悸は激しく、胸の奥に渦巻く重苦しさ。追憶が蘇り、脳裏を満たす黒一色。蠢く尾、異様な瞳が瞬く。背筋に冷たいものが流れ、凍てつく感覚が巡る。

 

「馬鹿な」

 

 自然に絞り出された声。我に返るまで暫しを要した。依姫は初めて真実を目の当たりにし、否が応でも理解に至ったのだ。積み上がった山が崩れ落ちていく。残酷な本性が裂け目の奥に花を咲かせる。

 青色の目に波紋模様。瞳を囲むように繋がる六つの巴。あの事件の中心的な当事者として知らぬはずもない。悪意の怪物を思い起こさせる特異性、未知なる異界の瞳術。災厄と破壊を月にもたらした根源の一つだ。

 

「いい表情ですね」男の薄ら笑い。「前置きはまあ、この辺で切り上げましょう。ここからは有意義な話を……実はアナタに訊きたいことがありましてね。綿月依姫さん」

 

 この一瞬。僅かな時間で一気に進展した。良くも悪くもだ。玉兎達の意識を奪い去った謎の幻術、空間操作の力は覚えのある能力に、正体不明の男は見覚えこそないが、不明とは言えない輩へと変わった。誰かも判らない黒い影に輪郭が刻まれ、色彩が込められていく。

 捕まえるつもりで臨んだやり取りはもはや、生き死にを賭けた血戦へと染まりつつある。あの不気味な眼にはそれだけの力があると、依姫には嫌というほど解っていた。自負心さえあった。その名を聞くだけで誰もが怖れ慄き、避けて通るほどにデタラメで理不尽な力。都において他の誰よりも深々と触れたのだから。

 

「『大筒木カグヤ』について」

 

 だからこそ。因縁ある依姫にとっては、穢れに身をやつしてでも討ち取るべきモノに他ならない。その心が芽生えかけた怖れを掻き消し、猶のこと冷静さを保てる要因となった。驚きはしても物怖じせず、真っ直ぐに睨み返した理由だ。柄にもなく取り乱す方が無理な話だった。

 

「なるほど」

 

 男がぽつりと呟いた名。輪廻眼を目の当たりにする前であれば、依姫も動揺を見せたかもしれない。大雑把に察した今では反応も薄く、顔色も変わらなかった。

 

 かぐや。遥か昔に不老不死の禁忌に手を出し、月から地上へと堕とされた大罪人。その名を聞いた時、月の民が一般に思い浮かべる人物である。依姫としても同じだ。然るに『大筒木』なる言葉が頭につくだけで、彼女を含む何人かはおそらく、全く違った人物を思い起こすだろう。

 覚えがあるのは輪廻眼だけではない。あの事件を語る上では外せない。都においては一部の当事者間でのみ取り扱われる、秘匿された名。中心的な役割を担っていた依姫は当然、輪廻眼や大筒木についても、詳細にとは言うまいが知っている。都を騒乱の渦中に引きずり込んだ、全ての元凶たる輩と直接的な結びつきを持つ言葉など、忘れたくとも忘れられない。忘れるべきでもない。

 

(……今になって)

 

 大きな事件だったのは確かで、復興も今日まで続けられている。しかし自身にとっては、数か月前の過去の出来事に過ぎず、とっくに終息した問題だ。後ろを振り返ることも大切だが、兎達のように盛り上がったり、誰かと共有して思い出や感傷に浸ったりと、軽々しく追憶を辿ったことは一度もない。精々が参考や関連事として、たまに頭をよぎる程度だった。

 それがここにきてぶり返した。カグヤなる名前、あの眼まで引っ提げて。見覚えのない男の正体に関しては、取るに足らない事柄でさえあるだろう。自らの目と肌で真実と現実の両方を直視した今、無関係や勘違いと結論づけるのは無理がある。この期に及んで逃避に走るほど、夢にすがるほど落ちぶれてはいない。

 

「見過ごせないわね。貴方と何の関係が――?」

 

 カグヤなる人物の復活は阻止された。ゆえにどんな人物か、容姿にしても知る由はないが、輪廻眼という共通点だけでも考える余地はある。同じ血筋、系譜に連なる血族か、単純に仲間と言っても不自然ではない。

 そしてその関係性が友好的か否か、明確な立ち位置の差異も無視できない。都においても一族や派閥という概念は存在し、一枚岩のまとまりを持つとは必ずしも言えない。表にこそ出さないだけで、水面下での探り合いや対立がないわけではない。それが国家というものだ。

 かつての元凶は、母とするカグヤの復活を目的として月と地上を暗躍した。この男が似たような企みを腹に隠さないとは断言できまい。輪廻眼を持つ輩を完璧に抑え込む力と手段があれば、問答無用でひっ捕らえて速やかに都へと戻るところだが、物事とはかくも都合よく運ばないのか。

 

「話が早いようで。となればここは一度、きちんと名乗っておくのもいい。どうです?」

「当然ね」依姫は呆れたように言う。「不公平だもの。それに礼儀でもある」

 

 名も知らぬ相手が此方の名前を知っていた。挙げてもキリがない理由はともかく、此方だけ知らないのも些か癪な話ではある。名乗るというなら聞いて損はない。

 といっても、それ自体は何でもいい。カグヤでも輝夜でも、月夜見でも、嫦娥だろうと同じこと。カグヤひいては大筒木との関連性や立ち位置が重要だ。本物の輪廻眼を持つと判った以上、僅かでも共通点が他にあれば、たとえ『大筒木』以外でも認識に変化はない。逆に言えば、直球的な名前が出てきた場合、その時点で確定的な判断ができる。即座に下す価値は大いにあるだろう。

 

「――『大筒木ウラシキ』と申します。以後、お見知りおきを」

 

 恭しく会釈した男に、素っ気ない声で「そう」と短く返答する依姫。この状況でおかしな話ではあるが、芽生えた安堵の気持ちには、今度こそ中身がぎっしり詰まっていた。喉の奥につかえた異物が消え去ったような、すっきりとした気分でもあった。名を聞く前とは比べものにならないほどに。

 輪廻の力を宿した男の瞳力は果たして、依姫の薄い反応に隠された真実を視通すことができるか否か。向こうにとってはどちらでもいい話だ。依姫本人としても。

 

「つまり……そういうことね」

「ご想像の通り」男は丁寧に答える。「アナタは賢いお方だ」

 

 大筒木一族。異界の瞳術・輪廻眼を有する血族。ウラシキなる男とカグヤは、同族という括りにおいて直接的な繋がりを持ち、面識もある。そんな輩が遠路遥々、月の外からやってきて都に入り込んだ。内と外側を隔絶させる大結界を、誰に気づかれるでもなく通り抜けたわけだ。本当に想像通りなら悉くが真実と成り果てる。知っていることは多いだろう。

 竹取の翁と咎人の姫、地上で打ち上げられた大筒。釣竿や魚籠、酷似した名からは一人の迷い子を連想する。月の都、ひいては月との関連性を露骨に匂わせる要素は多いが、大筒木なる名を持つ一族、その他の集団や個人も含めて、都に同じ名は一つとして存在しない。

 この場に一人残った今、倒れ伏して目を覚まさない部下達と、輪廻の威光を放つ大筒木を前に、戦略的撤退と称して背を向ける余裕はなさそうだ。

 

「実は少々、厄介事を抱えてましてね。詳しくはお話しできませんが……その問題を摘み取りに来た、とでも思っていただければ。こうしてアナタのもとを訪れたのも、似たような理由からです」

「にしてはやり方が乱暴ね。いきなり殴りかかるなんて。他にやりようはなかったの?」

 

 玉兎の能力には多くの用途がある。耳を介して電波を送受信する要領で、離れた場所にいる仲間と意思疎通ができる。静かの海から都にいる仲間と通信し、戦況を伝えて救援を要請する程度は造作もない。

 自らの存在を都側に知られるのは都合が悪いと判断し、連絡手段を断つために先手を打って三人を幻夢の中へと引きずり込んだとしても、男の行動から不可解な点は消えていない。好戦的な性分なのか、あるいは意味ありげな先ほどの言葉に答えが隠されているのか。

 

「その件についてはご容赦を。不本意ではありましてね。なにせそちらから先に手を出されたのですから」

「さっきも言ったわね。そんなようなこと」

「ええ」頷いた男。「ですがその口ぶり、自覚はどうやら……ま、当然でしょうかね」

 

 時間稼ぎの意図でもあるのか、直接的な言い方をせず、漫然と小出しに喋るだけで要領を得ない。飄々とした振る舞いは掴みどころがない。

 有用な情報がお喋りの中で手に入るとは元より期待していない。ゆえにと向こうのペースに乗せられることはない。大筒木だからと特別扱いする意味はあるまい。堂々とした振る舞いで立ち続けるだけだ。

 

「はっきりしたら? 勿体ぶってないで。それで何か変わるなら別だけど」

「変わりましたとも。この目で見て、肌で感じるまでは半信半疑でしたがね。おかげさまで『はっきり』しました」

 

 眉をひそめる依姫。男が怪しげに笑むと、青い目から波紋模様と巴が溶けるように消え去り、両目の周辺に血管が浮かび上がる。凄まじい眼力と圧が依姫へと到達した。

 白眼。地上に残った大筒木一族の子孫、日向一族が保有する血継限界であり、輪廻眼や写輪眼と並ぶ三大瞳術の一角。『此方』の月や地上の民には無縁で知る由もない話ではあるが、依姫は過去に実物を見ている上、実際に相手取ったことがある。その身に色濃く刻まれた経験と記憶は、戸惑いや物怖じから彼女を守っていた。知ってか知らずか男には、話の内容を理解させようとする気が感じられない。

 

「アナタの中に在るんですよ。我々と同じチャクラがね」

「……『チャクラ』?」

「別個に内在する意志か、敵意に呼応して表れたのか、はたまた偶然か。いずれにしても……私に牙を剥いた時点で、事を荒立てる気があるようで。どこの誰から貰い受けたんですかね、それ」

 

 輪廻眼に大筒木、白眼ときて今度はチャクラ。月でも地上でもない、いずこから持ち込まれた言葉が、大筒木を名乗る男の口から続けざまに飛び出した。

 都に住まう月の民と、月を連想する大筒木に関連性はない。それでも依姫が見返すだけで何も言わないのは、心当たりがなかったからではない。男の言うチャクラが考える通りの物を指すならば、むしろ今日まで生き延びた理由の一つにさえなっている。それは依姫自身が認めていることだった。

 思い起こす人物はカグヤの他にもう一人。男の言葉が真実なら、体内で脈動する異物感の正体で、大筒木を前に溢れ出す激情の根源。あの時に渡されていた物が警告を発したのだ。

 

「ざっと見たところ……アナタの体と、その力にもよく馴染んでいるようで。相手に合わせて受け渡しできるとは、実にチャクラの扱いが上手い。赤の他人とは思えませんね」

 

 月や地上における妖力や霊力の定義は、事細かな違いこそあれ、大雑把にはチャクラと遜色ない。ゆえにその扱いに長ける者は、妖怪や神霊が保有するエネルギーの扱いにも長けている。自身のチャクラを他者へと譲渡する行為も例外ではない。

 受け渡し。口にするのは簡単でも、実際にできる者は少ない。そのままの形でならまだしも、相手が保有するエネルギーに合わせて形や性質を最適化できる者となれば、さらに一握り。都でも高い地位にあり、最上位の実力を持つ一人である依姫でさえ為せない芸当だ。力の強弱以前に特別な能力が要る。

 その一例が他ならぬ大筒木。当然ながら依姫の知るところではない。だが他人云々のくだりを聞いて、頭に浮かぶ考えはある。譲渡した人物がカグヤであると男が思っているなら、ろくに情報を持たない依姫としても否定する材料がある。それを別の形で表現することにした。

 

「お仲間の仇討ち、って感じではなさそうだけど。そんな風にも見えない」

「建前にはできますがね。茶番ですよ」

 

 社会や集団には人と人のいざこざが付きものだ。積もりに積もった負の感情は、身内や仲間同士の対立や裏切りを引き起こす。個としての力、自我や欲望が強すぎたり、周りとは違う異端者は嫌われやすく、他者との繋がりが希薄になりやすい。大筒木とて一枚岩の集団ではない、という話なら現実味があるのだが。

 

「何もかも情報通りとは」男はやれやれと首を振る。「あの女の居場所も聞き出すつもりでしたがね。手間は省けましたが、これでは念を入れた意味がない。どうしたものでしょうか」

 

 カグヤ。正しくはその意志が具現化した異形。事件の黒幕として暴虐の限りを尽くしたが、すでにどこにも存在していない。

 本体たるカグヤが内部に封じ込められていたという封印石――見上げるやそびえるでは表現し切れない規模からして、天体と呼ぶべきだろうか――あれも騒動が終息して間もなく、都側が現場に立ち入る前にどこぞへと消え失せていた。あそこまで巨大な物が跡形もなく、忽然と姿を消していたのだ。おかげで事後調査の手がかりは、都中に散らばった枯れ木の残骸くらいで、カグヤはおろか元凶たる輩の一欠けらすら残されていない。

 経緯は不明ながら、真っ黒な意志を追って『此方』へと入り込んだ、という流れだろうか。同じ血族という点を考慮しても、男の言動がカグヤに友好的とはどうにも思えない。仇打ちを肯定せず、否定するような言い方までして。一族の裏切り者を粛清するために現れたとでも見なす方が、どちらかと言えば違和感はない。

 

「今は色々と忙しくてね。こちらとしては正直、回れ右して帰ってもらえると助かるけど。貴方の言う『本命』って、尋ねごとのためだけの過大評価? あり得ないでしょう」

 

 男の言動は何から何まで大げさで目に余る。度が過ぎている。カグヤの行方を聞き出すだけなら、より手っ取り早く確実な選択肢など他にも腐るほどある。誰にも気づかれず嗅ぎ回り、輪廻眼という厄介な異能まで持つ輩にしては、どう考えても無駄が多い。遊びの多い性格と言えばお終いだが、非常識的な相手に常識的な考えが通じるなら苦労はしない。

 以前の戦いでは貢献した『チャクラ』。男の指摘通りの代物だとすれば、この場ではむしろ命取りとなる。振る舞いを見るだけでも下手な有力者よりタチが悪い。向こうより先に動くだけで、痛いでは済まない返しを食らうだろう。本能的にそう思わせるほどに。

 

「そうですね。隠しごとをされても、アナタのような方でなければ――」

 

 男の白眼に波紋模様が表れた。杞憂とでも言いたげに火ぶたを切ったのだ。

 それが『幻術』であると直感的に判断した依姫は、刀身に指で触れながら早口に何かを呟いた。その身に神々しい光を羽衣のようにまとうのと、解放された瞳力が猛威を振るうのは同時だった。両手を広げた男の目が射貫くように映す。

 

「――こうはなりませんから。おかげで楽もできない」

「ご所望なら喜んでさせてあげるわ。納める気は疾うに失せてるから」

 

 依姫の声がさらに冷たく変化した。玉兎達を一瞬で打ち倒した時と比較して、情け容赦なく増大した瞳力に呑み込まれたはずが、僅かに表情を変えただけで、意識を失うどころかふらつきもしない。輪廻眼による幻術がまるで効いていない様子だ。

 

「それが『神降ろし』ですね」男は依姫の姿を観察する。「ふむ……我々の知る『神』とは定義も、概念も違うようですが。武力としての価値もありそうだ」

 

 天地に住まう神々を依り憑かせ、その力を借りる『神降ろし』の能力。高尚な魂の持ち主が多い月の民の中でも、彼女が扱うソレは他の追随を許さない。日々の厳しい修練の賜物か、長ったらしい正規の手順を省略したり、一度に複数の神々を降ろすことができる。心身にかかる負担も皆無に等しい。永きを生きる月の巫女として高められた能力は、地上の巫女たる博麗の巫女と比べても月とすっぽんだ。

 神降ろしを誰より使い慣れており、知り尽くしている。自らの力や意識を他所へと割き、本来とは異なる使い方を披露する余裕がある。幻術を真正面から受けても動じない理由だ。

 

 幻術にかかると体内を巡るエネルギー、いわゆるチャクラの動きに異常をきたす。荒れたり停滞したりと、普段とは違った動きを見せる。つまり幻術を解きたければ、その異常な動きを何らかの方法で正せばいい――などと口に出すのは簡単でも、実際はそう上手くいかない。かかった本人が自力で解術する場合は特にそうだ。とりわけ写輪眼のような、瞳術を用いた特殊な幻術に、通常の幻術破りは基本的に通用しない。六道の眼ともなればさらに。

 ゆえに依姫は例外的な、しかし神降ろしを手足のように扱う本人曰く基本となる手段を選んだ。正確には神降ろしではなく、その能力の特性を利用したのだ。すなわち、体内に在る自分以外の、独立した意識や意思に解術を代行させる方法。依り憑かせた神々のことだ。幻術は体内に尾獣を宿す『人柱力』など、二つ以上の意思や人格を持つ者には効果が薄いか通じない。宿主が幻夢に囚われようとも、隣にいるもう一人が叩き起こすからだ。その神降ろしに彼女の桁違いに強い精神力が重なり、輪廻眼の瞳力を寄せつけなかったようだ。

 自然の力には同じ自然の力、ではなく神の力には神の力。実物を見る機会が初めてだとしても、関連する情報を事前に入手していた男から視れば、分かりやすく判り切った結果である。幻術で昏倒させて無力化を図り、楽に終わらせるという企みは見事に崩れ去ったが、男は平然と構えたまま、想定内と言いたげな様子で「ですから」と続けた。

 

「ここは予定通り、速やかに本命の確保を。そのための努力くらい惜しみませんよ、こちらは」

「まったく……」額に手を当てる依姫。「予想はしてたけど、込み入ってそうな話ね。何をやらかす気? 私の力を悪用して」

「その辺りは後回しで。どうせ嫌でも暇になりますからね」

 

 風の流れが変わる。変わり始めた。依姫の視線が背後にいる三人に移り、すぐに男へと戻った。

 一区切りの後、暫しの沈黙を置いて、男がふわりと浮かび上がる。浜辺に佇む依姫を見下ろす形となり、手元の釣竿もどきを担ぐように構えた。青色の眼光が照らす。

 

「ではあらためまして……綿月依姫さん。私と一緒に来ていただけるかどうか、答えをお聞きしても?」

 

 輪廻の力。大筒木の威光。下手な恫喝や暴力では怯まず屈しない、強かな精神を持つ者でさえ、あの眼を直視すれば忽ち怖れ、狂わされる。奥底にまで侵食した狂気に呑まれ、己をも失った先に待ち受けるのは、何もない虚ろ。暗く深い奈落の底には光も届かない。何者も手出しできない。

 そんな輩に真っ向から受けて立つ一人。仲間を守るために、自らの居場所を護るために、安寧を護り抜くために。黙って聞いていた依姫の口が開いた。

 

「だったら、詳しく聞かせてもらわないとね。今ここで」

「もちろん」男は滑らかに言う。「アナタにその気があれば、いくらでも」

「――分かってるじゃない。お互いに」

 

 依姫の微笑が消えた。心の内より溢れ出る感情を無理やり抑えつけ、力づくで黙らせるとともに、白銀の刀身を風が巻いた。霊力を乗せた一太刀を繰り出すと、刃の形状を模った斬撃が飛翔し、男へと真っ直ぐに向かう。

 放たれた刃は目の前で静止、獲物を切り裂くには至らず。分解された霊力が渦を巻き、その体へと吸い込まれ、間もなく霧消した。不敵な笑みを隠さない男だが、姿を消していた依姫が背後に現れ、炸裂した拳が背中を打ち、真っ赤な液体が口内から吐き出された。直撃を受けて海の方へと吹き飛ぶも、依姫の動きは止まらず、再び何かを唱えると静けさが掻き消える。

 揺らぐ海面。大量の飛沫とともに至る所から水の柱が立ち昇り、吹き飛ばされる男の体を容赦なく打つ。鞭のように何度も、何度も打ち続ける。顎をこじ開けた最後の激流が丸呑みにし、途轍もない質量と水圧が押し潰す。痛みと苦しみに悶える姿は、遠目にもはっきりと映った。

 

「それ、知ってるわ。嫌ってほど、忌々しいほどにね」

 

 斬撃は打ち消されたのではない。吸収されて消えたのだ。原因はあの眼しかない。

 男の言うチャクラ、似たものに分類される霊力や神力、妖力や魔力、仙力に気力と、現存するありとあらゆる性質のエネルギーを無差別に、無尽蔵に吸い尽くし、それらを元にした事象も無力化する。神々の力も、巫女の霊術も、妖怪の妖術も悉く通用しない。輪廻眼の厄介さはかつての戦いで味わい尽くしている。

 逆に言えばそれだけだ。体術による物理攻撃、生き物が持つ内的なエネルギーを元にしない事象。神降ろしは物質を起こすのみならず、自然界に元から存在するものを操る能力でもある。有利に立ち回るための外的要因、途方もない量の水なら見渡す限りに満ち溢れている。地の利があり、周りにあるもの全てが武器となる。

 さらにあの術は一度に吸収可能な量に限界がある。短時間に莫大な物量をお見舞いすれば、吸収し切れず押し負かされる。いわゆるごり押しだ。こちらも神降ろし一つで事足りる。だがその場合、静かの海はおろか、周辺の森もまとめて焼け野原となり、それ相応の被害は避けられないだろう。都を護る側として論外だ。

 

「さて……」

 

 分厚い水の壁に閉じ込められ、内部からも容赦ない打撃を受け続け、袋叩きに遭うしかない。時折に壁が形を崩したり、不自然に弾け飛んでいる様子だが、圧倒的な物量が次から次へと押し寄せ、生じた穴や隙間を埋めては広がり、時間が経つほどに勢いと厚みは増すばかり。神降ろしによって完璧に制御された物質からは抜け出せず、力自慢の鬼が集まろうが打ち破る術はない。地上の妖怪辺りなら確実に無力化できる場面だ。使いようでは斥力を操る瞳術も押さえ込める。

 懸念があるとすれば、力に頼らない方法。複数の空間を介した転移ならば遮蔽物を無視できる。輪廻眼を持つ大筒木の十八番と言える能力だ。加えて何より印象に残っているのは、あの厄介極まる異空間。敵の独擅場に引きずり込まれたら最後、今度は此方が閉じ込められる番になる。できるだけ動きを封じながら戦う方が有利に立ち回れるだろう。短期決戦に望みを託すよりは、時間をかけて徐々に弱らせ、焦らず慎重に追い詰めていけば、都側が事態を察知して対策に乗り出すまでの時間も稼げる。

 その一方で、時間をかけるのは悪い意味もある。此方に隙が生じるおそれは、敵が倒れなければ払拭されないのだ。

 

 案の定か、苦しみながらも体を動かすと、水中に発生した空間の歪、黒い裂け目へと逃げ込むように入った。

 動向を注意深く視ていた依姫の目が走る。視線が捉えたのは前方。

 押し広げられるように裂け目が開き、這い出るように姿を現した男。ずぶ濡れで息を切らしており、思惑通りに消耗しているが、余裕はあるようで笑みは消えない。

 

「この調子では」肩を押さえる男。「……思ったよりかかりそうですね。少しばかり……分が悪そうだ」

「無用な心配よ。このまま討てば終幕」

 

 奔流吹き荒ぶ海上にて対峙する二人。依姫は早口に何かを唱えた。

 澄み切った空気が寄り集まり、太刀を構えた体を包み込むと、金色に輝く美しい羽衣が顕現し、輝かしく神々しい力が溢れ出した。振り撒かれた穢れは浄化され、刀身を渦巻く光はより一層の輝きを見せる。

 依姫の姿が一瞬で消えた。間合いを詰めた一閃が迸り、咄嗟に釣竿で受け止めた直後、余裕の笑みが歪む。止めたはずの刃が深々と体に食い込み、振り切られるとともに大量の血が噴出した。

 

「ぐはッ……」

 

 男の反応速度を超えた立ち回りで追い詰める。血反吐を吐きながらも腕を動かし、自らの背後に裂け目を作り出すも、逃げ込む前に激流が迫り、丸呑みにされた男は裂け目から引き離され、依姫の眼前で再び身動きを封じられた。

 間髪容れず太刀を構える。その様子を水の中から眺めながら、不意に男の口元が愉快げに歪む。

 

「……っ!?」

 

 目を見開いたのは依姫だった。背中に衝撃を感じた瞬間、凍りついたように全身が硬直する。

 体が動かない。手足どころか指先も。何かが起きたのは確かだが、突然の出来事で原因が分からない。反撃を食らったにしては、痛みも苦しみも一切ない。体の奥に入り込んだ異物感だけが、何らかの異常を主張し続けている。

 水の中にいる男の右腕、釣竿を持っていた方の手が、小さな裂け目に呑み込まれている。依姫は背後を振り向こうとするも、やはり体が動かない。

 

「高尚な力の依り代……容れ物として素晴らしい適性だ。予想を軽々と超えてきましたよ」

 

 軽快な声が響いた理由は火を見るより明らか。水から再び脱出して、依姫の前に現れたからに他ならない。ただし今度は――嘘のように勢いを失い、崩れ始めた激流の隙間を通り抜けて。

 ご親切にも術を解いたわけではない。精神力や体力を消耗して解かれたわけでもない。そもそも体を動かせないだけなら、何もせずとも発動、維持できる神降ろしの能力が解術される道理はない。体の自由を奪う攻撃を受けたのではない、内面に作用する何らかの力の干渉を受けて、その影響が副作用のような形で表れたのだ。

 動かないだけではない。全身の力が抜けていく。以前に別の輪廻眼を相手取った際に味わった、体内を巡る力が根こそぎ外へと出ていく感覚とはどこか違う。

 

「釣れましたね」

 

 海へと降り注ぐ大雨に濡れる。小うるさい音が耳元を騒がせる。

 裂け目から腕と釣竿が引き抜かれると同時に、体内に巣食っていた異物感が消えた。やはりそれが原因だったのか、硬直もなくなり、ふらつく体を押さえた。発光する竿から真っ赤な糸らしき物が伸びており、先端の針と思われる部分には、火のように揺らめく球体状の何かが引っかかっている。

 男はそれを手に取り、掌に浮かべると、ぎゅっと握りこぶしを作る。そして開くと、凝縮されたかのように縮んで物質化した、丸薬のように小さな球が表れた。

 

「こんなものはまだ、序の口。苛烈な衝突に発展すると踏んでいましたが」

 

 掌で転がした後、親指と人差し指で摘まんだ男は、それを口の中へと放り込んだ。呑み込んだのだ。

 

「そんなことをすれば、それこそ大切な都を……アナタがたの世界を滅ぼしかねない。ですがその調子では、勝てる喧嘩も勝てない。守りたいものも守れない。無駄死にですね」

 

 唖然とした様子で聞いていた依姫。我に返って太刀を構えると、男を睨みながら神々との対話に入ろうとした。

 じっと感覚を研ぎ澄ませても、自身の霊力が神々の声に呼応する気配がない。早い話、必要な霊力が不足している。供物として捧げる自らの力が、依り代たる肉体に不可欠な条件が欠けているのだ。

 

「これは――…」

「無駄ですよ」男は依姫を眺める。「アナタのチャクラ……霊力を少々分けて頂きました。しばらくはロクに術も使えないでしょう。お得意の『神降ろし』もね」

 

 チャクラ、もとい霊力は時間の経過とともに回復し、失われた分は元に戻る。霊力を生み出すのは生命力であり、その命が続く限りは際限なく溢れ出す。

 そのものではない。霊力の源が何らかの原因で傷つき、正常な働きが阻害された場合は、生成に滞りや不足が発生する。酷い場合は完全に止まり、供給が行われず、普段通りに術を扱えなくなる。研磨を重ねて使い慣れた十八番だろうと、どんなに簡単な術や技だろうと、必要な霊力を欠けば使えない。依姫自身の霊力に基づく神降ろしも例外ではない。

 

「……定石を打つわね。雑なやり方はともかく」

「意表を突く奇策。弱いからそんなものに頼るんです。私には必要ありません」

「傲慢ね」依姫は笑んだ。「負けてないわよ。私たちにも」

「アナタは違うようですね。何もかもを独りで成し遂げる強さを持ちながら、自分自身のために生きようとはしない。弱者を切り捨てず、見守り……後押しをする。そうやって周りを見すぎた結果が――」

 

 皮肉染みた口調で喋り、高みから見下ろす男。

 腰に提げた魚籠に手を突っ込むと、中に入った何かを掴んで取り出す。依姫の表情に明らかな変化が生じたのは、高々と掲げられた『ソレ』を目の当たりにした時だった。

 おかしな翁が釣りに興じていても、玉兎達が倒れ伏しても、因縁めいた眼を見ても、大筒木の名を聞いても、チャクラを奪われても。何をされても芽生えなかったのは一つ、はっきりと形を成した怖れの感情。依姫の体に初めて震えが走った。

 

「そのまま降りかかる」

 

 異様な気配が漂い始める。男を中心に寄り集まる三色の光。

 穢れ切った世に狂喜する色、太古より天高く積み重ねてきた色、そして未知なる境界に跳梁跋扈する色。迫り来る理不尽を前に、依姫は歯を食いしばる。

 同時に動いた二人。目も眩む衝突の中で、閑静な海にはさざ波一つ立たず、鬱蒼とした樹々のざわつきさえ失われていた。

 

 天は堕ちる。地は仰ぐ。邂逅せし双つの異彩は再び入り混じる。

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