視線。同じ目を以って捉えられ、ふと背中に感じることもある、心と感情の現身。
喜怒哀楽を含む六十六以上の感情が心に芽生えた時、人はそれを自らの視線に乗せて、訴えるべき人や物へと向ける。喜びなどの好意的な気持ちは友好的な、憤りや憎しみなどの負の感情は非友好的な視線を形作る。
ありふれた表現が大半を占める中で、少し風変わりな感情が入り混じることもある。憎悪や忌避を通り越した無関心、物事に対する好奇の目だ。どちらにも喜びや怒り、悲しみや楽しさもなく、真っ白な背景が淡々と在るだけ。そこに純然たる感情が内在する余地はない。
この場所は異様だ。何がと言えば、真っ赤な『目』だろう。薄明るい空間中に散らばり、瞬いて止まない無数の目。見渡す限りに広がり、無感情に見開かれ、絶えず向けられる視線。どこに居ても同じ数、同じ目から、同じモノを浴び続ける。死角という名の隠れ蓑は存在しない。
――後者。この視線は好奇の眼差しだ。自らが信じて止まない常識の世界から放り出し、欠片も残さず捨て去った、非常識的な物事に対する好奇の表れ。全てを否定し、忘れ去り、消し尽くしても、興味関心までは捨て切れていない。僅かな隙間を探して覗き込もうとする。ゆえに視線は時代が変遷しても一向に減らず、その目は延々と瞬き続けている。
どれだけ深くまで覗き込み、手を触れようとしても。踏み入ろうとしても。覗き込む目が消えることはない。自らの常識を絶対のものとし、それ以外を信じようとせず、受け入れようとしないのだから。非科学やオカルトなる言葉や表現で括って遠ざけ、非常識なものとして拒み続ける限り、その楽園に辿り着くことは永遠にないだろう。
(…………)
客観的な視点を持ち、物事を偏見なく公平に見られる者を百人、千人と集めて問うたところで、おそらくは全員が口をそろえて答えるだろう。この光景は普通ではないと。
空も海も山も、森も川も家々も、星さえも瞬かないなど、人間はおろか妖怪でさえ見知った景色には程遠い。現実の世界とは差異がありすぎる、という言い方も含めて、二つの意味で異様な空間。まさに異空間と呼ぶに相応しい。
ここは文字通りの場所。隙間の妖怪と異名を持つ、境界の妖怪が作り出した異空間。いわゆる『スキマ空間』。現実世界とは隔絶されており、管理者であり支配者たる彼女以外、何者も入り込めない専有空間でもある。
「それで――」
深みのある落ち着いた声の主は、ゆったりと立つ一人の少女。
肩にかからない長さの金髪に金色の瞳、白と青を基調とした漢服のような服装。もふもふとした九本の尾が揺れている。見るからに触り心地がよさそうで、勢いよく飛び込んでもふり、毛布代わりにもこもこと包まれば、快適な睡眠が約束されるだろう。上手く使えば本人の寝床にも早変わりする、かもしれない。
長きを生きる大妖・九尾の狐は、式神・藍としての面を持つ。境界の妖怪・八雲紫から八雲の名を授かり、直属の式として動く人物だ。彼女が特別な扱いを受けるのは、数ある妖獣の中でも最上位の力を持つ大妖怪、という簡単な理由もあるが、他の式達にはない能力を持つからでもある。
尖った獣の耳を生やす少女が二人、傍に控えている。自身も式神である彼女の手足となる、さらに下位の式神だ。主とする紫から見れば式の式、手足に生えた手足。つまり藍の部下である。
「他は? どんな感じ?」
「似たようなものでした。目に留まるほどの違いはありません」
「ふうん……こんなもんか」
自身の手足となって動く部下。式を使って集めさせたものが目の前にある。
三人が見下ろすのは、着物姿の人間の男女。数にして五人。水中を漂うように仰向けで浮いている。
神隠しの主犯たる妖怪の術中ではあるが、格好から分かるように外来人ではない。食糧として外の世界からさらってきたのではなく、人間の里から連れてきた在来人。意識がないのは妖術を用いて眠らせたからで、肉体的な損傷も精神的な摩耗も一切なく健康そのもの。用が済めば無傷で里へと帰す予定だ。
妖怪に襲われたと指摘を受ければ言い返せない。人間が大好きな半獣の耳に入れば、物理的な意味で石のように硬い頭部による、強烈な頭突きが炸裂するだろう。それも含めた面倒ごとの多さ、調査の段階で事を公にすべきではないとの判断により、一連の動きは裏方たる妖怪達の間で秘密裏に行われた。
「どういうことなんでしょう? これって」
「こら」静かにたしなめる藍。「式が余計なこと考えない。命令外よ」
「あ、すみません。つい……」
式神は基本的に思考しない。主によって命令系統に組み込まれない限り、下された命令だけを無心に淡々と遂行する忠実な手足だ。秘神のように思考そのものを奪い取り、心まで完全な支配下に置くほど縛りはしないにしろ、意図しない行動は命令違反。軽度なら口頭での注意、常習犯にはきつい仕置きが待っている。
式神を完璧に使いこなすのは至難の業だ。強大で名のある大妖怪だからとか、頭がいいから、というだけで解決できる問題ではない。藍の場合、妖怪としては強い力を持つ一方で、式を扱う術者としては成熟していない。自ら制御する式が時折、命令を無視した行動を取るのが何よりの証拠だ。そもそも幻想郷を創った賢者の一角に数えられる紫でさえ、式神としての藍を完全には制御し切れていないのだ。それが原因で殴る蹴るの暴行、もといお仕置きを受けた回数は知るところではない。
なればこそ、御し切った時の恩恵は途轍もなく大きい。目的を達するまでの行動には一切合切、不確定な要素も数分の狂いも生まれず、主たる妖怪と同等の力を発揮できるため、主人が実力で劣らない相手には絶対に負けることがない。高位の神霊が扱う分霊の術にも匹敵する高度な術である。
「ま、仕方ないけどね。これじゃあ」
命令違反は主人の未熟さゆえでもある。それに今回ばかりは仕置きも不要だろう。この人間達を取り巻く異常性を目にしては無理もない話だ。思考を許可する命令を追加したり、術の縛りを解いて妖獣に戻すのも選択肢。
必要な命令は完遂できたのだ。藍は「いいわ」と穏やかな表情で言う。
「聞きたいことは?」
「はいっ!」もう一人が元気よく喋る。「どこがヘンなんですか? こいつら」
「全部よ」
冷静な即答。正常なら連れてなど来ない。当然の話だ。
どの辺が異常かと訊かれても、はっきりと断言するためには、その真相も含めて具体性を欠き、現時点では材料が圧倒的に足りない。必要な情報を集める段階だ。
「この人間たちはね、怖がっていないの。私たち『妖怪』を」
「え?」
ありのままを言うなら、これら里人がいずれも――妖怪をなんとも思っていないこと、だろうか。
――「妖怪をなんとも思っていない」。事情を知らぬ者が聞いても意味不明だろう。そこに『人間』と『畏怖』という二つの単語を付け加えて、少しばかり言い方を変えれば分かりやすい。すなわち、「畏怖すべき妖怪を、人間がなんとも思っていない」となる。一例として連れてきた五人は、妖怪への畏怖心を抱いていない。それが答えである。
妖怪や神霊は元来、畏怖心や信仰に敏感だ。自分達の拠り所というだけあって、食べ物に執着する人間などよりも遥かに。ゆえに畏怖を喰らい、糧として生きる妖怪は基本的に、人間が自分達に怖れを抱いているか否か、その程度に関しても大まかに把握できる。というより本能的に感じ取る。ぱっと見で分かることもあれば、腰を据えて観察しないと分からない場合もある。
該当する知覚が特に鋭く豊かなのは、妖精や面霊気、覚妖怪など、人の心と密接に絡む種族のほか、竹林の兎など自前の能力で読み取る者や、物事の境界を操る八雲紫もいる。主人の命を受けて起こした行動である。
「怖がらないって……なんですかそれ。ありえるんですか? そんなの。我々を怖がって崇め奉るのが人間の役目じゃあ……」
「事実は事実。反証には材料が足りないわ」
「え、それって。どの程度……ですか?」
僅かでも在れば問題はない。生き物には認識できないほどの、限りなく無に近しい生死の概念、忌み嫌う瑕穢が内在していてもなお、天津の民達が永遠に等しい寿命を保ち続けているように。
妖怪が生きるために必要な分を、数字に強い式神らしく具体的に数値化するなら、百のうち四十もあれば余裕がある。三十九から十以下に急落し、一桁に落ちても計算上は足りる。裏方たる管理者達を動かすほどの事態ではない。
「全く」藍は素っ気ない。「ぜろ。未満かもね」
小数点もない『ぜろ』――全くの皆無だった場合。怖がらないを通り越して無関心の域であれば、マイナスに振り切っていると言ってもいい。情報がない段階ではあれ、逆を言えば僅かな判断材料だけで予測できるほど単純で分かりやすく、厄介極まるということだ。
畏怖や信仰を糧とする妖怪、神霊にも怖れの感情は在るものだ。人間だけではない。自覚の有無にかかわらず、心や感情を持つ者なら誰しも持っている。数ある妖怪の中で最強の種族と名高い鬼にも、鬼を含めた妖怪達から鬼神や外道と揶揄される博麗の巫女にも、地上の生き物を寄せつけない強さを誇る月の民にも、藍が主とする八雲紫にも怖れはある。それが存在しないとはつまり、感情以前に心を持たないことになる。
言わずもがな、里人にも当てはまる。当てはまらないはずもない。感情も心も失った人もどき、生物ですらない傀儡のように、恐怖も何も感じていないなど。
「ですが」一人目の少女が口を開いた。「ここにいるのは一部です。まだ多数の……」
「ええ。それが厄介」
連れてきた五人だけではない。この件を受けて綿密な調査を実施した結果、里における全人口の約三パーセントほどが不可解にも同じか、酷似した状態にある算出となった。数字だけを見れば少なくも感じるが、数は一向に減らないどころか、増加の一途を辿っている。
現場となる里を中心に多くの式神を放ち、現在も調査は続けられている。彼らとの交信は自動化され、術を通して向こうと繋がっており、情報のやり取りはリアルタイムで実行中。膨大な情報が絶えず舞い込み、既存の物と分けたり、照合して事細かに精査し、必要な形に繋ぎ合わせる精密作業の真っ最中だ。処理が終わるまで時間がかかるだろう。
「異変……じゃあないですよね、これ。さすがに」
不安げに喋る二人目は、主人の命令に忠実である一方、お世辞にも賢いとは言えず、おっちょこちょいである。妖怪としての力量も低い。それでも八雲に仕える式であり、幻想郷を裏側から守護する妖怪の一人として、他の妖怪が持たない立場と役割を担う。
だから此度の異変が、普段の見慣れた『異変』の予兆ではないだろうと、即座に察して呑み込むことができた。煌びやかで華やかな弾幕が飛び交うことは決してないだろう、と。
「違う定義なら」藍は二人を見やる。「むしろぴったりだけど。もっと深いところ……根っこにかかわる問題」
忘れられし者達の楽園・幻想郷が現在の形を保つのは、共存の道を選んだ人間と妖怪の数的な均衡があってこそ。異色の天秤がどちらか一方に傾けば、双方の均衡は崩れ始め、在るべき世界の形は失われる。
――妖怪とは人の心が生んだ畏怖の象徴。人間と争い合い、生命を脅かし、怖がられ、心を食らう生き物。妖怪としての存在意義はそこにある。ゆえに争いのない平和な世は意義に逆行し、妖怪の在り方を根本から否定する。その存在を否定されれば、妖怪として在り続けることはできず、その力も意義も失い、やがては滅び往く。争いなき世界の実現とは、彼らが彼らでなくなるということだ。
翻って妖怪達が、自らの存続のためにと欲望のままに争い、好き勝手に暴れ続けていれば、巻き込まれた脆弱な人間達は我先にと命を落とし、その均衡はやはり崩れ去る。生きるための糧を失った妖怪達も同様に。
いずれの道も先に待つのは滅びのみ。平和と争いを一括りにしても矛盾を生み出すだけだ。
人と妖怪達は思案した末、相反する二つの定義を置き換えた。従来の殺し合い、傷つけ合うための戦いを、競い合うための闘いへと変えたのだ。それこそが弾幕を用いた命名決闘であり、人も妖怪も平和的かつ対等に、心置きなく存分に争い合える遊戯。今の幻想郷の根幹をなすものだ。
この遊びを用いた争いこそが、幻想郷において『異変』と呼ばれるものだ。妖怪が異変を起こし、人間が解決することで、ひとつの争いの構図を作り出す。端的に結論を言えば、双方ともに数を減らすことなく、共存という形で生きていける。
「妖怪は生き延びるために異変を起こすのよ。自分たちの首を絞めるなんて、大馬鹿もいいところ。捻くれた物好きでも、したがらないわ。そんなこと」
異変とは命名決闘法に基づき、両者が共存できる世界を、楽園たる幻想郷を存続させるための唯一の手段。人間達から畏怖や信仰を取り上げ、妖怪の生命線を消し去り、自ら天秤を傾かせるどころか、粉々に壊し尽くす愚行を異変と呼ぶならば、その定義はもはや意味を成していない。この世界を滅ぼす禁忌に他ならない。
過去に起こされてきた異変の数々。命名決闘を用いたものの中で、一世界の存亡にかかわった例など一つもない。どのような捻くれ者、悪党が黒幕という立ち位置に座そうとも、弾幕と札で勝敗を決する遊戯に皆が興じてきたのだ。
「我々の意志ではない。何者が」
一人目の式が怪訝な表情で言う。平和と秩序を破壊する異変は、平和的な遊びでは解決できない。かつての吸血鬼や月の騒動のように、冗談抜きで命のやり取りをする破目になる。郷に入っても郷に従わず、幻想世界の在り方さえ揺るがす輩が、合意の上で行われる決闘を「はい分かりました」と律儀に了承する道理はない。前例となった騒動が証明している。
「人間たちの怖れは生命線……妖怪の力は衰え、守るべき均衡も揺らぎかねない。一刻も早く原因を突き止めて……」
式神の術が一時的に解かれて以降、真面目に何度も考えを巡らせている一人目の式に、二人目が少々抜けた表情で「うんうん」と相づちを打つ。妖獣にも力や知能の面で個体差はあるが、命令通りに動く式神として扱う分には何の支障もない。結果を決めるのは主人の頭脳と力量だ。
藍の視線が里人達へと戻る。緊張した面持ちで佇む二人とは裏腹に、口元には妖しい微笑。眠り続ける一人に手を伸ばすと、指先で胸部をなぞるように触れた。金色の目が細くなる。
「感じないのね。貴方たちは」
里人から目を離さないまま、藍はぽつりと唐突に呟いた。魅入られたように動かず、沈黙していた二人はビクッと反応し、額に汗しながら慌てて注目した。
開きかけた口を閉じると、疑問に満ちた表情で近寄る一人目の式。二人目は手の指を重ねて窓を作り、小声で何かをぶつぶつと唱えて穴の奥を覗き込んだ。しかしすぐに目を瞬き、首をひねる。直後に「何がです?」と一言。
「妖気」
「『妖気』?」一人目が驚いたように聞き返す。「人間に、ですか? 私には何も……」
妖怪の体内を循環する内的なエネルギー。妖力とも言うが、厳密にはもとになるエネルギーだ。
人の身を外した者、妖怪が妖術や技、つまり能力を使うために必要な材料が妖力であり、妖気はそれを作る原料。自らの妖気から妖力を生成し、能力に変換して物質や現象を引き起こす。霊力や魔力など、性質の異なる物も仕組みは似ている。
妖気は原形がなく変化しやすい分、能力が影響を与えた人や物、場所、空気中に微細な粒子として散らばり、残滓として長く残りやすい性質がある。姿をくらませた妖怪を捜索する際、本人が残した妖気を辿って追跡する方法は、その性質を利用している。繊細で鋭敏な感覚を持つ者なら、特殊な気配という形で感じ取り、特別な目を持つ者なら視認することもできる。
「無理もないわ。欠片にも満たない残滓だからね」
一介の妖獣に過ぎない二人には、生物の気配や物音を敏感に聞き取る耳がある一方、微細な妖気を掬い取り、精確に感じ取る力までは持たない。妖怪の中では本質が肉体の方に偏る分、妖気などの精神的な力に疎いからだ。曰く里人の体から感じるらしい妖気の存在など、指摘を受けるまで全く気づかなかった。
だが提起すべき問題は他にある。人間に妖気がある、ということだ。妖気を宿す生き物は妖怪だけ。もちろんこの手の話には例外が付きものだが、ただの里人には該当しない。この五人は里に住む普通の人間だ。
「うーん」あごに手を当てる二人目。「こいつら全部、実は妖怪でした~……とか? それか人妖。怖れやらなんやらの説明もつきますし……」
「なんでそうなるのよ」と、一人目が突っ込む。「残滓ってんだから。その時点でおかしいでしょ」
「あ、そっか。うっかり」
式の少女が口にした『人妖』とは、何らかの方法を用いて妖怪と化した人間。比喩でも何でもなく、本当に人の身を外した元人間である。
里人の妖怪化は、人と妖怪の数的な均衡を揺るがし、一世界の形を歪める行為であるため、幻想郷においては固く禁じられている。その禁忌に触れたら最後、バランサーである巫女がすっ飛んできて、か弱い老人だろうが幼子だろうが、占い師だろうが、無慈悲に問答無用で叩き潰される。魂ごと跡形もなく消え去るため、生まれ変わることもできず、完全に消滅するという悲惨な末路を辿る。人も妖怪も、善人も悪人も全てを平等に抱擁する楽園が受け入れない例外だ。どこぞの魔法使いも危うい。
妖気は妖怪の内を巡り、体の中に満ち溢れている。残りかすしか持たないなど妖怪の体を成していない。内在している状態だけを言えば、あながち的外れでもない予想ではあるが、この場合はむしろ、外的な要因と考える方が自然だ。
「血迷ったどこかの“妖怪”が原因を作った……その妖気が、残りかすとして体内に残っている。とするなら――」
「そう」藍が微笑む。「残された妖気の持ち主が誰か。そこから辿らないとね、まずは。細かいことは抜きにして」
里人達の体内に残る僅かな妖気、ひいては妖怪との関連性。確証はなくとも疑ってかかるには十分すぎる『異常』だ。人間が妖気を持っている――否、どこぞの不届き至極な妖怪と接触した痕跡が目に見えて残されている、というだけでも理由として足りる。畏怖を失った里人など万が一にも捨て置けない。
そのたった一つを除けば、不審な点など一切見受けられない。今この時にも里は平和そのものだ。里人達はいつも通りの日々を過ごしている。この五人も目が覚めた後は普段の生活に戻るだけ。
何も変わりようがない。変わるべきではないのだ。
「つまり」二人目が恐々と喋る。「“裏切り者”……ってことですよね? 私たちから見たら」
「そうなるわね」
裏切り。幻想郷に住まう何者かの仕業であれば。その行いだけを指すならば、表現としては的確だ。言い訳や擁護のしようがない。
里人達の畏怖や信仰の心は、全ての妖怪や神々にとって重要な意味を持つ。それを失うことがどれほど重大で、凄惨極まりなく、天に唾する愚行であるか。どのような結果をもたらすのか、彼女らは重々承知している。人騒がせではた迷惑な異変が幾度となく起きても、決して触れられなかった禁忌なのだから。
数か月前。朧月の一夜をもたらした罪深き者は、外より流れ着いた一人の異邦人によって滅ぼされ、無へと帰した。
此度のタチの悪い、新たな火種を撒き始めた何者かがいて、今もどこかに身を潜めているならば。重すぎる代償を支払うことになるだろう。場合によっては妖怪化などよりも深刻な事態に発展しうる。
「…………」
護り護られる民への、世界そのものへの反逆。人間も妖怪も全てを敵に回すことになる。
たとえ親友や恋人、血の繋がった家族、返し切れない恩を受けた者であろうとも、命をかけて守るべき要には代えられない。ようやく手にした居場所を失うわけにはいかない。
常に幻想郷のためを考えて行動を起こす。一世界を守護する裏方としての責務に、個人の事情も感情も介在する余地は一切ない。それが管理者なのだ。
「この五人」一人目が藍を見やる。「人体に外傷もなければ、記憶もないようで。おそらくは自覚や違和感も。こんなことができるのは……」
畏怖は個々の感情や心そのもの。精神面に多くの弱点を抱えた肉体派が大半となる妖怪の中でも、精神的な干渉を行う能力を持つ者は何人もいる。生き物の内面に入り込み、精神を破壊して再起不能に陥らせるだけなら、そこまで難しくも稀有でもない。だが里人達に気づかれず、妖怪達をも欺くとなれば、数は相当に限られる。
能力の精度が高いとか、使い方が巧いという次元の話ではない。何らかの決定的な要因が他にあるはずだ。でなければ事が起きる前に原因を突き止め、仇なす者を見つけ出して処分し、事態は疾うに終息している。家でゆっくりお茶でも飲んでいた頃だろう。
関連する者を中心に洗えば、的はかなり絞れるだろう。僅かに残留する唯一の手がかりをもとに。
「じゃあほら、さっさと運ぶわよ。あまり時間はかけられないわ」
「はいっ!」
元気よく返事した二人。藍はそう言い残すなり、二人に憑依させた式神を再起動する。新たに組み込まれた命令が実行され、手足となる式神達は里人を連れて姿を消した。
辺り一面に広がり、瞬き続ける赤い目。無数の視線は一人残った藍へと注がれているが、遠い目をする本人は意にも介さない。
「不吉な予兆、嫌な予感……この気持ちは貴方のものですか?」
ふと口を衝いて出た呟き。返事はなかった。
藍の表情は変わらず、背後に開いた空間の裂け目に身を預けると、もたれかかるように中へと沈み込んでいった。