寺子屋。人間の里のほぼ中心部に位置する手習い所。里の子供達が毎日のように出入りし、幻想郷や外の世界の歴史について学んでいる。
「ふむ……」
落ち着きのある小さな教室。畳は張り替えたばかりで真新しく、使い込まれた生徒達の机が几帳面に並べられている。授業の開始時刻は過ぎているはずが、人数分の勉強道具やかばんが置いてあるだけで、座布団の上に子供達の姿はなく、奥にある教壇にも誰もいない。
開け放たれた障子、縁側から差し込む明るい陽光。そこから中庭を見やれば、敷地を端から端まで囲む白い塀。傍には立派な松の木が等間隔に並んで立ち、合間の休憩時間に外を駆け回る風の子、元気な生徒達を見下ろす。そんな姿を柔らかな表情と、優しげな眼差しで見守る女性が一人。
温かな縁側に腰かけ、書物を膝に乗せて読みながら、視線が時折に中庭へと向く。艶やかな長い銀髪、所々に入る青の網目。青色の衣服、開いた胸元の赤いリボン。五重塔の上の部分を模したような形状の帽子を頭に乗せている。
その隣に座るおかっぱ頭の女の子は輪に加わらず、絵本を読むのに夢中だ。
「楽しそうだな……授業の時よりずっと」
ほんの少しだけ物憂げなため息。知識が豊富な賢人でも――否、だからこそ悩みの一つや二つはある。自身が受け持つ歴史の授業である。
生徒は十にも満たない幼子が多い。やんちゃな子や礼儀正しい子、勉強熱心な子までもが皆、授業中によく居眠りをしたり、ぼーっとしたり、終わるまで延々と頭を悩ませていたり、諦めや見栄で解ったふりをしているのが実情だ。不真面目だったり、頭がよろしくないからでは決してなく、内容が子供にとって難解すぎて意味不明ゆえである。しかしながら彼女には、具体的にどの辺りがつまらないのか、どんなに知恵を絞って熟考しても答えが出ない。人ならざる血を持つ者ゆえの宿命だろうか。
寺子屋で教鞭を執る半人半獣、上白沢慧音は賢い人物であるが、教え上手とはお世辞にも言いがたい。物理的な頭の固さもなかなかのもので、宿題を忘れた生徒に罰としてお見舞いされる頭突きはかなり痛い。翻って人間への愛情が深く、真面目で心優しい性格であるためか、子供達からは慕われており、親御さんからの評判も良好。この寺子屋に、そして里にもなくてはならない人物だ。
ちなみに里には妖怪が出入りし、住み着いてもいるので、変化した妖怪が混じることもある。本人が気づいているかは定かではない。
「よーし! 次はこいつだっ!」
少年の声が元気一杯に響き渡る。退屈そうな目に光が戻り、生き生きとした様子で外へと飛び出したのだ。言動と勝ち気で得意げな笑いを見るだけでも性格は分かりやすい。今は中庭のど真ん中に堂々と仁王立ちし、周りを他の子供達が囲んで興味深げに眺めている。
ポケットの中に手を突っ込んで何かを取り出す。手のひらで覆うように持つと、右足を後ろに下げつつ構えを取り、勢いをつけて地面へと叩きつけた。それは小さく薄い木札で、もう一枚の真上に重なるも、これといった変化は起きない。足元には何枚もの木札――『めんこ』が散らばっている。
子供の遊びではあるが、少年に言わせれば男同士の真剣勝負。互いの存亡を賭けた血戦だ。楽しい遊びや夕食のことばかり考えている授業中とは異なり、いつにも増して真面目、本気の態度で臨み、全神経を集中させている。
「チクショウ、ダメかっ!」少年は悔しげに歯噛みする。「えーい、兄ちゃんの番だ! どっからでも来いよっ!」
勝負は一人では成り立たない。対戦相手となるもう一人が、この場で少年と相対していることになる。分かりやすい言葉を使って表現したのだ。
少年以外の生徒は全員、闘いの行く末を傍から見守っている。つまり当事者ではない。子供同士の勝負でなければ、相手は大人となるわけだが、慧音の姿は縁側に在る。呼び方にしても、女性であれば『姉ちゃん』の方が自然かつ適切な言葉選びであり、そもそも生徒達は教師である慧音を『先生』と呼ぶ。その先生を誤って『ママ』や『お母さん』と呼ぶ子供もたまにいるが、どう間違えても『兄ちゃん』とは口にしないだろう。
などと無駄に考えるまでもない。一目見れば分かることだ。主張せずともされている。されまくっている。
「いいだろう。本気の思いは伝わった……ならばこちらも全力で行くとしよう」
少年はグッと拳を握り締め、緊張した面持ちでごくりと唾を飲み込む。
懐から取り出した丸い木札を構えると、オビトの目が開いた。緩やかな動作で叩きつけられ、少年の札がふわりと浮き上がり、円の外へと吹き飛ばされる。くるくると何度か回転した後、地面に横たわった。
姿勢をスッと正したオビトは、静かに腕組みを戻す。少年は落雷が直撃したかのような表情で唸り、この世の終わりかのごとく頭を抱えた。表面に描かれた団扇模様が二人を見上げている。
「うわあっ、また勝っちゃった!」
「これで七連勝! いいぞぉー!」
「おお~……」
「すごい! まさにめんこの王様だね!」
「ふん。少しは見所がありますわね」
「やりすぎじゃぞ、お前さ~んっ!」
「芸術だぜ! うん!」
「ゼンブを見通した動き! 痺れるってばよ!」
「私、煎餅食べたくなってきた!」
子供達は口々に驚きの声を上げる。白熱した盛り上がりだ。歓声を受けたオビトの方は、終始にこりともせずに黙って立ち、連敗して膝を着く少年の姿を映すのみ。
悔しさが込み上げ、感情を押し殺すように歯を食いしばりながらも、少年の口元から笑みは消えない。熱意は掻き消えず、むしろ心の内から湧き上がる喜びが、悔しさや苦しみを押し負かせ、凄まじい力が体中から湧き出す。やる気が満ち溢れて止まらない。誰にも止めることはできない。
「いいぜ――…いいぜっ! いいぜ兄ちゃんっ! こうでなくっちゃあ面白くねえ! 何回も、何回もっ! 何回だって負け続けた分だけ、勝った時の喜びはデカイんだからなっ!」
地面を踏み鳴らし、雄叫びを上げる少年。周りから歓声が上がる。
立ちはだかる巨大な壁。体も単純に大きい。だが少年は窮地に挫けず果敢に立ち向かう。
「諦めねえ……百回やられたって立ち続けてやるっ! それが俺だからよっ!」
「よく言った」オビトはフッと笑う。「それでこそ倒し甲斐があるというもの……何度でもかかって来い」
手加減などどこ吹く風、子供相手でも容赦なし。一見すると大人げなく映るかもしれない。
しかしながら、だ。めんこをただの遊びとは思わず、男同士の本気の決闘と見る少年にとって、年齢や経験の差を理由とする慈悲など望んでいない。この状況で手を抜くのは侮辱以外の何物でもない。その思いを汲んだオビトに勝負を汚す気など微塵もなかった。
――めんこ。奥深い遊びだ。妖怪達の流行りごとを弾幕とするならば、人間はめんこと言っても大げさではない。厚紙や木片さえあればどこでも火ぶたを切る手軽さもある。体の動きや姿勢、柔軟性、力加減、角度、速さ、呼吸、タイミング、周辺環境などの外的要因も考慮しつつ、様々な条件と照らして最適な状態を見極める必要があるため、何も考えず力任せに叩きつけても勝ち星はまず出ない。
遊び方は簡単だ。地面に置かれた相手の札に、己の持ち札を叩きつける。相手の札をひっくり返すか、下に潜り込むか、場外へと叩き出せば晴れて人生の勝利者。できなければ負け犬。理解に苦しむほど複雑なルールは一切なく、あったとしても子供達には適用されない。勝敗も重要ではあるが、何より楽しむことが第一である。
「のうのう、お前さん。何ゆえそうも強いんじゃ?」
茶髪の少女がいつの間にか横に居り、袖をくいくいと引っ張りながら、鼻歌交じりに甲高い声で問いかける。オビトの視線が向いた。
「この薄さだ。形も似せられる」
「ほう?」
「団扇や煎餅を思わせる……めんこはな。それが訳だ」
「意味が分からん」
視覚的、形状的な類似性は関心を惹きやすい。全くの別物でも、意識は自然と向き、己が好意的と見なす物事と重ね合わせ、あたかも同一のように扱う。その気持ちが『めんこ』という形で表れたに過ぎない。貸本屋で借りた何冊かの本も無駄にはならなかったようだ。
暫し考え込む少女。次の木札を手にした少年が、準備万端という様子で勝ち気に笑み、それに応えたオビトも構えようとした時、傍から見ていた少女が「のう」と待ったをかける。
「ひとつ提案なんじゃが……この勝負、儂に預けてもらえんかのう?」
背丈は少年や他の生徒達と変わらない。容姿は完全に幼子だ。その割には妙に落ち着きがあり、古風な喋り方をする。達観した言葉を隠そうともしない。
急な提案の相手はオビトではなく少年の方。自分が勝負を引き継ぎ、代わりにオビトと闘う意志を表明したわけだ。カチンときた様子の少年は「んだと?」と睨みつける。
「男の勝負に水差すってのか? すっ込んでろっつーの!」
「今のお前さんじゃ千回やっても勝てんよ。精進せねばな。逸る気持ちも解るが、時には我慢も大切じゃぞ」
「うるせー! やってみなくちゃ分かんねーだろ!」
「儂なら勝てる。そう言ってもか?」少女は得意げだ。「なあに、時間はとらせん。一戦で十分じゃよ」
負けず嫌いな少年としても、相当に痛いところを突かれた上、「かもしれない」を通り越してはっきりと断言した少女の、自信たっぷりな――否、勝利して当然と言いたげな、強気の姿勢は予想外だったようだ。ふつふつと煮え滾り、燃え滾っていた熱意を上回り始めたのは、意気揚々と割って入った挑戦者への好奇心。
根拠の有無など少年の頭にはない。生意気な宣いに釣り合う実力を持ち、自身が連敗に帰した分厚い壁を打ち砕くのか否か、純粋に興味が湧いて出たようだ。相対するオビトの方も、少年が納得した以上は何も言わず、動向を見守ることに決めた。
「おもしれー」少年は鼻で笑う。「そんなに言うんなら、やってみろよ? どうせお前じゃ俺にも勝てねえ……兄ちゃんにゃ勝てねえってこった。デカく出たって恥かくだけだろーぜ!」
びしっと少女を指さした後、勝ち気な顔を向けたまま後ろに下がる少年。代わりに進み出る少女の手には、すでに木札が握られていた。煙管をくゆらせる狸の絵が描かれている。
対峙する二人。観衆が盛り上がる中、少年はオビトを全力で応援。少女は大人びた目つきでふふんと見やる。
「儂はこう見えても、この中じゃ……いんや、この土地で一番できると自負しておる。お前さんに教えてやろう――世界の広さというものをな」
嫌でも気にかかる目つき。声や立ち振る舞いだけではない。お山の大将、井の中の蝦蟇――そういったものを映す目だ。
只者ではない。面と向かい合うだけでも感じる途轍もない圧。見下ろしているのに見上げているか、見下ろされているような感覚。掌の上に乗せられている気分だ。
足元には連戦無敗を誇る団扇模様の木札。周囲が固唾を呑んで見つめる中、少女はゆらりと身構えると、カッと目を見開いた。指でそっと撫でるように、踊るような動作から繰り出された札は、遅回しのように宙を漂う。
「なに……?」
唖然とした表情のオビト、少年は同時に声を上げた。構えを戻した少女は腰に手を当てる。
一瞬の沈黙。直後に歓声が上がる。宣言通りの決着は場外でも裏返しでもなかった。地面に置かれたオビトの札の下に、叩きつけた札が潜り込んでいる。突如として名乗りを上げた伏兵、眈々と機を狙っていた黒幕によって、不沈と思われた連勝記録は呆気なく途切れたのだ。
だが一回だけ。たった一度の負けで諦めを口にするのは愚かだ。そう思ったオビトは早々に切り替えて攻勢に転じると、少年の声援を受けながら勢いよく札を放つ。
「クッ……」
結果は同じだった。力加減も角度も、タイミングも全てが完璧に思えた動きだったはずが、少女の札はぴくりともせず、下に潜り込むこともなく。オビトを前に全く動じていない。
「ふっ。未熟者め」
「まだだ――」
よろめきながらも再び立ち上がる。食わされた敗北の味、立ち塞がる巨影に臆さず、次の木札を取り出して勝負に臨んだ。臨んだのだが。
「何度やっても変わらんよ。儂とお前さんとでは年季が違いすぎるのじゃ。そもそもな」
十分は経った。神威の連続使用時間が両目ともに切れる頃だろう。これまでの連勝が嘘のように、負けに負けを重ねて見事に十五連敗。勝ち誇った表情で腕を組む少女とは対照的に、限界を迎えたオビトは息が上がり、片膝を着いていた。もの凄く応援していた少年の方は、両膝を着いたままうな垂れ、「くそぉっ!」という叫びとともに拳で地面を殴りつけた。
そう。とんでもない強者の出現によって、二人はそろって崖っぷちに追いやられた後、デコピン一発で容易く弾き落とされたのだ。敗者達がうごめく真っ赤な大海に。這い上がれないほど深き底へと。
「ここまでの差か……なるほどな、今のオレではどうやら……この辺りが限度一杯のようだ。底を見透かされるとはな……」
「ふぉっふぉっ。精進するがよいぞ」
周囲から驚きの声が次々と上がる。連勝記録を瞬く間に伸ばした、めんこにて最強と思われた手練れが、ほんわかした表情と雰囲気の少女一人によって完膚なきままに叩き潰され、完全なる敗北に白旗を揚げたのだ。予想外の展開に驚愕しない方が無理な話である。
桁違いの強さを誇り、猛威を振るっていた人物が、突然に現れた新顔によって呆気なく沈む。わりと見られる流れではあるが、感受性の豊かな幼子であれば、心に受ける衝撃は大きいだろう。オビトの勝利を確信していた少年にとっても。
「おーい、お前たちっ! そろそろ授業を始めるぞー!」
めんこで盛り上がる子供達へと飛んだ声。遠目に眺めていた慧音先生が腰を上げ、両手を口元に添えて呼びかけたのだ。授業の再開を告げる鐘に代わって。
呼びかけを聞いた生徒達は踵を返し、何人かは急ぎ足で、また何人かは名残惜しげにオビト達を振り向きつつも、わいわいとお喋りしながら寺子屋の方へと引き返し始めた。少年は一人残り、自分を負かせたオビトをも子供扱いした子供、茶髪の少女に一矢報いようと木札を握り締めるが、厳しく目を光らせた慧音先生に捕捉され、名前を呼ばれてぴたりと動きを止めた。聞かん坊も頭突きの恐ろしさは身に染みて解っている。
悔しそうにオビトを見やる少年。見返したオビトは首を横に振り、小さく頷いた。少年は深呼吸して気を落ち着かせると、仕方なしに背を向けて皆に続く。時間切れで終わらなければ、さらに激しい闘いが繰り広げられただろう。
「儂も行くかのう」少女は爽やかに笑いかける。「お遊びらしいお遊び、愉しかったぞ。またな」
くるりと回れ右すると、手を振りながら遠ざかっていき、戻り行く生徒の群れに紛れて消える。此方が口を開きかけた時を見計らい、急に駆け出したように見えた。目で追いかけたところですでに遅し、履き物を脱いで縁側へと上がる子供達の中に、あの姿は見つけられなかった。
手元の木札を懐に仕舞い、寺子屋に背を向けて歩き出した時、オビトの名が呼ばれる。振り返ると慧音の姿があった。
「あの子たちの遊び相手、させてしまったな。ありがとう」
「礼には及ばない。ついでだ」
相も変わらず不器用な返答をするオビトに、慧音は「そうか」と微笑みかける。優しい口調と視線に何かを思ったのか、少し間を置いて「楽しめたからな」と付け足した。
「それよりオレの方こそ、邪魔したんじゃないのか。アンタの仕事を」
「いいのさ。たまにはこういうのも、ね」
里の寺子屋に遥々足を運んで、生徒達と一緒にめんこ遊びに興じていた理由と経緯。知り合いの子供に会いに来たわけでも、本を読んで完璧に覚えた遊びの腕試しでもなければ、大人から見ても難解と定評のある授業内容が気になったり、適当に散歩するうちに辿り着いたわけでもない。あり得る話ではあるが。
縁側で絵本を読んでいた少女が答えだ。本居小鈴という人物が営む、小さな貸本屋の前を通りかかった時、店内から出てきた少女が段差につまづき、前のめりで滑り込むように派手に転倒。泣き出す前に助け起こして話を聞けば、寺子屋へと向かう道中とのことで、目的地まで送り届けた。早い話が成り行きである。
転倒する原因が何かと言えば、たとえ一歩分でも足を動かすこと。その手間がなければ転んだりつまづく道理はない。しかも歩いたり走ったり、空を飛ぶよりも早く到着する。そんなわけで目を開いて数秒後、敷地内のど真ん中に二人して降り立ったところ、ちょうど授業に入る前の空き時間だったらしく、元気一杯で好奇心旺盛な子供達が次から次へと中庭に溢れ出て包囲、隙間という隙間を埋めて逃げ場を失った。
その中の一人、先ほどの少年がめんこ遊び――否、燃える男の決闘と称した真剣勝負を提案したため、偶然にも手元にあった専用の木札を密かに“吐き出して”火ぶたを切った。大雑把な流れとしてはこうなる。
「どうだった? 子供たちとの触れ合いは」
「ヘンな気分だ」オビトは縁側の方を見やる。「人間らしさに驚かされる。妖怪に慣れすぎたせいか……逆なんだろうがな。外来人は」
「ふふ。すっかり『重症』だな、それは」
悪い意味で致命的か否か。なんとも言えないオビトとは異なり、慧音は明らかに上機嫌である。
妖怪の世界に深入りし、数多くの妖怪達とかかわり、感覚が慣れすぎて当たり前の景色ができ上がると、該当する物事は常識の一つとして組み込まれる。心の奥底まで染まり切ってしまえば、覚えるべき違和感や異物感もなくなり、当然のものとして受け入れる。意識を向けるに値せず、自覚さえも失えば、いよいよ取り返しがつかない。今のオビトである。
ただしオビトの場合、必ずしも真っ当な人生を歩み、人として在り続けてきたわけではない。人外の身と化していた時期さえある。向こうで培った知識や経験、常識を何度も塗り潰されはしても、ひとつ残らずとまでは言えない。
そもそも外の世界とは違い、火や雷などの物質や現象を引き起こす忍術や、尾獣を始めとする巨大な生物が当たり前に存在し、認識もされている忍界から見た幻想郷とは、幻と実体の境界の力が規定し作用するほど水と油ではなく、特別な結界を張って概念的に隔絶させるほど非常識的ではない。精々が次元を異にするくらいだ。
「そうかもな……」
色濃い経験がもたらした弊害か、今日では非常識よりも常識、妖怪よりも人間に覚える違和感や驚きの方が多い。それはおそらく、人々にとっては当たり前となる平和な日常を、人として捨て去り、忘れ去っていたことが一番の理由。たとえこの世界に妖怪が居らずとも、同じ感覚が芽生え根づいたに違いない。寺子屋の子供達との何気ない、ほんの小さなやり取りも一つに数えられる。
物思いにふける横顔を見つめながら、慧音の方も少し間を置いた後、「そういえば」と静かに切り出した。
「まだ、あそこに住んでいるのか? あんな外れに」
「ああ」
「もうそろそろ移っても。慣れたものなら、早く打ち解けられるだろう。難しくないはずだよ」
他人とかかわりはしても、自ら近づこうとはせず、繋がろうとしない人間。
隠されたその理由は見通せない。それでも直に顔を合わせ、何度か言葉を交えた慧音には、どのような人間かは分かっていた。分かった上で紡いだ言葉だ。
――異邦人としての身の上。里の住人として、幻想郷の歴史を編纂する一人として、詳しく知る慧音ではあるが、踏み込んだ過去までは知らない。知る由もない。オビト本人が語らず、訊かれても答えず、付け入る隙を見せないこともあり、現在でも裏方にいる一部の妖怪達の間でしか取り扱われない情報だ。
人ならざる特別な能力を持ち、あの騒動の中心的な当事者ゆえにと、ひた隠しにする妖怪達の姿勢は、慧音としても引っかかっていた。自分達にとって常識となる『異変』に関連する物だけが、いつも通りもたらされるだけ。表沙汰にならず、後々に語り継がれる正しい歴史とは見なされていない。幻想郷を形作る重要な一角であり、妖怪の世界における最大勢力とも位置づけられる、鴉天狗を含む山の妖怪達がその件で沈黙を守るのも、それ相応の理由があるのだろう。
まるでそう、異邦人であるはずのオビトもまた、陽の当たらぬ裏側に呑み込まれ、歯車の一つとして組み込まれているかのように――。
「心配ごとはない」
ふと我に返る慧音。気づけばオビトが目を向けていた。顔の右半分に深々と刻まれた傷跡が見える。落ち着き払った声で、口元に笑みはないが、穏やかな目つきだった。
人間の里に築いた活動拠点。ひと気のない南の外れに、いつの間にか居ついて以来、ずっとそのままだ。他所へと移ったことは一度もない。賑やかな里の中心部から離れて暮らす本当の理由が、なるべく人とかかわらず、遠ざけたいがゆえだとすれば、この里を選ぶ理由も意味もない。妖怪への畏怖心を抱いておらず、己の身を危険から護る手段を持つならば、里外に広がる森にでも隠れ住むだろう。どこかの勢力下に入ったり、地底深くに沈み込むのもいい。
今の自身を形作る、これまでの生き方がある。多少の後ろめたさが残るのは、むしろ当然だ。否定はできず、する気もない。
まだ歩き始めたばかりだ。生き急ぐことはない。時間があるのなら、少しずつ歩いていけばいい。一歩ずつでもゆっくりと。
「そうか。よかった」
曇りも揺らぎもない、毅然とした一言だけで十分だった。慧音はそう呟いて微笑むと、今一度にオビトを見つめる。
オビトの視線はすぐに外れ、寺子屋の方へと向いた。
「そろそろって話なら……アンタも戻るべきだな。皆が待っているぞ」
「おっと」慧音はハッとする。「いかんいかん。あの子たちのことを言えないな、これじゃ……」
先生の呼びかけで寺子屋に戻っていた子供達が何人か、教室から二人の方をちらちらと振り返っている。授業を受ける準備は疾うに済んでいる様子だ。
中庭に一人残って話し込み、生徒達を長々と待たせるのは、さすがにいただけない。教育に真摯な教師としての立場に、生来の真面目な性格も重なり、殊更にそう思ったらしい慧音は、少し慌てた様子で踵を返した。
「お前もどうだ。私の授業、受けていかないか? 歓迎するぞ」
「……せっかくだが。止めておこう」
この世界を管理する側の妖怪達と、直接的なかかわりを持った人間として、幻想郷の歴史を本格的に学ぶのも面白いかもしれない。異邦人としての物事の見方は珍しく、忍としてなら前例はないだろう。だが授業を受けるよりは、書物を一人読み耽る方が性に合うのも事実で、気が進まない部分もやはりある。参観日にしれっと混じるのも難しそうだ。
生徒達が勉学に勤しむ学び舎。アカデミー(忍者学校)に在籍していた頃の、時代的にも感覚的にも古すぎる記憶。今となっては所々抜け落ちた、おぼろげな思い出の数々ではあるが、寺子屋と聞いて頭をよぎった景色は、不思議にもあまり色褪せていなかった。
「残念だ」慧音の声は明るい。「何かあれば来るといい。いつでも相談に乗るからな?」
念を押すように言って、最後に「またな」と朗らかに挨拶を残すと、駆け足で建物の方へと戻っていった。
オビトは見送った後、今度こそ背を向けて歩き始めた。
(里の守護者……上白沢慧音、か。慕われるハズだ)
世話焼きで面倒見がよく、教育熱心な先生ともなれば、生徒達から慕われるだけではない。親御さんから高く評価されるのも頷ける話だ。親でも生徒でもない部外者にも親切心を惜しみなく見せた。慧音は里内で人間達から絶大な支持と信頼を得ている、という情報に誤りはなさそうで、その理由も実に分かりやすい。
人間を心から愛し、彼らのために生きているという、聞く者によっては大げさとも取られる情報も目にした。里人達との生き生きとした、幸せそうなやり取りを見ていると、あながち間違いではないと思わされる。
里のために、誰かのために。これまでに見てきた景色と重なる部分は多い。具体例を挙げ始めるとキリがないが、守りたい大切なもののために体を張り、力を尽くす人物と聞いて、真っ先に顔と名前が頭に浮かぶほどだ。
幻想郷に並々ならぬ愛情を持つのが境界の妖怪ならば、彼女は人間と、里という人間の世界を守るために行動を起こす。意固地と言うべき頑なな姿勢と折れない根性で、自らをも顧みずに突き進む。慧音を視ていると思わざるを得ないのだ。
形を成して伝わる想いと明確な立ち位置。彼女と同じ立場であれば、もっと多くをさらけ出せるのだろうか。
「さて……行くか。オレも」
中庭を出て門が見えた辺りで立ち止まる。周りに人の気配はない。
もう一度だけ振り返り、寺子屋の建物を映して数秒後、辺りの空間に歪が発生する。オビトの姿は渦に巻かれて消え去った。