不可思議な黒い裂け目を潜り抜けて、というより藍の一存で強制的に引きずり出された少女を、不意を突かれながらも静かに映すオビト。
「こいつは確か……『夢月』、だったか」
屋敷内で何度か見かけた人物だ。容姿だけでも印象は割と強い。和装と洋装、竹林のお姫様に見る和洋折衷、色々な衣服を着こなす屋敷の妖怪達の中でも、某従者を思わせる格好で過ごす者は彼女一人だ。世話焼きな妖怪曰く、渡り廊下と縁側と離れの拭き掃除、押入れの整頓と布団干しを主に担当する使用人で、枕投げとあやとり、昼寝も得意のようだ。
そしてもう一つ。この世界や幻想郷の住民ではなく、外から連れて来られた『異界人』で、二人目の余所者である立場。その身の上ゆえか本人の性格なのか、他者との個人的なかかわりは持たず、同じ屋根の下でも普段は一人で過ごしている。元より我が強く孤高な生き物とされる、『妖怪』の物差しが通ずる者なら珍しくない。人外なら幻想郷では同じ扱いを受けるだろう。
「相手ってのはまさか……」
「まさか」藍が妖しく笑んだ。「あ、いや。そのまさか。こう見えてぴったりの奴だよ、私よりずっとね」
ぼんやりと二人を見つめる少女。衣服の土埃を軽く払い落とした後、寝ぼけ眼で欠伸して俯いた。うつらうつらとし始める。無防備で無害に見える姿から、オビトは得体の知れない気配を感じた。
無理やり呼び寄せられたこと、直後にぼやいたことも忘れたのか、周りに誰がいても気に留めていない。妖怪も基本は自由でマイペースな生き物だが、夢月は判りやすく絵に描いたようだ。再び目を開けたのは藍の喝が入ってからだった。
「……何か用? 今とっても疲れてるんだけど。狐さん」
「相変わらずだな」藍は素っ気ない。「用があるのは私じゃない。このオビトだ」
無気力な夢月の視線が移り、淡い金色の瞳がオビトを捉える。ぼーっとした表情で暫し眺めたのち、感情の起伏に乏しい声で「そう」とだけ呟いた。
「何かするなら見返りがほしい。タダなら手伝わないわ」
「よかろう」藍は真剣な表情を作る。「夕食の油揚げを一つ分けてやる。特別だ」
人里に古くから在る老舗の豆腐屋。そこでのみ取り扱う油揚げは、形や色、香りや風味、舌触り、どれを取っても完璧で、文句のつけようがない至上の品だ。笠を被った着物姿の華奢な女性が雨の日以外に姿を見せた場合、その人物は決まって変化した本人である。三度の飯より油揚げと言ってもいい。
「そんな特別いらない」即決で拒否する夢月。「ケーキかビスケットの方がいい」
「あれの素晴らしさが解らんとは。しょせんは甘味になど現を抜かす愚物……哀れな」
「食べ物だけならお断りよ。早く帰りたいんだけど、私」
元より物事に対する興味関心が薄く、一方的に連れて来られた夢月が帰りたがるのは当然だが、それは『異界人』との呼び名の通り、屋敷でも幻想郷でもない、仙界や魔界と同じに分類される別世界の方だ。協力の報酬に極上の洋菓子を二千個ほど提供しても、(ありがたく受け取るだけで)納得はしないだろう。
余所者の身で藍達相手に物怖じせず、夢月は堂々とした振る舞いを崩さない。ただの妖怪メイドと見なすにはズレている。ゆえに少しばかり気になった。異界の住民が八雲の支配下に置かれた理由と経緯だ。本人の前で「何者だ?」とオビトが尋ねると、藍は我に返るなり咳払いして「似非メイド」と返答する。
「話してなかったかな? 以前に起きたある騒動の、黒幕の一人でね。その件で多大な迷惑を被った分、屋敷に縛りつけてこき使っているのさ。お仕置きとして」
「……そんな奴が。見聞きした覚えはないな」
あの世界に入り込んで早々に巻き込まれた――否、多くの人や妖怪達を巻き込んだ騒動。妖怪の力と数を維持するための『スペルカード』や、命名決闘法に則らない血戦とも異なる面が見られたために、規模の大きさと別枠に括る意味を込めて『大異変』と呼ばれる異変だ。
それだけに事細かな記憶も色濃いが、格好ばかりのメイドもどきとの遭遇は一度もなく、人伝いに話を聞いたことも、稗田家の幻想郷縁起や他の書物で読んだこともない。悪魔に仕える本物のメイドを一人知るだけだ。その辺の一妖怪に止まる者ならともかく、騒動の『黒幕』となる中心的な人物ともなれば、顔も名も全てを見聞きしていない、というのはあり得ない話だ。普通に考えて別件だろう。
「でも、貴方とのかかわりもある。少なからずね。だからこそ――」
藍が途中で言葉を切る。そっぽを向いていた夢月が、「瞳力」という言葉が出た瞬間に身動きしたのだ。視線を向けたままオビトに近寄り、探るような目つきでじっと見上げた。無関心を薄めたらしい口元が緩む。
「そっくりね」
綺麗な金色の瞳に赤みが混じり、霞のように渦巻く。二度目の瞬きと共に光は消える。
人も妖怪も、神様の命にも等しく無感情で、思うところが少女にはない。その行く末に意識を向けることも。果ては己の存在すらも無我の境地へと追いやる。久遠に等しい退屈な時の流れに身を任せて、終わりなき輪廻に巻かれ続けて止まらず消えもしない。そんな少女が一抹とて関心を覗かせたのだ。
双方を黙って眺める藍を余所に、夢月は遠い目を細めた後、無言で手を伸ばして触れようとするも、指先は体を突き抜けて腕ごとすり抜けた。見下ろすオビトの鋭い目が赤く発光する。
(こいつは……?)
意味ありげを通り越して直球的な言葉を二つも耳にした。それも片方は本人だ。得体の知れない怪しさも理由の一つだが、屋敷の使用人として雑用を任されるだけの、何の変哲もないメイドもどきと見なして終わるには無理がある。屋敷へ来る以前は一度も見聞きしなかったはずが、この夢月なる人物に既視感を覚えたのだ。
沈黙の後、再び口を開きかけたオビトだが、やり取りを見ていた藍が冷静に待ったをかける。
「話ならいつでもできる。お茶でも飲みながらゆっくりと、ね。生き急ぐほどせっかちかい?」
にやりと挑発的な笑みを貼りつける藍。少し前に同じ言い方をした男勝りな座敷童に続いて、刺々しい長髪の男が脳裏をよぎる。
何かとの戦いに備えた修業の一環でもなければ、命尽きるまでの時間が刻一刻と迫るわけでもないのに、のんびりする気が皆無か薄いのは確かである。生き急ぎと思われても仕方あるまいが、実のところオビトに自覚はない。血筋も肉体もチャクラも自分に近しい、藍の言う『せっかち』な男に叩き込まれた性質が無意識に体を動かしていた。
目的を達するには力が必要だ。ゆえに無力な己を良しとするな、脆弱な忍に甘んじるな、力強く堂々と歩き続けろ、と。手にした力を磨き続けて、遥かなる高みを目指すのだ、と。成り代わりが生んだ弊害とも言えようが、他ならぬオビト自身も否定しない考え方ではあった。
(…………)
二人目の顔がずいっと頭に浮かんだ瞬間、何故か強烈な反抗心が湧いて出て、藍の物言いを無性に拒絶したい気持ちが芽生えた。馬鹿馬鹿しさも覚えて抑え切れない。
夢月が屋敷から呼ばれた(引きずり出された)理由が思い出話ではなく、心身に感覚の慣れを戻すための『実戦』絡みであることを思い出したオビトは、出かけた言葉を呑み込んで消し去ると、当初の目的に立ち返って「それで」と切り出した。
「こいつが『ぴったり』って話だったな。オレに」
「ええ」藍の表情が戻る。「精神に強い圧をかけるには最適よ。不向きな私と違ってね」
心身の動きの慢性的な停滞がもたらす『鈍り』。そこに力を加えて動きを正常化させる、鈍りを取り除く作業が必要となる。肉体の場合は体を動かして、精神の場合は体内のエネルギーを燃やして事を成す。身体と精神エネルギーを使ってチャクラを練る時、練ったチャクラを使って忍術を発動する時も相応の負担がかかる。程度の差異を言うなら後者が圧倒的に上だ。負担の大きな術をひたすらにぶつけ続けて慣らす方が、地道な作業だけに時間はかかるが効果的である。
隙間なく丁寧に段階を踏んだ後で、その先も予定は立てていた。だが藍の口ぶりから察するに、術を使うよりも効率のいい方法がある。単純な力の強弱とは異なる要因があるのだ。
「術や技をぶつけるだけ、ではなさそうだな」
「それじゃダメなのさ。あり触れたやり方じゃあ、効率が悪すぎて手間暇が無駄にかかる。徹底して事を成すなら、無駄な部分は可能な限り削いで臨む方が好い。望む結果が欲しいならね」
藍にしても急ぎではない。元より式神の思考回路は、何事にも効率を求めるよう作り込まれており、超人的な頭脳を元に複雑な計算式を無数に組み上げて判断と行動を決定する。このうち前者を引き受けるのは、式神でも本体の妖怪でもなく主人であり、ゆえに式神は自分の頭を使って物を考えることはしない。
この性質には悪い部分もあるが、式神化した者の思考や言動が入り込む余地がないために、主が下す命令に間違いや不足がなければ、疑いも滞りもなく迅速かつ精確に任務をこなせる利便性がある。
「まあ、それ以前の話でもあるんだけど。貴方の場合は」
相手がオビト以外なら適当な妖怪を起用して事足りる。通常のやり方が効果的で、内容次第で最適化されて最高の結果を生むのは、幻想郷において常識の範疇に収まる人や妖怪である場合。力の概念も法則も認識も全てが異なるか、あるいは異なる部分が多くなる、別の次元に位置する『忍界』の住民では不確定な要素が消えない。八雲の主は忍界の民でもなければ、その世界の観測者として十分な知識と経験を持つわけでもない。認識の内にある異界ならともかく、完全なる外側では解らない物事の方が多い。
それだけなら幾分かマシだった。オビトは忍界における常識にも該当しない力を宿す逸れ者だ。妖怪達の間では常識的と広く認識される方法が悉く通用しない。通用したとて微細な隙間や穴、歪みが生じて望んだ結果は得られない。いくら効率を重視して、僅かな手間暇で多くの結果を残したところで、致命的な誤りや不足ばかりでは役に立たず徒労に終わる。
したがって、オビトの場合は自力で為す方が確実と言えるが、同等かそれ以上に手間暇を短縮できる上、確実性も高いと見なせる手段が一つだけ存在する。都合の好いことに近くに。
「手段も効率も全部をひっくるめた、我々にとって未知で非常識なやり方……この夢月ならできるかも、ってね」
――要するに何をするのか。他にはない特別な力を有する夢月と手合わせを行い、その力の影響下に入って精神に負荷をかける。親和性の高い大きな刺激を隙間なく与え続けて精神的な感覚を鋭敏化、さらに継続させて鈍りを遍く拭い去る算段だ。
夢月はうたた寝ばかりの似非メイドではない――数ある異界の一つ『夢幻界』の創造主たる人物であり、幻と現の狭間を支配する外側の神である。かつてオビトと同じ瞳力を宿す者と相対して、天地を揺るがす攻防の果てに討ち取られた異変の元凶だ。
オビト自身のチャクラとの親和性云々はこの件に由来する。心身共に近しい性質を有する者との血戦は、異界の強大な瞳力とチャクラによる影響を、感覚の慣れも含めて夢月にもたらした。この二人の衝突は何かしらの意味を作り出すと踏んだのだ。度合いを言えば彼女の姉の方が相応しいのだが、妹の夢月とは異なり、現在は夢幻界の奥底で深い眠りに就いている。
その力は圧巻の一言で、あらゆる種類の魂に対して無条件に精神干渉を行う高度な能力を持つのみならず、肉体ではなく精神を命の拠り所とする妖や神霊と同じ類でありながら、魂を粉々に破壊されても永久不滅であり続ける――と言えばその通りだが、実際には夢幻界という一世界に全能の神として君臨する場合に限定される。
早い話、ここに身を置く間の夢月は、メイドの格好をするだけの可憐な女の子。幻想郷における妖怪や神との違いは皆無に近しい。その一方で精神干渉の能力に関しては健在であり、この場で力を発揮する分には何の問題もない。オビトの精神に強い影響を及ぼす分には。
「試す価値はあると思うのよ。失敗なら今まで通りでやればいいしね」
鈍りを取っ払うための試みで命の危険はない。やり直しが利いて中止も自由なら試さない理由はないだろう。
説明を聞いたオビトは黙り込んでいる。あまりにも真剣な表情で見返すので、何か勘違いさせたかと勘ぐった藍は、安心させようと愛想笑いを浮かべるも、傍から見た夢月が「怖いわ」と包み隠さず直球で指摘したせいか、直後に口元がひきつった。
「そうか」
夢月の身の上が一度は気にかかったオビトも、藍から大雑把な話を聞いて自分なりに納得していた。藍達がどんな騒ぎに巻き込まれて、どんな戦いを夢幻界で繰り広げて、その果てにいかなる結末を迎えたのか、問いを投げるなり幻術で口を割らせて聞き出す必要はない。道を変えて歩みは疾うに違えている。
それこそ藍の言う通り、温かな日が注ぐ縁側で茶を飲みながら、急がず騒がず雑談や世間話のように、ゆっくりと聴けばいい。
「異存はない。任せよう」
「よし」藍が頷いた。「いきなりもなんだ、軽く慣らしてから――」
本人から同意を得た直後、夢月に向き直ろうとした藍が、異変を察知して咄嗟に飛び退いた。周囲を駆け巡った突風が圧して、無理やり距離を取らせたのだ。
事前に察知できず、出遅れて真正面からもろに食らったオビトは、凄まじい風に巻かれて身動きを封じられた。
(これ、は……)
体が重い。周りの空気が重力にでも変化したのか、尋常ならぬ重さが圧しかかる。
足裏に力が入り、靴跡が短い線を作る。大岩や鉄塊でも背負うかのようだ。この感覚はかつての墓標を思い起こさせる。
――否、錯覚だった。体は軽いままで、物理的な重さではないと早々に気づかされた。体の内側がざわつき、渦巻く息苦しさが重圧を作り出して、精神的な負荷をこれでもかとかけたのだ。
「付き合いはするけど。やるなら本気で、さっさと。ねえ?」
金色の髪を風が撫ぜた。無感情だった少女の口元が広がる。
両手に浮かんだ白い靄が輝きを放つと、一斉に放たれた光の帯が頭上へと向かう。間もなく無数の眩い光線が流星群のごとく周辺一帯に降り注ぎ、轟音と共に大地を深々と抉り飛ばしていく。人間を相手に容赦の欠片もない猛攻を目の当たりにして、鬱陶しげな表情のまま「手荒いぞ」と藍が大声で呼びかけるも、本人は聞く耳を持たず、手を緩めるどころか勢いを増すばかり。止まるところを知らないようだ。
幻想郷であれば、度が過ぎた暴れっぷりを博麗の巫女は看過しない。この世界であれば八雲の妖達が見逃さない。主たる者を除けばその筆頭格と言える藍本人の目の前で、純白の光線やら光弾を遠慮なく派手に撒き散らす夢月は、妖怪達の逆鱗に触れても不思議ではない。しかしながら、藍は文句こそ言えど止めには入らず、周囲を旋回して観察に徹している。
そして彼女がオビトの死を望まないのは確かだ。初めから(ぎりぎり)許容範囲内と認めており、この程度の攻撃で命潰えるとは思っていない、というだけの話である。
「終わらないで。貰えなくなるから、見返り」
夢月の目が愉快げに細まる。美味しい洋菓子よりも大きな望みを抱いた少女もまた、あの人間の終わりを明確に否定する。完全に叩き潰すつもりで撃ち込んだ理由とて藍と同じである。
「安心しろ。そう易々とくたばりやしない」
砂塵の中に見え隠れする影と二つの眼光。月草色に燃ゆる禍々しい上半身の像が浮かび上がる。巨大な人体には筋肉組織と表皮が覆い被さり、その内側にオビトが収まっていた。全ての攻撃を真正面から防ぎ切った強靭な鎧であり力の正体だ。
――須佐能乎。特異なる瞳術を左右の目にそろえた者のみが開眼し得る、第三の瞳術である。
忍界では一度しか披露しなかった――できなかった点が神威との決定的な差異。『万華鏡写輪眼』自体は十数年前に開眼した使い慣れた瞳力であり、この瞳術も疾うの昔から発現していたはずが、己の認識と意識の外に追いやられて長らく離れていた関係で、自分の体とチャクラで初めて行使したのはかなり後、幻想郷に流れ着いて以後の出来事だった。
開眼には至っていた関係で、人の身では長すぎる空白を埋めて取り戻そうと、急激な成長と変化を短期間で成し遂げはしたが、神威と違って現在も練磨が足りず鈍りもある。鎧の形状や大きさを己の意思で自在に変えたり、それを利用した『威装』に関しても完璧ではない。ゆえに感覚を戻す目的でぶつける力として相応しいのは確かだ。夢月はおそらく同じ力を「嫌というほど」に映したのだろう。
(とは言っても……)
夢月ほどの手練れを相手に不慣れな術を嬉々としてぶつけるのは、本来なら須佐能乎とて自殺行為である。殺し合いではなく手解きの範疇とはいえ、相手が同じ人間ならいざ知らず、妖怪や神の類に該当する基準で語る場合、人間が軽い気持ちで臨んでも死にはしない、という保証にはなり得ない。
彼女には遊び以外の何物でもない戯れにより、安らかなる永眠に就く可能性も否定できない。気を抜かず殺す気で臨む方が正しいのだ。なればこそ――。
(ここまで、とはな)
精神を圧し潰す夢幻の影響下に置かれた『須佐能乎』は激しく高ぶり、力強く燃え続けて止まらない。
心身に圧しかかる重さは凄まじいものだ。この瞳術を使って具体的な行動を起こさずとも、鎧を維持して耐え続けるだけで、これまでに独力で積み上げた量に並んで早くも追い越すほどだ。水の流れをせき止める詰まりを取り除く時や、その流れを速めたい時に加えるべき力の程度は、微弱よりも強い方が効果は当然に大きい。
もっとも、今日になってようやく藍が認めたように、毎日の地道な積み重ねが生んだ結果だ。今日までの努力が泡と消えたわけでは断じてない。『仕上げ』とはよく言ったものだ。
「もう六百六十六歩……見える景色が増えたら、久遠に近づけるのか。貴方も辿り着けるのか……ものは試しよね」
夢月は首を傾げた。辺りを吹き荒れる風が激しさを増す。地上を無差別に打っていた光の群に秩序が生まれると、上半身の像を呑み込まんと一斉に収束した。標的を一つに絞って四方八方から容赦なく迫り、眩い閃光が視界を一杯に満たす。
体の内側にかかる重圧がさらに強まる。肉体を地面に引きずり下ろす。須佐能乎の姿が大きく揺らぎ、赤い目を見開くと同時に咆哮を上げた。
(この感覚――…)
再び現れた鎧の形状が変化している。表皮の上に月草色の外装をまとい、頭部には天狗や鬼のような禍々しい面。巫覡を思わせる巨人の上半身。その内側に収まるオビトは、燃ゆるチャクラに包まれる中で自分の体を見下ろした。
早かった脈動が落ち着いている。猛攻の勢いや規模が増すほどに、精神とチャクラの安定具合は弱まるどころか逆に強まる。内面から溢れ出る力は限度を知らない。夢月に宿る力の強弱や、能力の相性の良し悪しだけではない、過去に同じ瞳力と相まみえた経験が、心身へと直に影響を及ぼしている。藍曰く最適な形で。
「……!」
傍から眺めていた藍が怪訝な表情を見せる。月草色の炎に包まれたオビトの体から、不意に異様な気配を感知したのだ。
温かみの中に生じた一抹の冷たさ、重々しい気配が少しずつ、確実に大きく膨れ上がっていく。赤い眼光を宿す『右眼』を中心に渦を巻いて、着実に明瞭化し始めているようだ。生き物ゆえの本能と見なすべきか、形容しがたい胸騒ぎを覚えた藍は、それを目で視て認識するや否や近寄って「そこまで!」と大声で呼びかけた。
声が響いて間もなく腕を下ろすオビト。巨人の姿が揺らぎ、薄れて瞬く間に消え失せる。当初は無気力だった夢月も、僅かに名残惜しげな様子ながら素直に攻撃を中断した。これ以上は何かと面倒ごとが発生すると判断したのだ。
「早くない? 始めたばかりよ。まだ」
ぽつぽつと喋りながら二人の傍に来る夢月。意外にも早々と戦意を捨て去った様子だ。
「それは」藍がオビトを見る。「貴方もじゃない? 気分はどんな感じ?」
「……好調だ。想像以上だった」
短い時間に不釣り合いなほど大きな成果を得たが、実際のところ時間や回数はあまり関係ない。術や技を会得して磨き上げる修業とは違うのだ。
要するに量より質、強者との戦いは己を高める近道である。適当な術を適当な相手に考えもなくぶつけるよりは、己自身が置かれた状況を見返して、相応しい術が何かを熟慮した上で、相性が良好で力も強い者を選ぶ方が、結果として得られるものは多くなる。藍の提案は正解であり試みは成功に帰したようだ。
「明日か……イヤ、この後すぐにでも戻れそうだな。これなら」
「今さらだけど」藍は思い出したように喋る。「向こうに戻ったら何をするの? 貴方」
屋敷に滞在する理由と必要が失われ次第、この世界を出て幻想郷へと戻る予定を、オビトは当初から立てていた。それに関して藍は詳しい話を聞いたことが一度もない。
寡黙な人間ではないが、他愛のない雑談や世間話の類に消極的であり、妖怪達が声をかけても聞き手に回るばかりで、自ずと口に出す話題は見事にリハビリ関連一色。自分の身の上を語らない部分はどこぞの蓬莱人にも似ている。
「やることが特にないなら、ここに留まる方が利点は多いと思うのよね。お互いに」
八雲の妖怪達が管理する屋敷には問題も不足もない。人間も悪魔も宇宙人でも安らぎと快適さを享受できる。建物と敷地面積の広さは当然として、余所者でも命の危険がない場所であり、(妖怪の目線では)感じのいい者が多く、食事は毎日きっちり三食が提供される。三時のおやつも出る。運に恵まれた場合は油揚げの差し入れもあるのだ。
仕置きによる一時的な滞在に過ぎず、元の世界へと帰す予定である夢月はともかく、正式な許しがあるオビトは滞在する権利が認められている。特別な事情のほか、危険思想の有無や人間性の可否などを厳格な基準の下で総合的に評価した結果として。個人レベルの話に縮小しても、忍の並外れた身体能力や本人の特殊な能力は、管理者の仕事を式神達と共に補佐する役割にはもってこいで、一世界を裏側から守護する人材としては面白いほどにぴったりなのだ。
「楽しいのそれ」夢月がぽつりと言う。「便利に使い潰されて終わるだけなんて。自由で優雅な暮らしを愉しむ方が、よっぽど価値のある生き方よ。狐さんの奴隷になんて身を堕とすより、ずっとね」
「失礼な」藍の咳払い。「誤解を招く表現は止めなさい。意思の尊重が大前提、だ」
妖怪は風のように自由な生き物だ。はた迷惑な夢見る悪魔は例外として、管理者側の利に資するからと、本人の意向を無視して強要する気はない。自由な意思決定に基づいた選択である。
この夢月に響くか否かを訊かれると、首は縦に触れないが。
「それも捻じ曲げたら、何とでも言えちゃうわ。都合の好い解釈が勢ぞろいして」
「私が血も涙もない女に見えるのか。心外だ」
「妖怪だもの。流れてても氷水くらい」
「凝り固まった無知め。
「無駄かもな……この時間だけは」
終始無感情な夢月、熱くなり始めていた藍、逸れに逸れたやり取りを延々と眺める立場を拒絶すると、二人に背を向けたオビトの姿が渦に巻かれ始めた。気づいた藍が再び咳払いして「待ちなさい」と制止する。
「どうするの? あくまで自由だからね。念を押すけど」
「行くとしよう」オビトは振り返らなかった。「きっと見つかる。そのための平穏だから、な」
はっきりとした行き先は目が覚める前から見据えていた。道中に見える景色とは何か、それを作り出すものが何なのか、先に待ち受ける数々が判らないという話でしかない。理解の及ばぬ段階は疾うに過ぎ去ったと思えたのだ。でなければこのまま、もう少しだけ身を置くのも選択肢ではあるが。
終わらぬ夜は明けた。輝かしい陽光の照らす道を歩いたなら、きっとその先に見えてくるのだろう。