常識と非常識。人々が当たり前に受け入れる物事と、ありもしないと断じて常識の世界から放り出された物事。表と裏の関係性で語るなら、前者が表、後者が裏である。
今現在に表の世界と位置づけられるのは、怪奇や超常現象の類とは無縁の『科学』が支配する外の世界で、逆に科学とは無縁の『それら』が支配する世界は、表から見れば完全なる裏側であり外側。常識の世界から追い出された一昔前の、疾うに忘れ去られた古臭い概念や考えの集積地だ。科学技術の恩恵を享受して生きる現代の人々は、対極に位置する物や事象を受け入れず、自らが信ずる常識に歪みが生まれる事態を忌み嫌う。
誰も信じようとはしない。それを目や肌で、全身の隅々まで感じたところで、常識の物差しを持ち出して否定する。冗談や嘘偽りから形だけ肯定する者は居ようが、他者に因らず心の底から本気で信じ込んで譲らない者など、純粋無垢な幼子か変わり者とでも見なされよう。常識を良しとする人々は非常識を良しとしない。
まともを自称する表の人々が居るとして、裏の世界を生きる人々は不当で気の触れた連中ばかりか否か。答えはいずれでもない。表も裏の人々も同じでしかなく、自分達が信じる紛うことなき現実を生きているに過ぎない。相容れない双方は、互いの常識や物差しを持ち寄ることができず、しようともしない。正気か否かの口喧嘩など水面下の水かけ論、この上なく無駄な時間でしかない。
その存在を否定されて居場所を失う。長い年月と共に忘れ去られる。跡形も残さず消え失せる。『常識』から排斥された世界が在るとしたら、行き場を失った者達を受け入れる場所が在るならば――まさに『非常識』の理想郷、地上で最後の楽園と呼ぶに相応しい。
――幻想郷。楽園のほぼ中心に位置する人里には名の通り、外の世界にもよく見る『人間』達が住んでいる。妖怪や神など非常識の数々――否、この世界では常識的な有象無象に囲まれて。
妖怪のために築かれた楽園において、その力と数を失わぬために生かされる人間。自分達の糧となる生き物を減らさず、種を守るための保護区域との言い方もできるが、当の本人達は不自由なく平穏な毎日を過ごしている。里人達の間で徒党を組んで、この世界を支配する妖怪達の不利益にでもならない限りは、人間達のやり方には基本的に口出しせず、自由気ままにやらせて傍観する立場にあるからだ。
人や人に扮した妖怪達が行き交い、賑やかな声が飛び交う大きな通り。この辺りは里内でも人口が集中する地区で、昼夜を問わず人の姿が途切れない。
里人達の居住地のほか、大手道具屋や食料品店、そば屋や花屋、老舗の甘味処や豆腐屋など、人々の生活を助ける様々な店が多く立ち並ぶ。子供達が通う寺子屋や貸本屋、由緒正しい稗田家の屋敷が在るのも同地区だ。
「さて、と……」
肩にかかる紫髪と山茶花の髪飾り。着物姿の上品な少女がメモを手に、夕飯の食材が入った袋を提げて道を歩く。今夜は久方ぶりに好物の兎鍋である。
食材や日用品の買い出しは屋敷の使用人に任せることが多いが、合間の息抜きと気晴らし、気持ちのいい日は外出する時もある。のんびりと散歩するなり、賑やかな通りを見て回るなり、甘味処で新作を探すなり、花屋に寄って色々な表情を眺めるのもいい。行き先を特に明確化せず、その辺をぶらつくだけでも楽しい。
澄んだ綺麗な川に架かる赤い橋に差しかかる。中央と東の地区を結ぶ場所だ。補修を終えたばかりで欄干が真新しい。
――阿礼の時代から百数十年周期で生まれ変わり、御阿礼の子として代々続けてきた編纂。多くの人間や妖怪と出会う以前と比べると、短命な自分の生を基調とした全体部分がより強調されて、自身なりに良いと思える方向へと大きく動いた。作業には元より積極的だったが、さらに楽しく取り込めるようになった。
ゆえに気が滅入ることも多い。寿命が近づいて転生の儀を迎える日、『阿求』として積み上げてきた記憶は失われる。次に生まれ変わる百数十年後、寿命の長い妖怪が『阿求』なる人物を覚えていても、人間はそうもいかない。気にしても仕方がないと解っていても、付き合いの深い者達と顔を合わせると、思うところも出てくる。
だが似合わない。らしくのない心だ。過ぎ去った時を憂うことなく、今を精一杯に生きるべきだ。自分なりに楽しいと思えることも、それを手に取るきっかけも、たくさんあるのだから。
(……?)
橋の真ん中辺りにまで辿り着いた時だ。見覚えのある姿が視界に入っていたことに今になって気づいたのだ。
ど真ん中に、ではない。誰の邪魔にもならない端っこに一人、欄干に右手をかけて佇んでいた。南の方角へと続く川の流れか、遠方に広がる田畑の群か、鬱蒼とした森林か、薄っすらと見える山々か、周りを気にせずじっと遠くを映している。
偶然の出会いか、運命の悪戯か。神様の存在を肯定する世界では日常茶飯事だ。
「これも一つ、よね」
心の内で呟いたつもりが声に出る。必要な物はあと一つ。手元のメモから視線を外すと、慌ただしく駆け出すこともなく、いつもの落ち着いた姿勢で近づいていく。
あらためて見ると里に溶け込んだ格好だ。里の人間は和服や浴衣が基本であり、丈の長い黒色の外套は類を見ないが、和装に分類されるので洋装その他を着飾る妖怪達に比べると目立たない。人間なので妖気も持たず、女の子の見た目でもない。彼女らのように人に化けて出入りする手間暇は不要と言える。
目に映らない部分、雰囲気と力は異彩を放つが、里に住む人間や並の妖怪でも知れない底だ。優れた感知能力や内面を視る眼力に長けた者、本人が力を振りかざして認識を与えない限りは、誰も気づかず思いもしないだろう。人の身を外した異界人であるなどと。
「お久しぶりです。またお会いできましたね」
阿求は明るい笑顔で爽やかに挨拶する。不意を突かれた様子で目を開き、傍に立っていた少女の姿を視認すると表情を戻した。
「アンタか……覚えていたとはな。あれから随分と経ったが」
里内でも存在感と強い影響力を持つ名家、稗田家の当主であり九代目阿礼乙女。人や妖怪に関する情報を網羅した『幻想郷縁起』の執筆、膨大な資料の編纂を行う関係で、人里どころか幻想郷全体から見ても重要な立ち位置に在る人物だ。
この少女とは以前に博麗の巫女絡みで顔を合わせた。借り物の返却を代行して人里を訪れた時だ。接触したのは一度きりで、以後はかかわる機会がなかった。他愛のない話を交えたのは何か月も前の出来事であり、巫女の使いで現れた外来人など疾うに忘却の彼方だろう。だが彼女は阿礼の生まれ変わりとして、編纂者として、ある特別な秘法を受け継いでその身に宿している。
「『求聞持』……見聞きしたものを忘れない力、だったか。使いようだな」
「ご存じでしたか」阿求は微笑む。「ですが、もう一つ……八雲藍さんからお話は伺っています。貴方のことを」
「あいつから?」
藍がお喋りな妖怪ではない場合を前提として、八雲の妖怪が異変に関連する情報を里の人間にもたらした理由。博麗大結界を代々管理する(丸投げする)立場の巫女ならいざ知らず、それ以外の人間となれば特別な理由が必要だ。幻想郷における総ての事柄を記録した巨大な書庫、その役割を担う稗田家の当主ならば、人の身とて妖怪達が特別視する要因としては十分すぎる。
かかわりを持たない方が不自然、あるいは持たざるを得ない、との言い方もできる。稗田家の『幻想郷縁起』には少しカラクリがあり、執筆と編纂には八雲紫による検閲が必要に応じて入る。人間が妖怪の脅威から身を護る方法が記載された資料でこそあれ、妖怪という種や個人に関連する項目に書かれた内容は、人間への危険性や友好度も含めて正しい情報ばかりとは限らない。都合の良し悪しで誇張や修正もあり得る代物だ。幻想郷に住まう妖怪達、とりわけ世界の管理者には必要な干渉と言える。
「ええ。これで、今度こそ……」
管理者の妖怪が編纂者に接触したのだ。過去に発生した異変の数々と同じように、あの騒動が一ページとして加わる可能性は十分に考えられる。
あれからひと月以上も妖怪達の管理下に置かれていた。長い期間を一つ屋根の下で過ごしていたのだ。今や藍達が何を知っていても不思議ではない。だが人伝いに聞いた話だけで阿求が納得するだろうか。異変の元凶たる輩と関係の近しい異界人が健在ならば、当の本人から直に話を聴かない理由はない。個人的な思惑ではなく、幻想郷全体のためと言うなら、御阿礼の子は全てを知る権利を有することに――。
「――お煎餅、食べに行けますよねっ!」
不穏な空気が派手に破られた瞬間、何か目に見えないものが崩れ去る。
阿求の目に星がある。夜空に瞬く物より明るい輝きを放つ星が。それを認識したオビトが言葉を失わぬはずもなく、完全に不意を突かれた様子で「何?」と訊き返したが、本人はきょとんとしている。
「約束したじゃないですか、だって。一緒に行きましょうって――…はっ!? まさかオビトさん、一時の勢いだけで私にあんなコトを――?」
衝撃を受けた表情で口元に手を当てると、じりじりと後ずさり、がっくりとうな垂れる。
上品さは少しも失われず、代わりに一転して子供っぽくなり、勢いと口数が急に増えて、物静かな雰囲気と口調は見る影もない。この短いやり取りで年相応に成り果てたようだ。
「イヤ……だが、そいつは……随分と前に交わした口約束だ。覚えていたなど」
「おや?」阿求は不敵に笑う。「ご自分の言葉をお忘れで? ご心配なく、十数年経っても忘れませんので。私は」
見聞きした物事を忘れない力。歴史を揺るがす大事件から今朝の食事、これまでに食した煎餅の種類と枚数も含めて、どんなに些細な出来事でも失われない。理屈としては解ることだ。
かといって、だ。阿求が会話の内容を一字一句違わず鮮明に覚えていたとしても、よもや今になって示しに来るとは思うまい。意図して接触した理由がソレとは思うまい。あの時のやり取りを忘れずにいたからと、阿求の方から嬉々として口に出すとは夢にも。例に漏れず写輪眼の先読みが通用しないようだ。
「この後、ご予定は?」
「予定と言えるほどの用はない。今はな」
「でしたら、これから行きませんか? よろしければ。今からでも構いませんよ!」
ぱあっと表情を明るくした阿求は、目を輝かせて食い気味に提案する。
普段の落ち着きを取っ払ってまで――どちらが本当かは不明だが――並々ならぬ情熱が強かに表立って判りやすい。本人の姿勢や雰囲気の起伏はともかく、言葉に嘘偽りがなく本心を紡いだなら、よほどの煎餅愛を抱いた人物である。
(……穏やかだな。何度見ても)
ここにいる阿求だけではない。里を歩いて人々の暮らしを見て回った。通りや軒先で談笑や商売に勤しむ人達、学び舎を出入りする元気な幼子達、毎日を生き生きと過ごす老若男女の姿を。血みどろの争いとは無縁の人生を、平穏を生きる大勢の人々を。自身が長らく捨て去り、忘れ去っていた生き方だ。
他の者には見慣れた、特別でも何でもない、取るに足らないと見なすような、何気ない小さな日常の一角に過ぎないのだろう。そんな日常にこそ大きな意味と価値がある。自らを取り巻く因縁に決着をつけて、黒染めの威光から本当の意味で解き放たれたのだ。色々なものが以前と違って感じられた。あの騒動の渦中に居ては気づかなかった景色だ。
「そいつも悪くないな。オレでよければ付き合おう」
「決まりねっ!」阿求の声が上ずった。「……こほんっ。えー、では。行きつけのお店にご案内しますね。参りましょうか」
「行きつけ……向こうの大きな通りに在る店か? 道具屋の四つ隣の」
「あ、そうです。ばっちり覚えてるじゃないですか、貴方も」
見聞きしたものを忘れない、求聞持の秘法は持たないオビトとて、以前に訪れた和菓子屋の場所、我侭な妖怪と繰り広げた短時間のやり取りは鮮明に覚えていた。借り物の返却を代行して稗田家の門を潜った時にしても、記憶が薄れて曖昧化するほど昔の出来事ではない。
時間の経過ではなく感覚の話なら、色濃すぎる数々の体験のせいで、かなり遠い日のように思えていた。
「行くのはいいが、荷を置いてからだ。場所が分かれば向こうで落ち合える」
「いえ、構いませんよ。このままで」
買い物の真っ最中か、すでに終えて帰宅途中だったのか。和菓子屋が在る中心部と稗田邸は少し離れているが、方角と道は同じなので置きに戻っても手間暇はあまりない。何なら時空間移動を使えば皆無となり、待ち合わせの必要もなくなる。
袋を提げた阿求が和菓子屋に行こうと言い出したのは、美味しい煎餅を優先して買い物を後回しにした結果ではない。手元のメモに書かれた最後の箇所が答えだ。
「一石二鳥。いいタイミング、でした」
ただし、判り切った二文字に止まらず、豊富な種類と個数が達筆で事細かく入念に書き込まれていた。
――◇◇◇
明るい雰囲気の店内、客寄せを考慮した洒落た内装、商品を見て回りやすい広々とした空間。甘味処のようにお客さんがゆったりと寛げて、食事を楽しめるテーブルと椅子も用意されている。ここは里内でも一、二を争う規模と知名度を誇る老舗の和菓子専門店である。
何人かの客に混じって二人の姿が席にある。湯気が昇る熱々の湯飲みが二つ、皿には色々な味と大きさの煎餅が山盛り。物好きにも他の菓子は見当たらない。
「――この食感。濃厚な味、香りが一杯に広がって……身も震える心地よさが絶妙ですね」
「同感だな……こっちもだ。風味がよく引き立っている。塩加減も丁寧だ」
山積みの大皿に何度も手が伸びる。ばりぼりと軽快な音を立てて、傾いた湯飲みがコトンと置かれる。食事の必要性を肯定する人間、否定する人間、然るに今回は言動が一致していた。
一種類の菓子を大量に購入して食する客は二人だけだが、他の客達に馴染んで全く目立たない。そういった話なら、食事を楽しむ客の中に素知らぬ顔で混じる不自然な『人間』の方だろう。油断か怠惰か、正体を隠すための変化が雑すぎる者も少なくない。角や尾、翼の先っぽが覗いた中途半端な出来でも気にする素振りを見せていない。
「ほほう、これも……やっぱり。こちらはいかがでしょう?」
「味もそうだが、申し分ない焼き加減だ。素材の味を潰さず、手抜きなく行き渡っている。しつこくない。大した腕だ……」
「お見通しのようですね。私が見込んだ通りでした」
阿求の目がきらりと光る。感情と表情の変化に乏しいオビトとは異なり、至福と言わんばかりの笑顔で美味しそうに頬張り、緩んだ表情で味わい呑み込んだ。優雅で自然な動作は品を損なわない。
「……なんだかごめんなさい。お買い物にまでお付き合いさせて」
「ついでだ。気にするな」
口元を手巾で拭いてにっこりとする阿求。この店で済ませるべき最後の買い物――屋敷の倉庫と自室に買い置きする品々の補充に関しては、店内で食する分を購入して着席する前に終わらせていたが、二人の傍に手荷物は見当たらず、来店する前に阿求が提げていた袋もない。当初の予定より多めに買い込んだ品々も含めて、とっくの前に渦の中へ消え去ったからだ。
絶品・スキマ煎餅(秘伝のタレ)の濃厚な味と香りを味わった後、湯飲みを置いて一息ついたオビトに、阿求は少し身を乗り出して「ところで」と切り出す。
「貴方は
「そのつもりだ。もう少し見てみたくなってな……この世界を」
永別を果たした故郷や仲間への未練の一つでも抱いていたか、性懲りもなく湧いて出たならば、元の世界へと帰ることも考えたかもしれない。それも疾うに失われており、今になって湧き上がることもない。
ゆえに最初からと言う方が正しい。遠く離れたこの地に流れ着くより以前、己の進むべき道を変えて、皆に後を任せることを決した時にはすでに。生涯の友に言葉を遺して満たされた心は嘘を吐かない。
あの騒動を乗り越えて、この目に映る世界の変化に気づかされた。今なら何が見えるのか知りたいのだ。僅かな穴も隙間も、不穏な歪みも存在しない己自身が平穏の中で何を感じるのか。理解するのか。寄り道も一つの選択と思えた。
「差し出がましいとは思うのですが。今後はどのようにお考えで? ずっと気になっていまして」
「これからだ。見たい景色を探す……まだその段階にある。何かは決めかねているがな」
手元の煎餅を映して黙り込むオビト。そんな姿をじっと見つめた後、阿求は背筋を伸ばして再び口を開いた。
「思い残しはないのですね。貴方の居た場所に」
「ありようもないな、そんなものは」
存在を否定されて外の世界から放り出された、非常識的な生き物である妖怪や人外の類がいる一方、常識的な生き物である人間が否定されることはない。居場所を失うことはない。この世界に入り込んだ外来人のほとんど全員が帰りたがる理由だ。己が戻るべき場所、帰るべき家、友人や家族が向こうで帰りを待つのに、慣れ親しんだ日常を望んで捨てる者はいない。
その例外がオビト。幻想郷や外界とも交わらない別の世界、そこに住まう民という大きな視点から見ても、個人の身の上という小さな視点から見ても、外界か忍界かは関係なしに、あり触れた外来人とは事情が異なる。命を落として忍界を去った元死人であり、未練となるやり残しも思い残しも初めから皆無でしかない。今ここに居るオビトの存在が証明している。
「なるほど。それでは、このまま里に?」
「今のところはな。こだわりがなければ、そうしない理由もない」
外から来た異邦人が人里を拠点に行動を起こす。不自然な部分など何もあるまい。
人里に居つく具体的な理由や経緯はともかく、全体の流れとしては他の外来人と遜色ない。元より多くない外来人の中でさらに少数、外から見れば変わり者や異端と思われる選択肢――幻想郷に残ることを選んだ逸れ者は、大勢の同族たる人間達が暮らす唯一の場所、『人間の里』に身を寄せようと考える。
外来人という身の上に立ち返るなら、未踏の地ゆえに右も左も分からず、力もない人間が妖怪の世界で生き延びるためには、助け合うことが無難な選択であり、賢明な判断であり、自然な流れであり、当然の理だろう。人間は妖怪ほど孤高で強かな生き物ではないが、山の天狗や河童など一人一種ではない妖怪達との共通事は割と多い。
「ふむ……」
人間離れした身体能力、妖怪染みた大きな力、神霊染みた異質な力を有する稀有な人間で、数か月前に起きた騒動の中心人物だったとしても、妖怪達から命を狙われる外来人の立場に変わりはない。幻想郷における一般論で語る場合、争いのない平穏の中に身を置きたいなら、唯一無二の安全圏である里以外に選択肢はない。
幻想郷に来て以降の事細かな動向について、御阿礼の子として八雲の妖怪達から話を聞かされていた関係で、異邦人を相手に知ったような口も利ける立場ではあったが、阿求は深入りせず必要最低限の問いを投げるに止めた。気にかかることは多いとはいえ、楽しく穏やかな食事の場を壊すことに気が引けたのだ。
「言うに及ばず、なのかもしれませんが。不安はないのですか? これまでとは違った環境の土地に、外来人として身を置くことに。それも……」
見慣れた土地から見知らぬ土地へ。大きな町から小さな村、海を挟んだ国同士の行き来とも異なる。常識の世界である外界と非常識な幻想郷の比較となれば、身の回りの環境が激変したという言葉だけでは片づかない。郷に入っては郷に従う信条の、途轍もなく高い順応性と積極性を誇る者でも慣れるには時間がかかる。土地だの環境だのを超越した、概念や法則の差異が発生する次元の問題であり、単なる引越しの範疇ではない。妖怪の山に居座る神々が、その存在を失いかける危険を冒して、命からがら結界を踏み越えた時のように。
人間は常識と非常識、いずれの世界でも身を滅ぼすことのない生き物だが、元より非常識の枠に入る妖怪や神とは違い、幻想郷で生きていくのは大変だ。外の世界に慣れた外来人なら懸念を持たない方が不自然だろう。オビトの場合は『忍界』という、歴代の御阿礼の子や妖怪達でも認識の外に在った異界出身ゆえか、あるいは心の内に隠して表に出さないだけなのか、外来人として抱いて然るべき感情が微塵も読み取れないのだ。
「外来人かどうか以前の話になるが……『忍』として生きている限り、あらゆる環境下で様々な問題に直面するのは常だ。今さらって言えばその通りだな」
元より忍は過酷な環境に順応して、心を乱さず力を発揮できるよう厳しい訓練を受ける。故郷の里を捨てた抜け忍ともなれば、心休まる生活とは無縁の毎日を重ねて強いることに。後ろ向きな気持ちの一切合切を摘み尽くすのに、忍界にて散々と経験した十数年分の積み重ねと、此度に乗り越えた大きな異変は一役も二役も百役も買いすぎた。滞在を考え始めたのはその後である。
「そして」オビトは二十一枚目の煎餅を手に取る。「オレがこの世界でどう扱われるか、その辺の事情は理解している。規律や心構えにしても……解った上での判断だ」
幻想郷での暮らしは多くの危険と隣り合わせだ。逃亡生活で気が休まらない抜け忍ほどではないにしろ、外来人は命を狙われる立場にあり、妖怪に食い殺されるのは日常茶飯事。身を寄せる里の生活水準も低く不便であり、現在や当時の木ノ葉の里と比較しても安全面や利便性は大きく下回る。向こうの豊かさと平穏を享受して日々を過ごす者がどう感じるかは言うまでもない。博麗大結界を挟んで隣接する外の世界のみならず、さらなる外側に在る『忍界』にも該当する考え方である。
然るにオビトには当てはまらない。各国と隠れ里の情勢が不安定だった時代に命がけの任務や戦争に参加した経験があり、忍界中を敵に回す抜け忍となって以降は平穏や豊かさなど完全に切り捨てて忘れ去っていた。幻想郷の妖怪達は油断のならない猛者ばかりだが、自分の身を守る術は心得ているために、阿求の言う不安と絡めても『そちら』の心配ごとは皆無に等しい。嘘偽りでも何でもない真実として。
「分かりました」阿求は納得した様子で頷くと、二十二枚目を頬張る。「そうですね……外来人の方が安全面以外でまず考えるべきは、衣食住の問題です。自力で調達して賄うのは困難ですが、オビトさんの場合は――」
「払拭済みだ」二十三枚目を呑み込むオビト。「随分と前からだが……」
衣に関しては、今現在に着用する黒衣の他にも、未使用の物が(全て戦闘用の衣だが)何着か時空間内に保管してある。色は青や読み方の違う紺、狐ではない方の藍など似たり寄ったり。別の物が欲しい場合は里で適当に用立てられるだろう。
食と住の二つも自前の能力と体質で解決している。神樹の莫大な生命力とチャクラを内包する、右半身の特異な体細胞が生命維持に必要な諸々を賄う関係で、飲まず食わずでも生きていける体だ。食べ物は『煎餅』など一部を除けば長らく口にしていない。
拠点は雨風をしのぐ屋根さえあれば不便はなく、睡眠は摂らない体なので野宿でも問題はない。それでも必要なら木遁で造るか、神威で入り込む時空間で事足りる。同じ神威や一部の空間干渉能力でのみ侵入できる閉鎖空間だ。四角い巨大な石柱ばかりが乱立する無機質で殺風景な場所だが、広さに限りがなく誰もいないので、好きな場所で好きなように家具や寝具を配置して寝床をこしらえるのも自由。ついでに防犯の度合いも下手な家屋より桁違いに上だ。
幻想郷の物差しで測ると妖怪も同然であるオビトだが、阿求は藍達から事情を聞いて知っていたようで、特に疑問を呈さず「どうやら」と落ち着いた声色で続けた後、明るい表情で二十四枚目を美味しそうに頬張った。その三秒後にオビトが二十五枚目を確保する。
「大丈夫みたいですね……今のところは。杞憂だったかしら」
阿求はそう呟いた直後、手にした煎餅をやたらと険しい表情で眺めるオビトを、疑わしげな目でじっと見つめた。
「心配ごと、本当にありませんか? あれば言ってくださいね? くれぐれも、お願いしますよ?」
「何をそこまで念を入れる?」
「問いで返してはだめです。話が滞ったり逸れます」
晴れやかな笑顔で容赦なく言い放つ阿求。暫し黙したオビトが「今はない」と慎重に答えると、見事な指さばきで二十六枚目を掴んで「よろしい」と大した滑舌で続ける。それから早々に二十七枚目を取った。
「貴方は――」阿求の咳払い。「……やはりですよ? 同じ『煎餅同盟』に属する者として、同志を支援するのは責務であり、当然の理と考えます。何かお困りでしたら、いつでも相談に乗りますので。その時は遠慮なくどうぞ」
「ありがたい申し出だが……何だその、同盟ってのは? 覚えがないぞ」
同じ目的や志を持つ者、集団同士が約束事の下に手を結んで形成する協力関係。合意以前に話し合いの場も設けず一方的に成立する同盟の中身とは何か。幻想郷の人や妖怪は軽快なノリの者が多く、その傾向は個人の会話や取り決めに表れやすいとの話もあるので、言葉の意味も内容も意外に名称通りかもしれない。
案の定か「お煎餅好き同士ですから」と自信満々な口調と表情で喋ると、二十八枚目を先んじて確保して親指を上げる。幼い外見相応の無邪気な振る舞いを隠さない一方、上品な仕草や雰囲気が揺るぎないのは、名家ゆえの育ちの良さか、御阿礼の子ゆえの深い事情か。
「お煎餅……」阿求が考え込む。「そうよ――…オビトさん、お煎餅です」
「が、どうかしたか?」
「おや、とぼける気ですか。そう来ましたか」
二十九枚目をオビトが手にした途端、阿求は不穏な含み笑いをする。
店内の話し声や雑音の一切が掻き消えて、無音の世界に放り込まれた気がした。隣のテーブルで山盛りの桜餅を頬張っていた桜髪の人物が急いで目を向ける。
「――『うちはせんべい』、ですよ」
小声で囁いた阿求の瞳に妖しい光が宿り、くすりと笑い声が漏れた。白髪の人物が草餅を取り落としかけるも、意味ありげにオビトを映し続ける阿求の、妙に生き生きとした視線は一秒たりとも外れない。
「前に仰ってましたよねえ……製法の再現……焼き上げ……!」
その瞬間、激震が走る。二人の間を真空大玉が吹き抜けた。
和やかな店内にもかかわらず、冷静さを維持していたオビトの目が見開かれる。黒い瞳が赤みがかり、真っ赤に染まると共に勾玉模様が三つ浮かんだ。阿求の勝ち誇った口元がさらに広がる。
「アンタ――…なるほどな、そう来るか」
全ての煎餅の祖と謳われし者が、この世に生みし至高なる食物。体中に滲んだ血が勢いよく噴出する以上の厳しい修練を長きに亘って積み重ねた者が、限界という名の壁を百も二百も打ち破って初めて到達できる極致。かつて辿り着いたのは、うちはの歴史上でもただ一人とされている。
並大抵の力では越えられない壁だと理解するオビトは、阿求が挑発的な口調で火を点そうと図っても、三十枚目を取って先を越されても身動きしなかった。その目をまっすぐに見据える。
「そいつを言うには遅い。残念だがな」
「これからですよ。貴方は素敵な選択をする……私はそう信じています。新しい景色はきっと――」
祈りを捧げるように胸の前で手を合わせる姿は、慈愛と温かさに満ちた聖女を思わせる。柔和温順な声を耳にするだけで、心の内に湧いた憤りや怖れ、不安の感情が拭い去られるようだ。
そんなことはお構いなしと言わんばかりのオビトは、さぎの翼も持たぬままに「そうではない」と呆気なく否定すると、指の間に挟んだ三十一枚目を掲げて赤い瞳に映した。阿求が判った上で口を開いたかは定かではないが、一枚目に手を触れる前から答えが出ていたのは事実である。
「その先は言わなくていい……」
手裏剣のように構えたソレを、洗練された滑らかな動きで口元へと運ぶ。ばりっと音を立てて噛み砕かれた。桜髪と白髪の二人がお喋りも忘れて注目する。
「道は決していた。とっくに、な」
静かなる言葉。阿求の目と口が大きく開かれる。桜髪の誰かが驚きと興奮のあまり両腕を広げると、皿に盛られた大量の桜餅がふわりと浮き上がり、口の中へ次々と吸い込まれていく。白髪の誰かは危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「オレの歩む道には富も名声も要らん……ただひたすらに、己の魂を込めた至高の味を追求し続ける。誰もが成し得ん極致を目指して際限なく突き進む……そいつが唯一無二、このオレの『芸術』だ」
一族の伝統と歴史が紡ぎし奇跡と必然の逸品。須臾や永遠にも傾かない最高の作品、他の追随を許さぬ究極の芸術。再び目覚めし鋭き眼光を宿す者は、邂逅も叶わぬと誰もが諦めた御業を陽の目に会わせんがため、時の変遷にうずもれ失われし道へと喜んで踏み込んだのか。
三十二枚目をさっと取ると、オビトは真剣な表情でしっかりと視線を合わせる。阿求は見返して微笑み、紅潮した頬を一筋の涙が伝う。
「私としたことが。お節介など焼かずとも、貴方は……」
そう呟いた阿求は椅子に座り直すと、三十三枚目、三十四枚目を続けざまに取ってばりっとした。太陽のように明るい笑顔が戻っている。オビトが腕組みを解いた。
店内の賑やかさ、辺りを包む和やかな雰囲気は失われず薄れてもいない。湿っぽい空気など初めから入り込む余地はない。
「皆まで言うな。解っているつもりだ」
人間と妖怪が共に暮らす幻想郷、大勢の人達が平和な日常を過ごす里を歩いて見つけた――否、思い起こすに至った答えの一つ。かつて木ノ葉の里に座する数多くの煎餅通を黙らせた、伝説に語られし『うちはせんべい』の職人のみが実現できたとされる、比肩する物のない究極にして唯一の味を現代に、この世界に復活させること。そしてゆくゆくは、さらに先の未知なる味をも追求できるように。
あの日、阿求に面と向かって宣った二つ目だ。
「……だがな。やるなら徹底的に、だ。妥協はしない……自分なりに完璧ってやつを掴み取る。それがオレの意志だ」
たかが数か月程度で到達できる境地とは思っていない。体を傷つける茨どころか、命を脅かす神樹の幹や根が立ち塞がり、屁のにとりでは決してない、井の中の諏訪子では届かない、遥か先にまで蠢いて広がる道のりだ。
時間は十分にある。終わりの時に迫われていた頃とは違う。急がず焦らず進めばいい。
「当然ですね。他はあり得ませんから」
大皿も底を尽きつつある。遠慮も休む間もなく交互に食し続ける二人。
何十枚目かも判らない頃になり、黙々と味わうオビトを映しながら、阿求は頬張った分を力強く呑み込んだ。
「ええ、そうですとも……半端な心構えなんて、私が許しませんよ。絶対に」
「知ったように言うものだ。アンタは」
「仕方ないですよ」阿求は愛想よく笑う。「知っていたら、自然とそうなりますからね」
詳しい事情を人伝いに聞いて知り、本人と直に顔を合わせて、会話を交えて確信を得たのだ。あの異変を生き延びた恩人は、何も取りこぼさず、失うことなく突き進んで、その生き方を貫き通すだろうと。自分で在り続けるために必要な歩き方を知らなければ、道をつまづいたり、転んだり、踏み外すばかりで、いつまで経っても前へは進めない。
解りさえすれば知った口も利けよう。この場所にいる理由は一つ、道をしっかりと踏みしめて、真っ直ぐに歩いた結果であると。