OBITO -廻光-   作:大兄貴

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心の中に(2)

 物事に対する考えや思いの変化とは、そう易々と起こるものでもないが、あまりにも衝撃が大きく印象的で、相容れない色が強すぎる場合はこの限りではない。大小や自覚の有無にかかわらず、物事の見方や捉え方に変化を起こしたり、そのきっかけを掴み取るものだ。

 人はそれを成長という言葉で表現すると同時に、相応の苦痛や異物感にも苛まれる。未知で不慣れな領域への踏み込みとは、慣れに背を向けて自らの在り方を叩き変えることを意味する。

 現在の己自身と先の姿が遠いほどに道は険しい。痛みを乗り越えた時にこそ先は見えてくる。

 

 顔を洗いに出て行ったこころが戻るまで、里の貸本屋で借りた『徒然なる極致に至る煎餅の選別』を読み耽っていたオビト。ある程度まで読み進めて栞を挟み、本を閉じて台に置いた。何気なく目を向けてみるもこころの姿はない。

 至近距離から爆発を浴びて、風呂を所望する程度には煤だらけ。途中で気が変わり、知り合いか誰かの家へ風呂を借りに行ったか、森の奥にある川へ水浴びに行ったのかは判らないが、建物の周辺にチャクラを感じない。汚れを落とすだけなら早々に戻るものと思い、チャクラを感知仕様に練っておらず、気づかないまま読書に集中していたようだ。

 

 こころが向かったのは裏手にある井戸。オビトは奥の勝手口へと移動すると、手をかけて静かに押し開いた。吹き込んだ外気が頬を撫でる。虫の声は聞こえない。

 姿を消した人物は井戸の傍にいた。桃色の長い髪、丸く膨らんだ特徴的なスカートは、こころ本人であるとこれでもかと主張している。

 違うのは――。

 

「……?」

 

 大げさに感知を張り巡らせたり、写輪眼を通して目視するまでもない。何が異常かは一目瞭然だった。

――昼寝や休憩を取る場所でも状況でもない。呼びかけに反応はない。炎天下で初めに疑うべきは熱中症だが、触れて看るに暑さにやられた様子はない。体温も汗の量も正常だ。路地で遭遇した時のように空腹で倒れたわけでもあるまい。

 周りに争った形跡はない。敵意や悪意を持つ何者かの接近があれば、屋内で読書など他の作業に徹していても判る。少なくとも建物と敷地内、炭焼き窯がある裏手の森の周辺にも気配は感じなかった。

 井戸の衛生面に関しては徹底している。水を飲んで不調を来たした可能性はない。それ以前に水を汲み上げる釣瓶を使用した跡がないのだ。そもそも体の丈夫な妖怪が水や暑さ程度で力尽きるのか。

 

 妖怪。付喪神。面霊気。該当する単語に関連性のある知識を総動員しても心当たりはない。外的要因による意識の喪失ではなく、こころ自身に原因がある可能性が高い。

 その道を行く専門家の話を聞く方が早いだろう。オビトはこころを抱き上げる。

 

(チャクラが……)

 

 付近にいないために感知が及ばなかったのではない。感知できないほどに弱り切っていたのだ。

 どれだけチャクラや気配が薄れて、巧妙に隠されたとしても、この至近距離から感じられないなどあり得ない。意識の喪失を通り越して仮死状態に陥った体だとしても、生命の維持にはチャクラを要する関係で、少なからず残るものだ。付喪神などの妖怪は月の神霊とは違う。考えられるのは二つ、相手が格上ゆえに感知が届かないか、死体を目の前にしている場合。

 こころはいずれにも当てはまらない。命の脈動は微かに残っている。チャクラだけが『全く』感知できない。何らかの異常を疑わない方が異常と見なせる容態だ。いつもは傍にあるお面も消えている。

 

 駆け込むべき場所。里医者は却下。昼間も夜間も診るのは人間のみ、妖怪に精通する専門家を擁するわけでもない。面霊気を連れて行っても原因の解明には至らないだろう。

 候補は三つほどあるが――まず一つ目は理想的ながら不可能に近い。知識も頭脳も超越的な妖怪賢者は神出鬼没、活動範囲が限定されない上に、住処とする狭間の屋敷は神威でも侵入できず、チャクラ感知もできないので探しようがない。

 採るなら二つ目か三つ目。すなわち、妖怪退治の専門家で精通もする巫女を頼るか、竹林の奥深くにひっそりと佇む屋敷を訪ねるか。後者は妖怪と病気の両方に詳しい薬師が居て、屋敷自体が医療施設を兼ねている。里医者では手の施しようがない難病を患う人間、妖怪も掛かる場所である。実績は十分すぎるだろう。

 

(決まりだな)

 

 いくつか候補を絞りはしながらも、迷いの竹林にある『永遠亭』を採るまでに数秒程度。その後の行動は即断即決より迅速と思わせるもので――。

 

「――んはあっ!?」

 

 次の瞬間。鬱蒼とした竹の群に囲まれた大きな屋敷、そこへ繋がる門の前に降り立っていた。

 空間に生じた渦から現れるなり、オビトが続けざまに「お前か」と声を発した理由は、今まさに門を潜り屋敷から出てきて早々に驚きの声を上げた、見覚えのある少女を映したからだ。薄紫色の長い髪にくしゃくしゃの兎耳を立て、手製の薬が入った籠を背負っている。

 

「八意永琳に用がある」

 

――永遠亭の八意永琳。日々新薬の開発を行う薬師であり、軽い風邪から難病と幅広い治療を行う医者でもあり、卓越した手腕は里中の医者を束にして百や二百を掛けても天地の差が縮まらない。

 診察と治療にあたり事前の予約や書類が不要、昼夜問わず急患にも対応して、無償で治療を行う場合もあるという末恐ろしさにもかかわらず、里の人間は余程の事情がない限りは掛からず、竹林にも近寄ろうとはしない。その原因は立地の悪さや危険性で、道中には妖怪だらけの深い森がある。その森を抜けたと思ったら、今度は年中立ち込める霧、異常な成長速度を誇る竹のせいで方向感覚が狂い、多数の凶暴な妖怪達も待ち受けている。普通の人間では自力で辿り着けない場所だ。

 人間であり外来人であるオビトが一人で、襖一枚を挟んだ別室へ移動するかのように数秒で楽々と到着した理由。霧も竹も距離も地形も妖怪も悉くを無視する、神威による時空間移動以外ではあり得ない。移動に必要な事前の印づけは済ませている。

 

「……って、貴方か」少女は胸を撫で下ろす。「急に現れないでよ、もう……師匠に何か用?」

 

 永遠亭に住む妖怪兎、鈴仙・優曇華院・イナバ。永琳の助手として薬の開発や医療に携わる人物だ。たまに薬を売りに里を訪れる関係で、何度か顔を合わせたことがある。背負った籠を見るに今から向かうところだろうか。

 取り扱う品々は質がいい一方、薬を売る本人は妖怪である上に愛想が良くなく、口数も少ないために里人達からは怪しいだの、気味が悪いだの思われているとの話もあるが真相は定かではない。悪い妖怪でないことはオビトも知っていた。

 

「あれ? 確か――」

 

 不意を突かれて注意が逸れていたのか、目の前に立つオビトが抱えている姿にようやく気づいた。

 うちはオビトが面霊気を抱えて急に現れたこと。人間が妖怪と一緒に居ること。人間のオビトと妖怪のこころの関係性。丈夫な妖怪が何故に意識を失っているのか。

 面霊気とのかかわりはなくとも、一目見て多くの疑問が湧いた鈴仙だが、オビトの顔を見て黙したのち「分かったわ」と頷いた。

 

「来て、案内するから」

 

 永遠亭は屋内の空間が拡張されているために、外観に不釣り合いなほど内部が広く、いくつも長い廊下や回廊で入り組んでいる。その割に窓や扉が一つも施錠されていないのは、屋敷の住人以外が許可もなしに入り込んだ場合、「どこをどう歩いても出入り口まで戻される」特殊な力が及んでいるからだ。下手な鍵より防犯性は高いと言える。

 もっとも、竹林ですら自由に歩き回るのが困難なのに、立地の悪すぎる建物を善からぬ目的で目指すなど、屋敷を永らく隠していた魔法が解かれた現在でも無謀である。ちなみに紅魔館のメイドや魔女が扱う術とは仕組みが異なるようだ。

 

「居るならオレだけでいい。お前は里に用があるのだろう」

 

 事前の連絡もなく急に現れたオビトでも、屋敷へ入るための許可が下りて、住人である鈴仙の知るところとなれば、永遠亭と月の姫君に拒まれることなく永琳の元へ辿り着ける。拒まれても現実空間を介さずに移動できる神威なら問題は生じない。特定の人物の元へ移動する際に必須となるチャクラは時空間に保存されている。それに永琳なら真意を視通すだろう。

 

「後回しでも平気。貴方がわざわざ来たんだし、よっぽどの事情なのは判る。いいからついてきて」

「そうか」オビトも頷いた。「なら行くぞ」

 

 永遠亭の案内を名乗り出た鈴仙が門を潜り、先行してオビトを敷地内へ入れようとした時、門の先の景色に歪みが生じた。

 鈴仙が眉をひそめて立ち止まり、不可解な表情で目を凝らす間に、歪みは左巻きの渦に変化すると、その中心に生じた穴が広がり始めた。徐々に大きさを増していき、やがて人ひとりが通り抜けられる穴ができ上がる。穴の奥には見知った部屋の内装と――これからオビトに会わせる予定である銀髪の女性、八意永琳その人の姿が見えた。

 案内すると口にした矢先の出来事。ぱっと見程度で理解に至るはずもなく、鈴仙は首を傾げたまま数秒ほど固まった後、呆れた表情で振り返った。こころを横抱きしたオビトが傍を通りすぎる。

 

「さ……ここが師匠の部屋よ」

 

 当初の予定通り屋敷に入って長い廊下を歩き、ある程度の時間をかけて到着したとでも言いたげに、鈴仙は動揺を隠しつつ自然な流れで穴を指し示した。門の前で口にする台詞ではない。

 永琳の方はというと、不意を突かれて硬直するどころか、穴の向こうに見える二人に微笑を向けている。「よくいらしたわね」と平然と声をかける始末である。入り口が開き始めた時には待機していたようだ。事前の打ち合わせはしていない。

 

「のんびりできる時間はなさそうね」

 

 永遠亭。永琳と鈴仙に続いて部屋を移動したオビトは、研究室に併設された明るい病室に通されていた。

 清潔な白いベッドにこころが寝かされている。意識が戻る兆しは見られない。永琳は何度か視線を向けては、診療録らしき物に何やら書き込む。

 鈴仙曰く、この部屋を使うのは一般的な患者ではない。容態が著しく危険と見なされて、長らく経過を観察する必要性が極めて高いと判断された、稀有な重症者を看るための病室だ。ここで言われる『稀有』とは、命にかかわる病や、致死性の高い感染症などを表す単語ではなく、症例が皆無か少ないために治療や回復が極めて困難、あるいは現時点で不可能とされる例の全般を指すようだ。つまりここに通された時点で、通常の治療では回復が見込まれない一例に仲間入りしたことになる。

 

 意識のないこころを寝かせた後、ここまでの経緯についてオビトは二人に話していた。所々で何度も驚きの表情を見せた鈴仙とは対照的に、永琳は冷静な面持ちで話を聴き、手元に筆を走らせるだけで、疑問を投げかけることもなく終始無言だった。

 

「さてと」

 

 永琳が再び口を開いたのは、オビトが話し終えて数分後、書き終えたらしい診療録を机に置くなり、鈴仙に指示を出して研究室へ向かわせた直後だった。

 

「そうね、とりあえず――結論から言おうかしら。このままだと死ぬわね」

 

 この上なく解りやすい言葉を直球で口にした永琳。はっきりと耳にしたオビトも眉をひそめる。

――死ぬ。命の脈動が失われる。心臓の鼓動はあれど生命力を感じないという、異常性が突出した不可解な容態に陥っている時点で、その辺の怪我や病の範疇ではないと考えはしても、こうも早々に『命の危険がある』と宣告されるとは予測できなかった。

 

「意識を失い、目を覚まさないのは……」

「ごめんなさい。訂正しようか」

 

 机に置いた医療録を再び手に取ると、永琳の視線が手元とこころを何度か行き来した。壁に背をつけて立っていたオビトは、腕組みを解いてベッドに近寄る。

 

「もう死んでるわ。この子」

「なに? 心臓は――」

「正確には」永琳がオビトを見る。「その『存在』の、ほとんどが死んでいる」

 

 医療に携わる者は安易に感情を露呈させない。余計な感情は心に乱れを生み、望まぬ結果を自他にもたらすこともある。

 永琳が冷静に淡々と喋るのは、命の危機に瀕した者を前にする医者としての心構えか、医療とは無関係な本人の性格ゆえか、あるいはこころの症例に対する驚きの裏返しか。感情を見せない言動から読み取ることはできない。向こうは目視と触診だけで容態を把握した様子だ。

 

「……ほとんど?」

「雑に言うなら八割。残りの二割程度で辛うじて生きている。意識を失ったのは、生命の維持だけで限界になる末期にまで侵食が進んで、他所に割く力が失われたから……ってところかな。だから今、この子の命を繋いでいるのは、残り僅かな気力だけ――それが潰えたら、お終い」

 

 精力や活力は生命活動の元となる内的エネルギーであり、チャクラの元となる身体・精神エネルギーは生命力そのもの。こころとて例外ではない。

 生命力に満ち溢れる者ほど多くのチャクラを保有するのは忍界の常識。惑星という人の身を遥かに超えた規模の代物を循環する自然エネルギー、チャクラから生まれた『尾獣』と、尾獣を体内に宿す『人柱力』は、とりわけ途轍もない生命力を内包している。うずまきナルトが代表的な例で、彼は尾獣の中で最もチャクラが強い九尾の人柱力であり、生命力に秀でたうずまき一族の血を引く忍でもあり、さらには六道仙人の実子・アシュラの魂をも継いでいる。三つ目に関しては千手柱間も同じである。

 しかしながら、尾獣を体から抜き出してしまえば、忍の神と謳われる者でも命を落とす。人の身に余る莫大なエネルギーが体内から一気に失われることで、それを留めて抑えていた体とチャクラの均衡が崩壊すれば、その負荷に心身が耐え切れず圧し潰される。数ある忍の一族の中でもずば抜けて生命力が高い、千手やうずまきの者でも命尽きるほどだ。全尾獣の集合体である十尾の場合は、尾獣が抜かれても素体となる外道魔像が体内に残るので死にはしないが、素体まで失うとやはり絶命に至る。

 チャクラが生物に及ぼす影響は大きいどころか、言葉では収まらない程度を占めている。

 

(なら何故……)

 

 体内にチャクラが欠片も存在しないのは死体くらいだろう。死体の心臓が動くはずもない。こころは『命の脈動を持つ死体』とも言える異様な容態を見せている。

 秦こころの生命力が、割合にして二割程度にまで弱って意識を失い、命の危機に瀕した体で床に伏している。そこへ至るまでの経緯や具体的な原因は置くとして、今現在の彼女が「倒れている理由」に関して言うなら、永琳の説明だけで納得できる。

 問題はチャクラの方だ。心臓の鼓動が生きている上、生命力が僅かでも残されているにもかかわらず、生命力たるチャクラが体内に存在していないこと。

 

「この体には今、チャクラがない。それでいて生きている……生命力がある。どういうことだ」

「『今』?」永琳はぽつりと聞き返す。「貴方の言うそれ、いつ頃の話かしら」

 

 ここで初めてハッとするオビト。永琳の意味ありげな目から視線を外すと、今もなおベッドの上で「死に続けている」姿を写輪眼に映した。

 永琳が口にした言葉の意味は理解したのは、その時だった。確かに失われていたはずの生命力――停滞したチャクラの色が(忍界で言う)生門と傷門、その周りの部位と、心臓にある死門の下部にも確認できた。他の部位は影が被さり見えない。

 

「けれど、また死ぬわ。すぐにね」

 

 永琳の呟きを耳にして数秒後、チャクラの色が消えた。最初にこころを発見した時のように真っ暗で何も見えない。雷が落ちて停電したかのように急に消えたのだ。

 

「例えるなら『電球』。寿命が近づいたら暗くなって、点滅し始める……尽きたら消えて、二度と点らない。電気が通っていたって、何回だって消えるものね」

 

 光を点し続ける限りは、寿命はどんどん削られていく。やがて失われれば光は消える。生命力が残ろうと体の状態次第では無駄になる。再び光を取り戻したければ、新しい物を調達すればいい。

 生き物の場合はそうもいかない。心身共に不滅の存在である妖精や、地上に現れるにあたり仮の器に入る神霊などは別として、普通の生き物は替えが利かない。付喪神として生まれたこころ、幻想郷にて最強と言われる巫女とて例外ではない。ここにいるオビトも同じだ。

 

「なら」オビトの目が細まる。「手だてはない、ということか」

「ええ。お手上げね」

 

 生物の命を維持する力が消失と出現を交互に繰り返していたのなら、チャクラの有無に関して誤った判断を下したのも頷ける話ではある。今回のような事例など、忍界はもちろん幻想郷へ来てから一度も見聞きしたり、書物で読んだこともないのだ。単純にチャクラの量が上下したり、強弱が変動するならともかく、その存在が切れかけの電球のように消えては戻るをしていた、などと。

 電球は使い続けるといずれは寿命で使えなくなる。生きようと命を燃やし続ける限りは削られて止まらない。火を消しても替えの利かない物に落とした命は戻らない。どちらの場合でも結末は変わらない。永琳の「死ぬ」という断定的な言い方にしても、何も手を打たなければ終わりを待つのみとなる。

 

「普通なら」

 

 死んだも同然の姿を黙って見下ろしていたオビトが、永琳の何気ない二言目を聞いて目を上げた。

 

「際立った異常性……それが糸口になると?」

「『このままだと死ぬ』」永琳が復唱する。「――死ぬというより、滅びて消える。死体も残さずに――少しずつ、その時が近づいている。普遍的で物質的な死じゃなくて、外形に依らない内面的で概念的な死がね。普通じゃないし、前例を知らないわ。私はね」

 

 生き物が死ぬと骸になる。死を迎えて間もないなら、生前と同じか近しい姿形が残ることになる。跡形も残さずに消えるのは、何らかの力を加えて形を失わせるか、何もせず時間を経て土に還るかの二通り。全ての生き物の共通ごとなら普遍的との言い方も間違いではない。だが一定の形を持たず、具体性の見えない定義から来る死は想像しがたい。

 

「存在意義。面霊気にとってのね。それを失ったら、この子はどうなると思う? 何も残らないわ」

 

 物事が存る意味や理由。幻想郷と外界の両方で常識的である人間よりも、非常識的で普遍的では生きられない理由を持つ妖怪について考える方が、永琳の言葉の意味を理解するのも苦ではない。

 

 今でこそ至る所から現れる妖怪も、元々は人間の畏怖心など、形のない非物質的なものが源流であるとされる。物質的ではない点、人の力や理解が及ばない点でも、信仰から生まれる神々とは共通する。人間が抱いた「怖い」や「解らない」、「手に負えない」といった思いを聞いて、それらが目に見える形で表れた姿と言える。

 つまり妖怪は、自らが存在する意味を生まれる『前』から持っている。その一方で、人間が持つべき意味は、生まれた『後』にどこかで見つかることになる。生まれる前から明確に意味を持つ妖怪と、生まれた後に持つことになる人間、という差異が両者にある。妖怪は意味を持ったから生まれて、人間は意味を持つために生まれたとの言い換えもできる。

 生きる意味を後から見つける人間であれば、生きている間にそれを失ったとしても、代わりとなるものを見つけて穴を埋められる。自らの存在まで失うことはない。しかしながら、生きる意味を生まれる前から持ち、そのために生まれた妖怪であれば、自らをも失うことになる。意味を持つ前の自分に逆戻りするとも言えよう。

 

 妖怪が持つ命の拠り所は肉体ではない。肉体が消えても失われずに存在し続ける魂、精神の方にある。ゆえに体を破壊されて死を迎えたとしても、生命を擁する魂が無事であれば、滅びることはないとされる。不老不死の蓬莱人も似たような理屈だ。

 彼らを待ち受ける終わりとは、何かを残す『死』ではない。何も存在しない『無』に帰することを意味する。永琳の言う存在意義の喪失によって。

 

(…………)

 

 生まれも存在も人とは異なる部分があれば、人には理解の及ばない物事も出てくる。

 永琳が口にした外形に依らない死とは、人間が決して迎えることのない――否、永琳にすら普通ではないと言わしめる上、これまでに例がないとの言葉から、全く新しい形での終わりを意味する。人間や他の妖怪とも異なる濁りがあるのだ。

 

「存在意義……その存在を繋ぎ止めるもの。そいつが失われつつある」

 

 御面は喜怒哀楽など色々な表情を持っている。見る角度により表情が変わることから、無表情とされる能面も、動きを表現する能の世界では一つ処には扱われない。

 表情は感情から生まれる。喜びや哀しみ、憤りなどの感情が心に生じるために、それを感じさせる何らかの動きや変化が目や口元に出て、表情が顔に作られる。数多の感情を司る面霊気を語る上で表情は外せない。

 

 表情が生まれる要因こそが感情である一方、表情を作って感情を表現するのは顔である。感情があるから表情が生まれて、顔があるから表情が作られる。身体の内外で役割を異にすると言えよう。これら二つの始まりは生き物の心だ。それを欠いては感情も表情も生まれず作られない。

 こころは誰がどう見ても無表情と思えるほどに、何を喋ろうと表情は動きようもない。感情が表情を生むのなら、表情のない彼女は感情を欠いており、感情の元となる心をも持たぬことになるが、本人の近くにはお面、つまり『表情』が決まって表れる。口を開く時はもちろん、閉じている時でもお面は浮かんで変化もする。

 何より声にはハッキリと込められている。何度も耳にしたものだ。むしろその辺の妖怪より感情が豊かである。ならば表情とて同様に見なせよう。こころの表情は顔ではなく、自らが従える面に表れている――否、現れている。

 お面に感情表現を任せる彼女自身が、秦こころという人物の表情を生む『感情』、ひいては『心』そのものであると言えるのだ。

 

「感情。存在する意味ってのはそれか」

「間違いないでしょうね」

 

 存在意義を失うという永琳の言葉は、感情や心の喪失が命を脅かすとの意味を含むのか。

 こころ自身は表情がないだけで、感情は豊かすぎて騒がしいと言えるほどだ。人間の里で倒れた時にはすでに末期だった――そう見なせるほどに経過が進んでいたのなら、感情の欠落など何らかの兆候が視られたのではないか。

 

「腹の減り……ってのは、関係があるか?」

 

 今にして思い返すと、路地での遭遇は本当に空腹による行き倒れだったのか、疑う余地が生まれる。本人が空腹を訴えたために言及も深入りもしなかったが、永琳により容態が異常と判断されたからか、大小様々な可能性が頭をよぎった。案の定か「あるわね」と即答する永琳。

 

「空腹は食べ物を求める体のサイン……生命を維持するエネルギーをね。塩分の濃い物を食べたり、運動して汗をかいたら、水が欲しくなるでしょう? そんな感じね」

 

 食事は生きるために必要な衣食住の一つ。神樹より生まれた体細胞が侵食するオビトなどの例外を除けば、基本的に何かを食べて生きている。摂取したエネルギーや栄養、水分を使って健康的な体を作り動かす。こころの場合は意味が異なるが、体に入れるものが何であれ、命を延ばす行いには変わりない。自己を保存するための反応が引き寄せたのだ。

 意識を失うと自力で食事ができない。永琳の言う八割の中に含まれる行為なのだろう。

 

「だが感情ってのは、何者の……」

「貴方よ。オビト」

 

 沈黙。病室は物音や息づかい一つ聞こえない。

 オビトが黙り込んでいると扉が開いて、薬瓶をいくつか抱えた鈴仙が入室した。張り詰めた空気がただごとではないと察したのか、二人の姿をちらっと映すだけで何も言わなかった。鈴仙が近くに来てもオビトの視線はこころから外れない。

 

「なんて」永琳は微笑を薄めた。「確証はまだないけど、そう予想できる程度には辻褄が合う。不思議なことにね」

 

 鈴仙が声をかけて渡すつもりだったのだろう、空気に押されて口を開かない彼女から薬瓶を受け取ると、目線と同じ高さに持ち上げて「オビト」と名前を復唱した。

 

「込み入った事情には踏み込まないけど。これだけは言わせてね。感情を失くしてしまうって、大変なことよ。貴方や私たちも含めて」

 

 永琳が変わらない口調で喋った瞬間。背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、表情はそのままに「どういうことだ」と聞き返した。鈴仙は壁に背をつけて二人を映している。

 

「多くの妖怪は脆いものなの。人間なら『くだらない』とか、『しょうもない』と考えるような、ほんの小さな物事でも、妖怪にとっては――思いのほか重大な問題の原因になる場合もある。その後を左右するほどの……命にかかわるものも含めてね」

 

 人間と妖怪の差異は聞いたことがある。体が丈夫で寿命も長い妖怪が内包する脆さを。永琳の言う物事の捉え方がそれだ。人間から見ると興味の対象には映らず、取るに足らず、不要であると思うような話題や行為に飛びつき熱中する。長々と生きて一回りも二回りもした者が抱く好奇心であり、短命で成熟の早い人間では理解に至らない、ある種の刺激であると。その妖怪らしさが裏目に出て、自分の首を絞めることもある。

 こころの容態を見抜いた永琳とて、確証を得ていない部分の方が多いはずが、なおもオビトに核心的な問いを投げかけない。本人から詳しい事情を聞き出すつもりはない様子。

 

「さて」瓶から何錠かを取り出す永琳。「人間が使う物から生まれて……彼らの『感情』を司り、その具現とも見なせる。そんな生き物が、歩いたり呼吸するより――心臓の鼓動と同じくらい当たり前のことが――これまで普通にできたことが、急にできなくなったら。言葉で言い表せるものじゃないわね、とても」

 

 先を見通すように淡々と滞りなく喋る永琳だが、この病室での会話で生じた疑問が順調に消え続けてもなお仮説の域を出ず、確信と言えるほどには至らない。こころに関しては解らない物事の方が多いのだ。

 医療や妖怪に詳しい彼女が知らず、知る由もないことが一つだけある。オビトの身の上である。

 

――感情の欠落。喪失。人々の感情を司り、自らが存在する意味とする面霊気にとって、理解に至らない感情とは最たる害悪。種を違えて安定した命を持ち、物差しまで異なる人間から見れば、感情を要因とする終わりの形など容易には想像できまい。永琳の言う通り「くだらない」と思うだろう。然るにマシな方なのだ。失ったり欠くべき感情があるならば。

 表情を生む感情ではなく、感情の源泉である心。それを何ものもない、偽りのモノと見なして捨て去り、目に映る世界の理ごと『否定』して『忘却』の彼方へと追いやり、容れ物だった己自身の存在をも拒絶して、心を失うどころか入る余地もない身にまで、自らを異色に沈めた者ならば。

 周りを見渡して同じ色を探そうとしても、無駄な努力で終わるだろう。

 

(――…この『オレ』、か)

 

 かつて失った心。彼女に終わりをもたらさんとする者こそ、他ならぬ『うちはオビト』だった。

 

 道を変えた今となっては、あまりにも的を外した答えと思わせる。しかしながら、過ぎ去った時間がそのままであるように、かつての過ちを犯す以前にまで時を戻すことは不可能だ。血に染まった赤い夜を境に否定して忘れ去った、お調子者の泣き虫だった幼少期の『オビト』まで戻ることはない。今現在に幻想郷で生きるオビトを形作るのは、面を被って闇に生きていた『マダラ』でもあるのだ。

 白黒入り混じったオビトに昔の『オビト』が在らずとも、それを思わせる色々な表情は在り、元となった心が内在していたのも事実だ。その片鱗は今もなお残されている。オビトの内にある「存在しないが在る心」こそ、人の感情を手に取り理解するはずの彼女を惑わせて、死の淵にまで追い詰めたモノの正体だったのだ。

 

「いつからだ」

 

 病室に静かな声が響いた。永琳は手元の注射器に透明な液体を通すと、こころの上腕に手を触れながら「ハッキリとは」と返答。鈴仙が駆け寄って容器を受け取る。

 

「末期と言ったな……アンタは。そう言えるほど進んでいたと。もっと前から影響を受けていたはずだ」

「少なくとも」こころを映している永琳。「この子が面霊気として、貴方の存在を認識した時から。貴方が初めてこの地を踏んで以降、でしょうね。具体的な日時は判らない」

 

 里の路地で初めて遭遇した時にはすでに、医療の心得のある者が一目見て末期と判断できる容体だった。それも前例がないにもかかわらず。

 月の頭脳と謳われた永琳に不確定な思考を強いるのは、幻想郷とそれを取り巻く世界とは異なる、全くの別次元に存在する『忍界』から来たオビトに関連する情報の一切合切が、縁もゆかりも生じようのない者には未知でしかないから。だが手を施す余地が残されているからこそ、永琳は具体的な行動を起こしているのだ。

 数多の忍達を葬り去ってきた一方、誰かを救う術を著しく欠いたオビトには、何もできず動向を視るしか手はなかった。

 

「ひとまずの延命処置。長くはもたないけれど、猶予は生まれた。成すべきことを成すまでの時間はね」

 

 処置を終えた永琳がそう言うが早いが、オビトは写輪眼でこころを映した。意識は失ったままで目を覚まさないが、暫し注視していたところ、停滞した僅かなチャクラが体内に確認できた。消失を繰り返したりと不安定な動きは鈍っている。

 経過は相も変わらず、妖怪かどうか以前に生き物とも言いがたいままだ。

 

「オレの役目だ」

「そう」永琳は視線を戻す。「――リミットは約六時間。二度目はないわ。諦めるつもりがないなら、それまでに終わらせなさい」

 

 ここで初めて鈴仙の名を呼んで「それを」と口にする。鈴仙が慌ただしく近寄って一枚の紙を取り出して渡した。永琳は受け取り確認した後、丁寧に折ってオビトに手渡す。

 

「師匠。あの、まさかとは思うんですけど……」

「他に手はないもの。仕方ないわ」

 

 皆で病室に入るなり、助手の鈴仙に命じて取りに行かせた物。こころに処置を施すのに必要な薬と同じか、それ以上に重要な物とは何か。

 オビトが渡された紙は一枚の地図で、それが示す場所は竹林でも幻想郷でも、深い底にある地底界でもなかった。紙面の上部には達筆で『魔界』と書き記されている。

 

「待ってください」鈴仙が再び口を開いた。「人間が踏み入って平気な場所では……我々妖怪でも慣れがなくては命を落としかねない。こっちなんかよりずっと危険です! 人間を護る約定も、遊びの規律だって向こうには――」

 

 地図で示す場所についてはオビトも知っていた。人間の里で毎日を普通に過ごす分には関与する機会のない、幻想郷とは隔絶された別世界のことを。幻想郷に隣接する地底界や、結界の力で分けられた外界や月界、以前の冥界のように『空間』のみを異にするわけではない、『時間』の流れも異なる隔絶世界の一つだ。この世界から見て認識の外にある忍界とは違い、出入り口が在るので足を運ぶのは(比較すると)容易いが、問題は向こうを取り巻く環境である。

 最たる理由は安全面。幻想郷では人食い妖怪の脅威こそあれ、里に住む人間は賢者達が作った約定による庇護下にあり、身の安全に関しては保証されている。身近で発生した問題を得点競いで解決するゲームにしても、女の子の遊びとはいえ寄与はしている。しかしながら、この二つは幻想郷と一部の場所でのみ通用する規定で、魔界に関しては適用外。そもそも管理者達の管轄外なので目も届かない。

 秩序は形作られているために無法地帯とは言うまいが、向こうで物を言うのは力であり、互いを守るための取り決めは基本的に存在しない。此方で例えるなら、人間の里が妖怪達の襲撃を日常的に受けているようなものだ。

 そして魔界には魔物と呼ばれる、幻想郷で言う妖怪に類する危険な生物が跳梁跋扈している。魔界人も話の通じる者ばかりではない。向こうで旅の予定を組んで幻想郷を訪れる者もいるようだが、少なくとも人間、とりわけ外来人にとっては、危険度は此方より上と思っていいだろう。

 

「必要なものは二つ」

 

 永琳は暫し時間を置いた後に言葉を続けた。鈴仙の言い分を聞いてもオビトは何も言わない。

 

「地図に記された場所……そこに群生する毒草が一つ目。魔界の気候でしか育たず、奥地の環境でしか生きられない。赤黒い色の葉と茎、表面の不ぞろいな突起が特徴よ。根っこごと四つもあれば十分ね。おそらくは」

「……毒を使うのか?」

「毒も毒、猛毒をね」永琳は至って冷静。「僅かな量と時間で数百は殺せる。容体が容体だからね」

 

 毒も薄めると薬になる。薄めずとも薬として利用できる場合もある。薬師たる者が欲しても疑問は生じない。

 素人目では致死性の高い毒という部分に注目しがちだが、薬の開発に豊富な実績を持つ専門家からすれば、高い毒性を持つ草花は製薬において見逃せない。毒とは高質な薬の材料なのだ。

 ここで言う毒性の高さは作用の強さとも言い換えられる。通常の薬剤による効果が皆無か極めて低いと判断された患者の容体を安定させる――否、何らかの変化を起こすための成分としては十分すぎる。忍界でも医療忍者の間では薬の材料として扱われており、毒蟲の体液から独自の解毒剤を調合する一族もいる。

 ただの死ではない。その存在を失って、滅びて消えるかどうかの瀬戸際。すでに死んだも同然の身体でもある。そんな容体を思えば想定の範囲内と言える。

 

「採取と保管、運搬にあたって、困りごとはある?」

「イヤ……今のところは」

 

 赤砂のサソリとは異なり、毒物の専門家ではないオビトでも、原料である草花の状態での扱いなら問題はない。傷口や指先に触れるだけで死に至らしめる毒とて、神威を使えば肌や粘膜に触れず採取できる。誰も居ない時空間ならむき出しでも保存できる。発見した毒草を確保する点で不便はない。

 魔界には毒草以外の危険も蔓延るはずだが、先ほどから話題に挙がるのは薬の材料関連、つまりオビトが持たないか乏しいと思われる情報のみで、幻想郷縁起を始めとする資料に記載のある情報は省かれた。何より本人も疑問をぶつけない。

 

「では二つ目。今ここにいる、貴方自身。一つ目よりも重要よ。ずっとね」

 

 再びオビトを指し示す永琳。オビトは黙さず「そうか」と返した。鈴仙の方は不可解な表情で二人のやり取りを見ている。

 振り向きざまに赤い眼光が走ると、病室の壁に空間の歪みが発生した。渦の広がりと共に出入り口が開かれる。穴の向こうは屋外で、屋敷の正門と竹林が映っている。永琳は「せっかちね」と微笑む。

 

「人選はご自由に。お望みならね」

 

 己の存在こそが救うための二つ目。それを聞くなり踵を返したオビトを見ても、永琳は待ったをかけないどころかベッドに視線を戻すと、今度は「鈴仙」と呼んだ。

 

「ここは私だけで大丈夫だから、貴方は貴方のお仕事を済ませてはどう? 今日任せた分はちゃんと、明日の夕刻までには終わらせてね」

「師匠――」

 

 師の永琳やオビトより分からないことが多い鈴仙。研究室に併設された特別な病室に収容して管理下に置いた永琳と、面霊気に関与して永遠亭にまで連れてきたオビトに比べると、今回の鈴仙は少しばかり蚊帳の外にある。

 数秒ほど黙したのち決した様子で、扉ではなく穴の方へ小走りで駆け出した。

 

「待って」

 

 渦が収まり空間の穴が閉じる。後に続いて門の外へ出てきた鈴仙が、足を止めているオビトに追いついた。

 

「どうした。伝え忘れか?」

「じゃなくて」鈴仙は衣服を整える。「貴方、本当に行くつもり? 人間が妖怪のために」

 

 里人を保護する約定も管理者の目も、ごっこ遊びもない魔界は妖怪にすら危険と言わしめる場所。地底の鬼や吸血鬼など強い力を持つ者ならともかく、その辺の者では人も妖怪も下手を踏むと命を落とす。渡された地図は永琳が作った物なので信頼できるとはいえ、はっきりとした行き先が分かっていて、方向音痴でなかったとしても、人間には荷が重すぎると言わざるを得ない。そして人間、外来人が妖怪の命を救うために自ら危険を冒すなど。

 博麗の巫女など一部の特別な立場の者を除けば、人間とは妖怪より弱く、護るよりも護られる側であり、世界の管理者たる賢者達に管理される側でしかない。ましてや外来人の命は妖怪にとって、自分達が在るために必要な里人より遥かに軽いものだ。幻想郷は妖怪のために築かれた楽園、それは紛れもない真実であり現実だ。

 自分の意思で永遠亭を訪れた時点で、秦こころを助ける気がオビトにはある。でなければ連れてなど来ない。判ってはいても、普段はかかわりがなく、オビトという人間をよくは知らず、親しいとまでは言えない鈴仙にとって、そんな人間が魔界に乗り込んでまで助ける意味が解らなかった。元より妖怪は人間ほど他者との間に絆や愛を育まない。

 

「お前の師も言っただろう。それ以外の選択肢はない」

 

 鈴仙が投げかけた言葉の意味は、オビトとしても重々承知だった。事前に書物を読んだり、誰かに聞いて得た知識を十分に蓄えて活用できても、実際に赴いて直に感じるものは、頭の中で思い描くものとは異なる。外来人が踏み入る危険性など初めから承知の上で話を進めたのだ。

 然るに人間のオビトが、妖怪のこころを何故に助けるのか。その理由について本人は答えなかった。あの永琳にも同じ反応を見せただろう。

 

「行くにしても、誰と? 手を貸してくれる人でも?」

 

 妖怪は元来『孤』を好む生き物である。仲間意識を明確に持つ天狗や河童などが珍しいだけで、特定の仲間を持たない一人一種、独立体と呼ばれる者達の方が、本来の妖怪らしさに忠実と言っていい。そんな妖怪が種族を違える人間をどう思うかは不明瞭な上、手を貸すかどうかは個人の問題なので、鈴仙としても他の妖怪達の考えは判らない。彼女自身も身内以外とはかかわらない方だ。

 

(…………)

 

 面霊気を救うために動く人間に力を貸す人物。本当の意味での協力とは異なるものの、興味本位や何らかの思惑で名乗りを上げるであろう者なら、何人かは心当たりがあった。

 向かう場所が場所であるからには、手を貸すかどうかを考えるよりも、土地勘の有無や力の強弱を判断の基準にして、互いの利を徹底して考慮した打算的な関係を、短期間の契約との形で結んで構築する方が現実的だ。そのための下準備ならやりようもあるが、時間が限られていることが問題である。こころの容態に気づいた時にはすでに、永琳曰く末期と言える段階にまで時間が迫っていた。入念な準備ができない以上、長々と熟考して決める余裕はない。

 順当にいけば、魔法の森に住む霧雨魔理沙やアリス・マーガトロイド、里の南にある命蓮寺の聖白蓮、紅魔館のパチュリー・ノーレッジ辺りが候補に挙がるだろう。いずれも魔法使いや魔女として強い力を有する。特にアリスはこの中では唯一の元魔界人で知っていることは多い。白蓮も過去に魔界との接点を持っていた。お祭りごとが大好きな魔理沙、万華鏡の瞳術に関心を示しているパチュリーも望みはある。

 魔界の瘴気は魔力を高める効果があり、これら四人は普段以上の実力を発揮できる。万一魔界の妖怪に遭遇して戦いに入っても有利に立ち回るだろう。オビトに手を借りる気があることを前提とした話だが。

 

「さあな。どっちでもいいことだ」

 

 面霊気として人々の感情を司り、表情を生めど作らない感情そのものとしても在る、秦こころ。

 幼少期に捨てて失った『オビト』としての心、在りもしない感情を当然に理解できないがために、己の存在する意味を自ら否定する方向に揺れ動き、曖昧で不安定と化したことで消滅の一途を辿っているならば。違和感を拭い去るための思惑であれ、過去に犯した罪の償いであれ、無関係な個人の思いから来るものであれ――幼少期の心を失いながらも後に道を戻して、再びオビトとして歩き始めた者として、己自身の手で決着をつけるべき問題に変わりはない。

 

「それが正解かもね。今から頼みに行ったって」

 

 誰かの力を借りると踏んでいた鈴仙。当てが外れても驚いた表情を見せない。覚悟を決めて踏み出した者はもう一人いたからだ。

 

「行きましょう」鈴仙はオビトの前に出る。「時間は有限よ」

「待て。お前には関係のない話だ」

 

 永遠亭の妖怪兎、鈴仙・優曇華院・イナバが同行を自ら願い出た。予想外の流れに耳を疑いながらも、彼女の協力についてオビトは積極的に受け取れなかった。他の誰が口にしても同じ思いだろう。鈴仙は少しおかしそうに「安心して」と言った。

 

「私のためでもある。医療に携る者としてのね」

「お前の?」

「こっちじゃ見られない薬草が、向こうにはたくさんある……希少なのも含めてね。魔界に足を運ぶ機会なんてそうないし、手に入れるには都合が好いでしょう?」

 

 鈴仙は八意永琳の助手として日々を過ごしている。新薬の開発を行う薬師ともなれば、製薬に用いる薬草や茸など必要な材料を、研究室かどこかに保管しているだろう。里医者では治せない病にも効く薬になら、希少価値の高い材料を使うだろうと想像はできる。幻想郷とは気候も環境も異なる魔界になら、此方には群生しない草花も生えているはずだ。使い道が分からず得体の知れない物も含めて。

 

「いざって時は守り切れんぞ」

「頼もしい言葉だけど。保護する側なのは、私たち妖怪の方。考えは同じ」

「……そんな内容だったか」

「捉えかたの問題」鈴仙の咳払い。「大きな借りもある。貴方の力も少しは知ってる……師匠も分かってて任せたのかも」

 

 以前にある騒動で関与した鈴仙。妖怪たる彼女と本気で戦ったことは一度もなく、持ち札は幻術など一部を見せただけで知らない力の方が多いはずだ。それを見抜く眼力を持つのか、聡明叡智な師からの伝聞かは定かではないが、人間を保護する立場を称する者も認める何かがあるのだろう。

 

「場所は分かってるの? 案内もできるけど」

「基礎的な情報は頭に入っている」

 

 魔界は幻想郷から行き来できる異界の一つ。いくつかある出入り口の中で可能性が高いのは最東端、博麗神社の裏手にそびえる山。外界や出入り口のない忍界より干渉が容易である一方、大きな空洞を下りて入るだけの地底界や、現世とを隔てる結界が緩んだままの冥界よりは難しい。

 外で言う非常識な物事を受け入れる幻想郷では、常識的とは縁遠い現象が星の数ほど発生している。異界への出入り口が集まりやすい理由である。ちなみに境界の妖怪曰く、忍界は幻想郷と同じで外界から見た外側、非常識とされる世界と解釈できるために、及ぶかどうかは別として、理論上は『幻と実体の境界』の力を受けるらしい。見方が変わると力も変わるということだ。

 

「行くぞ」

 

 あの山は人間の里から見れば辺境の辺境で、端の端にある博麗神社からも少し離れている。鈴仙のように飛行能力を持つ妖怪ならともかく、徒歩なら忍の足腰でも数時間は要する長い道のり。道中の深い森や山道での妖怪による襲撃の可能性を考慮するとさらに延びる。こころに残された時間は限られており、秒針を押し止めておける時間も有限である以上、省ける時間は徹底して省いて動くべきだ。

 瞼の奥から三つ巴紋様が現れる。オビトの頭上に渦が巻くと、二人の姿が吸い込まれて消えた。

 

「この辺りだ」

 

 永遠亭の敷地から消えて数秒後。鬱蒼とした深い森の中に、二人は神威空間を経由して降り立った。

 鈴仙は周辺を見回す。日は高いが密集した樹々で辺りは薄明るく、鳥獣や妖精の声、風や葉の擦れる音も聞こえない。竹林で感じていた空気が様変わりして、不気味な静けさが包んでいる。

 

「いい薬草があるのよ。これとか……傷の治りが早くなるの。塗り薬だけど錠剤にも使えて便利」

 

 いつの間に採取していたのか、手元にある黄緑色の植物をオビトに見せた鈴仙。薬学や植物の知識に乏しい者には雑草と見分けがつかない草花でも、彼女にかかればたちどころに判別して用途まで判るようだ。辺境にあるこの山を訪れたことがあるのかオビトが問いかけると、鈴仙は「何度かね」と穏やかな口調で返答した。

 余談ながら、山にあるのは薬草ばかりではない。地面を少し掘るだけで得体の知れない物品、封印された禁忌の類が出土するとの怪しい噂がある。その割には禁足地でも何でもなく、麓には妖精達が住まう大樹がそびえていたりと、人っ子一人いない秘境とまでは言えない。

 

 最東端に位置する博麗神社から、僅かに北に逸れた辺りの山中で、少し行くと枯れては潤うを繰り返す小さな湖がある。近辺にある洞窟の奥に魔界へ繋がる扉が在るとの話だ。

 立地の悪さもあり気軽に来られる場所ではなく、何かしら用事がある者以外で踏み入る機会はないに等しい。妖怪の山とは違う意味で里の人間には縁がないと言える。人間の参拝客も欲しがる神社が山頂に座する分、縁遠さはこちらが上かもしれない。知名度も向こうが格段に上

である。

 

「あそこね」

 

 森の奥に見える岩場の方を鈴仙が指さす。沢山の樹々で覆い隠されるように、人ひとりを通す程度の穴がぽっかりと口を開いている。

 神威を用いた目的地点への正確な移動、少し下りた場所にある湖の位置から見ても、書物に記載があった洞窟で間違いない。入口の不ぞろいな形状と荒れ具合からして、自然が形成した物にも見えるが、扉があるなら誰かが通った痕跡もあるだろう。

 辺りに別の気配やチャクラの色は視られない。鈴仙もオビトに続いて踏み入った。

 

 洞窟と聞いて予想した通り、内部は湿っぽく気温も低い。頭上から滴り落ちる雫が耳を打ち、静寂の中で足音が反響する。

 蝋燭など明かりは存在しないはずが、不思議なことに奥へ進むほど暗闇が薄暗くなり、段々と薄明るくなり、前方に石の扉が見え始めた頃には洞窟の外と遜色ないほどに。穴の幅や高さも入った時より広くなっている。出口のない出口に辿り着いたかのようだ。

 

「……初めて見たけど、厳かな感じね。こうして見ると」

 

 幻想郷と外の世界を隔絶させる博麗大結界。それを越える手段が一つではないように、魔界との境界を跨ぐための出入り口もいくつか存在する。何もないところに急に現れたり、時が経つと閉じて失われる物もある。うち一つがこの洞窟に在るわけだ。

 

(どうなる)

 

 先んじて確かめるべきは、この扉が書物で読んだ通りの出入り口か否か。

 扉の外観を目視するだけでは判断がつかない。手を触れて忽ち判るほど簡単でもない。写輪眼を用いて見分けるだけでは不安も残る。方法は一つしかない。神威の実体分離によるすり抜けである。物質的な遮蔽物はもちろん、結界など非物質的な障壁も意味をなさない力だが、博麗大結界や月の結界など、空間ごと切り取って認識ごと隔絶させる代物には干渉できない。

 ここが本当に魔界との境界線なら、目の前のコレをすり抜けて通ることはできない。

 

「…………」

 

 力押しでビクともしないのは当然として、思った通り神威でも抜けられない壁だ。念を入れたがどうやら本物のようだ。

 

「これ、どうやって? 師匠と行ったところは、穴に飛び込んだらすぐだったのに――こっちのは扉になってる。貴方に付いては来たけど……通る方法を知ってるのよね?」

 

 門を潜り抜ける手段をオビトが持つ。鈴仙はそう思っていた。永琳との会話では魔界への到達手段どころか、『魔界』という単語を見聞きしても疑問を投げかけず、永琳にして「せっかち」と言わしめる姿勢を見せたのだ。初めから知っていたかのように。

 ゆえに自らが知る方法を提案しない――否、する暇がないままに山の奥深くまで赴いた。異邦人であるオビトがどのように魔界へ乗り込むのか、内心では鈴仙も気になっていた。師に同伴して魔界へ出向いたのは昔の話なので、今でも同じ場所に同じものが存在するか否かが判らず、自信がないという理由もあったが――。

 

「久方ぶりの客人」

 

 咄嗟に鈴仙の目が走る。無機質な声を静かに発したのは、門の前で立ち止まる鈴仙でもオビトでもない。二人の眼前に浮かび上がり現れた人物だった。

 口を利いた以上は人間や妖怪と見なすべきか、然るに姿は人にあらず。見た目は大きな『陰陽玉』。声を発した誰か(何か)の正体だ。赤色と黒の太極を描き、表面には血管のような筋が浮き出ている。ちなみに半分の黒は透過した岩肌の色なので実際は無色。

 

「アンタが『シンギョク』か。急に来て悪いが、頼みたいことがある」

 

 突然すぎる出現に困惑した様子の鈴仙。同じく初対面であるオビトは動じない。足を止めて黙していたのは、事が起きる時を待っていたからだ。

 陰陽玉が不思議な光を放ち始めた。その形状が次第に人型となり、赤色の長い髪がふわりと揺れた。白い服の上から短いマントを羽織り、頭部の角は左右に二本ずつ。少女の姿ながら神々しい雰囲気だ。

 

「知り合い……って感じじゃないわね。誰なの?」

「魔界の入り口を護る番だ。他の奴に門は開けない……やはりこっちにも来たか」

 

 シンギョクは幻想郷とを繋ぐ魔界の扉を開け閉めできる門番。曰く魔界への出入口は博麗の神代にも在るようで、普段はそちらに身を置いて番をしているが、形式上は全ての門を司り守護する立場にあり、こちらを護る本来の番が不在の際に代行する場合もある。悪魔の館を護る妖怪とは異なり昼間でも眠気は出ないようだ。

 ただし、鈴仙が初対面である辺り、この限りではない場合もある。実が伴わない例は幻想郷ではかなり多い。

 

「向こうに入りたい。あるいは何かをしたい。どちらかとは思うけれど、人間――それも外界人では判りにくいわね」

「後者だ。一刻を争う」

「遊びではないのね」シンギョクは首を傾げる。「ワケを話す?」

「門を通るのに必要なら」

 

 これまで数知れず相手取ったと言いたげに、落ち着きのある慣れた姿勢で対応する門番。言葉は滞りなく口調も穏やかだ。門を通ろうとする理由を尋ねるにあたり、来訪者に腹の内を見せないで済むための道を指し示す始末である。

 厳格で神々しい雰囲気こそ持てど、堅苦しさや融通の利かなさは微塵もない。何故ならば。

 

「いいよ。開いてあげる」

 

 あっさりと頷いて承諾した。居眠りする割に忠実で堅牢な方や、幼く血の気の多い方とも違う。食事処でお客を席に案内する店員のようだ。

 妖怪や神霊など数多の種族と個人を網羅した、幻想郷縁起を始めとする多くの書物を読破したオビトでも、表面的で薄っぺらい情報しか得られていないシンギョクなる人物。というより人を模る陰陽玉。外来人が縁もゆかりもない魔界を何故に目指すのか、門番が理由を聞かずに下がって快く道を開けようと、想定や理解の外とは言いがたい。常識破りの世界に慣れを持つ時点で判り切っている。

 

「少し下がりなさい。お決まりの砂利や土埃は出ないけど、溜まった陰の気が漏れるから」

 

 言われた通り後退する二人。目元に影を落とすオビトに対して、鈴仙は妖しい輝きを宿す赤い瞳にシンギョクを映している。

 本人が眉一つ動かさず、視線を扉から外さないのは、何者が探ろうと意識を向ける価値もないと判断したからか、気づかないだけなのか。良くも悪くも常識をぶち壊す者達ならば、度肝を抜く結末を迎える可能性もあるのだから驚きだ。その光も扉が動き始めると消える。

 夢映す羊飼いとの違いは、飾り気のない石の扉である。左右なり上下なりに重々しく口を開くと思いきや、無音の世界で溶けるように消え去り、台座に乗った丸い水晶玉のような物が姿を見せる。

 

「待った。そこで待つ」

 

 台座に近づかんとしたオビトの動きが止まり、鈴仙も疑いを含んだ視線をシンギョクに向ける。

 

「まだ何か? 開いといて気が変わった、とか言わないでよ。今になって」

 

 魔界の番であるシンギョクと初対面なのは鈴仙も同じだ。何度も顔を合わせて見知った間柄でもない、昨日今日に会ったばかりの者では知らないことの方が多い。そんな鈴仙から見たら、門の先を護るための役が門番なのに、余所者の妖怪や人間、あまつさえ外来人を簡単に通すような輩の言葉を疑わずに信用しろと言う方が無理な話だった。

 物事の波長を視て操る者が力を振るえば、心に包み隠された嘘や真を見抜く程度は易々とできる。元より臆病ゆえに警戒心が強い彼女とて、他者を信用する余地も生まれよう。然るに『波長を見せない者』がいかなる言動を見せようと、その姿と気配が完全に消えて失われるまでは、警戒を解かず注意深く物事を映すだろう。

 知ってか知らずか、シンギョクは暫し鈴仙を眺めたのち、再びオビトに目を向ける。

 

「気は変わらないけど、代わり換わりてひとつ忠告を」

「何だ?」

「向こうは『広い』――貴方の居た場所、居る場所、全てを束ね上げても届かない。銀河に瞬く億や兆など指の数に劣る。人の子や妖が塵と成り、何京何垓とて廻ろうとも、果てを映すには至らない。懐の物を渡してみて」

 

 シンギョクの視線が胸の下辺りを捉えた。オビトは懐から地図を取り出す。

――オビトの身を包む黒い衣は、分厚い上に丈が長く、あごから下は肌が見えない。腹部辺りから切れ目が縦に入り、動きやすいよう作られているが、裾の長さが膝下まであり、僅かに覗える部位も履き物と、忍具を留める包帯で隠されてやはり見えない。袖も手袋ごと腕を覆い隠すほどに長い。うちは一族の忍装束は普段着と戦闘衣を兼ねている。

 特殊な体質で暑さや寒さを覚えず対策も不要といえど、暑い時期に相応しい格好では決してない。肌の見える涼しげな服装の鈴仙とは真逆である。

 

「ふうん」地図を読んで呟いたシンギョク。「こんなに具体的で正確なら、場所を絞るには十分。好かったじゃない」

「絞る? 入るだけじゃ不足か」

「貴方たちには広すぎるもの。触れるだけじゃ駄目。通るだけじゃあね」

 

 門を護るシンギョク曰く、魔界の大きさを計算するにあたり、妖怪賢者や式達の超人的な頭脳を用いる必要はない。その辺の幼子でも判るほどに単純明快。答えは無限である。果てのない魔界は地平線や水平線がどこまでも続くのだ。幻想郷や外界を始めとする、色々な異界をごちゃまぜにしたような場所で、森や渓谷、荒野に砂漠、雪原とあらゆる気候や地形があり、空に浮かぶ島や八大地獄と何でもあり。いずれも本物ではなく、魔界の創造主たる全能神が再現と改変を繰り返して創った世界である。

 踏み入るだけでは駄目なのだ。何も考えず玉に触れて通るだけでは、魔界のどこへ飛ばされるか分からない。幻想郷と遜色ない森や山の中、灼熱の砂漠や底のない大海のど真ん中に落ちるかもしれない。ぐつぐつと煮え滾る溶岩の真上かもしれない。光をも巻き込む圧力に潰されてはひとたまりもない。

 面倒を避けるために必要なのは『思い浮かべる』ことで、具体的で明瞭化されるほど目的地に近づく仕組み。門が厳重に閉ざされている理由、その意味は多くありそうだ。

 

「忠告ってはそれか……厄介だな」

 

 迷いの森を彷徨う方がマシと言わしめる諸々。高品質な煎餅を大量生産する工場がある可能性もゼロではないが、行き先が定まろうと手間や時間を無駄にかけては意味がない。年単位の時間があろうと足りないだろう。距離を超越する神威や影分身でも限界はある。

 

「もう一つ。瘴気のことは知ってるわね」

 

 瘴気。魔界の地を覆い包むとされる陰や邪の気。人体に無害なものから有害な成分を含んだもの、魔力の向上や覚醒などの付加効果まで千差万別。魔法の森に群生する樹々や茸が生む物にも似た作用がある。魔界は魔法使いや魔女の本場とされるほか、今日では多くの種族に混じる『魔力』なる力の概念と、それを用いた魔術の始源であるとの話もある。

 忍界に無理やり当てはめるなら、チャクラの始まりであるカグヤ、忍と忍術の祖である六道仙人。幻想郷の常識すら通じない場所だと予感させる。

 

「その再現。決断はご自由に。遅かれ早かれってだけだから」

 

 人ひとりを包み込むほどの水の塊が宙に浮かび上がる。鈴仙は後ろに下がり、眉間にしわを寄せながら口元を手で押さえた。

 正体はオビトにも薄々と判った。傍に近づくだけで何かが体にまとわりつく感覚は、魔法の森の奥地に足を踏み入れた時のモノに酷似する。大きさと形状は忍界の『水牢の術』そのものだ。

 問題は水ではなくシンギョクの言葉。要するに「これから向かう魔界も瘴気で満ちているのだから、ここで同じ物に飛び込もうと、早いか遅いかの違いでしかない」のだ。

 

「まったく」

 

 魔界の瘴気で作られた水が立ち塞がるも、触らずに避けて通り抜けるのは容易い。視界を覆うほどの大きさで歩みを妨げようと、それ一つだけならやりようはある。疾く台座の玉に触れて突入できるだろう。

 

「何を見るにしたって、こんな……」

 

 この場を堂々と訪れた者が、魔界の門を目前に臆して踵を返すか否か、高みの見物を決め込んだのか。

 表情も波長も読めないシンギョクなる輩の狙いは判らないが、此方の歩みを邪魔立てする気がなければ尚更、身体に有害な瘴気をたっぷりと含んだモノになど触るものか。ご親切にも向こうの思い通りに事を運ばせる必要はない。

 そう思いつつ鈴仙がオビトに視線を戻した直後。今まさに映した姿が、地面を蹴って水に身を投じた。

 

「え――?」

 

 止める間もなく飛び込んだ。指先で触れたり手を突っ込むを通り越して体ごと。体が丈夫な妖怪でも近寄りたがらない代物に脆弱な人の身で躊躇せず。邪な気を浄化する霊力を持ち、清浄なる結界で身を守る巫女の類ならいざ知らず、霊術も魔法も使えない人間が瘴気の渦巻く空間に。背後からでは表情が見えない。

 目で見て臆した者は引き返す。意を決して触れた者とて、この先に待ち受ける同じかそれ以上のモノを予感して、やはり臆して引き返すこともあろう。任意の選択肢を示したシンギョク本人がどう思うかは不明ながら、果たしてオビトはどちらを選ぶのかなど、永遠亭でオビトが魔界の名を認識した時に、何より今現在の波長を視続ける鈴仙には判り切っている。

 そんな彼女を惑わせた理由は、強要も必要もない苦痛を受ける心情の方にあった。

 

「さあ」シンギョクの微笑。「遅いか早いか。身を削る覚悟か。対抗心か虚栄か。ワケを話す?」

「全部だ」

 

 しっかりとした声が鈴仙の耳に入る。水中のはずが空気を伝い、気泡も発生していない。

 途端にシンギョクがパチンと指を鳴らすと、水の塊は破裂音も飛沫もなく静かに消え去り、吐き出されたオビトが地面に降り立った。雫は垂れず濡れてもない。

 

「早々に通してもらう。この場はな」

 

 門番が課した試練と自ら位置づけたものに真正面からぶつかり、内に抱いた意志を人外の者に見せつける。同じものなら今でも後でも大して違いはない。

 魔界と呼ばれる世界を書物でしか知らない以上、ここでの発言や行動を空論と言われて、見栄とされても的外れではない。だがシンギョクの言葉が悉く該当したとしても、別のものが存在しない理由にはならない。強要されず必要もなければ『ワケ』は出てこない。

 

「物好きな人間。今さら臆病風に吹かれたって、素顔を見せたらいいだけなのに」

 

 台座に近づくオビトの姿から、そっと貌を背けるシンギョク。黙していた鈴仙も続いて門を潜り抜けた。

 人の外にある妖や神の考え、行動は複雑怪奇で予測不能にも思えるが、見る者が見ると単純で判りやすい面も意外と多い。元より打たれ強い肉体ゆえに内面が打たれづらく、長寿ゆえに精神面の成熟が遅く脆さを内包する。短命で打たれ弱い体でこそあれ、成熟が早く強靭な内面を持ちやすい人間とは違う。内面が生む力――心の強さや感情、感情が作り出す色々な表情にしても同じだ。

 ゆえに人間は、ほんの少しでも本音という感情を吐露するだけで、思いのほか大きく強い力を発揮したりする。感じるものを感じやすい人や妖にとっては、時に自らのその後を左右する分岐を照らすこともある。想いが強かであるほどに。

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