永琳から借りた地図を手にして、言われた通りに必要な場所と物を頭に思い描き、心に強く念じながら台座の水晶玉に触れた瞬間だった。
同じように触れていた鈴仙の姿と台座、周囲の景色がぐにゃりと歪むと、付近に感じていたシンギョクの気配が途絶えた。今の今まで足を着けていた地面と、体を真下に押さえていた重力もだ――落下している。
洞窟のひんやりとした空気は消え失せていた。生温かな風が頬を撫でる。
(ここが……)
眼下に森が見える。鬱蒼とした緑の大海原が広がり、地平線まで遠く延びている。
曇天の空、雲の切れ間から下りる光が、辺りを漂う瘴気らしき濁った色のモヤを抜ける。魔界に突入したのだ。
無重力が体を包む。放り込まれた地点が空の上では、生身の人間は重力に逆らえず地上を目指すが道理。時間と共に勢いは増していく。
非戦闘員の人間とは異なり、訓練を受けた忍はチャクラを扱える。足裏と脚に集めて弾力を作り、衝撃を吸収したり分散できるために、ある程度の高さから落ちても無傷で済む。ある程度までだ。この高度では樹の葉や枝が上手い具合に受け止めても即死。高い生命力を内包する体細胞が植わろうと好い結果にはならない。岩隠れの三代目土影であるオオノキや先代のムウ、初代のイシカワなど、生身で空を自由自在に飛び回る忍なら易々と立ち回るだろう。
それなりの術はオビトも扱う。両眼神威なら飛ばずとも印づけなしで事足りる。全身にかかる落下の速度と重さは空間の歪に巻き込み殺せるので、地面付近に時空間の渦を形成して問題なく着地できる。時空間を経由しない直接的な転移は両眼があればこそだ。普通に時空間へと避難してもいい。
「オビトォ――…ッ!!」
聞き覚えのある大声が頭上から、耳の近くで荒れ狂う騒々しい音に混じり下りてきた。
向こうはさらに上空に出た様子だ。互いの距離と此方の勢いゆえか徐々に離されて視える。何も考えず安易に触ると適当に飛ばされるために、複数人で行くとバラけて散り散りになる場合がほとんど。今回のように同伴者と目的が一緒で思い浮かべる場所が同じでも、多少のズレは発生するようだが。
鈴仙はどう頑張ろうと死なず、擦り傷も負わず痛みも感じないだろう。幻想郷の妖怪や一部の人間は、忍界では稀有とされる飛行能力を持つからだ。それも彼女を含む数多くの者達が。あの土地に迷い込んだ当時は驚かされたものだ。
片手で印を組む。明るい月草色の炎がオビトの体から溢れ出すも、具体的な行動を起こす前に体が安定した。直後に左肩と脇腹辺りを何者かの手が押さえ込み、背後から抱き止める姿勢で助けたのだ。上空からハヤブサのように急降下して接近した者の正体は考えずとも判るだろう。
「間一髪って感じね」
妖怪は人間より力が強い。素の腕力はオビト以上で、地底の鬼や吸血鬼となればさらに上だ。
体格差のある二人だが、妖怪や神などの人外の容姿は物事の、とりわけ力の強弱を判断する基準にはなり得ない。幻想郷では基本中の基本である。背の高いオビトを華奢な少女が受け止めても疑問など湧かない方が普通なのだ。
「オレが早々に対処していれば、チャクラを温存できたな。面倒をかけた」
「大げさ」鈴仙が笑う。「歩いたり呼吸するのに苦労はないでしょ。健康体なら」
生身での『飛行』は鈴仙を含む人外達にはできて当然。常識的な外の世界では実現が不可能な物事は、非常識な世界では当たり前の物事に位置づけられる。相反する立ち位置に絡めて言い表すならば、外の人間が地上を歩き回るのに対して、幻想郷の人外達は空を歩き回る。理由など案外そんなものだ。
忍界でもそう拝める光景ではないので、今日では見慣れているオビトでも、体力とチャクラを消耗して使用する立派な『術』と考える癖は抜けない。だが忍界出身ではない鈴仙は違うのだ。
「瘴気の影響はないのか?」
「これくらいなら平気。慣れも少しあるから」
希少な薬の材料を採集する目的で、永琳に同伴して魔界へ赴いた過去があるらしい鈴仙。
裏山の洞窟や門番のシンギョクを目の当たりにした際の反応を見るに、別の場所から異なる方法で入ったようだが、行き先は同じで瘴気の渦中には飛び込む。丈夫な妖怪の体という事情もあるだろう。
(なら、少々やるか……こっちも)
――再び月草色のチャクラが燃え上がる。二人を覆い包む炎が肋骨、上部に頭骨が顕現し巨人の骨格が現出した。
下半身が作られると共に筋肉組織と皮膚が張り巡らされ、巫覡にも似た姿が外套を頭部から被り、鼻高天狗を思わせる面の穴という穴から炎が勢いよく噴出する。爆発的に成長した修験者の姿が露わとなり、山伏や武者に酷似した禍々しい巨体が踏み出した。月草色に燃ゆる大翼の羽ばたきと共に旋風が巻き起こる。
永遠なる光を瞳に宿した者のみが到達する完成形態。十尾より生まれし獣にすら匹敵する力を持ち、森羅万象を砕き滅ぼす破壊の化身――と言いたいところだが、実際は移動用に調節を施した簡易版であり、本来の物よりチャクラを抑え気味で体躯も劣る。空を飛び回る用途に絞って出した物だ。
「こんなの出せたのね。貴方がいた世界の力……」
完成体の額部分に形成された、五角形の頭襟を思わせる装飾の内部に収まる二人。
鈴仙は瞼を瞑る。雲の合間を気ままに漂っている時や、落下時の無重力感とも違う、全身を何かに包まれているような、言葉にしがたい不思議な感覚。周囲に満ちる力の流れが壁となり、身体を蝕む瘴気を通さないかのようだ。
「でもこれじゃ、助けた意味なかったわね。先に言ってくれたらよかったのに」
「意味はある。チャクラを練られた」
須佐能乎は身体に宿る力をチャクラで操る術であり、通常の忍術のようにチャクラを練って一から作るわけではない。手裏剣など忍具を扱うような感覚に近く、鎧の形成自体には体力やチャクラをさほど消費しない。さらに力を余所に割ける関係で、形成と同時進行で他の術を準備できるために、完成体に収まり操作しながら忍術を使用できる強みもある。須佐能乎の武具に己の術を付加する行為もその一つ。
維持に関しては別である。使用中はチャクラが減り続けるので、作るよりも維持する方が負担は大きい。事前にある程度のチャクラを練る必要があるのだ。全身の痛みと失明の危険を永続的に消失させる『永遠の万華鏡写輪眼』の瞳力、高い生命力とチャクラをもたらす体細胞の恩恵があろうとも。
「そんなに違う? あの短時間で」
「大違いだ。数秒もあれば十分な足しになる」
チャクラの練成は術を使うための生命線。たとえ一秒でも練り上げに割く時間があるか否かで結果は大きく変わる。
簡単な話、忍は戦いを重ねるほど、戦闘技術やチャクラが研磨されるほど、経験が蓄積されるほどに強くなる。それは段階的な成長であり、初めは不安定で自らの変化に戸惑いや違和感を覚える場合もあるが、同じ経験を絶えず積み続けていると、ある日を境に拭い去られて安定をもたらす。物事に対する『慣れ』という一種の区切りだ。
安寧に背を向けた抜け忍として、平和に敵対した組織の一員として、己自身と周りの世界を捨てた影として。忍として積み上げた経験が並外れて多いオビトは、この慣れが色々な場面で強かに表れる。命を失うかどうかの瀬戸際など、一刻を争う危機的な状況に身を置かれた時、最も確かな形で表立つのだ。チャクラの扱いも例外ではない。
「……無理してない? 私に気を遣って」
「勘違いだ。飛ばすぞ」
鎧武者は大翼を広げて飛翔する。鈴仙は思わず声を上げかけるも、急に動作した割には反動や衝撃は感じなかった。凄まじい速度で空気を裂き続けているのに騒音一つ聞こえない。外の景色だけが動いていると錯覚するほどだ。瘴気が入り込む隙間もなく、実に安定して静かで落ち着きがある。
オビトは地図を見ている。隣に来て覗き込む鈴仙。
「違う場所よね。目印も見当たらないし……かなりズレたんじゃない?」
「……のようだな」
渡された地図には目印が判りやすく描かれている。『×』印のある地点から見て南東には、塔と思われる高い建造物がそびえていて、それを挟んだ反対側には大きな沼があり、付近には河川がある。先ほどの場所は周辺が森ばかりで、他は影も形も見当たらなかった。
「途方もない距離、とはならんはずだがな。奴の言葉が本当なら」
距離が『近い』や『遠くない』。実のところ不確かな言い方だ。物事の基準と感覚は人により異なる。それでも一応、人間なら大体は共通して当てはまるのだが、人外である妖怪や神の場合はどうか。人間なら遠いと見なす距離も、人外たる者はほんの近場と思うかもしれない。感覚の差異を想定に入れた完成体でもある。
飛行能力を持つ完成体に頼ったのは、魔界があまりに広大すぎる上に周辺は森しかなく、地上を走るのは忍の足腰でも時間がかかりすぎるとの判断が主な理由。山の天狗や吸血鬼には比肩せずとも、深い森の中を跳び進むよりは遥かに速い。でなければ数時間どころか何日経とうと目的地には辿り着けまい。生じたズレ次第ではあるものの、シンギョクの言う通りなら近づきはしたはずだ。
「隠しごとはなかったと思う。そういう動きはなかったから」
「そういえば」地図を折りたたむオビト。「『波長』が見えるんだったな。お前の眼は」
「能力でね。嘘をついた時の波の動き、色相や明度の変化は決まってる」
物事の波長を操る力。解りやすいところでは、電磁波や音波を弄ることで、自らに届く光を制御して姿を消したり、相手に届く光や周囲の波を歪めて幻覚を見せたり、疎密の波を弱めたり消して無音の世界を作ったりと、どこかの三妖精もびっくりの汎用性や応用力に長けている。
波長が合うとの言い方があるように、人間が内面に持つ精神的な波も例外ではなく、不安や恐怖感を植えつけたり拭い去ることも。この力を応用したものが『狂気の瞳』とされる。ちなみに脳波や体内の神経伝達も波なので、使い方次第では物騒でよろしくない真似もできると思われるが、元より『程度の能力』は具体性を著しく欠き、有効範囲が不明瞭なので真偽のほどは不明。
この能力は本人が言うように、嘘や隠しごとを察知する場合にも使える。覚妖怪のように考えを読み取り、それが具体的に何かを知るまではできずとも、嘘か真かを見分ける程度なら造作もないようだ。
「だからこそ」鈴仙はちらりとオビトを見る。「初めは疑ったのよ。あなたをね」
「オレを?」
「今の貴方の言動にも、嘘があるかもしれない。あの見せかけの……瘴気に自分から入るんだもの。人間の体じゃ何が起きたって不思議じゃない」
瘴気は陰や邪、毒の気を含む物。実体を持つなら実体に干渉できるが道理。魔力を向上させるなど良い効果もあるが、生物に有害で悪影響を及ぼすモノの方が多い。あの水もどきが本当に魔界の瘴気を再現したものならば、近づいて触れるを通り越して身に浴びたオビトも例外ではない。
妖怪は精神的な部分が人間より脆い一方、体は人間より丈夫で生命力も強く、さらに鈴仙の場合は『波長』を操る自前の能力で精神面の弱点も埋められる。内面に何らかの干渉を受けて生じる異変は、心や感情など内面の波長が変化を起こした結果なので、能力を己に向けて波の乱れや停滞を整えることで正常な状態に戻る。その能力を制御する脳、重要な器官に干渉して封じ込める類の強力な術ならともかく、体を蝕む瘴気程度なら大事に至る前に手を打てばいい。
同じ力を持たない妖怪、人間はそうもいかないはずが、鈴仙の眼に映るオビトに瘴気の影響を受けている様子はない。
「……どうなるかと思ったけど。大丈夫だったみたいね」
嘘や隠しごとを見破る力は、覚妖怪の読心とは違う。嘘を吐いた時の波の動きからそう判断するだけで、口を開かず言葉や思いを内に隠す者や、隠された真が何かも見えず判らない。該当する内容を相手が口に出して、それに対して嘘か真かを疑って問いかける前提があればこそだ。訊かれない限りは語らず、訊かれても答えぬであろうオビトの心の内は、鈴仙には頑張っても視通せない。大丈夫という言葉の真偽を疑う力と、その気がオビトにあるかどうかも。
そんな彼女にも判るのは――この人間が自分を含めた永遠亭の面々に、好まざる負の感情を抱きようがないこと。自ら協力を名乗り出て力を貸す理由の一つだ。オビトの身を案ずる気持ちにも嘘はない。鈴仙は「でも」と続ける。
「何かあれば、ちゃんと言って。今は私もいるんだから」
人間が妖怪の命を繋ぐために尽力する。赤の他人である鈴仙には、あの少女とオビトの関係性は分からない。人の感情を具象化したような妖怪にオビトがどんな感情を抱いて、面霊気がオビトの内に何を感じたのか。彼女の容体と繋がるのか否か。
ひとつ言えるのは、死してはどうにもならないこと。救うべき命を救わんとする命、それが潰えては誰一人として救えない。ましてや自らを顧みないまま終わりを迎えて、あとには何が残るのか。身を投げ打つ姿勢を否定はせずとも、捨て身の思いだけでは取りこぼすものが増える気がした。
「お前の目には映らん」オビトの目が瞼の奥に消える。「今のオレにもな……身を削る程度で見えるなら安いものだ」
「……助ける、ってだけじゃなさそうね。やっぱり」
幻想の地とは交わらない世界の支配下にあり、さらにその中でも異端と見なされる未知の概念が、鈴仙や永琳にすら不確定な考えを強いている。
秦こころの心身を侵すモノは体や精神の傷病ではない。ゆえに肉体という器から離れた魂が生と死を廻るわけではない。魂の存続と消滅の分岐点に追いやられて、後者の道を着実に歩かされている。因果を作り出したのは他ならぬオビト自身。かつて一方の道を選び進んだ結果として失った心そのものだ。
巻き戻らない時間。今は失き心と感情が彼女を蝕むのなら。失った心が内に存在せず、決して取り戻せない今となっては、救いようがないと言わざるを得ない。それでも、赤い夜に失った『オビト』を理解せんとした者を救い出すことで、昔に否定して忘れ去った純粋な感情が、一人の少女の命を繋ぐと共に、ほんの僅かにでも垣間見える気がした。少なくとも今のオビトにはそう思えた。
しばらくの間は二人とも無言だった。広大な森と山々が次々と過ぎゆく中で、ひと際大きく高い影が遠方に見えた。完成体が速度を上げると共に影は近づき、地図に記された物と思われる塔らしき姿が、次第にはっきりと映り始める。
(目印か……)
地図を渡した永琳が見通していたかは不明だが、洞窟の門を潜って玉に触れた後で、魔界のいずこに出るのかを大方は予想していたらしく、始まりとなるであろう地点にも『×』と矢印が書かれていた。目的の場所を探し出すにあたり、地図以外の手がかりを持たなかったので、印から凡その距離と方角の予測を立てて進んできたのだ。
幸いにも近辺に敵は居らず、邪魔も入らず瘴気も気にせず、完成体で上空から広々と見渡して捜索できたために、何が潜むかも判らない怪しい森を走ったり、鈴仙に掴まりながら探すよりも早々と発見に至った。
「そろそろだ。下りるぞ」
前方を注意深く睨みながら頷いた鈴仙。空高くそびえる塔が目前に迫ると、緩やかに速度を落とし始めた完成体は、僅かに高度を下げて旋回するように塔を避けて飛んだ。
地図に記された通り、付近にある沼地を確認したのち、塔の地点から北西の方角に広がる森を映した。ある程度の高度に迫ると、完成体は融解するように消え失せて、外部へ飛び出した二人が地上に降り立つ。鈴仙が逸早く辺りを見渡した。
魔界に入り込んで早々に映した景色とは違う。森は森でも枯れ木ばかりで緑がない。足元も湿ってぬかるむ。
空を分厚く覆う雲、切れ間から注いでいた日の光も今やほとんど失われて、薄闇と静寂が周辺一帯を包んでいる。魔法の森で言う奥地に位置する関係か、瘴気は一層と濃くなり、微かな重さが体に圧しかかる。
気休め程度でもマシと判断したオビトは、瘴気の侵入を阻む鎧として須佐能乎を身にまとい、月草色の炎が辺りを照らした。体やチャクラを溶かすほどの強力な酸でもなければ、妖怪のように丈夫な体を持たずとも事足りる。鈴仙の方は生身でも平気な様子だ。
「分からないものね。こういうとこは」
「知らん場所か」
「私はね」鈴仙はオビトの横を歩く。「もっと自然豊かだったし、景色も空気もここまで酷くなかった。ずいぶんと前の話だから、うろ覚えではあるけど……あんな建造物もなかったしね」
同じ森と樹々でも似ても似つかない。緑と生命で満ちあふれた魔法の森とは異なり、周りはぺんぺん草も生えない不毛の地。枯れた樹木や草花は石化して黒々と変色しており、命の色彩も気配も感じられない。死の世界との言い方が相応しい場所だ。
須佐能乎で作る強靭な鎧や神樹の力がなければ、この身体も何かしらの悪影響を受けただろう。シンギョクが再現した物よりも危険度は上と見なせる。
(ここに――?)
植物の生育環境としては最悪であろう奥地。特殊な環境で育つ――否、ここでしか育たない植物。幻想の地に適さないと言われても納得できる。
毒性と瘴気の関係性は不明ながら、この環境下で生き延びる猛毒の草花なら、さぞや人体に深刻な害をもたらす代物となろう。草花や毒に無知でも想像に難くない。そんな植物を薬師がどう扱うかなど、専門家でもない素人には分かるまいが、心身に何らかの変化や強い影響を及ぼす物であるのは確かだろう。
オビトは袖の下からクナイを取り出す。枯れ枝が一閃と共に切り落とされ、濁った気体が断面から勢いよく噴出した。生木と言えない樹にもたらすのは生気ではなく瘴気、正気を失わせる狂気の具現が水の代わりに内部を循環している。足元の土や周りの自然物も同様だ。
瘴気は大まかに分けて二つ。肉体を物理的に蝕むものと内面を蝕むものだ。前者は体を溶かす毒や酸など、後者は体内を巡るエネルギーに作用する精神的なもので、生き物の生命力たるチャクラに影響を及ぼす。辺りを漂うのは後者だ。その存在ごと曖昧となり、消えかけている者を救うのに相応しいかはともかく、関連する物がどちらかと訊かれたら言わずもがな。
「ねえ。訊いてもいい?」
枯れ木が立ち並ぶ死の森を進む二人。オビトは不意の問いに「何だ」と返した。
「あの付喪神……面霊気とはどんな関係? 一応は知っておきたくて」
感情を司る面の付喪神・秦こころ。希望の面の喪失で能力が暴れ狂い、人間の里が良くも悪くもお祭り騒ぎとなり、何人かの宗教家達が利を求めてしのぎを削り合った悍ましい事件。元々は物静かで落ち着いた性格だった彼女が、湖の氷精にも負けず劣らぬ騒々しい付喪神に変貌したきっかけでもあった。
面霊気とかかわりを持たない鈴仙は、その辺の基本的な情報を知るのみで、個人的な事柄は把握していない。
「昨日今日に会った奴だ。親しい間柄にはない」
「でも、赤の他人とはならないでしょ。ここまでやっといて」
鈴仙は身内以外とのかかわりに消極的。人間であり外来人のオビトなら尚更だ。それでも他者が持つ波に干渉できる者として、オビトの波長を捉えて読み取るのは難しくない。今回のように一時的にだが、師である永琳と月界の件で関与した過去があり、知る物事はこころより少なからず勝る。
この場合に言えるのは、面霊気と親しい関係か否かの真実ではない。否定的な物言いをしたオビト『らしさ』を作る特有の波長を掴むのも、能力を最適な形で使えば可能であること。ゆえに鈴仙は「親しくない」との言葉自体に疑問は抱かず、言葉の先に隠された感情を掴んで覚えはした。それが具体的に何かまでは分からずとも。
人の心に触れて不明瞭に感じ取る妖精。心を見通して正確に読み取る覚妖怪。いずれとも異なる鈴仙の力とは果たして――。
「煎餅」
静かなる一言。鈴仙の目が丸くなる。周りを漂っていた瘴気が嘘のように消え去り、鈴仙を見下ろす枯れ木の群が粉々に砕け散った、ような気さえ陰の気や木だけにした。
聞き違いとも思った。思いたくもあったのに、そう見なすには無理がありすぎた。感情に乏しい声質で、独り言のような呟きだとしても、滑舌に問題がなければ聞き取るのは容易だ。聞き違いでは決してない。
「……えっと。それが?」
煎餅といえば、うるち米やもち米を砕いて練って蒸して搗いて広げて焼いて塗って乾燥させて作る和菓子。稗田家当主や博麗の巫女の好物でもある代物だ。
オビトが煎餅作りに勤しむのは、鈴仙自身も知っているので、単語が出ること自体に違和感はない。しかしながら、荒廃した大地の真っただ中を彷徨うこの状況、相応しい物言いとは思うまい。感情表現に乏しく口数が少なめで、どこかミステリアスにも感じる人間ならばさらに。
「なかなかの腕だ……あいつはな。才を視る前に失わせるのは惜しい」
「それだけ?」鈴仙のジトッとした目。「嘘つかなくていいのに」
「本当のことだ」
真顔で生真面目に答えるオビト。首を傾げていた鈴仙が咳払いする。
「嘘しかない可能性は」
「ない」
「真実はないって?」
「ある」
「嘘はあるのね」
「ない」
「そう……本当じゃないのね」
「本当だ」
矢継ぎ早に投げかけるも思惑通りにいかず、鈴仙はため息と共にうな垂れた。兎耳も垂れ下がる。合間合間に心と感情の波長を探り、僅かな波の振れやズレを探ろうと注意を張り巡らせても、オビトは平静そのもので隙が見つからない。この様子では何を訊こうと無駄に終わる。
その一方で、煎餅に関する発言に嘘や隠しごとの色はない。煎餅という部分に限定するなら真実しか口にしていない。本人の言葉通りなのだ。されど他を確かめる術もなし。
「わかる気がする」鈴仙の口元が笑む。「なんとなくだけど。いまだに貴方を知らない妖怪は多い……皆で味わったあれこれを、締めで分かち合わないで――」
緩やかな会話も長くは続かない。逸早く察知したオビトに対して、言葉を紡いでいた鈴仙は僅かに出遅れる。
上空から降り注いだ青や赤の光弾が地上を打ち、周辺一帯の瘴気や枯れ木の群を吹き飛ばした。二人の姿は巻き上がる土や泥、轟音に呑まれ消えてしまう。
「さて。どうなるかな?」
勝ち気で元気のいい声が響いた。急に現れるなり有無を言わせず行動を起こした様子で、何らかの答えを期待して口に出したようだ。
消し飛んだと思われた姿が見え始める。月草色に燃ゆる大きな肋骨が一人を包み、もう一人は巨腕に握られる形で護られていた。半透明の炎で形成された指の奥に鈴仙が透けて見える。咄嗟に形を変えた須佐能乎が壁の役割を果たしたのだ。
(アレは……)
須佐能乎越しに頭上を注視する。未踏の地に現れた襲撃者に見覚えはない。
黒い帽子を頭に被り、黒い服とスカートをなびかせる金髪の少女。ぱっと見は白黒の魔法使いを連想させた。朱色の炎が掌に燃えている。弾幕をばら撒いたのも、声を発したのも彼女だろう。
向こうの数も此方と同じようで、さらに別の一人が離れた場所に見えた。水色の長い髪に白いドレスを着飾り、天使を思わせる白い翼が背に生えている。
「知り合いか?」
「全然」
鈴仙は礼を言いつつ即座に否定してみせた。ふわりと前方に着地した二人組を、二人分の鋭い眼がそろって捉える。
――以前に居た忍界には類を見ない一方、幻想郷にはありふれた異国の服装。実年齢はともかく外見年齢は鈴仙と遜色ない。魔物と呼ばれる生き物、より正確には『魔界人』。向こうで言う妖怪である。
チャクラは大雑把に黒い方が魔力と妖力、気力の三つ。白い方は魔力と妖力の二つ。忍界の五大性質変化に類する属性以外の手札も持つと見ていい。魔法使いの本場とされるためか、二人ともに魔力の割合が突出して高く、現時点で見積もっても山の鴉天狗と同等かそれ以上はある。先の弾幕を視ても実力者には違いない。チャクラが発する波を見抜く鈴仙にも力量は判るだろう。
二人との戦いを前提とした観察を即座に行ったのは、会話もなしに攻撃を仕掛ける好戦的な輩に対する用心。ごっこ遊びという『護り』が存在しない世界での遭遇という理由もある。妖怪賢者の管轄外では何が起きても庇護は受けられない。
「ほほう」黒い少女の目が細まる。「見なよマイっ! この辺りを平然と歩き回って、今のも耐え抜いた! 雑魚じゃないのは確定――でもって見たことない力。余所者としちゃ相当なやり手じゃない? あの巫女らとどっちが上かな?」
元気一杯に響いた高らかな声。白い少女の名を呼んで話しかけるも、肝心の本人は何も答えず黙してオビト達を見下ろしている。
辺りを漂う瘴気や弾幕など、ある程度の基準を設けてふるいにかけたのだ。あの様子ではそれなりに認めた感じだろう。少なくとも瘴気の真っただ中に身を投じても平気で、魔界人の基礎的な攻撃をものともしない力量を持つと判断できる程度には。魔界から見て異界の術に分類される関係で、当然に知る由もない万華鏡の瞳術も含めて。余所者と見なしたのは外見か内面か、過去に入り込んだ者――巫女とやらと比較しての言葉か否か。
余所者や侵入者への警告の意味で撃つならまだしも、有無を言わせず叩きのめす勢いでの襲撃は、甘めに判定しても過剰で手荒い歓迎と評さざるを得ない。人と妖怪の均衡を守る命名決闘法が存在しない魔界の常識か、本人の性格かは不明ながら、此方からすれば非友好的な接触には変わりない。
「やり合う気はない。用があって来ただけだ」
無益な争いを好むほど戦闘狂でも馬鹿でもない。二つの世界を隔てる境界を跨いでまで魔界に突入したのは、磨き上げた技の誇示や悦楽目当ての力試し、暇つぶしや偶然の結果でもない。永琳が提示した物を手中に収めるという明確な目的の下にだ。右も左も分からぬ余所の世界で無闇やたらと暴れて敵を増やすのは、後先を考えない愚者の行いでしかない。初めて幻想郷に入り込んだ時と心構えは変わらない。向こうの非常識っぷりに慣れを覚えた現在なら殊更に。
ちなみにそれは、外来人や外来妖怪に持ちかけるごっこ遊びのように、此方の提案を了承する気が相手方にある場合に成り立つ考え方だ。あくまで同意が前提となる。
「でもさ」黒い少女がオビトをじっと見る。「済ませるべき用がないなら、自分から入る真似はしない。当たり前よねそれ。あなたが暴れ馬じゃなきゃだけど」
「馬が人を馬に例える? 馬鹿から鹿を取っても馬にはならないけど、いきなり撃ってくるようじゃダメね」
気性の荒い乱暴者と仮定して話を進める少女に、鈴仙は呆れた表情で言葉を返した。
喧嘩っ早さと自己中。理不尽な暴力。巫女の傍を通りすぎただけで退治される妖怪、兎鍋にされる兎。実はいずれも幻想郷では珍しいものでもなく、ごっこ遊びを用いる『異変』では割と頻繁に見られる光景である。人のことを言えない状況を作った過去があるために、内心ではあまり強く責められない一方で、事情を知らない者になら強気に出られるのも確かだった。遊びの外でも遠慮なくかます魔界人よりはマシと思ったのだ。
「鹿でもシカマルでもいいが……邪魔をする気かあるかどうか。重要なのはそこだ」
幻想郷には血気盛んで好戦的な妖怪が多い。腕試しや気まぐれなど、自分本位な理由で勝負を挑まれても想定外ではない。向こうで言う妖怪、魔物や魔界人が同じ輩でも疑問は生まれない。問答無用で攻撃をしかける逸り具合、力の強弱を測るような言葉や勝ち気な笑みを見ても、用があって足止めを食わせたと考える方が自然だ。
思い込みや勘違いという場合も一応はある。本人に尋ねて確かめる方が手っ取り早い。
「動じてないね。もうちょい高く見てもいいかな」
「ここを通す気があるか?」
此方の評価を更新する新たな判断材料を意図せず渡したようだ。話の主導権を握られたままでは終わりが見えないと思い、オビトはチャクラを練りつつ直球で二つ目をぶつけた。
自分の世界に入っていた少女は、ようやく意識を向けた様子で「ごめんごめん」と快活に笑うと、自らを『ユキ』と名乗った。
「なんせ久々でねえ。余所からの訪問者ってのも。今から訊くのも遅いかもだけど、こんな辺境まで何しにきたの?」
「この近くに自生する毒草……そいつを採りにきた。薬を作るのに要るんでな」
「毒? どんくらいの?」
「度合いは判らんが、詳しい者が『猛毒』と見なす程度だ」
腕組みして考え込むユキ。と思いきや、思案に入って早々に「アレか!」と手を叩いた。鈴仙が警戒を解かず疑いの眼を向ける一方、マイという少女は寡黙なのか一度も口を開いていない。
「……知ってるの? 貴方が」
「専門家ではないさ。こんなとこに生える草花なんて知れてるってだけ」
鈴仙は暫し映したのち、オビトに目配せして頷いた。嘘を吐いている様子はない。現地人からお墨つきを早くも頂いたようだ。
痩せた土壌や不毛の地を通り越した、瘴気まみれで草の根一本も生えない過酷な環境。そんな中でも問題なく育つ植物など、忍界や幻想郷から見ても普通ではない。普通の物に比べると数が限られるのは当然で、この特殊な環境下では他より見つかりやすくもある。
「けどさ、そんなもん使った薬が要るくらいの病気なの? 重病なのは想像つくけど」
「他所の世界に踏み込んで、こんな奥地に足を運ぶくらいにはな」
「そっちにある物じゃ治らないってことだものね」
薬師の永琳曰く、製薬に必要な材料は魔界の限られた奥地に分布する。幻想郷で採集できる草花や茸で事足りるなら、次元の異なる世界に門番の許可を得てまで入り込み、瘴気の渦巻く死の森に遠路遥々赴きなどしない。時間的な制約があるなら尚更。当然の話だ。
問題は薬の材料の有無ではない。『魔界』が幻想郷から見て忍界と同じか類する括りにあり、忍界に存在する概念が別枠の概念を塗り潰す害悪として、別枠の影響下にある者を脅かしている現実である。秦こころと同じ枠に収まる物事では終わりが見えないのだ。どんな怪我や病も治す超人的な腕を持つ医者とて、怪我でも病でもない概念的な歪みを直せようか。できるとしても猶予は必要だろう。
永く途方もない時間を生きる者とて、その時間すら違えて交わらない色彩など知る由もない。一世界を支配する時間の上下は単なる長短で決まりもするが、多元的な視点から物事を見比べた場合、途方もない永さとは刹那の時にも劣るのだ。
「ま、なんにせよだ」ユキはオビトに笑いかける。「こっちに採りに来たのは正解だと思う。毒性と副作用がヤバすぎて、街の薬屋や医療機関でも扱わない代物さ。フツーは表に出てこないし、モノ自体が辺境の辺境にしかない。この辺りみたいにね」
さらっと口にした副作用。薬を服用して生じる治療以外の具体的な効果や、それが生じる心身そのものを失いかけ、傷病者でもない容態の者に出るものかも判らない。毒とて体を蝕むものだ。判るのはユキも言ったように、扱い方次第では命を奪いかねない危険な代物であると共に、命を繋ぐ物にもなり得ること。
「……見たとこ余所者だけど侵略者じゃないし、あの血塗れ巫女とか狂わし魔女の類でもない。非友好的な言動はない感じね。お連れの兎さんのことも信じよう」
「とんだ杞憂ね。弾も飛んだし」
鈴仙は一息つくように呟いた。初めはやる気満々な様子で現われて、嬉々として立ち塞がったユキも、思いのほか深刻だった事情を汲んだのか、打って変わって穏やかな雰囲気。道を空ける意思があると見なしてもいいだろう。物騒な表現をされた巫女や魔女についてはあえて言及しないと決めた。
(命拾い、ってやつか)
ここでのやり取り以降に生じ得る面倒ごとを思えば、この場における衝突は避けるに越したことはない。
向かうべき行き先と、果たすべき目的。二つが判り切っているなら、それ以外の無関係な物事は回り道や寄り道でしかない。分岐はあれど歩くべき道が一つなら迷うこともない。今まさに行き当たった分岐とは、ユキ達との戦いに身を投じるか否かの二択である。最短の道を最小限の力で進むにあたり、何らかの条件を提示されなければ、戦いを避ける方が無駄な時間や労力を使わずに済む。
何も考えず力任せに押し通るのは手間だ。立ち塞がるユキ達を切り抜けたとしても、後々にあらゆる人や物による妨害を受ける可能性があり、極端に言えば魔界の全てに備える必要がある。しかしながら、向こうの同意を先んじて得ることで、少なくとも彼女らが許容する範囲においては、本人達と上下に関係を持つ他の魔界人との悶着も芋づる式に回避できる、もしくはその余地が生まれる。どんな輩が潜むかも不明瞭な未踏の地を歩き回るなら、分岐の数は少ない方が負担は軽くなる。
「でもね」ユキは挑戦的に笑む。「ワケがワケじゃなきゃ、侵略目的だろうとなかろうと、我慢して身を引く……なんて真似はしなかったわね。さっきも言ったけど、久しぶりの客人でワクワクしてたんだ。面白そうだったしね」
「逸ったのは同じか……」
口で言うのは簡単でも、実際に事を起こすと旨くいかない。反射的に出した須佐能乎、その前後一つ一つの細やかな動作までもが、思わぬ道を示す場合もある。これは己の術や技を使い慣れた者、つまり戦いに慣れがある者ほど当てはまる癖のようなもので、失くすことは不可能である。特にオビトのように、並の忍より遥かに多くの戦いを、散々と目で見て肌で感じてきた者ならば。
ユキの探るような目がオビトを捉えた。鈴仙の方は力ある妖怪であり、具体的な術や技も見せていないためか意識の外で、心安らかにユキ達の言動を観察できている様子。
「まあいいや。今日のところはこれで」
「『今日』?」
「よければ案内したげるよ。何もしないで終わるの勿体ないしっ」
愛想よく喋るとウインクして先を示したユキ。腕試しを諦めて家に帰るより、保留としつつも付き合う方が面白味があると判断したようだ。
明日以降に遭遇する機会があるかは触れない方が賢明だろう。話をこじらせる上に判り切っている。魔界人ではない余所者と判った上で口にした意図は些か気になるが。
「どうするの? 信用する気なら止めないけど」
黙するオビトにそっと耳打ちする鈴仙。物事の波長を読み取る力は企みや嘘を看破できるために、身に降りかかる厄や面倒ごとを事前に察知して避けるには便利である。人たる者の行動を見守る立場の妖怪として、この場の判断をオビトに任せているのだ。ユキも同行の意思を見せる一方、試すような視線を向けて待っている。
オビトの方は答えなど疾うに決まっていた。諸々の考えは置くとして、立ち止まる理由も意味もあるまい。
「……ッ!」
察知した鈴仙が声を上げるも遅かった。足元を突き破って現れた物体、先端を鋭利に尖らせた氷の塊が、踏み出そうとしたオビトの体を貫いた。身も凍える冷気を放ち、その部分を中心に地面が氷結し始め、水面に立つ波紋のように広がると、辺りの湿った土や枯れ木の群は見る見る氷に覆われていく。
鈴仙の吐息が白くなる。周辺の気温が急激に低下したのだ。目の当たりにしたユキの視線が別のものへ移る。
「……そうよ。勿体ない」
ぽつりと紡がれた静かな声。ユキとは異なり寡黙で一言も喋らなかった、マイという白い翼の少女が口を開いたのだ。相方の唐突すぎる行動に困惑した表情のまま、手のかかるやんちゃな幼子を見るような目で「ちょっと」とたしなめるユキ。
「我慢しなって今回は。やむを得ない事情ってやつだしさ。他の調子こいた連中とは違うよ」
別世界から来訪した人間と妖怪の二人組。入り込んだのは薬の材料を欲するがためで、魔界の侵略や暇潰しが目的ではない。しかも急襲に対応できる有力者だ。その辺りの事情を考慮して自制できるユキと、自由奔放で好きに振る舞う無口なマイ、好戦的な面は概ね共通するも性格は正反対。くすくすと愉快げに笑う始末である。
ユキは汎用性の高い光弾を一面にばら撒いただけで、誰かを的確に狙う意図はなかった。マイの方は明らかに人ひとりを捕捉して食らわせた。危害を加えたと見なすには十分だろう。そう思いつつ鈴仙は急いで氷の塊を視た。何故か直前の波に動きが視えず、危険感知に遅れが生じたのだ。
「考えかたの相違か……都合よくはいかんな」
氷の槍に胸部を貫かれた状態でマイを映しているオビト。引き抜いたり叩き折りもせず、体をすり抜けさせる形でそのまま踏み出した。槍が抉って触れた部分を別空間へ飛ばしてやり過ごしたのだ。神威による実体分離は物や人が体に触れると自動で発動するよう調整できるので、意識の外を突いた接触も意味をなさない。
マイの力を見て頭をよぎるのは氷遁。雪一族に伝わる血継限界で、水と風の性質を組み合わせて氷を発生させる。同じ性質を扱う氷精に比べると強いチャクラを持つために、その辺の妖精と大妖ほどの圧倒的な差はあるが、氷が現れる前に判りやすく足元が揺れるなど、奇襲性や速度の方は高くない。神威に頼らずとも躱すなり須佐能乎で防御ができる。
(厄介だな)
問題は氷ではなくマイの方。チャクラの強弱ではなく動きの方だ。氷の槍を作り出してぶつけたマイの体内には、術を行使した際に見られるチャクラの動きがなかった。
写輪眼はチャクラの色や流れを見る目であり、瞳力が上がると他の細やかな部分も視認できるようになる。勢いや大小の変動、揺れの度合いなどがそうだ。チャクラには性質や形態とは別の変化が生じる。先ほど光弾を撃ったユキや、物質を起こさず内面に干渉を行う『波長操作』を使った時の鈴仙、忍術を扱うオビトとて該当する。幻想郷と忍界に共通する数少ない原理の一つだ。
もちろん例外もある。動きとは要するに波の流れであり、自他の波を制御できる鈴仙なら、能力を己へ向けて使うことで、体内を巡るチャクラの動きを意図的に誤魔化すなり、マイに見るような現象を起こすのも不可能ではない。しかしながら、相手のチャクラの動きを視つつ次の手を考える戦い方は、感知能力に特化した忍や瞳術使いとしても軽視できない。下手な妖怪を相手取るより面倒と言える。
――万華鏡の瞳術が一つ『天照』が解りやすい例だ。特殊な方法でしか鎮火できない黒い炎で、一度でも触れたら最後、体が燃え尽きて灰と化すまで消えることはない。さらに視点から発火するために、ほとんど躱しようもない。その一方で、術を出す際のチャクラの動きが大きく判りやすいために、感知能力に秀でた者には確実に先手を取られる。燃焼速度も通常の炎に比べて遅いので早々に対処されやすい。
マイの氷とで比較した場合、確かに天照の方が危険な特性を持つが、黒炎への対抗手段を有する者から見ると、チャクラの動きが確認できない者を相手取る方が厄介なのだ。
「普通の人間なら死ぬわよね、今の。いきなり殺ったら意味ないでしょうに」
鈴仙に驚きや安堵した様子はない。能力でオビトの波長を視通して生死を判断できていたのだ。
心臓を貫かれたり潰されるなど、その辺の人間なら死が確定する致命傷でも、右半身を蝕む体細胞の生命力が終わりを許さない。ただし、倒れ伏して動けず戦えない状態になれば、生じる隙としてはこの上なしだ。激しい戦地では死んだも同然である。
「上手く切り抜けても、あの様子じゃ……」
「……だろうな」
要するにこのマイという少女、自分本位の事情が最優先のようで、遊びという名の殺し合いを諦める気は毛頭ない。泣く泣く我慢を決めたユキの説得を受けても聞く耳を持たず、返事もなければ顔も向けていない。視線は逃がさんとばかりにオビトを捉えて離さない。過去にも同じような出来事を何度か経験したために、慣れがあると言えば本当になるが、相手次第では冗談で済まない結末を迎えることもある。
ここが戦場か否かは無関係に、現時点では死を容認できない。理想は無駄な戦闘を避けることだが、ユキとは違いマイは危険な雰囲気が途切れない。魔界を訪れた理由も含めて、これまでの会話を聴いた上で起こした行動なら、話し合いで解決する問題ではないと思わされる。面も持たずに希望を抱くべきではないのか。
「いやあ、ごめんね」
何とか説き伏せようと頑張っていたユキも、無言で拒絶し続けるマイにお手上げという様子でうな垂れ、ばつの悪そうな表情でオビト達に目を向けた。
「悪い子じゃないんだけど、決めたら頑として譲らないのよ。時と場合の言動を弁えないんじゃ、意志が強くたって――」
「耳障りよ」
この場に居るのはユキを含めて四人。冷たい声を発したのは鈴仙ではなかった。当然ながらオビトでもない。
不意に言葉が切られた直後、ユキの指先から氷が張り始め、瞬く間に全身に広がり氷漬けとなった。少し離れた場所に立つマイが、氷像と化した姿に掌を向けている。答えは復唱される代わりに体現されたのだ。
思わぬ展開に鈴仙が「強情ね」と一言。争い合う生き物とされる妖怪はともかく、人間の視点からでは強いを通り越して余りあり、過剰ならぬ過情と言える振舞いにも映る。
「うるさいのも居なくなった。安心」
ぽつぽつと喋るマイ。明るく喋っていたユキはもういない。オビトと鈴仙から見ると安心できる状況ではない。
変わり果てたユキを視てもオビトが反応を示さないのは、凍死したと思われた彼女の内に命の鼓動が確認できたから。体内を巡るチャクラの流れは至って正常で、体が氷結して動かないというより、氷の壁に閉じ込められたと言う方が正しい。樹液の結晶に包まれた琥珀状態、とも例えられる。力づくで黙らせたに過ぎず、命まで奪う気がないことは、相方の友好的な姿勢や二人一組で現れたことから察しはついた。
「お前の本気は分かった……暇を持て余すのもな。解らん方が不自然なほどだ」
「言の葉に頼るより確実。遊ぶ方が楽よ」
「生憎そんな暇はない。相手なら他を探すことだ」
赤い眼が見開かれた途端、再び口を開きかけたマイが硬直する。オビトは鈴仙に合図して歩き始めた。
写輪眼の基本瞳術が一つ『幻術眼』。視覚に訴えてかける類の幻術で、視神経を通じて脳内を乗っ取り、ありもしない幻を体感させる。何を押しつけるかは術者の裁量で、煎餅作りを延々と強要される夢を見せたりと自由自在。戦闘における持ち札として以外にも、危機的な状況を突破して時間を稼ぎたい時にも重宝する瞳術だ。
妖の類は精神的な干渉に弱い者が多く、人間相手よりも効果は期待できる。
「しつこいわね――」
期待できても思い通りとは限らない。すぐさま反応した鈴仙が鬱陶しげに呟き、指先から赤い光弾を連射する。二人を狙った別の弾と衝突して相殺、平然とした様子のマイが鈴仙をじっと眺めていた。
写輪眼を通して視たマイのチャクラには、幻術に囚われた者に決まって生じる乱れや停滞など、異常と見なせる動きが内在していない。
(オレの瞳力を……?)
幻術は便利だが万能ではない。精神面の脆さという弱点を自前の能力で克服できる妖怪もいる。鈴仙の波長操作が解りやすい例だ。神霊など高尚な魂の持ち主ならチャクラだけで跳ね除ける輩もいる。人の身にあれど忍とて、自力で幻術を解く『返し』の方法を知っている。写輪眼なら同じ写輪眼の瞳力による解術が有効だ。
鈴仙のように特殊な力を持つと考える方が自然だろう。何故ならば。
「小細工はキライ。楽しく遊びたいの、私は」
マイの体内を流れるチャクラを膜のように覆う何か。写輪眼の幻術が及んだ直後、チャクラに異常が生じる前に、その流れや動きを一時的に固定して主導権の乗っ取りを阻止した。生じた乱れを整えて正常に戻したのではない、乱されぬよう形を維持して護り切ったのだ。
氷の力を操るマイに準ずる言い方をするなら――凍らせたかのように。
「やはり常識破り……あいつもか」
己のチャクラを凍結させて幻術をやり過ごす者など見た覚えがない。氷というよりマイゆえに為せる技だろう。波長を操るという根源的で高い汎用性を誇る能力、それを持つ鈴仙を敵に回す方が面倒と見なせる一方、マイを含む魔界人の力は未知数。魔界なる場所すらロクに知らない。幻想郷の妖怪に該当する定義が悉く通る相手とは思うまい。
体の内にあるチャクラを自在に制御できる。チャクラを繊細に扱う力に秀でている、との言い換えもできる。陽遁を扱う医療忍者の他、探索や感知が得意な者にも当てはまる特徴だ。おそらくはマイも同じである。
逃げを決めたところで、幻術以外の方法で欺くのは不可能に近しい。杭の鎖で縛るにしても原理が同じか似るなら無駄に終わる。杭と連動する大元の術者との距離的な制約、チャクラや時間的な制限もあることから、刹那の時でも突破口となり得る戦闘以外では役に立たない。神威を使うにしても、未踏の地である魔界での時空間移動には限界があり、神威空間に閉じ込めても単なる先延ばしで解決にならない。幻術で意識を奪えない以上、その後に行使した神威に乗じて表へ出てきたり、向こうから一発食わされるおそれもある。至高なる光も戻っていない。忍ならともかく妖怪では何が起きても不思議ではない。
(やむを得ん……)
何よりマイが実力者であるのは明らか。衝突を避ける道は残されていない。早々に出遭った者が強大な妖の類とは。
「長々と逃げ回る時間も惜しい。押し通るまでだ」
赤き眼光が溢れ出す。顕現した月草色の炎が揺らめき、移動用兼鎧として術者を覆い護る仮初の姿が変化し始めた。永久に鎮まりし夜を境に施された封印が解かれた瞬間、万象を消し滅ぼす威光を宿した莫大なチャクラが噴出する。
須佐能乎は第二形態に移行した直後、燃ゆる表皮に衣と外套が重なり、鼻高天狗を模した面が第三の形として現出する。地を踏み鳴らすべき体を修験者は持たず、巨大な上半身に内包されたオビトは、微かに息を切らしながらも瞳力を強めた。巨人の咆哮と共に激しい炎が掌に収束し、揺らめく月草色の刀身を形成する。黙して眺めるマイの口元が愉快げに歪んだ。
「持ち札」鈴仙がオビトの前に出る。「何枚か捨てさせられたわね。私の力も往なされそうだけど、やりようはまだ……自分の狂気に抗える奴なんて、そうはいない」
魔力の循環を自らの意思で手に取り、防御や回避など何らかの技に利用できる。魔力の制御は発する波の制御でもあり、鈴仙とて自在に干渉できるとまでは言い切れない。力を起こす基にも差異はある。
流れを能力で操るならまだいいとして、能力とは無関係に素の力で行われている可能性もゼロではない。脳裏に思い浮かぶのは『神霊』。肉体が魂を入れる仮の器ゆえに己自身を客観視して、道具や武器を扱うように体を扱える連中。己を動かすチャクラへの干渉を行うにあたり、鈴仙のように特定の能力を行使する必要はない。息を止めるように流れをせき止め、吐くように解放できるのだ。
マイが同じ類の輩なら、いまだかつて書物でしか知らなかった第一号となろう。
(…………)
初めにユキとマイに相対した時、二人には言い知れぬ違和感と、不明瞭な既視感を覚えた。
魔界という未踏の地で、魔界人という未知の連中を直に見て、己の内で勝手な想像が先行してしまい、正常な思考に好ましくない影響を与えた――過去に遭遇した数々の神霊や同じ類、それらを前にした時にも似た感覚が心の内に芽生えなければ、可能性として十分にあり得るものだった。体を巡るチャクラは幾度となく警告を発してきた。
幻想郷から見たユキ達が妖怪扱いされるとして、魔界から見た場合でも同じ認識を受けるのか。オビトは炎の中から「鈴仙」と呼んだ。
「下がっていろ。オレがやる」
「……貴方一人で?」
鈴仙は思いがけない言葉に驚きはしても、取り乱したり心配するなどの素振りは見せない。
理由はいくつかあった。自他が発する波の状態が視えるために、容体を診るにあたり問答が不要であること。オビトの力が幻想郷で言う『人間』の域を超えた、妖怪染みたものだと理解に至っていること。さらに鈴仙は此度の件、必要な判断や行動を当人に委ねている。
見守る立場に身を納めたのだ。積極的に手を取り合う仲間ではなく、観察に徹するだけの第三者でもない。本人が命の危機に瀕する、そう判断するに足ると見なしたり、助力の要請を受けた場合を除けば、相手の意思を尊重して沈黙を守る。可否の判断を下すにあたり、波長を視通す能力はやはり役立っている。最たる理由はこれに絡むもので、己の力で成し遂げることをオビト自身が望んでいる。
個人的な思いは鈴仙にもある。妖怪は姿のみならず心や感情も同じくする。写輪眼の幻術をやり過ごすマイを初めに見た時から、オビトが何も言わなければ、やる気満々に手を出す腹積もりだった。もの凄く簡単な言葉だけで終わらなければ。
「分かったわ、任せる。けれど……」
いざという時に割って入る用意は当然にある。現在の立ち位置は一存で決めたもので、撤回や抜け穴作りなど後づけは自由にできる。元より好戦的ではなく、慎重で警戒心が強い鈴仙は、何も考えず不用意に突っ走ったり、マイのように辛抱できず暴走する心配もない。身内が絡んだ場合は別として。
唯一の心配ごとは今のオビトにあった。門番が作った紛い物や、本物の瘴気を生身に受けても異常が見受けられなかった波長に、今になって微かな乱れが生じ始めたのだ。
「こんなとこで死なれても困るから。動向は視てるし、危なくなったら入るくらいはするわよ。ただの妖怪って感じの奴でもないしね」
魔界に住む妖怪の異様さ。精神的な脆弱さを内包するはずの妖怪が、強靭な精神力を持つ者の幻術を真正面から浴びて、僅かな波の揺れ一つも起こさない。幻術に落ちるか否か以前の問題だ。内面への干渉を受けつけない特別な体を持つならともかく、術の影響が及ぶ心身を持ちながら微塵の乱れも生じない。
波長操作は元々、効力が具体的で何を応用した形でもないが、氷を作る力をどう使えば同じような真似ができるのか。同系統の力を持つ氷精や雪女でも、凍結させた自らの妖力を他の術や技にまで利用するなど不可能な芸当だ。人々から祀り上げられて影響力と魂を高め、神格をつけて神霊にでも生まれ変わらない限りは、妖の身ゆえの限界は超えられない。
――ここで目を見開いた鈴仙。オビトの方を急いで向きかけた時、何かが足を、体の動きを止めた。
地面に張った氷が足首にまで及び始めている。マイの冷たい視線は鈴仙を映していた。
「舐めてくれるね。こんなんで」
地面に足を縫い止めて動きを封じられた。だが浅いもので、妖怪なら能力に頼らずとも膂力だけで振り解ける。力の劣る人間でも踏ん張れば引き剥がせる程度だ。
ユキのように全身を一瞬で氷漬けにされたわけではない。これでは自由を取り戻すのに苦を強いるまでもない。
「……?」
片側の足を易々と地面から剥がして、もう片方を動かそうとした時だ。体の力が急に入らなくなった。
口を動かすも声が出ず、能力を使おうにも機能しない。冷たいものが肌を刺す。体内を巡る血液が氷水に変わったような、酷い寒さが心の臓を中心に蝕んでいく。
鈴仙は何かを訴えるように手を伸ばすも、氷が胸部から一気に広がり、分厚い氷塊に覆われて沈黙した。
「火遁『鳳仙花』」
小型の火球が須佐能乎より射出され、氷漬けの鈴仙を赤く照らした。
外部とを隔てる氷の壁に火弾が打ちつけ、燃え盛る炎が表面を舐めるも、氷塊は砕かれず溶けもせずに形を保ち続けた。辺りの凍りついた地面は、放出された熱と高温で元に戻ったようだ。
(…………)
結果を見る分には不自然な点はない。火炎の熱が氷を溶かすのは自明の理と言えるも、自然物を基としない物質や現象、つまりチャクラを基に現出する力は、属性の優劣や上下関係を覆すこともある。五大性質や血継限界の術とて、それを構成する物はチャクラ、質を高めるのは術者の練度だ。未熟な者が使う水遁は、熟練者が扱う火遁に押し負かされる。勝ち負けは優劣だけで決まるわけではない。
問題はチャクラの量や質ではない。形を成した術の方だ。氷に混じる――というより、氷を模した力が鈴仙を捕えて離さないのだ。優劣とは無関係な物に炎が通ると期待する方がおかしな話だ。
「妖怪はあり触れてる」ふわりと浮かぶマイ。「心躍らせてほしいわ」
マイの周囲に真っ白なチリが漂い、小さな氷塊が無数に形成され始めた。翼の羽ばたきと共に突風が吹き荒れ、発生した竜巻が横倒しの渦となり、凶器と化した氷の群を巻き込みながら須佐能乎を襲う。
直撃と同時に鎧は暴風に囚われ、凄まじい風圧を受けて後退を余儀なくされた。
「……ッ!」
凶悪な氷雪の嵐が荒れ狂い、轟音が駆け巡る。須佐能乎を丸呑みにしたのだ。
巻き込まれた無数の氷が刃や鎚となり、途轍もない勢いと圧で外壁を削り続ける。その間にも吹き飛ばされ続け、何かに衝突して大きな揺れを感じた瞬間、堅牢な鎧を突き破り現れた特大の氷槍が、後方から無防備な体を貫いた。大渦と氷による挟撃が勢いを利用して莫大な威力を叩き出し、絶対防御たる須佐能乎の破壊に至ったのだ。
「隙だらけよ」
背後からの囁き。氷塵と雪煙に紛れて接近したマイ。掌から硬質な棒を生成したオビトは、振り向きざまに氷刃と打ち合う。木遁の棒は触れた瞬間に凍結し、力を込めると共に真っ二つに折れてしまい、そのまま体に食い込んだ。
マイは不思議そうな表情で首を傾げる。オビトの左眼が見開かれると、今度はマイの姿が奇妙に歪み始めた。氷刃を握った右腕ごと体がねじ切れ、空間ごと引き千切られた上半身が宙を舞う。水色の長い髪が揺れる。体は流すべき血を持たず、断面からは不ぞろいな氷塊が覗く。氷像と化したマイが爆発四散、飛び散った群青色のつぶてが至近距離から体を打つ。
身を切り刻み消し飛ばす攻撃の数々を実体分離でやり過ごした後、背中部分が崩れ落ちて半壊状態の須佐能乎をまとったまま、オビトは足裏を蹴って高々と跳び上がる。
(この辺りなら――…)
辰巳の方角に見えていた塔が遠ざかり映る。大渦に巻き込まれて戌亥の方角へ吹き飛ばされたようだ。
氷漬けで動けない鈴仙達と離されたのは好都合だ。マイほどの使い手とやり合えば巻き添えだろう。須佐能乎は完全体たる第三形態ともなれば、周辺の地形を滅茶苦茶に破壊し尽くす力を持つ。神威や遁術など他の持ち札も例外ではない。魔界人を相手にチャクラを抑えながら立ち回る余裕はない。
渦は須佐能乎の動きを封じ込める圧を放ち、真正面から食らえば体勢を立て直すのは難しい。鎧を貫いた氷は鋼かそれ以上と思わせる硬度を持つ。一瞬の内に背後へ回り込む瞬発力と速力は感知抜きで対応できない。神威にしてもマイは初見のはずが、左眼の歪に巻かれる直前に身代わりと入れ替わる形でやり過ごした。直後に氷塊の四散で反撃を行いつつ、此方の視界を潰してけん制、距離を取るための時間を作る余裕もある。
両眼神威の併用。右眼によるすり抜けで敵の攻撃を確実に回避しつつ、空間ごと抉り取る左眼の歪で即死させる。致死性で言えば挿し木以上だ。忍など人間はもちろん、高い生命力を持つ妖怪でも致命傷となる。それを何の情報も持たない者が無傷で突破するなど。
常軌を逸した輩を相手取るのに、今の状態では命を削るに等しい。完成体を出すにしても長くはもたないだろう。捨て身の思い、なりふり構わぬ短期決戦で臨むしか道は残されていない。マイはユキとの会話を聴き終えてもなお、退かないという選択肢を持ち続けて離さないのだ。
「この世界は深い。暗い。奈落の底では命も凍る。朽ちて潰えて失われる。光の届かない深淵で生き延びたいなら、その灯火を燃やし続けるしかないの」
頭上から下りた声。降り注ぐ氷柱の雨が地上を打ち、見渡す限りの景色が様変わりしていく。辺りを漂う瘴気は細やかな氷塵に取って代わられ、枯れ木の群は片っ端から氷細工と化す。広大なる魔界の地は白く染め上げられていく。暗雲の立ち込める空は光を遮られて、地上に身も凍る寒さと影を落とした。
黒い姿が渦に巻かれて消える。踊り子のように舞う少女の頭上に歪が発生し、現れると共に複数の火球が口内より放出され、燃え滾る龍を模った姿が一斉に牙を剥いた。翼を広げて飛翔する姿を高速で追尾し、上下左右と前後から同時に襲いかかる。
逃げ場のない少女を丸呑みにした六体分の頭が衝突して混ざり合い爆発、炎柱が高々と昇った。
「儚い命で精一杯に足掻いて」
再び響いた少女の声。察知したオビトが空中で印を組み、煙の中から飛び出した分身体。本体が肩に触れると、両眼に発生した渦に呑み込まれて消え失せた。鋭い眼は眼下を一直線に映している。凍りついた大地の至る所が轟音と共に裂けて、巨大規模に成長した氷柱がいくつも飛び出したのは、視線が戻された刹那だった。
小さなオビトの姿を囲むようにそびえ立った直後、壁面にびっしりと生えた棘状の氷が一斉に撃ち出される。槍の群は時間と共に数を増やし続け、弾幕の規模を超える数に膨れ上がり、伸縮を繰り返して枝分かれしながら標的を目指した。白一色の景色が隙間なく視界を埋めて目前に迫る。
(多すぎるな……)
弾幕という言葉では収まり切らない物量。迫り来る『壁』と錯覚する異常な弾数の氷槍が全方位から迫り、逃げ場が完全に潰されていた。すり抜けの効果時間を両眼分で約十分と計算しても、数時間は絶えず体を貫き続けるであろう攻撃の中を耐え抜くのは不可能。高々とそびえる氷柱の規模は元より、後続して次々と数を増やせば時間の延長に歯止めがかからず、時間的な限度を超えて体力とチャクラの限界もあり得る。
――刹那、地上にて発生し、勢いよく到達してきた真っ赤な壁が外部とを隔絶、体に触れんと迫った悉くが焼き尽くされる。四方を取り囲む紅蓮の結界が遮断したのだ。強烈な火力を内包した壁は攻撃を寄せつけない。
古より因子と共に受け継がれし力。国造りの神たる分体を制御した、始祖の力に目覚めし者が作り出す火炎陣は、他の追随を許さぬ規模と堅牢さを併せ持つ。氷界を統べりし者の手も届かない。
「ぐッ……!」
経絡系を伝う鋭い痛み。足元に発生した時空の歪、内部に覗く石柱が足場となり、落下するオビトの体を受け止め安定させた。妨げなき安全圏にて呼吸を正すと、息の乱れが落ち着きを取り戻す。
印を組むと月草色の炎が爆発的に燃え上がる。崩れた鎧は瞬時に修復され、新たに顕現した分厚い外套で面と頭部を覆い、巫覡を模る姿が凄まじい爆炎の噴出と共に膨張、額に在る五角形の頭襟に術者を収めた、大翼を持つ禍々しい姿に変貌する。周りを囲む火炎陣は翼が触れる前に解除、融解するように消え去ると、咆哮を上げる鎧武者が二度目の現出を成した。紛れもない戦いのチャクラをまといて。
氷弾を無限に生み続ける柱は健在。火炎陣を失った完成体を槍の群が再び狙う。中央に佇む白い少女を睨みつつ旋回する鎧武者、その間も途轍もない物量が巨体を絶えず打ち続けるも、今度は亀裂一つ入らず動じていない。
翼と一体化した鞘に手をかけ、物質化した月草色の刀身が覗いた。重々しい抜刀と共に炎が迸り、飛翔した斬撃が氷柱を次々と真っ二つに両断、宙を舞う塊の群が辺りの空間ごと大きく歪み、同時に発生した時空の渦に巻き込まれ消え去った。
地上に爪跡を深々と残した槍の雨は、源の喪失と共に打ち止めとなり、一時の静けさが戻る。
「人間なのに派手。新鮮で楽しいわ」
完成体の前に姿を見せたマイ。右側の脚と翼部分が氷に覆われている。四肢を失っても無感情で表情も変わらない。
長寿と超越的な力を当たり前に有する人外達、魔界人を始めとする妖や神の類は、生き延びるために苦しみ惑う方が稀有である一方、短命で脆い人間は決死の思いで命を燃やして生きようと努力する。人外にはそれだけでも興味深く映るが、人の身に合わない力を内包する人間の命、その中でも自分達に近しいモノの姿を具体的に認識すると、時に至上の愉悦をもたらす。今まさに目の当たりにしたマイが喜びを言葉として漏らしたように。
「その力はどこから湧くの? それを作る精神はどれほど強いの? 収まる器はどのくらい大きくて深いの? 解るなら人の身が欲しいけど、外れた者には土台無理な話……でも外れてるのは貴方も同じだし、浅い部分を知るくらいは、私にも……」
「よく喋る」オビトの冷静な声。「印象が様変わりしたぞ。この一瞬だけで」
「必要ないのに喋りたくないだけよ。感情はあるわ」
露呈した感情が紡いだ言葉を聞いて、マイに抱いた印象が激変したのも確かだが、あの少女を見た後では驚きが小さく感じられた。
他の妖怪達より感情が豊かでありながら、他の誰より表情を欠いた面霊気。表情を生む感情とそれを生む心の具現たる妖として、顔の動きによる感情表現を行わず、被った面と身を一体とする役者のように表現を面に委ねている。
ゆえに解らぬ感情や心は存在しない。その現実を認識して肯定することは、感情と心を司る己自身の否定に他ならない。
「今すぐ戦いを止めて道を開けろ――などと言っても聞く耳は持たず、か。自由は自由でも、悪い意味の方が大きい……この状況では」
「…………」
「……分かりやすい奴だ。手間は省けるがな」
相手の考えを確認したり、変わり具合を問うたりで意思疎通して、互いの認識を共有する際に、言葉のやり取りを行う『会話』は必要で便利でもある。嫌なら嫌と口で言わず、首を横に振りもせず、そっぽを向くか黙して見つめ返すだけでは、意思など普通は伝わりにくい。普通ならざる魔界人のマイは表現が過激である分、言葉を用いない方が考えが伝わりやすいのだ。
「これだけは言う」オビトはマイを見返す。「今のオレは加減できん。正真正銘の潰し合い……死んでも文句は言えんぞ」
加減して勝てる相手とは初めから見なしていない。ここまでの応酬で否が応でも再認識に至った。向こうの力量を視抜けず侮ったり、視抜いた上で愚かにも弱いと判断して舐め切ったわけではない。むしろ逆だ。
生半可な戦い方が通用する輩ではないこと、もう一つは加減する余裕が残されていないこと。どちらかと言えば後者。裏山の洞窟で意気揚々と身を浸した瘴気、その後の魔界での行動、理由はいずれでもない。永遠亭の八意永琳を訪ねる前、秦こころと顔を合わせるより以前から、この身体はマイを相手に立ち回るには足りなかった。ゆえに有力な妖怪の一人である鈴仙が同行を願い出た時、安堵の気持ちが微塵も心に芽生えなかった、と言えば嘘になる。
余裕がなければ必死にもなろう。心の変化とは繊細かつ複雑だ。何のために魔界でマイを相手に力を振るうのか、目的が今や判り切ったものでも、判らない部分は少なからず出てきてしまう。なりふり構ってはいられないのだ。
「私はなかったわ。初めからね」
感情に乏しい声が聞こえた。すらりと伸びた白い指が向けられる。
異変を感じたオビトが動きを止める。肌寒さもとい冷たさが体を包み、群青色の氷が指先から張り始めた。その様子を眺めるマイが小さな含み笑い。
「今のやり取りで、私たちは共通の認識を抱いた。好いことよ」
周辺一帯に降りしきる氷。手足の凍結が徐々に広がり、胴体の中心を目指して延びていく。分厚く堅牢で並大抵の攻撃を寄せつけず、奇壊蟲一匹入り込む隙間もない須佐能乎をマイによる干渉が通り抜けて、強靭なチャクラに包み隠されたオビトに届いたのだ。形や質量のある物質では決してない、写輪眼にも映らない力が。
手足はすでに指一本も動かせず、印も組めない状態に追い込まれたものの、干渉を受ける前に現出させた鎧にまでは及んでいない。通常の遁術や瞳術とは異なり、忍具のように扱える須佐能乎を操作するにあたり印は必須ではない。四肢が切断されてダルマと成り果てようが、両眼を潰されて光を奪われようが、命が潰えぬ限りは消えない『第三の瞳術』だ。
「好いばかりではない。オレにとっても……お前にも、な」
――太刀を握り締める鎧武者。神威の力を乗せた無慈悲な一閃が走る。安定した空間に無秩序が生まれ、多重に発生した渦が氷の群を無条件に消し滅ぼし、周辺の景色を無差別に捻じ曲げながら一直線に標的を狙う。
マイは咄嗟に形成した氷鎚で迎え撃つも、物質の形状も硬度も防御も悉くを無視して突き進む空間歪曲に耐えられる道理はなく、最後に展開した氷壁も突破される。時空の狭間を断ち斬る威光を真正面から浴びて、背後に広がる景色ごと一刀両断された。途轍もない規模の斬撃が引き起こした異常な歪みにより、安定を破壊された空間の均衡が一気に揺らぎ崩されたのだ。