OBITO -廻光-   作:大兄貴

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心の中に(4)

 遥か遠方まで続く地平線から曇天にかけて映る景色にズレが生じている。風景写真を縦や横に破り、上下左右にずらして置いたかのように。

 短期決戦として解き放った力だ。地形の一つや二つは消し飛ぶと踏んでいたが、思った以上に桁違いの威力が生まれたようだ。押し寄せた消耗が重さとなり圧しかかる。

 

(何だ――…)

 

 奇妙なことが一つ。両眼に込めていた瞳力を完成体の武具に乗せて解放する直前、体の氷結が広がる前に練り終えていた一定量のチャクラが、己の意に反して急激に膨れ上がり、マイ一人を仕留めるには過剰と言える量を力として「込めざるを得なかった」こと。あのズレを作った斬撃がそうだ。

 練成にあたり消耗で不足が生じたならともかく、練り終えたチャクラが不可抗力で増大を起こすなど初めての経験だ。身近なもので例えるなら、水道の蛇口を捻る時に力加減を誤り、大量に放出した水が辺りを水浸しにした。

 誰かに体を操られてチャクラの練成を乗っ取られたのか。断じて違う。少なくともマイなど他者の横やりが入った線はない。チャクラに影響を及ぼす波長操作や花精による安定化でも限界はある。忍界では起こり得ない怪奇現象が多発する世界の、まだ見ぬ未知の概念が暇潰しに悪戯でもしたのか。

 

(イヤ……今は)

 

 ふと我に返るオビト。呼吸を整えて顔を上げた。マイが消えて誰もいなくなり、辺りには静けさが戻っている。

 当初の予定通り必要な物を手に入れるべきだ。永琳が提示した時間まで余裕はあるが、魔界は無駄に長々と居たい場所ではない。マイのような輩がまたいつ現れるか分からない。チャクラと体力次第では瘴気の影響も出始めるだろう。須佐能乎を始めとする瞳術を満足に扱い続けるには、永遠の光や体細胞ありきでもそれなりに力を使う。まだ以前のようにはいかない。

 マイが居ないためか氷は効力を失い、体を動かすだけで剥がれ落ちた。体内を巡る冷たい感覚も薄れつつある。氷漬けになった鈴仙達の安否も気になるところだ。

 

「行かないで。独りは寂しいわ」

 

 憂いに満ちた囁き声が耳に入り、凍えるような吐息がかかる。自由を取り戻した矢先、再び同じ色の氷が四肢を覆い始めた。

 体が動かず印を封じられるに止まるならマシだった。忍が術を使うために必要なチャクラの練成までも。心身に調和をもたらす身体的、精神的な力の流れに違和感がある。原因に心当たりがあったオビトは、常に発動させている写輪眼で、己の手足をそのまま視通した。チャクラの動きが停止している。

 

「まさか――」

 

 凍結して動かないチャクラの流れ。マイが写輪眼の幻術をやり過ごした時に見た光景が、今度は体内に広がっている。鈴仙を封じ込めたのもおそらくは同じ力。対処できる術を持とうと使えなくては無意味。僅かな時間で答えと疑問が生じては重なり続けて止まらない。

 問題は他にもある。耳元に聞こえた声が意味するのは、確実に葬り去ったはずの人物が健在である上に、この完成体の内部にまで潜り込んだこと。覚えのあるチャクラと背中に密着する感触、吹き込む冷たい外気を肌に感じた時点で、後ろを振り返って確認を取るまでもない。視界の端に映るモノも同じだ。天使を思わせた白い翼は黒々と染まり、変化した形状は夜の王を思わせる。

 体もチャクラも凍りついた無防備な状態で背後を取られている。数多くの敵を相手取ってきた経験豊富な忍なら殊更に、たとえ指一本でも迂闊に動かせる状況ではない。動く指すら一本も持たないのだ。

 

「お前は……本物か? 仕留めたはずだ」

 

 チャクラの練成を封じる氷の影響が驚門と死門の点穴に近づいている。重要な経絡系が密集する心臓部に到達するのも時間の問題だ。今ですら練り上げられる量は、術を使うには足りない微々たるもの。精々が腕や足に集めて身体能力を強化する程度だ。

 体の動きを物理的に縛る効果もあり膂力も役立たない。片方のみならもう片方で突破口が見つかる状況でも、漏れなく両方が取り上げられては手の打ちようがない。

 

「全部がホンモノ」マイは滑らかに喋る。「神サマの真似ごとだから、赤くて白いニセモノでもあるけど。さっきの私は死んだわ」

 

 数や全体を表す言葉。人数を言うならば、最低でも二人以上でなくては不適切。本物との言い方に疑問を持たず、同じ単語を滞りなく返したことから、偽物や類する存在を認識した上での発言と見て取れる。現に偽物とはっきり口にした。

 神という直接的な表現や、人外の身であるマイが何人もいるかのような物言いを聞けば、熟考せずとも想像はできる。何より以前も目にしたものだ。

 

「『分霊』……そいつが本当なら」

 

 分霊の術。神霊の類が有する異能の一つ。己の分体を自由に作り出す術だ。実体を持つ部分は影分身と同じだが、分霊は本体と同等の力を宿す上、分ける数に限りはないとされる。しかも影分身や木分身を鍛えようで見分ける写輪眼でも看破できない精巧な代物、というより本人そのものだ。

 本来は神代に鎮座する祭神が、信仰を集める一環で己の名と力を広めるために、本殿の分社を建てる際に使われる。その基となる力であり化身だ。つまりマイは神霊に分類される輩であると。

 

 一口に神霊と言っても種類や数は様々。守矢神社の祭神を含む神々は八百万と言われており、文字通りの『八百万』どころか無数に存在する。

 神様という言葉を耳にすると、並外れた力を持つ超人的な者を想像する。忍宗を説いた六道仙人、国造りの神とされる十尾、現人神のカグヤが何たるかを知り、幻想郷に来てからも同じ類の連中を見てきた。だが神格の高さや力の強弱は千差万別で、人の力や理解が及ばない森羅万象を神としながらも、五穀豊穣や航海、鍛冶など人々の暮らしに密接なもの、その辺の石ころや米粒にも神は宿る。

 要するに強い者ばかりではなく、分霊を扱えるだけでは脅威とならないが、マイは厄介にも強かと見なされる方なのだ。

 

「なるほどな。神霊を退かせるとなれば……」

 

 神威や須佐能乎を生んだ万華鏡の瞳術は六道仙人から、基となるチャクラはカグヤから伝播した。幻想郷に住む人間や忍から見ても人並外れた力に映り、出処と解釈次第では神の力と言える。通常の遁術とて物により見なせるだろう。この肉体も人の身ながら柱間の力を、仙人の実子と直系子孫が持つ因子を包含する。ついでに六道の神となった過去もある。

 これでようやく人ならざる者達、妖怪や神霊と同じ境地に立って戦えるに過ぎない、との言い方もできよう。力を持つだけで人の身には違いなく、人の外にある者達に及ばない部分は多い。己の体を道具のように扱い、魂を出し入れできる神霊ともなれば始まりから違う。完成体以上の持ち札を選択肢に入れたら最後、目的の物を手に入れるか以前に、生き延びて無事に元の世界へ帰還できるかも判らない。

 

「『神霊』? 種族の名前で呼ぶなら……私は『魔法使い』。神サマなんかじゃないわ。真似ごとって言ったでしょう」

「真似ごとで分霊を作るのか。簡単に言う」

「力は本当」マイの冷たい微笑が向けられる。「私たちは作られた。その威光に連なる生き物として……お節介でうるさい神サマの手で。あのユキも同じ」

 

 見覚えのある術を目にして出した予想を即決で否定された後、残る可能性を妖怪と考える前に、魔法使いと先んじて名乗るマイ。

 魔法使いなど人間離れした種族は、容姿が人でも獣でも幻想郷では妖怪の扱いを受ける。本当に分霊の術を扱うなら神霊と思うだろう。気になるのは「作られた」や「連なる」との表現。

 

「知った種族とは違っても、同じ枠には入る……どっちにしろ未知か。今は考えるだけ無駄だな」

 

 人の心は神を生む。神や妖怪を作り出す人外もいる。面霊気以上に多くの側面と秘密を持つ後戸の番なら、一世界を創造した賢者の一角に名を連ねずとも、人の理解が及ばないモノの数々を易々と作り上げる。魔界にも似たような輩が居ただけの話だ。

 マイやユキを含む魔界人、魔界という場所を創り上げた全能の神は、現在もこの世を天上より見下ろすのだろう。

 

「長ったらしい自分語りとか私、興味ないから。訊かれたならともかくね。その辺りは後で」

「……そいつがあれば、な」

 

 右眼が瞼の奥に隠れる。華奢な肢体を押しつけ密着が強まると、漆黒の翼が凍てつく冷気をまとい、身動きの取れない姿を覆い始めた。広がった氷は心臓付近を包んで範囲を狭めていく。

 

「――オビトっ!」

 

 別の声が響いた瞬間、マイが体勢を崩して翼が視界から外れた。無言でその場から飛び立ち、傍から離れて居なくなると共に、胸部の点穴を蝕み続けていた氷の進行が止まる。

 鈴仙達と同じ結末はひとまず回避できたのか。ならば救いをもたらした人物は何者かと訊かれても、声やチャクラに覚えがあれば考えるまでもない。

 

「……?」

 

 不意にぱりっ、という音を立てて、体を薄く覆っていた氷が剥がれ落ちた。

 手の指に力を込めると、関節がぎこちなく曲がる。少しずつ力を込めて慣れを掴み始める。もう片方の手で袖をまくり、腕に張りついた氷を払い落とした。体の芯は冷えたままで、凍ったチャクラは溶け切っていないが、外側が機能するだけでもやりようは戻る。

 駆けつけた人物により解かれたのか――そう思った瞬間、視界に映った景色が激変した。肉体の自由を取り戻して早々、礼の一つも口にする暇もなく、新たな問題が発生したようだ。解かれたのは須佐能乎も同じで――形を維持する力まで根こそぎ奪い去られたのだ――周りのチャクラと足場が霧消すると同時に重力が圧しかかる。

 

(不味い――)

 

 高さ自体は大した問題ではない。魔界へ入り込んだ時の高度よりは低空だ。仰向けで落下し続ける状況でも、体が満足に動くなら体勢を直せばいい。足裏なり脚なりチャクラを使えば無傷で着地できる。硬直が解けたばかりで手足の指の関節くらいしかロクに動かない上、ほんの微量のチャクラしか練られず、術の一つも使えない者に何ができるのか。

 忍び耐える者とて生身の人間、先に待つのは浄土への短すぎる階段。チャクラの不在が追い立てている。

 

「どう、少しは役に立った?」

 

 転げ落ちる勢いとは言うまい。力強く後ろへ引っ張り戻されたのだ。薄紫色の髪が視界に揺れている。

 どこからか接近して咄嗟に手を掴んだことで、体が地面に叩きつけられて飛散する悲惨な結末を覆したのだ。背や体格、重さの差異を無視して易々と片腕で止めて。妖の身として余裕とばかりに笑みまである。

 マイの手にかかり氷漬けにされたはずが、体には氷の欠片一つ残されておらず、手を通して感じる体温に異常はない。

 

「……十分すぎるくらいだな」

 

 地上に降り立った二人。片膝をついて暫し呼吸を安定させた後、鈴仙に礼を言って腰を上げる。マイもついてきた様子でふわりと前方に着地した。

 周辺は度重なる衝突により荒れ果て、大小様々で形も不ぞろいな氷塊の残骸、吹き飛ばされた枯れ木の群も一緒に散らばり、派手に炸裂した神威の斬撃に巻き込まれた影響で景色に歪みが生じていた。ぱっと見は氷の表面と思われる亀裂も、位置をよく見ると妙なズレが多数見受けられる。

 

「身動きが取れないものと踏んでいた。あの体ではな」

 

 好戦的なマイの本意は力試しや遊びだ。悪意など負の感情は初めから存在しない。鈴仙とユキ、この体が受けた物にしても命まで奪う力ではない。

 それでも身体的な自由、内力を同時に完封する力と干渉度合いは桁違い。神霊にしか扱えない分霊まで、特殊な生まれとはいえ()()使()いの身で作り出すほどだ。鈴仙とて能力が封じられた状態では、自力での脱出は不可能と言わざるを得ない。いかにして縛りを打ち破り一矢報いたのか。

 

「まあ私だって、能力には多少自負があるけど。あの程度なら片手で余裕だったね」

 

 オビトの前で自慢げに語るも、直後にくすっと笑い「なんて」と付け足した。鈴仙の眉間にしわが寄る。

 

「分からないのよ、実は」

「自力で出たんじゃないのか?」

「うん」鈴仙はマイを見る。「あいつのあれ、私じゃどうにもならなかった。正直ね。力が使えないんだもの――でも一人は一人でも、独りでに砕けて放り出された。あいつがやられて術が解けたと思ったけど、来てみたら健在だったし、黒帽子は凍ったまま……私だけだった」

 

 波長操作による冷凍状態の脆化。完全に凍結して動きようが皆無ならともかく、関連する波が凍りつく前に手を打つか、事後でも解凍しかけで僅かでも動きが見つかればチャクラの波を弄り、正常な流れへ導き戻して固定すれば循環を確保できる。乱れや停滞を正すだけの幻術破りより繊細な操作を要求されるが不可能ではない。そんな能力も膂力も使わず、何らかの手を打つ前に術が解除された、という鈴仙の談だ。

 発動や維持が術者と連動して成立する術は数多くある。忍術の中から例を挙げるなら、複数人で展開する類の結界忍術が妥当だろう。隠れ里を外敵から護る感知結界、影クラスの忍が四人で作る四赤陽陣などは、各々役割を分担する関係により、一人でもチャクラが乱れたり途切れると、術の効力が弱まるか強制的に解術される。うちはの火炎陣や六道の六赤陽陣も独力ながら連動はする。さらに結界系統の忍術以外でも、影分身は本体が傷を受けると掻き消えることがある。

 鈴仙を閉じ込めた氷も同じ特性を持つと仮定すれば筋は通る。須佐能乎で分霊を斬り飛ばした時に本体が影響を受けたか、分霊本人が氷を作ったなら話は簡単だ。しかしながら、鈴仙と同じ状況にあるユキは自由の身ではない。かといってマイが自らの意思で余所者の、曰く『つまらない』らしい鈴仙だけを都合よく解放したとは考えにくい。

 

(…………)

 

――第三者による干渉である可能性。元よりマイもユキも前触れなく姿を見せたのだ。魔界のいずこにどういった輩が、どんな理由でどの程度に潜んでいて、いつどこから急に現れても不思議ではない。

 神出鬼没な者が多い幻想郷でも、思わぬ遭遇は日常茶飯事と言っていい。微動だにしないマイをこうして視ている間に、傍にある氷塊の陰から八雲紫や式神達がひょっこり顔を覗かせても驚きなど――驚きはするとはいえ、常識的な考えが役立たない世界では想定内として納得できる。はたけカカシが陽気に手を振りながら現れでもしない限りは平然と対応するだろう。

 

「こん・にち・は~っ!」

 

 静かなる場で陽気な声が響いた。飾りも捻りもない分かりやすい挨拶が午後仕様なのは偶然か。

 この場にいるオビトと鈴仙はもちろん、感情が豊かな方ではないマイですら、底抜けに明るい声に反応を示した。完成体や神威による空間歪曲を目の当たりにして、鈴仙による不意の攻撃を受けても、表情をほとんど変えなかった少女が。

 

 唐突すぎる挨拶はどこからか? 場所を知るだけで何者かも判るだろう。

 オビト達とマイとの間には誰も割って立っていない。見通しが良好な頭上にも姿はない。となれば見通しの悪い周囲の遮蔽物、本当に氷塊の陰に身を潜ませているのか。そう思ったオビトは、ある程度まで戻ったチャクラを感知仕様に変えて周辺を探る。

 やはり誰の姿も見当たらない。能力による人探しが得意な鈴仙でも特定できない様子だ。

 

「…………」

 

 ここでオビトは真顔に戻る。遠方まで広げていた感知の網を、自分達の近辺よりさらに狭めて、自らを中心とした至近距離へと変える。

 オビトが口を開く前に脚の辺り、正確には脚を覆い隠す衣の奥。つまり内部から二言目が聞こえた。裾を掴む何者かの手が切れ目越しに見え隠れする。灯台下暗しとはよく言ったものだ。

 

「ひとりでやってるの。時期尚早でしょうに――?」

 

 鈴仙は長い髪をかき上げながら腰を低めると、ごく自然な動作でオビトの裾をめくろうした。伸ばした手をかくれんぼか悪戯好きな何者かにがっちりと掴まれて、思わず声を上げそうになった直後、弾の一発も飛ばす前に何者かが中から出てきた。オビト本人は跳び退かないだけで表情は呆れている。

 内部から姿を見せたのは童。銀色の長い髪を左でまとめたサイドテール、上下続きのゆったりふわふわとした赤い服に身を包み、背丈は湖の吸血鬼や氷精よりさらに低い。悪戯っ子な表情で笑んでいる。

 声は聞こえど姿は見えず、正体を目の当たりにしたオビトの第一声は「何だこいつは」といつも通り、鈴仙は目を丸くして「七化け? 八化け?」と妙な疑問を呈して、マイの方は退屈そうな様子で「目障り」と呟いた。皆の反応を受けてか童は慌て始める。

 

「これは失礼、順序が何千か飛んでしまったわ。外からの客人は久々すぎてつい、ね」

 

 幼染みた声が落ち着いた口調に変わる。小さな姿はふわっと浮き上がり、三寸の姫を擁する筒のごとく光り輝いた。背丈と共に手足が伸びて、人の形のまま大きくなっていく。早回しと見るには思いの外ゆっくりと。

 腰まで届いた長い銀髪が揺れる。背の高い女性はスッと姿勢を正すと、愛想のいい柔らかな表情で笑いかけた。

 じっと観察する鈴仙の目が何度か瞬いた。机の下に潜って隠れたり、カーテンに包まって遊ぶ子供のような面影が消え失せて、大人びた雰囲気を漂わせ始めたら、同一人物と判っていても違和感は生じる。至近距離から四歩分ほど間合いを取るなり口を閉ざしたオビトに代わり、鈴仙は警戒しつつ「新手?」と冷静に疑問を呈した。

 

「初めまして。神様と聞いて観に来ました、神様です」

 

 にっこり笑いと緩すぎる口調での自己紹介。多すぎる突っ込みどころ。思わせぶりな出だしから名を口にしない地味な不意打ち。

 

「そんな急に……」

 

 鈴仙を困惑させた真の理由は、他人の衣服を使ってかくれんぼする悪戯心でも、豊満な体つきの妖艶な姿に変化したからでも、当たり前のように神を自称したことでもない。特に三つ目は幻想郷で暮らす者にとって、挨拶と同程度に常識的で何気ないものだ。その辺の輩が唐突に神を名乗ろうと奇怪に思われず、本当に人の身を外す者も出るくらい。鈴仙はちらっとオビトに目を向けた。波長を視る力が捉えるものは、チャクラを視通す写輪眼にも映るだろう。

 女性の内は空っぽだ。力の流れも発する波も内在していない。強いて言うならば、周りの氷や枯れ木、土や泥などの自然物を見ているようで、命なき無機物に近しいものを感じる。オビトが女性の傍から離れたのは、物理的な距離感が近すぎたからではなく、途轍もない力を振るうマイや弱小な獣、果ては無力な里人にも在るものがないと、逸早く察知して警戒したからだ。鈴仙はそう思わざるを得なかった。

 

「……誰なの?」

「ですから、神様です。か・み・さ・ま。そちらの認識も同じはずですよ」

「いや、じゃなくて。名前」鈴仙のジトッとした目。

「え?」きょとんとする女性。「あら、ごめんなさい……えっとじゃあ、『神綺』、でいくわね。分かりやすいし」

 

 神綺と名乗った女性は咳払いした後、むっとした表情を作ってマイの方を見ると、腰に手を当てて「こらっ」と厳しい声を出した。烈火のごとき本気の怒り具合には程遠く、物を壊したり壁や顔岩に落書きした悪戯坊主を叱咤する親や先生――否、もう少し穏やかで、嫌いな食べ物を頑として拒み続ける童をしかる程度だ。

 無言で佇んでいたマイは、ふと視線を外して歩き出した。湿った土を踏む足音が聞こえる。神綺との距離をゆっくりと詰めていく。と思いきや、そのまま傍を通り抜けてオビトの方へ近づき、背後に回って姿を隠した。顔と元に戻った翼が覗く。

 ある意味でとんでもない空気の変わりように、今さっきまで戦場を舞っていた鈴仙も呆れた様子。隠れみの扱いされたオビトは無反応。神綺は困ったように息を吐いた。

 

「ま、さすがにね。止めなきゃなあと。貴方たちのはしゃぎっぷり、思ったよりずっとすごかったんだもの。オビトちゃんにウドンちゃん、マイが迷惑をかけたわね。親元として謝るわ」

 

 うどんにちゃん付けまでされたウドンゲ。鼻水を垂らすこともなく不快感を露にするも、オビトの方は「親元?」と聞き返すだけだった。

 幼少の頃に故郷の隠れ里でお年寄り達から同じ呼び方をされていた事実や、思いっきり敵対していた少女に裾を掴まれている現実があるかは関係なしに、神綺を前に意識を逸らしたり冷静さを失うことはない。ただしいずれも、彼女が何故に自分らの名を知るのか、その辺りの事情に心当たりと慣れがある部分は共通する。

 時間と共に氷が解けて内力の流れが戻り始めると、オビトは練ったチャクラを両眼に込めて目を開けた。黒い巴紋様が神綺を真正面から映す。

 

「『神綺』、と言ったな。それがアンタの名か」

「まあね」神綺はのんびりと喋る。「それと。『神様』というのも、そのままの意味よ。貴方の思う通り」

「そいつが本当なら、オレの知る人物ってことになる……アンタはな」

 

 稗田家の書物に記載があるのは、幻想郷に住む人間や妖怪の類を主として、地底界や冥界、彼岸など関連する場所と人や物である一方、天界や仙界など関連性の劣る場所についての情報は、表面的で具体性を欠いた不確かな内容のものばかり。幻想郷からは行き来ができず、オビトが踏み入るまでは認識外だった忍界に至っては絶無だった。

 それらに類する『魔界』も似たような位置づけだが、書物で目にした『神綺』なる名は、真偽も出典も判らぬ頼りない文章の中で唯一、具体的と言える内容が載っていた。

 

――神綺は世界を創造して、そこに住む人や物を作り出して、一世界を統べる全能の神として君臨した。魔界が擁する森羅万象、全ての魔界人や魔物達を生み出した始源である。

 八雲紫は『幻と実体の境界』の力と博麗大結界を用いて幻想郷を創造した。それは妖怪達を存続させるために、常識の外へ追いやられた者達の行き場を作ったに過ぎない。戦いの神や三界の裏側を司る神のほか、忍界においてチャクラの祖とされるカグヤとて、忍が生まれる源流となったに過ぎず、そこに在る人や物を一から作り出したわけではない。神話の類に理解や慣れがあるオビトでも、話の規模が大きすぎて想像に至らない部分の方が多かった。

 

(まあいい……これ以上は無意味だ)

 

 兎にも角にも、だ。こういう話ではなかろうか。真実、この神綺なる人物が魔界の始祖であるならば、マイやユキを含む魔界人を生んだ張本人である、と。

 最初に幼子の姿で現れて珍奇な悪戯をしかけたり、全能神なる印象など凡そ抱かぬであろう言動を見ても、元より神霊が持つ妙な親しみやすさが信憑性をもたらした。否が応でも。分霊の件も神綺が扱えるなら頷ける話ではある。

 

「親元ってのはつまり、こいつがアンタの――」

「あら、人間の物差しで測っちゃう? でもでも、清らかな乙女よ、私は。その子もね」

「物差し? この状況で人の常識など……」

 

 人の外にある者に人の常識が通ずるはずもない。元より人の理解を超えているのだ。

 外見や心など内面の一部が人間と同じか似ているだけで、体の作りや生まれなどそれ以外や、生きる世界とて本来なら異にする。人間同士や妖同士でも些細なすれ違いが生ずるのに、異種族間で物事の感覚も基準も常識も遍く符合する方が不自然だろう。その辺の事情を知る今のオビトが己の物差しなど持ち出すまいが、代わりに鈴仙が「神様として作ったかって話よ」と伝えて助け舟を出した。

 

「そっちね」神綺は一人納得する。「まあそうね、その通り。ですからその子の責任は、私の責任……お仕置きはしなくちゃだけど、ねえ?」

 

 神綺は優しく語りかける。背後に隠れる姿を貫き視通すような目つきで。裾を掴む手にぎゅっと力がこもる。怖いもの知らずに見えるだけでは、恐怖を覚えるか否かを判断する理由にはならない。

 ユキの制止を振り切ってまでマイが戦いを望んだのは遊びの範疇。自己の意思決定の下での行いであり、他の誰かが糸を引いて望まぬ殺し合いを強要されたわけではない。魔界の神として生んだものに起因する責任、もしくは親の情が本当にあるならば、他人が口出しする方が野暮と言える。二人が話し合い決めることだ。

 

「なんにせよ……新手じゃなきゃそれでいい。こうやって話をする前じゃ、こいつと同じ目的かどうか判らんからな」

「初めが読めなかったものね。突然すぎて」

 

 ひとまずの答えに辿り着いたオビトに鈴仙も同調する。一人目が戦う気満々で姿を見せたなら、次の二人目や三人目も同じ目的で現われたのだと思考が先行しても無理はない。始まりがマイに見る手練れともなれば、考える余裕を失って一緒くたにまとめるだろう。それが力の強弱を通り越して、何も感じない魔界神なら結末は判り切っている。

 

「とはいっても」神綺はオビトを眺める。「気軽に来ていい所でもないかな」

 

 人間や妖怪以上に格も力も勝る神霊、高位の魂の持ち主も心と感情を持つ。全ての人や物の創造主として愛着があり、一世界を管理する者ゆえの責任や想いがあるなら、大切な場所を余所者に荒らされて何も思わぬはずもない。幻想郷を誰よりも愛するあの妖怪のように。

 

「貴方に罰を与える選択肢もあったわ。生じた被害が被害だしね。器を超えた力には相応以上の責任が伴うものよ」

 

 周辺一帯は荒れ果て氷塊だらけで見る影もなく、氷柱が突き出した際に走った地割れも巨大で深い。完成体須佐能乎による大規模な破壊や余波が重なり、魔界の空間に影響を与えて歪みや断絶まで引き起こしたのだ。どう見ても普通に戦って生じる影響ではない。

 両者の衝突が魔界ではなく幻想郷を舞台としていたら、人間の里や妖怪の山も含めて甚大な被害は避けられず、巫女や妖怪賢者を始めとする数多の人や妖怪達を敵に回して凄惨な結末を迎えただろう。

 

「けれど理由がワケで、ワケも理由だったから。大目に見てあげられるくらい、寛大にならなきゃね。神様なら」

 

 穏やかな神綺の目がオビトの右眼を映す。暫しじっと見つめた後、その視線が鈴仙の方へ移った。負けじと睨み返すも、赤い瞳に宿る狂気の光に神綺は臆さない。写輪眼の瞳力を直視しても眉一つ動かなかった。

 

(さっきのは……)

 

 空間とは安定があればこそ。乱れや歪み、亀裂やズレ、穴などの不均一な要因が混ざらず、互いに均衡を保つことで安定を成して存在できる。

 ここで言う均一とは、空間に符合する性質のもので、それを濁す不純物ではないもの全般を指す。神威空間とを繋ぐ際に生じる渦や歪、スキマ空間を開く時の裂け目など、正しい制御と使い方の下で起こり得る変化は例外で、他の空間に悪影響を及ぼす心配はない。神威空間内でスキマを開いたり、スキマ空間内で神威による歪曲が発生しても、互いに侵食を起こす不安定さが皆無なら同様だ。剣術の達人が一閃で作り出す軌跡は細く鋭く乱れなど生じようもない。

――神威の力を乗せた須佐能乎の斬撃は事情が異なる。空間への干渉を行う神威と、万象を打ち砕く途轍もない破壊力が、術者とチャクラを介して巧く融合した場合、不均一と見なせる要因の全てが一堂に会する。早い話が空間を捻じ曲げて壊す。その影響は死門の陣より遥かに大きく、広範囲を一撃で真っ二つに叩き割るほどだ。

 

「一つ訊きたい。オレたちのやり取りを、どこからか観ていたのか?」

 

 マイは神綺の仕置きを怖れてか傍を離れない。須佐能乎の内部にいた時とは違い、体やチャクラに異常はなく指の一本も凍らない。

 ここで処理して脅威を排除しても一時に過ぎず、目の前にいる神綺の存在は無視できない。力が及ぶか以前に届くかも不明瞭だ。

 

「どうしてそう思うの?」

「オレのチャクラが変わった……あれほどまで大きくなったワケだ。何者かの介入としか思えん。アンタの仕業か?」

 

 大きい、との言い方は二つの要因を指す。神威の瞳力を込めた一太刀をマイの分霊に浴びせる直前、必要な分だけ練り上げたチャクラが、攻撃を放つ寸前で急激に膨張して高まり、予想以上に大きな力を意図せず叩き出したこと。もう一つは、戌亥の方角に現在も見えている通り、空から地平線にかけて『ズレ』ている景色。神綺も認識した上で姿を見せたのだろう。光と影の在り方のように、因果関係は実に単純で判りやすい。

 術の肥大化、基となるチャクラの膨張、つまり『強化』とは量の増大だけではなく、術のために最適化されて質を高めた状態を言う。同じ術でも強いチャクラを用いる方が威力は高い。神威や須佐能乎とて忍の術、チャクラの高まりは瞳力の強化をもたらす。普段以上の力を発揮するのは必然。

 問題は己の意思ではなく、他の何者かによる干渉を受けて生じた、期せずした現象であること。そして頑張っても真似できないこと。練成後に最適化と安定化を済ませて状態が固定されたチャクラに瞬間的、かつ飛躍的な自己強化を施す術など持ち合わせていない。外的要因の有無を判断するのに頭を悩ませるまでもない。

 

――波長を操る能力なら応用次第で不可能ではない。波長が合うとの言葉があるように、精神に干渉してチャクラが放つ波を掌握し、術の性質に合うように必要な調節を施して形を成せば、力を十二分に引き出すことができる。他者のチャクラを自身の物に寄せて、自分本来の物に限りなく近しいチャクラを作ることも。増幅まで可能なら強化という話にも繋がろう。鈴仙が何をするにも覚えが早く成長率が高いのは、自他の波を自在に操る力が関係するとの話もある。

 先の戦いの最中、マイの分霊を葬り去る前に、鈴仙が咄嗟に能力を用いて加勢を行ったのか。本人に確認を取ったところ「私じゃないわよ」と即座に否定した。曰くユキとそろって氷漬けで動けなかった時の出来事だ。ならば残る有力な人物は、この場に姿を見せた神綺となるはずが、否定したのは同じだった。

 

「なーんにも得しないもの。するって話ならむしろ、逆のことをするわ」

「確かに……この世界を傷つけたがるはずもない、か」

 

 得をしないとの物言いは的を射ている。愛着を持つものを汚されたり壊されて気分が好いはずもない。

 神綺本人は理由と経緯をきちんと考慮して、思いのほか寛大な措置に落ち着いたが、余所者であるオビトの方から愚かにも喧嘩を吹っかけたり、殺戮を欲しいままに暴れ回る狂人なら、一世界の管理者として然るべき罰を下しただろう。幻想郷を管理する妖怪賢者にも言えることだ。

 もっとも、万が一にも神綺の言動が演技なら、積み重なった前提は瞬く間に崩れ落ちる。

 

「ここの瘴気のせいかもね。あなたの魔力――じゃない、『チャクラ』が影響を受けた。内力を刺激してエネルギーを高めたと考えたらどう?」

「釈然としないな。それにしては……」

 

 瘴気が含むのは人体に好ましくない陰や邪の気、毒など有害な物質ばかりではない。人や妖の生命力など内的な力を増幅させたりと、生き物にとって足しになる効果を及ぼす物もある。幻想郷では魔法の森、人が踏み入らない奥地などで実感できる。人為的ではなく環境が身体に悪戯をしたと、理屈として根源的に考えるなら疑問の余地はない。

 問題は事が起きた時点だ。チャクラを練り上げて形を成す前ではなく、練り上げた後に瞳力へと充てて、形ある術として顕現させて振るう直前の、手を止める間もないほんの一瞬の出来事であること。瘴気の効果が影響を与えるなら性質上、変化を起こしやすい練り上げ前の段階だろう。後と見なすのは不自然な解釈だ。

 

「見えず聞こえず、判らず。理由は案外、簡単かもね。私がここに来たのも」

 

 柔らかな笑みが不意に薄まり、オビトの姿を映していた目が細まる。

 頬を一筋の風が掠り、銀色の髪を揺らして滑るように接近する。温かな感触が添えられた。

 目尻の横に触れて撫でるように、すっと下りる。胸に当てられた手に力がこもる。

 瞼の奥に見え隠れする真紅色の瞳は、冷徹な赤き威光を静かに見上げた。耳元に唇が近づく。

 

「何もないわ」

 

 暫しの静寂の後、体から離れた神綺はにっこりとした。オビトは黙して見返す。

 掌にぼんやりと浮かぶ黒い球体は、目が瞑られると共に音もなく霧消した。そんなオビトの陰から何かが勢いよく飛び出して――。

 

「――おぶっ!」

 

 再び口を開こうとした神綺。マイの頭突きが炸裂、直撃を受けて前屈みになり、腹部を押さえてうずくまる。何食わぬ表情でとんぼ返りして定位置に納まった。

 鈴仙は一連のやり取りを困惑した様子で眺めていた。得体の知れない雰囲気をまとう少女が、生意気で親の言うことを聞かない悪戯っ子のような言動を突拍子もなく見せるなど、何者に予測できるのか。無駄に綺麗で洗練された横回転で見事に食わせた分、幼子に化けるより遥かに過激である。傍からだとオビトがけしかけた構図に見えなくもない。

 

「今のは?」

 

 ぱっと見はただの頭突きと思われる行動でも、高度で複雑な意味を含む特異な術か何かではと、真面目な表情でオビトが深読みした理由。忍界と幻想郷で積み重ねた諸々が形成したり、影響を受けた本人の性格もある中で、強かな力を持つマイの存在感が最たる要因だ。

 似たようなものを出遭い頭にガツンと食らった過去の記憶は関係ない。おそらくは。

 

「面妖で面倒な空気、変えたかった。長引きそうだったから」

 

 真顔でぽつりと呟いたマイ。見かけ以上に効いた様子だが、神綺の仕置きから逃げ遂せる隙を作るための行動にしては、頭突きだけというのもお粗末である。相変わらずオビトの後ろに隠れて様子を覗うだけで、余所者で敵である(はずの)二人から距離を取ろうとはせず、神綺の出現で中断された戦いを再開する素振りも見せない。

 親元で遥かに格上であろう魔界神の御前では、好戦的な彼女も頭突き程度に止める他ないのか。

 

「まあ……ナシに越したことないけど、そういうのは。さっきよりは落ち着けるし」

 

 同調した鈴仙とマイが思う『面倒』の意味は違うのだろう。並の妖怪より厄介な相手では、ごっこ遊び抜きの命がけの殺し合いを繰り広げるより、悶絶する魔界神の姿をぼんやりと眺める方が苦もなく平和的だ。早々に話を進めて事を終息させる気でかましたのなら、敵とて鈴仙もマイの突発的な奇行を否定的には受け取らない。

 二人足す一人分の視線が注がれる中、ゆっくりと腰を上げた神綺。若干困惑した表情で口元には微笑。ほんの些細な悪戯では逆鱗に触れるには遠いようで、痛みよりも不意を突かれた衝撃の方が勝るようだ。再びオビトを映して咳払い、同じ声色で「さて」と仕切り直す。

 

「貴方の望みでも聞こうかな。何かある? その子が迷惑かけたお詫びに」

「……詫び?」

 

 少しの間があったとはいえ、急な問いかけにオビトが不可解な表情を見せるには十分だった。神綺は予想外の反応と言いたげにきょとんとする。

 

「あら、不満? 甘いなーとか思ったり? 人間のくせに」

「イヤ……そうではないが」

「特別扱いはしません。いたって公平な判断なのですっ」

 

 やむを得ない事情ありきの踏み入りに加えて、魔界を構成する空間の均衡を破壊して損傷を与えた件も、発端はマイであり直接的な責任は認められない――本人の寛大さも重なり、そのような判断を神綺は下した。それ自体にオビトも違和感は覚えない。

 分霊まで扱えるマイを相手に人の身で生き残るには、同等かそれ以上の力を行使して立ち回らざるを得ない。今もなお元に戻らない空や地平線の歪みは、期せずした刹那の力がもたらした結果でもある。損傷した空間の修復にしても、一世界を創るにあたり必要な空間と時間を組んで、内包する人や物も作り出したりと、妖怪賢者以上の途方もない力を持つなら当然にこなせるだろう。問題の規模が規模だけに判断が呆気なく思えたのだ。

 思案するオビトの姿を面白そうに眺める神綺。マイは退屈そうな表情。同伴者の鈴仙は横から口を挟まず、事の成り行きを黙して見守っている。

 

「いいかしらオビトちゃん。はっきり言うとね、あなたに関連して起きた諸々は全部、私たちにとっては小さなもの。取り返しのつく問題なの。少なくとも今の時点ではそう」

 

 寄り添う口調で諭すように前置きした相手は人の子。種族や物事の感覚など根本的な差異がある以上、人間と同じ目線で語り尽くすのは難しい。人の外にある力を持つか否か以前の問題だ。永い時を生きる大妖でも人のようにはいかない。人間が自分達の手に負えないと見なす災害も、妖や神なら積み木や砂の城が崩される程度に思う場合もある。人の理解が届かぬ万象を源流とする魂の持ち主こそ妖怪や神霊なのだ。

 

(小さい、か)

 

 人の身とて『忍』としての豊富な経験や戦闘技術を持ち、人の外にある連中に慣れを持とうとも、はっきり脅威と見なす物事は依然として多い。あの十尾が起こした天変地異にしても、人間がチャクラで作り出す事象など及びもつかない。地球という惑星を循環する莫大なエネルギーと人間一人とでは比べようもあるまい。神樹を見ればよく解る。

 須佐能乎は完成形態でも十尾の規模に劣るが、神話の化け物と同質の力と諸々を含んだチャクラが作る破壊は術者から見ても大きい。取るに足らないと片づける神綺の、一世界を創造する魔界神の感覚や力とはどれほどの。

 

「でも、そこからは判らない。未来の話だもの」

 

 先のことは誰にも分からない。現状を汲み取りある程度の予測を立てたり、思い描いた形に導いて近づける程度はできようが、全てが思い通りの未来を視通し尽くせる者はいない。過去から現在、現在から先へと続く道は分岐点の連続で、無数に枝分かれする上に一定ではなく、些細な出来事により増減するなど変化を繰り返す。あらかじめ決められた一本道を歩くわけではない。予想だにしない分岐はどこにでも散らばり、いくらでも道は変わる。

 裏山の洞窟に入って門番と出会い、魔界へ突入するまでの予想した流れにおいても、想定こそすれ思い通りとは言えぬ答えに多くぶつかった。書物を読み込んで知識を蓄えて備えた程度で避けられるなら、期せずして現れたユキやマイ、神綺にも出遭わぬままに次なる分岐に辿り着いただろう。初めから先を見通して順調に歩ける完全無欠な生き物など存在しない。

 

「あなたが戦う意志を捨てなかったら、私はさっきと違うことを言ったし、違うことをしたわ。あるいはそれが『今』のあなたなら、言葉を撤回して罰を与えたわね。失いたくないのは同じだもの――あなたに助けたい子がいるように、ね」

 

 戦う意思を見せるか否かの選択も分岐の一つ。マイとのやり取りもそうだ。個人的な因縁も何もない者との衝突に至ったのは、自らの目的を達するにあたり、戦いを避けて通れぬと判断したからに過ぎない。それが途中で神綺が目の前に現れて中断、避けて通るための分岐が示されて、その先を選び進んだ結果、現在の状況に行き着いたのだ。

 平穏の中で会話する神綺、戦意を取り上げられたマイがいるという、数ある答えの内の一つに。

 

「今のあなた。『そんなこと』するの?」

 

 別の理由が存在したならば。戦闘狂のごとく嬉々として彼女に挑みかかり、見かねた神綺が現れても構わず戦いを続けていたならば。現在とは異なる道に踏み入り結末も変わっていた。魔界神による天罰を身に受けて命潰えるか否かの選択は、他の誰でもない己自身に委ねられていたのだ。救うべきものを救うかどうかも。

 オビトの口元に笑みが浮かんだ。自身がどちらなのか、どの選択が最も理想的で正しいかなど、それを考えて決める段階は疾うに過ぎている。でなければ今この場に『うちはオビト』なる忍はいなかった。幻想郷にすらも。

 

「願かけならな。叶える気があるなら、やってもらおうか。言い出したからには遠慮はせんぞ」

「話が早いっ!」神綺にぱあっと笑顔が戻る。「どうぞ!」

 

 やり取りを映していた鈴仙は好機を予感する。ユキはともかくマイに絡まれて失った無駄な時間も、探すべき物を探す時間の分を短縮すれば取り返せると。余所者の願いを詫びにと聞き入れる気が神綺にあるなら、たった一つの単語を口にするだけで、このまま旨い具合に例の物を入手できるのではと。彼女の介入で魔界人との潰し合いが自然の流れで終息した事実だけでも相当な幸運だ。

 規律ありきのごっこ遊びでも、怪我人や死者が平気で出るとはいえ、向こうはこちらと比較して平穏な土地だ。魔界における遊び抜きの戦闘など言わずもがな。幻想郷で言う妖精や獣妖怪辺りを相手取るならまだしも、下手な妖怪や神より桁違いに強い上に好戦的では容易に命潰える。しかも(自称だが)魔界の始祖神の姿まである。そんな状況で提案に乗らないのは愚かだろう。人間はもちろん妖怪でも。

 

(なんとか収まりそうね……)

 

 うちはオビトの性格は知っている。再三申した自前の能力でも解る。揺るぎなき意志と精神力の強さ、分別もあり不要な争いを避けて通る常識人の一人だ。

 感情と表情の変化に乏しく、無愛想で冷徹な面もある一方、どこか穏やかで温かな波を宿している。裏表があり平等でもある。表面を視るだけでは判らない側面だ。俗な表現で評価をするなら、初対面での印象は好くなく敬遠されやすいが、長く付き合う中で内面が解り始めるタイプであり、広くよりも狭く深い関係を築く方が向いている。内面を視る眼力に長けている者や、気の長い妖怪との相性は概ね良好と言えるだろう。

 無闇やたらに力を振りかざす傍若無人さとは縁がないため、狂気に落として思い通りの選択肢を導く必要もない。この状況になくともふざけた言動など――。

 

「煎餅の元にオレを導いてくれ」

 

――煎餅。せんべい。センベイ。その言葉だけが延々と脳内に反響し続けた。

 

 何とも澄んだ表情で吐き出された望み。真剣だった鈴仙の目は点になり、すぼまった口が『×』を作る。

 マイは愉快そうにくすくすと笑い、神綺は異色の単語を耳にしても変わらず、どちらかと言えばマイの心境に近しい。オビトに付き添って魔界にいる時点で決闘のノリは皆無とはいえ、ごっこ遊びで片をつける普段の異変が起きた時、遠回しの表現や皮肉を用いた舌戦をよく展開させる妖怪達でも首を傾げるような、途轍もなく場違いな物言いには違いない。

 それでも。それでも、だ。やはりその性格は熟知している。この人間が口にした言葉には意味がある。もの凄く重要で深い意味が隠されているはずだ。煎餅を焼いたり食して初めて物を手中に収める資格が得られるのか――突っ込みたい気持ちを抑えつつ、自分に強く言い聞かせて納得させた時、何かが視界の端にぬっと現れる。

 

「心配しちゃうのもアレ、分からないでもないけど。信じて任せてみてはどう? ここはさ」

 

 黒帽子の下で金髪が揺れる。口元には勝ち気な笑み。背後から近づいたのはユキだった。

 異彩を放つ神綺とマイに意識を向けすぎていたようだ。鈴仙は反射的に足裏を蹴りかけるも、敵意が感じられないと判ると、思い直して息を吐いた。

 

「今となっちゃ平和ねえ。ちょっと目を離してる間に仲良くなっちゃってまあ。放っといても大丈夫そうね、あの様子なら」

 

 のほほんと呑気な表情で満足げに頷いたユキ。マイの聞き分けのなさを皮切りに起きた喧嘩は影も形もなく、派手にぶつかり合っていた二人は寄り添うように佇んでいる。神綺との会話に集中するオビト、その姿を隠れみのに様子を覗き見るマイ、物理的な距離が近しいために、傍から見る分には友好的と思えなくもない。

 仲の良さ云々はともかく、平和との言葉はその通りだろう。マイの方は分からないが、ユキは相方を大切に思っているようだ。氷漬けにされてもなお口調や態度は不変。万が一にもマイがオビトに殺される事態にでもなれば、今度は激高した彼女が参戦して新たな悶着へ発展したに違いない。

 

「自分で出られたの? あれから」

「いや」ユキは快活に喋る。「その前にあの人が来たのよ。涼みすぎて寒くなったんで、そのまま家に帰った。暖炉の火に当たりながらあっつ~いお茶飲んで、休憩してから来ましたってね」

 

 あの人とは神綺だろう。身体の氷が解けてオビトの後を追いかけた時には、ユキは凍りつき動けないでいた。彼女の前に神綺が姿を見せたのはそれ以降で、オビトの前に現われた時には自由の身だった、という話になる。ついでに本人の口ぶりからして独力で脱出もできた。同じ魔界人という時点で予想できたとはいえ、能力が使えず手も足も出なかった者と比べると、その辺りの決定的な違いを嫌でも実感してしまう。

 冷えた体を温めにとマイを放って帰宅したのは、彼女なら人間のオビトに負けることはないと確信があったのか、マイを気にかける余裕が失われていたのか。あるいは彼女の命をオビトが奪うはずもないと見抜いていたからか。真相は本人のみぞ知る。

 

「先に出たのはそっちだけど。冷えなかった? 獣の耳生えてるし、寒さに弱そう。やると決めたら容赦ないからあの子」

「……少しはね」

「あー…」ユキは居心地悪そうに頬を掻いた。「もっかい言うけどその、悪い子じゃないのよ? ちょっとやんちゃなだけで断じてね。ああ見えて優しいとこあるし、面白いし、見た目もいいし、お菓子作るの上手いし。お嫁さんとしちゃ理想的ってのは解ってほしいっ!」

「飛躍したら余計解らないわよ」

「相性好いと思うよ。オビトなら」

「なに言ってるのこの人」

 

 鈴仙にとってユキやマイはかかわりを持たない他人。住む世界すら異にする者が良いか悪いを急に語ってもピンと来ない。強いて言うなら力試しや遊びの意図は、向こうのごっこ遊びと共通する部分もあるので、誰かと財や命を本気で奪い合う旧方式よりは馴染みがある。命名決闘の規律が魔界にも敷かれていたらの話。

 親しい友人や家族として付き合う上で何が理想かは個人の好みなので置くとして、マイは妖怪から見てもやんちゃが過ぎて手に負えないのは間違いない。やはり魔界とは物騒な場所である。

 

「話はまとまった。これから向かう場所だ」

 

 いつの間にか近くに立っていたオビト。マイの身柄は神綺に引き渡された。何とか戻ろうともがいている。神綺は笑顔のまま腕をがっちりと掴んで離さない。今の彼女は外見が大人の女性であり、力のみならず体格の差でも押さえ込まれる。その光景を見た鈴仙の内に後悔の念が生まれた。ユキとの話に気を取られて一連のやり取りを聞き逃したのだ。ちなみにオビトは安定の無反応。

 がくりと肩を落とした鈴仙を、ユキは底抜けに明るい声で「笑えっ!」と無茶を言って励ましたのだった。

 

 

――◇◇◇

 

 

 周辺は大きな枯れ木があちこちに立ち並ぶ、不健康で物寂しい森に戻っている。神綺とユキがマイを連れて(捕獲して)煙のように霧消する前、損傷した空間の位置や密度に調整を施すついでに、散らかった氷塊や荒れ具合を修正して片づけたのだ。

 マイの方は仕置きとして、神綺の『本体』が座する城にて夢子なる人物を手伝い、城内の清掃作業をさせられる模様。建物の規模や現場の状況が不明なので、罰の内容が重いかどうかまでは判らない。

 

「それで結局、なにがどうなって話が落ち着いたの? 煎餅って」

 

 待ち切れないという様子で尋ねた鈴仙に、懐から取り出した地図に目を通しながら「庇護だ」とオビトは答えた。

 

「庇護? それが煎餅に繋がるの? 煎餅に」

「最後にな」オビトは真剣な表情で語る。「オレの店は知っているか」

「うん。趣味で焼いてるんだっけ確か。兎たちも話してた」

 

 オビトが人間の里で営む煎餅屋に関しては、永琳の使いで薬を売りに足を運ぶ関係で知っていた。

 山の天狗が月に何度か発行する『文々。新聞』本紙の取材記事にある、各地に住む人間や妖怪達の話の中でもたまに見かける一方、魔法の森にある便利屋の霧雨魔法店、古道具屋の香霖堂も掲載される広告欄や、不定期でばら撒かれる号外記事にも載らない店舗である。オビト自身は商売二の次の姿勢を取り、売り上げや知名度を増やす宣伝等を行わないためだ。とある人物の助言や食した人々の客観的な意見も取り入れるために、店として最低限の体は成しているが、現在も趣味だけで焼き続けている。

 徹底した職人魂の賜物か、里人達からの評判は南の地区を中心にそれなり。里に古くからある老舗には及ばず、客足は決して多くなくとも、何人かの常連はついており、狭く深い経営を手堅く続けている。

 

「でも貴方のところ、人間のお客さん少ないよね。それ以外ばかりだと思う」

 

 人間の里は名の通り『人間』が暮らす場所である一方、他の種族が居なかったり入れないわけではない。里人に危害を及ぼす行為を禁ずるなど制約があるだけで、里内における人外達の行動は禁止されていない。鈴仙の薬売りにしても同じだ。あくまで里は妖怪達の世界を存続させるための手段の一つに過ぎない。

 最も人口が多く賑わう中心部には、半人半妖の上白沢慧音が教鞭を執る寺子屋があり、辺境の地に住む妖怪が遠路遥々足を運ぶ花屋、式神ご用達の豆腐屋、その辺で買い食いして回る妖怪や、甘味処の常連である妖怪もいる。妖怪向けの店舗まであるくらいだ。南の地区をさらに下った外れには、妖怪の修行僧を受け入れる大きな寺院も在る。

 オビトの場合は方針が方針なので、いずれにも該当しないのだが、強いて二択で選ぶなら当然に人間向けである。妖怪の客は初めから想定していないのに、鈴仙の物言いは否定されなかった。

 

「とにかく」オビトは話を戻した。「オレが店での作業を再開するには、こっちで必要な物を手に入れて、無事に向こうへ戻らねばならん。そいつが必須の条件だ。この流れを奴に保証させるには、『煎餅』の名を出す方が手っ取り早い」

「流れ……思い通りの? 物を要求しなかったのって――」

「そういうことだ」

 

 神綺はマイが迷惑をかけたお詫びにと、魔界神として望みを一つ叶えるとの話をした。魔界の人や物でも何でもない、森羅万象の創造主が直々に言霊を紡いだのだ。分霊とはいえ本人の意思で。これは魔界において比肩するものがない、最も大きく強かな加護と言っていい。

 絶対なる神ゆえの権威や誇りを抱く魔界神が差し伸べた手を、未踏の地を彷徨う余所者として握らない道はなかった。

 

――魔界に入り込んだ目的とは何か。永琳が言った毒草を手に入れる以外にはない。願いを聞き届けるならば、必要な物を彼女に用意してもらえば事足りると思われるが、実際のところそう旨くはいかない。先を考えて動くなら『入手』だけでは不足である。

 

 幻想郷を管理する妖怪賢者達の外来人に対する扱いと同じで、魔界神は魔界での行動を保証する立場にはない。自己の判断で勝手に踏み入り、迷い込んだ余所者が野垂れ死のうと一世界の存続に影響はないためだ。むしろ魔物や植物の肥やしとなろう。魔界人ではない者の命は考慮されず、あの博麗の巫女や境界の妖怪ですらも、幻想郷で言う外来人と同等の扱いを受ける。先のような騒ぎでも起きない限りは、分霊を余所者の元へ遣して姿を見せたりもせず、毒草を探すに止まる目的なら遭遇すらしない。

 ゆえに目的の物品を「確実に手に入れる」という、限定的かつ一時的な『庇護』を望んで、願いを受けた魔界神から直ちに入手できたとしてもそこまで。後々の身の安全を約する『護り』にはなり得ず、マイのような者に遭遇しないための保証とはならず保障もされない。それで今度こそ命潰えては手に入れた物も無駄になる。

 その場で一つの結果を掴み取ろうと、以降に待ち受ける分岐や結末は変わる。だが望むべきは一つのみ。ならば確定的な物事を捨て去ることと引き換えに、あらかじめ結末までの流れをある程度の形に整えておけば、己の力量次第で妨げも滞りもなく、最も望ましい結末が引き寄せられる。

 要するに稀神サグメの『運命操作』と同じで、物事の流れを変えたり、固定するに足る力が該当する者に備わりさえすれば、毒草の入手という結果を手にするのみならず、無事に魔界を脱するという結末に至るまでの全体の流れが思い通りの方向へと動き始める。自らにとって不変なる『煎餅』という単語と意味、それを用いる方法で道を作り出すことを思いついたのだ。

 いつものように焼き始める頃にはここを去り、滅びの道に囚われた者も目を開けている。在るべき形は失われぬだろうと。

 

(それに……)

 

 今にして思い返すと、妨げでしかなかったマイとの遭遇も、魔界神による庇護を引っ張り出すためのきっかけとして、好ましい出来事だったとも見なせる。場合により再起不能か命を落とす事態も起こり得たものの、鈴仙の助力もあり無事にやり過ごしたのだ。

 

「道は見えたって感じね。ならとっとと終わらせて、帰りましょうか。あの子も待ってる」

 

 鈴仙は冷静な口調で言うも、内心は安堵の気持ちで一杯だった。力と存在感が半端ない魔界人達との遭遇、騒々しさが色濃すぎる経験を短時間でもたらすと、高い上空から落下し続けた出来事も遠い過去のように思えてしまう。

 敵前での動揺や弱みは思わぬ隙を生むために、悟らせぬよう最後まで隠し通していたが、鳥肌はまだ収まり切っていない。目に映るオビトの波長も万全とは遠いのだ。

 

「そうだな……」

 

 魔界神の御言葉という名の庇護、庇護という名の『許可』を得て、こちらの存在と目的は向こうの知るところとなった。神綺が全能の魔界神として意図しない物事に接触してしまう事態は払拭されたと言える。つまり魔界にいる限りは起こり得ない。目的を達するのに不可欠な同伴者として、鈴仙の存在も認知されたことで二人分。

 オビトが鈴仙に「行くぞ」と言った瞬間、頭上に発生した渦が二人を巻き込むと、ぐにゃりと歪んだ姿は数秒ほどで吸い込まれて消えた。

 

「――あひょいっ!?」

 

 素っ頓狂な甲高い声を上げたのは鈴仙ではない。もちろんオビトでもない。二人の脳裏に強く刻まれた姿ではあった。

 先ほど出遭ったばかりの人物は目を丸くして、『口うるさい通を黙らせる至高のバウムクーヘン』と書かれた本をパタンと閉じると、ずり落ちそうになった黒い帽子を慌てて被り直した。周りの空気や枯れ木の位置が変化している。

 不意を突かれても平静を装い、愛想笑いも忘れない見事な立ち振る舞いながら、付近や上空に姿や気配を早いうちから察知して、「いつでも来い!」という状態で迎えたのならともかく、何もない場所にパッと現れたのでは限界もあろう。別空間側から発生する時空の歪と渦を事前に察知できず、二人の急な出現は意識の外だった模様。

 

「いやちょっと、来るの早すぎっしょ……半分は読めると思ったのに」

 

 背を預けていた枯れ木から離れると、ユキはぶつぶつと文句を呟きながら二人に近寄った。

 予想外と思ったのはオビト達も同じで、鈴仙はユキの姿を見るなり「なんで貴方が?」とうんざりした表情で問いかける。神綺やマイと共に帰ったと思われた人物が居ただけではなく、逸早く先回りして待っていたような言い方をしたのだ。本人としてはもう少し時間がかかると踏んでいた様子だが。

 

「観に来たんだ。異邦人との接触なんて滅多にない機会だしね。しかもひとりは人間……ワケありで珍しい力も持ってる。あれで終わるの勿体ないって」

 

 人間が持つ特殊な力は時に妖怪を魅了する。人の怖れや無理解から生まれて、永い時を生きる妖や神が、人より強い力を宿すのは自然の摂理も同然。感情や声を持つことと同じくらい慣れがあり目新しさはない。魔法使いが幻想郷では妖怪に分類されるためか、マイとやり合う力量の持つオビトに関心を抱いたようだ。

 しかしながら、ユキは時と場合であっさりと手を引く潔さがあり、大人しそうな見た目の割に喧嘩っ早いマイより話の解る人物だ。オビトとしても厄介とは見なさない。

 

「あの物騒な白いのはいいの? 放っておいて」

「マイには悪いけどね。羅刹メイドの雑用なんて退屈な罰ゲーム、頼まれたってゴメンだからねえ。未遂だし私」

 

 出遭い頭に弾幕をばら撒いたとはいえ、最後には相手の事情を汲んで自制を決めて、その後の戦闘にも介入しなかった、というより不可能だったユキに神綺は仕置きを与えなかったようだ。羅刹と例えられた輩の正体、『メイド』がまんまの意味かも不明だが、ユキにとっては好ましくない城の雑用を、マイは汗水垂らして一人こなしている。

 魔界神への願かけもあり、二度目の悶着はあり得ないと信じたいものだ。

 

「ところでさ」ユキはオビトを眺める。「ここに来たワケ……来られたのもだけど、全部納得づくって思っていいの?」

 

 周辺の枯れ木や自然物の差異を見て判るように、マイ達と別れた場所からはかなりズレた地点に居る。

 永琳の地図に描かれたバツ印の通りだ。魔界が広すぎるためか空気も激変している。

 

「己で示した道に間違いがなければ、な」

 

 実のところオビト自身、ここに行き着くためにユキの後を追ったり、望みを聞いた神綺から時空間移動用の鍵(移動先に漂う特有の物質やチャクラ)を新たに貰い受けたり、何らかの具体的な考えありきで神威を使用したわけではない。

 結論を先に言うなら『偶然』だ。『勘』とも言える。自身の思考や知識、経験に依らない答えである。遠距離特化型の左眼による感知で広範囲を見渡して、直感だけで不明瞭な地点を捕捉して、何も考えずに術を行使したに過ぎない。在るのは目の前に伸びた一本の道、事前に形成された先の見えない暗闇。確固たる必然性が入り込む余地はない。道の脇に立っていた人物がユキだっただけだ。

 然るに彼女が待っていたのは偶然ではなく、きっかけとなった魔界神が導きを行い、好奇心から見届けさせるために遣したのではと思えてならない。何故ならば――。

 

「こいつか……」

 

 オビトの呟きにユキは「呆気なかったね」と一言。そんなユキを疑わしげに映す鈴仙。影分身をばら撒いて周辺を手当たり次第に探らせたり、須佐能乎や鈴仙に頼って上空から見渡したり、土竜隠れの術で地中に潜って探し回るまでもなかった。

 渦の中から開けた場所に降り立ち、瘴気に紛れて早々に映ったのは、周りの樹よりひと際に大きな枯れ木。その一本を囲んで赤黒い色の不気味な植物が群生している。全長は凡そ七寸ほどで、分厚い葉が折り重なる刺々しい形状は、薬草というより食虫植物を思わせる。

 表面の特徴的な突起から見ても、永琳の話に出てきた物で間違いないだろう。辺りに他の植物は自生していない。

 

「知らないわね」鈴仙の眼に赤い光が宿る。「外形も中身も……ずっと師匠を手伝ってきたけど、製薬でも医術でも、食材として扱ったことだって一度もない。何が起きるか分からないわ」

「食ったらどーなるかは分かるけどね。大体は」

 

 鈴仙は永琳の助手として医療に携わるようになって月日が長い。薬草の知識が豊富で、製薬に際して数多くの草花に触れた経験がある。大抵は現物を見るだけで種類が判り、能力を用いた時の正確性はさらに高い。少なくとも身近にある中で判別できぬ物はない。別世界の環境でのみ見られる、身近ではない植物は例外である。

 夕飯の材料に使えばどんな末路を歩むかはユキのみならず、知識を持たず食事も摂らないオビトにも察しはついた。

 

「分からんのはお前だ。何を企んでここにいる?」

「え?」にこやかに聞き返すユキ。「いやいや、何も? 暇つぶしだよ。そう疑り深く構えなさんなっ」

「……構えない方が無理ってもんでしょ」

 

 険しい表情のオビトをなだめるように喋るも、本人や鈴仙からすれば、ユキは出遭って間もない他人でしかない。

 彼女がどれだけ愛想よく振る舞い、好からぬ企みを本当に持たず、ついでに外見が無害そうな少女だとしても、物事を見た目で判断しない二人が警戒を解く理由にはならない。目的の地点に都合よく先回りしていた輩に何も思わぬほど能天気なら、今頃はユキを信頼して会話に勤しんでいただろう。

 

 ユキをじっと視るオビト。読心の力はない写輪眼でも、相手の言葉が嘘か真かをチャクラの動きを見て判別したり、視覚を通して脳を乗っ取り記憶を覗き見る程度は瞳力次第で可能だ。もっとも、後者は強い幻術と同じで、瞳力による中程度以上の精神的な負担や圧を及ぼす行為。不用意に振るえば悶着の要因となる。向こうから挑んできたマイは例外としても、休戦に同意したユキに手を出して敵対感情を刺激するのは避けたい。魔界神の掌では何が起きるか予測できぬ以上、必要最低限の接触に止めるべきと結論づけた。

 チャクラに気になる動きはない。彼女の言葉から嘘は感じられない。鈴仙の意味ありげな目配せを受けたオビトは、ユキから視線を外して毒草の群に近寄る。濁った血のような色だ。

 

「……?」

 

 残り数メートルほどに近づいた時。視界の揺らぎと共に、周りの空気が明らかに変わる。

 生ぬるい風が吹き始めた。死に絶えた枯れ木は生気を取り戻したのか、深緑を枝につけて葉が鬱蒼と茂り、色とりどりの花が地面の至る所に咲き始めた。瞬きをする度に細やかな変化が現れていく。

 オビトは二人を振り返るも、鈴仙は不思議そうに見返すだけで、ユキの方は明るい表情を変えていない。その口元が「さあ」と静かに動いた。

 

「見せてよ。あなたに在ったっていう、懐かしい色彩を、さ」

 

 次第に辺りを霧が包み始めた。言葉の意図をユキに問いかける暇もなかった。霧は竹林や湖の物ほど濃くなく、ほんの少しぼんやりと霞んで映る程度で、周りの景色は問題なく視通せているのに、付近に居たはずの鈴仙とユキの姿だけが忽然と消えたからだ。

 

 命を戻した森の中に一人佇んでいる状況、これ以上の変化が起きるのかと、何気ない疑問を抱いていたのは最初だけだった。二つ目の変化は間もなく現れたのだ。

 沈黙に帰していた赤黒い草花の一つが風に吹かれたように動き、体をぐにょんと伸ばして見る見る生長し始めると、一本の縄か蛇のように変化して蠢く。空中で渦を巻くように丸まり、拳より少し大きい程度の塊と化した。暫しの間は風船のように膨らみ続け、四倍程度の大きさにまで近づいた時、ぐにゃぐにゃと独りでに形を変えて、今度は縦に長く伸び始める。

 そこからゆっくりと人型を模り、ぱっと見でも判るほどに精巧な人間の姿が現出した。

 

「いったい――?」 

 

 目の当たりにしたオビトが言葉を失いかけた理由は、葉と茎を持つ植物が人型に変化した事実では断じてない。植物が動物に変わろうが、その辺に転がる石が平然と口を利こうが、苔むした頭蓋骨が笑いながら飛び回ろうが、摩訶不思議な世界に慣れのある者として驚きはしない。どんな輩を模ったのかが問題なのだ。幻想郷や魔界、忍界、現存する全ての異界をひっくるめても、ある意味で最も「見覚えのある」姿ながら、在るはずのない姿に他ならない。

 背の小さな童。短い黒髪にゴーグルと『木ノ葉』を表す額当て。表情に感情は刻まれず、口元は一文字に結ばれている。あらためて見やり、言葉が一瞬だけ詰まりはしたものの、深刻さや憂鬱とは程遠い様子で、オビトはくだらないとばかりに鼻で笑う。

 

「何のつもりか知らんが……この景色はカビが生える。今さらこんなものを見せて何になる?」

 

 有体に言うなら『うちはオビト』。おぼろげで忘れかけていた幼少期の姿が映っている。お調子者で生意気だと思われていた、遠い過去の面影そのものだ。当然ながら本物ではなく、幻術で作り出された紛い物である。

 直前に聞こえたユキの挑戦的な物言いからして本人か、本人の想定内にある何者かが仕掛けたと考える方が自然だろうか。

 

 かつてオビトとマダラを別つ分岐点に辿り着いた時、存在する価値も意味もない偽物として己の内より捨て去った姿には違いない。思うところが全くないと言えば嘘になる。しかしながら、頭の片隅に古い記憶として残るだけで、因縁染みた忌むべき姿と見ていた段階は疾うに過ぎ去った。忍の世の行く末を見届けて、あの男とは最後に仲間として、友として別れを告げることができたのだ。忍世界への未練など抱きようもない。

 マダラという仮面を被り、絶望の中を足掻いていた頃なら、重石を大なり小なり心に乗せただろう。道を戻した今となっては圧しかかるモノなど何もない。この目で見据えるべきは先のみ、捨て去ったものや失った命が以前と同じ姿で現れようが、過去にすがり立ち止まっていた頃には戻らない。

 悪意を持つ者が動揺を誘いたいがために投げつけた光景だと抜かすなら、あまりにも安っぽく馬鹿馬鹿しく無意味なものでしかない――即座にそう切り捨てて踏み出そうとした時だ。

 

『違うぜ。今のオレにとっちゃあ、なくちゃならねェもんだ。ぜってーにな』

 

 足を止めたオビトは冷静に見やる。偽物とはいえ人の形を成すのなら、この状況で誰が声を発したのかを考える際、目の前のアレを真っ先に映すだろう。声が聞こえている最中でも口元は閉ざされたままで、紡がれた言葉が明らかにアレからではなく、周りの森から響いてきたとしても。五感を狂わせる幻術で作られた空間であれば、肌や耳で感じ取るものが現実とは限らない。幻の中ならどんな現象でも説明はつく。

 代わりに二つほど気にかかった。こちらの思考を覚妖怪のように読み取ったことに加えて、その考えを勝ち気な声色で当たり前のように否定したのだ。取るに足らない幻と片づけるには早いと判断する。

 

「どんな姿を見せようが無駄だ。言っておくがな」

『オレはオレだ。一目見りゃ分かんだろ? どんだけ今と違くたって、昔は昔のままなんだからよ』

「長々と付き合う気はない。姿を見せろ」

 

 幻術であると判り切っている以上、霧の中のどこかに術者が身を潜めていると疑うべきか。目視も感知も叶わなければ向こうの動きを待つ方がいい。待ち伏せていたユキや他の魔界人の仕業ならひと悶着あるかもしれない。願かけが無駄に終わったならそれまで。

 辺りに視線を走らせるオビトを映しながら、幻体は相変わらず口を開かないまま「この草だよ」と声を出した。

 

『つってもただの草じゃねェ。こいつの毒は……中てられた奴は幻覚を見ちまう。今のオレが見てるやつだ』

「術者なんぞハナから存在しない、とでも抜かすつもりか」

『どこを探そうがいねェよ、そんな奴は。瘴気と混ざった草の毒が、好き勝手に見せてやがるだけなんだ。言っちまえば、こいつ(毒草)なんだろうけどよ』

 

 忍として馴染みがあり、当たり前と言える幻術は遁術によるもの。人がチャクラで作り出す『陰遁』だ。写輪眼による幻術も同じ括り。誰かの手で作られるという意味なら、鈴仙が波長を弄って起こす狂気も同じ枠に分類できる。滞りなく喋る幻体の言葉通りなら、この幻術は故意に引き起こされたものではない、雷雲が起こす落雷のように自然発生した現象と見なせる。

 確かに忍界にも毒や薬などを始めとして、陰遁以外を起因とする幻術も現存する。毒気に中てられて在りもしない幻を体感しても不思議ではない。幻体は再び心を読み取ったのか、首を横に振って否定してみせた。

 

『在りもしねェってよりは……元々そこに在った、って言い方すんのがいいか。特殊な幻術なんだよこいつは』

 

 陰遁は陽遁と対を成す。無から形を作り出すと共に、その形を失わせもする力。それを用いて幻覚を作る力が『幻術』と呼ばれるものだ。後者になぞって言うなら、在るべき現実を破壊する側面を持っている。

 ちなみに時間や質量の概念を空間に追加した、より現実に近しい精度を持つ術を『月読』と言い、さらに他の六つの性質変化と六道の陰陽の力を加えた、陰遁の始祖と言える術こそが、眼の代わりに月を用いて発動する大幻術『無限月読』である。

 

「…………」

 

 特殊という言葉をありのままに受け取るなら、通常の陰遁とは異なる性質を持つという意味になる。在りもしないものを作ったり、在るべきものを失わせる作用とは違う効力を指すのか。「在った」という言い方を考慮するなら、過去に存在したものを幻術空間内に再現する形で作り出す力、とでもなるのだろうか。

 目の前に在る幼少期の姿形は、かつてこの身体に備わっていたが、現在は備わらないものであると――。

 

『さーて』幻体の目がじっと映す。『どっちを言ってんだ? そいつはよ』

 

 待っていたとばかりに飛び出した問いかけ。オビトは心に思うだけで言葉に変えて返答しなかった。昔に捨て去った懐かしき、戻りもしない小さな姿を囲むように、心から紡ぎ出された数々の姿が、見覚えのある複数の面が漂い始めていたからだ。肯定も否定もしない曖昧な言葉を投げつけた幻体からは、目に見えて首を横に振っていた、先ほどのような否定的な感情は伝わらない。いずれに傾くかと訊かれても答えは出ている。

――ならばその通りか。己の持つ心を己自身で覚ることができるか否か、その可能性を考えるのが途轍もなく馬鹿馬鹿しいとはいえ、否定しないのは肯定の意を示しているからか。どう頑張ろうと真偽の判断を迷わない状況下において、幻体が先のように否定的な言動を見せないのは、自身の考えに間違いはないという証明なのか。

 たった一つの正しい答えが何たるかを知るならば、誤りしかない他の答えを導く方が不自然と言える。

 

『理解すんのに言葉なんか要らねェ……解ってんだろもう』

 

 幻体が同じ姿を模り、終始知ったような口ぶりで話す上に、頭の中を読んで言葉を吐き出す理由。必要な情報を事前に手にしていたとか、でたらめや当てずっぽうが偶然にも的中したとか、心を読み取る特殊な力を持つからでもない。誰かが幻術で作った紛い物でも何でもない本物ゆえだ。

 ここで言う『本物』とは言葉通りの意味ではない。意識を向けるに値しない偽物とは見なせない存在を指している。幼少期の姿など疾うに過ぎた過去の記憶であり、毒気に中てられて現れた幻覚の類であるとは承知しているが、その姿を作り出した者が他でもない己自身であれば話は変わる。

 

 目の前の模した姿は――かつて仮面を被った際に永遠に捨て去ったもの。被らなければ今もなお宿していたであろう、お調子者で生意気だったもう一つの『心』。混沌入り混じる闇とは無縁の、暖かで温かな日の光が降り注ぐ世界で、木の葉舞う里で仲間と一緒に笑い、平和に暮らしていたであろう『うちはオビト』そのものだ。闇と黒しかない絶望の中を彷徨い歩いていた頃、己自身で選び進んできた道に初めて後悔の念が芽生え始めた時――否、彼らに気づかされた時、自身の想いに反して頭に思い描いた景色でもある。

 言葉通りの本物ではない。それでも偽物と比較するなら、他人が作った瓜二つの傀儡と、鏡に映った虚像ほどの違いはある。傀儡は似せただけの紛い物でしかないが、本物を鏡に映すのは本物を置いて他にはない。

 

「……懐かしさはある。だがそれだけだ」

 

 自ら望んで捨て去った『うちはオビト』の心は戻っている。健やかな者が当たり前にこなす呼吸や歩行と同じで、意識して思い返す意味はない。その一方、オビトとマダラを別けた時に、偽物として消し滅ぼした心は――今まさに映っている姿は戻っておらず、何があろうと戻ることはあり得ない。

 道を正したとの言い方はあくまで、面を被るより以前と同じ道に、現在の地点から歩みを戻したという意味に止まる。元来た道を引き返すなどして、これまでの歩みを都合よく否定したりと、マダラとして生きた時間を幻夢として掻き消したわけではない。新たに手にした心を戻して、その時点で持っていた歪な心を在るべき形へ導いたに過ぎず、すでに在るものと丸々入れ替えたわけではない。

 自身が持つ術や技、経験や記憶を例に挙げると理解も容易である。『うちはオビト』として歩み始めたところで、以前にマダラとして得たものが消え失せるわけではない。逆にマダラとして捨てたものが、オビトの手元に遍く戻るわけでもない。これは今現在の自身を形作るものがマダラでもあるという、飽きるほどに認識を繰り返した事実に起因する。

 ゆえに今、どこを探しても失われた心など見つかるはずもない。この幻体にしても投影された今の姿ではなく、再現された過去の姿と言い表す方が正しい。幼少の姿を模る時点で記憶の影響も受けている。

 

――たった一つの言動を見せるだけ。この場で特定の言葉を呪文のように発するなり、指定された場所に足を運ぶなり、何の苦もない簡単な動きをするだけで失ったものが戻る。そんなことが本当に叶うとしても、愚かを通り越して論外と切り捨てるだろう。心揺さぶる甘言にもなり得ない。ここに立つのは『うちはオビト』なのだ。

 

(…………)

 

 随分と昔に何度か口にしたであろう、もの凄く細やかに砕かれた「ぜってー」という断定的な物言い。今となっては軽々しく聞こえまい。

 人の感情、それを生む心の化身たる者を繋ぎ止める『毒』。この姿を直に映して、具体的な認識を持つことで『見せかけ』を己の内に再現する。失われた小さな心は、面霊気を崩し滅ぼす致命的な要因であると同時に、真逆の結果を生むための、もう一つの結末を迎えるための道標でもある。

 

(……そいつを選び取るには、示さなきゃならないわけか。オレなりの覚悟ってのを……ここで)

 

 幼少期の記憶を引っぱり出したり、でたらめな嘘を吐くだけなら苦もないが、紛い物でも人の心を再現するなど不可能と思わせる。元となる姿が内在するならともかく、疾うに一欠片も残さず捨て去り、過去として忘れ去っていたのだ。

 あれから十数年を経た現在、無数に散らばる欠片を掻き集めて、当時と同じ姿に繋ぎ合わせて、隅々まで理解に至るための努力を徹底したところで、人の心を司る面霊気が『本物』として認識できるほどの、はっきりとした形を成せるのか。失われ往く命を繋ぐに足りるのか。全ての調律を終えるまでにどれだけ時間を要するのかも判らない。

 

 この瞬間にも生き方の違いは表れる。持ち合わせるのは奪い去る力ばかりで、救う力となるとすぐにつまづいてしまう。

 やはりあの男のようには成れないのか。一度は袂を別ち、忍の世を無に帰さんとした輩すら見限らず、友として救い出してしまう者には――。

 

『嗚呼』幻体の声が笑う。『軽々しくなんかねーし、並大抵じゃねェ……カクゴってのもな。まず覆らねェ命の「理」ってやつだ。今から汗水流し始めるようじゃあ、こぼしたくねェもんこぼしちまう。どこ見回してもダメだらけだ』

 

 やれやれと言いたげに深いため息を吐き、かなり大げさな動きで頭を垂れる。

 そのままの姿勢で沈黙したのち、ゆっくりと上げられた顔には、悪戯小僧のような生意気で勝ち気な笑みはない。代わりに「けどよ」と穏やかな声が響いた。

 

『そうはならねェよ。ぜってー……』

 

 冷徹な赤色の光がオビトの目から拭い去られた。すでにその姿は指先から失われつつある。

 塵芥と成りつつある体は風に乗って立ち昇り、視界から着実に消え始めている。心の内で密かに惑いが生じていた矢先の出来事ながら、当の本人は落ち着いた面持ちで眺めていた。黒い瞳に宿る光が揺らめき、幻体はきょとんとした声色を発する。

 

『解ってるって言ったろ。何が要んのかにしたって、大事なモンはずっと前から持ってたってのに、オレときたら気づきやしねェ。見ようともしやがらねェ。無理もねーんだけどよ……たまにはイイじゃねーか、こーいうのもよ』

 

 騒擾塗れの悶着など起きようもなく、終幕は実に静かで呆気ないものだったが、今のオビトなら不自然である方が不自然と言える。そうでなければ、ここに居る姿は面影すら感じさせない、別のモノとして存在する他なかった。

 仮面で顔を隠して夢にすがり、希望の一欠けらもない深淵の底を歩んでいたなら、目の前の姿は何が起きても、どれだけの時が流れようと不変のままで、安らかな眠りなど万に一つも許されなかった。救うべき者を救うことも叶わず、顔を失った凄惨なる姿で呆然と立ち尽くしていた。

 此度の結末など何のことはない、非常に緩くも神々しい魔界神の加護を日常的な言霊と引き換えに受けたり、血気盛んな氷界の姫君に執着されたり――否、平和的な決闘法に縛られない魔界に入るまでもない――初めて幻想郷の地を踏んだ時には予感できていたのだ。

 面霊気の少女が『うちはオビト』を五感で認識して、在るはずのものを手に取らなかった時には。最初で最後になるであろう瞬間にはすでに。

 

「二度と出遭わんことを祈ろう。その方がいい」

『トーゼンだろ。まっすぐ歩けるってんなら、終わる時まで終わり続けるってな。そーじゃなきゃオレじゃねェ、だろ――…』

 

 お調子者の少年は満足げに言う。顔の半分にまで灰が到達した時、何かを紡いだ口元が笑んだように見えた。

 真実は誰に語られて明らかになるでもなく、穏やかな別れの言葉を巻いた風に吹かれると、黒い衣を一人なびかせる姿に見守られながら、曇りなき晴れやかな空へと昇っていった。

 

 少しばかり静寂に耳を済ませた後、足元に視線を落とした。望んでいた物がきっちり四つ分、ご丁寧にも根っこ付きで、献花のように横向きで置かれている。

 当然のように心を覗き込んだなら問題はないとして、聡明なる者の思い通りならやり辛い感じはある。願わくば前者であればと追加で祈ることにした。

 

「まっすぐ、か」

 

 危なっかしい足取りでどれだけ遠回りしたのか、つまづいた回数に至っては数え切れないものの、不格好で悲惨なこれまでのつまづきに比べたら、この短いやり取りで味わった分は許容できる。最後には正しい道を真っ直ぐに歩けるのなら、幻想郷や魔界での摩訶不思議な歩みとて悪い景色ばかりではない。

 心なしか、ないはずの心がどこかで晴れ始めている。ふわりとながらそんな気がした。

 

(……さっさと戻るか)

 

 切り替えの早さに疑問は湧かない。いつまでもこの竹林ではないへんちくりんな森に留まる気にはなれない。竹がなければ竹炭もないというのに。

 手袋を脱いで指を曲げ伸ばしした後、ご親切にも地面に置かれた献花を素手で(むしり取るように)引っ掴むと、腕の勢いを殺さぬまま空中に放り、頭上に発生した渦の中へ消し去った。結局のところ、皮膚に触れても痒み一つ出ず、匂いを嗅いでも鼻腔や粘膜に異常は来たさなかった。

 実際にはモソモソと生食しても腹を壊さないどころか、虫一匹も死なない代物なのかもしれない。見た目に反して美味である可能性も否定できない。果たして子供の頃なら試しただろうか。それこそ遠い過去の話であろう。

 周りを漂っていた霧はすっかり晴れている。もの寂しく不健康そうな枯れ木の群と痩せた土地が映る。

 

「――うんうん、なかなかの暇つぶしになった。あなたもあなたで未練ゼロって感じね。よかったよかった」

 

 元通りなのは豊かだった自然だけではない。家に帰ってお茶を飲んでいた、もとい幻覚に拒まれて放り出されていた二人も同様。

 陽気に喋りながら近づいてきたユキ、陸上選手を思わせる見事な姿勢で慌ただしく走り寄ってきた鈴仙。

 

「あ、貴方……大丈夫だったの? ケガはないみたいだし、波の動きにも異常はないけど……ほんとは我慢してない? ねえ、オビト?」

 

 長い髪が乱れている。呼吸も荒い。閉鎖的な幻術空間に居たために外の様子を確認できず、意識を向ける暇もなかったオビトに、その理由は知りようもない。

 

「何をそこまで取り乱す。落ち着け」

「だって貴方、無理してても言わなそーだしっ……!?」

 

 普段の冷静さが失われている理由は不明。目を渦巻のようにぐるぐると回しながら、オビトの足先から頭のてっぺんまでじっと凝視したり、衣越しに体をべたべたと触診したり、背後に回って錠剤のような物を螺旋丸のように打ち込もうとしたり、毒々しい青色の液体が充填された何本もの注射器を手に飛びかかってきたりと、能力で波長を弄られるよりマシとはいえ、いつもの彼女なら見せない(と思われる)言動ばかり。絶え間ない猛攻を不動の姿勢で躱し続けられるのは瞳術があればこそ。

 幻術空間に閉じ込められた件を案ずるにしても大げさだ。そもそも外からはどのように見えていたのか。手術用のメスを構えて突進をかましてきた鈴仙の頭を手で押さえていると、見かねた様子のユキが「うーん」とばつが悪そうに切り出した。

 

「毒気と瘴気が作る幻覚。アレに翻弄された感じだね」

「こんな作用もあったのか。錯乱がここまでの暴走を起こすとはな……」

 

 過去に捨てた心の姿を現実に再現するなど、具象化や物質化を起こす類と思われた幻術には、精神の過度な高ぶりや興奮を生じさせる効果も含まれていたのか。生き物の波長を自在に操る者を乱すほどの。

 今の鈴仙に相手の姿がどう映っているかは不明ながら、目視できる言動は幻術に囚われた者のそれであり、写輪眼を通して視える体内のチャクラに判りやすく乱れが生じている。流れが乱れたり停滞したりと異常な動きを見せるのだ。

 無秩序で滅茶苦茶な暴走具合を見るなら、山中一族が扱う心乱身を思わせる。敵の精神に働きかけて乗っ取り、神経を伝う信号をチャクラで制御して、体の動きを思い通りに操る。鈴仙は己の意に沿う行動を取り続けている上、飛び出す言葉まで様変わりしているが。

 

「いや、自分でやっちゃったみたいよ。どーも」

 

 ユキは持ち前の明るい喋りで事情を語り始める。一連のやり取りを傍から眺めていた彼女曰く、オビトの目には終始見えていた霧や、幻体の姿も鈴仙の目には映らなかった。

 霧が立ち込める幻術空間にオビトが引きずり込まれた、その瞬間に不穏な空気を察知したのか、鈴仙は「一人黙って立ち尽くす」オビトに近づこうと駆け出した。ところが滑車を回す小動物のごとく、走っても走っても一向に距離が縮まらず、幻術の可能性を疑ったらしい彼女は、『波長操作』の能力を駆使して幻術破りを試みた。

 それでもおかしな空間は突破できず、どう頑張ろうと近づけなかったので、ムキになって力の制御を一時的に外して打破しようとした。普段は命名決闘ばかりで能力の真価を発揮する機会に乏しいからか、慣れない感覚と使い方で無理を通そうとした結果、波長操作の能力が暴発してしまい、自分の精神の波がもろに影響を受けて狂気に走った。概ねこんなところらしい。

 

「見えていた口ぶりだな」

 

 そう言いながらチャクラを練ると、鈴仙の視線を捉えて瞳力を解放する。視覚を通じた力の行使を得意とする共通点ゆえか、写輪眼を用いた幻術破りをあっさりと受けて、鈴仙はピタリと動きを止める。見開かれていた赤い目に正常な光が宿り、表情と呼吸も落ち着きを取り戻していく。手に握ったメスが滑り落ちた。

 ぺたりと地面に座り込んだ鈴仙を見下ろしながら、ユキは「ただの慣れだよ」と何事もなかったように愛想よく答える。

 

()()で起きることって、他所から来た人らには慣れがないでしょ。でも私らは違う。観客席からでもはっきり解る……変わった『目』を持たなくても、相応に培われたものさえあれば、足りるのさ」

 

 物事に対する純粋な慣れ不慣れの問題に、特異な能力や小難しい理屈が入り込む余地はない。幾度もの戦いで鋭敏に研ぎ澄まされた感覚、生まれ育った故郷への土地勘など、長い時間を経て自然に蓄積される経験に過ぎない。馴染みのある魔界で起きる現象を目の当たりにして、魔界人が理解に苦しむ道理があろうか。

 魔界人も周りの草木も、他の物も魔界神の手で作り出されたならば、ユキ自身を――とりわけその『思考』を神綺と同一視する解釈も的外れではない。先を視通したような言動を見ていると、不確かながらそう思えるのだ。

 

「こっちじゃ為すこと全部、お前らの知るところってわけだな。願かけなんて無意味だったか」

「どうかな」ユキは朗らかに言う。「もし貴方が、足を動かすことを考えないで、一番大事なものまで丸投げしてたら……きっとあの人、貴方の望みを叶えなかった」

 

 オビトはユキのことをほとんど知らない。物は試しにと直球的な問いを投げると、ユキは楽しげな表情のままで分かりやすい返答をした。お返しとばかりに飄々とした様子で、どう思うかは自由とでも言いたげに。

 

「じゃないとさ。来なくなっちゃうもんね? ここに」

 

 魔界の神として望みを聞き入れると神綺が口にした時。欲する物を心の底から望んだところで、言葉選びが安直だろうとなかろうと、結論を急ごうと急ぐまいと、後先を考えようと考えまいと、意味のある物など手に収まらなかった。その要求がいかなる形で行われて、他の何者が代行して名乗り出ようとも、辿り着く答えは変わらない。手元に来たであろう何かとは、赤黒い塗装がされた張りぼてか、色も形も大きさも匂いも異なる物か。ちっぽけでくだらない物だ。

 神綺は初対面から幼染みた悪戯な面を隠さなかった。きっと彼女も観たかったのだ。変わりようのない定めに歯向かい、たった一つ分の時間を奪い返すために理をひっくり返すのか。妖や神にして小さな人の身で、生意気にも他人の庭に踏み込み、神の威光を前に強情にも顔を上げ続けるのか。明るい光を浴びて生まれた『心』がどれほどのものかを。天上の眼は今もなお大地を見下ろし続けている。

 

「物好きな奴だ」

 

 魔界の神が余所者風情に意識を向けるのは、ユキの言うように暇つぶしか面白半分か、何か重要な価値でも見出したのか。

 真相は全能の神のみぞ知ることだが、元よりオビトにはいずれでもよかった。見据えるべきは初めから変わらず揺らぎようもない。

 

「ま、だから惜しく思っちゃうんだけどね。ここからは観られなくなるし」

 

 歯痒そうな表情で肩を落としたユキ。オビトが聞き返そうと口を開きかけた時、座り込んでいた鈴仙が「そうね」と喋りながら腰を上げる。

 

「外に出てしまえば――…うぷっ。ほんとに出そう」

 

 鈴仙は口を押さえたまま頭を垂れた。気分が優れないようで貌も青白い。

 その辺の雑な輩が使う半端な術ならまだしも、魔界の毒と瘴気の混成物たる幻覚の影響を受けた上に、慣れない真似をして暴走した力をもろに浴びて自爆したのだ。波長操作という持ち前の頼もしい鎧を剥がされて、精神面の脆い『妖怪』という本質がむき出しになったところに。精神にかかる負担は相当だろう。制御を外した力は時に好まざる結果を作り出す。

 ちなみに解術を行うにあたり、チャクラの流れを整えて戻す時に生じる負担は、心身に受けた力の度合いに比例して大きくなる。非情なる追い打ちである。

 

「……そちらの大きな目でも、魔界の外までは見通せないのよね? こっちの管理まで兼任してるんじゃあるまいし」

 

 魔界神の言霊を受け取り、賽銭を投じる願かけと同じ感覚で命運を預けた時、叶える望みは魔界で実現可能なものに限るとの前提を、神綺は事前に提示して選択肢を与えたようだ。その前提に嘘偽りがないとして、魔界の神として君臨する彼女の影響力は他所に及ばない、という解釈が正解ならどれほど救われるか。

 始まりから終わりまで掌で転がされるよりは、覚妖怪辺りに心を見透かされて、逐一行動を先読みされる方がマシと思わされる。

 

「そりゃね」ユキは素直に肯定する。「観たけりゃあっち行けって話だけど、暇つぶしでってのはさすがに……ねえ? いろんな人に怒られるのイヤだし」

 

 余所者が他所の領域に踏み込む。何者かに無理やり連れて来られたならともかく、自らの意思で望んで入る場合には理由が必要だ。該当する世界の管理者が適切と認めるに足る相応しい理由が。とりわけ有力者を受け入れる際には慎重に帰した決断が要求される。

 滅び往く命を掬い取るなど、一刻を争うやむを得ない動機に必要性を認めたとしても、退屈を紛らわせるためにと聞けば、自らを寛大と称した神綺とて見放すだろう。分別のできるユキは重々承知しているのだ。このまま同伴して幻想の地を訪ねたところで、遠からず博麗の巫女か八雲の妖辺りが飛んでくると。

 こればかりは神綺が許しても難しい。相手の事情など関係ないとばかりに振る舞う、自由奔放すぎるマイなどはやりかねないが。

 

「そっちの方が助かるかな。騒がしくなりそうだもの、また」

「賢明だな……」

 

 他所から来た『異邦人』は大概、その世界で何らかの厄介ごとに巻き込まれる。意図せずして迷い込んだ者は特に。血の気の多い好戦的な民達が暮らす世界では、悶着を起こさずに事を滞りなく運び続けるなど不可能に等しい。

 命の危機に直面した此度と同じように、幻想郷に初めて入り込んだ当時も、嫌というほど味わい尽くしたものだ。具体例は列挙し始めたらキリがない。右も左も敵味方も判らず、見ること聞くこと未知ばかりで、慣れ親しんだ世界の常識を刹那の刻みですり潰される。暇潰しと称して安易に幻想郷へと踏み入れば最後、どんな目に遭うかは想像に難くない。

 

「まあでもさ、いいのよ別に。大体判るから。こうやって見てたら思っちゃうよねえ……本当にやっちゃうんだなあって」

「この期に及んでまだ先を視るか。思うも何も、知らんことばかりだがな。互いに」

 

 じっと観察する目、にやりと笑むユキの口元。強がりやデタラメなら初めから相手にはしない。

 会って間もない者が知った口ぶりで話を進めても、目つきと雰囲気から神綺を過ぎらせるだけで、慣れを覚え始めていた現在では驚きようもない。相手を深々と知るにあたり、理解に至るまでに長い時間を要する順序立てたやり取りも、魔法使いとは名ばかりの――むしろぴったりなのか――身の上たる彼女には、天眼通の魔界神達には戯れに過ぎぬとしても。

 

「あなたを知りたいなら、あのやり取りを観るだけでいい。観られるなら言葉なんて要らないよ。こっちとしちゃそれで十分だった」

「待って」鈴仙の鋭い口調。「……だったら何。貴方、本当に平気だったの? 私が幻覚に捕まってる間も、オビトの様子がちゃんと見えてたって?」

「見えて当然よ。慣れさえありゃできないコトはない! なんにも怖くないっ!」

「なんか……胃にくる」

 

 しわくちゃの長い兎耳が力なく垂れている。波長操作を利用する精神干渉に特化した力、幻術の類に精通すると自負心を持つ者が、同じ系統による干渉を前に手も足も出ず、挙句は自分で自分の能力を食らったのだ。ごっこ遊びでばら撒く弾幕用に調節を施していない分、あれで巫女辺りに叩きのめされた時や、腕力な速力など別の方面で負けた時より、敗北感が重く圧しかかるのかもしれない。

 実際は単なる慣れの問題で、能力の精度とは無関係。ユキがそう言って元気づけようとしても、落ち込んだ鈴仙を取り巻く陰鬱な空気は消えない。ため息をついたユキが助け舟を求めて、「あなたもなにか言ってよ」との表情で意味ありげな視線を向けても、オビトは「戻るぞ」と口にして踵を返すのみ。その対応を見たユキが「この冷血漢っ!」と内心で憤慨したかは不明ながら、毅然とした姿勢が正しかったようで、歩き始める姿に気づいた鈴仙はすぐに後を追いかけた。立ち直りと切り替えが早いのも彼女の長所の一つである。

 時空間忍術や火遁など、得意とする術を持つオビトにも、鈴仙の気持ちは解らないでもない。あえて触れなかっただけだった。

 

「あ、そういえば……帰り道、分かってる? 手立ては何個かあるんだけど……」

 

 小さな声で耳打ちするように話しかける鈴仙。少し距離を置いて後方を歩くユキは、何やらにやりと笑みながら二人を観察中。明らかに試すような目つきで。

 幻想郷とは異なる環境下での活動に加えて、マイや神綺との遭遇や毒気による幻覚に弄ばれた件も重なり、毒草を入手して以降の流れを忘れていた鈴仙だが、過去に師と共に魔界へ赴いた経験があるために、向こうへ帰還する具体的な方法は知っていた。その上で問いかけたのは再三言うように、此度の判断や行動に関して極力口出しを行わず、本人の意思を尊重する立場を選んだからに他ならない。

 非友好的な立場ではないので、行き詰まった場合は喜んで手を貸すつもりだったところ、オビトは考え込んだのち「一応な」と返答してしまった。

 

(手は二つ)

 

 人間に備わる手は左右で二つ、という話ではない。苦労して目的の物を手に入れたところで、魔界から幻想郷へと戻る手段を確保できねば無意味。完成体までお構いなしに披露して奥地へと踏み進んだのは、鈴仙のように心当たりがいくつかあり、そのために必要な力を持っているからだ。

 

 一つは別空間同士を行き来できる神威。自身が管轄する時空間ではなく、魔界と幻想郷という二つの異界を隔てた境界線を踏み越える。両眼の瞳力を利用した時空間移動なら道を探すまでもない。

 管轄外の別空間に干渉する場合、本来なら途轍もない負担を心身にかけるが、忍界から幻想郷、幻想郷から月界へ移動する時のように、途方もない距離を越えて大結界の強靭な護りを貫き通す穴を穿ったり、過去に大筒木カグヤと対峙した時のように、相手の意に反して無理やり道を作るわけでもなく、体力もチャクラも微々たる消費で足りる。それに魔界と向こうは水晶の宝珠を介して隣接するに止まり、距離の概念もなければ結界や障壁の類で侵入を阻むわけでもない。瞳力だけで越えるのではなく、二つの世界を繋ぐ水晶を道しるべに利用する形なら、現実空間と神威空間を行き来する場合と同じか似た感覚で為せるはずだ。

 裏山の洞窟から魔界へと放り込まれる直前まで感じていたシンギョクのチャクラと、台座の周りに漂っていた特有の気配は、魔界の上空に放り出されて以降もその地点を取り巻いていた。門や扉が閉じても通った道が消え失せなければ、印づけの際に取り込んだチャクラを元に空間を繋げることができる。通過を許可した門番の思惑があろうとも問題はない。

 

 もう一つは魔界の中心部に位置する大きな都市。魔界人達が暮らす区域としては最大級の規模を誇り、魔界の神たる神綺の偶像が安置された壮大な城のお膝元にある。

 困窮する余所者が訪れるには相応しい、幻想郷で言う人間の里の位置づけで、あの洞窟で見た水晶と同じ物があるとのこと。渡された地図の下部に「困った時に」との一文を添えて記載がある通り、人気があるだけでも心強さは段違いと言える。ちなみに鈴仙が永琳と共に訪れた場所らしい。

 

(確実性は劣るが……決まりだな)

 

 別世界とを繋げる力を持つ水晶など、急に現れた余所者が己の都合で自由に使える代物でもあるまい。無人に見える裏山の洞窟とて門番が強固に護るくらいだ。鈴仙に確認を取ると案の定、面倒な許可や手続きで時間がかかるようだ。寿命の長い人外達は気も長い。

 行き着く結果は同じでも、手間暇を惜しむなら一つ目。二つ目は次点でいいだろう――と、オビトが結論を出した時である。いつの間にか傍にいたユキが、得意げな表情でオビトの顔を覗き込んだ。球状の何かをお手玉しながら。

 

「もうちょいさあ、頼りなよ私を。お姉さん寂しいぞ」

「手を貸すというのか? 傍観者だと踏んでいたがな。お前は」

 

 今度は大人ぶった口調で喋るユキ。妖の類は容姿と実年齢が噛み合わないものと、幻想郷の常識の一つとして慣れがあるならば、彼女がそれらしい台詞で年上のように振る舞おうと背伸びとは見なすまい。百か二百か、千より上かは判らないが、人生経験が豊かな『お姉さん』というだけの話だ。当たり前の言動に違和感はない。

 かといって快活ながらも飄々とした雰囲気をまとい、暇潰し本意と口にした者が協力的な姿勢を見せ始めたならば。柔和に微笑んで手を差し伸べられたからと、ただの親切なお姉さんと判断して応えるはずもない。真面目な表情で見返すオビトに、ユキは腹を抱えて「あははっ!」と心底楽しそうに笑う。

 

「それはねえ、あなたがそう思ってただけ。私がどう見えるか知らないけど、頼られて無視しちゃうほど冷たい女じゃないって――」

 

 ひょいと放られた物がオビトの手に収まる。赤い瞳にユキを映して動向を注視していた鈴仙も、視線をいったん外して目を向けた。

 

「……こいつは」

 

 表面は乳白色に濁り、台座に見た水晶ほど透明度はない。大きさも比較するとかなり小さめで、荒削りされた感じのいびつな形状。ユキ自身と同質のチャクラが掌から伝わり、微かに鈍い光を発している。ただの石ころにしては怪しすぎる代物だ。

 帰還する具体的な手段を再確認していたところ、機を待っていたように渡すという意味ありげな流れ。どこか似ている外観を抜いても予測程度は立てる余地がある。不意を突かれた要因はモノではなく、あっさりと手渡したユキの方だ。本当に親切心から起こした行動だとしても、物事を損得で考えがちなオビトには、知り合って間もない者の心づかいを素直に受け取るのは難しい。思い当たる節のない物を投げられても、受け取らずに体をすり抜けていただろう。

 

「近道……ってよりか、裏口? 使いかたは来た時と同じ。握って念じるだけでいいよ」

「あの台座と同じ物を?」

「本物と比べないでよね。帰るだけなら片道切符でいいと思って……あ、お礼なんていいけど、どうしてもってならそうねえ――」

 

 門番のシンギョクが護る台座や、中心部の街に在る物を正門と位置づけるなら、個人で提供した物を裏口と評しても間違いではない。神威なる異界の術で作る門とて同じ枠である。違いは玉を使う方が楽で早いという点。別世界を再訪する機会などそうはない。後日お礼を渡すにしても叶うかどうかだ。

 口を開いて先を示す門だけに問題は、魔界とを行き来できる物を余所者に渡したユキの判断。紛い物でも気軽にばら撒ける物とは思うまい。片道との言葉が引っかかり、気になった鈴仙が尋ねたところ、ユキは咳払いして「正確には」と話題を戻した。

 

「使い捨てなのよ、それ。一回きりだし一人にしか使えない。そのくせこっちでしか使えないんで、どう頑張っても片道用にしかならない。細かい制約があってねえ……勝手はかなり悪いね。はっきり言って」

 

 特定の影響や環境下でのみ効力を発揮する。便利だからと外に持ち出した時点で使い物にならない。妙木山の気候以外では直ちに気化して消えるという、仙蝦蟇の油と似たような性質を持つようだ。二つの世界を自由に行き来できる物とは異なり、魔界へ入るための道を示さないなら余所者を増やす心配はない。

 一度目は魔界へ入るために、二度目は出るために。用途は至極単純である。後戻りのできない一方通行とて何度も行き来するわけではない。人数の制限にしても鈴仙を神威空間に待機させれば数に入らない。体の中に収容すると言えば概ね正しいだろう。より手間が省けて確実性も勝る方法なら使わない理由はないが。

 

「……本当でしょうね」

「あなた方に嘘はつかないよ。要らなきゃ捨てるなりご自由に?」

 

 生き物が発する波の度合いを正確に把握する力の前で隠しごとは通じない。ここで言う「通じない」とは、相手が吐く言葉の真偽を判別するという意味であり、覚妖怪や閻魔のように思考まで手に取るわけではないが、ユキが「あなた方」と表現したように今はオビトも居る。心を射抜くような瞳力とチャクラが合わされば、嘘偽りの類に対する抑止と制圧力は相当なものだ。鈴仙の言葉は念押しの意味で紡がれたに過ぎない。そしてユキ自身も、力が強いだけの魔界人や妖怪を何人も相手取るより、二人を敵に回す方が面倒であると解っていた。

 しかしながら――もしも二人がありふれた人間と妖怪の組み合わせに過ぎず、好き勝手に嘘が吐ける都合のいい状況下に置かれていたとしても、ユキは初めから真実しか口にせず、二人を騙すなど考えもしなかった。お手製の貴重な道具を快く譲り渡した理由など、物珍しい色彩に飢えた彼女にとっては、此度に過ごした時間だけで十分だった。

 余所者などを名乗らずとも、この短いながらも濃密な時間だけで。

 

「ありがたいものだ。厚意に甘んじるとしよう」

 

 颯爽と場を去りかけたユキの足が止まる。鈴仙は少し驚いた表情でオビトを見た。

 冷徹で無愛想に振る舞うなり、手を振りながら愛想よく笑うなり、嬉しさのあまりユキを抱きしめるなり、感動のあまり号泣して嗚咽を漏らすなり、お返しに煎餅の大袋を押しつけるなり、分かりやすい反応は示さなかった。代わりに口元が微かに緩み、視線はすでに彼女から外れていた。穏やかな表情で頭上を仰いでいる。

 

――魔界に住むユキはもちろん、同じ幻想郷に暮らす鈴仙でも、実のところオビトという人間をほとんど知らない。例によって「知らない」物事とは、外見や性格、『忍』や『煎餅職人』などの表面的な情報を除いた、表立たないものを指す。

 当の本人がつけ入る隙を見せず、詳しい身の上を永琳や妖怪賢者並に語らず漏らさないので、個人的な付き合いが(比較的に)長いとされる者でも未知の情報の方が多い。他人の私的領域を平気で侵すという、傍若無人ではた迷惑なブン屋でも全貌を掴めていない。表に出回るのはもっぱら『煎餅』に関連する話である。

 

「貴方――…」

 

 だからかもしれない。裏返らない面を知らないからこそ。日常を過ごすだけでは知り得ないからこそ。幻想郷とは異なる非日常に身を投じた今、それを視て不足分を埋めようとする気持ちが期せずして強くなり、自身の『波長操作』の力が真実を探ろうと高ぶる。いつにも増して体の感覚が鋭く研ぎ澄まされる。

 同時に理解できてもいた。あらためてオビト一人に意識を向けるには、魔界での出来事はあまりにも色濃く、そして気づいた時には遅すぎていたと。

 

「いやいや。こちらこそ、よ」

 

 彼女には観えていたのだ。幻惑の中でも視線一つ、眉一つ動かさずに映し続けていたのだ。黒帽子の少女は振り返らず、爽やかな言葉を残してパチンと指を鳴らすと、足元に小さな火花を咲かせて掻き消えた。

 この人間を前々から知る自身に解らないことが、昨日今日に会ったばかりの他人には解ると思うだけで、何とも奇妙な感覚が体を覆い包んだ。善意や悪意、友愛や色恋など具体的な情の類ではない、純粋に『悔しい』と思う気持ち。天降らぬ兎として過ごしていた時間は疾うに止まっているが、幻想世界に生きる妖怪としての歩みは、まだまだ続きそうだ。

 ユキが消えて安堵したような、苦々しいような、どっちつかずの微妙な表情でオビトを映した。

 

「……実はワナでした、とか。ないかな」

「疑うには遅いな」

 

 視界が右巻きの渦状に歪み始める。地面に足を着けていたのに覚えた無重力感。体がふわりと浮き上がり、空気を吸い込む音を聞きながらぐるぐると回る視界。

 目の前の姿がそれをぎゅっと握り締めたのか、最後の最後で見る機会をも逃したようだ。

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