空になった湯飲みがコトンと机に置かれる。椅子の背に寄りかかり伸びをすると、八意永琳は穏やかな表情で振り向いた。
「あら、おかえり。早かったわね」
部屋の中央に発生した渦の中から鈴仙が吐き出されて、続けざまにオビトが降り立っても、当然のご登場とばかりの自然な反応である。
幻想郷よりも多くの危険が蔓延る、『魔界』という別世界から無事に帰還した二人を見ても、のんびりと構えるだけで驚いた様子はない。人里まで薬を売りに行かせたり、竹林の奥地までタケノコ狩りに行かせたり、甘味処にまで草餅を買いに行かせたりと、手軽に済ませられる用事とでも言いたげだ。永琳は落ち着いた様子で「どうだった?」と尋ねる。
「ひと悶着あったが……手に入れた。こいつで間違いないはずだ」
懐から取り出したのは地図。それを机の上に置くなり右眼を中心に渦が発生、ぐにゃりと歪んだ毒草の束が異空間から現れると、オビトの手にふわりと収まる。
永琳は素手で躊躇なく受け取り、ほんの少しだけ観察した後、納得した様子で「いいわね」とオビトに微笑みかける。弟子の扱いは普段通りで、鈴仙には労いの言葉をかけはしても、神威空間から現れた経緯は訊かなかった。本人も師の前では毅然とした態度を崩さない。
「向こうでのお話、お茶でも飲みながら聴きたいところだけど――『連れ戻す』方が先よね。準備は整ってるから、すぐにでも大丈夫よ。手伝ってくれる? 鈴仙」
「もちろんです」鈴仙はオビトの方を向いた。「先に入ってて。あの子のところに」
永遠亭の医療と製薬に携わる永琳。薬の完成に必須となる材料がそろった今、彼女の弟子として、本業の者として切り替えた様子。
鈴仙は急いで踵を返すと、師に先んじて研究室を出ていった。部屋の外でいったん止まった足音と気配は、慌ただしい動きで左隣の病室とは反対側、右隣にある部屋に移動したようだ。
(領分違いか。ここからは)
人は誰しも向き不向き、得意不得意があるもの。本当の力とは相応しい場でこそ発揮される。
今さっき部屋を後にした鈴仙は、向こうにいた時と違って映っていた。瞳に宿した光はずっと明るく強かだった。波長を操る力が写輪眼の瞳力と似通ったところで、誰かを救う術を持ち合わせる点は、彼女自身を形成する大部分は対極にしか立たない。人の命を奪い続けてきた者との差は、ほんの僅かな時間に見た姿、その言葉にも確かな形で表れていたのだ。
「どこへ? 別の用事でも?」
右眼を中心に渦が巻き始め、時空間へ消えようとする姿を映しながら、永琳は静かな声色で問いかけた。優しげな表情を浮かべているも、射抜くような視線が向けられている。口元の微笑は消えていない。
「オレの役目は終わった。後のことは任せる」
魔界にある薬の材料を入手して帰還する。実に単純で分かりやすい上に、薬学や医学の専門知識や技術を持たない者でもこなせる内容である。別世界とを行き来する点を考慮して、忍が請け負う任務に当てはめても、よくてCランク辺りが妥当だろう。中忍程度の力があれば事足りる。マイを始めとする予想外の出来事が重なり、AやSランク以上の難度にはね上がろうとも、単純さの度合いは変わらない。目的の物を持ち帰れば達成できるのだ。
ここまでは役に立てるとしても、秦こころを蝕むものが病にしろ何にしろ、専門性の高い治療を素人が手伝えるのか。研究室を去りかけたオビトに永琳は待ったをかける。
「そう急がないの。忘れちゃった? 『二つ目』」
「…………」
「それとも」永琳はくすりと笑う。「今になってあの子を諦めるなら、お行きなさいな。傍に居なくても済むわよ」
秦こころとは初対面ながら、面霊気や付喪神なる概念に関しては、以前に書物から仕入れて知っていた情報である。まだ永琳から詳細な説明は受けていないオビトだが、こころを永遠亭に運び込んだ際のやり取り、その後の魔界での様々な出来事を経て、自分なりの答えは確立されていた。
必要なものはもう一つ。永琳曰く『うちはオビト』その人であり、くだんの草花が保有する毒素よりも重要視される要因。毒草の成分は治療ではなく、治療を始めるためのきっかけとして使われるだけで、無へと移ろう者を引き戻すための出だしに過ぎない。オビトは沈黙したのち「またしても」と独り言のように呟いた。
「……見失いかけるとはな」
こころのための本当の『薬』はこの身体に在る。それが解っていても、いざこうして永遠亭に戻ると、まるで一つの体に二つの心が宿るかのような、不慣れな感覚が違和感となり押し寄せた。意識を少しでも他所へ向けただけで、面霊気の少女が眠るあの場所から遠ざかる。永琳のように救う方法を数知れず持てど、待ち受ける結果は同じだっただろう。紛い物とて本物を模した姿に変わりはない。
捨て去る前の心を今も宿していたなら、深々と何かを考える前に、永琳の指摘を受ける前に扉を通り抜けて部屋に入り、ベッドの傍から少女の姿を映していたはずだ。さらにこの場で付け加えるなら、そもそも眠りになど就かなかった。
「眠り続けている」永琳は扉の前で立ち止まる。「『貴方のせい』、よね。だったら貴方は、放っておかない。小難しい理由なんて、いらないのでしょうね、きっと」
そう言い残すと永琳は扉を閉めて出ていった。オビトの目が瞼の奥に消える。
八意永琳との関係性は顔見知りに止まる。赤の他人とまでは言えず、非友好的な立ち位置を否定できる現状があるだけで、本心を包み隠さず語り合える間柄ではない。お使いで薬を売りに人里まで赴く鈴仙とは違い、永遠亭を訪れること自体が稀である。
ゆえに互いを知るなら、第三者が客観的な視点から記した書物や、人伝いに聴いた話でしか情報をやり取りできないはずが、永琳は旧知の仲と他愛ない話を愉しむかのように、慣れ親しんだ口調を終始崩さなかった。物事を視通したような姿勢は、飄々として掴みづらいユキや、あの魔界神とも遜色ないと思わせたのだ。不老不死の身である蓬莱人の、気が遠くなるほど永い時を過ごしてきた者の智慧と眼力は想像もつかない。
人の心に干渉できる妖怪兎、心を感じ取る花妖精、心を読み取る覚妖怪、心そのものと言える面霊気。そのいずれにも該当しない、さらに上をいく『何か』を目の当たりにしたところで、惑いが少しも芽生えない理由など、魔界で遭遇した神綺やユキも含めて、過去の記憶を辿るだけで説明は終わる。永琳はそれ以上のものを持つ人物であろうと。
(随分と経った気はするが……体感なんぞこんなものか)
誰も居ない研究室で一人考えを整理した後、別室で製薬作業に取りかかった二人より先に入室したオビト。真っ昼間の時間帯が疾うに過ぎたとはいえ、闇夜に備えて火を灯し始めるには早い。
窓から差し込む陽光に照らされた病室。清潔な白いベッドに寝かされた姿。相も変わらず目覚める気配はない。
夢見る少女は羊の群でも映しているのか、穏やかな表情で瞼を瞑り、微かに上下する胸が命の鼓動を主張し続けている。感情表現を無機質な面に委ねて変化を表さない貌は、病や怪我に蝕まれて苦しむ患者と見るには縁遠い。心地好さに身を委ねているかのようだ。
外見的な変化は見られないのだ。普通に眺める分には思うまい。このまま何も手を打たなければ、生物の理に従って滅びを待つしかない、儚く壊れやすい姿に成り果てているなど。問題は写輪眼を通さねば映らない内側で、体内を循環するチャクラは停滞して動かないまま。永琳が延命処置を施さなければ、今頃はベッドの上には誰の姿もなかったのだろう。
(…………)
眠り続ける姿を前にする現状こそ、どんな言い訳も強がりも通用しない現実。他所から物を持ち帰るという単純な役割は、この場を離れてこなした作業である一方、傍に居て為せることが見つからない。精々が写輪眼で経過を観察しながら、二人が来るのをひたすらに待ち続けることのみ。
他の者ならどうしたか。何も思いつかずとも、心の内を伝えることはできる。壁際にある丸椅子を引き寄せて座り、力ない手をしっかりと握るくらいなら。堅苦しい理屈を持ち出すまでもない。そんな中でオビトは、なおもベッドの傍に立ち尽くして、こころを見下ろしたまま動かない。
木ノ葉での平穏な暮らしと人間らしい情を捨て去り、心の奥底まで赤黒い水に浸かり塗れていた十数年もの年月。忌々しい過去は失われず、良くも悪くも尾を引く物事は数知れない。百年や千年単位の長命な妖や神にはちっぽけに感じられても、人間のオビトには永すぎる時間である。
人は簡単に変わらない。変わると口に出して意気込む程度はできても、望み通りの変化をもたらすには『時間』が必要だ。それはとても険しく、決して生易しいものではないと、マダラだった頃とは違う道を歩み始めた現在なら、明瞭なる意志を以って断言できよう。
二度目の生を受けた末に流れ着いた、幻想の地における何気ない日常を通じて、僅かでもかつての感覚を取り戻す――否、思いを馳せるきっかけを掴めたなら。秦こころや多くの者達とかかわる中で、これまでとは違う景色が見えてくるのだろう。
一か月後か一年後か、十数年後か、はたまた遠い未来の話か。来たる日まで命が在り続けていたら、あるいは。
「オレはどう見る。どう見える? お前は」
指がそっと頬に触れる。肌を通して伝わる温かさは、こころの確かな存在を身近に感じさせた。
手を伸ばせば届く場所に居るならば。振り向いた貌はいつもの面持ちか、まだ見ぬ表情が浮かぶのか。いずれでも迎えるべき結末に変わりはない。
静かに佇むその姿が消え往く前に、遠ざかる前に繋ぎ止めて、決して離してはならない。それだけのことだ。
「貴方もそんな顔をねえ――なんて、思っちゃったりして」
我に返ると見慣れた病室。いつの間にか鈴仙が横から覗き込んでいた。悪戯っぽい赤い目が映している。
入室と共に扉が閉じられて、ゆっくりと近づく足音や、過ぎゆく時の流れをも忘却の彼方へ追いやり、接近に気づかぬほど意識を向けすぎていたのか。ほんの僅かな沈黙と思われたが、実際にはどれほど時間が経ったのか判らず終いだった。
「例の薬が完成したのか?」
「不穏な言い方ね」鈴仙の視線がこころに移る。「……怪しいっちゃ怪しいか。突っ込まれたら痛いところはあるし、用途が用途だし」
誤解を招きそうな発言を鈴仙は否定し切れないようだ。閑静な室内に漂う雰囲気も無駄に怪しげなので、人体にとって大変好ましくないモノを秘密裏に製造して売りさばく、どこかの非合法な組織に属する構成員同士のやり取りと指摘されても違和感はない。
危険物に類する魔界植物の毒素を、鈴仙達が持ち前の知識と技術で薬に変えたのは事実。国際的な犯罪組織を操っていたオビトの過去もまた事実。不穏に聞こえても仕方のない話である。
「でも安心していいわ。なんたって師匠が作ったんだもの」
自信に満ち溢れた表情には陰が入り込む隙間もない。薬師の助手として薬の開発に携わり、豊富な経験と知識を持つことに加えて、師である永琳への信頼も厚く揺らぎようがない。身内ゆえのひいきや盲信は存在せず、医術と製薬の分野で上げてきた数多くの実績は本物である。
齢数千年の大妖が世に出づるよりさらに昔、遥か古の時代より不滅の魂として存る『月の頭脳』が語りし途方もない智慧は、何も知らぬオビトをも一方的に押し黙らせるほどだ。
「思ったより早かったな」
オビトはそう言いながら場所を譲る。鈴仙は長さ三寸ほどの医療用注射器具を手にした。前回と同じで注射剤と思われる無色透明の液体が充填されている。持ち帰った毒草の成分から作られたのだろう。
「もう少しかかると踏んでいた。新しい薬と聞いたらな」
鈴仙が入室するまで二十分も経っていない。永遠亭での時間の経過が不明瞭で、急に現れた彼女の姿に不意を突かれても、具体性に欠ける凡そでなら判ることだ。そんな僅かな時間で成し遂げられるのか、専門外の身でも懐疑的な考えがよぎるほどだった。
「まあ、そう思うわよね」
毒も薄めると薬になる。毒の成分を解析して作られる解毒剤も立派な医薬品である。忍界とて例外ではない。
毒物を仕込んだ武器や傀儡など、数々の忍具が戦場で命を奪い去ったが、各里の名のある医療忍者達は彼らの犠牲を無駄にせず、長い時間と労力を費やして研究と開発に注力した。試験に試験を重ねて有効性と実用性を確立させて、結果として大勢の命が救われてきた。面霊気を蝕むモノが毒どころか物質でもない、形なき『概念』そのものとはいえ、解毒剤と絡めても表現できる容体だ。
――忍界の概念が擁するうちはオビトの心と、そこから生まれる感情こそが正体。
今ここに在るものとは違う、無情なる面を被ることで捨て去った、もう一つのオビト。お調子者で泣き虫だった幼少の姿、火影を目指して仲間達と共に日々奮闘していたであろう、もう一つの分岐。魔界の瘴気と草花の毒素が一緒くたに再現したものだ。幻想の地が擁する永琳にして「前例がない」と言わしめた理由である。
紛い物として捨て去った心は元より、それを宿していたオビトという忍も、忍を擁する忍界の概念も何一つ、幻想郷のどこにもなかった。別の次元に在る忍界は、この世界の民にとって認識の外にあり、永琳を含めこれまで一人として干渉した者も、しようと考える者も、「考えることのできる」者もいなかった。実体も概念も何も持たず、持ち得なかったがゆえに。
傷病者を治療する場合とは程度が、というより意味と方向性が違う。そもそも秦こころには疾患も外傷もない。
難病や不治の病も治すとされる永琳とて、こうも短時間で作って用意できるものかと疑問が生じたのだ。忍界とは交わらない幻想世界に生きる彼女が、疾うの昔に内在していた忍界の概念、その侵食を受けた者にも効く医薬品などを。あらかじめ保管していた物を持ち出したという話なら、あり得ないとはいえ筋は通るのだが。
「基礎になる薬の原型と研究データ、確かな技術と経験、実績……全部そろえばこそよ。ある程度はなぞるだけだから。料理の味つけを多少変える感じ」
「なぞる? 新薬ではないのか」
「いいえ。これまで一度も作ったことのない、新しいものよ。正真正銘ね」
料理でも何でも、生まれて初めて挑戦するものや、誰も知らないものを自分で考案して作るより、過去に何度も経験した手順を再現して作る方が手間暇はかからない。慣れのある料理の味つけを変えるだけなら、少しばかり弄る程度でゼロから作り上げる必要はない。鈴仙の言うように完成までの時間は大幅に短縮できる。
何度も作ったが初めて作る物。古いが新しい物。矛盾した言い方に聞こえるが、過去に開発した薬に改良を加えて作り直した物、という簡単な解釈で意味は通る。薬の開発が数多くの材料や器財、緻密な配合比率を遍く駆使して、全くのゼロから長い時間をかけて行う作業であるなどと、余計な先入観は不確かな判断を招いてしまう。
「本当に大丈夫なのか。体に入れて」
「信用できない?」鈴仙の怪しい笑み。「他はともかく……医療の面ではむしろ、全幅の信頼を置いてほしいわね。里の医者や薬師たちを束にしたって、師匠には遠く及ばない。確かな腕と豊富な実績は、銀河中に散らばる無数の星々をかき集めても――」
「……疑う気はない。確認くらいはと思ってな」
腕が良く評判の好い医者や薬師は人里にも居るが、「永琳には及ばない」という自信満々な言い方は正しい。
怪我にしろ病気にしろ、患者として一度もかかった経験のない身でも、永遠亭の高度な医療技術と実績の凄まじさは、ぶっ飛びすぎて素人でも解りやすく、里人や妖怪達の間でも肯定的な話題が上がるほどだ。無名や信頼の置けないやぶ医者の類なら、妖怪だらけの森に危険を冒して踏み入り、竹林の奥深くに在る屋敷を目指そうとは思わない。こころを連れても来ないだろう。
ちなみに鈴仙が人里で薬を売るように、永琳が出張して診察する場合もあるようだ。
「素人目では心配ごとも出てくる。オレなりにだが」
毒は薬に変わる。この言葉を誰よりも理解して、強かな説得力を以って人々に伝えて、確かな安心と信頼を生み出せるのは、永琳や鈴仙など医療の専門家を置いて他にいない。これは忍界でも言えることだ。だが専門家ではない素人の身なれば、毒物が人体に及ぼす影響について、否定的な考えや解釈の方が多くなる。人を苦しめて命を奪う物なら有害と考えもするだろう。毒という前提があれば、ふとした疑問が生まれる余地はある。
これに対して「当然ね」と同調した鈴仙。人々が毒物と聞いて最初にどう思い、どう考えるかは専門家ゆえに解ることでもある。鈴仙はオビトの言葉に嫌な顔一つせず、こころの腕から手を離すと、若干おかしそうな声色で「でも」と続けた。
「処置の最中に言う? 時すでに遅し、ってやつよ。これ」
今度はオビトが「違いない」と同調する番だった。鈴仙が遅いと口にした理由は簡単で、何気ない疑問をぶつけた時には着手しており、やり直しが利かない段階に突入していたから。現在は投薬を済ませて一息ついている。
黙して見守っていた割に、オビトは不自然なタイミングで口を開いた。薬の成分が実は有害な物で、弱り切った少女の命を潰しかねないと見なして紡いだ言葉なら、もっと早い段階で待ったをかけるのは当然だ。鈴仙達の腕が信用に値するか否かの判断に頭を悩ませる必要はない。
ゆえに鈴仙も判っていたのだ。自分達を信頼して処置を任せたのであると。
「準備は整った……この子を救えるのは、貴方だけ。薬はそれを手助けするだけよ」
うちはオビトが薬よりも重要であると永琳が指摘したのは、面霊気を渦巻く虚無の色彩を取り払うのに、その存在が切っても切り離せないと判断したからに他ならない。
静かな病室で深呼吸すると、鈴仙は毅然とした表情で話し始める。
――秦こころは現在、面霊気として付喪神として、生き物として無機質なお面として、彼女を彼女足らしめる因果の全てが曖昧な状態にある。魂を宿す生き物や無機物、何も宿らない物質でもない、本人の形を模るだけの『影』のような姿で在り続けている。ゆえに病や怪我といった、生物に当てはまる概念など持ちようがない。時間と共に滅び往く定めに囚われて、死を含めた他のいかなる変化も寄せつけぬ容体に――否、状態にある。
境界の妖が手を出せない不可逆たる理の一つ。此度はその状態を利用する算段を立てたのだ。
凝り固まって動かない物を解すためには力、動きを起こす圧や刺激が必要となる。こころの場合は普通ではない分、並外れて強すぎる力の流れが――それこそ本人を確実に「殺す」ほどの異常性を誇るものが。
人や妖には過ぎた毒性を持ち、こころ一人の命を奪うには余りありすぎる代物ならば都合がいい。すなわち、妖怪のこころが死に至るほどの毒性を、その存在ごと大きく揺るがす途轍もない圧に変えて打ち込み、意図的に歪みを生じさせることで、さらなる別の変化が生じる余地を作り出す。目の前にそびえる分厚い壁にほんの小さな穴を穿って隙間を作り、不可能を可能に変えるための初めの一手を打つことだ。
然るに『体』だけでは駄目なのだ。生き物の魂は肉体を器として宿るが、どちらかと言えば内面的な部分、形もなく目に見えない『心』と密接に関係している。つまり体のみならず、心をも揺るがす要因がそろわなければならない。
「そして、あの時の――」
魔界を漂う瘴気と植物が放つ毒素との混成物は、過去にオビトが宿していた心の姿を幻体として投影した。
あの植物に含まれる毒素はただの毒ではない。触れた者の内面に働きかけ、本人に最も近しい者の姿を読み取り、姿鏡のように映し出す特殊な幻覚作用を引き起こす。魔法の森の奥地を漂う瘴気では持ち得ない、異質な効力を内包する毒素は、心身共に多大な影響を与える稀有な物質である。
秦こころは人の『感情』が生む『表情』、それを表現したお面に霊魂が宿って生まれた付喪神。人の感情を司る面霊気であり、感情を生み出す『心』が具象化された姿と言える。元より妖怪は精神的な干渉に脆い生き物だが、彼女の場合は他より影響を受けるどころか、心も体も喰われて消化される勢いだ。
「本当の役目はここから、ってことよ。貴方のね」
こころが自らの存在意義を否定されて、心身も魂も悉くを脅かす要因と結果をもたらした張本人――うちはオビト。
今や彼女の内に広がる無の色彩を毒が蝕み、新たな変化を起こすための胎動を始めた。人として常を逸したチャクラと瞳力は生じた歪みに付け入り、本来なら触れることすら許されない、不変なる理をも喰らい尽くす。
この世の全てをひっくるめても、ここまで強い影響力を持つ者は他にいないだろう。
「すぐに終わる」
今度は鈴仙が場所を譲る。静かに抱き起こしたオビトは、正面から貌が見えるように体を支える。無常なる瞳がぼんやりと映すも、無情で虚ろな色に染まり濁っている。
待ち受けるのは命ある生き物に訪れる死ではない。時と共に朽ち果てる命なき物とも相容れない。これら二つの外側にある概念、滅びであり無への回帰だ。肉体も魂も心も残さず、何もなかった姿へと戻る。否定されるべき歪みの極致に他ならぬものだ。
「――だが。終わらせやしない」
この世界は彼女を受け入れて、今日に至るまで肯定し続けてきた。在るべき形が失われてなど好いものか。
――◇◇◇
何も見えない。聞こえない。周りに何もないからで、目や耳がないのではない。見渡す限りに白一色で、他の色彩が入り込む余地はない。
人も妖も神も誰もかれも、自身に相応しい色を手にするのは、何かしらの形を持って生れ落ちてから。形を持たないうちは、染まりなき白しかない。そこには心も体もないからだ。
雪原に荒れ狂う雪、視界を覆う霧、黒々としない闇の中。行き先も持たず、当てもなく彷徨うはずなのに、前だけをじっと映したまま、白しかない場所を真っ直ぐに歩いていく。
この先に待つものを怖れもせず。怖れを抱くものを持たず。持たざる身を肯定するままに。
消えるのは怖れだけではない。感情を生む心が形を失い、感情が薄れ始めていた。湧き上がる感情を押し殺すことも、誰にも覚られぬよう隠し通すことも、異なる感情を重ねて演じることもない。被るべき面がなければ舞台の役者はいない。
長らく芽生えていた、妖精を思わせる騒がしさも好奇心も、無邪気さとて感じられない。何事にも興味関心を抱かない、普段とは似ても似つかない姿でしかない。
いくつもの感情を持つのは誰しも同じだ。そこに違いがあるとすれば、他の生き物が一度に一つの感情を表に出すのに対して、心の具現たる者は同時に複数の、内在する感情を遍く出してしまう。それでいて喜怒哀楽を微塵も感じさせず、静寂に身を任せて居られるのは理由がある。
物事とは数の増加に比例して複雑化を招き、互いを維持し合うことが困難になる。同じものが存在しない『感情』は特に該当する。感情の起伏を殺すためには、均衡を保ち合い、各々が持つ感情の変化を打ち消し合うことで、安定した一つの状態に在り続ける必要がある。これは手首の脈や心臓の鼓動と同じで、生きている限りは自然に行われるものだ。
具現たる者の事情は異なる。手元にあった希望の面の喪失に始まり、とある妖怪の言霊を受けてからは、静けさとは縁遠いと思わせるほどの騒々しい色彩を収めた。此度に見せていた型破りで予測不能な言動の数々も、明らかにその一件が尾を引いている。
くだんの異変で初めて顔を合わせた者も含めて、今日では多くの人や妖怪達の知るところとなった。しかしながら、面霊気としての存在の回帰と共に、内にある時間が逆行し始めたことで、その形を変える以前の心が表れたのだ。
「――…」
まっさらで激情など芽生えようのない心の世界。無数の感情は永遠に均衡を失わず、不気味なほど安定した姿で先を目指す。それが保ち合いや打ち消し合いの結果ではなく、感情そのものを丸ごと拭い去り、自らが形も残さず滅びて消えるまでの、些細な過程の一つに過ぎないとも知らずに。
ここに居るのは独りだけ。喜びも恐怖も悲しみもないままに、顔のない少女は虚を見つめ続ける。終わりの時まで歩き続ける。
「…………」
実のところ、さっきまでは足を止めていた。否、止まっていた。目に見えない壁に道を塞がれたか、誰かに体を押さえつけられたように、止めざるを得なかった。
動いたのはかなり後だった。それだけだった。
――今度は違った。歩みを止めても変わり映えのなかった、見慣れた白一色の景色が波を立てた。無音の世界で大小様々な波紋が広がり始めたのだ。
風に撫でられた水面のように白色が揺らぎ、異なる色が見渡す限りに染め上げていく。混じり気は止まるところを知らない。
僅かに残った白色は、前も後ろも失っていた少女の前で、急に巻き始めた渦の中へと消えた。
「こうした状況のせいか、久しく感じる」
入れ替わるように降り立った姿は、月草の色を上回る異彩を放っていた。
白染めの世界に現れた姿を虚ろな瞳に映しても、しばらくの間は無言で眺めるだけだったが、やがてぽつりと紡がれた「こんにちは」という挨拶と共に、束の間の沈黙は終わりを迎える。
「もう往かなきゃ。さようなら」
そのまま脇を抜けて通り過ぎた。思わぬ人物を見ても表情は変わらず、無機質な声には感情がこもらない。
里の甘味処や煎餅作りの拠点にいた時と様子が違う。この短いやり取りだけでも明らかだ。今や鳴りを潜めるどころか失せている――否、初めから絶無だったかのような、先の読めない飛びっぷりは鮮明に覚えていた。印象が濃すぎて一度見たら忘却を許されないほどだ。好し悪しは置くとして。
「そうか」
腕組みが解かれた。黒い巴模様が瞳に浮かぶ。
「捨て置く気はない。悪いがな」
背を向けて遠ざかり始めていた姿が不意に揺らぎ、煙のように霧消したかと思えば、次の瞬間には眼前に、元の位置に戻っていた。
こころは無言でうつむき気味に、目を押さえたまま貌を上げると、指の間から石竹色の瞳で見返した。
――秦こころの内面が投影された精神空間。ありもしない物事を見せる幻術や、就寝中に観る夢とも似て非なるものだ。現実世界とは切り離されている一方、この場所で起きていることは現実であり本物。心の映し鏡に嘘偽りはない。
無垢なる心が作り出した、何もないまっさらな景色は、異色が混ざり込む前の姿を今現在に証明している。
「二人は出会ったばかり。歩みを止める理由なんて、見出せない」
無機質な声がぽつりとこぼれても、じっと見つめ返すだけで何も言わない。オビトが一言目から明るすぎる口調で捲し立てるほど饒舌な人間だったとしても、誤りの欠片もない言葉の意味を理解すれば、口は閉ざされたままだろう。
「そう思ってる。きっと」
最初に里で顔を合わせた時にはすでに消え始めていた。心の内に違和感は覚えど、最後まで気づかぬままに、気づく道理も生じぬままに着実に歩を進めた。知る由もないままにきっかけを作った者と出会い、間もなく倒れ伏して眠りに落ちたのは偶然ではない。
絶え間なき命の脈動が生を肯定して、生き物としての本能が無自覚のままに体を動かしたのだ。
「その通りだな。ぐうの音も出ない」
永琳曰く『末期』と見なされる段階、そこへ至るまでの期間はオビトにして空白。家族や恋人どころか友人でもなく、知り合いかどうかを考える以前の問題で、関与どころか意識さえ向かなかった。
友好的なやり取りを多少なりとも経たとして、長い時を共に過ごして仲を深めた関係と見なすには足りない。チャクラという精神エネルギーにより人と人を結びつける絆の力――この言い方が該当するか否かを問われた場合、後者と断言できる簡単な理由だ。
こころの内面に触れられたのは、精神的な圧に脆い妖の身に始まり――面霊気の身ゆえに心が掻き消えるかどうかの瀬戸際に追いやられて、生き物の精神に働きかける毒素の侵食が重なり、他の誰より『チャクラ』と『瞳力』の影響を受けやすい容態と成りて、写輪眼による干渉を無抵抗に受け入れざるを得なかったからに過ぎない。彼女の言葉を真っ向から否定できようか。
「だから、言い方を変えるしかない……往かせはしない、お前は。とな」
心象世界を漂う少女が無意識の内に発した、しかし偽りなき本心から紡がれた言葉を当然のものとして肯定する、オビトの視線は揺らぎようもない。
否定できる要因がそろい踏みと仮定しても結末は不変。繋がりを持たぬ者の手を取って繋ぎ止めるのは、行く末を憂う哀れみや情け、善意を含む親切心や正義感が答えではない。無心に強引な結論を叩き出して力づくで連れ戻す方が、今のオビトらしいとさえ言えるだろう。
「秦こころ……オレはお前という者をよくは知らん。出会ったばかりで、分からんことばかり。分かろうとも思えなかったほどだ」
「それなら」こころは視線を外さない。「知った口は利けない。事情なんて知る由もなかったわ。お互いに」
「当然だ」オビトが笑む。「それ自体が性に合わんのもあるがな。ワケを見出すとしたら、オレではない……別のものになる」
知った風に振る舞うなら誰にでもできる。実が伴う真っ当な言葉とするならば、こころの身の上のみならず、内に抱く気持ちを理解できなければ、形だけ立派な張りぼての言葉に成り下がる。心を知るだけでは見えぬものとは、その先にしかない。
ゆえに知らぬことが多すぎるオビトは、内に秘める心象を認識してもなお、面霊気の理解者とはなり得ず、外から眺めることしかできない。
「お前を受け入れたんだ。『幻想郷』ってとこはな」
理解を持ち得るのは人だけではない。常識を肯定する世界から見放されて行き場を失った者を、喜んで受け入れる理想郷がある。
命ある生き物として、人ならざる妖として、魂宿りし付喪神として、人の感情を司る面霊気として、秦こころという一人の少女として生まれ落ちてよりずっと、その姿を誰よりも身近で見守ってきた。今この時にも彼女を肯定し続けているのだ。
「この世界にお前が在り続けること。そいつが正しい形なら、失われるべきじゃない。オレはそう思っている」
不要な歪みは矯正されるべきだ。望まぬ姿をもたらす物事は好まざる異物であり、異物により在り続ける世界は異形でしかない。真に受け入れるべきは幻想郷をより好い形に導くための変化を置いて他にはない。
忍の世に蔓延る多くの悲しみや憎しみ、空しさを取り除かんとするため、月の眼という歪みを世界に作り、無限の光が照らす永遠の虚無へと導かんとした、かつての記憶――世界が在るべき姿か否かを判断するための最たる要因こそが、そこに生じる『歪』であるとの結論を強いたのは、在るべき居場所を失う人々の絶望、喪失を目の当たりにした過去の数々だった。
幻想の地はこころを受け入れた。ならば彼女を失うことで生じる歪は、この世界が在るべき形で在り続けるためには不要なものだ。理由などそれだけで足りてしまう。
「――…」
こころは身動きせず佇んだまま、辺りを満たす月草色の静けさに身を委ねていたが、やがて同じ表情で「貴方」と呟いた。
「かっこつけの、強がり。作るものを作り続けて止まらないのは、見つけたい答えが見つからないでいるから、だとしたら。本当の理由と言えるものはきっと、その向こうにあるのかもね」
僅かに落ちた視線が戻る。見慣れながらも覚えのない姿が、瞳の中にぼんやりと重なり映っている。
すでに歩みを止めていた体は、手を差し伸べるオビトを前に動かされて、華奢な腕を緩やかに上げさせた。糸で操る傀儡のように機械的な動作ながら、穏やかな目はしっかりと開いている。
指先が手の平に触れるものの、それ以上は踏み入ろうとしない。見かねたオビトが手をとる。
「『かっこつけ』でもいい。かつてがどうであっても、今こうして在るだけで……それだけでいい」
心象の内でこころが出会った『うちはオビト』。在りもしない姿には違いないが、遠い昔には確かに在ったのだ。何があろうと戻らない景色である共に、道を正した現在では心の底から望まない景色でもある。そして今を生きようとするもう一人、目の前の少女を在るべき場所へと引き戻すために、欠けてはならない唯一の姿でもあるのだ。奇妙なりとて異物感を覚えない理由など語るまでもない。
彼女を前に一つの光景が頭をよぎる。赤黒い色に染まった月夜、あのまま元の道を歩けば出会ったであろう数々。疾うに過ぎ去った分岐であり、忍の世を永遠に去った今となっては未練もなく、取るに足らぬ好奇心から想像した「もしも」に過ぎない景色だ。思い浮かべても居心地の悪さは感じない。
「だが……その意味を見つけるのに、誰かがいるってのも悪い気はしない。だから」
心に思ったことがそのまま紡がれたに過ぎず、相手を動かす言葉と判断するには至らない。ほんの数時間前に顔を合わせたばかりで、互いをよく知らないのに、幻の中に居るからと気安く触れられはしない。
魔界にて遭遇したマイを思い返す。無口で落ち着いた雰囲気の謎多き人物、という初対面での印象とは正反対の、短気で早々と喧嘩を吹っかける子供っぽさなど、一見すると悉くが相容れないと思われる者でも、曰く自分の身の上を話すことに関心を持たない部分など、少なからずオビトと通ずる部分もあった。
互いに理解を深めるための力添え、腹の内を見せられないのに、どうしてこの手を握り返すと思えるのか。
「――こっちに来い。消させやしない」
ゆえに紡いだのは言葉ではなく心だった。双方を隔てる壁は現実でこそ高々とそびえ立つが、心を映す場所では言葉を紡がずとも互いが解る。
純然たる求道者の意思を受けた今では殊更に言える。上辺だけの薄っぺらい関係を構築するならともかく、本当の意味で固い信頼を築き上げるには、互いの心の内を知らなければ始まらない。考えや趣味が同じか似ていて相性が好かったり、初対面とは思えぬほどに親近感が湧いたり、何かと共通点が多い二人が居ても、長く付き合わねば気づかない物事は沢山ある。人の心とは考える以上に複雑で奥深く、一朝一夕で理解に至るほど単純で簡単ではない。
相手に好い意味での変化をもたらすことができるかを考える時、昨日今日に遭った者同士で判ることはあれ、解り合えることはない。なればこそ。
「嗚呼。やっと、見えた」
言葉の先にあるシンソウに一人辿り着き、心に触れた姿を、具象化された心の姿が映した。形ある妖怪として確立された少女と、非常識な物や事象を受け入れる幻想世界、双方を結びつける深く強かな縁を通して、繋ぎ止める力が引っぱり起こした。
温かな感触でぎゅっと握り返されて、こころの瞳が瞼の奥に消える。目元が僅かに動いたように見えた。
「ずっとなかったけど、確かにあったけど、今もあるわけじゃないけど、でも」
しばらくの間は俯いて黙り込んでいた。心であり感情であり、数知れない表情を演じる者の始まりとして、手に触れて心が見えたのだ。内面にうっすらと揺らいで映る、しかし確かな色彩として今度はハッキリと。
過去に内在した姿に過ぎず、今あるものとて紛い物と遜色なく、現在に在る心とは別物でも、かつてはそこに『在った』。目に見える表情がとても豊かで、小生意気で自信に満ちた笑みを貼りつけた姿が。理に囚われた者を引き剥がして掴み止めた姿だ。この世に存在する意味を今一度芽生えさせて、消え往く姿に待ったをかけた。
決して離れないように。もう二度と失われないように。二つを繋ぐ架け橋として。
「全部が本当だった。貴方だったんだ」
こころは顔を上げると、今さっき笑っていた姿をもう一度だけ映そうとしたが、ぼんやりと霞みがかった心の変化と共に薄れ往き、二度目の瞬きを終えると掻き消えた。
此度に役割を演じ切った一夜の追憶は、今度こそ舞台から永遠に降り去る時を迎えた。十数年もの長い年月を経てもたらされた、新たな心に後を託して入れ替わるように、終わりが待つ最果てへと消え往く。堂々と遠ざかる後ろ姿は、少女にはもはや影すら映らなかったが――この場でただ一人、胸を押さえるオビトには見えていた。
邂逅を絶った心を映しはしても、二度も律儀に最後まで見送ることはせず、瞼で隠れていた赤い瞳はすぐに現れた。再び開けた景色には見慣れた姿がある。
「なんだろう。なんか……?」
曇りのない目が揺れ動いた。頭を押さえてふらつくも、オビトが腕を掴んで支える。無表情のまま足元を映すしかない少女に「考えなくていい」と言うに止めた。それから思案するように視線を外す。
(喪失の影響か)
歩みを止めはしても、歩むごとに薄れ続けた『秦こころ』が回帰し終えたわけではない。道を引き返して元の場所へ戻るまでは時間がかかる。消えかけた人格や記憶は曖昧で安定しておらず、再構築の過程で頭の中はごちゃごちゃだ。何か一つを思い出すだけで相当な重労働、無理に記憶を漁っても徒労に終わる。
頑固な理を捻じ曲げる手助けをした毒にしても、負担の大きさは想像に難くない。微量で数多の命を奪い去る猛毒で、それを原料丸々四つ分も用いた(と思われる)物。無防備で弱り切った体に覆い重なり、脆弱な精神面にも影響を及ぼしている。瞳術の行使により相応の負荷もかけた。
今のこころの心身は壊れやすい。直ちに全快して元気一杯とはいかない。
「わたし、は。あなた……」
こころは一人呟きを発する。回復にあたり好ましい兆候が表れ始めた矢先、余計な労力を使い続ければ弱る一方だ。避けられない代償と言うべきか、思考も判断も揺らぎ始めた。このまま手を打たずに捨て置けば、病的状態で言う後遺症のような障害が、目覚めた後も残って消えない可能性も否めない。
慢性的な思考を危険と判断して、念を入れて瞳力を解放させると、視線を合わせた少女は意識を失い沈黙した。現実でもない場所で幻術眼を行使したり、二つ目を重ねる場合は一つ目に比べて規模や影響力が限定されやすい上、精確性を高めるにはコツと慣れも要るが、心身共に著しく弱った者なら難しくない。草花の毒に含まれる強力な幻覚作用も関係するかは定かではない。
兎にも角にも、経過を観察して時を待つばかり。面霊気の魂を中心に失われたものが寄り集まり、秦こころの存在が再び形成されて、感情も口数も多く騒々しい姿へと戻る。その過程で発生し得る諸々の問題に備えて目が休まる時はなく、容態が安定して意識が戻るまで目を離せないとはいえ、時間の経過で解決する方向で全体の流れに変化が生じた結果、事が起きるのを待つだけで快方に向かうなら楽なものだ。魔界で危ない輩と命のやり取りをするより遥かに。
(…………)
気を失った体を抱え上げる。生き物の温かみは残る一方、命の鼓動は息を吹き返さない。永遠亭まで運んだ時と比べて軽すぎていた。
ここは面霊気の深層にある特殊な空間であり、陰遁で創造された疑似的な現実とは異なる。精神に干渉を行う瞳術を利用して、影分身を作る要領で意識を送り込んだに過ぎず、どちらかと言えば神威の別空間に近しい。腕にかかる僅かな質量も温度も本物、今まさに起きている出来事は紛れもない現実だ。
生き物の色が戻り、秦こころが幻想世界を再び肯定した時、長いようで短い眠りから目覚める。主を冠する者が心象世界に背を向けるまでは身近で見守ることになるが、数時間前の己自身に対する皮肉と受け取るほど自嘲的ではない。
(あとは……『オレ』で十分、か)
答えを急ぐことも、結末を急がれることもない。鼻歌交じりで足取りも軽やかに、晴れやかな空に恋焦がれ、緩やかな時の流れに身を任せても、現実は決して壊されない。平穏へと想いを馳せる時間はたっぷりある。ゆっくりでいいのだ。
願わくば歪みをもたらした輩の姿と名は、忘却へと追いやらぬように。心に留めておくようにと。
「暫しの間だけ。微睡むとしよう」
無意識のままに目を閉じると、瞼の裏が真っ白に染まる。
「――あれっ?」
肌に感じる空気が急激に変わり、聞き覚えのある驚いた声が耳に入る。
視界の先には覗き込む貌、幾千の星を散りばめた夜空を仰向けで映していた。後頭部と体に柔らかな感触があり、腕を動かすと布の擦れる音が聞こえた。
不思議な模様の天井が見下ろしている。状況から察するに意識を失っていたようだ。
「もう起きたの? まだあんまり経ってないのに。運び込んでから」
予想外と言いたげなのはオビトも同じだった。いつの間にか見知らぬ病室でベッドに寝かされていたのだ。
「……?」
厄介な睡魔に殺されたわけではない。こころの病室で瞳術を行使した後、心象世界での出来事を経て、術を解く直前までの一連の流れは、明瞭な意識の下に認識できていた。一呼吸を置いて目を開くと、知らない病室と鈴仙の姿が在ったのだ。初めから居たのだろうが、体感では周りが丸ごと入れ替わったか、別の部屋へと瞬間移動した具合の錯覚だ。
直前の姿が脳裏に焼きついて離れない。意識が戻るまでの記憶は残るのに、術を使って以降の現実での出来事を覚えていない。
「そりゃ混乱するって。説明しなきゃだめよね」
近くから視ていた鈴仙曰く、瞳術を使って間もなく意識が喪失、急に倒れたところを慌てて介抱するなり、妖怪の腕力による『横抱き』で直ちに別の病室へと運んだとのことだ。
心象世界へと送られた『
「あいつは……」
体に傷を負えば、心に乱れや怖れが生じる。心の傷が綺麗に癒えたら、体は調子と元気を取り戻す。生き物の体と精神、つまり魂が互いに影響を及ぼし合い、良くも悪くも変化をもたらすのは確かだ。
だが命を失うか否かに体も精神も関係ない。二つがいかなる形を成そうとも、そこにあるのは人か妖か――生命が肉体に宿るか、精神に宿るかの違いを置いて他にはない。肉体が壊れて終りを迎えるのが人間なら、精神が掻き消えて終りを迎えるのが妖怪。
数ある妖の中で最も魂を、精神を、心を、感情を拠り所とする者の背負う重さがどんなものか。気を失っていたに過ぎず、呑気に眠りこけていただけの人間風情など及びもつかない。比べること自体がおこがましいのだ。
「大丈夫。きっとね」
期待した返答ではない。はっきりどちらとも言いがたい、聞く者によっては歯切れの悪い曖昧さ。春が訪れたような明るさも、深刻な暗さもない。落ち着いた声で言い切った後、鈴仙は興味深げな様子でオビトを映した。
オビトが欲したのは具体的な言葉だった。明と暗、いずれかの結末を迎えたにしても、嘘偽りで塗り固まらないありのままの答えを。鈴仙の感情表現は判りやすい方だが、表情豊かな無表情を眺める方が、あるいは多くを知るのかもしれない。堪え切れないとでも言いたげに笑って、「意外と心配性?」と続けるとは予想できなかった。重々しくなりかけていた空気が一変したのだ。
「――試みは大成功。ひとまずは安心……色々あって動きっぱなしだったし、今日はこのまま屋敷に泊まったら? 部屋ならいくらでも空いてるから」
永遠亭は数百年もの間、竹林にひっそりと隠れ住む姫君を匿うためにと、永遠なる魔法の内に不変のまま存在していた。昔ながらの古風な外観は当時とほとんど変わらない。敷地と建物の外側だけを見るならば。
湖にある洋館や冥界の楼殿などの、ひと際大きな建物と比較すると規模は劣る。住人達が使う居住空間に始まり、数多く用意された客室や空き部屋、医薬品や材料の保管庫と研究室、重症患者向けの入院施設など、全てがすっぽり収まるには広さが足りない。この世界では割と見る空間操作系統の術による恩恵だ。建物の内と外が不釣り合いなのは、八雲の屋敷や悪魔の館、幻想郷の土地に限定される話ではない。
事前の連絡もなく急に押しかけて、屋敷での一泊を唐突かつ平然と提案してきても、受け入れ体制は整い続けて揺るがない。何なら健常者が一夜の宿を求めても許容するかもしれない。快く頷くかは別として。
「オレはいい。それより……」
人や妖怪、不老不死の蓬莱人でも、体力や能力を使えば疲労は当然に蓄積される。
魔界から帰還して早々、製薬に着手した鈴仙も例外ではない一方、オビトの場合は該当しない。激しい戦地や過酷な環境下での活動に慣れのある忍であり、神樹やら六道やらで変異した肉体は疲れ知らず。魔界では大きな危険に遭遇こそしたが、体を酷使したわけではない。向こうでの探索や戦闘で削った体力とチャクラは戻っている。
気になるのは「きっと」や「ひとまず」との言い方だ。晴れやかな表情で微笑もある辺り、危険な容体ではないと思わされる。
――妖怪は人間より長寿とされる。体が丈夫で力も強い。四肢が千切れる大怪我でも簡単に治して、肉体が壊れて死を迎えても時間が経てば復活できる。妖怪の根源が人間の畏怖心や無理解にあり、肉体ではなく精神の方に命の重きを置くからだ。体が潰れても魂は掻き消えない。
ゆえに妖怪は人間を弱小種族と認識するが、実際には側面に過ぎない。精神こそが妖怪の脆さ弱さだ。妖怪なら「ありえない」と思うことが原因で『死』する人間がいるように、人間なら「ありえない」と思うことが原因で『無』に帰する妖怪もいる。精神的な影響を強く受けやすく、それが生死を分けることもある。永琳も話していたことだ。
秦こころの存在が消滅の一途を辿っていたのは、人の感情を司る面霊気ゆえに自己を否定させられた結果だ。その原因を意図せずして作り出したのは、かつて面を被ったオビトが否定して捨て去り、忘却の彼方へと追いやった、面を被る前の『オビト』の姿。お調子者だった幼少期の心そのものだ。
オビトが人間として持っていて当然であり、こころが面霊気として手に取れて然るべきだった。
数ある妖怪の中でも、面霊気のこころにはより顕著に現れる。ただでさえ繊細で壊れやすい飴細工に、ひびが深々と入った状態で辛うじて形を保っている、などと表現しても大げさではない。異常性が突出した容態に変化をもたらすには、通常の薬剤や幻術では駄目なのだ。
いつも以上に精神が弱り、影響を受けやすい不安定で曖昧な心身の状態を利用した特別な治療こそが、精神と肉体の両方に多大な影響を及ぼす猛毒と瘴気、要かつ柱となる極めて強力な精神干渉を可能とする目、オビトの内に今一度思い起こされた『心』を用いた働きかけだ。必要な場を盤石に作り固めて、そびえる壁に大きな穴を穿ち、否定された存在を肯定する一連の流れが実現して初めて、価値と意味のある効果が生じる。鈴仙曰く順当かつ完全に成し遂げた。
「あとは『慣れ』だけ。時間をかけてゆっくり、じっくりと……リハビリみたいなものね。貴方にも手伝ってもらわなきゃ」
鈴仙の言葉に遠き日の追憶がよぎる。大岩に半身を潰されて死にかけたところを拾われてから、変わり果てた体の機能を取り戻して自力で動けるようになるまで、薄暗い地下で手助けを受けながら回復に尽力していた。体の節々が悲鳴を上げても、右半身との繋ぎ目が激痛に脈動しても、汗水流して歯を食いしばり、死に物狂いで足掻き続けていたものだ。拾われた命を終わらせないために、仲間達が待つ場所へと生きて帰るために。
こころの場合は肉体や精神の損傷とも異なるが、己が消え往くかどうかの瀬戸際に追いやられていたのは同じだ。
「あれで全部と思ったがな。考えが甘かったようだ」
「まさか」鈴仙は椅子を引き寄せて座る。「自然の逆行……全ての妖怪を待ち受ける結末に無理やり逆らったのよ。不可逆的な意味合いまではないにしても、不可避的な物事を覆すのだって簡単じゃない。望んだ変化が僅かな時間で生じるほど、『理』の成す形は不確かな概念じゃないの」
「そこまで把握を。大したや――」
「――って、師匠が言ってた」
「……そんなものだ。道理ってのはな」
手で握り潰すなら岩石より粘土の方がやりやすい。硬い物より柔らかい物の方が形状は変わりやすい。力を加えるだけでは変化しない物に馬鹿正直に挑みかかるより、水でふやかして少しでも柔らかくする方が楽で確実だ。その行いを具体的な形としたのが、永琳達が魔界の毒から作った特殊な薬。面霊気を蝕むモノが傷病の類に過ぎず、幻想郷における常識の範疇に収まる程度ならば、薬の材料を遠路遥々採りになど行かない。
この世の森羅万象、無数に存在する筋道の中でも、生き物の死や時間の逆行など、不可逆的な物事に次ぐ絶対性を有する概念の正体。妖怪なら誰にでも該当する不可避的な理の一つだ。因果律を狂わせて、摂理を捻じ曲げてまで、別の先を導き出して選び取ったというのに、ほんの少し時を経た程度で終息に至るはずもない。
(待て……)
物事の道理を外れた面霊気。永琳に普通ではないと言わしめた理由だ。本当なら壊されず、避けられない物事に囚われて存在を失いかけていた者を、万華鏡の『瞳力』という普遍なる理に在る概念だけで、底から引き戻すことができるのか否か。
精神に強い重圧をもたらす異界の瞳力は、妖たる者の根底を揺るがす概念であり、不変なる前提として形を成す。境界の賢者でも干渉を許されない生き物の生と死、この二つの外側に立つがゆえに穢土と浄土を行き来できる六道の、輪廻眼による『輪廻天生』や『獄閻王』だけでも、理を捻じ曲げて崩し滅ぼす力には違いない。この力をも軽々と超越する途方もない輩が十尾や大筒木だ。不可逆とまでは言えずとも、面霊気という存在を左右する明と暗を、紛れもない生と死を分かつ境界線を踏み越えて秦こころを引き戻すのに、この程度に止まる行いで事を成すことができるのか?
それなら初めから、知識の神であり月の頭脳と謳われた賢者が有する、「あらゆる薬を作り出す」技能を存分に振るえば済む話だ。忍界と幻想郷が別の次元に在り、互いに相容れない以上は、前者の不慣れや未知の概念に蝕まれて存在を『否定』された者を、後者を以って『肯定』するのは神々でも骨を折るだろうが――。
(……ハッキリさせるか)
肝心の居場所は分からない。この部屋へは知らぬ間に運び込まれたのだ。永琳の研究室へは外から直接的に踏み入り、広すぎる屋敷の内部を隅々まで知り尽くすわけでもない。散々と慣れた手段を講ずる方が、影分身を撒いたり案内を頼むより手間は省ける。
オビトの右眼を中心に渦が巻き始めた矢先、敏感に察知した鈴仙が「てゐっ!」とのかけ声と共に飛びかかり、空間の歪へと消える直前に体をがっちりと捕まえた。己自身を転送する時に体が実体化する特性を偶然にも利用して。
「どうしたの? いきなりこんな。大丈夫って……」
渦状に歪んだ視界が元に戻った時には、違った景色が目の前に現れていた。
部屋には寝かされた姿ともう一人。椅子に腰かけてベッドに顔を向けていたが、二人が渦の中から現れると振り返り、穏やかな表情で「おはよう」と爽やかに挨拶した。彼女はどうにも見返り姿が多い。
「あれ、師匠。外に出てたんじゃ? いつの間に」
「さっきよ」永琳はオビトを映す。「ぴったりね。ちょうど看に行こうかなあと……この子について、心配ごとは消えていないのでしょう? 貴方だもの」
若干からかうような知った口ぶり。永琳の試すような言葉を聞いても表情を変えず、ベッドに近寄ったオビトが見下ろす。
「水の泡に帰す気はない。ここまで来たらな」
永琳が何を思って訪れたかは定かではない。医者として患者の容体を看に来ただけ、と見なせばそれまでだが、ありふれた解釈で納得できるほど彼女のことは知らず、こころが置かれた状況も普通とは程遠い。自身も何故に戻ったのか、その理由は不明瞭なままだ。
そんな気がした。それだけの話だ。
「え……?」
息を呑んだ鈴仙。永琳とオビトの目が細まる。この部屋で待っていたのは永琳ではなかったのだ。
沈黙。空気が激変した。背筋に冷たいものが走る。動悸が激しくなり、込み上げる吐き気と悪寒に鈴仙はふらつき、後退して壁に背をつけた。恐怖の正体は心身だけではない、目の前に形として現れたのだ。
眠る少女の口が開いていた。吐き出された黒い靄のような物が、揺ら揺らと昇って蠢いている。段々と一か所に寄り集まり、顔のようなものを形成し始めた。
「毒をもって毒を制す。人ならざる者には脅威そのもの……だからこそ救いの手にもなる。貴方の目、この上ないわね」
黒いモノが浮遊している――『御面』だった。
秦こころが侍らせていたり、被ったりする物とは違う。喜怒哀楽の表情や、何らかの感情を思わせる特徴など何もない、三つの『点』が並ぶだけの真っ黒な面。点が三つ並ぶと人の顔に見えると言うが、まさにそれを忠実に表している。上部に二つ、下部に一つで『顔』を連想させるものだ。
ゆえに不気味なのだ。感情を欠くのではなく、初めから存在していない、無上なる無情。何の力も感じられないモノが、何をするでもなくその場に浮かんで、じっと顔を向けていた。
「――…ッ!」
鈴仙は怯えていた。魔界でも見せなかった、本能的な怖れに乗っ取られた表情。壁に背をつけて動けないのに、なおも離れようと足裏が床を引っ掻いている。人間で言うならば、体を圧し潰す巨大な岩が転がって迫る感覚だ。
何かに駆られて体が動いたのか、指先から撃ち出された赤い光弾が、宙に浮かぶソレを打った。
「無駄よ。そんなことしても」
傷もつかず揺らぎもしない面の姿。永琳は場所を移すと、震える鈴仙の姿を隠すように立った。代わりに進み出たオビトが対峙する。
「あれは『理』。妖怪の意義を縛りつけて支配する、ね。私たちにどうこうできる問題じゃないの。居辛いなら外に出てる?」
「いえ……大丈夫、です」
師と弟子の厚い信頼関係ゆえか、厳しくも優しい口調で諭すように話す。頼りがいのある大きな姿を身近に感じて勇気づけられたのか、鈴仙は恐々としながらも体の震えが消えた。
鈴仙は紛うことなき妖怪。面霊気を蝕み続けていた因果が現出して、人ならざる身でこれほど間近で映しても正気を保てるのは、彼女自身が生物の精神に訴える能力を有するがゆえ。その力が身を守る盾の役割を果たしている。永琳にしても同じで、器に宿す高尚な魂は害悪を寄せつけないが、未知なる異界の概念が妨げるせいで、事態を好転させる望ましい変化を起こすには至らない。
この場で動けるのは一人しかいない。人間と人外の力関係を揺るがす要因であり、秦こころの存在を脅かした張本人だ。
「長引かせはしない。終わりだ」
白く変色した掌に穴が穿たれる。宙に現れた黒い物質が球体状に膨れ上がり、棒状に伸びて錫杖が形成された。煙を払うように一振りする。
終幕は実に呆気なかった。面の姿が跡形もなく掻き消えると、居心地の悪い空気が嘘のように澄んだ。
「さてと、今後のことなんだけどね」
オビトの掌辺りを見つめる鈴仙とは対照的に、永琳は終始平静で切り替えも早かった。いつの間にか錫杖は消えてなくなり、病室は落ち着きを取り戻している。
「うちの助手から聞いたかもしれないけど、この子には休養とリハビリが必要なの。意識が回復して、消えかけていた心身が馴染んで、体を動かせるようになるまでね。前例がないから期間は分からないけど……多めに見積もったほうがいいわね」
「……ここからか。長い戦いになるな」
傷や病の治療とは異なる。通常の医療にも携わらない素人の身でも、長い期間を要するであろうことは、何となく予測はできていた。
短命な人間から見た数年など、長寿の妖怪達に言わせたら、ほんの僅かな時なのかもしれない、とは言っても。
「私たちだけなら、ね。この子は貴方の影響を極めて強く受けている。貴方が付き添って支えてくれたら、期間が大幅に短縮される可能性だってある。心に訴えかける言葉や行動……そういうのって、軽々しく見られないものよ。妖怪にとっては特に」
病は気の持ちようでもある。有効な薬や治療法が見つからずとも、早く治って元気になるよう、声をかけたり手を握って、傍で支えることはできる。
精神に命を委ねる妖怪であれば病だけに止まらない。面霊気ともなれば尚更だ。内面への働きかけと変化は後々を大きく左右させる。好ましくない変化もあれば、逆もまた然り。永琳が事前にオビトを重要な『二つ目』と評したのは、心身を含めてあらゆる影響を及ぼす唯一の人間であると、早々に結論づけていたからだった。
「だったら」すかさず口を開いた鈴仙。「うちに住み込みってことで。好い刺激になるだろうし、この辺りで立場の違いを兎たちに……いや、てゐのやつに……」
「無理言わないの。貴方にも生活があるわけだから、毎日とは言わないけど。定期的に見に来てあげてね」
「来る分には問題ないが……オレなどに何かできるのか。見舞いなんてものには縁がない人間だぞ」
今回の件で完治に至らず、その後も経過を観察して接触する必要性が認められた場合は、頼まれずとも事に尽力すると決めていた。毎日が最善と言うなら、神威を使えばどこに居ても病室まで数秒程度、影分身を送り込んで二十四時間の見張りを立たせることもできる。煎餅屋などの個人の事情がなくとも、屋敷に滞在して行き来の手間を省く必要はない。
問題は見舞いの方にある。入院した誰かに会いに行った経験など、マダラとして里抜けする前、木ノ葉の忍として現役だった幼少の頃にまで遡る。確か任務で負傷した仲間の顔を見に行った程度で、当時の記憶はおぼろげで感覚も忘れている。その程度の浅い経験と認識しか持たない身で役立てるのか否かの判断がつかない。どこかに潜入して必要な物品を持ち帰るなど、忍としての力量が試される役割の方が慣れがあり性に合っている。
「ないなら作ればいいだけ。これからね。そんな貴方だからこそ、意味があるってものよ。でしょう?」
「楽しんでません?」
「うん?」鈴仙の指摘に、永琳の口元が緩む。「んー……まあ、見てみる価値は、なくはないけど。人と妖怪の善意的、好意的な関係はどこまで深まるのか、とか? 外界人からも逸れた外界人、だからねえ。興味深い観測も色々と……」
人と人が本当の意味で仲を深める一方、弧として在る妖怪は人とも、同じ妖怪とも上辺だけの関係を構築する傾向にある。天狗や河童のような一人一種ではない妖怪が珍しいと言える。精々が生きるために同族間で集団を作るなど、何らかの目的のために群れを成したり、互いの利を求めた契約関係が関の山。種族や独立体に関係なく物の怪達から好かれる、博麗の巫女など一部が稀有な変わり者なのだ。それが幻想郷における人と妖怪達の常識である。
そうでない場合はどうか。別世界の常識が幻想郷では通用しないように、此方の常識や基準の悉くが異邦人を縛るとは限らず、どちらか一方が他方に影響を与えることさえある。全体として見るなら、異邦人のオビトが関与しない命名決闘が代表的な例だろう。此度の騒ぎにしても、この世界が擁するはずの妖怪を取り巻く問題について、永遠亭の面々ではなくオビトが解決の鍵を握っていた。
一世界だけでも予測不可能な物や事象は無数に存在するのに、不明瞭で不透明な他所の概念が入り込んでもなお、何もかもが判り切っているなどと、胸を張って宣言できる者がいようか。常を逸した天才や賢者とて、知らないものは知らず、知らなければ分からず、知りようがなければ分かりようもないのだ。
「あらら、スイッチ入っちゃったかな。師匠ってば」
「回復を手伝う話じゃなかったのか」
温和で物腰柔らか、落ち着いた大人の雰囲気、豊富な医療知識と高度な技術を持つことから、何かと羨望の眼差しや疑いの目つきで見られがちな永琳だが、実際は物事に対する知的好奇心が旺盛で子供っぽいところがある。長らく一つ屋根の下で寝食を共にする者として、他の妖怪や人間が知らない側面を鈴仙は知っている。隠れ天然っぷりや一般常識に疎いことも含めて。
その一方でオビトは、彼女が非の打ちどころのない完璧超人であり、常に先の先まで見通す策士という印象を抱き続けていた。
「何をしてどうなるかは分からんが、オレに為せることはやるつもりだ。出入りを許すなら毎日でもいい」
「大変じゃない?」鈴仙が驚いたように注目する。「居候した方が何かと便利だし、楽だと思うけど」
「楽かどうかって話なら、しない方がそうなるな」
「無理は体に毒よ。人間が一人増えたくらいじゃ何ともないし」
「増えない方が何ともならんがな」
「でも、ここに居るのが好いと思うけど」
「……しつこいぞ。何かあるのか」
目立った感情を表に出すこともなく、同じ調子でやたらと食い下がる鈴仙。人の話を聞かず、自分の主張を頑として譲らず、無理にでも押し通そうとする強引な振る舞いは、幻想郷ではよく見られる光景である。
人間の幼子が相手なら適当に受け流して終わる場面でも、容姿に反して実年齢が上であり、人の身も外した鈴仙が口にすると、耳を貸す流れに自然と巻き込まれる。妖怪には慣れた身にもかかわらず。
「そりゃもう、ね。だって、あの子らは言うこと聞かないし、あいつは付きまとってくるし……まあでも、貴方が居るのが嬉しい、ってのが一番かな。やっぱり」
「何の話だ?」
「その目」鈴仙の垂れた耳がぴんと立った。「前にも言ったけど、同系統で強い力の持ち主となんて、そうそう出会えるものじゃない。ましてや人間、外来人なら尚更。認識の外に在る異界人なら、もっとね。好い刺激になる」
「波長を操る、か」
「そっくりでしょ?」
光や音の波を操って幻覚や幻聴を引き起こしたり、姿を消したり認識を奪うのは序の口で、人体の波長を弄って心を操り、狂気の渦中に叩き落としたりと、精度の高い精神干渉をやってのける。逆に乗っ取られても自力で振り解くなど、攻守共に優れて汎用性も高い能力だ。加えて鈴仙自身の適応力と高い成長率、妖の身なれど打たれ強い精神面。彼女の特異性は他の妖怪と一線を画する。
この能力は五感を通じて様々な方向から効力を発揮するが、本人は『視覚』に訴える手段を好み、その使い方に慣れがあり、最も強力に作用する。この世に「存在する」波長を操る力と、「存在しない」ものを作り出す陰陽遁の力とでは仕組みが根本から異なるとはいえ、目で『視る』という部分と発生する事象にも共通点はあり、写輪眼と同系統に類する力との解釈も的外れではない。参考にした他者の力を取り入れて、自分なりに発展、応用させる力に秀でた鈴仙ならば、幻想郷や月にはない未知なる事象から何かを掴み取る場合もあるだろう。
幻想郷と忍界という異なる二つの概念が混ざり合い、融合して一つにまとまり、新たな概念や法則が生まれて、形ある力として発現する可能性。鈴仙はそれを見出したのだ。
「あとは兎角同盟に入って、私の地位回復と向上の手助けも――」
「はい、そこまで。本筋から逸れすぎよ」
熱弁しかけていた鈴仙に優しい待ったがかかる。我に返って頬を染めつつも、不満げな様子で「師匠だって……」とぼやいたが、永琳は素知らぬ様子で咳払いした。和やかな雰囲気は失われない。
「……ほら。温かいわ、さっきよりも」
永琳は青白い手を握って呟いた。昏睡状態で眠り続けるのは変わらず、いつ目覚めるかも分からない容体ながらも、命の危機が拭い去られた今では、安らかな表情で夢を見ているかのようだ。鈴仙も急いでベッドに近寄る。
オビトは少し離れた場所から眺めるに止まり、二人のように触れることもせず、写輪眼を用いて体内のチャクラを視通そうとしたが――永琳が急に振り向いて立ち上がり、仕方がないとの表情で「こっちへ来る」と容赦なく言い放つと、問答無用とばかりに腕をがっちりと掴んで引っ張った。察した鈴仙が咄嗟に丸椅子を引き寄せると、上から押さえつけるように肩を掴んで無理やり座らせる。
「ほんの些細なやり取り、声かけでもいいの。今みたいにね。それだけでも光明になって、道標になる。この子にとって」
隣の丸椅子に腰かける永琳。清潔な白いベッドに寝かされたこころ。呼吸の度に胸が上下して、命の鼓動を平穏に刻んでいる。
容体を観察するなら眼に頼る方が精確である。だが今なら目に映すまでもない。少し前までは失われていた、失いかけていたチャクラが、はっきりと感じられる。魔界へと赴く前とも、井戸の傍に倒れていた時とも、煎餅を作ったり甘味を頬張っていた頃とも異なる、もっと明るくて強かな光を。
もう二度と揺らぐことも、薄れることも。消えることもないのだ。
「『道案内』が共に在る。見失いはしない。失っても導いてみせる……絶対に」
戻り行く時を待ち続ける今と、終わり往く時を待ち続けていた過去。あの時と逆ではあるが、こうして手を握っているのも、握られていたのも同じだ。薄れゆく意識の中でも、圧し潰された右半身の感覚がない分、残った左手には温かみを強かに感じていた。
この世に少しばかり未練を残しながらも、死を覚悟して受け入れたはずが、命を拾われて偶然にも生き残った。ここに居るのもその結果であり延長だ。誰かを救って守り抜くために、生きて罪を償うための一歩とするならば、この手に感じる温かさは失われるべきではない。
不慣れでも不器用でも、不格好でも構いやしない。願わくばこの心が真であり続けるように。
「感じるものが一つでもあったなら、誇るべきね。どんなに小さな歩みでも」
永琳の視線はベッドに向けられたまま。席を立って踵を返したオビトの後ろ姿を、鈴仙は身動きせず黙って見つめていた。その姿は天井付近に生じた渦に巻かれ始める。
「勿体ないくらいだ。今のオレには」
終わりが訪れて紡がれる本心。それこそが包み隠しのない、ありのままの真実だった。
――◇◇◇
のんびりと流れゆく白い雲。相も変わらず暑い日が続いている。
人通りがないに等しい、物寂しい地区の外れを見渡して映るものと言えば、ただっ広い田んぼや畑、放置されて使われていない廃屋がいくらか、残りは鬱蒼と立ち並ぶ樹々くらい。人気はないが自然の豊かさは随一である。
虫捕り網やかごを提げた幼子達の姿が見えないのをいいことに、樹にしがみつくせみの声は途切れることを知らず、鬱憤晴らしとばかりに鳴き続けている。青空に群れをなしたり、森の中に潜伏する鳥獣の声が時折、負けじと喧しい音を響かせて競う。深緑の香りと共に風に乗り、広々と漂うはずだった妖精達の声は、哀れにも塗り潰されて泡沫へと帰るのだ。
外れに佇む一軒の店。煙突から空へと昇りてゆらゆらと。自家製の煎餅しか徹底して置かない、尖りに尖り尽くした先鋭的な煎餅専門店は、今日も香ばしい匂いを漂わせている。
季節の割に暑苦しい黒衣を着込んだ姿が店の奥から現れると、空になりかけた皿にザーっと派手な音を立てて『作品』を補充した。店内の隅に置かれた肘かけ椅子でかれこれ二時間近くも寛いでいる、白い着物の客以外には誰もおらず、静かで落ち着いた雰囲気は守られている。
(……いい感じだ)
堂々とした名札のうち『斑』と『飯綱』、『鏡』と『富岳』は補充し終えた。いずれの出来も、過去に類を見ない品質と言っても大げさではない。作り上げた物に納得せず、妥協せず挫けずで高みを目指して、限界を突き破る勢いで研鑽に励み続けた結果だ。努力が実を結んだ瞬間は筆舌に尽くしがたい。後は隠し味に少々変更を加えた試験的な品が二つ、秘伝のタレを用いた『止水』と、海苔を使った『鼬』を残すのみとなる。
最近は調子がいい。辺りが寝静まると厄介ごとが外から何個か入り込む程度で、それ以外は作業に滞りもなく、初めのうちは悩みの種だった些細な失敗もなくなり、現在では失敗をする方が稀と言えるほど。これなら過去に修業を積んだ店の、伝説的な煎餅職人の前でも胸を張れる自信がある。手土産としては申し分ない。目前に控えた旧都の視察にも余裕を持って臨むことができよう。
然るに忘れるなかれ。掲げた目標を達成して、評価として褒めはしても、そこで歯止めをかけるべきだ。現状に満足して歩みを止めるなど断じて許されない。それすなわち、今の場所に愚かにも甘んじて、険しき道に背を向けることに他ならない。
際限なき極致へと至り、『幻想郷最高の煎餅職人』の栄光を掴み取るならば、己の限界など決めるべきではないのだ。
「…………」
涼やかな風が音もなく吹き込む。店の奥に消えようとしたところで、ふと何かを感じて目を向ける。客が肘かけ椅子でうつらうつらするだけで、騒がしいのは蝉や鳥獣の鳴き声しかない――そう見なすのは正しい認識に至らなかった場合に限られる。
「うー……?」
戸惑い気味の声を待ったり目を向けるまでもない。どれだけ隠れ続けても晒されるのは時間の問題でしかない。
上空に現れて緩やかに降下、建物の前に降り立って暫し動きを止めていたのは、焼き上げた品を手にして店内に戻るより前の出来事だ。何らかの意図を勘繰るほどに判りやすく、作業の手を止めて意識を割く手間は不要だった。
顔を半分だけ出して覗いた後、決心した様子で一人頷き、扉を潜ってそそくさと入店するも、いったん足を止めて胸を押さえる。辺りを少しきょろきょろとして、肘かけ椅子の方をじっと映すと、駆け足気味に通りすぎ――転倒して地べたに伏す。眠りを妨げるには足らないようだ。
「どう伝えよと……積み上げた枕が、崩れ落ちて、止まらない」
気配を感ずるより以前の流れは予期できず。されど入店して以降は何となくできていた。無言で近づいたオビトは、大の字で倒れて動かない少女の腕を掴み、軽々と引っ張り起こした。だらりと頭を垂れている。
長寿で力が強く、体が頑丈な人外でも、重さと言動は見た目とかけ離れていないようだ。
「……気が早い以前の問題だ」
日課と化した顔見せが、という意味もある。障子を挟んだ隣の部屋に踏み入るのは何度目か、慣れすぎて視界の捻じれも渦に巻かれる感覚も忘れ去るほどだ。その一方で、一人用の椅子でも三人掛けのソファでもない、心地良い寝具で長い長い夢を見ていた人物が、ひょっこり現れて敷居を跨いだのは二度目であり、初めてのことでもある。
向こうで最初に映した姿と、昨日に映したばかりの姿に差異は皆無だった。明日も明後日も、今日にしても同じ姿を見るはずで、これからも続くと思われていた。
実際のところ、見慣れた顔を前触れなく、急に「見せに来た」ところで何のことはない。何故なら生きているからで、それが当然であると判り切っていたからだ。
生きているなら歩いたり口も利くだろう。元気な姿を見せて話しかけもする。この世界における生と死の概念は不可逆的であり、命潰えて死者と成った者が生前と同じ姿で戻ることはないが、命在る生者がどこに戻ろうとも自然の流れでしかない。
「本調子でもないだろう。そんな体で」
隠れていた顔をスッと上げる。口裂け女のように口元が広がっている――と思いきや、被った面の表情だった。
いつも傍にぼんやりと浮かぶ面ではない。どこで手に入れたのか、初めから所持していたのか、ただのお面。お祭りでよく見かける簡単な作りの、白い狐の面だ。外観だけなら木ノ葉の暗殺戦術特殊部隊が着用する物に酷似している。
子供が被って遊ぶような代物でも、面を被ることに抵抗があるか否かを真剣に問われたところで、首を縦に降ることはない。理由は言わずもがなだ。
「いや……そっちはこの際、二の次でもいいのです。どういう顔するのが、最善なのか」
もごもごと声を漏らしている。顔を隠すお面を何気なく眺めるうち、「まさか」という思いと考えが不意に芽生えた。分厚くない面の奥には何があるのかと。突発的で無意味な行動に他ならず、思い過ごしで終わると分かっていても、確かめずにはいられなかった。
目に見えない誰かが判断を強いたのか、早急に事を為すべきと決したオビトは、お面の紐に手をかけて取っ払う。意外にも身動きしなかった。
(……オレは何を)
感情も表情も豊かではあるが、喜怒哀楽の色彩は欠片も見られず、眉も目元も口角も動かない無表情がある。面霊気として在る以上は当然の理だろう。
視線は目の前のオビトを捉えていない。斜め下を向いている。ご丁寧にもお面を再び着けようとした時、急に反応して体が動いたと思えば、飛び退くように距離を取ろうとした。どうにも勢い余ったようで、ぐるぐると腕を回して頑張る姿勢も空しく、後ろへと倒れ込んでしまう。終始無表情で。
「無理するな」オビトは再び引っ張り起こした。「……目覚めたばかりだろう。意識が戻ったって話は聞いちゃいない。なんで体を引きずってまで来た?」
魂に宿りし命が吹き消えず、揺らぐ余地もなく、再び立ち上がるのは分かっていた。昨日今日とまでは予期できなかっただけで、来たるべき日はいつか訪れると。疑問を呈した理由は別にある。体を動かすものは何か、だ。
ある日にベッドの上で目を開けて、病み上がりで寝たきりだった――しかもリハビリに入る前でろくに動かしていない、弱り切った身体に鞭打って外出して、里のこんな外れにまで足を運んだのか。体力や身体的な機能だけではない、写輪眼を通して視える体内のチャクラにしても、同じことしか言えない。
魂が掻き消えて失われることはない。肉体が崩れ落ちるわけでもない。体が丈夫な妖怪であることも知っている。命を落とす心配はないのだろう。それでも疲労や精神の摩耗、心身の不調が残るからには、安静にして休養を取るべき身体に変わりはない。
急変があれば連絡がつくように網は構築されている。向こうに動きが見られないとなれば、主治医とも言える永琳辺りが特別な事情で外出を許したか、あるいは本人が無断で――。
「また迷惑をかけた……かけっぱなしだ。でも、一刻も早くにと思った……お礼が言いたかった。貴方に」
表情から感情は読み取れない。お面を被ったり漂わせるわけでもない。
遠慮がちな声と視線、仕草や指の動き一つからでも、溢れんばかりの感情を手に取るのは、心の変化に疎い者でも難しいことではない。豊かすぎる感情は色々なところに表れる。
心の具現、感情を司りし者は、表現が具体的か否かは関係なしに、欲した相手に訴えかけて理解を刻む。心さえ在るならば。
(あの時と――…)
在るべき心と満たされた姿。その心も、己自身も全てを失くした空っぽの姿。本物と紛い物。
――大切なものを失い、心にぽっかりと穴が空いて、気がつけばどこかに、見たことのない場所に、この世の地獄に立っていた。
心に空いた大きな穴を埋めてくれる、代わりとなるものを欲して、取り憑かれたように世界を巡った。それが見つからず、埋まることは決してないと悟り、地獄を見下ろす月の眼が、月の夢だけが為してくれると気づいたのだ。全ては導き手たる者の言葉通りでしかなかったと。
己自身の心も感情も偽りの物に塗り替わり、表情までもが同じ物に変わった。黒に塗り潰された顔を無情なる仮面で隠して、偽りの世界で偽りの自分を演じるようになった。
偽物の面だ。どのように表現しようとも、紛い物が生み出す喜怒哀楽など無に等しい。体も心も人物も舞台も全部が偽物でしかない。
「逆だ」
嘘偽りのない、在りようがない本物の感情を、自分なりの言葉や体を使って目一杯に、思いっきり大胆に表現して、素直な気持ちと心を堂々とさらけ出すことができる。小うるさく喧しいほどに。
心であるがゆえに失われることはない。どこかで羨ましく感じているのか――今となっては確かめようもない真実と過去だ。
「お前は全てを失いかけた……このオレのせいでな。礼など言われる道理はない」
「それは貴方が――」
「現実だ。疑う道理もない」
意図した出来事ではなかった。そうであるはずがない。幻想郷へと流れ着いたことも、その存在を面霊気として認識したことも、何者かが意図したわけではない。全くの偶然でしかない。このように言いたいのだろう。
自嘲も卑下もない。悲劇に酔う気など微塵もない。ゆえにはっきりと言えよう。間違いなど何もないと。彼女の心は真実しか語っていないと。そこにあるのはただ一つ、「命を脅かした」という純然たる結果、変えようのない現実。どんな理由を見出そうとしても歪めようのない、消えようのない真実だ。
(だからこそ……)
目も当てられない現実との直面と共に、失われ往く命を取り戻した現実もまた、紛れもない真実であり本物だ。
自身を取り巻いていた幻想に終止符が打たれて、この世界に生じていた大きな歪みは消えた。この身に宿した二度目の命を、生きて罪を償うための機会として受けた。誰かを助けるための、助けてばかりの人生を歩んで、頑固な姿勢を貫き通すのも一つの選択。
ここに居るのはオビトではあるが、お調子者の『オビト』として過ごした幼少期、深遠の黒に沈んだ『トビ』や『マダラ』として過ごした十数年間、捨て去っていた自分を拾い上げて、仲間達と共に在った僅かな時間――善悪の全てをひっくるめた、これまでが現在を形作っている。表側だけをなぞるつもりはない。
この心に再び向き合うことができた。期せずした出会いによって。
「こんなオレにも、やれることがある。オレにはそれで十分だ」
何もできない。何かができる。この違いはあまりに大きい。他の者にはなんてことのない小さな歩みも、真っ直ぐ前へと踏み出すための大事な一歩。皆の前を歩いて痛みを一身に背負い、数多くの仲間や友を、里の皆を命がけで守り抜いた者がいたのだ。
あの背中はいつも遠かった。いつだって先を歩いていた。血の滲む努力を必死に重ね続けて、ようやく追いついたと思ったら、さらに遠くなっていた。
立ち止まってはいられないと、木ノ葉に居たかつてならきっと。
「貴方は私を、知らないと言った。それは同じ」
落ちていた視線が戻る。綺麗な石竹色の瞳に映して、感情を刻まない表情で見つめる。
「私も貴方を知らない。だけど……」
そっと近寄り、黒い衣越しに手が触れた。寄りかかったまま瞼を瞑る。
「……心は、解った。本当に優しくて――…温かい」
ほんの僅かな静けさ。肌を通して伝わる。再び現れた貌に表情はなく、心に溢れる感情だけが届いた。
互いを知らず、身の上など知る由がなくとも、内に在る目に見えない心、冷徹と無機質の向こうに隠された色彩が映り、今度はちゃんと触れられた。触れて理解するほどに、自らの存在が明瞭なる姿となりて、身に戻りし『命』へと結びつき、追いついていく。言霊は要らなかった。
模したものに過ぎず、本物では決してない。自覚もないのだろう。それで好かった。解らなかったものが解り、解ったことは本物でしかない。かつてはそこに在ったのだから。
「戻りはしない。そいつが悪くないと思うのも……今を生きている証、ってやつかもな」
心の底から人に優しく無関心で、冷酷無情で愛情深く、困っている人を捨て置けず助けることはない。人助けにばかり走り回って、人を殺めることを何とも思わない人間。
絵に描いたような根っからの善か悪か。どちらの立ち位置に居るとしても、これからを決めるのは今しかないのだ。
布の擦れる音。傍らを通りすぎる姿。少女は一人残された。
名残惜しげに吐息が漏れる。手のひらをぎゅっと握ると、胸に当てて振り返った。
「オビトォ!!」
唐突な声が空気を派手に破る。いつの間にか店内の客も微睡み始めていた。
ぎらりと目を光らせて「てゐッ!」という気合いの声と共に足元を蹴り、腕を大きく広げて背後から突進を仕掛けた。スキだらけに思える人物は、無防備な背中を見せるだけで、無表情のままに迫り来る姿に対して無反応を貫いた。
「――おぶっ!?」
「騒がしいぞ」
案の定、体ごとすり抜けて床に激突したこころは、結構な距離をズザーッと滑って出入り口へと向かう。受け止めない冷ややかさ、返り討ちにしない優しさ、無関心という点では同じでも、遠慮のないやり取りは眠る以前を思わせた。
何をしても、されても表情は生まれない。その代わりとでも言いたげに、声と体の動き、面霊気らしくない騒がしさを目一杯に駆使して、心に抱く感情を余すことなく表現する。三度目の支えは必要なかった。
「最強の称号を奪い合うのは止めとこう。私が綺麗かどーかも訊かないよー」
両手を口の端っこに持っていくと、ぐにーっと横に引っ張ってみせる。口角は上がらず下がらない。笑いを取ろうと変顔を見せたにしては、やはり目元も眉も動かなかった。
表情による感情表現ができるのにまずやらないオビト、できないのに無理にでもやろうとするこころ。面を二度と被らない者、二度も三度も被る者。肉体に命を擁する人間、精神に擁する妖怪。無自覚的な感情、自覚的な感情。色々な意味で対極である一方、心の内を映し合った者同士、ある方向性を求めて道を行く同志として、何とも奇妙な連帯感が生まれていた。
気づいたのはこころなのだろう。感情をあまり表に出さないオビトの方は、相変わらず判りにくいままである。
「こころ……お前、戻らなくていいのか?」
「戻り戻りて、どこどこに? 好い響きだー」
「そこで訊き返すか」
四方八方から果敢に飛びかかる。何度もすり抜けて掠りもしていない。自分から面を被らないのに誰かに被らされる、というより被さってくる面が一人、面々が何人いても触れることはない。諦める気がないのか動き続けて止まらず、騒々しくも表現に表現を重ねすぎている感じが否めない。
戻るかどうかをオビトが尋ねた理由は見た通り。目覚めたばかりなのに元気すぎている。爆発を繰り返している。疲労が表情には出ないにしても、呼吸も体の動きも、体内を循環するチャクラの流れも平静そのものだ。しかも今さっきまでは、明らかに体が『弱り切っていた』はずが、その様子が全く見られない。この短時間で急激に体調を回復させたのだ。
妖怪と人間とでは体の丈夫さに大きな差がある。生命力も回復力も桁違い。だがそれは傷や病など肉体的な問題であり、存在意義の喪失による魂の自然消滅など、精神的な問題とは根本から異なる。心の具現であり感情を司る面霊気ゆえの何かがあるのだ。
「向こうの知るところならいいが、断りなく出てきたならさっさと戻れ。面倒ごとになっても知らんぞ」
「そいつは困る。戻るよ戻る。その前に言わせたまえ」
「何だ?」
写輪眼でも先読みできない予測不能な言動に加えて、例に漏れず表情が動かないために、真剣さが含まれるかはオビトにも判らなかった。
くるくると回り始めていた体の動きがピタリと止まり、前髪をかき上げて曇りなき眼を向けたのは、延々と繰り返されると思われた状況の変化と視るべきか。
「輝かしい舞台と甘味も好き。煎餅も好きです」
「見舞いの品を所望か……面と向かって、とはな。能は分からんぞオレは」
「そーではないっ!」
病室を訪れた者に頼みごとをするならいざ知らず、足を運ぶ前に先んじて要望を伝えに来るのは珍しい、のかもしれない。里抜けする前の出来事は見舞いも含めて、やはりおぼろげな記憶が大多数を占めている。月の眼に魅入られた面を着けて舞台に上がったところで、何の感情も表現できず、できても偽物で無価値であることは、上がる前からはっきりと分かるとしても。
言葉を紡いだこころが片翼のさぎなら、流れはどちらに傾いて動き始めるのか。行くか行かないかという、実に簡単で終着点も近い分岐でしかない。
「貴方と一緒に作りたい。今度はちゃんとできる……見舞いなんて六十六の次でいい。二より上なら来た意味ないもん」
「今になってか?」オビトは思い出す。「何をそこまで積極的に」
物事に積極性を垣間見るかは表情で判別できない。ずいっと貌を近づける動作、ぎゅっと作られた握りこぶし、やたらと上ずった声の調子など、他のあらゆる部分が際立って判りやすい。
視通せないのは自ら希望した理由だ。そもそも最初にこの場所を目指していたのは、自然消滅の危機を回避して命を守るための、ある種の防衛本能が正常に働いた結果であり、以降の言動は原因を作った者に解決手段を見出すための行動だった。その必要が失われた今、かかわりを持つ意味も消える。客としてならともかく。
「へんてこな疑問を投げおって、こやつめ。したいからするだけなのに、やらないほうがヘンだよー? 我慢とかいやだしぜってー」
何のことはなかったようだ。どんな理由かと考えをあれこれ巡らせたところで、「やりたいと思うことをやる」と本人から言われては押し黙るしかない。個人的で平和的な思惑にまでとやかく口を出したり、気持ちを縛りつける意味はない。聞き終えたオビトが閉口した理由だった。
結局のこころ。その姿が目の前に在るのだ。視通していたのは彼女の方だったのかもしれない。
「自由に表現するのがお前なら、もう何も言う気はない。前を歩くだけにしておこう」
「好き心がけだ。ゆくぞ同志よ! 我らが『戦場』にっ!」
長い髪を束ねて気合いを入れる。踵を返した後ろ姿を、心騒がしい姿が慌ただしく追いかけた。