【完結】ニンジャと白面   作:いらえ丸

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 感想、評価、誤字報告、ありがてぇありがてぇ。


一期の夢、刹那の飛翔

 クラシックレースとは、年に一度行われる世代最強を決める戦いである。

 その大舞台には、同世代で選りすぐりのウマ娘のみが出走を許される。中央にて、実戦にて、それらの上澄みだけが、一生に一度の挑戦権を得られるのだ。

 そう、勝つにしろ、負けるにしろ、二度とは走れぬ夢のレースなのである。

 

 

  

 皐月賞。

 クラシック最初の冠にして、最も速いウマ娘が勝つと言われるGⅠレースである。

 

 中山レース場の空には、雲ひとつ無い晴天が広がっていた。スシ詰め状態の観客席はいつになく多くの来場者で賑わっており、来るGⅠレースの開始を今か今かと待っていた。

 世間のクラシックレースへの注目度は、他の重賞レースの比ではない。今年も多くの新旧ファンが船橋のレース場に集い、そうでないファンも各種配信媒体で件のレースを観覧していた。

 

 大観衆の見守る中、出走ウマ娘達が続々と本バ場へと姿を現していく。

 クラシックレースには、世代の上澄み達が集まる。。中でも今年の主役は二人のウマ娘であった。

 

 名門出身、フューチュリティステークス覇者。

 スペードテン。

 

 激闘を超えた叩き上げ、ホープフル覇者。

 アオギリホウオウ。

 

 今日、この場は日本で一番熱い場所だった。

 

 本バ場、ゲート前。、アオギリホウオウは静かに呼吸を整えていた。

 距離に問題はない。中山レース場は慣れている。コンディションも万全だ。一応、出走ウマ娘の構成も頭に入っている。

 問題さえ起こらなければ、大丈夫なはずだ。精神も静かに猛っている。ダービーに向かう第一歩。今、自分はインペラトリーチェの好敵手として相応しいウマ娘になれているはずだ。

 深呼吸を繰り返し、アオギリホウオウは己の心に薪をくべ続けていた。

 

「失礼。アオギリホウオウだね」

 

 と、その時だ。

 背後から聞き慣れない声。はっきりした声質は鍛錬によるものか。名前を呼ばれただけで、その声の主がどんな教育を受けてきたのかが分かる。

 振り返ると、視線の先には黒鹿毛のウマ娘が立っていた。凛とした立ち姿。インペラトリーチェとは別種の、けれど確かに上流階級的な雰囲気の佇まい。

 インペラトリーチェがお嬢様だとするなら、このウマ娘は騎士とか貴族とかそういう感じだろうか。実際、その身に纏われた勝負服はどことなくベルばらっぽい印象だ、

 フェンシングとかやってそう、とアオギリホウオウは思った。

 

「あー、えーっと……」

 

 初対面な気がする。出走ウマ娘なので名前くらいは知っているはずだが、顔と名前が一致しない。アオギリホウオウは外行きの愛想笑いを見せつつ、誰何した。

 対するウマ娘は、むっと口をつぐんだ後、真っすぐ右の魚目を見つめて答えた。

 

「スペードテンだ」

「あー、朝日杯を勝った。何や凄いウマ娘や言うて、トレーナーが仰ってました」

「当然だとも」

 

 言われたウマ娘は視線を鋭くしつつ、口元を緩めた。その目は口より雄弁だった。どうやら見た目より素直なウマ娘な様である。多分、当ウマは仏頂面を作っているつもりなのだろう。

 スペードテン。アオギリ同様、既にGⅠレースを制してみせた期待のウマ娘であり、アオギリホウオウを含めた世代四強の一柱だ。

 

 やや上向きの口ぶりで、黒鹿毛のウマ娘は続けた。

 

「ホープフルステークスはテレビで見させてもらったよ。あのインペラトリーチェと競り合えていたのは素直に凄いと思う。弥生賞もまた、強い走りではあったね」

「はあ」

 

 スペードテンの言葉は、身長差云々ではなく、上から声が聞こえるような気がしてならなかった。

 その声音には、どうにも悪意は感じられない。悪意はないが、ごく自然に見下されているような感じがある。不快ではないが、不可解だった。

 ええとこのお嬢ちゃん特有のアレかな。とアオギリホウオウは勝手に納得した。

 

 鴻鵠が下を見て何も思わないのと同じように、燕雀もまた上を見たところで何も思わないものである。

 少なくとも、アオギリホウオウにとっては。

 

 そんなアオギリに気づいてかそうでないのか、スペードテンは一旦間を置いてから口を開いた。

 

「けれど、君の走りはトゥインクル・シリーズに相応しくない。この場で私と並ぶべきは君じゃない、リーチェだった」

 

 そんな事を思いつつ、聞き流した言葉の端に友の名があった時。アオギリホウオウは初めて彼女の言わんとするところが分かった。

 

 するりと、アオギリホウオウの心に冷たい膜が覆われた。

 それは心を守るものだ。それは外を避けるものだ。アオギリホウオウは、強く目を瞑り、息を吐いた。

 意識を切り替える。揺らぎを抑え込む。眼前の競走相手を見る。違う、同じじゃない。このウマ娘には悪意も敵意もない。

 ごく自然な慢侮と、僅かな憤りがあるだけだ。それは、彼女自身の心だけにあるものだ。アオギリホウオウには、関係のない事だ。

 ならば、何の問題もない。

 

「メディアの評価も会場の人気も不本意極まる。この世代、私のライバルはトライアンフとリーチェのはずだったんだ。認めていたのに……」

 

 我知らず、アオギリホウオウの目つきが変化していた。普段は意識して表情を作っているのだが、今は無の相貌で以て鴻鵠に相対していた。

 今のアオギリホウオウには、眼前のウマ娘同様に悪意や敵意などは存在しない。ただ、一歩引いて“観て”いるだけだ。

 冷めた魚目が黒鹿毛の優駿を見るでもなく眺める。ここまで分かりやすく遺憾の意を表しているウマ娘を、アオギリホウオウは初めて見た。

 

「いいか、アオギリホウオウ。君の走りは中央に相応しくない。我武者羅に走って許されるほど、世間やクラシックは甘くないぞ。君のこれまでの勝利は奇策奇襲に過ぎないんだ。永続するものじゃない。君もGⅠウマ娘のはしくれなら、それに見合った振る舞いというものを……」

「で、何が言いたいんです?」

 

 被せるように、言葉を切った。

 間髪入れず、今度はあえて獰猛な笑みを作ってみせた。傲慢に、自信ありげに、どこまでも強気に犬歯を見せた。

 

「すんません。ウチおつむ弱いもんで、そちらさんの言うとること半分も聞いてませんでしたわ。何や色々言うてましたけど……で、何が言いたかったんです?」

 

 口元を歪め、視線は真っすぐ。すると、スペードテンは一瞬だけ口ごもった。自分と視線を合わせると、多くの他者は怯む事をアオギリホウオウは経験で知っていた。

 要するに、このウマ娘は自分の言う事を正しいと思っているのだ。稀にいる、そういう類のウマ娘だ。己が信じる正しさの前では、自覚のない残酷さが表に出るもので、恐らく彼女はその事には気づいていない。

 しかし、だ。所詮、彼女の知る残酷など、そう大したものでもないのである。

 

 ふぅ、と呼気ひとつ。スペードテンは左旋回して背を向けて、人魂の様な魚目から目を逸らした。

 そして、心の奥から絞りだしたように、本音を零した。

 

「……君は、アルデバランに釣り合っていない」

 

 背中越しの声。そこには、隠しきれない羨望の色があった。

 憤りと、侮りと、ほんの僅かな尊敬の念があるように感じた。

 たまに感じるものだ。名前の知らないウマ娘から、同じチームの先輩の話をせがまれた時などに感じる、“羨ましい”という気持ち。

 しばし考え、合点がいった。

 

 ああ、なるほどと思った。

 だが、そんな事かとも思った。

 

「そんなん、ウチが一番思っとるんよ」

 

 承知の上で、ここにいる。

 星の輝きとは、地を這う者には眩し過ぎるのだ。

 

 アオギリホウオウは、離れていく背中を、どうにも敵であるとは思えなくなっていた。

 

 

 

 高く高く、ファンファーレが響き渡る。

 やがて、ゲートインの時がきた。

 

 やはりGⅠレースと言うべきか、各々ゲートに入っていくウマ娘達は堂々としたもので、粛々とレースへの準備は整っていった。

 中には直前に身構えているウマ娘もいたが、元来ウマ娘は狭い所を嫌う種族故、致し方ない。

 

 続いて、アオギリホウオウもゲート入りを果たした。

 狭く固いゲートの中、アオギリホウオウの精神は呼気と共に深く沈んでいく。

 中央においてもゲート難のウマ娘は少なくないが、幸いな事にアオギリホウオウはゲートの様な狭所は苦手ではなかった。むしろ四方を覆う強固な壁には安心感さえ感じていた。

 ここには誰もいない。誰も来ない。誰も白面を嗤わない。

 だからこそ、集中できる。

 

「誇りと願いを込めまして、三つの冠をかけて本日もウマ娘たちが走ります。春の皐月賞、ゲートが今……」

 

 開門前、アオギリホウオウは胸中に在る競走心に向き合った。

 呼吸と、鼓動と、血脈の流れ。沈む意識は、やがて誰もいない唯一人の静寂を映し出した。

 

 ――ウマ娘が走る事に大した理由はいらないんじゃないか。

 

 葦毛の怪物。その言霊が、アオギリの心根を支えていた。

 

「スタートしました。綺麗にスタートしました皐月賞。バ場の状態は稍重から良となっています。真っすぐハナを切ったのはツーリングバイク。並んだトコトコ。最内ミニコスモスが少し遅れます」

 

 春の冠を賭けたゲートは、メイクデビューと同様にあっさりと開かれた。

 

 開門と同じくし、出走ウマ娘全てが素晴らしいスタートダッシュを決めた。

 中でも抜群のスタートを切ったのはスペードテンだ。開始早々、持ち前のポジションセンスを駆使し風避けウマの影に潜む好位置を取っていた。その鮮やかな妙技はアオギリホウオウでは何度やっても到底真似できないだろう。

 狙いは明白、後ろから差し切る。狙撃手の様に、抜刀術の様に。鳳凰の飛翔を叩き落とす。認めずとも、警戒はしているのだ。

 

 アオギリホウオウもまた、理想的な好スタートを切ってみせた。しかし、理想的な序盤とは言い難い状況であった。

 逃げウマが遠く、差しウマも遠く、先行ウマはアオギリから距離を取って走っている。これではアオギリの脚は掛かり難く、周囲のウマ娘も掛からせ難い。だが、想定内だ。そしてやる事も変わらない。何故ならアオギリホウオウはアオギリホウオウだからだ。

 

 最初のコーナーを曲がり切ると、やがて縦長の展開になっていった。先頭と最後方の距離が遠く、後ろからでは前の状況は分かり難い。

 アオギリ視点、あまりうれしい状況ではない。それを見抜いて策を講じる訳でもない。どうでもいいからだ。

 無我の走りがただ猛る。アオギリホウオウは“何か”を噛むように歯を食いしばり、ひたすら内埒に沿って走った。無心で、愚直に、鍵の掛かった扉にタックルし続けるよう我武者羅に。

 

「先頭から順番見ていきます。一番ツーリングバイクが逃げています。並んでトコトコ。ぴったり後ろにミニコスモス。外にロングキャラバン。3バ身離れてバイトアルヒクマ。少し離れて後ろアオギリホウオウ。その外トモエナゲ。エキサイトスタッフは真後ろ、スペードテンはこの位置。続きます……」

 

 コーナリングの最中。ほんの僅か、数度まばたきをした瞬間、いつの間にかアオギリは位置を上げていた。

 コーナーを曲がり切った頃になって、隣り合ったウマ娘が動揺した。前にいたウマ娘が後方確認する。そして、こいつはマズいと逃げたくなる。追い抜かされる気がして仕方がなかった。前に往く集団を見て、安全圏には行かせまいと差しウマ娘も冷静に脚を回し始めた。

 クラシックレース、この段になってもアオギリホウオウの異能は十全に発揮されていた。ギアさえ上がれば、バ群でなくとも掛からせる。

 

 アオギリホウオウはコーナーが巧い。

 そう言ったのはチーム・アルデバランを率いるニンジャトレーナーであった。

 通常、人にしてもウマ娘にしても速く走っている時に曲がる場合、曲がりたい方向へ身体を傾けて方向を変えるものだ。自転車で曲がる時に車体を傾けてカーブするのと同じ原理である。

 だが、その動作を全速力で行える者はそうはいない。何故なら、転んでしまうかもしれないからだ。人間でも一歩間違えれば大怪我をするし、ウマ娘レベルの速度域でコーナリングに失敗すれば怪我では済まない場合がある。

 自転車でもバイクでもウマ娘でも、コーナーの時は大なり小なり身構えるものである。あまり勢いよく曲がり過ぎると、転倒のリスクが高まるからだ。そして、ウマ娘レベルの速度域では転倒と死はあまりにも近しい。

 故に、よほどのコーナー巧者でもない限り、レース中のウマ娘はコーナーの際は強い加速を控え、姿勢を安定させて旋回するのである。

 

 だが、アオギリホウオウは違う。

 むしろ加速する。加速しやすいから加速する。ギリギリまで身体を傾け、思い切り脚を突き出し、大袈裟に腕を振って姿勢を整える。外に膨らむウマ娘の隙間に、グイッとねじ込みダッシュする。そうして曲がり切ると、いつの間にかアオギリが前にいるという寸法だ。

 コーナーこそ、アオギリの望むところなのである。

 

「3コーナーに入りました。先頭はツーリングバイク。後ろトコトコ。その後ろにミニコスモス。アオギリホウオウが内から迫る。エキサイトスタッフ、トモエナゲ、ロングキャラバンはこの位置。スペードテンら差しウマ娘は外から見ています」

 

 コーナー加速。アオギリホウオウがやれるなら他のウマ娘もやればいいじゃんと思うかもしれないが、それは難しい。

 カーブで転ばないようにするにはどうすればよいか。答えは簡単。柔軟な関節か、強靭な体幹で以て体勢を整えればいい。どちらも鍛え上げるのが競技者というものだが、それでも難しいのがコーナリングというものだ。

 

 ところで、世の中にはよく転ぶ人と全然転ばない人がいる。先天的なものか。後天的なものか。ともかくとして、それらは確実にあるものだ。

 アオギリホウオウの場合、前者であり後者でもある。先天的に優れた空間把握能力と危機回避能力を持ち、かつ後天的に転びにくい経験を経てきたのである。

 生まれつきの才能はともかく、経験とは何か。理由は単純だ。悲しい哉、昔からアオギリホウオウは友達がおらず、仕方なしに一人で山を駆け回って遊んでいた過去があるからだ。

 アオギリの故郷は山と田んぼと畑で形成されたド田舎である。山道は滅茶苦茶だ。不規則に生えた根や硬軟混じった土。一定ではない傾斜。方向感覚を狂わせる木々、運動能力に優れるウマ娘でさえ走るのは難しいし、人間なら歩く事さえ困難だ。

 そんな転倒不可避な山中を、アオギリホウオウは野生動物の様に駆け回っていた時期があるのだ。有り余る運動能力を、全て山という大自然にぶつけ続けていたのである。一度として、転んだ事もなく。

 ぶっちゃけ怪物レベルの所業なのだが、アオギリホウオウはその凄さを全く自覚していなかった。それを、指摘され、自覚し、鍛錬すれば、レースに活かせる技術になった。

 アオギリホウオウは、他のウマ娘より悪路とコーナーに強いのである。

 

「第4コーナー曲がって各ウマ娘仕掛けてきた! ゴール前には坂があるぞ! ツーリングバイクはどうだ! ミニコスモスは早くも加速している! エキサイトスタッフが前にきた! スペードテンはどうだ!」

 

 ラストスパートにおいて、アオギリにオグリキャップの様な爆発的末脚は存在しないし、同じくミホノブルボンの様な正確無比な脚回しや、ライスシャワーの様な精神的底力も存在しない。

 アオギリホウオウにあるのは、ただ“誰より速く駆け抜けたい”というウマ娘的本能に根差した意思力だけだ。

 大自然で研ぎ澄まされし野生の疾走。極めに極めれば、平地レースで武器になる。アオギリホウオウは、天高く豪脚を振り上げ、思い切り振り下ろした。野山を駆ける大跳びに、草木を分ける獣爪。荒れ道急坂なにするものぞ。心の炎が今、爆ぜた。

 

 来た、とレース中のウマ娘全員が感じ取った。

 ゴールが近づくにつれ、じわじわ速度を上げてきた白面が。グイグイと圧を増す魚目が。極端に掛かりの遅いエンジンを、殴って蹴って叩き起こした理不尽の極みの如き猛獣が。

 耳元で軋みを上げる本能が、今すぐ逃げろと訴えかける。

 

 前に行くな、噛まれるぞ。

 後ろに立つな、蹴られるぞ。

 

 瞬間、アオギリホウオウ以外のウマ娘全員が“何か”にかく乱され、掛からされ、ためらった。

 

 掛からせ力、第二段階。

 

 肉食獣の唸りこそ、平和な野原によく響く。

 

「アオギリホウオウ抜け出した! 一歩遅れてスペードテンも追走! 逃げるツーリングバイク! ミニコスモス追う! スペードテン! スペードテン! アオギリホウオウ強い!」

 

 サドンデスで生き残ったのは、やはりアオギリホウオウだった。他のウマ娘は、文字通り後塵を拝するしかできないでいた。掛かる逃げウマが、闘志を燃やす差しウマが、こなくそ負けるかと一歩遅れて猛り狂う。それでも、一歩の遅れがレースを決する。ついてくる後続が、必死の形相で前を往く。だが、どうしても一歩の距離が遠すぎる。

 

 否、例外がいた。スペードテンだ。

 漆黒の彗星が。弛まぬ鍛錬の結実が。大一番にあってなお素晴らしい輝きを放っていた。窮地の試練こそ、己を磨くチャンスなのだ。

 末脚に鈍りなし、過去最高のコンディション。点火したロケットエンジンが、規格外の爆発力を生み出した。

 

 騎士のひと刺し。真っすぐ、愚直に、漆黒の勇者が突っ切ってきたのである。

 

「スペードテン! アオギリホウオウ! 一騎打ちです! 先頭アオギリホウオウ! 追いすがるスペードテンという構図! これまではなかった展開です!」

 

 正々堂々。小細工なし。アオギリの戦場が野生の縄張り争いと言うのなら、スペードテンの戦場は古式ゆかしい一対一の決闘試合であった。

 獣と騎士の一騎打ち。猛獣退治か征伐か。同じ戦の後続は、全て観衆になっていた。

 

 スペードテンは幼少からの教育により、レース中に起こりうるあらゆるイレギュラーに耐えられるよう訓練してきた。

 それは名門ウマ娘ゆえのレース精神論。現代では軽視されがちなソレは、今日この日に初めて役に立ったように、スペードテンには思えてならなかった。故、尊敬すべき祖先の教えに、感謝の気持ちが溢れてきた。

 

 スペードテンは笑う。気分が良いから笑う。軽蔑や嘲弄でなく、歓喜と感謝と祝福によって笑う。

 なるほどそうか。今まで無駄に感じていた滝行や座禅は、こういった時にこそ役立つようになっていたのか。

 感謝があった。名家に生まれた事に、良い師の教えを受けた事に。トレーナーに、両親に。

 そして今競り合っている白面片魚目の寒門ウマ娘にこそ、最大の謝意と感謝を伝えねばならない。

 今日、自分は更なる高みに至れたのだから。

 

(((私の思い違いだった! 尊敬するぞアオギリホウオウ! 君のその走りは、奇襲奇策ではなく過去から現代への歴史の折り返しなんだな! だが、ボクの生まれは歴史ある旧家だ! 君の様なウマ娘がいる事を、経験として知っている! 故に!)))

 

 勇壮なる健脚が、伝統ある芝を思い切り踏みしめた!

 

「この私が! 負ける道理はない!」

「うぉぉぉおおおおあああああああ!」

 

 坂を登る。最後の最後まで二人だけがこの戦いの最前線に立っていた。

 内埒ギリギリを攻めるアオギリホウオウのすぐ隣で、スペードテンが練習以上の成果を発揮する。

 

 ウマ娘は競り合うと速くなる。これは科学的に証明された事実だ。アオギリも、スペードテンも、今はどちらも練習以上の力を発揮していた。一人では辿りつけない速さ。強敵が強さをくれるのだ。

 アオギリホウオウとスペードテン。生まれこそ真逆なこの二人は、今この瞬間だけは互いを高め合う対等の存在となっていた。

 

 重力に逆らう。飛び立つ鳥の様に、まるで直線でも走るかの様に。

 加速する。加速する。加速する。

 後先を考えない驀進が、ただただ前へと駆り立てる。

 

 誇りで以て、黒鹿毛の騎士が駆ける。

 本能で以て、白面の鳳凰が駆ける。

 そして二人は、無我の境地へと至った。

 

 

 

 時に、この世界には“しつけ鞭”というモノが存在する。

 幼くも強大な力を持つ子供のウマ娘をしつける為の、文字通りの愛のムチだ。

 か弱い人間がウマ娘を打擲する為の道具だ。

 現代となっては。時代錯誤の因習として淘汰されたモノだ。

 だが、人の価値観がそう簡単に変わらない様に、世代を跨いで残る風習は存在するものである。

 

 例えば旧家の納屋に。

 例えば歴史資料館に。

 例えば片田舎の常識として。

 

 ウマ娘を叩く鞭が、未だこの世に存在するのである。

 

 

 

 全力を超えた疾走の最中、スペードテンは忘我していた。

 異能により呼び覚まされし、閃光の如き感情と、本能に根差す恐怖心が、力と引き換えに常の冷静さを奪っていた。

 

 今、二人は競り合っている。

 はたから見れば、それは単なる遊びのかけっこに見えた。

 しかし、これはレースだ。

 ルールがあり、作法があり、歴史がある競技なのである。

 

 ほんの刹那の間、それを失念していたスペードテンは、無意識に利き足へと制御不能のパワーを発揮させていた。

 結果として、スペードテンは体幹のコントロールを失い、徐々に徐々に疾走する躯体をアオギリのいる方へ寄せていった。

 

 観客席からは、スペードテンの斜行は一目瞭然だった。

 後ろで走るウマ娘からも、その斜行は一目瞭然だった。

 

 だが、二人の視点ではどうか。

 スペードテンは前しか見ていない。

 アオギリホウオウもまた、前しか見ていない。

 

 そして、わずか。

 ほんの一瞬。アオギリの視野の隅に過ったモノ。

 此方に迫るスペードテンの、その右手。

 顔すれすれを過ぎるモノ。

 細く、速く、撓って動く……。

 

 それはさながら、アオギリホウオウを打つ鞭に見えた。

 

 ばしん、と。

 その右手が、アオギリの身体を打った。

 

「ひっ……!?」

 

 瞬間、アオギリホウオウの脳裏に様々な光景がフラッシュバックした。

 

 夕焼け、笑い声、痛み。

 侮蔑、嘲弄、憤怒、悔恨。

 

 そして、一歩。それもまた、スペードテンの制御下にはなかった。アオギリより大きな身体が、制御を失い迫ってくる。

 次は、打擲では済まない。

 思い切り、ぶつかる未来が見える。

 

 一瞬、スローに見えた。

 必死に、力強く、当たると痛そうな腕が、しっかりと目に映った。

 そしてもう一度、しつけ鞭は振り上げられた。

 

 反射だった。

 アオギリホウオウは自身に迫ってくる身体を、無理やり身を捻って回避した。

 結果、アオギリホウオウの姿勢は崩れ、自動車並みの速度を維持したまま内埒へその身を投げる事となった。

 

 また、反射だった。

 視界いっぱいに迫る柵を見て、脊髄反射的に飛び越えようと無理やり足首に力を込めた。次いで、自身と埒の間に右腕を滑り込ませた。ベギッ、と。嫌な音が聞えた。

 視界が回転する。浮遊感。腕と脚と背中に痛み。肺から息が漏れ、一時的な酸欠に陥った。

 

 アオギリホウオウは、ゴールを前にして、レースから弾き出されたのだ。

 

 

 

「アオギリホウオウ!」

 

 

 

 遠くで、憧れた声が聞えた。だが、その声色はあまりに必死で、いつもとの違いにすぐにそうとは気づかなかった。

 

「担架! 担架早くしろ!」

「クソ! クソ! クソが! ふざけるなよ! ああ! 少し黙っていろ!」

「あぁクソ! 大丈夫だ、命には関わらない。上手く受け身を取れたんだ。凄いぞ、よくやった……!」

 

 キツネ面越しの右の眼が、赤く光って見えた気がした。

 

 

 

「はぁ……! はぁ……!」

 

 スペードテンはゴール板を駆け抜け、息を整えていた。

 

 全霊を賭けて、その身を躍動させた。スタミナはとうに切れている。完全燃焼した身体には、トレーニングでは味わえない晴れやかな倦怠感が染みわたっていた。

 気分が良かった。真に価値あるレースだった。強敵と力をぶつけ合い、それを下したのだ。間違いなく、名家に相応しい栄誉ある勝利であった。

 そうして、勝利を確信し、柄でもなくガッツポーズした。

 

「勝ったぞ! アオギリホウオウ! 私の勝利だ!」

 

 レース前では思うまま、口汚く罵倒してしまった。しかし、今となっては親友の言う通り、アオギリホウオウというウマ娘が如何に強敵であるかを理解できた。

 彼女の走りは卑しいものではなかった。鍛錬と覚悟に満ちた、尊敬できる走りだったのだ。自分が間違っていた。謝罪せねばならない。

 それから、今度はダービーでの再戦を誓うのである。

 

 そして、感謝すべき強敵へと、顔を向けた。

 

「……え?」

 

 ゴール板の先に、アオギリホウオウがいない。

 

 観客席から、どよめきが広がっている。

 騒がしく駆け寄ってくるスタッフと、出走ウマ娘の痛ましげな表情。

 皆が皆、埒の向こう側を見ていた。

 

 心配げな瞳。恐怖を湛えた瞳。驚愕を表す瞳。

 それらが一斉に、色を変えてスペードテンを見た。

 

「え、あ……なに、が……?」

 

 多くの双眸が、スペードテンを見ていた。

 この視線の意味を知らない教育は、受けていない。

 

「アオギリホウオウ……?」

 

 スペードテンは気高いウマ娘だ。

 名家に生まれ、善きウマ娘たらんと心身ともに鍛えられてきたウマ娘だ。

 文武両道を地で往き、他人に厳しけれど、自分にはもっと厳しいウマ娘だ。

 生まれてこの方、ずっと愛されてきた存在だ。

 

 そんな彼女は今、愛なき眼で射抜かれていた。

 

「そんな、嘘だろう……?」

 

 人の感情とは、理屈で制御できるものではないのである。

 

 

 

 喧騒の外側、どよめきも遠い芝の上。

 誰より速く、風となって駆け付けたターフスレイヤーは、出来る範囲の検査をし、安否を確認していた。

 必死に、祈るように、あるいは縋るようにアオギリの身体を案じていた。

 そんなトレーナーの姿を、アオギリホウオウはぼんやりした意識で眺めていた。

 

(((ああ、お面ズレかかっとんで……)))

 

 決して観衆に晒さないキツネ面が傾いていた。

 

(((ウチ、勝てへんかったんか……)))

 

 ゆっくり首を動かすと、ゴール板の向こうでスペードテンが呆然と立ち尽くしていた。

 

(((リーチェさんには、ごめんなさいやな……)))

 

 守れなかった約束を思い出し、心の中で謝罪した。

 

(((オカンの夢も、一個なくなってもうた……)))

 

 そして、アオギリホウオウは、

 自身の無様さを恥じるのであった。

 

「ほんま、だっさいわぁ……」




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