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こういう話は一話でまとめたい派なのですが、文字数が膨れ上がってしまったので分割します。
――ヒトとウマ娘は、決して喧嘩をしてはいけません。
その言葉の意味を知ったのは、アオギリホウオウがいじめっ子の骨を折ってしまった時の事である。
反射だった。“しつけ鞭”というらしい、叩かれるととても痛い鞭を受け、それから身をかわした瞬間、振り払う為の手が鞭を持つ子供の腕に当たってしまったのだ。
その時に、ヒトの骨が折れる音を聞いたのである。
痛みに蹲り、泣きじゃくり、危ない奴だと罵ってきた。
親を呼ばれ、取り囲まれ、村の大人達に忌み子だ何だと言われて罵られた。
そこに仕事帰りの父がやってきて、怒る大人達に頭を下げて謝っていた。
よく言い聞かせるからと言って、罵倒されながら許しを乞うていた。
そんな父の背を見て、
父に罵声を浴びせる大人を見て、
後日、ギプスを巻いたいじめっ子の怯える顔を見て。
幼き日のアオギリホウオウの心に、如何な感情が芽生えたか。
凡そ、多くの人に想像のつくものではないだろう。
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右尺骨骨幹部骨折および右足関節捻挫。
医師から告げられた診断結果は、周囲の想定よりも遥かに軽度な負傷であった。少なくとも、並みのウマ娘ではこうはなるまい、アオギリホウオウという頑強極まるウマ娘であればこその結果であった。
場合によっては後遺症の残る身体になっていた事を考えると、競走生命を絶たれずに済んだのは不幸中の幸いか。しかし、クラシックレースを走ろうとする今この時においては、ましてダービーウマ娘たらんと走ってきた身としては、致命傷と言っても過言ではなかった。
何はともあれ、手術こそ必要なく保存療法で済んだ現在は、とにかく安静という事でアオギリホウオウは入院生活をする事になった。
アオギリホウオウが入院する事になった部屋は、ホテルの様な内装の一室であった。
アオギリ視点、病院と聞いてイメージするものとは大分違う。キングサイズベッドの先には広々としたリビングスペースがあり、如何にも高級そうな本革ソファーが並んでいる。柔らかな間接照明が目に優しく、大きくて薄いTVモニターがデカデカと自己主張していた。
無論、トレセン学園支給の治療費でこの様な病室に入院できるはずもない。スペードテンの家が入院費を全額負担したのである。せめてもの償いか、あるいは名家の体裁というのもあるだろう。ともかく先日顔合わせしたスペードテンの両親からは、誠実な謝意が感じられた。
「何か……」
広々とした病室に、低くかすれた声が落ちた。ベッド上でぼーっとしていたアオギリホウオウが声の方を見やると、馴染みのトレーナーの背中があった。
「何か買ってきて欲しいものはあるか?」
ひどく小さく見える背中が旋回し、虹彩異色の目が向けられた。その視線の先には、アオギリホウオウの右腕に巻かれたギプスがあった。いつものキツネ面があれば分からなかっただろう眼差しの揺らぎ。変化の乏しい視線が、今はどうにも分かりやすい。
この人もこんな顔するんやなと思いつつ、アオギリホウオウは目下の悩みを打ち明ける事にした、こういう事は言っていいと既に学んでいる。
「暇つぶしになるものとかありますか?」
「暇つぶし、か」
ふむと唸り、再度目を合わせる。
「読みたい雑誌はあるか? 漫画雑誌とか」
「あー、ないですね。漫画もあんま知りませんで」
「そうか」
沈黙。如何にも気落ちしているトレーナーと、むしろそれが気になるウマ娘の間には何とも言えない気まずい空気が流れていた。
先の皐月賞は、トゥインクル・シリーズファンにとっては驚天動地の大事件であった。
歴史あるクラシックレースで、斜行による進路妨害。挙げ句、あろうことか被害ウマ娘は埒と衝突し負傷という惨事。
当然、メディアが放っておく訳がなかった。その多くは加害ウマ娘への糾弾であったが、一部の記者はこれ幸いとアルデバラン及びニンジャトレーナーへの非難記事などを書いたりもしていた。
結果として、スペードテンは失格処分。アオギリホウオウは競走中止となった。また、被害ウマ娘の競走能力を害したとして、スペードテンとその実家は公式に謝罪会見を行った。
そして今現在、当のアオギリホウオウはというと、何だかボーッとして現実感なく過ごしていた。
誰が悪いとか何がいけなかったとか言われても、正直ピンと来なかった。ぶっちゃけ、「レースやし、こういう事もあるやろ」くらいに思っていた。
それよりも、今後の復帰の方が気がかりであった。
そんな中、しばし二人は無言だった。ぼんやりしているアオギリが、何を望んでいるのかが分からないトレーナー。どうにも、変な空気であった。
すると、ターフスレイヤーのウマ耳がぴくりと揺れた。誰かの接近を察知したらしい。
「邪魔するぞ」
ドアが開く。先頭切って入ってきたのはオグリキャップだった。その後に黒鹿毛や栗毛のウマ娘が続く。
「おじゃまします」
「失礼します」
「やあ、身体の調子はどうだい?」
やがて、アオギリの入院室にやってきたのはチーム・アルデバランの面々であった。
彼女等は手に手に何かしら荷物を持っており、それらは方やビニール袋だったり方や紙袋だったりした。パンパンにパンプしたそれらには限界まで荷物が入っており、今にもはち切れそうであった。
オグリは太り気味のビニール袋を置くと、やおら中身を出してローテーブルに並べはじめた。積みあがっていくそれらは、どれも明るい色をしていた。
「色々と買ってきたぞ。入院中はやることがないからな」
オグリの手にあるもの、それはタフスレ視点で昔懐かしの駄菓子であった。
実のところ、アオギリホウオウは駄菓子を見た事も食べた事もないので、パッケージに描かれている謎の蛍光色にはびっくりしてしまった。
「これ何ですか?」
「ん? 食べた事ないか? こう、口に入れると笛になるんだが」
言うなり、笛型ラムネ菓子を口に入れるオグリキャップ。どうやら自分用も買ってきたらしい。そうしてピューピュー吹くのかと思えば、無意識に噛んでしまったようで笛は即粉砕されてしまった。菓子粉砕機とはオグリの事だ。
「……もう一回」
「病院では静かにね」
苦笑する面々。場が弛緩したところで、オグリに続けとばかりにアルデバランメンバーは次々荷物を下ろしていく。
食べ物に飲み物に、電子機器に書籍にそれはもう色々と買い込んできたようである。
「えーと、これ何ですか?」
中でもサイドテーブルに置かれた謎の物体はアオギリホウオウには想像もできないものであった。
動かしていい左手で手に取ってみると、それは何か小さな画面とボタンがある機械のようだ。丸っこい造形はお餅みたいである。
「むっ、これは“デジウマ・ミニ”ではないか。ゲーム機だよ。しかもプレミアカラーの……」
「ほえー、ゲーム機? こんな小さいのにですか?」
「ああ、電子生命体ウマ娘を育成したり進化させたりする。こっちは“ウマごっち”か……懐かしいな。これもプレミアカラーか」
ゲームネイティブ世代なはずのアオギリホウオウだったが、ゲーム機がどんなのかはぶっちゃけよく分かっていなかった。彼女の田舎にそんな大層な物はなかったのである。テレビやラジオこそあったが、ほとんど吉幾■の歌みたいな田舎だったのだ。
「ライスはね。ご本たくさん買ってきたの。本棚に置いとくね。アオギリちゃんがどういうの好きか分からなかったから、色んなのがあるよ」
本棚に荷物を収納し終えたライスシャワーが報告する。見れば、種々様々な書籍が本棚にぎゅうぎゅう押し込められていた。
そのどれもジャンルはばらばらだったが、その中には悲しい話や切ない話の本がないあたり、彼女の気配りを感じさせるラインナップだ。
「ウマ娘用の握力強化グリップ等、入院中も使用可能なトレーニング器具を購入してきました。ドーゾお使いください、それと、教科書類などの勉強道具も用意しておきました」
クローゼット内にポンポン荷物を放り込んでいたミホノブルボンは、どこか満足そうに鼻息を吹いた。
見れば、自宅で出来る系のコンパクトな器具がたくさん置いてあり、かつ既に開封してくれていた様である。
「映画も沢山あるぞ。“あと1バ身の恋”や“ウマ娘は眠らない”の様な名作に、実写版“デビルウマ”みたいな神映画やウマーベル映画全作品などなど。これを機に色々観て見聞を広めておきたまえ。ぜひ最後の奴までねェ?」
綺麗に並べた二人に対し、アグネスタキオンは持ってきたらしいDVDパッケージを文字通り山積みしていった。
この中にクソ映画が混じっている事に気づいたのはターフスレイヤーだけだった。
わいわい、がやがや。
重バ場だった空気が、一瞬にして賑やかな雰囲気に包まれた。
「先輩……ありがとうございます」
自然と出た感謝の言葉は、ほんの少しだけ湿っていた。
と、そんな濡れた魚目を見た面々は、じっとターフスレイヤーに呆れた視線を送っていた。
「トレーナーの事だ。どうせ正面から訊いてきたんだろう」
「む……」
オグリとトレーナーは、この中で一番長い時を過ごしている。オグリキャップの指摘は完璧に的を射ていた。
言葉に詰まるターフスレイヤーは、軽く視線を彷徨わせて、ブルボンが持ってきた教科書類を見た。
「……勉強なら教えられるぞ」
実際、大事なことである。退院したらまた学園に通わなくてはならないのだから。
「あ……ありがとうございます」
詰まりかけた感謝を受け止める優しさを、アルデバランのウマ娘たちは持ち合わせていた。
しばらく、宴会の様な時間が過ぎた。
アオギリホウオウが初めて食べた駄菓子の味にドギマギし、オグリはお菓子を食べ、ライスは骨折中のアオギリに代わって練る系駄菓子をねるねるしてやり、タキオンは勝手にクソ映画を上映し、ブルボンは好きなSF映画のクソパロディを見て宇宙猫みたいな顔になったり……。
楽しい時間は早く終わる。トレーナー以外のアルデバランメンバーはあっという間に寮に帰る時間になっていた。
「ではな」
「お大事に、アオギリちゃん」
「失礼しました」
「くれぐれも無理に鍛えたりするんじゃないぞ~」
暫し、今度は心地の良い静寂が流れる。
それは、アオギリホウオウには馴染みのない、祭の後の寂しさに似た感覚だった。
「……オグリ=サンめ、全部飲んでいったではないか」
後片付けの後、すっからかんになった冷蔵庫内を覗いたターフスレイヤーは苦笑して呟いた。
「何か適当に買って来よう。お茶とかでいいな?」
入院棟には自動販売機や給水機が設置されているものの、出来るだけ安静にさせておきたいアオギリホウオウにそんな手間を取らせたくはない。
ターフスレイヤーは目立つ尾花栗毛を隠し、目立つ面貌を隠すべくキツネ面を装着した。
そうしてそのまま部屋のドアを開けた、その時だ。
「あっ……」
開けた扉の前、そこには名門出身ウマ娘、スペードテンが立っていた。
彼女は部屋の前で立ち尽くしていた様で、その姿勢は猫めいて丸くなっていた。以前、レースで見た時とは違い、その瞳は所在なく震えていた。
「……スペードテンか」
一瞬、声の主が分からない程の低声が、キツネ面の奥から聞こえて来た。
その声色はあくまでも無機質然としていたが、奥底には隠し切れていない負の感情が渦巻いている事を、相対するスペードテンには丸わかりであった。
その理由が分からない程、スペードテンは無教養ではない。その感情を理解できない程、スペードテンは無神経ではない。彼女は決して、悪の類の存在ではないのだから。
「スペードテンさん?」
ベッドの方から声。
スペードテンは仁王立ちするトレーナーと、その奥のウマ娘におずおずと伺いを立てた。
「は、入って、宜しいでしょうか?」
「どうぞどうぞ、入ってください」
返答は軽く、あまりにも拍子抜けしていた。
ニンジャトレーナーの背が震える。左右の拳が凍えるように堅くなり、足裏が根を張ったように動かない。
「師匠?」
「……しばらく失礼する」
暫し無反応だったニンジャトレーナーは、仮面の奥で呻くと門番がそうするようにスペードテンに道を譲った。そして、逃げるようにして病室を後にした。
数秒後、お邪魔しますと一声かけて、スペードテンが入室した。
静寂の中、足裏を引きずるように踏み出す。数歩、足元を確かめるように歩くと、ベッドの上で座るアオギリホウオウと目を合わせた。
ベッドの上、患者衣を着たウマ娘。その身体に施された医療処置を目にした時、スペードテンは身を震わせて言葉を失った。
「あ、えっと……」
沈黙。二人の間には透明で明確な壁があった。
不慮の事故と言えばそれまでだが、それだけで収まるほどスペードテンや世間の目は合理的ではない。
果たして、どちらがGⅠウマ娘として相応しい姿なのか。スペードテンは以前までの自分に、心底嫌気がさしていた。
アオギリホウオウの魚目は、ただじっとスペードテンの双眸を見ていた。綺麗に整えられたまつ毛と、宝石のように美しい瞳を眺めていた。
意を決して、ゆっくりと目を合わせる。その目を見た瞬間に、気づく。
アオギリホウオウの目は、どこまでも凪いでいた。
ただ、鏡の様な瞳に哀れなウマ娘が反射していた。
達観か、客観か、ともかくその目にはアオギリの主観がないように思われた。
重い唾を飲む。スペードテンは拳を握った。そして小さく息を吸い、勢いよく首を垂れた。
「アオギリホウオウさん、この度は本当に申し訳ありませんでした」
「はい」
対するアオギリホウオウの声は、平坦そのものだった。
どこか他人事な風で、ほんの少しでも相手を悪く思う気のない声色だった。
向けられるべき類の感情が、どこにあるのかが分からない音をしていた。
「あれだけ大口をたたいた挙句、私の斜行で貴女に怪我をさせてしまいました。本当に申し訳ありません」
再度、深く頭を下げた。
アオギリホウオウ視点、スペードテンの頭頂部が見えた。
アオギリホウオウは、、「きれいな黒鹿毛さんやな」と思った。
「ん、別にええですよ」
赦しの言葉だった。
しかし、その声にはまるで温度が欠けていた。
少なくとも、免罪を受けた側はそのように感じ取った。
「勝てへんかったんは残念やけど、別にスペードテンさんを恨んでる訳やないんで。走れやんくなったって決まった訳でもないですしね」
受け入れられた安堵感と、言い表せない敗北感がスペードテンの胸中に去来する。
その声色に嘘はない。悪意や敵意も感じられない。感情はあったが、その向け先が自分ではなかった。
思うところが無いはずもないのに。罵倒のひとつやふたつ、あって然るべき状況なのに。
アオギリホウオウは、スペードテンを見ていなかった。
そうして、アオギリホウオウは、自信満々に見える笑顔を作った。
「すぐ治すんで、それまで待っててください」
スペードテンは罰を受ける事もなく、ただ許されてしまった。
「申し訳、ありませんでした……」
かつて、スペードテンがアオギリホウオウに対して抱いた感情。
競走相手を見ず、敗者の言語に応答するだけの、勝者に相応しくないウマ娘。そう思っていた。
けれど、それは違っていた。
この段になって、スペードテンはアオギリホウオウというウマ娘の本質の一端を感得した。
それはインペラトリーチェの視点では分からなかった、アオギリホウオウというウマ娘の一側面。
自他を分ける、心の壁だ。
インペラトリーチェは、アオギリホウオウの瞳にある“勇気”を見た。
スペードテンは、アオギリホウオウの心にある“歪み”を見た。
「……私は、悪者にさえ成れないのか」
許されたウマ娘は、独りで病院を去っていった。
やがて、諸々の用事を済ませたニンジャトレーナーがやってきて、仮面をつけたまま訊いた。
「……それで良いのか」
「師匠?」
何の事か、アオギリホウオウには分からなかった。
だが、常よりも低く曇った声には、押し込められた感情があった。
「因果応報したいとは、思わんのか」
ニンジャトレーナーの拳が震えている。仮面越しではその表情を見る事はできない。
「私なら、ウマ娘程度一撃で……」
小さな呟きは、ウマ娘でしか聞こえなかっただろう声量だった。
アオギリホウオウは、トレーナーが何を言いたいのかが、これまたさっぱり分からなかった。
「……ダメだな、どうかしている」
仮面を取って、ため息ひとつ。
努めてメンタルをリセットしたターフスレイヤーは、咳払いの後にいつものトレーナーに戻っていた。
「私はこれで失礼するが、何かあったらすぐ連絡しろ」
そう言って、後ろ髪惹かれているのがバレバレな動きで、ニンジャトレーナーは退室していった。
そうして、しばらく。
アオギリホウオウは病室に置かれた大量の物品を眺めて呟いた。
「ウチ、どうやって過ごしてたんやっけ」
ともあれ、今は自分から何かしたい気分ではない。適当に持ってきてもらった映画でも流そうかと思い、パッケージの山に手を賭けた。
映画には詳しくないし、何でもいいやと思って適当に近くにあったパッケージを開けてみた。
すると、中には走り書きで「メイクデビュー」と書かれたディスクが入っていた。
「何やろこれ……」
気になって再生してみると、それはアオギリホウオウが何度も見た映像であった。
見間違えるはずもない、何度も見てきた、アオギリホウオウの原点であった。
「師匠の、現役の映像……」
画面の中では、現役時代のターフスレイヤーが他バを引きちぎって圧勝していた。
何度も見た映像だ。だからこそ分かる。これは現地の観客席から撮られた生の映像だ。撮影者は、云うまでもない。
モニターの奥では、絶対強者たるターフスレイヤーが自信満々な笑みを浮かべて手を振っていた。
煌めく尾花栗毛が、カタナの様な流星が、誰憚る事なく見開かれた左の魚目が、勝利の喝采を受けていた。
そう、これだ。
媚びず退かず省みず。何者も恐れず、唯我独尊とばかりに傲慢な笑みを浮かべて走る勇姿。
アオギリホウオウは、そんな笑顔にこそ憧れたのだ。
「ほんま、かっこええわぁ……」
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静かなバーにはジャズがよく似合う。カウンターの奥ではバーテンダーがゆったりとグラスを磨いていた。暖色の照明が照らす店内には、外の喧噪とは無関係な時間が流れているようだった。
開店直後という事もあって、客は一人しかいなかった。カウンターの隅に腰掛けてキャロットジュースを傾けているそのウマ娘だけが、この場にいる唯一の客であるらしかった。
カウンターの客は、軽妙洒脱なスーツを着たウマ娘であった。煌めく尾花栗毛がライトを反射する様は、まるでその周囲だけ輝いているかの様である。だが、そんな彼女が身に纏う雰囲気は、派手な色合いにそぐわぬ陰鬱としたものだった。あまつさえ一人でぶつぶつと何事か呟いているのだから陰鬱度増し増しである。
我々はこのウマ娘の事をよく知っている。今、バーで飲んだくれているウマ娘こそ、何を隠そう常勝七冠ウマ娘・ターフスレイヤーなのである。
するとそこに、にんじん色のカクテルグラスが滑ってきた。
「どうぞ、あちらのお客様から。キャロット・ヘブン・パラダイス・ユートピアです」
独り言を止め、胡乱気な瞳を向けた先に、見知った顔と流星があった。彼女は穏やかに口の端を歪め、紫紺の相貌を細めた。
威厳ある眼差し。勝者の曲星。永遠の皇帝。
トレセン学園生徒会長、シンボリルドルフがそこにいた。
「やあ、オフで会うのは久しぶりだね」
「ル……ドルフ、会長」
ほんの一瞬、呆気にとられたターフスレイヤーだったが、鼻息と共に視線を逸らした。
「会長自ら門限破りとは、他の生徒が見たらどう思うでしょうね」
「さあ、どうだろうな。ともかくその言葉遣いはやめてくれ」
言うなり、件の生徒会長は、
「隣、失礼するよ」
と一声かけてターフスレイヤーの隣席に座った。
ウマ娘とはいえ、人間視点では両者ともに絶世の美女である。そんな二人が隣り合っているものだから、見てくれだけならその場は華やかな印象である。
だが、そのうちの一人が発する陰キャ鬱屈近寄るなオーラが全てを台無しにしていた。
「当たりたくはない。分かるだろう」
呻くような呟きは、間違いなく本心だった。
本心だからこそ、シンボリルドルフはここにいる。皇帝と呼ばれるウマ娘は自身もグラスを傾けつつ、横目に無敗の蹂躙者を見た。
「だからと言って君の悪酔強酒な振る舞いを放っておけるほど、私も大人ではないという事さ」
「お節介。あとこれは酒じゃない」
「お節介で嫌われるのなら生徒会長のやりがいもあるというものだよ」
普段の生徒会長を知る者なら、今のルドルフの振る舞いに驚愕するだろう。理想の生徒会長を見ている者には、今のターフスレイヤーの振る舞いに憤慨するだろう。
そんな二人の間には、意外なことに奇妙な安定感があった。
「マスター、にんじんスティックを二つ」
居座るつもりらしい皇帝様を隣に、ターフスレイヤーはキャロットなんとかを飲み干してみせた。
しばし、会話ともつかぬ言葉の応酬が続く。
それは時に間が空く事もあったが、その空気を厭う仲ではなかった。
やがて、三杯目のニンジンカクテルを呑んだターフスレイヤーが、僅か呻いた。
「スペードテンに……」
言葉尻にためらい。詰まった言葉の先を急かす事もなく、シンボリルドルフは続きを待った。
「今日、私は……アオギリホウオウと競り合っていた相手を……同じ目に遭わせてやろうと、思ってしまった」
悔恨の意があった。懺悔でも、恩讐でもない。絞り出された言葉には、自分の意思そのものを悔やんでいる声音があった。
かつて蹂躙者と呼ばれたウマ娘の血赤の右眼は、じっとオレンジ色の水面を眺めていた。
全てのウマ娘に幸福を。そう本気で思う皇帝は、彼女の片魚目をじっと見つめた。
「あれは事故だった。それは分かっている。だが……そのせいで、アオギリホウオウ=サンは怪我をしたんだ。もし、咄嗟に身を庇っていなければ、命だって危うかった。死ぬかもしれなかった……」
レースに事故はつきものだ。
悲しい事に、古今東西その事実は変わらない。それでも、ウマ娘は走る事を止めない。
ウマ娘は走る為に生まれてきたからだ。
皇帝の慧眼は、眼前で俯くウマ娘の本心を正確に見抜いていた。
「それでも、アオギリホウオウは彼女を恨まなかった」
つまり、そこなのである。
許した被害者と、許された加害者と、許せないトレーナー。
そも、今回の事故に被害者も加害者もいるのか、とは連日メディアで話題になっている事だが、許せないでいるトレーナーにはそのように見えているらしい。
そこが、咀嚼しきれていないのだ。
「君だけが、彼女を許せない程に怒っている」
「ああ。浅ましいにも程がある、何様だ」
「だが、結果として君は今、誰も害していないだろう」
カラン、と氷が削れる音。
瞬きを数度した後、ターフスレイヤーは溜息を吐いた。
自身の現状に呆れるように、突き放すように云った。
「……メンタルの話だ。私はプロとして、ひとりのウマ娘として恥ずべき精神をしている。いくら御しても何ともならないんだ」
そうかな? と皇帝は問う。
そうだ、とトレーナーが云う。
「これは、私の心の問題だ。共感も求めていない。第一、お前にはさっぱり分からんだろう。無理をするな」
挑発めいた言葉だったが、互いにその意図がない事は分かっている。だからこその軽口。
そんな軽い言葉に、シンボリルドルフは瞼を下げて答えた。
「分かる、とは安易には云えないね。だが、私を含め真に清廉潔白な存在など、この世の何処にも居やしないさ」
「お前がか?」
「ああ」
ここで、皇帝は手にあるグラスを傾けた。
ほうと抜けた息には、数多の重責が含まれているように思えた。
「それがヒトでもウマ娘でも……]
コトリ、と。空になったグラスには、大粒の氷だけが残った。
「ましてニンジャでもな」
沈黙。
洒落たジャズの中に、場違いなワードが放たれた。
だが、二人はそんな荒唐無稽な響きを真剣に受け止めていた。
「そんな善いモンじゃない……」
呻くような呟きは、ピアノの旋律に隠された。
ターフスレイヤーは投げやりに次の注文をすると、運ばれるや否やそれを一気に飲み干してみせた。
今のターフスレイヤーには、どんな言葉も届かないのは明白だ。他者に期待しない者に、届く言葉など存在しない。
生徒会長としてなら、踏み込まない。
皇帝としてなら、上から言う。
だが、シンボリルドルフとしてなら、無遠慮に思った事を言ってやれる。
「君はもっと、信じてあげるべきだよ」
論理も倫理もかなぐり捨てた助言。否、ただ単に思った事がルドルフの唇から零れた。
脳より先に動いた口を、ルドルフ自身びっくりして俯瞰していた。
「君からすれば、ヒトもウマ娘も全て脆弱な生き物に見えるのだろうね。けれど、君が思っている程は弱くないと思うぞ」
自嘲げな笑みは、常の皇帝を知る者には見覚えのない色をしていた。
過去を、かつての自分を卑下しているかの様な笑みだった。
「アオギリホウオウ、強い子じゃないか」
「そう、見えるな……」
ターフスレイヤーは、グラスを置いて瞑目する。
思い出すのは、件の彼女と過ごしてきた記憶の数々。
一意専心に鍛錬し、一心不乱に走り、一生懸命に恐怖と向き合っていたウマ娘。それはアオギリホウオウというウマ娘の一部に過ぎないが、紛れもなく本質の一端ではあるのだ。
真に強い子とは、小さな勇気で恐怖と向き合える子の事だと、ターフスレイヤーは思う。
自分とは違い、アオギリホウオウは強い子なのだ。
ならば、トレーナーが逃げてどうするというのか。
「……そうだな」
もう一度、ターフスレイヤーは繰り返し、グラスに残った液体を一気に煽った。
そして、静かに立ち上がった。アクティブさが前に出て、やるべき事を決めた、実に“らしい”顔になっていた。
ターフスレイヤーはポケットから数枚の万札を取り出すと、カウンターに置いた。
「マスター。この世話焼きの皇帝様に、キャロットマティーニをステアせずにシェイクで」
かしこまりました、とバーテンダーが答える。それを尻目に、ターフスレイヤーは出口へと歩き出した。
「私が出すつもりだったが」
「奢らせろよ」
振り向かずに言った後、彼女は最後に一言だけ付け加えた。
「またな」
「ああ」
その一言には、さっきまでとは違い明確な親しさが含まれていた。
それに、気づかぬルドルフでもなかった。
外に出て、深呼吸ひとつ。
ターフスレイヤーは、ほんの少しの勇気を出して一歩踏み出した。
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