【完結】ニンジャと白面   作:いらえ丸

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 感想、評価、ならびに誤字報告、ありがとうございます。


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 皐月賞から、約二週間の時が経った。

 

 退院後、アオギリホウオウは病院から直でトレセン学園へと戻ってきていた。

 教室を前に、アオギリは小さく深呼吸した。久しぶりの登校は緊張する。変な注目を受けたくはない。大した事はないはずなのに、ある程度の覚悟を必要としていた。

 

「ふぅ……よし」

 

 アオギリホウオウは腹を決めて教室のドアを開いた。同時、クラスメイトの視線が一気に突き刺さる。

 さっきまで騒いでいたウマ娘たちは一斉にその会話を止めて、白面魚目のウマ娘の動向を注視していた。

 

 これが嫌やったんや。アオギリホウオウは我知らず目尻を下げた。

 

「アオちゃん!」

「のわ!」

 

 その時だ。教室の隅から見知ったウマ娘が飛び出し。注目の的目掛けて走り寄ってきたのだ。

 

「アオちゃん骨大丈夫!? 砕けてない!? ニンジン食べる? 実家から届いたんだけどキャベツもあるよ! あっ、ノート! ノート貸そうか!? あっ、ダメだあたしアオちゃんより成績低かったー!」

「あー、骨は大丈夫。けっこうキレイに折れとったらしいんで。あとニンジンはもらっとくわ」

 

 飛びついてきたのは、同じ寮でルームメイトのカブだった。教室でウマ娘的スタートダッシュを決めるなど、大人しい気質のカブにしては珍しく、けっこうアグレッシブな行いであった。

 

 カブの言う通り、今のアオギリホウオウは如何にもな怪我人スタイルだった。骨折した右腕にはギプスが巻かれていて、見た目はかなり痛々しい。

 ちょっと心配させてしまうビジュアルだが、二週間もすれば慣れてしまうものである。右足の捻挫は既に完治しているので、歩くだけなら問題はないのだ。

 という旨の話をしてやると、カブの不安ゲージは申し訳程度に減少した様である。

 

「あの、アオギリホウオウさん……」

「ん?」

 

 そこにもう一人、見慣れぬウマ娘が近付いてきた。魚目が細まり、無意識に声の主を睨んで身構えてしまった。

 声の主は青鹿毛のウマ娘だった。クラスメイトなので見覚えはあるが、話した事はない、アオギリの交友関係などそんなものである。カブを経由しない友人など、チームメイトかインペラトリーチェくらいであった。

 

 そんな彼女は今のカブによく似た表情を浮かべていた。

 どうやら、友達でもない自分を心配してくれているらしい。なんだかんだ、ここの生徒は良い子ばかりだ。アオギリホウオウはちょっと緩い気分になった。

 やっぱ文明的よな、と故郷に対しかなり辛辣な事を思ったりもした。

 

「ふ、復帰はいつ頃になりそう……ですか?」

「んー、多分秋ごろちゃうかなー思います。お医者さんもそう言うとったんで」

 

 質問に答えると青鹿毛の耳がふにゃんと垂れた。

 なんで耳垂れるねんと首を傾げるアオギリホウオウ。するとアオギリのくっ付き虫になっていたカブが耳打ちしてきた。

 

「ファンなの」

「はあ、誰の?」

「アオちゃんの」

「はあ」

 

 気の抜けた声が出た。視線を向けると、青鹿毛の彼女は両手の指をもじもじやっていた。

 聞くに。路線こそ違えど彼女もまたアオギリホウオウと同期のウマ娘らしいのだが、ティアラ路線には“トライアンフ”という名のこれまた化け物みたいなウマ娘がいて、どうにもこうにも全く目立てていないのだという。おまけにアオギリと同じく寒門の出であるらしい。

 そういうのもあって、応援してくれているのだと。

 

 ああなるほど、そういうことね。そこまで聞いて、アオギリホウオウは理解した。理解はしたが納得できない。何故ならアオギリホウオウは自己評価が低く、自分にファンがいる事にいまいち自覚がないからだ。

 そんなアオギリホウオウだからこそ、こう真正面からキラキラした目を向けられると、なんというか困る。

 

「あ、あの! 復帰、応援してますね! アオギリホウオウさん……!」

「あ、はい。どうも」

 

 こういう時はなんて言えばいいんだろう。頭の中であれこれ言葉を探っていると、聞き慣れたチャイムが鳴り響いた。

 それからしばらくして、担任教師が現れホームルームが始まった。

 

 不安だった久々の登校もいざ終わってみればこんなものだ。

 なにも身構える事はなかったのである。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 トレセン学園敷地内、トレーニングコースにて。

 

 強豪チームであるアルデバランの練習風景は戦績相応に過酷である。

 今日も今日とてオグリとライスとブルボンは芝を踏みしめ追い練習をしていた。

 追い練習とは、列になって走るウマ娘が後方から順に追い越していくトレーニング法の事だ。トレーニングとはいえ、走る三人の気迫は本番レースさながら。練習は本番の様に、本番は練習の様にと言うが、まさにその通りのトレーニング風景であった。

 

 そんな光景を遠目に、アオギリホウオウはコースの外周を歩いていた。

 ただ歩いているだけではなく、ゆっくりゆっくり地面と脚の感触に集中する様に、しっかり芝を踏みしめてである。

 これは集中力の向上を図る動的瞑想の一種であり、激しい運動ができないリハビリの一環でもあった。そんな彼女を、トレーナーは集中を邪魔しないように忍者めいて見守っていた。

 アオギリホウオウは一呼吸一呼吸の歩行を我武者羅になって歩いた。しかし、その懸命さはまるでリハビリの苦痛と疎外感から逃げるかの様であった。

 

 休憩が命じられた途端、集中が途切れる。しばらくして、アオギリホウオウは椅子に座って遠くコースを爆走する三人を見るでもなく眺めた。

 葦毛と栗毛と黒鹿毛が列を成し、鬼気迫る気合で各々を追い越し、追い越されてを繰り返している。仮にあの中に重賞ウマ娘が混じったとして、何週耐えられるのだろうか。

 

「すごいなぁ、みんな」

 

 自然と出た言葉は、どこか恍惚としたため息と共に漏れ出ていた。

 

「凄いだろうとも」

 

 そんなアオギリホウオウの隣には、いつの間にか白衣のウマ娘アグネスタキオンが立っていた。タキオンは手元の端末機器を眺めつつ、アオギリホウオウへ同意した。

 

「皆、挫折を乗り越えてきたからねェ。メンタルが並みじゃあないのさ」

「先輩方が挫折を?」

「当然だろう?」

 

 何を当たり前のことを、と言いたげに肩をすくめる。

 そして、何気なく計測数値を眺めながら続けた。

 

「挫折も葛藤も、まして意志も無く勝ち続けられるウマ娘など、そうはいないのさ」

 

 アオギリホウオウは、遠くで練習を見守るニンジャトレーナーを見た。あのウマ娘もそうなのかな、と思った。

 アオギリホウオウは競走者ターフスレイヤーのレースは知っていても、私人としての彼女をあまりよく知らない。

 それが、どうにも寂しい気持ちにさせるのである。

 そして、チームメイトの事もまた、きちんと理解できているとは思えない。距離感がどうのと思わないでもないが、好きな先輩の事を知りたいと思うのは自然な事ではないだろうか。

 

 意を決し、アオギリホウオウは隣のウマ娘を見て、以前から気になっていた事を訊いてみた。

 

「タキオン先輩は、なんでアルデバランに入ったんですか?」

「興味深いから」

 

 即答。と言うよりは、当たり前のことを聞かれたかの様な返答。

 その主語は容易に察する事はできるが、それこそよく分からない。

 

「師匠が、ですか?」

「そうだね。まぁこの画像を見ておくれよ」

 

 言うなり、アグネスタキオンは懐から別の端末を取り出し、数度タップしてその画面をアオギリホウオウに向けた。

 

 画面には、綺麗な尾花栗毛の両魚目ウマ娘が映っていた。少女は鬼気迫る表情で芝の上で準備運動していた。憧れのウマ娘によく似た……というか、クリソツだった。姉妹かな?

 

「これがメイクデビュー前のモルモット=サン」

「え……?」

 

 呆気にとられるアオギリホウオウを無視して、タキオンは再度画面を操作した。

 

「で、これがデビュー後のモルモット=サン」

 

 続いて映された画像には、アオギリホウオウのよく知る憧れのウマ娘の姿があった。

 金の髪に、刃型の流星。左右で違う色の瞳に、傲岸不遜な笑みを浮かべる口元と、控えめな艶黒子。

 間違いなく、現役時代のターフスレイヤーだ。

 

「あれ?」

 

 そこで、アオギリホウオウは気が付いた。

 一枚目の画像と、二枚目の画像は同一人物の写真だという。しかし、そこには現実離れした情報が映っている事に。

 

「気づいたかい?」

 

 もう一度、一枚目のウマ娘の画像を見る。

 アハ体験だ。目立つ尾花栗毛と流星はそのままに、特徴的な双眸に違和感がある。

 

「右眼の色が違う!」

「イエス。彼女はデビューの前後で虹彩の色が変化しているんだ」

 

 それだけじゃあない、と続ける。

 

「距離適性、バ場適性、脚質適性。骨密度に筋繊維。味の好みから言葉遣いまで、以後と以前で何もかもが変わっているんだよ、あのウマ娘は」

「し、師匠に一体なにが……?」

「さぁ?」

 

 肩をすくめ、タキオンは続けた。全くもって分からない、とばかりにことさら大げさに。

 が、一転、アグネスタキオンは神妙な表情になった。それは未知を暴こうとする探求者の瞳だった。

 

「……メイクデビュー以前、ターフスレイヤーは模擬レースの最中に負傷し昏倒、病院に運ばれた。そして意識が戻ると、文字通り目の色が変わって、怪我まで治っていた」

 

 タキオンの声は淡々としていた。手元の計測機器を見つめ、呼気を共に再度事実を云った。

 

「そして脚が速くなった」

 

 なんだそれは。フィクションめいている。アオギリはからかわれているのではと思った。

 

「そんな事って……」

「あり得ないさ」

 

 アグネスタキオンは探偵がそうするように断言した。

 

「事故か何かで虹彩の色が変化したという事例はあるけれどね。怪我をして脚が速くなるなんてのはどうかしているよ」

 

 サイヤ人でもないんだし、と言いつつ、アオギリホウオウの方へ顔を向けた。

 

「けれど、興味深いよねェ……?」

 

 三日月に裂けた目と唇。アグネスタキオンは自身の知的好奇心をそのまま表に出した。

 

「オカルトと言うかもしれないがね? 私に言わせれば、ウマ娘という存在そのものがオカルトじみているよ。ヒトガタの二足歩行動物が、どうして鹿や狼ほどの走力を発揮できるんだい? おかしな話じゃあないか」

 

 陶然とした彼女の声色は聊か以上に浮ついていた。見れば、アグネスタキオンの瞳は常とは異なる爛々とした妖しい輝きを放っている様に思えた。

 

「ウマ娘の神秘さ。そしてターフスレイヤー、彼女はそんな神秘の極北なんだよ。私はね? 境界線の向こう側、速さのその先を見たいのさ。私は彼女に、その片鱗を垣間見たんだ」

 

 狂信者とは違う。研究者と言うとしっくりくるが、今のアグネスタキオンはそのどちらの先にも居るように思えた。

 リアリストで、エゴイストで、ロマンチスト。アグネスタキオンというウマ娘の事を、アオギリホウオウは少しだけ分かった気がした。

 

「研究したいという事ですか?」

「事実ではあるが、そう冷たい言い方をしないでおくれよ。魅せられた、と言ってほしいねェ。キミの様に」

 

 言って、アグネスタキオンはくつくつと笑った。

 アオギリホウオウは何も言えないまま、ただ、彼女の語る神秘性について考えていた。

 

 ウマ娘の脚が速いのは、ウマ娘だからではないのか。そこを不思議に思った事など、これまで一度として無かった。

 だが、いざ言葉にされてみると、確かに犬や虎など走りに向いていそうな骨格の動物より、実際問題ウマ娘という二足歩行動物の方が長く速く走れるのである。車並みのスピードを維持して3000m走れる生き物など、ウマ娘くらいしかいないのだ。

 何故だか分からない事を神秘というなら、ターフスレイヤーというウマ娘は確かに神秘の結晶なのだろう。

 しかし、どうにも……。

 

「違和感あるよなぁ……」

 

 アオギリホウオウは何となくそう感じるのであった。

 

 ふと、アオギリホウオウが視線を上げると、練習中のウマ娘達の監督の最中に、時たまニンジャトレーナーがこちらを見ている事に気がついた。

 仮面越しに目が合った瞬間、トレーナーはまた練習を見守る態勢に入った。

 

「過保護になってるんだ。まあ、鬱陶しいかもしれないが、勘弁してやってくれ。あれで自制してるつもりなのさ」

 

 呆れるような声には、遠慮のない気安さがあった。

 さっきまでの熱は冷めた様で、タキオンはいつもの白衣ウマ娘になっていた。

 

「ま、理由はそんなところかな。それで、頼みこんで入れてもらってそれなりに走って、勝ったり負けたりして現在に至ると、そんなところさ」

 

 超光速の皇女・アグネスタキオン。

 現代レースの象徴にして、高速バ場の申し子。

 シニア期には年間4つのGⅠを制してのけた中距離最強のウマ娘。

 ちょっと何を考えてるか分からないところはあるけれど、それでも自分の信念に真っすぐで、かっこいい。

 間違いなく、尊敬できる先輩だ。

 

「ふぅン、喋っていたら私も久々に走りたい気分になってきたな」

 

 言うなり、アグネスタキオンはアオギリホウオウに端末を手渡すと、白衣を脱いで運動着姿になった。

 

「画面のどこかが赤くなったら大声で教えておくれ。それだけでいいからさ」

 

 そうして、アグネスタキオンはたった独りで芝コースを疾走し始めた。

 

 青々としたターフに、鹿毛の優駿が駆ける。一線を退いているとは思えぬ、完璧な走りであった。その疾走は、目が眩んでしまうほど美しかった。

 

 なんだか、ちょっと元気をもらった気がするアオギリホウオウだった。

 少なくとも、今日一日は安心して過ごせそうである。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「インペラトリーチェ先頭! インペラトリーチェ先頭! 残り400! 未知の領域!

 ミニコスモス届くか! トモエナゲも迫ってくるぞ! 後続は追いつけるか!

 先頭は! インペラトリーチェ! 粘る! 粘る! いや、伸びていく!

 1バ身! 2バ身! これは勝った! 今、ゴォォォールイン!

 インペラトリーチェ! 見事な逃げ切り! 凄まじい! 気高い女帝の走りは、傷ついてなお美しい!

 東京レース場の長い長い直線を見事逃げ切ってみせました!

 1着はインペラトリーチェ! 2着はミニコスモス! 3着はトモエナゲです!

 インペラトリーチェ、日本ダービー逃げきってみせました!」

 

 

 

 時は過ぎ、5月。

 日本ダービー当日。東京レース場の芝は、雨に打たれていた。

 負傷により出走見送りとなったアオギリホウオウを含むチーム・アルデバランの面々は、現地でその激戦を観覧していた。

 

 日本ダービー。ウマ娘たちの夢の大舞台。

 このレースには、ホープフルでアオギリと鎬を削ったインペラトリーチェが出走していた。

 怪我を治した彼女は青葉賞を復帰戦とし、これを見事勝利。宣言通り日本ダービーへ駒を進める事となったのである。

 世代四強がまた、競り合う。インペラトリーチェとスペードテンの一騎打ちになると、多くのファンは考えた。

 しかし、実際はその想定から大きく外れる展開となった。

 

 前走では失格処分にこそなれど、世代四強のウマ娘・スペードテンは、その健脚を活かす事なく凡走。常の冴えたコース取りを見失ったような走りで惨敗してしまったのである。

 ゴール後、勝利はおろか掲示板入りさえ叶わなかったスペードテンは、俯いて息を荒げていた。その表情は隠れて見えなかったが、その感情の程は明らかだった。

 

「1着のインペラトリーチェは終始見事な走りだったねェ。最後、明らかに実力以上の能力を発揮していたよ」

「スペードテンは14着か。途中まで上手く走れていたが、4コーナーあたりから集中できていなかった。本気になれてなかったな」

「はい。加えて視野狭窄に陥っていたように感知しました。最終直線、視線が一定ではありませんでした」

「他の娘も凄かったね、2着のミニコスモスさんとか。けど、今日のインペラトリーチェさんは本当に強かったね」

 

 結果、勝利したのはインペラトリーチェだった。つい最近まで怪我療養をしていたとは思えぬ、己の全てを出し切るような走りで以て、見事ダービーウマ娘の称号を手にしたのである。

 雨の濡れた女帝には、割れんばかりの拍手が捧げられた。

 

 レース後、インペラトリーチェは負傷する事なくウイニングライブを完遂し、完璧なパフォーマンスを披露してみせた。競走も、歌唱も、全てがパーフェクトであった。

 また、勝利者インタビューにおいて、彼女はこのようなコメントを残した。

 

「わたくしはやり遂げましたわ! 皐月賞を走れなかった分、次の菊花賞が楽しみでなりません! お先に待っていましてよ!」

 

 その意図するところは明白であった。

 インペラトリーチェは、画面越しに今日走れなかった好敵手を応援していた。

 

「菊花賞……」

 

 しかし、アオギリの心はいつも、真っ先に負の面を見る。

 新たなダービーウマ娘の言葉は届かない。好敵手の栄光が眩し過ぎる。だから、無意識に目を背ける。

 太陽の届かぬ陰の奥。スペードテンの敗北に、意識を囚われていた。

 

「ウチのせいなんかな……」

 

 

 

 寮に戻ると、アオギリホウオウは夕食もそこそこに寝床についた。

 

 普段なら同室のカブのお喋りに付き合ったり、ストレッチをしたりするのだが、今日ばかりはそういう気分にはなれなかった。

 隠れるように布団を被り、先程のレースの事を考えていた。

 

(((スペードテンさんは、ウチが目の前で怪我したせいで調子崩したんやろか……)))

 

 そのように考えると、胸の奥底が冷える感覚がした。

 ホープフルでは、自分と競り合ったインペラトリーチェが怪我をした。皐月賞では、自分が怪我をして、スペードテンの調子を崩してしまった。

 それらは、彼女らが自分と走ったから起きた惨事ではないのか?

 

 白面だからとか、魚目だからとかではなく、事実として彼女等は自分と走って不幸に見舞われている。

 インペラトリーチェはそれを鼻で笑っていたが、スペードテンはどうだろう。恨んでいるかもしれない。殴ってくるかもしれない。彼女の心は、大丈夫だろうか。

 

 そして、自分にもクラシック三冠という目標があり、それはもう絶対に適わぬ夢になった。

 クラシック二戦目、ダービー当日まで、どうにも実感がなかったが、今になってそれは現実になったような気がした。

 不思議な事に、入院中はマイナス思考に陥る事はなかった。リハビリ中もまた、怪我を治す事に集中していた心は意外な程に安定していた。

 けれど、ダービーでの好敵手の勇姿を見て、ダービーという大舞台の終了を実感して、見ないふりをしていたマイナス面が急に目の前に現れたような気がしてきた。

 

 インペラトリーチェは、眩しかった。まるでアルデバランの先輩たちの様に。

 スペードテンは、本来もっと輝いていたはずだ。それを、自分が日陰に押しやってしまった。

 

 アオギリホウオウというウマ娘は、何も成せない。

 他者を不幸にし、自身を卑下し、そうして沢山の人に迷惑をかける。そういう風に、アオギリの心は感じ取っていた。

 ぐるぐるとした反芻思考が、アオギリホウオウの脚と心を縛り付けていた。

 

 いつまでそうしていたかは分からない。気絶するように眠っていたアオギリは、不意のタイミングで覚醒した。すると辺りが真っ暗になっていたので、一瞬閉じ込められたのかと思って怖くなった。心臓が跳ねて息が荒い。何か、焦っている感じがした。

 布団の中が息苦しい。暖かなはずのベッドが冷たくて仕方がない。アオギリホウオウは布団を抜け出し、寮のトイレへ向かった。

 

 個室に入ると、寒くもないのに凍える心持ちになった。アオギリにとって、個室トイレは心の落ち着く場所だった。少なくとも、かつてのアオギリにとっては。

 そして、ポケットに入れっぱなしだったスマホを縋るように握りしめた。

 何でもいいから安心できる情報が欲しかった。アオギリホウオウは逃げるように画面を操作した。

 意味もなくウマスタを見たり、理由もなくウマッターを眺めたりした。だが、一向に気がまぎれる事はなかった。むしろ自分の焦燥感は増していくようにさえ思えた。

 バッテリーの充電が無くなってくると、自分の命も削れていくような気がして不安になった。

 

 やがて、何度もスワイプ操作していた指が震えてくると、無意識に電話帳を開いていた。

 電話帳には、自分ではない自分を好きと言ってくれる名前が書いてあった。

 誰でも、何でもいいから声が聞きたかった。けれど、こんな夜に通話をするなど、嫌われてしまうかもしれない。アオギリホウオウには、嫌われる勇気はなかった。

 

 結局、冷静さを失ったアオギリはタブを閉じようとして、誤って発信ボタンを押してしまった。

 慌てて消そうとしたが、今度は心の脆い部分がそれを押しとどめた。破滅願望に近いそれが、いっそ嫌われてしまえと囁くようだった。

 やけに響く呼び出し音が鳴る中、やがてそれは繋がってしまった。

 

「もしもしアオちゃん? どうしたのこんな遅くに?」

「あっ! いえ、はい。あの……夜分遅くにすんません」

 

 通話相手は、アオギリホウオウの母親だった。

 夜の寮というのもあって、小声で話すアオギリホウオウだったが、対する母は深夜とは思えぬウマ娘らしい肺活量で話した。

 

「良かったわぁ! 貴女ぜんぜん連絡よこさないんだもの! 怪我したって聞いて心配したんだからね! お見舞い行けなくてごめんね! 贈ったリンゴ食べた? ていうかメッセージは送れて貴女なんで電話しないの!? 寮ってそんなに厳しかったっけ? お父さんったらこの前心配し過ぎて潰れるまで飲んじゃったのよ? 次の日なんて二日酔いで大変でね!」

「あ、それは、えらいすんません」

 

 がやがや喋る母の声を聞いていると、次第に気分が落ち着いてくるのを感じた。

 何か優しい事を言われた訳でもない。何か嬉しい事があった訳でもない。

 ただ、好きな人の声はアオギリホウオウに確かな活力を与えてくれていたのだ。家族の声は、安心できるのだ。

 聞いていると、弱くなってしまいそうな程。

 

「あ、あの……」

 

 あれこれと大声でまくしたてる母の話は、結局お隣さんの猫がどうたらという所まで発展していた。そこまで来て、えずくような声でアオギリは遮った。

 

「あらお母さん喋り過ぎちゃって、ごめんなさいね! で、何かしら?」

 

 一転、母の声色が変わった。

 言葉の先を促すのではなく、ただ我が子を見守る態勢になっていた。

 

「う、ウチ……」

 

 言葉が詰まる。言いたい事と、吐き出したい感情があって、しかし何と言えばいいのか分からなくなった。

 スペードテンの事。インペラトリーチェの事。怪我をしていたライバルが、ダービーウマ娘になった事。

 皐月賞で負けた事。ダービーに出られなかった事。もう菊花賞しか残っていない事。

 それでも何とか言葉を紡ごうとするアオギリホウオウだが、なかなか言葉にならなかった。

 

 母はじっと娘の言葉を待っていた。

 そして、アオギリホウオウはぽつぽつと話し始めた。

 

「ウチ、皐月賞で負けてもうて……。スペードテンさんにも迷惑かけてもうて……」

 

 最終直線。斜行によって衝突しそうになり、大げさに避けて怪我をしてしまった。

 一人の病室。動かない右腕。心配げな、トレーナーの目。

 

「ダービーも、怪我で出れやんくなって……。インペラトリーチェさんと約束してたんですけど、それも出来んくて……」

 

 脚は動くのに、出られなかった日本ダービー。はがゆさと、申し訳ない気持ちと、スペードテンやインペラトリーチェへの罪悪感。

 

「オカンの夢やった三冠も、もうどうしようもなくなってもうて……」

 

 かつて夢だったと語る母の表情を思い出す。代わりに叶えると息巻いて、この様だ。

 トレセン学園に通わせてもらっておいて、伝説的チームに入れてもらっておいて、善良な先輩やトレーナーに支えられておいて……。

 

「ほんま、情けのうて……何をどうすればええんか、よく分からんくなって……」

 

 泣いてしまうと、さらに情けない気持ちになりそうで、こらえた涙は小さな嗚咽となっていた。

 

「貴女……」

 

 呟くような母の声に、アオギリホウオウはハッとなって努めて感情を抑え込んだ。息を潜め、不自由な喉の震えが聞えないようにした。こんな事、言っても仕方がない。かえって困らせてしまうだけだ。アオギリはこれ以上母に迷惑をかけたくはなかった。

 対して、母は暫し黙り込むと、感嘆したように云った。

 

「すごいわ……貴女、悔しい気持ちになったのね」

「え……?」

 

 意外な一言だった。想像だにしなかった言葉の意味を理解する前に、母は優しい声で続けた。

 

「じゃなきゃ、あのアオちゃんがインペラトリーチェさんやスペードテンさんの事は言わないでしょ。少なくとも入学前のアオちゃんはさ。これでもお母さんさせてもらってる訳だし、それくらいは分かるつもりなのよ」

 

 アオギリはスマホを握りしめたまま、母の声を聴いていた。

 自分の感情をちゃんと理解できている者は、存外少ないものである。アオギリは母の言う言葉を聞くと、腑に落ちる気持ちになっていた。

 負傷してなお、蘇る女帝に。ギリギリを競って、惜しくも競走中止になったレースに。アオギリホウオウは悔しさを感じていたのかもしれない。その方が、しっくりくる。

 

「がんばってきたからね、ずっと」

 

 そして、だからこそトレーニングを頑張ってこれたのかもしれない。頑張ってきたからこそ、それを発揮できない事に思うところがあるのかもしれない。

 思い切り、“憧れ”を追いかけたい気持ちがあって、それをできない現実があって、だからこそ息苦しい。

 ウマ娘は、走る為に生まれて来たのだから。

 

「そう、なんでしょうか……? ウチ、悔やんで……いや、悔しい……んでしょうか」

「ええ、多分ね。お母さんならそう思っちゃうかな」

 

 アオギリホウオウは、情緒が未成熟なウマ娘だ。

 かつて、感情を出していい相手が家族しかいなかったから。他者に共感して学ぶという事を、できていなかった。

 だから、自分の感情に鈍感で、自分の主観という物差しが曖昧なのである。

 

 悔しいという気持ちが、あったのかもしれない。

 腑に落ちた。しっくりきた。けれど、アオギリホウオウには上手く理解できない。心底納得するには、アオギリの心は未成熟に過ぎた。

 だから、いつか分かるように、記憶のどこかにしまっておく事にした。

 

「だったら、うん。任せられるわ」

 

 母はそう言って、電話の向こう側で微笑んでいるようだった。

母の言っている意味がわからず、アオギリホウオウはその意味を咀嚼できなかった。

 

「こないだね。アルデバランのトレーナーさんが家にいらっしゃって。色々とお話したのよ、アオちゃんの事とか」

「師匠が?」

 

 ここにきて、予想外な名前が出てきた。そんな事、トレーナーからは聞いていない。いつか会って話すとは言っていたが、それが今だとは思っていなかった。

 母はまたハイテンションになって、すごく嬉しそうに続けた。

 

「やー、びっくりしたわよもぉ! ターフスレイヤーさんったら夜にいらしたものだから! お父さんってば仕事帰りでひっくり返っちゃって! 恥ずかしくってもう! あっ、そいえばサイン書いてもらったのよ! 写真送っておくわね!」

 

 電話越しに、母は右手をパタパタやって喜んでいる様だった。母の言う状況がどうにも分かりやすくて、アオギリは無意識に少し笑顔になっていた。

 

「で、まぁそう色々お話して。それでね、アオちゃん信じたってくれーって、もう少し自分に任せてくれーって頭下げられるもんだから、私もう腰抜かしそうになっちゃって! お父さんなんて……あっ、ヤダこの話、しちゃダメな奴だったかしら!? ごめんねアオちゃん!」

「あ、いえ……」

 

 もしかしたら、口止めされていたのかもしれないが、今さらだ。

 ただでさえ弱いアオギリへの配慮が感じられたから、内緒にされていた事に悪い気はしなかった。

 ニンジャトレーナー……否、ターフスレイヤーというウマ娘の不器用さを、アオギリホウオウは既に何となしには把握していたのである。

 

「ん、まぁ……ね。走ってきなさいな、菊花賞」

 

 母は穏やかな声でそう言った。

 勝ってこい! とか、頑張って! とか、ではない。

 ちょっと遠くに遊びに行くんでしょくらいの口ぶりで、母は我が子を送り出していた。

 そっちに行った方が、多分幸せになるから。母は母の物差しで娘に伝えたのである。

 

 それに、と。返す言葉に迷うアオギリに、母は優しい声色で云った。

 

「アルデバランにいるの、好きなんでしょ? なら、それでいいじゃない。オグリさんがいて、ライスさんがいて、ブルボンさんがいて、タキオンさんがいて、それからターフスレイヤーさんが貴女を見ていてくれるわ。難しい事考えず、安心して走ってきなさいな。きっと楽しいわ」

「はい」

 

 考えるより先に、口が動いていた。

 心より先に、魂が先行して気持ちを溢れさせていた。

 

 アルデバランは好きだ。親身になってくれるトレーナーと、優しくしてくれる先輩がいて、真っすぐ自分の目を見てくれる、

 アルデバランは、自分が感情を出してもいい居場所なのだ。

 逡巡する余地はなかった。

 

「はい……菊花賞、走ってきます」

 

 けれど、と思う。

 やはり、と思う。

 自分だけでは走れない。一時の気合だけでは、大きな勇気は湧いてこない。

 今、母がいてくれて、背中を押してくれるから、自分は一歩踏み出す事ができるのだ。

 

 だからこそ、アオギリは思う。

 母の為、チームの為、トレーナーの為。

 菊花賞は、絶対に負けられない。

 

 

 

 翌朝、アオギリホウオウは獣めいた笑みでトレーナーに挨拶した。アイサツは大事だ。

 

「師匠、今日もよろしくお願いします!」

 

 対し、トレーナーの表情はあまりにも分かりやすくビックリしていた。

 目を真ん丸にしていたトレーナーは、やがてとても嬉しそうな顔――ちょっと気まずそうでもあった――になって、優しくこう言った、

 

「ああ、任せておけ」

 

 応じつつ、ターフスレイヤーは用意していた資料を握りつぶすのであった。

 

 アオギリホウオウ、復活の夏が始まる。




名前……スペードテン
誕生日……5月2日
身長……161cm
体重……増減なし
スリーサイズ……B86 W57 H87
髪色……黒鹿毛
白斑……なし
目の色……藍色
憧れのウマ娘……アグネスタキオン
モデル馬……エピファネイア



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