1話でまとめたかったのですが、例によって文章が膨れあがったので分割します。例の如く色々迷いましたが、さっさと次話にいきたかったので投稿します。
主人公が落ちるのはここまでです、ごあんしんください。
あ、タグ増やしました。
「有望な新ウマ娘が入ってくれたぞ!」
アルデバラン・ドージョーの戸を開け放ち、開口一番ターフスレイヤーは意気揚々と言い放った。
その後ろに続いて入ってきたのは、小柄なウマ娘だった。
彼女は新雪のような白毛の持ち主だった。柔らかく垂れた目尻と弛緩した口元。小さな背丈も相まってどこか掴みどころのないミステリアスな印象を受ける。一見して強そうには見えない。しかし、彼女の纏う雰囲気はアルデバラン・メンバー各々に勝るとも劣らぬ強者のソレであった。
白毛のウマ娘はぺこりとオジギをして、云った。
「ドーモ、トライアンフです。今度ともよろしく」
なんと、アルデバランの新メンバーはトライアンフだったのだ。
あんぐり開口して驚くアオギリホウオウだったが、他のチームメンバーは新参者を好意的に歓迎していた。
「ふぅン? 素晴らしい素質だねェ」
アグネスタキオンは興味深げに彼女の脚を眺め見た。
「無敗でGⅠを4勝か。凄まじいな」
オグリキャップは彼女の戦績を評価していた。
「わぁ、すっごく綺麗な髪!」
ライスシャワーは彼女の美しい容姿を褒めた。
「ダンスも歌唱も非常に洗練されているようで、尊敬します」
ミホノブルボンは彼女のレース以外の美点を賞賛した。
「あ、あの……そろそろトレーニングを」
何だかいたたまれなくなった雰囲気を察し、アオギリホウオウはトレーナーにおずおず話しかけた。
「ああ、残念なお知らせがあるんだが……」
言いつつ、ニンジャトレーナーはお面と頭巾を外し、その整った面貌をアオギリホウオウに向けた。
そして、事も無げに言った。
「定員オーバーだ。アオギリホウオウ=サンにはチームを抜けてもらう事になった」
「え……」
呆然となるアオギリホウオウには構わず、常勝無敗のウマ娘は続けた。
「まあ、我がアルデバランはスターの集まりだからな。勝てなくなったウマ娘は必要ないという事だ」
それは、アオギリホウオウ自身うすうす感じていた事である。
いくらGⅠレースは出走自体困難なものとはいえ、それが常であり何度も勝利しているウマ娘が複数人いるチームでは、自分という凡才は分不相応に思える。
だが、何よりショックだったのは、そこではない。
「あの、ターフスレイヤーさん……?」
震えそうになる声で、曲がった背筋で、アオギリホウオウはターフスレイヤーの表情を伺った。
ターフスレイヤーの眼は、どこまでも冷え切っていた。
「そもそも白面のウマ娘自体、中央トレセンに相応しくないのだ」
息が詰まった。心臓が跳ねて、我知らず魚目が泳いで焦点が合わない。
吐き気がして、胸が重い。それでも、アオギリホウオウは自分ではないウマ娘を信じて必死に顔色を窺った。
「才能も」
目が合う。
「容姿も」
氷の瞳が。
「性根も」
忌み子の自分を見下ろしている。
「そんなお前を、誰が好きになってくれる?」
「ひっ……!?」
一瞬、呼吸が止まる。
全身の力が抜けて、アオギリホウオウはその場にへたり込んだ。
上手く息ができない。音が遠い。視界が揺れて、何処にも焦点が合わない。
慣れ切った絶望が再び心を凍らせた。
「ま、そういう訳だ。荷物を持って田舎に帰れ」
声の方を見ると、アルデバランの面々は景色ごと遠ざかっていった。
「ではな、アオギリ」
「お元気で、アオギリちゃん」
「じゃあね、ホウオウ」
「それでは、アオギリホウオウ=サン」
去っていくメンバーたち。脱力したアオギリホウオウは手を伸ばそうとして、力なく下ろした。
「ん? まだいたのか」
傍らに声。ターフスレイヤーだ。
彼女は現役時代の勝負服姿で、小さい頃の姿になったアオギリホウオウを見下ろしていた。
そうして、一番憧れた笑顔でこう云った。
「邪魔だ。早く失せろ」
ーーーーーーーーーー
「はっ!?」
アオギリホウオウは布団を蹴飛ばして目を覚ました。息が荒い、冷や汗が気持ち悪い。周囲を観察すると、そこは見慣れた寮室だった。
どうやら、今見ていたのは夢だったようだ。安心感と、罪悪感と、自己嫌悪が胸に満ちる。
「んー、どしたのアオちゃん」
音に反応し、相部屋のカブが目を覚ました。カブは眠そうな目を向け、何事かむにゃむにゃ呻いている。
「いいや、うん。なんでもない。ちょっと、身体冷えてもうただけや……」
「そう? ならいいけど……」
言うなり、カブは再び眠りの世界に潜っていった。
続いて、アオギリホウオウも布団を被り直した。
眼を閉じると、夢の内容がフラッシュバックしそうになった。その都度、全身が強張った。
「ふぅ、ふぅ……」
必死に呼吸を整えても、その夜はまともに睡眠をとれなかった。
ーーーーーーーーーー
菊花賞から、しばらく。
トレセン学園内は先のジャパンカップの話題で持ち切りだった。
ジャパンカップとは、日本で行われる国際GⅠレースである。ファン投票で出走ウマ娘が選ばれる有馬記念や宝塚記念とは異なり、そこには世界選りすぐりのスターウマ娘が集まってくるのだ。雰囲気的には、日本一を決める戦いというよりは日本のウマ娘VS世界のウマ娘といったニュアンスのGⅠレースだ。
そして、今年のジャパンカップを制してみせたのは、なんとスペードテンであったのだ。
スペードテン。元は世代四強と呼ばれた彼女だったが、皐月賞では失格処分。ダービーでは大敗。続くトライアルと菊花賞ではなんとか上位入着という、同期のトライアンフに比べるとどうにもパッとしない戦績である。無論、比較対象が悪いのだが。
どうにも勝ちきれないウマ娘。世間では終わったウマ娘のレッテルを押される事となっていた。
しかし、彼女は菊花賞後のジャパンカップにて、世界のウマ娘を押しのけ見事勝利の栄光に輝いたのである。
当日の天気はダービーと同じ、大雨の不良バ場。決して、彼女の得意とする環境ではなかったのにも関わらず、見事勝ちきってみせたのだ。
如何に世代最強たるトライアンフが未出走のレースであったとはいえ、当然として他のウマ娘も一線級のスター達だ。そんな彼女等に勝ったのだから、スペードテンの強さと件の彼女と世代を同じくするウマ娘の強さを証明する形にもなっていた。
国際レースにて、スペードテン復活。このニュースにはファンのみならず、関係者も驚愕していた。その衝撃たるや筆舌に尽くしがたいものがあった。
「スペードテンさん、先着おめでとうございます。見事に白星を挙げられた今のお気持ちをお聞かせください」
「はい。応援して頂いた皆様や、支えて下さった皆様には心配をおかけしました事、誠に申し訳なく思っています。ですが、今日この勝利を以て、その杞憂も貼れた事と思います。また、私の実力と、これまで私と競ってきた同世代のウマ娘たちの実力も示せたと思っています」
記者からマイクを突きつけられたスペードテンは、やや緊張気味ながらも、しっかりと受け答えをしていた。
勝利者インタビューを受けるスペードテンの美貌は、泥雨に汚れていた。艶やかな黒鹿毛は後塵に塗れ、煌びやかだった勝負服はしとどに濡れそぼっていた。けれど、栄光を手にしたスペードテンは美しかった。
食堂にて、繰り返し放送される映像を見るでもなく眺めながら、アオギリホウオウの内心は鬱屈とした感情に飲まれていた。。
(((ウチとは大違いや)))
菊花賞以来、アオギリホウオウの内心は常のそれではなくなっていた。
表面上は普段通りに振る舞っている。練習も、勉強も、上手くやっている、ただ、一人で自分自身を責める時間が増えたのだ。
自分にはチャンスがあった。周囲もそれを支えてくれていた。だが、自分はそれをふいにしてしまった。そんな思いがアオギリホウオウの胸中を渦巻き、苛んでいた。
悩む時間が増えると、如何に自分が恵まれた環境にいたのかを思い知った。考えてみれば、様々な事情で出走もできずにいるウマ娘も多い中、自分は両親にもトレーナーにも先輩にも恵まれていた。その上で、今がある。
クラシック戦線は、終わってしまったのだ。
「へえ、スペードテンさんのぱかプチが出るんだって。凄いねー」
「そうやな」
笑顔の回数も変わらない。ちゃんと会話もできる。無気力な訳でも、捨て鉢になっている訳でもない。
内に籠る事が増えたのだ。
そんなアオギリの様子を見て、同部屋のカブもまた心配しているようだった。ルームメイトだからこそ、アオギリホウオウの異常には気が付いていた。いつもの能天気さが鳴りを潜めて、どこか気まずそうだ。
「あ、あのね。今度のチャンピオンズカップにはファル子さんが出るんだって。一緒に行かない?」
「うん、行こか」
友達と遊びの約束。誘われる事、誘ってくれる相手がいる事は、とても有難い事だ。
目の前にいる鹿毛のウマ娘――カブは、クラスメイトでルームメイトで親しい仲のウマ娘だ。
入学当初、目立つ容姿のアオギリホウオウに最初に話しかけてくれたのは彼女だった。彼女に引っ張られる形で、次第に他のウマ娘たちとも打ち解けていく事ができたのだ。彼女がいたから、アオギリは気負う事なく学園生活ができているといっても過言ではない。
アオギリホウオウにとって、カブは気の置けない友人であり、尊敬できる恩人なのだ。
だからこそ、今の自分の情けない姿を見られたくなかった。弱気の虫がいつどこで鳴き始めるか分からない。発作の様に、やってくるのである。
友達に、気色悪い奴とは思われたくなかった。
「ん、じゃ……ウチ、そろそろ練習やで。行くわ」
「あっ、アオちゃん……」
何か言いたげにしている彼女を尻目に食堂を出ると、アオギリホウオウはそのまま逃げるように練習場に向かった。
アオギリは、自分のそういうところも嫌いだった。
練習中もまた、アオギリホウオウは感情の波に怯えていた。
いつものようにトレーナーの指示に従い、いつものように身体を鍛えるべくトレーニングに励む。
単調な反復運動、過酷な有酸素運動。しかし、ある程度没頭すると、ふとした隙間に寒風が背筋を撫でるように心が冷える。
冷えた心を努めて隠し、次の瞬間にはまたレースで勝つ為の練習に励んだ。疲れが早い。集中できているはずが、無意識に身体を縛っているかのようだった。
チラと、アルデバランのスター達を見た。先輩方には、気づかれていないと思う。トレーナーには、どうだろう。気づいているのかもしれないし、その上で見守ってくれているのかもしれない。
菊花賞の後、トレーナーは色々と世話を焼いてくれていた。認知の切り替え、理論書の解説。もう一度、ジュニア級にやっていたトレーニングをやったりもした。それにどんな意味があるのかを教えてくれてもいた。
けれど、アオギリホウオウの心が救われたのは、教えを受けたその日だけだった。いくら頭で分かっても、心から納得しない事には意味がない。
隙間風が吹く。また、嫌悪感がきた。振り払うように、反復運動を開始した。身体が悲鳴を上げると、心の加重が減る感覚があって、気分が楽だった。
そうこうしていると、タブレット片手にトレーナーが声をかけてきた。
「アオギリホウオウ=サン、次のレースについてだが……」
瞬間、ビクリと身体が震える。
恐る恐る顔を上げると、頭ひとつ分高い位置にあるキツネ面がこちらを見下ろしていた。変わらない表情の奥は、誰にも分からない。
情けないと、叱られるかもしれない。それならば、良い。ただ、もし何等かの理由でチームを放逐されたらと思うと、脚がすくんで視線が下を向いてしまう。悪夢ひとつでコンディションを崩すなど、アルデバランにあるまじき失態だ。
そうやって悶々としていると、何事か言っているトレーナーの声をアオギリホウオウの耳は聞き流してしまっていた。
「……聞いているか?」
「あ、はい。すみません。ちょっとボーッとしてもうて……」
「ふむ、そうか」
目の前のトレーナーは、平坦な声音で言った。平時と変わらない低声を聞くと、まるで責められているような気になった。
耐えきれずに顔を伏せると、白と金の境目に視線を感じた。うつむく視界の端に彼女の手が見えた。その手はゆっくりとこちらに向かってきた。
殴られるかと身を固くする。しかし、予想に反して、その手はアオギリホウオウの耳と耳の間、頭に乗せられた。
頭を撫でられるなど、いつぶりだろうか。
「明日の練習は休みにしよう。友達とどこか出かけて遊んでこい」
予想外の言葉に驚いて、再び顔を上げた。
その先には、キツネ面を外したターフスレイヤーの微笑があった。彼女の声色には、アオギリホウオウを気遣う優しさが滲んでいた。
「はい……」
また、目を逸らした。
優しさなのは、分かっている。
けれど、トレーナーの優しさにこそ、今のアオギリホウオウは痛みを覚えるのだ。
きつく当たられる方が、よっぽど性に合っている。
翌日、言われた通りアオギリホウオウはカブと一緒に街へ出かけた。
田舎と違い、東京には遊びが充実している。
入院以来趣味になった映画鑑賞をしたり、屋台で食べ歩きをしたり、クレーンゲームでシンボリルドルフのぱかプチをキャッチしたりした。
カラオケにも行った。カブは歌が上手かった。知らない歌を好きになった。うまぴょい伝説を歌うと、MVに顔見知りのウマ娘が出ていてビックリした。怖い物見たさで中身不明の闇たこ焼きを注文してみると、ハズレを引いて口の中が地獄になった。
大きな服屋に行った。カブに着せ替え人形にされた。いちいち着替えるのは面倒だったが、友達が喜んでいるので嬉しかった。結局、カブコーデの一式を買う事になった。重い紙袋を持って歩くと、何だか充実した気持ちになった。
楽しい時間だった。
寮に帰り、授業の予習と復習をして、床に就いた。
楽しい気持ちのまま、瞼を閉じた。
暗闇の中、静かな部屋。
嫌な夢を見るかもしれない。嫌な事を考えるかもしれない。呼吸を整える。意識を切り替える。寒くもないのに震えてきた。
楽しかった気分が一気に沈む感じがした。
時が過ぎる。約束通り、アオギリはカブと一緒にチャンピオンズカップを見に行った。
1着はスマートファルコンという可憐なウマ娘だった。彼女は元気溌剌な走りそのままに、ウイニングライブでは煌びやかに歌い踊っていた。
彼女もまた、アルデバランのウマ娘に勝るとも劣らぬスターウマ娘だった。
時が過ぎる。アオギリホウオウはレースに出た。
結果は5着。1着とは2バ身の差。6着とはほぼ差がなく、どうにもこうにもいつもと感覚のズレたレースだった。心の奥が閉ざされていた。
アオギリホウオウはスターではなかった。
また、時が過ぎる。
今年のレースの総決算・有馬記念当日になった。
例年通り、今年の有馬にも注目ウマ娘が集まっている。無敗のトライアンフに、ジャパンカップ覇者のスペードテン。今度こそと気炎を上げるインペラトリーチェ。当然、他の出走ウマ娘も強豪ぞろいの激戦だ。
「ゴォォォール! 勝ったのは7番人気ミニコスモス! 2着はトライアンフ! 三着はインペラトリーチェ! 一着、二着にほとんど差はありません! ミニコスモス! 皐月賞ウマ娘は伊達じゃない!」
結果、1着はアオギリと同期のウマ娘で、2着がトライアンフだった。
インペラトリーチェは3着。スペードテンは7着だったが、勝者以外も負けて強しを体現する素晴らしいレースだった。
「凄いなぁ」
アオギリホウオウはそのレースを、観客席で見ていた。
有馬記念。トレーナーの勧めはあった。投票結果でも参加はできた。けれど、アオギリはそれを拒否した。ただ、何となく出たくはなかった。
レースが嫌になった訳ではないが、どうにもモチベーションが湧かなかった。
会場では、勝ったウマ娘にささやかな拍手が贈られていた。
1着のウマ娘は、最初から最後まで必死の形相で走って、最後にはハナ差捉えて勝っていた。派手ではないが、間違いなく強い走りだった。
トライアンフは終始ぼんやり走っていた。レース中も時折別のところを見たりして、集中できていなかった。それでも凄まじい脚捌きは健在だった。
インペラトリーチェとスペードテンもまた、良いレースをしていた。シニア級で慣らした古豪たちに一矢報いてみせたのだ。
「凄いなぁ……」
それに比べて、自分のなんと無様なことだろう。
菊花賞では負けて号泣。先のレースではあえなく惨敗。今はこうして劣等感に飲まれている。
――そんなお前を、誰が好きになってくれる?
悪夢の内容がフラッシュバックする。あの時の、あり得ざるトレーナーの言葉が脳裏に響く。
いっそ、自分からチームを抜けて、トレセンを去るべきなのではないか? そんな事を考えた。
しかし、自分がレースから逃げて実家に帰ったとして、自分はどの面を下げて両親に会えばいいのだろうか。母に、何と言えばいいのか。分からなくて、想像するだに恐ろしかった。
クラシックは終わった。三冠にはもう挑めない。レースでさえ、次もまともに走れるかどうか……。
走りたい気持ちはある。
けれど、レースに出たい気持ちはない。
アルデバランは好きだ。練習も楽しい。トレセン学園での生活も充実している。逃げたい気持ちと、離れたくない気持ちが綯交ぜになっていた。
そんなアオギリを見かねてか、トレーナーも色々と気を遣ってくれてはいた。
病院で検査を受け、そうと伝えられずカウンセラーらしき人物と話した。別のチームとマラソンで対抗戦をした。トレセンOBのウマ娘の講義を受けたりもした。
優しさが身に染みた。
結果、弱気の虫はちょっぴり大人しくなった。
生きやすくはなったのだ。
翌日、アグネスタキオン経由でマンハッタンカフェというウマ娘と話す機会があった。
「……貴女は、今とても疲れていませんか……? なんだか、眠たそうにしてるように見えるのですが……。コーヒー、いえ……ココアを、飲んでいきませんか?」
マンハッタンカフェというウマ娘は、とても不思議な雰囲気の先輩だった。
彼女の淹れてくれたココアはとても美味しかった。ココアの甘い香りを嗅ぐと、落ち着く気分になれた。
その日はぐっすりと熟睡できた。悪夢を見る事はなかった。
今年最後の登校日。朝、三女神像を見た。
何故か、拒絶された気持ちになった。
弱気の虫が、また鳴きはじめた。
優しさに救われ、卑しさに心を落とす。その連続だった。
アルデバランの忘年会も、クラスメイトの誕生祝いも、その時ばかりは楽しくで嬉しいイベントの後も、独りになるとすぐ虚しい気分になるようになっていた。
恵まれている。支えられている。愛されてもいるのだろう。
けれど、空虚だった。
そう感じる自分の性根が、何より嫌だった。
ーーーーーーーーーー
人気のないトレーナー室。多くの書籍や電子端末に囲まれた億に、ひとりのウマ娘の姿があった。
煌めく尾花栗毛に、刃の形の大流星。異色の双眸。控えめな艶黒子。ウマ娘にして、トレーナー。ターフスレイヤーである。
電灯の下、ワーキングデスクの椅子に座り、ターフスレイヤーは一人古い書籍を黙読していた。
それは言わずと知れた名家・桐生院家から貸借された父祖伝来の秘伝書である。
古の教えには、最新の研究にはない新たな発見があるものだ。無論、彼の桐生院一族がそう簡単に家中の秘を晒す訳がない。しかし、例外がある。貸し借りだ。詳細は省くが、ターフスレイヤーは桐生院家に貸しがあるのだ。
トレーナーたるもの、担当ウマ娘の為ならば清濁併せ飲む気構えがいるのだと、ニンジャトレーナーは思っている。使えるのなら、恩でも貸しでも使い切るのに抵抗はない。
ターフスレイヤーは、文字列ひとつひとつを穴が開くほど見つめていた。
印刷ではない、手書きの文字。元の書き手を思い起こさせるような、極めて主観的で不合理な古めかしい論理。その隙間に、何かしら次の手を求めて。
半神の魂が囁く。未来を往くには、今でなく過去を遡るべし。
古と今を繋いだ時、何かが見えるのだ。
秘伝書を読む事しばし。ターフスレイヤーは、丁寧に本を閉じ、元の箱に仕舞った。
「何も分かんなかったじゃん……」
だが、残念。桐生院家の秘伝には、彼女の求めるモノは無かった。
そも、正解を探していた訳ではないが、それはそれとしてである。
「はぁ……」
ため息ひとつ。
ちょっと、勇気がいる。
けれど、トレーナーたるもの、その程度いくらでも出してやろうというものだ。
「……よし」
文字の中に答えはなかった。
けれど、求めていた気づきはあったのだ。
ターフスレイヤーは傍らのスマホを手に取り、逡巡の後に慣れた手つきで操作した。
行動こそ、第一歩。
ヒトでも、ウマ娘でも、ましてニンジャであったとしても。
一歩目には、身構えるものなのだ。
ーーーーーーーーーー
有馬が終わり、ホープフルが終わり、あっと言う間に年の暮になった。
有馬記念が終わると、世間は次なるスターの誕生に目が向くようで、トライアンフを除きこの年に界隈をにぎわせたウマ娘たちの事はすっかり話題に上がらなくなっていた。
また、年末といえば帰省ラッシュである。
それにより生徒数が減ったトレセン学園とその寮には閑散とした空気が流れていた。競技者と言えどウマ娘。生徒達の多くはつかの間の休暇を取り、実家へと帰っていった。
それはチーム・アルデバランのメンバーも例外ではなく、オグリとライスとブルボンはそれぞれ実家に帰る事となった。鍛錬納めとばかりのハードトレーニングを終えると年明けまで練習は休みとなったのである。
カブを含め顔見知りの多くが帰省する中、アオギリホウオウは昨年同様にトレセンに残る事にした。
何故、アオギリホウオウは実家に帰らず寮にいるのかというと、単純に家に帰る気になれなかったからである。
負けた手前、帰りづらいというのもある。しかしそれ以上に、今帰ってしまうと自分の中で何かが終わってしまう気がしてならないのだ。それが怖い。
曰く、年末の帰省後、トレセンに戻ってこないウマ娘は多いのだという。それは現役で走っているウマ娘に顕著であるとも聞く。
以前はそうでもなかったが、今はその気持ちがよく分かる。そして、アオギリ自身そうならない自信がなかった。
幸い、トレセンの寮は諸事情で帰省できないウマ娘の為に年末も開いている。アオギリホウオウは一人になった寮室で過ごしていた。
「元旦は二人で初詣に行かないか?」
そういう事もあり、帰郷組を見送った後のお誘いは幸いだった。
実家に帰らず、寮で一人になったアオギリを気遣ってか、ターフスレイヤーは初詣に誘ってくれたのである。
勿論、アオギリホウオウは一も二もなく頷いた。
どうあれ、誘われるのは嬉しい。だが、嬉しさの反面同じくらい申し訳ない気持ちになっていた。
将来有望でもないウマ娘。勝手に落ち込んで勝手にナイーブになっているこんな自分に時間を費やさせる事が、申し訳ない気にさせるのである。
しかしながら、ある種安心感の様な感覚もあった。少なくとも、初詣が終わるまでは楽な気分でいられるからだ。楽しみな予定がある間は、嫌な事を忘れられる。
おかしくなっている自覚はあった。気分の浮き沈みが激しく、表に出ない感情が制御できない。ヤバい奴とか、面倒臭いウマ娘と思われたくなくて、誰にもこんな内心を言いたくなかった。見抜かれているのかもしれないが、それを指摘されるのは恐ろしい。
ともかく、初詣までは気が楽になる。今の事は、今の事だけ考えるべきだ。
アオギリホウオウはメンタルトレーニングで習った通り、そのようにして過ごした。
大晦日。朝靄の中、アオギリホウオウは寝起き早々に一人ジョギングをしていた。何かしていないと気分が重くなるからだ。
息が白い、身体が暖まって来た。寒空の下、身を切るような朝風が鞭打つようだ。外からの痛みは内からの痛みを中和してくれる。
しばらく走っていると、朝靄の向こうに人影が見えた。誰だろうと思っていると、やがてそのシルエットが鮮明になった。
「ん? そこにいるのは、アオギリホウオウか」
やがて見えた人影はスペードテンだった。
彼女はジャージ姿で、口から白い息を吐いていた。どうやら彼女もまたトレーニング中だったようだ。
「おはよう。今朝はロードワーク日和だな」
「お、おはようございます」
スペードテンは爽やかな笑みで挨拶した。それは鍛錬によって得た笑みに見えた。愛想笑いというよりは、こちらを気遣う類の笑みだった。
何気に、こういった場で二人が会うのは初めてであった。
二人の間には、奇妙な空気感があった。
お互い敵視し合っている訳ではないが、仲良しという訳でもない。加害者と被害者というには語弊があり、少なくとも片方は気にしていない。
実に微妙な間柄だった。
しかし、スペードテンは咳払いひとつすると、上手に人好きのする表情を作った。
「……ここで会ったのも何かの縁だ。少し一緒に走らないか?」
「はい、そうしましょうか」
そして、二人は成り行きでジョギングする事になった。
人気の無い道を二人して走る。時折、遠くに見える景色を眺めながらゆっくりとしたペースで走った。
少しして、再び口を開いたのはスペードテンだった。
「菊花賞では、お互い悔しい思いをしたな」
「……そう、ですね」
アオギリ視点、あまり思い出したくない記憶だった。敗北をバネに、とはよく聞く言葉だが、アオギリにはその感覚がよく分からないのだ。
確かに負けて学ぶ事もあるだろうが、負けは負けだと思っているからだ。だから、負けたレースは苦痛と共に反芻し、再戦の意気を燃やすのだ。かつてそれを“悔しい”気持ちと言われたが、そうなのだと学習しつつ。ついぞ感得する事はなかったのである。
敗北の経験は、嫌なものだ。
だが、菊花賞での事をスペードテンの口から話されると不思議と苦痛ではなかった。
同じレースを走ったからなのか、あるいは同じ敗北を味わった仲だからか。理由は分からないが、それを自覚するとこの微妙な距離感も悪いものではないように思えた。
スペードテンがどう思っているかは、アオギリには分からないけれど。
「トライアンフ、強かったな」
「はい。全然、勝てる気がしませんでした」
それからも他愛のない会話が続いた。内容は主にレースの事だったが、二人の間にはそれが相応しい話題に思えた。
ある程度言葉を交わした後、スペードテンは意を決したように口を開いた。
「……こう言うと負け惜しみのようだが、私は菊花賞で負けて幸いだったと思うんだ」
「えっ……?」
意外な言葉にアオギリは思わず聞き返した。すると、分かっていたという風にスペードテンはアオギリを見て微笑みかけた。
それは憑き物が落ちたかの様で、あるいは苦渋を飲み干した後の様な穏やかな表情だった。
「それまで私は、栄光とか名誉とか、実際自分でも上手く説明できないモノを目標に走っていたんだ。望まれたから、期待されていたからな。しかし、まぁ……揺らいでしまってな。レースを走る意味、目指す先が分からなくなっていた。私は、ちゃんと考えてこなかったんだな」
ふぅと一息。黒鹿毛の優駿は続ける。
「けど、あのレースの最中で……菊花賞で、君とリーチェが競い合っている背中を見てだな。私はただ、“君に勝ちたい”とそう思った。そうして、やっと真にレースを走る事ができたんだ。負けた後、また走ろうと思えたんだ」
語る彼女の瞳は、既に菊花賞の敗北をバネに立ち上がっている様であった。
先のジャパンカップでの勝利は記憶に新しい。先の有馬記念での敗北もまた、記憶に新しい。負けて、勝って、また負けて、それでも彼女は真っすぐ未来を見て。今を走っていた。
その瞳の輝きは、アオギリにはあまりにも眩く見えた。
彼女は既に、前を走っていた。同じレースを走ったウマ娘で、同じレースで敗北したウマ娘が、いつの間にか尊敬する優駿達のような輝きを放っていた。
なんだか、ちょっと寂しい気持ちにもなっていた。
置いていかれた、という気持ちである。
敗北し、懊悩し、それから立ち上がる勇姿。
勝ち続ける優駿とも違う。苦渋に塗れ、辛酸を飲み干した者のみが纏う遺風。それを、今のスペードテンは我がものとしていた。
「君に勝ちたい、それだけでよかったんだ。まあ、リーチェとトライアンフには有馬記念で負けてしまったが……次がある」
そう言って、スペードテンは薄く笑った。鍛錬で得た笑みではなく、内心を映す微笑みであった。
「私は諦めない。君へのリベンジも、リーチェとの勝負も、全て納得いくまで走るつもりだ。だから……いや、違うな。私はまだ君に甘えている……。順序も、違うな……」
スペードテンは言いながらも自身の言葉に惑っていた。適切な言葉ではない、自分の心にある本音を探していた。
逡巡の後、スペードテンは意を決して、アオギリの眼を見て云った。
「……ありがとう、アオギリホウオウ。君と菊花賞で走れたから、私はまた走る事ができた。私から言われるのは、複雑だろうけど……感謝しているのは、知っていてほしい」
その言葉には……否、込められた感情には、彼女の中にある複雑な内心が含まれていた。アオギリホウオウには、理解できない類の感情だ。
悶々と悩み続け、絶えず自身を苛んでいた。罰されねばと、当のアオギリに甘えていた。スペードテンの中には、そういう自分を嫌いになるような感情があったのだ。
「私は私を許さない。ずっと、心に留め置くよ、そう決意できたのも、あの時君がいてくれたからだ」
スペードテンの言っている事を、アオギリホウオウはよく分かっていない。何の事を言われているのかが、いまいちピンときていないのだ。
けれど、とても大切な事を言っているのは分かった。映画でこういうシーンがあった。彼女は、自分の中の何かの決着を、アオギリに伝えてくれているのだ。
分からないが、何となしに感じる事はできた。
立ち止まるスペードテン。合わせて、アオギリも彼女の後ろに立った。影が重なる。振り返るスペードテン。しっかりと、目が合う。この日はじめて、二人は正面から相対した。
朝靄が晴れてきた。冬の風が二人の間を通り過ぎ、白面と黒鹿毛を揺らして消えた。
もう一度、スペードテンは息を呑んで、真っすぐアオギリの眼を見て云った。
「アオギリホウオウ、私は君の力になりたい。助けてほしければ言ってくれ。悩んでいる事があれば協力する。貸し借りではなく、私はそのようにしたいと思うんだ」
「あ……へ?」
ぴゅーっと、また風が吹いた。
一拍空けて、ポカンとアオギリは開口した。脈略というか、どうにも話の繋がりが見えなかった。何で? という気持ちが先行して、そもそも遠い理解が追い付かない。
スペードテンは首を傾げた。
アオギリも首を傾げた。
「どうした、アオギリホウオウ」
「あっ、いえ……なんかそんな、いきなりというか。えー、何でなんやろって」
「友だからだろう」
あっけらかんと、黒い優駿は言ってのけた。距離感というか何というか、スペードテンの距離の詰め方はアオギリには急な気がしてならなかった。
数秒後、スペードテンは今の自分の言葉に気が付いたようで、今度は努めて落ち着いて――そのつもりで――唇を開いた。
「あぁ……急にすまない、私がそう思いたいだけだ。厳密には戦友か。いやライバルの方がいいのかな。いやいや、いきなりどうなんだ……。ともかく、友の為なら何でもするのが私の流儀だ。依存じゃないぞ、強要もしない。君を尊重したいから、君を尊重しないモノを何とかしたいと思うんだ。図々しいと思う気持ちはあるし、鬱陶しいのなら言ってくれ。とにかく、私は……」
言っているうち、スペードテンも何を伝えたいのかがこんがらがってきている様子だった。同じような意味の言葉を右往左往させながら、スペードテンは自分の心と向き合っていた。
その様を見て、アオギリホウオウは何となく感じ取れるところがあった。
このウマ娘は、これまで内に籠る事はなかったのではないか、と。
外に目を向けず内に籠りきりなアオギリと、外だけを見て内に目を向けてこなかったスペードテン。どうにも、対照的だった。
心を学んでも、彼女の心は彼女にしか分からない。悩む事に、へこむ事に、スペードテンは慣れていなかったのだ。なまじ、優秀だったから。
やがてスペードテンは旧家出身者らしくしっかり精神を落ち着けると、もう一度はっきりとした声音で云った。
「アオギリホウオウ、私は君を尊重する。戦友として、恩人として、ひとりのウマ娘として、私は君という存在を肯定する。多分、ファンになったのだと……思う」
アオギリホウオウの歪さを、あの日スペードテンは知ったのだ。
アオギリホウオウの勇気に、あの日スペードテンは魅せられた。
つまり、“推せる”と思ったのだ。
スペードテンが尊敬するウマ娘は、アグネスタキオンだ。彼女の走りは徹頭徹尾無駄がなく、目指すべき理想だと思ったからだ。
だからこそ、彼女が在籍するチームに入りたかったし、新入りには思うところがあった。自分の価値観を押し付けてしまった。礼儀礼節と言い張って、浅ましくも他人をコントロールしようともしていた。実に愚かで、品の無い行為だ。皐月賞の後、そんな自分を醜いと思い、そんな醜い心を見続けた。
そして、醜い心を許容する一歩目を、踏み出す勇気をくれたのがアオギリホウオウだった。
色々、葛藤があった。
それらまとめて、“推せる”で括る。
歪なところも、ズレてるところも。ちょっと冷淡なところも。諸々含めて、スペードテンはアオギリホウオウというウマ娘を好きになっていたのだ。
同時に、自分の嫌なところを認める事ができた。アオギリのお陰で、スペードテンはちょっぴり大人になれたのだ。
「……待つよ、アオギリホウオウ。いつまでも、私は君を待っている。どこでもいい。君の決めた場所で、もう一度あの日の続きをしよう」
だからこそ、もう一度走りたいと思う。走ってほしいと思う。
走っている時のアオギリは、活き活きとしているのだから。
推しには元気でいてほしいものだろう。
「で……ではな、アオギリ。私は先に行くよ」
「あ、はい。それじゃ、バイバイ……スペードテンさん」
別れの挨拶を交わし、スペードテンは走り去った。
アオギリには見えていないが、その顔はほんのり赤くなっていた。冬に強いのがウマ娘だ、寒さが理由ではないだろう。
黒鹿毛の優駿が遠ざかる。
アオギリはしばらくその背を見つめた後、静かに呟いた。
「なんか、すっごいなぁ……」
ジャパンカップ覇者・スペードテン。
どん底から這い上がり、地に足つけてしっかり立ち上がる強きウマ娘。
間違いなく、尊敬できるライバルだった。
インペラトリーチェと同じくらい。
言ってる事の半分くらい、分からなかったのだが。
言われた事の半分は、嬉しく思うのであった。
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◆追記◆
次話の繋がりを考慮し、場面構成を時系列順に直しました。