【完結】ニンジャと白面   作:いらえ丸

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レッドエース

 アオギリの実家に新年の挨拶に行ってから、大体ひと月が過ぎた頃。

 

 放課後のアルデバラン・ドージョー。チーム・メンバーが去った後、ターフスレイヤーはひとりPCモニターと睨めっこしていた。

 ターフスレイヤーが見ているのはアオギリホウオウのレース映像である。

 メイクデビュー、ホープフルS、皐月賞、神戸新聞杯、そして菊花賞。

 その他、アオギリと共に走った優駿たちのレース。インペラトリーチェ、スペードテン、トライアンフ……。アオギリと走ってきたすべてのウマ娘のレース。

 

 何度か通しで見てから、手元の資料を確認する。

 

「ドラゴン? 千の手裏剣? 鍛錬不足? いやいや、これ以上は過剰というものだ……」

 

 独り言を吐きつつ、何度も読みこんだ情報を精査する。

 

 とある理論派ウマ娘は、数値は嘘を吐かないと言っていた。その言葉に間違いはないと思っている。

 とある二刀流ウマ娘は、“好き”こそ最高のパワーを発揮するのだと言っていた。その言葉もまた間違いではないと思う。

 

 論理と直感と、肉体と精神と、鍛練と実践。

 新たな大目標。走るべき中目標。眼前の小目標。

 足りぬものなど、ないはずだ。

 

 実際、第六感が云っている。

 アオギリホウオウは、トライアンフに勝てるウマ娘であるのだと。

 

「足りないもの、かぁ……」

 

 ターフスレイヤーは眉間の皺を揉み、資料を置いた。そこにはアオギリホウオウの詳細な身体スペックがまとめられたデータが記載されていた。

 一年以上に及ぶ追跡調査。ビッグデータから導き出した最適解。

 そのどれも、秋以降のアオギリの本質を捉えているとは思えない。

 

 アオギリホウオウは、ちぐはぐなウマ娘だ。

 ライスシャワーに追随できる程のスタミナ。

 ミホノブルボンに匹敵する練習根性。

 時にデータ上不可能であるはずの、オグリキャップめいた爆発力を発揮する場面さえある。

 芯がある様で、しかし不安定で、それでいて何故か底力がある。

 そして、その力は周囲に伝播する。

 間違いなく、特異な才能の持ち主なのだ。

 

 なんとなくだが、アオギリホウオウは大昔の偉ウマ娘に近い存在なのではないかと感じるほど、トレセンにいる他のウマ娘とは異質な雰囲気があった。彼女の異能はレースではなく、もっと原始的な場面でこそ輝くような気がするのだ。

 生まれつきか。境遇ゆえか。分からないが、この実直だが不安定な数値群を見ていると、何か自分が大きな勘違いをしているような気になってくる。

 まるで、テストの回答を一個ずらして書いているような。最初のボタンを掛け違えているような。そんな感覚があった。

 

 だとしたら、それが原因で彼女本来の力を発揮できていないのであれば、その責任はすべてトレーナーにある。生活面でも金銭面でも、責任は取るつもりだ。例えそれがトレーナー業を謁見した行為でもだ。

 人の法など、知った事ではない。

 

「煮詰まってるねェ」

 

 すると、ドージョーの戸を開けてアグネスタキオンが入って来た。その手には大きな茶封筒。何だと訊いてみると、プライバシー云々ではぐらかされた。

 

 慣れた動きでこたつを占拠し、アグネスタキオンは自前のノートPCを起動した。

 

「好きにすればいいだろう」

 

 不意に、アグネスタキオンは云った。タイピングを続けながら、目線をよこさず、さも適当な感じで。

 

「誰も何も、構いやしないのが君じゃあないか。好きにしなよ、私はそれを観測するだけさ。私たちはそういう間柄だろう?」

 

 それともと続けて、超光速のプリンセスは蹂躙者へ妖しげな流し目を送った。

 

「日和ってるのかい?」

「バ鹿言え」

 

 担当ウマ娘が笑んでいる。絶妙な距離感。背中を押す手が、どうにもくすぐったい。

 トレーナーとして……ウマ娘としては、つくづく情けないが、ようやく覚悟が決まった。

 

 とうとう腹をくくる気になった。多くの人にとっては大した事のないものだが。ターフスレイヤーにとっては大きな一歩だ。

 強くなったり大きくなったりする事だけが成長ではない。それを教えてくれたのは、彼女達なのだ。

 トレーナーもまた、担当ウマ娘と共に歩むのである。

 

「合宿をしよう」

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「合宿、ですか?」

 

 冬の暮れ。春を待てない花々が咲いた頃。

 次走へ向けて鍛錬に励むアオギリホウオウに、トレーナーは合宿の話を持ってきた。

 

 年明け以降、アオギリホウオウのモチベーションは高い。当然として、シニア級最初のレースには並々ならぬ気合を燃やしていた。

 アオギリホウオウが狙うのは、大阪杯だ。大阪杯には因縁のトライアンフも出走を表明しているし、クラシック戦線を争ったスペードテンやインペラトリーチェも同様だ。

 そしてその大阪杯にはトライアルがある。直近、アオギリホウオウが挑もうとしているトライアルレースが金鯱賞であった。

 

「ああ、学園からの許可は下りている。何か外せない用事がある場合は先に報告してくれ」

 

 金鯱賞は三月の中旬に行われるレースである。それに向け、最後の調整として特訓を行うのだとターフスレイヤーは続けた。

 

「はい! わかりました!」

 

 無論、断るつもりはなかった。

 特訓と聞いて、アオギリホウオウは入院中に観たカンフー映画を思い出していた。木人を殴ったり、水瓶の水を汲んだり、色々やるのかもしれない。

 カンフー映画が観たくなってきたアオギリホウオウだった。

 

 

 

 そんなこんなで金曜日の放課後。

 アオギリホウオウ含むアルデバラン・メンバーは、トレーナーの運転する車で一路府中市を飛び出した。

 車で約一時間、辺りがうっすら暗くなってきた頃、一同は緑豊かな目的地に到着した。

 

「はえー!」

 

 門前に来て第一声。アオギリホウオウは目の前の建物に感嘆の声をあげた。

 それは如何にもリッチな雰囲気の温泉旅館だった。橙色のLED雪洞が奥ゆかしく客を歓迎している。趣ある木の看板には、流麗な書体で「蹄鉄館」と書かれていた。

 

「温泉か。うん、料理も期待できそうだ」

「ふぅン、薬湯もあるらしいね」

 

 オグリとタキオンもまた興味深げに立派な門構えを見ていた。

 

「今日のところは飯食って風呂入って寝る以外ない故、以後は自由時間とする。とはいえ夜更かしはほどほどにするように」

 

 トレーナーの指示を受け、アルデバランは宿へと入っていった。

 玄関を潜ると、エントランスでは奥ゆかしい雰囲気の女将ウマ娘が丁寧なお辞儀で迎えた。チェックインを済ませ部屋へと案内される。

 

 一行が通されたのは、一同が余裕で収まる広々とした二間続きの和室だった。

 荷物を置いて部屋を見渡すと、掛け軸にあるウマ娘の肖像画が目に入った。日本史の教科書にはいなかったウマ娘だ。

 

 しばらくゆっくりしていると、これまた豪奢な夕食が運ばれて来た。机いっぱいに並べられたそれらは、山菜やキノコといった山の幸を中心に肉や魚などがバランスよく盛り込まれたウマ娘仕様の献立であった。

 オグリとライスとアオギリは何度もおかわりし、大食い派以外も心行くまで舌鼓を打った。

 

 食事を終えると、露店温泉勢と個室薬湯勢に分かれて各々好きなタイミングで入浴した。

 アオギリは変な草の匂いのする薬湯をたいそう気に入ったようで、食後と就寝前にたっぷり入浴した。

 

 布団に入ると、ぽかぽかしたまま就寝した。

 アオギリは好きな先輩たちに囲まれてぐっすり安眠した。

 

 

 

 翌朝、各々トレーニングウェアに着替えたアルデバラン・メンバーは、旅館近くにある自然公園に集合した。

 

「わぁ! 見て見て、池があるよ! 鯉さんも泳いでる!」

「本当だ。餌は100円か、あとで買おう」

「はえー、綺麗なもんですねぇ」

「坂路、発見」

「給水場まであるんだねェ。これはこれは……」

 

 地図によると、この公園は東京レース場並みの広さがあり、かつ桜並木の遊歩道は全てウマ娘が走っていい事になっているらしい。加えて芝やダートの鍛錬用コースが設けられ、各所には井戸水を利用した水飲み場が備えられていた。自然公園というよりはウマ娘運動公園といった雰囲気だった。

 ことウマ娘にとっては、最高の環境である。

 

「ここは戦国時代のウマ剣豪が鍛錬に使っていたとされる稽古場を復興して造られた自然公園だ。貸切ってあるから、気兼ねなく走って良いぞ」

「か、貸し切ったんですか?」

「うむ」

 

 さらりと、タフスレスタイルのトレーナーは言ってのけた。アオギリはその料金を想像しそうになり、やっぱりやめた。知らぬが芝という奴か。

 

「一応ノルマはあるが、今回はガチガチのメニューを組んではいない。このチェックリストを終えたら、各々自由時間とする」

 

 言って、トレーナーは一人一人にA4用紙を手渡した。そこには見やすいフォントで練習項目のチェックリストが書かれていた。

 アオギリホウオウは手渡された用紙の内容を確認し、身を震わせた。

 絶望だ、絶望しかない。

 

「……し、質問いいですか?」

「ああ」

「ここ、“芝コース併走”ってあるんですけど、お相手は誰に頼めばいいんでしょうか……?」

 

 昔、体育の時間に二人一組を作れなかった記憶がアオギリホウオウの脳裏に浮かんできた。

 アレは辛い。アオギリは未だに誰かを誘ったりするのが苦手だ。

 

「ああ、それなら安心しろ」

 

 対し、ターフスレイヤーはあっけらかんと答えた。

 

「私が相手をする」

 

 その言葉を聴き、アオギリを含むアルデバラン全員がびこっと耳を立てた。

 如何なる心境の変化か。これまで種族的に不自然なほど走ろうとしてこなかった三冠ウマ娘が、ここにきて担当ウマ娘と併走をするというのだ。

 ターフスレイヤーが走る。それは字面ほど軽い文言ではない。

 

「お、お願いします!」

 

 かくして、いつもと違うトレーニングが始まった。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 芝を踏みしめる。視線を低くして、自身の肉体に加速を与えた。瞬間、切るような冬風が全身を撫で、その身をグイと前に押し出した。

 眼前には棚引く尾花栗毛。見慣れないジャージの背中。アオギリホウオウは一心にその背を追った。

 蹄跡が遠い、追いつけない。仮想ゴールまで残り400。前を往く彼女は振り返った。

 

「どうした! もっと出せるだろう、本気で来い!」

「押忍! うぉおおおおおお!」

 

 ターフスレイヤーの檄を受け、更に脚を回す。彼我の距離が徐々に詰まっていく。だが、なんとなく分かる。これじゃあ絶対追いつけない。

 練習は本番のように。本番は練習のように。アオギリは思い切り息を吸い、意識を人生最後のGⅠレースへギアチェンジした。

 限界を超える、何度でも。

 

 そして、二人はほぼ同時にゴールした。

 勘で分かる、ハナ差先着だ。実力より半歩前に出たからこその、正解だった。

 

「はぁっ! はぁっ! はぁっ! すぅ……はぁ!」

 

 荒くなった息を整えながら、アオギリは膝をついて脱力した。さっきまで余りあったスタミナが根こそぎ奪い去られたかのような疲労感だ。

 

 一方、併走相手のターフスレイヤーは汗一つかいていなかった。

 先の併走、彼女は常にアオギリの前を走っていた。当然相応の疲労があるはずだが、どうやらそうでもないらしい。脚にも、佇まいにも、余裕があるように見える。

 けれど、その表情はどこか上の空だった。

 

 やがて、ハッと気がついたように、トレーーナーがおもむろに口を開いた。

 

「ああっと、よく走れていたな、うむ。見事な末脚だった。やはりオヌシには根性があるな。間違いなく強くなっているぞ」

「あ。ありがとうございます」

 

 褒められているが、釈然としない。それは併走相手が手加減をしているからなのか。あるいは別の理由によるものか。アオギリホウオウには分からない。

 そんな心境を知ってか知らずか、ターフスレイヤーは暫しの休憩を言いつけた。

 

 アオギリはなるべく迅速に回復できるよう、体育座りになって静かに息を整えた。

 そして、今やっている練習メニューについて、少し前のトレーナーの言葉を思い出した。

 

 ――アオギリホウオウ=サン、今からお主には逃げる私を追ってもらう。私は一定の距離を保つから、行けると思った時に追い抜かしてゴールしろ。

 

 そうして始まった併走だったが、結果は先の通りだ。今ので三度目だが、結果やタイムはともかくとして一度として善戦できた感じがしない。

 そも、アオギリホウオウ自身、現役を終えたとはいえターフスレイヤー相手に太刀打ちできる訳がないと思っている。例えそれが、手加減ありの練習だったとしてもだ。

 

 この併走トレーニングは、間違いなくアオギリの為になっている。トレーナーが都度解説してくれるように、アオギリホウオウという競走者は数値上成長できているのだ。

 しかし、アオギリの心には何とも言えない燻りが残っていた。

 

「よし、次をやるぞ。アオギリ=サン、位置につけ」

「押忍!」

 

 休憩が終わると、位置についてよーいドン。

 二人は一斉に飛び出し、すぐに逃げる側と追う側になった。全力で脚を回すアオギリに対し、ターフスレイヤーはちょこちょこ振り返っては互いの位置関係を微調整していた。

 

「くっ……!」

 

 また、手加減された。

 その様に、アオギリホウオウの闘志に火が点いた。これが狙いなのか。そうじゃないのか。ともかく、今は走るのみ。

 心から湧き出た力はつま先に伝播する。まだだ、まだ加速できる。追いつくのではなく、今追い抜くつもりで加速するのだ。

 アオギリホウオウはさらに姿勢を低くした。神戸新聞杯の経験が、確かな実力として発揮されていた。

 

 僅か、距離が詰まる。目が合う。ひょいといった風に距離を空けられる。まるで「今じゃないでしょ」と言うように。上から下に、優しくたしなめられるように。

 不服である。アオギリは更に心を燃やした。

 

 追走の最中、競走相手をよく見る。モニター越しに見たものとは違う。ウマ娘スポーツ科学的に正しい、理に適った走りだ。現役時代とは全く違う、実に美しい走行フォームだった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ!」

 

 仮想ゴールを駆け抜ける。今回もまた、絶妙な力加減で正解不正解を教え込まれた。

 横目に見るターフスレイヤーは涼しげな顔をしている。それを見ると、アオギリの意識の過半は次こそはと猛るものの、頭の片隅には得体の知れない靄が沈殿していくようであった。

 

 思えば、間近でターフスレイヤーの走りを見たのは今日が初めてだった。

 初めて生で見たのは日本ダービーの観客席だ。以前のはモニターで、以降のは生で。有馬の後は、何度も何度も録画映像を見てきた。

 そんなアオギリだからこそ、これは違うと直感した。

 ターフスレイヤーというウマ娘の走りは、こんなお行儀の良いものではないはずなのだ。もっと理不尽で、もっと滅茶苦茶で、もっともっと荒っぽい走りをするはずなのだ。

 

 その時、アオギリホウオウは感得した。自分の心の靄の一端に回答を得たのだ。

 つまり、自分は彼女に、“自分の理想”を押し付けようとしているのだなと。

 

 ターフスレイヤーはもっと速いはずだ。

 ターフスレイヤーは手加減なんかしない。

 ターフスレイヤーはこんな小奇麗な走り方しない。

 

 全て、アオギリホウオウの思い込みであり、こうあってほしいという理想の押し付けだ。

 そもそも、自分が彼女の何を知っているというのか。何を思ってレースを走っていたのだろうか、ただ愚直に憧れて、近くにあって慮る事がなかった。

 今に至り、ファン目線でしか彼女を見ていなかった事を実感した。

 

「むっ、どうしたアオギリ」

「あ。いえ、何でもありません」

「そうか? ふむ……いや、そこで脚を出せ。気づいていないだけで怪我をしているかもしれん」

 

 そう言って、ニンジャトレーナーはアオギリの脚を丹念に精査した。

 脚を見分するその目。筋肉を確かめるその手。

 そこには、どこまでも優しく確かな熟練に裏打ちされた技術があった。

 

「ふむ、特に何もないようだな」

「言いましたやん」

「時にトレーナーは心配性になる必要があるのだ」

 

 異常はないとなり、ホッと胸をなでおろす姿もまた、トレーナーそのものだ。

 

 だが、何だろう。

 無敗七冠のウマ娘、ターフスレイヤー。

 GⅠウマ娘を輩出する敏腕指導者、ニンジャトレーナー。

 そのどちらも、何だか……。

 

「違和感あるな……」

 

 ふわりと、優しい風が背を撫でた。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 皇帝VS蹂躙者。

 

 その年の有馬記念は龍虎相搏つレースとなった。

 

 方や新進気鋭の無敗三冠ウマ娘。

 方や七つの冠を頂く伝説のウマ娘。

 

 トゥインクル・シリーズのファンや、そうでない層も含め、その日の中山には実に多くの観衆が集まっていた。

 

 そうして、運命の11Rが始まり――。

 

 遂に玉座が失墜したのである。

 

 神速のターフスレイヤー。

 卓抜のターフスレイヤー。

 皇帝を超え、常識を超え、影さえ踏ませぬ絶対王者。

 

 万来の喝采が、新たな英雄を讃える。中山が震える。民衆は新たな夢を見始める。

 彼女なら、彼女であるなら、あのロンシャンの門を超える事ができるはずだ。

 謳い、叫び、熱狂し――。

 

 そして、凱旋の夢は泡沫と消えた。

 ただ、多くの優駿達に超えられない壁だけを残して。

 

 

 

「あ……」

 

 目を覚ますと、知らない天井だった。

 いや見慣れないだけで知ってはいる。宿泊中の旅館の部屋だ。アオギリホウオウは隣で寝ているミホノブルボンを起こさないようゆっくり上体を起こした。

 

 今日はいつにも増してハードトレーニングだった。そのせいか、薬湯の心地よさも相まってぐっすりだった。さっきまで見ていた夢が良かったからか、スッキリして無駄に意識がはっきりしている。

 時計を見ると、丑三つ刻である。変な時間に起きたものだ。

 

「ラウンジでなんか飲も」

 

 こういう時、無理して眠ろうとしても逆に眠れないものである。アオギリはそろりそろりと部屋を出て、薄暗い廊下に出た。

 

 質の良い旅館だけあり、廊下一つとってもその造りは洗練されていた。奥ゆかしい灯りが深夜の仄暗さを静謐な空間に変えている。道中、行き渡った暖房も相まってアオギリの心身は驚くほど安らいでいた。

 どうせなら、このまま露天風呂にでも入ろうかな。アオギリがそう思っていると、ラウンジの方から微かな話し声が聞こえてきた。時間帯もあってその声色はごく小さく、けれど楽しげな雰囲気があった。

 こんな時間に誰だろうか。アオギリは何となく興味本位でそちらへ歩いていった。

 

「あれ? 師匠……?」

 

 声のした場所には、よく見知ったウマ娘がいた。ターフスレイヤーだ。彼女は貸出の浴衣を身に纏い、一人掛けのソファに座って誰かと通話していた。

 通話相手はわからないが、どうやら相当仲の良い相手であるらしい。トレーナーは普段あまり出さない親しげな声で話しており、時折冗談めかした笑いを交えていた。

 

 そんなこんな、やがて通話が終わったようで、ターフスレイヤーはスマホをしまって大きく伸びをした。そして、今気づいたようにこちらを見た。

 

「む、アオギリ=サンか」

 

 隠れていた訳ではないが、気づかれると何だか気まずい。アオギリはとりあえず視線で会釈した。

 

「何してるんですか? こんな時間に」

「うむ、海外にいる奴と近況報告をな」

 

まぁ座れ、という風にターフスレイヤーは掌で向かいのソファを指し示した。言われるがまま腰かけると、予想以上にふんわりした座り心地にびっくりした。

 対して、ターフスレイヤーは立ち上がると近くのドリンクディスペンサーを操作した。

 

「何がいい?」

「あっ、いえお構いなく」

「無料だぞ」

「あー、なら適当にお願いします」

「うむ、適当にな」

 

 言うが早いか、ターフスレイヤーは手早くボタンを弄った。二人分の飲み物を注ぎ終えると、それを持ってさっきまで座っていたソファにどっかと腰を下ろした。

 

「ほれ」

「ありがとうございます」

 

 手渡されたそれはホットココアだった。礼を言いつつ一口飲むと、塩梅の良い熱と控えめな甘みが喉を通った。

 見れば、ターフスレイヤーはがっつりコーヒーを飲んでいた。夜に飲んで大丈夫なんかなと思った。顔に出ていたのか、ターフスレイヤーは決断的に言った。

 

「私にカフェインは効かない」

「アッハイ」

 

 なぞの理解があった。

 兎に角そういう事らしい。オグリの腹といいタキオンの薬といい、アルデバランは実に摩訶不思議アドベンチャーである。

 

 暫し、夜の静寂が辺りを覆う。二人は特に話す訳でもなく、ぼんやり飲み物を口に運んでいた。

 こうしていると、アオギリの視線は自然とターフスレイヤーの脚にいった。よくよく見ると、元とはいえ競技者とは思えぬ華奢な脚だった。それは臀部と腹部も同様だった。

 それでも、強いのだ。

 

 思い出すのは、先の併走である。

 あの時、彼女は間違いなく本気ではなかった。だが、決して手の届かないところにはいなかった。衰えたとか、弱くなったとかではなく、むしろ暴れそうな何かを抑えつけているかの様な走りだった。

 

「眠りが浅いか」

 

 ターフスレイヤーはおもむろに口を開いた。思考の海に漬かっていたアオギリはハッとなり慌てて答えた。

 

「あ、いえ、さっきまではぐっすりでした。その分、今はスッキリしてます。もっかいお風呂入ろかな思って、それで師匠見かけたんで」

「そうか。まぁ気負うな」

 

 そして、再度の沈黙。

 

 アオギリホウオウは温かいココアを飲みつつ、今度はターフスレイヤーの眼を見つめた。

 ターフスレイヤーはオッドアイだ。左がアオギリと同じ魚目で、右が血のように赤い瞳をしている。

 しかし、前にタキオンに見せてもらったデビュー前のターフスレイヤーは両魚目であり、その右眼は赤くはなかった。どういう理屈なのか、それにはアグネスタキオンもさじを投げていた。

 

 ターフスレイヤーは謎の多いウマ娘だ。

 かつては最強のウマ娘と呼ばれ、今ではトップチームを率いるトレーナーとして知られている。名選手が名監督であるとは限らないが、彼女は名ウマ娘であり名トレーナーであるのだ。

 そして、現役引退後も衰えない走力もまた、異常だ。普通、ピークを迎えたウマ娘は徐々に成長の度合いが陰り、衰えていくものであるはずなのだ。

 だが、ターフスレイヤーは違った。

 

 何故、どうして、ターフスレイヤーに何が。

 アオギリホウオウは、ターフスレイヤーというウマ娘の走りを見て、彼女に憧れてトレセンの門を叩いたウマ娘だ。

 ファン心理的には、推しの情報は全て万金に匹敵する。彼女に何があったのか知りたい。知りたいが、踏みとどまる。他人に踏み込むのは、とても恐ろしい行為だ。

 それに、ファン心理であれこれ訊くのは大変に失礼だろう。アオギリは己のオタク魂を宥め、落ち着きを保った。

 

 軽く息を吐き、もう一度ターフスレイヤーの眼を見た。

 赤と青。二つの瞳が窓越しの外を見ていた。美しくライトアップされた中庭を、ぼうと眺めていた。

 

 ふと、その瞳をいつかどこかで見た事がある気がした。

 記憶に潜ると、アオギリホウオウには直感的に思い出す光景があった。

 

「え……?」

 

 我知らず声が出て、アオギリホウオウは沈黙を破った。

 応じるように、ターフスレイヤーがこちらを見た。先ほどまでとは違い。その視線は間違いなく担当ウマ娘を見るトレーナーの目をしていた。

 

 アオギリは記憶の海から浮上して、努めて平常心を整えた。

 息を吸い、吐いた。大丈夫だと言い聞かせた。勇気で覚悟を決めた。

 そして、アオギリホウオウは一歩踏み込む決意をした。

 

「……ウチ、師匠に憧れてトレセン来たんです」

 

 最初に思い起こすのは、日本ダービー。

 アオギリホウオウのオリジン。

 続く伝説の折り返し。

 

 蹂躙の秋、暴虐のローテーション。。

 菊花賞、エリザベス女王杯、ジャパンカップ。

 

 有馬記念。最強同士の一騎打ち。

 皇帝を打ち破った蹂躙者の勇姿。

 自信に満ち、傍若無人で、どこまでも唯我独尊。

 その日、世界の中心はターフスレイヤーであり、彼女もまた誰憚る事なくそのように振る舞っていた。

 

 勝利のみ喰らう怪物。

 憧れたウマ娘は今、とても近い所にいた。

 

「それから師匠にスカウトしてもろて、チームに加えて頂いたんは光栄に思ってます」

 

 ターフスレイヤーは黙って担当ウマ娘の話を聞いていた。コーヒーを置き、まっすぐアオギリの目を見て言葉に耳を傾けている。

 優しく、献身的で、トレーナーの鑑のような態度で。

 

 どこまでも、ウマ娘を下に見る目をしていた。

 

「今日、師匠と走らせてもろて、思ったんです」

 

 振り絞った勇気を練るように、アオギリは再度息を吸った。

 

「師匠は、今でも最強なんやなって、感じました」

 

 ターフスレイヤーは、変わらずアオギリの瞳を見ている。

 アオギリは一度逡巡し、覚悟を再確認して訊いた。

 

「師匠は、何でレース辞めたんですか?」

 

 核心を突く問い。

 あの日からずっと、気になっていた事だ。

 いち担当ウマ娘が、いちトレーナーの過去を詮索するなど、アオギリ自身どうかと思う。

 訊くべきでない事だ。誰がどう考えても厄ネタなのはわかっているのだ。ならば、尚の事である。

 けれど、アオギリはあえて踏み込んだ。

 何故なら、彼女が外を見る瞳が、ターフスレイヤーでもニンジャトレーナーでもないものに見えたからだ。

 

 遠く中庭を眺める横顔が、かつて鏡でよく見た眼をしていた。

 寂しそうだったから、声をかけたのだ。

 ターフスレイヤーがそうしたように、ターフスレイヤーならそうしたと思ったから、アオギリホウオウは勇気を出せたのだ。

 

「言ってなかったか?」

「はい」

「そうか」

 

 なんだそんな事か、とターフスレイヤーは深く腰を落とした。質の良いソファがその体重を優しく包み込んだ。

 

 しばらく、ターフスレイヤーはぼんやり天井を見ていた。

 悩んでいるというよりは、考え事をしている感じだった。アオギリはじっとその時を待った。

 

「つまらんぞ」

「いいです」

「しょうもないぞ」

「ええ」

「本当に下らん話で、恥ずかしい……」

 

 言って、ターフスレイヤーは両手を組んで唸った。

 さっきまで見ていたアオギリの目を見ないようにしていた。

 

「いや、その……話すのはいいんだが、呆れるのはともかく……まぁ出来れば失望はしないでほしいというか。引き続き信用を置いてほしい、というか……。何だかんだ、トレーナー業の方はそれなりにやってるから、願わくばチームを抜けるとか……いやそれはオヌシの自由なんだが、しかしアオギリ=サンの両親には私が責任を――」

「ウチはアルデバランのウマ娘です」

「うむ……」

 

 深呼吸ひとつ。

 ターフスレイヤーは観念したかのように、重々しく口を開いた。

 

「アオギリホウオウ=サン、私はな……」

 

 そして、過去を語り始めた。

 

 

 

「ニンジャなんだよ」

 

 

 

 いやそれ最初から言うてましたやん。

 というツッコミを、アオギリホウオウは我慢した。




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