【完結】ニンジャと白面   作:いらえ丸

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 感想評価など、ありがとうございます。

 例によって色々迷いましたが、例によってそんなんではいつになっても投稿できないと思ったので投稿します。誤字脱字あっても許してくだせぇ。

 今回、最後にアンケートがあります。
 とはいえお話の流れには大きな影響はありません。あくまでもフレーバー程度です。

 次回更新は少し空きます、それなりに長くなる予定なので。


四天を翔けよ、霓の鳳凰

 その日、その時、中京レース場は異様な雰囲気に満ちていた。

 

 大阪杯へと至るステップレース、金鯱賞。

 ゲートが開き、やがて熱戦の幕が落ち。そして一人のウマ娘が凱旋した。

 けれども、観客席から歓声はなかった。

 

 言葉にならない声と、嵐の前の静けさ。

 群衆は、困惑していた。

 レース結果にではない。レース展開にでもない。

 

 観客席で観ていた、あるレースフリークは思う。

 まるで、初めてサイレンススズカの逃げ切りを見た時の様。

 

 関係者席にいた、あるURA役員は思う。

 まるで、皐月賞のゴールドシップを見た時の様。

 

 そして、理屈でなく、感性によって思い知る。

 眠れる鳳凰が目を覚ましたのだと。

 

 混沌とした感情は、観客席だけに広がっていた訳ではない。

 むしろ、コースの上こそ台風の眼。やがて来る大嵐の中心点。否、彼女の背こそ嵐そのもの。

 

 金鯱賞は重賞レースである。そこにはレース慣れしたウマ娘も多く出走していた。前年のGⅠウマ娘や、重賞を何度か制してきたウマ娘も出走している。

 だというのに、負けたウマ娘たちは一様にアスリートとしての自分を一時見失っていた。悔しさを感じる前に、何故だか懐かしい気持ちになっていた。

 次いで、勝者に対しては心の中の誰かを幻視した。それは往年のライバルであったり、幼少の日の誰かであったり、あるいは誰もが知るスターであったりした。

 

 敗者には雄々しき背中を。

 群衆には凄絶な笑みを。

 

 その日、中京レース場は彼女の独壇場だった。

 

 

 

 件の勝者は観客席にいる、ひとりのウマ娘だけを見ていた。

 瞬間、両者の視線が交錯する。

 離れた距離であろうと、言葉を交わす事はなくとも、明確に互いの意思は伝わった。

 

「トライアンフさん」

「アオギリホウオウさん」

 

 ――阪神で会おう。

 

 

 

 翌日、スポーツ新聞にはこのような見出しが躍っていた。

 

“アオギリホウオウ圧勝! 次走は大阪杯!”

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 大阪杯は阪神レース場で行われる中距離のGⅠレースである。

 また、大阪杯はクラシック期同様に春の冠を争う第一の戦場だ。当然、そこに集うのは未だレースに不慣れなウマ娘などではない、シニアGⅠとは、中央で慣らした強豪のみが集う古戦場なのである。

 

 阪神レース場・大阪杯は構成上、ラストの直線と坂で競り合い勝負になりがちなレースである。しかし単なる直線番長が勝つのは難しい。コーナリングの巧さ、二度の坂超えを成すド根性、短い直線を切り裂く瞬発力など、多くの能力が要求される総合力重視のレースだ。

 

 その点、今年の大阪杯における大本命はトライアンフだった。

 前走の有馬記念では惜しくも2着という結果だったが、1600mのマイルレースとはいえ、既に大阪杯と同じ阪神レース場のGⅠを勝っている実績は大きい。

 

「10番、トライアンフです。調子は上々といったところでしょうか。レースに関わる総合力でこの娘より上のウマ娘はいないでしょう。一番人気です」

 

 そして、件のウマ娘がパドックに姿を現した際には、観客席から大きな歓声が轟いた。

 穢れ無き純白の勝負服。泰然自若とした立ち姿。気負う事のないその眼。

 その様に、多くの人は夢を見る。

 トライアンフはぼんやりファンサをした後、ゆったり背を向けて帰っていった。強者の余裕か、あるいは観客なるものに興味がないのかもしれない。

 

 続いて、アオギリホウオウの出番がやってきた。

 アオギリホウオウは、大きな歩幅で堂々とパドックへと向かって行った。

 

「アオギリホウオウは三番人気です。前走の金鯱賞では圧巻の勝ちっぷりでしたね。今回も以前の様な走りをしてくれる事を期待したいですね」

 

 アオギリホウオウがパドックに姿を現すと、拍手と共にやや奇異な視線が向けられた。

 歓迎されていない訳ではない。ただ、彼女の装いが以前とは違っていたから、観客はちょっぴり驚いたのである。

 

 短袴に半着の和スタイル、ブレーサーとレガースを装着した戦闘的シルエット。コミック忍者めいた真っ赤なマフラー。そこまでは変わらない。

 だが、今日の彼女は見慣れない羽織を纏っていたのだ。

 

 アオギリホウオウの背にあるもの。それは侍大将めいた、あるいは忍大将めいた丈の長い黒の羽織だった。

 威厳ある雰囲気の漆黒の羽織は、これまでの勝負服の印象をそれ単体で一変させていた。

 まるで、何かの位階を一段階上げてきたかの様であった。

 

「えー。アオギリホウオウは本レースより勝負服のデザイン変更を申請しています。何か心境の変化があったように思えますね」

 

 アオギリはいつものようにアイサツを終えると、皆の視線に応じて半回転してその背中を見せつけた。

 黒の羽織のその背には、色鮮やかな鳳凰が描かれていた。

 

 鳳凰とは、中国神話における瑞鳥である。

 世が瑞気に満ちた時、梧桐に止まり、竹の実を食べ、吉兆を知らせると言う。翼ある者の王だ。

 

 アオギリは、今日から勝負服にこれを背負う事を決めたのだ。

 意志の表明だ。これから、考えうる最高の場所まで羽ばたくという。分不相応な願いの為だ。

 それに、阪神レース場といえばアオギリホウオウのメイクデビューと同じ舞台でもある。

 飛び立つ場には、縁起が良い。

 

 その背の鳳凰を見て、妙に顔の濃い如何にもレースフリーク然としたおじさん三人衆が口を開く。

 

「ヒューッ! 見ろよアオギリホウオウの背中を! まるでお祭りだ、こいつはやるかもしれねぇ!」

「だが一番人気のトライアンフ相手は厳しいと思うぜ」

「だが、いや待て……あの抑えたviolenceは……!?」

 

 その時、パドック前にいたアオギリ推しのレースフリークスが叫んだ。

 

「「「「「背中が“世界”を狙ってる!」」」」」

 

 おお、という歓声。その意を完璧に理解できた観客は少ないが、それはレースを盛り上げる演出として歓迎された。

 

 拍手と共に、アオギリはパドックを去った。

 

 背中の心意気を見せつけるように。

 

 

 

 本バ場に入ると、アオギリホウオウは見知ったウマ娘から強い視線を感じ取った。

 その中には、菊花賞以来感じなかった警戒心も含まれていた。前走である金鯱賞での勝利はそれほどまでに強烈であった。

 データにない曖昧な感性に訴えかける強さは、対策不可能な警戒心を呼び起こした様である。

 注目されると怯えて竦むのがかつてのアオギリだ。けれど、今は違う。存分に御覧じろと、思うようになっていた。

 

 アオギリホウオウは出走ウマ娘たちを眺め見た。

 ジュニア期や、クラシック期には感じ取れなかった安定感。ブレる事のない気迫が、芝全体に満ちているような気がした。

 雑念がない。皆が皆、地に足ついて程よく緊張していた。こういう時のが走りやすいのだ。

 

 そんな事を思いつつ、アオギリは見慣れた背中に声をかけた。

 

「スペードテンさん」

「おや、アオギリホウオウ」

 

 最初に声をかけたのは、黒鹿毛の優駿だった。

 昨年のジャパンカップ勝者・スペードテンである。騎士然とした凛々しい勝負服は今日も彼女に似合っていた。

 

「アオギリホウオウは勝負服を変えたんだね。羽織ひとつで印象が違う、よく似合ってるよ」

「どうも。けど、伊達や粋狂で……いや伊達と粋狂で着させてもらってます」

「そうか」

 

 そう言って、スペードテンは薄く笑んだ。

 

 スペードテン。アオギリとは因縁浅からぬ彼女は、ジャパンカップを制してからはウマが変わったように以前までの刺々しさが鳴りを潜めている。

 ライバルウマ娘に対する姿勢もまた、穏やかなものになっていた。それどころか、何故かアオギリを推してくれてるらしい。分からないが、受け止めている。

 今や、どうでもいいとは思っていない。勝つも負けるも競って楽しい、良いライバル関係だ。

 

「よろしく、アオギリホウオウ」

「はい、良いレースにしましょう」

 

 挨拶はほどほどに、二人は離れた。

 

 次いで、もう一人見知った背中に話しかけた。

 

「リーチェさん」

「あら? 普段受け身な貴女の方から挨拶とは、ずいぶん珍しいですわね? 斬新な雨乞いか何か? もしかして、今から雨でも降らせて重バ場にする作戦なのかしらん?」

 

 ホープフルSからの因縁の相手、インペラトリーチェである。今日も今日とてド派手な勝負服は彼女によく似合っていた。

 

「師匠曰く、重バ場のが向いとるらしいですよ、ウチ。ぐうの音も出んくらい負かしてまうかも」

「お生憎様、わたくしも重い芝のが得意ですのよ。日本ダービー、見たでしょう?」

「ええ、存じてます」

「その上で言うのね、貴女」

 

 言って、インペラトリーチェは晴れやかに笑んだ。

 クラシックの時より、彼女は間違いなく成長している風に見えた。競技者としても、ウマ娘としても。

 かつてなら、劣等感を感じてしまうほどに。

 

 太陽の女帝は、じっとアオギリの魚目を見つめた。青々とした瞳の奥、そこにある彼女の本質を見透かすように。

 

「……大きくなった訳ではありませんわね。ただ、隠れていた本質が表に出ているだけ。貴女は、貴女自身をありのまま直視した」

「どうでしょう」

「それが“強さ”なのよ、アオギリさん」

 

 心底嬉しそうに、インペラトリーチェは微笑んだ。

 

「トライアンフさんは言うまでもなく歴史に名を残す逸材です。一皮むけたスペードテンさんも最高峰の優駿です。アオギリさん、貴女もまた遅咲きの大傑物なのですね」

 

 ライバルの成長を、彼女は心の底から寿いでいた。

 そういう関係をこそ臨んだから、喜んで然るべきだろう。審美眼も冴えていた。最初にアオギリに興味を持ったのは、誰あろう自分なのだから。

 強敵の勇姿に、気合がモリモリ湧いてきたのだ。

 

「対して、わたくしは敗色濃厚です。実に良い事ですわ!」

 

 ライバルは強い。

 自分は一歩及ばない。

 けれど、それでいいのだと彼女は言う。

 

「負けるかもしれない相手と競うから楽しいのですわ。楽しいからこそ成長できるのです。貴女たち、最強の好敵手のお陰で、わたくしの魂は昨日より今日より光り輝く事ができますの!」

 

 インペラトリーチェは、アオギリの手を取り、力強く悪手した。

 

「全力でかかってきなさいな!」

「はい、良いレースを」

 

 そうして、二人は別れた。

 

 最後に、最強の好敵手に声をかけようと振り返ったところで、件のウマ娘は気配もなく眼前に立っていた。

 

「いい顔になったね、アオギリホウオウさん」

 

 彼女は悠然と立っていた。身構えるでもなく、緊張しているでもなく、ただ柳が風を受け流すように、真っすぐアオギリホウオウを見ていた。

 純白の髪。紫紺の双眸。新雪の如く透き通った肌。アオギリと比してなお矮躯の少女は、このレースのどのウマ娘より高みにいるように感じ取れた。

 それは彼女の実績ゆえではない。まるでナリタブライアンを前にした時のように、ミスターシービーを前にした時のように、存在そのものが放つオーラがそうさせるのである。

 

「トライアンフさん」

「やっ、去年ぶり」

 

 そう言う彼女は、拍子抜けするほど軽く挨拶した。

 そして、その美しい紫紺の瞳を細めた。

 

「アオギリホウオウさん、見るからに強くなってるよね。何かあったんだね」

「分かりますか」

「うん、自信あるんだ。いいね」

 

 応えるアオギリも泰然自若とした姿勢で返した。

 お互い気負う事もなく、ただにらみ合う。やがてトライアンフは口を開いた。

 

「君とここで走れるのは正直半々だと思ってた。けど、来てくれたね。ここまで」

 

 そして、ふんわりと……。

 

「ありがとうね」

 

 誕生日プレゼントをもらって喜ぶ子供のように、トライアンフは天使の微笑みを浮かべた。

 

「こちらこそ、貴女と会えてなかったらここまで来てませんわ」

 

 対し、アオギリホウオウは意識して悪魔めいて歯をむき出しに笑った。

 かつて凶笑と言われたそれを、アオギリホウオウは表に出した。

 つい先日のアオギリなら、しなかった類の笑顔である。

 

「まあ、今日からはソッチがコッチを目指す事になるんですけど」

「へえ」

 

 天使から、肉食獣へ。トライアンフの笑みは本能むき出しの笑みに変化した。

 

「楽しい時間を」

「良いレースを」

 

 二人は、拳を合わせて背を向けた。

 

 

 

 大阪杯、阪神レース場。

 芝、2000m。

 右回り、バ場は良。

 天気は雲一つない日本晴れ。

 

 門出には良い日和だ。

 

 やがて、ファンファーレが高らかに響き渡った。

 ゲート入りの時間だ。

 ウマ娘たちが次々とゲートに収まる中、アオギリホウオウは堂々と鉄の檻へその身を埋めた。

 

 狭い檻の中、目を瞑る。音を消す。集中のルーティン。

 暗闇の中では、色んな事を思い出す。嫌な事も、苦しかった事も、忘れたいような事も。

 ふぅと一息して、飲み下す。

 

 風の音が聞こえる。

 血が巡る感覚が分かる。

 命の律動。魂の鼓動。

 巡って、重なって、共鳴する。

 

 眼を開ける。光が差し込んだ。

 

 地の底から、空の彼方のその先へ。

 

 魂の奥で、瑞鳥が鳴いた。

 

「さぁ……スタートです! 揃いました、キレイに一列一斉に走り出しました。出遅れはありません」

 

 ゲートが開くと、全ての出走ウマ娘が一斉に駆けだした。

 

 スタートしてすぐ、先頭争いが始まる。

 真っすぐ走ってインペラトリーチェら逃げウマ娘三人がハナを争う。2バ身遅れてアオギリホウオウが前を狙っている。アオギリの後ろに何人か先行ウマ娘が続く。

 

「先頭は1枠1番ツーリングバイクがやや前、インペラトリーチェとミニコスモスが追走。アオギリホウオウが狙っているぞ」

 

 ややあって先頭の逃げウマ娘が坂を駆けあがり始めた。

 大阪杯はスタートしてすぐ坂がある。高低差2メートル強のこの坂は、パワーのないウマ娘をふるいにかけ、スタミナに不安のあるウマ娘の体力を削り取る。しかもこれはゴール前にも存在するのだ。スタートしたばかりで無駄に体力を落とす訳にはいかない。

逃げ・先行ウマ娘たちは頭で考え、脚を制御した。大阪杯の前半はペースがゆるくなりがちだ。下手に気負うな。上手に走る事だけを考えて、コーナーで差を付けろ。

 

だが、例外がいる、アオギリホウオウだ。

 相も変わらぬ大跳び走り、彼女は何を思ってか此処でペースを上げた。まるで平地でも走るようにグイグイ位置を押し上げて、坂を駆けあがる頃にはアオギリホウオウが逃げウマ勢と横並びになっていた。

 ハナを切っていたウマ娘はアオギリの横顔を二度見した。マジかよこいつ正気か? 観客も思う、ちょっとペース速すぎない?

 

 そうだったコイツそういう奴だった、とすぐ後ろでインペラトリーチェは歯噛みした。

 スタミナ管理とかポジション云々とか全部無視するやべー奴ことアオギリホウオウは、ホープフルでも菊花賞でも何でも構わず後先考えずにいつものペースでぬぬっと前を取ってしまうのである。こいつにセオリーは通じない。

 忘れた訳ではないが、やはり白の奇跡が眩しすぎたのだ。

 

 ともかく、このまま行かせまいと他の逃げウマ娘が前に出る。コーナーに入るとアオギリはすんなり彼女らの影に潜る事となった。

 そして、周囲のウマ娘はアオギリホウオウという存在の危険性を思い出していた。アオギリの出るレースでは、あらゆるウマ娘が掛かってしまう。警戒するだけではいけない。気を強く持たなくてはいけない。変に掛かればゴリ押しされてしまう。

 

「すぅ……ふぅー……」

 

 そんな嵐の中心点、アオギリホウオウはまっすぐ前を向いて走っていた。

 小さく、ゆっくりと、呼吸を整えながら。

 前だけを見ていた。

 

「順番見ていきます。先頭は変わらずツーリングバイク。インペラトリーチェ狙っている。ミニコスモスはこの位置。アオギリホウオウここにいます。カマロが位置を上げてきました。続いて……」

 

 コーナーを曲がる頃になると、仁川の洗礼を受けた後続が各々好位置目掛けやってきた。

 ここでひょいと姿を見せたのは技巧派のスペードテンだ。彼女は第1コーナーを曲がり切ると、洗練された観察眼で好位置を見つけ、絶妙な加減速で以てそこにするりと潜り込んだ。

 やがて第2コーナーに入ると、スペードテンに気づいた逃げウマ娘が更に速度を上げる。その中の一人がほんの少しよれると、すかさずスペードテンが計算通りと位置を整えた。

 

 スペードテンは思考する。アオギリは来るか? 来ない。今日のアオギリには覇気がない? 不気味なほど大人しい。かつての掛からせ異能はどうしたのだ。どういうつもりだ?

 色々考えつつ、スペードテンは何が起こってもいいよう冷静に脚を回し続けた。

 

 コーナーを曲がり切ると、最内の爆逃げウマ娘が息を入れた。インペラトリーチェだ。彼女は坂とコーナーを含む先頭争いに勝利したのだ。

 しかしすでに中盤に差し掛かる頃、想定以上の消耗だ。根性で耐え抜くしかない。いったん状況を確認しようと振り返る。

 すると……。

 

「……スゥー、フゥー」

 

 いつの間にか、どうやってか。気がつけばインペラトリーチェのすぐ後ろに、深い呼吸を繰り返すアオギリホウオウが張り付いていた。

 ぎょっとしつつ、それは何処かの誰かに似ているように思えた。分からないが、今のアオギリはかなりキマってるのはよく分かった。

 

(((菊花賞とは違う! とても静かで、ぶっちゃけ怖すぎですわ! アオギリさん!)))

 

 内心で叫ぶインペラトリーチェはなおも闘志を燃やした。しかし、以前と違い冷静さを保っていた。技だけでなく、心も鍛えて来た甲斐があった。彼女もまた、アオギリ同様に努力してきたのだから。

 

「ここで順位を振り返ります。先頭はインペラトリーチェ。並びますツーリングバイク。内からアオギリホウオウ。外からカマロとミニコスモス。マスタングの後ろスペードテン、隣にトモエナゲ。3バ身遅れてエルカミーノ、トランザム、コルベットが並びます。半バ身後ろに……」

 

 身体の熱を感じつつ、インペラトリーチェは後方を伺った。焦らず、ゆったり、息を整える。まだレースはこれからだ。直線が終わるまで脚を残す。

 そして勝つ。それだけだ。

 

 一方、先頭集団を睥睨する位置のスペードテンは四方八方に意識を向けていた。

 先頭はブレる様子がない。その隣は前についてくのでやっとだ。アオギリは相変わらずよく分からない。この動く核爆弾はいつ爆発するんだ。常に、警戒せねばならない。

 後ろには自分とアオギリに二分した視線を感じる。そして、レースの奥底でじっと息をひそめる怪物の息遣い。

 同じ轍は踏まない。スペードテンは一息入れ、隣のウマ娘に前を譲った。余裕がなければ、怪物退治は成せないものだ。

 

 僅かにポジションを変えつつ第3コーナーに入ると、各ウマ娘は一斉に脚を回し始めた。バ群の雰囲気が切り替わる。インペラトリーチェが速度を上げて、スペードテンも位置を前に、アオギリホウオウが得意の曲線で命知らずの旋回能力を見せつけた。

 コーナーを曲がり切り、向こう正面に入った。

 

 その時だ。

 

 紫紺の瞳が妖しく光る。白のチョークで一筆書きでもするように、後方集団から純白の影が飛び出してきた。それはあっという間に団子状態を抜き去ると、コーナー手前で先頭集団に追いついて見せた。

 まさに神業。なんたる剛毅。柔剛併せて駆け抜ける。惑わず、競わず、跛行せず、並ぶ者なき大英雄。

 

 白の奇跡・トライアンフである。

 

「来た!」

 

 インペラトリーチェは不退転の決意を抱く、

 

「来た!」

 

 スペードテンは来る決戦に備え、

 

「来たよぉ!」

 

 不世出の英雄。無慈悲な怪物。凱旋至上主義者が飛んできた。

 

「おおっと来ました! トライアンフがコーナー切り裂いてやってきました! 鮮やかな俊足! まさに飛翔! 英雄が翼を広げました!」

 

 第4コーナーに入ると、先頭の4人。インペラトリーチェトアオギリホウオウとスペードテンとトライアンフ、世代四強の競り合いになった。

 運命の弧を曲がり切る。すると4人は陣形でも組んでいたかのようにキレイな斜め線を引いて直線に入った。

 最後の踏ん張り。ラストスパート。各々が理性より野生を開放する時だ。

 

「まだまだ! こっからですわ!」」

 

 女帝が吠える。先頭を維持し続ける。ぶっちゃけ体力は限界に来てるのに、仁川の坂は最後の最後にまた洗礼。だが、それを、勇気と気合と根性で踏み越える。

 

「予想してないとでも!」

 

 騎士が猛る。遠心力を利用し、次の一歩で是正し、また次の一歩で加速する。坂を駆けあがる覚悟を決める。ここからが戦場だ。

 

「あはっ」

 

 凱旋の名を冠する世代一強は笑う。距離と地形と陣営を把握し、想定し試行し逆算した結果が今、現実になって自身の前で再現されている。

 同時に、イレギュラーあれと期待する。さあ、自分はここから動くぞ。皆はどうする。後ろも限界を超えて来い。さもなくば……!

 

「全部、ボクが狩っちゃうよ!」

 

 王者の命が下される。アオギリホウオウとは別種の力が、今度は最前線の三人に直接放たれた。

 桜の宝球、樫の王笏、菊の冠。絶対君主の下知である。首を垂れよ、鐘を鳴らせ、英雄の凱旋だ。

 風の隙間、虚空の間隙、トライアンフは音もなく加速し、大地を飛ぶように疾駆した。

 駆け抜ける。駆け抜ける。前にいる全て、置き去りにして唯一抜きん出る。

 英雄の前に、敵などいないのだ。

 

「トライアンフだ! トライアンフ来た! まっすぐ直線飛んでいる! 3人はどうだ!」

 

 まずスペードテンを抜いた。

 次にアオギリホウオウを抜いた。

 そして先頭インペラトリーチェを抜いた。

 

「スゥーッ! フゥーッ!」

 

 その輝きを、燃え盛る魚目が見ていた。

 

「ゴール前には坂があるぞ! ここが仁川の辛いところ!」

 

 いち速く前を往くのはトライアンフ。そのまま誰より先に、坂への第一歩を踏みしめた。

 離陸の準備は整った。助走は終わり、勢い任せに駆け上がる。理想的なセーフティリード、加速はもう必要ない。このままの速度を維持しつつ、残る距離を走りきれば、勝ちだ。

 後ろは見ない。誰も追いつけないのは分かっている。想定では、数値では、現状彼女等に自分を追い越せる実力はないと断定できる。

 同時に、それを超えてきてほしいとも思っている。根性でも、覚悟でも、信念でも、執念でも、何でもいいからかかってこいと思っている。

 何故なら、至高の凱旋とは好敵手を打ち負かしてこそ得られるものだからだ。

 

 ――そして、追い風が吹いた。

 

 自分に? 違う。トライアンフは否定する。これは錯覚だ。今日の風は背中に来る事はない。

 なら、これは何だ?

 

 気になる、振り向きたい。でもそれは想定にない。しかし、好奇心には勝てない。自分を負かすかもしれないウマ娘の存在を、孤高に至る為の解を。この目で見ずにはいられない。

 トライアンフは好奇心に負け、後ろを振り返った。

 

「準備、完了……!」

 

 アオギリホウオウが、凄まじい勢いで坂を駆け上ってきた。

 

 おかしい。坂路を苦にしないウマ娘なのは知っていたが、これほど加速できるはずはなかった。前に見た時の速度は、計算に入っている。

 ならば、今のこの走りは何なのだ。

 

 当然に、速度を上げて、重力を無視するように。

 あれはアオギリの力じゃない。彼女にそんな才能はない。なら、何だ。

 あれでは、まるで……。

 

 ――坂路の申し子・ミホノブルボンの様ではないか。

 

 

 

 数舜前に時間を戻す。

 

 アオギリホウオウは坂に入る直前、瞼を閉じた。

 思い起こすのは、尊敬できる先輩の姿。

 

 鋼鉄の魂と、洗練された肉体。純粋に、無垢に、夢を追う黄金の精神。

 

 かっこいいと思った。推せると思った。憧れる。自分もああなりたい。

 ミホノブルボンの坂路を見ていた。映像で、練習で、プライベートで。

 なので今、そのかっこよさを模倣する。

 ヒーロー好きの子供がそうするように。

 まずは形から、見様見真似。芯を掴み、特異性を再現する。

 

 肉体は精神に。

 精神は肉体に。

 そして憧れは、走る力に変わるのだ。

 

 脚を振り上げる。そして、芝に杭打つように、それは大地へと叩きつけられた。アオギリホウオウ、原風景の疾走。

 

 その向こう側へ――。

 

 

「おおっとアオギリホウオウ凄い勢いで坂を登っている! アオギリホウオウ! 平地を駆けるが如く! トライアンフ粘るか!? トライアンフ走り切るか!」

 

 ほんの数秒、それは完璧に近い理想の登攀を魅せた。

 

 この世に、ミホノブルボンより坂の上手いウマ娘はいないのだ。

 

 登攀の勢いそのままに、憧憬の道を往くアオギリホウオウは坂のてっぺんでトライアンフの前をほんの半歩分追い越してのけた。

 

 会場がどよめく。英雄神話が陥落するのか。ついにやってのけるのか。有馬とは違い、今日のトライアンフは完璧だ。言い訳の余地がないぞ。

 とうとう、トライアンフが負けるのか。

 

 その時、トライアンフの脳裏に稲妻めいて鋭利な閃きが過った。

 思考と感覚が同期し、刹那の中に数千の未来が演算された。

 

 上り切った。アオギリが少し前に出ている。セーフティリードが取れていない。残り100もない。こんな程度じゃあ、現状のトライアンフではそう加速できない。スタミナも最後の坂で使い切った。このままではトライアンフが負ける。

 そう、このままだと、負けるのだ。

 

 だが、ここにきてトライアンフの魂の奥底に、走馬灯の如き過去の情景が映し出された。

 

 

 

 トライアンフは、ターフスレイヤーのファンである。

 

 昔から上手く話せないトライアンフは、いつも伏し目がちに生きていた。

 加えて国語や道徳といった授業科目が大の苦手であり、作者の気持ちとやらがさっぱり分からなかった。

 いじめられていた訳ではない。避けられていた訳でもない。だが。トライアンフは明確に“普通の子”とは見做されていなかった。

 

 自然、トライアンフは一人を好むようになっていた。

 休日は家で過ごし、家族のいない日はぼーっとテレビを見て過ごしていた。

 そんな時だ。テレビ画面いっぱいに、トライアンフの人生を変えた映像が映ったのは。

 

 時は春。府中にて世代最強を決める大一番。日本ダービー。

 彼女は――蹂躙者・ターフスレイヤーは、無力な観衆に圧倒的な勝利を見せつけた。

 自信満々に、唯我独尊に。

 唯一抜きん出て、並ぶ者のいない孤独な笑みに。

 トライアンフは夢中になったのだ。

 

 なので、真似をして、走ってみると、才能がある事を知った。

 元々レースに興味はなかったが、走って勝つのは気分が良かった。

 この感覚を知らずに生きる事など、今では考えられない。

 

 トライアンフは、レースに感謝している。

 ターフスレイヤーという、孤高の優駿に憧れている。

 

 だからこそ、レースにてトライアンフは笑うのだ。

 強敵を前に、ターフスレイヤーならそうするだろうから。

 

 

 

「先頭は! ボクのモノだぁあああああ!」

 

 追い抜かれたが、直線では自分が速い!

 限界を超える時だ! やっと壁がきた。超える、超えてみせる! 自分は天才だ。つくづく天才だ。後の栄光など知った事か! 今、アオギリに、勝つ為だけに走っているのだ!

 限界を超えてこその英雄だ。その壁を今、飛び越える!

 

 残り60、捉えた。

 残り40、並んだ。

 残り20、ほんの少しだけ前に出た!

 

「ボクの!」

「ウチの!」

 

 速さの先の、到達点。天才にしか至れぬ境界線で、英雄は笑う。

 トライアンフは、勝利を確信した。

 

「勝ちだ!」

 

 魂の奥底。憧れの蹄跡の先へ。誰でもないウマ娘は、夢を追った。

 アオギリホウオウは、極端に前傾姿勢になった。

 

「全力や!」

 

 そして、一歩だけ、

 ほんの、一歩だけ、

 アオギリホウオウは、猛獣の如き爆発的な蹴り脚を発揮した。

 

 これまで溜め込んできたエネルギーを、これまで沿ってきた夢を、その刹那にのみ凝縮し、解き放った。

 時を同じくし、出走ウマ娘の全てが真なる力を発揮した。女帝が、騎士が、英雄でさえ、瑞風に吹かれた。

 夢へ向かうウマ娘を、止められる者などいないのだ

 

 

 

 これこそ、アオギリホウオウが持つ異能の本質。

 欠けた心故、形がない。純粋な憧憬故、形を成せる。時に熱く、時に鋭く、何者でもない魂故に、あらゆる色へと翼を染める。

 無我の境地の臨界者。天衣無縫の体現者。

 掛からせ力など、副産物に過ぎない。無限の如き体力など、精神の歪みからくる生存術に過ぎない。

 

 野生の解放。憧憬の具現。過去を背負って力に変える。夢想理想の特異点。

 ウマ娘は夢を乗せ、アオギリホウオウは憧れを追う。

 

 ――跛行する英雄。

 

 それが彼女の生きる道。

 これまで感じてきた全ての想いが、アオギリホウオウの力になる。

 

 

 

 芝が弾けた。怪獣の足跡が残った。そして躯体は、僅か数歩分ぶっ飛んだ。

 煌めく鳳凰が、色鮮やかな憧憬が、真っすぐ前へと飛翔した。

 

 その光景は、今アオギリホウオウを見ている多くの人々の記憶に残っているものである。

 カサマツのシンデレラ。葦毛神話の主人公。世界で最も愛されたウマ娘。

 

 そう、その末脚はまさに――。

 

 

 

「ゴォオオオル! クビ差捉えて勝ったのはアオギリホウオウ! クラシックに因縁をひとつ返しました! 2着はトライアンフ! 3着にインペラトリーチェです!」

 

 

 

 葦毛の怪物・オグリキャップそのものだった。

 

 

 

 どよめき。

 ざわめき。

 

 そして、会場の一部が爆発的な喝采を上げた。

 喝采はやがて会場全体に広がり、勝者の走りを賛美した。

 

 天才の敗北。一等星の遅れた輝き。

 瑞鳥の名を冠するウマ娘は、天高く拳を突き上げた。

 

「ウチが!」

 

 一拍置いて、割れんばかりの歓声が阪神レース場に響き渡った。

 

「勝った!」

 

 天まで届け。この眼をこの背をこの髪を見よ。

 ここにいるぞ。ここまで来たぞ。追ってきた、追って来い。

 この、世界で一番の鳳凰を。

 

「まずはァ! 一歩目ぇえええッ!」

 

 アオギリホウオウは、心の底から笑顔になった。

 かつて凶笑と言われ、忌み嫌われて来た笑顔を、誰憚る事なく表に出した。

 ひと目で彼女と分かるように、己を誇示してみせたのだ。

 

 

 

「ボク、負けたんだ……」

 

 ゴール板の先で、トライアンフは脱力して佇んでいた。

 自分ではないウマ娘を賞賛する声を聴きながら、敗北した英雄は立ち尽くしていた。

 全力を出した上での、初めて納得できる敗北だった。

 2着でも凄いとか、ほんの少しの差だったとか、そういう問題ではない。

 あの時、ゴール板を抜けた時に、彼女の心は完全に負けを認めていた。

 

「悔しいなぁ……」

 

 涙が出た。感情に乏しく、共感性に欠けた瞳に、大粒の涙が流れていた。

 

「楽しみだなぁ……」

 

 そして、次への期待があった。

 同世代に自分より強くなったウマ娘がいてくれた事への感謝があった。

 天皇賞か、宝塚か、あるいは安田記念かもしれない。ともかく、次に彼女と見えるレースが楽しみでならなかった。

 

 トライアンフにとって、アオギリホオウは推しウマ娘の一人になっていた。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「アオギリホウオウ! 勝ったのはアオギリホウオウです! ホープフルから、長かった! メイクデビューと同じ場所、そのGⅠで! アオギリホウオウ、シニア級GⅠ大勝利!」

 

 

 

 実況の声と、観客の熱狂が観覧室に響いていた。

 関係者室のアルデバラン一行は、チームメンバーの勇姿を目に焼き付けていた。

 

 アルデバラン一同は、アオギリホウオウの凄まじい強さに身を震わせていた。

 同じウマ娘だからこそ思う。彼女は既に競い合うべき好敵手なのだ。歓喜と、祝福と、闘争心がアルデバランの優駿たちに火を点けていた。

 

 中でも、アオギリのトレーナーたるターフスレイヤーの反応は顕著だった。手汗の滲む拳を握りしめ。溢れる歓喜を胸に噛みしめていた。

 指導者としての充足感が心を満たしていた。

 

 デビュー前から彼女を見て来た者には分かる。

 アオギリホウオウの走りには、アルデバランでの日々があった。

 

 彼女の心には、アグネスタキオンがいた。

 彼女の影には、ライスシャワーがいた。

 彼女の脚には、ミホノブルボンがいた。

 彼女の瞳には、オグリキャップがいた。

 

 心技体。すべてが揃っていた。理性と本能が矛盾なく同期して、揺るぎない共鳴を魅せてくれた。

 アオギリホウオウの魂には、アルデバランの全てがあった。自分の教えの全てがあの走りに在って、彼女の意思がそれ以上を見せてくれた。

 

 決して、レース環境に恵まれていた訳でもないウマ娘が。

 決して、勝ち続けてきた訳でもないウマ娘が。

 大阪杯という日本屈指の大一番で、大輪の花を咲かせたのである。

 

「素晴らしいレースだった」

 

 真横から、陶然とした声が聞えた。

 感じ慣れた気配、聞き慣れた声。いつの間にか、アルデバラン専用の観覧室にシンボリルドルフが入ってきていた。その事に気づけないほど、ターフスレイヤーは目の前の光景に夢中になっていた。

 

「ああ、当然だろ。私の弟子だぞ」

 

 馴染みの相手ゆえか、ターフスレイヤーは何も考えずに言葉を発した。それは思った事をそのまま口にするような、旧家では絶対にしない振る舞いだった。

 

「ああいうレースを見ると、脚が疼くな。私も、今すぐレースを走りたくなってしまう」

「そうか。変わらんな」

 

 苦笑するターフスレイヤーに対し、トレセン学園の頂点は首を傾げた。

 

「君もそうじゃないのかい?」

「……いや。そうはならないな」

 

 ややあって、首を振る。

 

「耳に出てるぞ」

 

 言われて、努めて感情を抑え込んだ。そして、鼻息と共に言葉を吐き出した。

 

「だとしてもだ。それは不特定多数を巻き込んで発散されるべき欲求じゃない。まして、レースでなど……」

 

 言葉の途中、ゴール板の向こう側を眺め見た。同時、勝者と目が合った。

 彼女は、真っすぐアルデバランのいる観覧席を眺めていた。力強く、揺らぐ事なく、しっかりと地に足ついて立っていた。

 その佇まいに、かつての不安定さはない。一人のアスリートとして、しっかりと自立していた。

 

 そういう様を見ると、思うのだ。

 トレーナーをやってきて良かった、と。

 

「アオギリホウオウ、よく成長しているな」

「ああ……」

 

 頷き、他の出走ウマ娘にも、思う。

 勝ったアオギリホウオウだけではない。出走していたウマ娘の全員、その身体のあらゆる箇所に、たゆまぬ努力の痕跡を見て取れた。夢に向かって、夢を背負って、一心不乱に走ってきた証左があったのだ。

 努力するから凄いのではない。勝ち負けで評価されるのではない。その在り方、生き様をこそ、ターフスレイヤーは賛美するのだ。

 

「ああ、そうだな……」

 

 ウマ娘学の間では、“ウマ娘は走る為に生まれてきた”という説が存在する。何ら科学的な根拠はないが。ウマ娘であれば不思議と納得のいく学説である。

 それも。彼女等は野生動物のように生存競争の為に走るのではなく、ただただ競って走るのである。

 本能的に、心の奥にある“何か”に導かれるようにして。

 

 その感覚を、無敗七冠の王者は羨ましく思う。

 忘れてしまった尊さを、想起してしまうのだ。

 

 暫し、ターフスレイヤーは熱気に満ちた阪神レース場全体を見つめていた。

 

 そんなウマ娘の横顔を見やり、皇帝は咳払いをひとつ。

 

「ところで、今度トレセンで改装工事される新しい芝コースについてだが」

 

 瞬間、ターフスレイヤーの自意識はニンジャトレーナーへと切り替わった。

 

 工事の話は去年の春ごろから議題にあがっていた事である。忘れやしない、夏の合宿中というクッソ大事な時期にリモート会議で呼び出された過去があるのだ。

 兎も角、コースの改装となるとそれはかなり大規模な話になる。費用はトレセン持ち……というか、理事長持ちなので金銭面の心配はないが、練習に使えるであろうコースの事となれば今後のチーム方針にも少なからず影響が出るだろう。トレセン関係者として。聞き逃す事はできない。

 

「工事の完了は来年の冬暮れになる見立てだ。春になれば使用できるようになる」

「そうか」

 

 シンボリルドルフが言っているのは、トレセン内に設けられる予定の洋芝を用いた疑似欧州バ場コースの事だ。

 これは近年海外で良い成績を収めているアルデバランの功績が大きい。今後はそれに続くウマ娘も増えていくだろう事を見越して、ホームである中央トレセンにも専用のコースを設置しようとなったのだ。

 ちなみに、暑い環境では栽培の難しい洋芝をどうして東京で使うとなったかは、某メジロと某シンボリの共同開発によって生まれた「超耐暑ペシ」なる芝が関わっているのだが、それは別の話だ。

 

「で、だ。使用に問題ないとなれば、お披露目を兼ねて春のファン感謝祭で催しのレースを行う予定だ」

「ほう、それは凄い集客ができそうだな」

 

 トレセン学園のファン感謝祭とは、春と秋の年に二回開催されるお祭りの事だ。基本、春は体育会的な、秋は文化祭的な催しが主になる。

 そのどちらも毎年凄まじい数の来場者で溢れかえる事になる。それも、新コースのお披露目レースがあるとなれば、各メディアだけでなく入園予定のウマ娘たちの注目度も高くなるだろう。ファンとの交流とは、レースの発展には欠かせないものなのだ。

 

 一拍置いて、シンボリルドルフは続けた。

 

「既に出走予定は組まれていてな、すごいぞ。ナリタブライアンに、ミスターシービー、マルゼンスキー。サイレンススズカもその日に合わせて来日する、そして私も出る予定だ」

「それは、まるで夢のGⅠレースだな。いち学園のソレとは思えん」

 

 ルドルフの口ぶりは楽しげで、まるで好きなアニメを語る子供のようである。

 対し、ターフスレイヤーは苦笑した。トレーナー視点、そんなレースを生で見れるなど職権乱用に思えてならない。金とか払わなくていいのかな。

 

 そして、皇帝は笑みを消すと、真剣な瞳で蹂躙者を見つめ、云った。

 

「そのレースに、君も出てほしいと言ったら?」

 

 皇帝の言葉は、ターフスレイヤーには寝耳に水だった。

 ターフスレイヤーというウマ娘は、既にトゥインクル・シリーズから抹消されたウマ娘である。トレセン学園にも退学届けを出して久しい。そもそも、今の彼女はトレーナーだ。

 それを、非公式の場とはいえ表に引っ張り出すというのは、どうなんだと思うのだ。レースに出るトレーナーなど、前代未聞だ。

 

「バ鹿な事を言うな、出る訳ないだろ」

「何故?」

 

 ため息、そして苦笑。ターフスレイヤーは冗談を聞き流すように返した。が、ルドルフはなおも真剣な眼で見つめ返してきた。

 皇帝の眼と、蹂躙者の眼が交錯する。

 久しぶりに、シンボリルドルフの眼を見た気がする。見つめられると、どこまでも真っすぐな瞳の前では嘘を言えない気がした。

 ちょっぴり気が重いが、ターフスレイヤーは素直に内心を吐露する事にした。

 

「……私は、まともなウマ娘じゃない。チートでイキッてただけの害悪競走者だ。そんな私が出走してしまえば、レースが穢れてしまう。それが、嫌だ」

 

 自嘲げに、努めて無味乾燥に答えた。紛れもなく本心である。

 レースが好きだからこそ、ルドルフのファンだからこそ、ウマ娘にとって申請な場であるレースで自分のような異物が混じる事を、ターフスレイヤー自身が許せないのだ。

 

 そして、ルドルフが何か言い返そうとした。

 

 

 

 次の瞬間である!

 

 

 

「どぼじでぞんなごどいうんでずがぁあああッ!」

 

 どぎゃん! という破壊音。

 観覧ブースの入り口から、久しく聞き慣れた甲高い声が聞えて来た。

 

 振り返ると、そこには童顔貧乳低身長の二刀流ウマ娘――アグネスデジタルが、顔面をぐしゃぐしゃにして立っていた。

 見れば、ウマ娘の膂力でこじ開けられたと思しきドアは可哀想な事になっている。それと同じくらいアグネスデジタルの顔は涙とか鼻水とかで大変な事になっていた。

 

「デッ……デジたんッ!?」

 

 アグネスデジタル見参!

 彼女こそアルデバラン海外遠征残留ウマ娘、アグネスデジタルである。

 

 万能の勇者・アグネスデジタル。

 彼女は現在日本にいるチーム・アルデバランの中で唯一日本を離れて活躍するウマ娘だ。芝もダートも構わず走り抜く彼女は、英仏米等々構わず暴れまわるURAのやべーやつである。

 

 そんなアグネスデジタルはというと、整った顔をめちゃくちゃに歪めながら滝の様に落涙し、濁音混じりに言葉を吐き出した。

 

「トレーナー=サンは、あたしに沢山いろんな事教えてくれました! 芝でもダートでも海外でも、どこでも走れるよう親身になってサポートしてくれました! そんな優しい貴女がまともじゃないなんて言わせません! 誰が何と言おうとです! 例えそれが貴女自身であってもです!」

「いや、オヌシは今アメリカじゃ――」

「それに! 誰が何と言おうとターフスレイヤー=サンはウマ娘ちゃんなんです! ウマ娘ちゃんが走れない世界なんて狂ってますよ! おかしいですよトレーナー=サン! そんな世界、修正してやる!」

「デジタル、お前……」

 

 剣幕に押され、言いよどむターフスレイヤーに更なる知己のエントリーだ。

 

「私も、概ねアグネスデジタルさんの意見に同意します」

 

 デジタルの後に続いて、黒髪の女性が入室してきた。

 彼女は開けっ放しのドアを戻しつつ、言葉を継いだ。

 

「久しぶりですね、ターフスレイヤー」

「樫本、トレーナー……!?」

 

 樫本理子。誰あろう、彼女はターフスレイヤーが現役だった頃に担当していたトレーナーである。

 最近では、アグネスデジタルの海外遠征の付き添いを買って出てくれたのも彼女である。また、彼女はレース関係者では数少ないニンジャトレーナーの素顔を知る者の一人だ。

 

 そんな彼女は、呆気に取られているターフスレイヤーに鎮痛そうな目を向け、まるで懺悔するような声色で云った。

 

「貴女には、たいへん辛い思いをさせてしまいました」

「いえ、そんな事は……!」

 

 反射的に返すターフスレイヤーだったが、樫本トレーナーはなおも憂いを込めた瞳のまま、小さくかぶりを振った。

 

「それこそ、いいえです。ウマ娘ファーストなどと言いつつ、結果的に貴女を苦しめる道へと進ませてしまいました。後悔があることを否定できません」

 

 樫本トレーナーは、ターフスレイヤー引退後のごたごたを一手に引き受けた、ターフスレイヤーにとっての大恩人である。

 有馬記念の後、ターフスレイヤーをメディアから遠ざけ、プライベートを守り、トレーナーとしての道を支援し、諸々の援助をしてくれたのも彼女だ。

 そんな恩師の顔を見ると、ターフスレイヤーは一人のウマ娘になってしまうのである。

 

「私は……今を、気に入っているのです。樫本トレーナーが謝るような事ではありません。それに、勝手してたのは実際その通りで――」

「あの時、貴女は子供でした」

 

 ぴしゃりと言われた言葉は、まさにトレーナーとしての自負に満ちていた。

 先輩トレーナーは戒めるように、教えを授けるように続けた。

 

「子供を窘めるのは大人の役目。担当ウマ娘を導くのはトレーナーの義務。私は、そのどちらも間違えてしまったのです。貴女が今、私と同じ状況なら、どう思いますか?」

「それは……」

 

 瞬間、考える。

 

 仮に、オグリキャップのスター性に目がくらんで、彼女の意に添わぬ道を進ませてしまったのだとしたら。

 仮に、アグネスタキオンが本当の意味で速さの先に行ってしまったのだとしたら。

 仮に、競り合わせ続けたミホノブルボンとライスシャワーが共倒れして、取り返しのつかない事になっていたとしたら。

 

 後悔しない訳がなかった。

 

「前を見なさい、ターフスレイヤー」

 

 息を呑むターフスレイヤーに、元担当トレーナーは語気強く言った。

 

 ターフスレイヤーは、思わず目を逸らした。

 生物としての格では、こちらの方が圧倒的に上だ。しかし、ウマ娘としての理性が彼女の言葉に従順の姿勢を見せている。

 

「私は……」

 

 葛藤があった。

 求められ、勧められ、歓迎されてレースを走るという誘惑。過去にレースを穢したという罪の意識。

 さんざん自分勝手をした手前、これ以上はダメだと己の理性が言うのである。それでもと、飢えた本能は降って湧いたチャンスに身震いしていた。

 

 ふと、視界の隅で大型モニターに映るアオギリホウオウの姿が映った。

 彼女は、同じレースを走ったライバル達と健闘をたたえ合っていた。肩を叩き、再戦を誓い、拳を突き合わせていた。

 そこには、もう二度と得られない青春があった。

 

「……走れません」

 

 アオギリホウオウだけではない。

 シンボリルドルフも、マルゼンスキーも、サイレンススズカも……。

 ターフスレイヤーという異物には、あまりにも眩し過ぎる。

 

「彼女たちと同じレースを走る事が、恐ろしいのです……」

 

 ターフスレイヤーという競走者は、ファンが思っているような強いウマ娘ではない。

 理想に負け、誘惑に負け、安易な勝利に負けただけの敗残兵に過ぎないのである。

 その性根もまた、負けウマ娘のそれであった。

 

 一瞬の静寂、その沈黙を葦毛の怪物は一刀両断した。

 

「私は出るぞ」

 

 視線が動く。オグリキャップは、ニンジャトレーナーを通してターフスレイヤーの眼を覗き込んでいた。

 

「私は、トレーナーと走る為にずっと現役で走ってきた。まだ、貴女の夢を果たせていない」

 

 オグリキャップのレース歴は長い。

 第一線を退いて尚、その栄光は世界という舞台で輝くほどに。

 

 そんなウマ娘に続くように、他のアルデバランのウマ娘も声をあげた。

 

「肯定。私も同様です。私は真の意味で、貴女に恩返しをできていません。私の夢を、クラシックを走る夢を支えてくれた貴女への感謝を」

「ライスも、同じ気持ちだよ。本当の意味でライス達にくれた優しさをお返しするチャンスは、多分レースにしかないと思うから」

「全く同じではないが、まぁ一部は同意できるね。それに、モルモット=サンには責任を果たしてもらわなくちゃあ。速さの果て、その狂気の片鱗を私に焼き付けた責任をね」

「デジたんもそう思います!」

 

 次々上がる声に、ターフスレイヤーは困惑しきりだ。

 そもそも彼女等が件のレースに出走する事自体初耳であるし、なんだか置いてけぼりにされてる感があって、かなり寂しいトレーナー心である。

 

「しかし、それでは……」

 

 ところで、ターフスレイヤーには無意識に他人を下に見る悪癖がある。

 元々そういった気質だった訳ではないが、彼女がニンジャになってから、自然とそのようになっていた。

 だからこそ、彼女はある前提の元に話している。

 その前提が、皇帝の心を燃やすのだ。

 

「我々を無礼( なめ)るなよ……!」

 

 皇帝がその異名通りの神威を発した。

 彼女は今、全盛期以上の覇気を纏って半神に相対した。

 

「有馬記念で、私は完膚なきまでに敗北した。自負と共に、驕りがあった。私なら、君を止められると思っていた」

 

 それは悔恨であった。行いへの、自分自身に対する戒めでもあった。

 そして、彼女はそこで心折れる魂の持ち主でもなかった。

 皇帝とはその力にあらず、魂魄にこそその所以があるのである。

 

「私はな……!」

 

 激情を支配する。野生が染み出て、それを個人に向けて放射する。

 

「私は……あの日お前に負けてから、ずっとお前に勝てるようトレーニングを続けてきた」

 

 シンボリルドルフもまた、オグリキャップ同様にレース歴の長いウマ娘だ。

 本来、第一線を退いたウマ娘の実力というのは衰えて然るべきものであるが、皇帝たる彼女は自身の衰えを許さなかった。

 

 むしろ、皇帝は強くなっていた。

 如何にしてか、限界の先に誰より早く到達していたのだ。

 友との再戦の為、運命を超えて来たのである。

 

「この意味が分かるか、レイ……!」

 

 幼馴染への強い想いが、皇帝の道行を照らすのだ。

 

「答えなさい。ターフスレイヤー」

 

 再度、樫本トレーナーが云った。今度は子供を相手にするように、優しい声色で。

 

「未練を断ち切る為に。あるいは、欲求を満たす為でも構いません。今走らねば、貴女は一生レースに囚われて、過去を引きずって生きていくでしょう」

 

 後悔した側から、後悔しないように。

 あの時できなかった事を、その清算を成すよう促した。

 

「勇気を出して、一歩踏み出すのです」

 

 それは、かつてターフスレイヤーがアオギリホウオウに云った言葉であった。

 強要するのでなく、背中を押すのでもなく、ただ勇気づける為の言葉。

 決断には、勇気がいるものだ。

 

「できるでしょう?」

 

 いくつもの瞳が、ターフスレイヤーを見ている。

 強く、熱く、想いに満ちた双眸が、揺れる魚目を見つめていた。

 

 

 

 そうして、ターフスレイヤーは、手渡された切符を手に取った。

 覚悟を以て決断した訳でもなければ、空気を読んだ行いという訳でもない。

 

 ただ、誘惑に負けたのである。

 レースの誘惑に、敵うウマ娘はいないのだ。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 アオギリホウオウというウマ娘は、走る理由が稀薄だ。

 

 最初は漠然と、母の夢だというクラシック路線を目指していた。

 だがそれは期間限定で、クラシックが終わると使えなくなってしまった。

 期限が過ぎると、走る理由を見失ってしまった。

 

 動機があるのとないのとでは、努力の結果に雲泥の差が出るものだ。

 あるウマ娘は、自分の為だけに走ると言った。

 あるウマ娘は、大した理由はなく、走りたいから走るのだと言った。

 またあるウマ娘は、他者へ勇気を与える為に走ると言っていた。

 それらに正解はない。まして不正解もない。

 あるのはただ、納得である。

 

 アオギリホウオウは、聞き知ったどの思想にもしっくりこなかった。理解はできるが、心底納得できるものではないように思えた。

 母の為と言えば、それっぽいから。自分の為と言えば、それっぽいから。

 アオギリホウオウは常に、それらしい無難な理由で走ってきたのである。

 

 けれど、今は違う。

 

「アオギリホウオウ、君は……」

 

 アオギリの中には、想いがあった。

 明確な目標が在ったのだ。

 何を目指して走るのか。何の為に走るのか。

 その心には、これまでになかった揺るぎない指針が定まっていた。

 

「ウチ、取ってくるわ」

 

 熱く、眩く、当たり前のようにあったもの。

 原体験の奥底に、それは確かに存在したのである。

 それは、あまりにも小さな答えだった。

 

「ん、何を?」

 

 想いを抱いた時、大きな空を飛ぶ勇気を得たのである。

 

「世界一の証明」

 

 そのままの自分なら、考えもしない。

 多くの支えがあったとて、目指す事さえ困難だ。

 しかし、思うのだ。

 

「それって、もしかしてもしかする奴ですの?」

 

 あの日、自分に大きな夢を魅せてくれた彼女なら。

 自分にとっての、世界最高の夢幻のヒーローなら。

 

「無理やと思うやろ。まあ、ウチもそう思わんでもない。けどな、夢を見せるくらいはできる思うんよ」

 

 そう思わせてくれる夢を、アオギリホウオウは確かに持っていたのである。

 

「お父さん、お母さん……」

 

 アオギリホウオウは、空に向けて宣言する。

 春の蒼天。夏の昊天。秋の旻天。冬の上天。

 四天の下で、思い切り謡いあげるのだ。

 

「オトン、オカン……」

 

 存在の証明。

 生誕の感謝。

 虹の向こうへ、届くように。

 

 

 

「凱旋門、行ってくるわ」

 

 

 

 アオギリホウオウというウマ娘が、“愛”に満ちている事を。




 次回、最終話です。
 エピローグと併せて二話投稿予定です。
 いつになるかは分かりませんが、土曜の21時に投稿すると思います。

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