【完結】ニンジャと白面   作:いらえ丸

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 最終話です。本日1話目。

 意外と早く投稿できました。
 かなり勢い任せに書いたので、推敲甘いかもしれません。あとでこっそり手直しする可能性。

 ちょっと長いですが、できたら一気読みしてほしいという作者心があります。



The Other Side of the World

「態勢整いまして、凱旋門賞……今スタートしました。アオギリホウオウ良いスタートを切りました。果敢に飛ばします。リードを伸ばしていきます1バ身2バ身……」

 

 凱旋門賞。それは、誰もが知っているであろう世界最高の大レースだ。

 昔、アオギリホウオウはレースに関心がなかった。だから、テレビでも何でも一度として件のレースを見た事はなかった。

 興味がなかった。自分には関係のない世界の話だと、そう思っていた。

 けれど、今はその地で走っている。

 

「ここから先は上り坂です。ゆったりした上り坂、先頭アオギリホウオウぐんぐん駆けていきます。坂も平地も何のその、後続との差を広げていく。これはかなりペースが早い」

 

 そうして、いざ走ってみたロンシャンレース場は、どうにも脚に合っていた。

 背が高く、生え放題でボーボーの芝はアオギリホウオウには走りやすかった。よく手入れされた日本の芝とは全然違う。深く沈む蹄鉄も、強く踏み込む感触も、クッションみたいで気持ちが良かった。

 

「リードは4バ身、これからしばらく直線があります。アオギリホウオウ単独、前を走ります。トライアンフは中団の内で走っています。脚色は良さそうです。直線ですが、少し先にもまた直線。アオギリホウオウ、リードを維持します」

 

 出走前、トレーナーはものすごく緊張していた。あれこれと言っていたが、どうにも声が上ずっていて、ちょっと面白かった。

 チームの皆も、優しく声をかけてくれた。かつて、凱旋門に阻まれた先輩から“想い”を託された。

 

「最後のコーナー曲がって最終直線。あと500! あと500で凱旋門賞決着です! アオギリホウオウ飛ばします! 後ろからトライアンフ! トライアンフ追ってきた! 他はどうだ! 他は追いつけない! トライアンフとアオギリホウオウ、日本のウマ娘たちが鎬を削っています!」

 

 凱旋門賞は、世界中のウマ娘が夢見る最高のレースだと、色んな人が言っていた。

 栄光あるレースだ。そこを勝てば、歴史に名を残す世界一のウマ娘と認められるのだ。

 そう、聞いた。

 

 アオギリ視点、ぶっちゃけ興味はなかった。栄光とか、名誉とか、いまいちピンと来ない。

 けれど、アオギリが勝つ事で、アオギリが世界一になる事で、幸せになる人がいるのは知っていた。

 その栄光とやらが、あまねく世界に広がるのならと、そう思えばやる気が出た。

 

「残り300! トライアンフが! いや、アオギリホウオウ! アオギリホウオウが前を譲らない! トライアンフ追いつけない! 差が広がる! まだ伸びます! ここにきて加速していますアオギリホウオウ! これは恐らく勝ったでしょう! 後ろからは何にも来ない! 後ろからは何にも来ない! 強い強い強い! 煌めく尾花栗毛! 飛び立つ鳳凰! まだ伸びる! 7バ身いや8バ身! アオギリホウオウ笑っている!」

 

 父よ、見ていますか。

 母よ、見ていますか。

 あなた達の子供が、今凱旋門賞を走っています。

 この声援が聞こえますか。想像もできないような、託された夢の大きさが、見えていますか。

 あなた達にもらった、この小さな背中にある、大きな愛が分かりますか。

 見守っていてください。けれど、どうか手をお貸しにはならないでください。もう、一人でできるのです。虹の向こうで、ただ見守っていてください。

 

 安心して、私はもう大丈夫なのだから。

 

 

 

「アオギリホウオウ! 今、ゴォオオオールインッ! やったやった! 圧勝! 日本初! 史上初の快挙です! 日本のウマ娘が、初めてこの地で先着しました! 数多の優駿が、アルデバランの誰も成せなかった夢を! アオギリホウオウ、叶えました! 着差、なんときっかり10バ身! 強すぎる! そしてこの笑顔! 満面の笑みです! 遠く大空に手を振っています!」

 

 

 

 聞こえていますか、私の名を呼ぶ沢山の声が。

 

 あなた達の娘の名前です。

 

 アオギリホウオウという、唯一無二のウマ娘の名を。

 

 どうか、誇ってやってください。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 季節は過ぎていく。

 

 桜が散り、ひぐらしが鳴いて、紅葉が色づく。雪が降って、また花が咲いた。

 春夏秋冬が巡るように、トゥインクル・シリーズもまた新たな風を呼んだ。新しい世代の台頭。伝説の幕引き。故も知らぬウマ娘の別れ。

 数多あるドラマの中で、多くの涙と祝福があったのだ。

 

 中でも、去年のレースの熱狂は多くのファンの心に残っていた。

 

 

 

 瑞鳥・アオギリホウオウ。

 春のGⅠである大阪杯を制したアオギリホウオウは、続く宝塚記念を勝利し、遠くロンシャンの地へとその蹄鉄を進めた。

 フォワ賞を制した後、凱旋門賞でその栄光を世界に刻んだのである。

 着差10バ身という、圧倒的な勝利だった。

 日本初の凱旋門賞制覇は大いに世間の関心を買い、アオギリは一躍時の人となった。

 これにはメディア嫌いのアルデバランも大わらわ。チーム・トレーナーたるターフスレイヤーだけでは手が足りず、時に多くの人に助けられたりもした。

 

 そして、アオギリのライバル達もまた輝かしい蹄跡を残した。

 インペラトリーチェは安田記念とマイルチャンピオンズカップを逃げ切り勝ちし、快速逃げウマ娘の名をほしいままにした。

 スペードテンは春と秋の天皇賞を制し、その誇りをターフに刻んだ。

 トライアンフはヴィクトリアマイルとジャパンカップを勝利し、その強さをファンに証明した。

 

 そして、再度終結したライバル達は、有馬記念で決着をつける事となった。

 のだが……。

 

 

 

「ゴォオオオル! 勝ったのはミニコスモス! 2年連続、有馬記念を制しました! 2着はアオギリホウオウ! 3着はインペラトリーチェです! 4人横並び! ハナ差! ハナ差の大接戦!」

 

 

 

 意外なことに、そのレースで勝ったのは世代四強の誰かではなく、アオギリホウオウと同期のウマ娘だった。

 レースは何が起こるか分からないものである。

 

 そんなこんなありつつ、ウマ娘にとって大事な三年間を駆け抜けた彼女等は各々違う道を往く事になった。

 

 アオギリホウオウは、変わらずレースの道を。

 インペラトリーチェは、デザイナーの道を。

 スペードテンは、医学の道を。

 トライアンフは、アオギリ同様にレースの道を。

 

 ウマ娘は走る為に生まれてきたと言われるが、彼女等の道は走る為だけにあるのではない。

 それぞれが自分で見つけた道を駆け抜けるのである。

 

 まだまだ、鳳凰は駆ける。

 よく走って、素晴らしい戦績を修めたアオギリホウオウだったが、本人視点アオギリホウオウというウマ娘は未だ道半ばもいいとこであった。

 やれ凱旋門ウマ娘だやれ寒門の英雄だの言われるが、彼女自身は全くそうとは思っていない。

 ぶっちゃけ、これまでのレースは全て前哨戦に過ぎない。

 彼女の本当のレースは、ここから始まるのだ。

 凱旋門賞も、宝塚記念も、大阪杯も。

 今日、このレースに勝つ為に走ってきたのだから。

 

 トレセン学園、春のファン感謝祭。

 新芝コースお披露目レースである。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「アオちゃん」

 

 レース前、控室まで付き添ってくれたカブが声をかけてきた。

 カブはアオギリにとって莫逆の友である。トレセンに来て初めてできた友達であり、ルームメイトであり、アオギリの事を最も近くで見てきたウマ娘だ。

 現在、彼女はデビューに向けてトレーニングに励んでいる。トレーナー探しに奥手だった彼女も、勇気を出してコッチから頼みこんでいったのだ。結果、担当トレーナーをゲットする事ができた。

 かつて望んでいたイケメンのトレーナーという訳ではないが、ベテランの老年トレーナーと二人三脚で毎日トレーニングに励んでいる。

 曰く、アオギリホウオウのおかげで色々な決心がついたのだ、という。

 

「行ってらっしゃい」

 

 背後からの声。無二の親友は羽織をかけてくれた。

 闇夜に羽ばたく鳳凰の刺繍。地の底から天の果てまで飛んでいく。アオギリホウオウの心意気を表す最高の衣。

 友達から友達へ、その背に夢を託すように、カブはアオギリの背を撫でた。

 

「ん、行ってくるわ」

 

 アオギリホウオウ。彼女は羽織の着心地を確かめ、歩み出した。

 頼れるチームメイトの元へ。

 

「来たか、アオギリ」

「準備は万全でしょうか」

「がんばろうね、アオギリちゃん」

 

 憧れの先輩方だ。頼れるチームメイトだ。

 そして今は、戦友だ。

 

「はい、行きましょうか」

 

 アオギリ史上、一世一代の大勝負。

 ついに、幕が上がるのだ。

 

 

 

 一方、レースの誘惑に負けて出走する事になったターフスレイヤーは。相も変わらずスーツにお面のニンジャトレーナースタイルでスタンバっていた。

 今しがた、パドックでは出走ウマ娘たちの紹介が終わったところである。

 ターフスレイヤーは、本レースのスペシャルゲスト枠として出番を待っているのだ。

 

 幕の向こうでは、実況マイクを握るサクラバクシンオーが司会進行している。

 今日はスペシャルゲストがいるとか。それはとても有名なウマ娘だとか。

 マイク越しの声色には、常ならぬ上ずった高揚があった。

 

 ――緊張しているのか?

 

「どうだろうな」

 

 鼓動と呼吸は正常で、けれど心が落ち着かない。

 呟く言葉も、どこか空虚だ。 

 

「なんというか……現実感がない」

 

 呼ばれて、幕の下ろされたパドックに立った。

 眼前の布が上がれば、恥知らずのウマ娘が多くの目に晒される。

 

 思い返せば、デビュー前はとにかくここに立つ事を目標にしていた時期もあった。

 デビューもできず、スカウトもされず、チームに届け出る勇気もなかった。

 ただただ、トゥインクル・シリーズで走りたかった。

 そして、シンボリルドルフと競ってみたかったのだ。

 

 だが、今はこの向こう側が怖い。

 

「……私が出て、会場は冷めたりしないだろうか」

 

 それは、分からない。

 分からないが、やり遂げるべきだ。なにせ出走を承認したのは自分自身だ。自分で決めた事は、やり切らねばならない。

 またあの時みたく、逃げ出すのだけはダメだ。

 

 パフォーマンスは、まぁ慣れている。覚悟を決めろ。まだ本番前なんだぞ。ターフスレイヤーは早鐘を打つ胸に手を当て、自嘲した。

 

 一丁前に、何をやってるのだか。

 

「さぁさぁさぁ! 今回のスペシャルゲストのご登場です!」

「……よし」

 

 泣いても笑っても、これで自分の生活は一変するだろう。

 罵倒されるかもしれない。ヤジを飛ばされるかもしれない。

 けれど、ケジメはつけなくてはならない。

 

 勇気を出すのは、今だ。

 

 

 

 学園の催しにしてはずいぶんと気合の入ったパドック前には、大手ウマ娘メディアや一般来場者がごった返していた。

 集う観客の熱気は凄まじい。レース前だというのに、その盛り上がりは既に最高潮だ。何故なら、これまで姿を現したウマ娘は皆、例外なくスターの中のスターだったからだ。あまつさえここにきてスペシャルゲストというのである。

 一体誰が来るのだろうか、記者陣や観客たちは各々の予想をした。ゲストというなら海外ウマ娘だろうか。だとしたら誰だろう。もしかして、あのモンジューだろうか。

 観客たちは、その時を待っていた。

 

「本日のスペシャルゲストは……この方です!」

 

 ざわり、空気が震える。次いでスモークが焚かれると、幕が開いて一つのシルエットを浮かび上がらせた。

 注目が集まる。息を呑み、目を凝らす。熱のこもった静寂が、パドックの周囲を覆った。

 

 煙が晴れる。そうして現れたのは、スーツを着た忍者頭巾にキツネ面の怪人であった。

 スーツのスタイルはイタリアン。ボタンの数は2つ。パンツはデーパード、裏地はウマ娘用。仮面の形はキツネ。頭巾の色は血の様な赤。あまりにも分かりやすい特徴。あまりにもあんまりな組み合わせ。知る人は少ない、けれど知る人は忘れない。その者こそ、まごう事なき敏腕指導者。

 ニンジャトレーナー。謎多きアルデバラン・トレーナー。彼か彼女か知らないが、その異様は記者たちだけでなくある程度トゥインクル・シリーズに詳しい人なら知っている。見た事がない人でさえ、奇人変人の類である事は一目でわかった。

 

 パドックを見に来た全ての人が思った。

 一体全体、こんな変人が何故ここに?

 

「スゥーッ! ハァーッ!」

 

 彼女の呼吸が、やに静寂のパドックに響き渡った。

 

 その時である!

 

 バッ! と頭に手をやって、ニンジャトレーナーは自身の特徴を破り捨てた! 天高く舞い上がる頭巾とお面。やがてカランと音を立ててキツネ面が落ちた時、その場の視線は釘付けになった。

 

 サラリと尾花栗毛がたなびいた。

 ギラリとオッドアイが煌めいた。

 ぴょこんとウマ耳がおっ立った。

 

 現れたのは、スーツを着たウマ娘だった。

 

 彼女の顔に感づいたファンは、唖然とした。

 初見の人は、その美貌に目を奪われた。

 

 そして、尾花栗毛のウマ娘は自身のスーツに手をかけ……。

 

「イヤーッ!」

 

 裂帛の気合と共に、天高くスーツを投げ放ち垂直跳躍! 空中で三連続回転を決め、膝立ち姿勢で着地した。おお、ゴウランガ! なんたる早業であろうか! 瞬く間に、彼女は赤黒の勝負服に身を包んでみせたのである!

 

 ここにきて、レースに詳しくない観客も気が付いた。彼女の正体に、ニンジャトレーナーの正体に。

 

 赤黒のニンジャ装束。金の鬣。刃の流星。異色の虹彩。控えめな艶黒子。赤のマフラーに書かれた「忍」「走」の決断的フォント!

 そして、彼女はオジギ姿勢を取り、合掌した。

 

「ドーモ、ターフスレイヤーです」

 

 アイサツは大事だ。これはターフスレイヤーがデビューからずっと行ってきたパドックファンサだ。奥ゆかしく、流麗な、斜め45度のオジギ。

 この様を見て、彼女を思い起こさないファンなどいない。

 

「「「「「アイエエエエエエエ!? ターフスレイヤー? ターフスレイヤーナンデ!?」」」」」

 

 タ ー フ ス レ イ ヤ ー 参 戦 !

 

 瞬間、ウマッターのトレンドは阿鼻叫喚の地獄と化した。

 手の速いファンはスマホを操作しあれやこれや書き込んで瞬く間に拡散。“#ターフスレイヤー復活”がトレンド入りし、何かよくわからんけどバズりには敏感な層がタフスレとは何ぞやと検索エンジンをぶん回す。

 一瞬にして、古今東西リアルもネットもお祭り状態にしてのけたのである。

 

 ターフスレイヤーの懸念など、何の事やら。

 彼女はやっぱり、スターなのだ。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

 本日、トレセン学園でお披露目される新コースとは海外遠征の調整用に作られた練習用洋芝コースである。

 その外観は日本ではオーソドックスな俵型。楕円の中には距離調整用の区切りがあり、上手く使えば色んな距離と曲線で練習ができる作りになっている。今回使用されるのは、その外周全てを使った2400コースだ。

 中央で使われるレース用コースとは違い、特に細かなギミックのない、練習用そのままのシンプルなコース構成だ。故に、もろに地力が出る。

 

 

 

 慣れない新種洋芝の感触を確かめながら、ターフスレイヤーは向けられる多くの視線を努めて無視していた。

 観客席からは、ざわざわとした混沌とした視線を。出走ウマ娘たちからは、どこかよそよそしい視線を。他者からの目には慣れたはずのターフスレイヤーはしかし、ちょっぴり肩身を狭くしていた。

 

 そんな内心を誤魔化すべく、いつものようにアルデバラン・メンバーに声をかけようとしたが、今はトレーナーではない自分がどんな顔をすればいいか分からなくなり、やめておいた。

 この場には、アグネスの二人を除くアルデバランが勢ぞろいだった。けれど、コースの中でターフスレイヤーは独りだった。否、本来レースとはそういうものだ。一人で走って、一人が勝つものだ。

 とはいえ、トレーナーとしては寂しい気持ちがあった。

 

 独りぼっちのウマ娘は一息吐いて、遠く青空を眺め見た。

 

「ある二人の囚人が、監獄から外を見ていた。一人は泥を見た。一人は星を見た」

 

 背後から声。振り返ると、勝負服姿のシンボリルドルフが腕組み姿勢で立っていた。

 泰然自若とした立ち姿には、普段は隠している皇帝の威厳が纏われていた。

 

「何の事か分かるかい?」

「ジョジョだろ」

「違うよ」

 

 苦笑し、首を振る。

 そうして、シンボリルドルフは静かに語った。

 

「小さな頃から、私はずっと星ばかり見ていた。善き人たらんと、強者たらんと思ってね。だが、君に負けてから、分かった事があるよ」

 

 二人の間に、気の利いた相づちは要らない。ターフスレイヤーは沈黙をもって続きを促した。

 そんな彼女の態度を懐かしみつつ、皇帝は真っすぐ目を見て云った。

 

「真に皇帝たらんとするならば、星も泥も見るべきだったんだ」

 

 自嘲げに、しかしどこか誇らしげに、星の如き皇帝は笑んだ。

 

「意味がわからん」

 

 その言葉の意味をターフスレイヤーは全く理解できなかった。

 ルドルフは「だろうね」と笑って、対戦相手に背を向けた。

 

「追っかける側というのも、まぁ楽しかったという事さ」

 

 

 

 やがて、始まりのファンファーレが鳴り響いた。

 この日の為に召喚した演奏者が生音源を演奏すると、観客たちが手を叩いてレースへの期待を煽った。

 

 芝の上でファンファーレを聴くのはいつぶりだろうか。ターフスレイヤーは最後に自身のチームメンバーを見てから、粛々とゲートに入った。

 ゲートは苦手だ。それこそ監獄に閉じ込められたような気分になるからだ。蹴り壊し、外に出たくなる。息を吸って、吐くと、少し落ち着いた。

 

「さぁ各ウマ娘ゲートに入りました、春のファン感謝祭、スペシャルレースが始まります。今回は円滑な実況の為、皆さまのお名前は“さん”抜きでやらせてもらいます! 敬称略! 実況はサクラバクシンオーです!」

 

 マイク片手に、実況のサクラバクシンオーがレースを盛り上げる。存外、様になっていた。

 

 ターフスレイヤーはこの日何度目かになる深呼吸を行い、ゆっくり目を閉じた。

 精神を静めると、出走ウマ娘の異様な熱気が伝わって来た。

 ターフスレイヤーは出走表を思い出しつつ、ゲートの気配を探った。

 

 最内にいるのは大逃げで名高きサイレンススズカだ。彼女はアメリカに遠征に行っていたはずだが、今日この日の為に戻ってきたらしい。

 2番にいるのは同じく逃げウマ娘のミホノブルボンだ。規則的な呼吸と鼓動。落ち着いている。集中できている。

 そして3番が三冠ウマ娘・ナリタブライアン、凄まじい闘気を迸らせている。その隣にターフスレイヤーがいて、そのまた隣にシンボリルドルフがいる。ターフスレイヤーは三冠ウマ娘に挟まれている状況だ。

 皇帝の隣にはオグリキャップがいて、神秘的な程に静かな闘志を燃やしている。その闘志に潜むように、隣のアオギリホウオウが深く小さな呼吸を繰り返していた。隣でマルゼンスキーが上機嫌そうにしている。

 9番にはライスシャワーがいて、微睡の鬼が目覚めかけている。ミスターシービーが小さくジャンプして調子を整え、同じくトライアンフが隠し切れていない歓喜そのまま今か今かと脚を震わせていた。

 12番目では日本総大将スペシャルウィークが気合を入れていた。隣のタマモクロスが意気揚々と紫電を纏う。その横にダイワスカーレットとウオッカの二人が並び、怪鳥エルコンドルパサーが羽ばたく時を待っていた。

 

 総勢16名。フルゲート。誰もが一線級の強者ばかりが出揃った。

 鬼も皇帝も怪物も大将も、それら纏めて至宝で括る。ただ一瞬、勝利という輝きを放つ為だけに、此処にこうして集まった。

 

「一斉にィィィ! スタートォ!」

 

 ダッ! と十六の英傑たちが一斉に鉄の門を飛び出した。

 否、一人だけ出遅れているウマ娘あり。

 

「おおっとターフスレイヤー出遅れです!」

 

 ターフスレイヤーだった。

 ターフスレイヤー視点、気が付けばゲートが開いていて「あっ、やべっ」となって慌てて飛び出たのだ。その差、宝塚のゴールドシップ並み。一部観客が悲鳴を上げた。

 

「1枠1番サイレンススズカ早速ハナに立って逃げています。ミホノブルボンはその横で伺っています。やや後ろでマルゼンスキーが見ています!」

 

 実況の通り、先頭集団は例によって大逃げを打つスズカを筆頭に、後続がぐんぐんスピードを上げていった。

 これには結構呑気してたターフスレイヤーも焦った。考えるより早く、パンと駆け出し、サッと最後尾にくっついた。

 何気なく見せたその加速力に、追込策のタマとシービーは目を丸くした。聞きしに勝る常識破りっぷりである。普通、あのレベルの出遅れをしたウマ娘はもうダメだおしまいだとなるものであるはずなのに。

 そんな二人の視線に気づかず、ターフスレイヤーは冷静さを取り戻して周囲を観察した。見ると、ややペースが速い。スズカが後ろを引っ張っている。

 

「順番見ていきましょう、先頭サイレンススズカ。その横マルゼンスキーが走っている。ミホノブルボンはスズカの後ろです! ダイワスカーレット外から狙ってます!」

 

 先頭争いはこの三人だ。サイレンススズカが初っ端からぶっ飛ばして、その横にマルゼンスキー。スズカの影に隠れるようにミホノブルボンが走っている。それらを追うようにダイワスカーレットがうかがっている。そしてダスカの斜め後ろにライスシャワー。

 

「エルコンドルパサー飛ばしています。シンボリルドルフも前に。オグリキャップとトライアンフが続きます。アオギリホウオウもこの位置!」

 

 どうやら前はかなり混戦模様だ。ブルボンはスズカに張り付き、ライスはダスカに張り付いている。張り付かれている二人はちょっと走り難そうな雰囲気があった。ブルボンは先頭のコピー&ペーストみたいに走っているし、ライスは影に潜るように走っている。あからさまに風よけなのだ。

 対し、オグリとアオギリは本能むき出しで走っていた。それを受け流すようにルドルフとトライアンフは巧みな位置取りをしていた。

 

「スペシャルウィーク、ナリタブライアンが下がっています。ウオッカもやや後方です。前のごたごたが怖い様です。いっそ皆さんバクシンしちゃえばいいのに!」

 

 一方、先頭集団から少し離れた面々は狙撃手のように気を伺っている。

 

「ミスターシービーとタマモクロスはゆったり前を眺めています。その後ろにターフスレイヤー、派手に出遅れたとは思えない位置を維持しています!」

 

 落ち着いて前を見ていたターフスレイヤーだったが、我知らずいつの間にか少し前に行き過ぎていた様である。

 バ群に呑み込まれるのは勘弁だ。お先にどうぞとスピードを下げれば、ならいただきますとミスターシービーが前に行ってくれた。良い感じの位置はコーナーで見つければいいだろう。

 

 ふと、ターフスレイヤーは息を入れ、思った。

 

 にしてもコイツらマジだな、と。

 

 儲かる訳でもないし、何かトロフィーがもらえる訳でもない。そんなに脚に負担をかけては今後のレースに差し障るんじゃないか?

 

 疾走の最中、ターフスレイヤーは小さくため息を吐いた。

 ぶっちゃけ、負けてもいいじゃんという気持ちがあった。

 素晴らしいウマ娘と走り、レースの未練を断ち切ってトレーナー業に集中すべし。これはわかる。

教え子のレースを見る度、羨ましく思うトレーナーなど、あっていいはずがない。

 

 ならば、このレースは勝たねばならないのか?

 多分、それは違う。

 勝つのではなく、本気で走るべきなのだ。そうやって、禊をするのだ。

 

「なら、やるだけやるか」

 

 脚を回す。進出する。

 決して他のウマ娘を轢いてしまわぬよう慎重に、けれど最大の負荷をかけてコーナーを曲がる。

 と、思ったのだが、ターフスレイヤーは気づいた。上手いこと前に行けないぞ。

 それは脚色がどうのというより、想定される位置取りからして、いい感じに走れる場所がないという意味だ。

 よくよく状況を確認してみると、どうやら差し追込のウマ娘達は一斉にターフスレイヤーを警戒した位置取りをしている様だった。

 当の警戒ウマ娘自身も「あれ?」といった風に困惑顔を浮かべていた。どうやら示し合わせていた訳ではないようだ。今の状況、かの世紀末覇王ならむしろ燃えるのだろうが……。

 

「あぁ……これは無理だな」

 

 ターフスレイヤーに、覇王ほどの度胸はない。

 ごく小さな諦観の呟きは、踏み鳴らされる蹄鉄にかき消された。

 

 仮にここから上手に走れたとして、ウマ娘・ターフスレイヤーの脚では前にいるブルボンには追いつけない。そうでなくても、ナリタブライアンやウオッカの末脚はたっぷり残っている。後ろから見てる分にはスパートの布石も打っているように思える。

 そもそも、ターフスレイヤーは先行ウマ娘だ。追込は全然得意じゃない。現役時代に上手くやってたのは、それはニンジャ身体能力任せの所業であって……。

 

 ターフスレイヤーは内心で溜息を吐いた。

 ここでロックされて終わりか。まぁちょっと気づくのが送れたな。本気出したつもりだったのに、そりゃ途中から出したやる気で勝てるほど、この娘等は甘くないよな。

 

 そうして気が逸れると、ターフスレイヤーの意識はトレーナーへと切り替わった。

 それにしても、成長したなと思う。

 

 オグリキャップ。良い走りをする。初めて会った時から綺麗な存在だった。だが、今は以前よりもずっと綺麗だ。

 ミホノブルボン。よく鍛えあげられている。地道に、弛まず、何処までも真っすぐ生きている。無二の美点だ。

 ライスシャワー。本当によく成長した。傷つきやすい性格はそのままだが、自罰的なところがなくなった。最もウマ娘的に強くなったのはライスシャワーかもしれない。

 そして、アオギリホウオウ。予想以上のウマ娘になった。日本初の凱旋門ウマ娘になった。それだけじゃない。寒門のウマ娘が、中央どころか世界の頂点に立ったのだ。トレーナーとしては誇らしいし、いちウマ娘としても尊敬できる存在だ。

 シンボリルドルフも、コースから見ると前よりずっと強くなっているのが分かる。他者を押しつぶすような競走ではない。柔よく剛を制し、剛よく柔を断つような理想的で完璧な走りだ。模範として、頂点として、一切恥じる事のない最高のウマ娘だ。

 

 ターフスレイヤーは、ニンジャトレーナーは、思う。

 

 ああ、満足だ。

 

 こんな自分が、こんな素晴らしいウマ娘たちと走れるなんて、非才の見には望外の幸福だ。

 もう、レースに思い残す事はない。

 

 

 

(((それは本心か?)))

 

 

 

 魂の声。もちろんと頷く。

 

(((このまま負けてもいいという事か?)))

 

 ああ、私が勝つのは無粋だろう。

 

(((勝ちたくはないのか?)))

 

 そう思う事自体が問題だ。

 私はトレーナーで、本来此処にいる事さえ許されない。

 そも、私程度が彼女等と共に走れる事自体、奇跡の様なものなのだ。

 

(((自分より、競走の方が大事なのだな?)))

 

 それはそうだろう。そういう家に生まれ、そういう風に育った。

 こんな自分の為に、レースまで開いてくれたのだ。これは最高の送別会だろう。未練を残さない為の。未来を走る為の記念レースだ。特別な贈り物だ。

 納得している。オグリになら、ブルボンになら、ライスになら、アオギリになら、ルドルフになら、いやさ今ここにいる全てのウマ娘になら、納得のいく敗北を感じられる。

 今まで走ってきてよかった。トレーナーをやってきてよかったと本気で思えるよ。

 

(((本心の様だな。だが、余からするとな……)))

 

 

 

(((そいつは、ちと好い加減に過ぎる)))

 

 

 

 その時、多くのウマ娘が前を向く中、一部のウマ娘は後方を見ていた。

 

 想定していた。その目覚めを。

 覚悟している。その末脚を。

 対策してきた。その暴虐な走りを。

 

 オグリキャップが。

 ミホノブルボンが。

 ライスシャワーが。

 シンボリルドルフが。

 

 後ろ、ターフスレイヤーを見ていた。

 やや困惑した顔で。

 え? なんでまだそこにいるの? みたいな表情で。

 本気を出してないの? みたいな表情で。

 誰でもない、ターフスレイヤーを待っていた。

 

 

 

(((情けない走りをして、奴等に示しがつくと思うのか?)))

 

(((それは群れの長として、あるべき姿なのか?)))

 

(((皇帝などと宣うあの者に、友に情けない恰好を晒すのか?)))

 

 

 

「それは……ダサいな」

 

 ぽっ、と。心のどこかに火が点いた。

 それは過去に置き去りにした闘走心か、あるいは魂に刻まれた運命的な“何か”か。

 血潮が湧く。肉が躍る。五臓六腑が荒れ狂う。

 ただ、走る為だけに。

 

(((ぶっちゃけ、実際負けても負けた気しないだろう)))

「それは、信じられんくらいダサいな」

 

 行儀の悪いゲーマーは、よくラグいから負けたとかキャラ差がどうのとか言って頑なに自身の負けを認めない事がある。

 そういうのを見ると、ターフスレイヤーは思うのだ。

 超だせぇ、と。

 

(((なら……)))

「ああ……!」

 

 ――魂を、重ねる。

 

 

 

「共に往くぞ、セキト!」 

 

 

 

 瞬間、赤黒の蹂躙者が目を覚ました。

 

 世界の時が停滞する。赤の右眼がぼんやり光る。次いで存在そのものが放つ圧が膨れ上がり、それは同レースを走るウマ娘全員に感知された。ある者は戦慄し、ある者は瞠目し、ある者は歓喜した。

 

 一歩、踏みしめた芝が抉り取られ、周囲に地鳴りのような重圧を放散した。それはまるで、突然近くに隕石が落下してきたかのような衝撃。

 

 二歩、前を往くウマ娘が後ろを振り向きかけた。だがそうはしなかった。流石のGⅠウマ娘であり、一流の競走者であるが故。しかし、彼女等はアスリートである以前に、生き物だ。大自然的本能が、後方の絶対強者を意識から外す事を許さない。集中がブレる。呼吸が乱れる。緊張の糸が裂けんばかりに張り詰める。

 

 三歩、それは爆発した。否、何も爆ぜてはいない。ただ、本能に根差した感覚がそう誤認したのだ。実際に起こったのは、最後尾のウマ娘が散歩目の蹴り足で驚異的な加速をしたという事だけだ。だが、それは、規格外の速度を発揮した。 

 

 轢かれる! そのように感じ身をすくませたウマ娘がいた。しかしそうはならなかった。

 加速した怪物は三歩目以降の脚色を緩め、周囲の状況に目を巡らせていた。その脳内では、激しい口論が交わされていた。

 

(((グググ、愚かなりターフスレイヤー。ノロマなぞ轢き飛ばしてしまえばよいものを!)))

「黙れセキト! これはレースだ! イクサじゃない! レースにはルールと、作法と、やり方ってモノがある! 第一、トレーナーであるこの私がウマ娘を危険な目に遭わせる訳がないだろう!」

(((グググ、しかし前を防がれては大外を回るしかあるまい? どうする気だ?)))

「こうするのだ!」

 

 瞬間、ターフスレイヤーの圧が指向性を持つ。ニンジャ動体視力とウマ娘レース勘が見出した勝利の道筋。傍若無人な独占力が発揮され、視界内全てに八方睨みを効かせた! いや、それどころの話ではない! これぞまさに、“八百万方睨み”である!

 結果、背中越しにガンつけられたウマ娘はビビッた! GⅠレースでは慣れたものだが、それらで受けたモノとは格が違うメンチビーム! その可視化されてもおかしくない眼光がウマ娘の生存本能をプッシュしたのだ!

 

 ぬるり、と。ターフスレイヤーは何食わぬ顔で脚を勧め、勝手知ったる自分の位置に滑り込んだ。何となく一秒後くらいに前が空くと思う。勘だ。だがその勘は当たった。ここからは、覚悟していた者だけが同じレースを走れるのだ!

 

(((貴様それはアリなのか?)))

「アリだ! タキオンもネイチャもドーベルもやってる!」

 

 脳内で喧嘩をしつつ、ターフスレイヤーは前を見通せる位置までたどり着いた。

 見えるのは、遠くにあるゴール板。先頭集団はぐんぐん加速を続けており、後方でひっかきまわした影響が逃げ集団にも作用していた様である。

 しかし、ここからは関係のない話だ。距離の調整は必要ない。スタミナの逆算も不必要だ。突っ走って、ぶち抜いて、誰より先にゴールすればいい。

 それだけの事だ。それだけの事を、今の今まで忘れていた。

 

 ターフスレイヤーは両脚に力を入れた。ウマ娘という規格を外れた半神の力を、一時の迷いでなく自身の意思で発動した。

 それは暴れ狂う猛獣に似て、それは走りにこそ全ての能力を置き去りにした芸術品の様な生物。折り合いをつける。鞭を入れる。手綱を取って制御する。目となり耳となり。その蹄鉄を打ち鳴らす。

 カラテは使わない。魂のみを制御する。これはイクサなどではない、レースなのだから。互いに納得して、共に走る!

 

 その時、確かに( ウマ)が合ったのだ。

 

「私はターフスレイヤーだ……!」

 

 蹂躙者の走りは、有識者の反感を買い、研究者の頭を抱えさせるものである。

 通常、走る際は空気抵抗を考えてその手を開き手刀で風を切るようにして腕を振る。しかし、ターフスレイヤーは違う。

 まず姿勢が低い。オグリキャップと比肩するほどに、今にも転倒してしまいそうなほど。あまつさえ異常な程踏み込みが強い。そして、その手は拳を握るのだ。全身に力を――魂の本能を行き渡らせるように。

 肺から心臓へ。丹田から指先まで。物理法則を無視した不可視のエネルギーがその身を覆い、不可解な疾走を具現する。

 

「私はニンジャトレーナーだ……!」

 

 過去を思い出す。初めて担当したウマ娘を。夢を乗せて走る姿を。叶わぬと知り、それでも走る尊き様を。

 光栄だった。栄誉があった。その一助であったなら、どれほど素晴らしいものか。その欠片でも視る事ができたのだから、時に狂的なトレーナーが発生するのも分かるというもの。

 だが、それはそれとして今は一人の競走者だ。前を走る奴がいるのだ、全力で追い抜いてやるのがウマ娘だ。そして、それはこの身に宿る魂もまた同じ。

 

 過ちは肯定できない。

 だが、存在を否定しない。

 覚悟で以て、飲み下す。

 

「私は! この世で唯一人、異界のニンジャソウルを宿す者! ニンジャのウマ娘!」

 

 芝を踏みしめる。蹄跡を刻む。それは自分一人のものではない。一人と一頭で一つの存在。

 高らかに、誇らかに、存在を証明する。

 

「ターフスレイヤーだぁあああッ!」

 

 前が空けた! 視界良好! 直線一気! 蹴り足が爆発する。差し追込勢を引き離し、先行集団をごぼう抜き。あり得ざる末脚。あり得ざる豪脚。まさに依り代たり得る蹂躙者の暴威。

 右眼は血の様に赤く、左目は空の様に青い。その双眸が爛々と光を放ち、犬歯をむき出しにした口元が引きつれんばかりに弧を描く。ここにきて、本能の奥底に押し込めて来た攻撃的闘走心を表に出した。

 ついに、夢幻の蹂躙者が推参したのである。

 

 

 

「それでいい!」

 

 観客の最前列で、アグネスタキオンが高らかに哄笑した。

 両手を広げ、胸を張り、声よ枯れよとか課題勝した。

 

「何がニンジャだ! 何が蹂躙者だ! そんなもの、速さの先を視る事に比べたら些細も些細! 大些細だ! あーっはっはっ!」

 

 光速の超越者とも称されるウマ娘は、自分以上の怪物を盛大に寿いだ。

 まるで神を前にした聖職者のように。まるで宝物を自慢する子供のように。

 その存在を、諸手を挙げて謳いあげた。

 

「ターフスレイヤー! 赫奕たる異端の者よ! 君は世界でただ一人の超希少サンプルだ! 例外だ! 特例だ! 希少価値だ! だが君はウマ娘なんだよ! たった二足で車を追い越すファンタスティックな生き物なんだ! 君は、走る為に生まれてきたんだ! 存在証明! 何を憚る! 走り以外、どうでもいい生き物だろうに!」

「そうです! ウマ娘ちゃんはみんな! レースで輝くんです! その自由を自分で縛るなんてあんまりです! 可哀想なのはダメです!」

 

 そこに隣のアグネスデジタルも呼応した。目尻に涙を浮かべ、その顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも大きな声を上げた。

 

「だから走れ!」

「走ってください!」

 

 そして、アグネスのやべーやつらは同時に叫んだ。

 

 

 

「「走れ、ターフスレイヤー! 走れぇえええッ!」」

 

 

 

 歓声が爆ぜた。アグネス二人だけじゃない、観客のタフスレファンも一斉に声を上げた。

 無敗七冠のターフスレイヤーが好きだった男性。プライベートの破天荒ぶりが好きだった女性。そして今しがたファンになったウマ娘。

 ファンはいる。夢を賭ける。完全独走していたその跡に、間違いなく続きはあったのだ。

 

 

 

 みしり、とターフスレイヤーの肉体に不可解な力が宿る。これはウマ娘の潜在能力か? これはニンジャソウル由来のカラテ・エネルギーか?

 

 違う。これは――夢だ。

 

 ウマ娘は、“夢”を背負って走るのだ。ならば、ターフスレイヤーも例外ではないはずだ。

 

「スゥーッ! ハァーッ!」

 

 深い呼吸。更なる加速をかける前準備。

 勇気がいる。化け物でなく、一人の競走者として夢を背負う覚悟が。だが、それは一呼吸のうちに完了した。

 何故なら、そうでないと長の面目が経たないからだ。

 

 ニンジャ的本能とウマ娘的理性が合一し、陰陽太極の螺旋が真なる力を汲み上げる。

 これが、彼女の全力全開。

 

「イィィィヤァアアアーッ!」

 

 甲高いシャウトが響き渡り、色付きの風が吹き荒ぶ。迫る迫る迫る! ここからが本番。ここからがレースだ。追い抜いてみせろ。すぐ追い抜くぞ。逃げろ逃げろニンジャが通るぞ! それが嫌なら、死力を尽くせ!

 夢幻の過去が追い来るぞ!

 

「来たかい! さあ、決着を付けよう!」

 

 皇帝が歓喜する!

 

「前提条件をクリア。これより最終フェーズに移行。オーバーロードします!」

 

 坂路の申し子が猛る!

 

「悪夢じゃない! それを、証明するんだから……!」

 

 執念の鬼が使命に燃える!

 

「待ってたぞ! ターフスレイヤー!」

 

 葦毛の怪物が歓迎した!

 

「楽しくなってきた!」

「まだまだ!」

「行ける!」

「譲らない!」

「この私を舐めるなよ!」

 

 歓声が増す。後ろのウマ娘が根性の火を燃やした。ナリブのファンが。スズカのファンが。ウオッカのファンが。スペファン、エルファン、トライアンフファンが大きな大きな声援を送る。

 稲妻が、旋風が、流星が、各々の心を映す夢の欠片が符号する。どいつもこいつも世代を代表する一流ばかり。それらが一同に会し一体となり、大歓声が燃料を注ぎ込む。競走者だけでなく観客までも巻き込んだ混沌の坩堝、いち学園祭のこれをレースの熱狂と言わず何という。

 誰もが熱中する、心を奪われる。これがウマ娘のいる世界。これぞ夢のレース。これこそターフスレイヤーが望んで止まない競走だ。

 

 否だ、まだ足りない。もっと先へ往く。

 ターフスレイヤーは最奥のソウルに問いかける。「まだいけるか?」と。

 魂が答える。「当然だ」と。

 

 そして赤の蹂躙者は魂を燃やし、夢を背負い、かつて担当ウマ娘達がそうしてきたように限界のその先をこじ開けた。

 

 

 

 刹那、ターフスレイヤーの世界は満面の星空へと切り替わった。

 その光景はまるで、眩く輝く星々を仰ぎ見る傍観者の視点に見えた。気づくと、ターフスレイヤーは寄る辺のない宇宙の中で漂っていた。

 重力もないまま、ターフスレイヤーは一等輝く星に手を伸ばした。果てしなく遠い星間距離は、どれだけ手を伸ばしても届くものではない。それでも、一生懸命手を伸ばした。その星が、あまりに綺麗だったから。

 そうして、ターフスレイヤーは直感した。ああ、こういう事だったんだな、と。

 

 遠く遠く、嘶きが聞こえた。

 もっと別の世界から、たった一人の依り代へ。

 

 魂が云う、“今度は奴に勝ってくれ”。

 

 

 

 時間感覚が戻る。芝と、ウマ娘と、夢のレースへ帰還する。

 

 ターフスレイヤーは、目を見開いた。

 視界の隅に背中が見える、追っている。ミホノブルボン、ライスシャワー、オグリキャップ、シンボリルドルフ、彼女等の背中を、ターフスレイヤーは必至になって追いかけていた。

 否、実際の背は見えていない。そう感じているのだ。近くて遠い数センチ単位の差、しかしその差がレースの勝敗を分かつ。ほぼほぼ、並んでいるのだ。

 規格外の化け物と、夢を背負うウマ娘という神秘の競り合い。0コンマ以下秒、夢を駆ける。その背の夢の数々が、その背中を押しているのだ。彼女等もまた、自身の限界を超えてきたのだ。そうでなくば、ニンジャに勝てぬ。

 

 その時、ターフスレイヤーの胸の奥で、熱い何かがあふれ出した。

 幼少の日、それは走る度に感じ、負ける度に摩耗した感情である。

 敗北の悔しさでもなければ、勝利の喜びでもない。それは、誰かと走ることの“楽しさ”だ。

 ターフスレイヤーの目に涙が浮かぶ。制御不能の感情が溢れ出す。このままずっと、その背を追っていたい。夢追いウマ娘でいさせてほしい。

 まだ遊んでいたい。もっと一緒にいたい。帰りたくない。独りになりたくない。

 もっと、ずっと、いつまでも走っていたい。

 

 そう、ターフスレイヤーが願った瞬間、夢は終わった。

 

 

 

「ゴォオオオオオオオオッッッル!」

 

 

 

 ゴール板を駆け抜ける一瞬、ターフスレイヤーは誰より速く先着した事を確信した。

 慣れた感覚だった。懐かしい感覚だった。しかし、これまでとは決定的に違う気持ちが胸中に渦巻いていた。

 

 満足感だ。

 

「ゴール! 審議! 審議です! 一着はわかりません! 接戦! まさに大っっっ接戦! 実にバクシン的レースでした!」

 

 結果は審議となっていた。GⅠレースでもないのに、厳密に計るらしい。

 

 ともかく、ギリギリのスパートだったが、本気の本気とその先を発揮できた事で何とか勝利をもぎ取る事ができた。

 これまでは、如何にニンジャソウルを制御するかばかり考えていたが、ウマソウルもニンジャソウルも根っこは似た者同士だった。結局のところ、この魂もただ走り回りたいだけだったのだ。

 

「すぅ、ふぅ」

 

 ターフスレイヤーは小さく呼吸し、激しい鼓動を落ち着けた。周囲のウマ娘は肩を落として荒い呼吸を繰り返しているが、ニンジャである彼女はほとんど疲労していない。芝2400mを息切れせずに走れる存在など、やはりチート以外の何物でもないのだ。

 落ち着いたところで、今度は脊髄を通して全身に染みわたる感覚があった。

 

「あぁ、こんな感じだったなぁ……」

 

 全力疾走の後の心地よさ。

 身体を動かすという事の楽しさ。

 忘れていた感覚を、今思い出していた。

 

「クソ! クソ! クソ! ああッ!}

 

 感情が溢れる。大腿を叩く。視界が滲む。どこまでも青い空の下、ターフスレイヤーは余韻というには強すぎる歓喜に見舞われていた。

 

「気分が良いな畜生……!」

 

 声を抑えた絶叫。観客席からの声援が大きくて、誰もその言葉を聴いたウマ娘はいなかった。

 しかし、聞こえずとも分かった者たちがいた。アルデバランだ。オグリキャップとミホノブルボンとライスシャワーは、そんなターフスレイヤーを微笑ましげに見ていた。

 

 やがて、審議が終了し、着順が発表された。

 ターフスレイヤーは学園祭にしては大きいモニターを見た。

 それを見て、ターフスレイヤーはあんぐり口を開け、瞠目した。

 

「……3着か。まあ、結果は残せたか」

 

 3着、オグリキャップ。

 2着、ターフスレイヤー。

 そして1着が……。

 

「へぁッ……!?」

 

 蹂躙者の喉から、高く素っ頓狂な声が出た。

 まるで想定にない、あまりにも意外な結果が出ていたからだ。

 仮に、1着がシンボリルドルフであったなら、それはそれで祝福ができていただろう。ターフスレイヤーにとって、皇帝は特別な存在なのだ。

 

「ふむ、私は負けてしまったらしいな」

 

 しかし、そうではなかった。

 

 無敗の七冠ウマ娘・ターフスレイヤー。

 そんな彼女に、初めて土を付けた者。

 それは、この中で最も洋芝に適性のあるウマ娘。

 それは、ターフスレイヤーが無意識にマークから外していたウマ娘。

 そしてそれは、ターフスレイヤーだけを追ってここまで来たウマ娘だった。 

 

「ウチの、勝ちです。師匠……!」

 

 彼女は、いつの間にかやってきたアグネスタキオンに肩を貸されて立っていた。隣にはアグネスデジタルがいて、そのやや後ろには樫本トレーナーもいた。

 アオギリホウオウは、ボロボロだった。満身創痍、その言葉が相応しいくらいに疲労困憊で、それでも真っすぐターフスレイヤーの眼を見ていた。

 

「アオギリ、ホウオウ……?」

 

 負けたショックというより、彼女の放つ威容な圧力にターフスレイヤーは一歩後ずさった。

 アオギリホウオウは、これまで見た事のない覇気を纏っていた。レース中には感じ取れなかった膨大な覇気を、その身に封じ込めていたのだ。ただ、勝つ為に。

 

「いえ……ウチ等の勝利ですね。ウチ一人では、どうしようもありませんでした……」

 

 ターフスレイヤーの逃げ腰の思考が回転する。何故、化け物の自分が負けてアオギリホウオウが勝ったのか。だが、鈍った思考回路は直ちに正解を導く事はできなかった。

 

(((ふむ、ナルホド……。いやはや、グググ……)))

 

 呆然と思考停止している身体とは違い、ニンジャソウルの方はその理由に見当がついたようである。

 問うてみると、それは愉快げに嗤った。

 

(((なに、事は単純だ。多勢に無勢で勝てるほど、貴様は強くあるまい? それに貴様、最後は余の脚を使わなかったではないか。グググ……愚かなりターフスレイヤー)))

 

 実際、細かな敗因は多い。

 慢心、油断、出し惜しみ、出遅れ、本気度、バ場適性……。そもそも余計な事を考えて勝てるほどレースは甘くないと教えたのはニンジャトレーナー自身だ。

 だが、強いて一つ挙げるなら、最も強く勝者の背を押したのは、ターフスレイヤー自身であったという事だ。

 

 息も絶え絶えに、大粒の汗が滴るままで、アオギリホウオウはぽつぽつと、けれど力のこもった声を出した。

 

「師匠。ウチ前に、師匠見て此処来たって言いましたよね」

 

 ターフスレイヤー、圧巻の日本ダービー。アオギリホウオウの原体験。

 尋常ではない豪脚と、誰憚る事なく拳を突き上げる勇姿に、その結果たる歓喜の渦に、彼女は憧れたのだ。

 

「あ、ああ……それよりお前脚が」

「大丈夫です。ただ、力入らんだけで、痛くはありません……」

 

 そんな事よりとニンジャトレーナーは彼女の疲労具合を心配するのだが、アオギリはそれを力強く遮った。

 例えどれだけ疲れていたとしても、今にも倒れそうな今だからこそ、伝えるべき言葉があるからだ。

 

「ダービーで勝った時、カッコよかったんですよ、あん時の師匠が。やもんで、ウチは真似っ子したんです。師匠の、ターフスレイヤーの仕草とか、色々をです」

 

 アオギリは、自身の胸の内を明かす。

 子供が好きなヒーローの真似をするのと同じである。憧れて、真似をして、近づこうと努力する。

 そうやってレースを走るようになるウマ娘は少なくない。アオギリもまた同じ。

 だが、彼女の場合はもっと根本的に、自身の内面を憧れの外面に寄せていったのだ。

 

「引き取ってもらったばっかの時のウチは、いつもめっちゃ暗い顔してたんで、まず無理にでも笑ってみたんです。インタビューとか、特集とか、そういう時の師匠の笑顔をです。そしたら、両親が喜んでくれました」

 

 鏡の前で、何度も笑顔の練習をした。最初は手で口角を上げ、張り付くくらい目元を歪め、来る日も来る日も鏡の前で見たくない自分の顔を見ていた。

 やがてそれは自然な笑みになり、練習に熱中すると鬱々とした気は紛れた。

 結果として、よく笑うようになったアオギリを見て、両親は喜んでくれたのだ。

 

「で、学校でも、自信ない時も自信満々に。なんか喋らなあかん時とか、ホンマは黙ってたい時も、“ターフスレイヤーならこう言うやろな”って、大きな声で喋ったりできました。そしたら、いつの間にか色んな子と話せるようになってました」

 

 アオギリホウオウは、挨拶さえ困難に感じる程のコミュニケーション弱者だった。けれど、徐々にそれを克服していったのだ。

 練習したお陰で、「おはようございます」がすんなり言えたのは、彼女にとっては魔法のように思えた。

 魔法を授けてくれたのは、誰か。当然、彼女である。

 

「その甲斐あって、ウチいま幸せです!」

 

 晴れやかな、春の陽光の様な笑顔がそこにはあった。

 真似をして、練習をして作った笑顔ではない。今の自分の気持ちをそのまま映し出す、素直な感情の発露だった。

 

「人と話せるようになりました。中央行くんに、がんばれました。トレセンにも入れて友達もできました」

 

 観客席には、アオギリの無二の友達たるカブがいる。彼女はブエーだのボエーだの言って歓喜の泣き顔を晒していた。その涙を仕方ないなとでも言いたげにスペードテンが拭ってやり、インペラトリーチェが後方ライバル面で腕組み仁王立ちしていた。

 彼女達――否、トレセンで知り合った人すべては、アオギリホウオウが此処に来なければ得られなかった繋がりだ。

 

「先輩方にお会いできました。レースにも出られました。海外にも行けました」

 

 心を壊すほどの敗北が、心を救うほどの勝利が、アオギリのトゥインクル・シリーズには、清濁併せて輝かしい蹄跡があったのだ。

 

「師匠はウチに、生きる勇気をくれたんです」

 

 それは違う。それはアオギリ自身が努力したからで、それ以外の何物でもない。

 と、ターフスレイヤーは言いたかった。だが、言えなかった。ターフスレイヤー自身、得体の知れない感情が彼女の言葉を遮っていた。

 

「あの時、師匠が走ってくれてたから、ウチは今幸せなんです」

 

 それは地の底から天の歯てまで羽ばたいた鳥の様。

 誰憚る事なく空を往く鷹に憧れた、やがて瑞鳥になる雛の恩返し。

 

「ずっとお礼言いたかったんですけど、師匠は絶対否定するやろな思って、今の今まで言えませんでした……」

 

 万感の想いがあった。自分だけではない、ファンやチームや気持ちを同じくする全ての関係者を代表した言葉。

 アオギリホウオウが、勝ちえた権利だ。

 

 数分前なら、届かなかっただろう。

 だが、今ならば届く。

 そう信じて。

 

「あの時、ウチを見つけてくれて。あの時、ウチと話してくれて……」

 

 アオギリホウオウは、感極まって涙を流していた。

 ターフスレイヤーは、呆然とその青い目を見ていた。

 アルデバランが見守っている。元担当トレーナーも見守っている。友達が見守っている。

 

 アオギリホウオウは大きく息を吸い、精一杯声を上げた。

 

「あの時、レースを走ってくれて! ありがとうございました!」

 

 誤魔化す事なく、

 

「お陰で! ここまでこれました!」

 

 茶化す事なく、

 

「みんな、ターフスレイヤーさんのお陰なんです!」

 

 真っすぐに、自分とその背にある想いを伝えた。

 

「本当に、ありがとうございました!」

 

 感謝の気持ちを。

 

「だから、お願いですから……! そんな、自分のこと悪く言うん、やめたってくれませんか……?」

 

 ビリビリと、ターフスレイヤーの身体に震えが走る。恐怖ではない、瘧でもない。何か、明確に自分の心臓を貫く感情があった。

 

「あぁ……」

 

 我知らず、呻くような声が出た。

 腹の奥底にあった感情を吐き出すように。漏れ出たそれは重く、濁っていた。

 

「よかったのか……」

 

 自責。悔恨。羞恥。

 凡そ傲慢で括られるそれを、ターフスレイヤーは今になってようやく吐き出す事ができた。

 しかし、ターフスレイヤーは最後の最後まで、変わらない性根の持ち主だった。

 

「私は、レースを汚してしまった……」

 

 格の高い家に生まれた以上、その子はレースを神聖視する。それはターフスレイヤーも例外ではない。

 生まれつき競走を是とするウマ娘的本能と、教育により刷り込まれた不器用で実直すぎる姿勢。それが、借り物の力で環境を荒らした事を、どうしても許せないでいるのだ。

 素直に力を楽しめる気質であればどれだけ良かったろう。サディストであれば、あるいは先天的に宿ったものであったなら、どれだけ良かったろう。

 ターフスレイヤーは、ターフスレイヤーを、自分の好きなレースを潰す者だと思っている。

 

「私はそうは思わん」

 

 聞き慣れた声が、聞き慣れない皇帝の圧で以て放たれた。

 振り向くと、そこには柔らかな笑みで腕組みするシンボリルドルフがいた。

 ルドルフはオグリや樫本トレーナーを見やった後、アオギリホウオウを見た。

 アオギリが頷くのを見て、静かに云った。

 

「……なら、私が言おう」

 

 ルドルフは一歩、ターフスレイヤーに歩み寄った。

 ターフスレイヤーは一歩、訳も分からず後ずさった。

 すかさず皇帝は彼女の両肩を掴み、顔を突き合わせ、目と目を合わせた。

 色の違う二つの瞳が揺れている。彼女がこうなってから、こんなに近くに寄る事はなかった。

 

 そして、親友は清らかな声音で云った。

 

「許すよ」

 

 赦し。

 

 ごく単純で、理屈の通らない免罪。

 一時代を作った皇帝の。ターフスレイヤーにとっては幼馴染で、最も憧れた相手からの、赦し。

 それは、ターフスレイヤーの心の壁を透き通り、染みわたっていった。

 

「私が許す。君が思う、君の全ての過ちを。レイ、君の友達がな」

「ルナ、ちゃん……」

 

 瞬間、ターフスレイヤーは一人のウマ娘になった。

 

 必死に努力して、負け続けた時があった。

 故も知れぬ力に狂い、勝ち続けた時があった。

 逃げるように旅をした。逃げるように勉強した。そして夢を託すように、嘘から出た誠で多くのウマ娘に栄光を捧げた。彼女たちが勝つと、贖罪になる気がしていた。

 何者でもないウマ娘は今、許された。

 

「私は……私は……!」

 

 涙ぐむターフスレイヤー。ルドルフは強く彼女を抱擁した。

 世界にたった一人のウマ娘。異界の魂を宿すウマ娘。そして、シンボリルドルフの友達であり、無二のライバルが、何処か遠くに行ってしまわないように。

 

「君がどのように思い、どうであったとしても、気に病む事は無いとは……前から言ってあげたかった」

 

 小さな呟きは、間違いなく彼女の後悔だった。

 友達が悩んでいる時に、その悩みを共有できなかった事への後悔だ。

 

「本心を言うと、私も懊悩していた。かけっこで、どれだけ引き離しても追いかけてきてくれる君が、ただのルナを好きでいてくれる君が、何か得体の知れない異物になってしまったようで、どうすればいいか分からなかった。だから、レースで何とかできると……傲慢にも君を打倒できると、思ったんだよ……」

 

 有馬記念の後、シンボリルドルフはレースの敗北感よりも先に、自身の眼を見て絶望するターフスレイヤーの表情にこそ、絶望した。

 けれど、敗北の直後。当時のルドルフには無理だった。悔しくて、涙が出そうで、恥ずかしかった。だから次の日にでも、軽い感じで声をかけて、話をすればいいと思っていた。

 しかし、そうはならなかった。ターフスレイヤーは、あろうことかレース後に失踪したのである。

 その報を聞いたルドルフは、動けなかった。生徒会長としての責務があった。メディア向けの仕事もあったし、面子もあった。だから、友達を見捨ててしまったのだと、彼女はそのように自認していた。

 

 それからも、話す機会はなく、勇気もなく、ずるずると微妙な距離感で過ごしていた。

 

 そうして、計画に乗った。

 

 膿を出す。禊のレース。

 打倒ターフスレイヤー計画。

 計画は今、成った。

 

 だからここから先は、計画外の言葉だ。

 

「すまない、レイ。あの時、もっと私が強ければ……君が傷つくことはなかった」

「それは違う。ルナちゃんはいつも、強くてカッコよくて……。だから、私は……嫌われたんじゃないかって思ったんだ……」

「嫌いになど、なるものか……!」

 

 そうして、彼女等はいっそう強く抱きしめあった。ニンジャの力でガラスの身体を壊さぬよう、しかし温もりを伝えるように、強く。

 すれ違っていた二人は、やっと向き合う事ができた。

 

 

 

 会場は異様な盛り上がりを見せていた。二人の会話の内容こそ聞こえていないが、かねてより因縁のあった二人がレースの後に抱擁を交わしているのだ。それはもう、盛り上がるというものだ。

 

 一方、取り残されたアルデバラン一同は空気の抜けた風船みたいになっていた。

 ぐぅーと間抜けな音を出したのは、オグリキャップの腹だ。

 

「お腹が空いたな。寿司が食べたい」

「屋台でゴルシさんが焼きそば寿司カツサンド売ってましたよ」

「えー、味の想像ができないよ」

「カロリーは如何ほどでしょうか」

 

 などと話しつつ、アグネスタキオンと樫本トレーナーもアレコレ話していた。

 アグネスデジタルは気絶していた。

 

「いやはや、まさかターフスレイヤーを倒すのが彼女だったとはねェ」

「ええ、正直私も驚いています。けれど、この中のウマ娘全員に可能性があったのは確かです。皆、素晴らしい実力の持ち主ですから」

 

 しみじみ頷く樫本トレーナーは、「それに」と続けた。

 

「ごらんなさい。あの娘たちの眼を」

 

 樫本トレーナーの示す方、そこには。入着できなかったウマ娘たちの、闘志に満ちた瞳があった。

 悔しくて、けれど負の感情のない、純粋な再戦の闘志だ。

 

 これが競走の世界。これがレースの世界。

 やっと、ターフスレイヤーも遊びの仲間に入れてもらったのだ。

 

「ターフスレイヤー、これが貴女の蹄跡ですよ。誇りなさい」

 

 こうして、春のファン感謝祭、午後の部の大目玉の一つは終わったのだった。

 

 一人の、負けウマ娘の心を救い上げて。

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

 

 さて、レースが終わればライブである。

 それは、レース直後にインタビューやら何やらで天手古舞になっていたターフスレイヤーも例外ではなかった。

 シンボリルドルフに促されてステージに向かう彼女の内心は穏やかではなかった。そもそもダンスも歌唱も全く練習していないし、今になるまでライブに出るとは思っていなかったのだ。

 だが、そんな彼女の背中を押すように、ルドルフは言ったのだ。

 

「君が勝者を祝福するんだよ。アオギリホウオウをね」

 

 その言葉には納得しかなかった。

 ターフスレイヤーはアオギリホウオウのトレーナーであり、戦友だ。なら、ライブで祝福するのがウマ娘的流儀だ。古事記にも書かれている歴史的根拠のある作法だ。

 

 ならば、私がやらねばならぬ。

 そう思い直した、その時だ。

 

(((ずっと、見ていた)))

 

 ターフスレイヤーのニューロンに、魂の同居人の声が響いた。

 その声色は平時よりおだやかで、凪いだ海を思わせる。

 

(((貴様の眼を通して、この世界を見ていた)))

 

 異界の魂は、明確な自我を持って続けた。

 寂寥と、諦観と、ほんの少しの羨望を込めて。

 

(((イクサもない。ニンジャも居ない。そして、馬が走らぬこの世界を)))

 

 ターフスレイヤーは暗幕の隅から、観客席で賑わう人々を盗み見た。

 そわそわしているトレセン学園のウマ娘たち。団扇や法被を装備して準備万端のトゥインクル・フリークス。何が何だか分からないがとてもドキドキしている幼いウマ娘もいた。

 皆、学園祭のこのライブを楽しみにしているようだった。

 

(((我が名はセキト・ニンジャ)))

 

 雄々しく嘶くその声は、ターフスレイヤーにしか聞こえない。

 走る自由もない。二本足の檻に囚われし、無双なる駿馬の半神。

 その名乗りを聞く事ができるのは、ターフスレイヤーしかいなかった。

 

(((主なきこの世に迷い込んだ、ただ一頭のニンジャ・アニマル)))

 

 アイサツとは、彼の世界における絶対的な礼儀であるという。これを怠るものは社会的制裁を加えられるほど、神秘と伝統のある行いであるらしい。

 しかし、これはまるで、別れの挨拶の様である。

 

(((小娘らが競い走り勝敗を分かつ。欠伸が出るほど安穏なこの世界)))

 

 セキト・ニンジャは、遥か遠い過去の鞍上の主を想った。

 粗暴で、短気で、絶対的に強い。それでも不思議と馬の合ったニンジャを。

 数多の強者を葬り殺し、あらゆる戦場で死山血河を築いた。荒々しくも輝かしい、怨嗟と暴虐に満ちた過去を。

 

(((いやはや、これも存外……)))

 

 走る為に走る。

 

 生きる為に戦わない。

 

 ただ、ゴールだけを目指して走る。

 

(((悪くはなかった……)))

 

 セキト・ニンジャは思う。

 これ以上は贅沢に過ぎる。

 未練があるまま、ぬるま湯につかっていてはジゴクで主人に合わせる顔がない。

 

「セキト・ニンジャ=サン」

 

 小さく、ターフスレイヤーは呟いた。

 それは明確に胸中に向けた言葉だった。

 

(((何だ……?)))

 

 微睡みの中にあるように、駿馬の半神は億劫げに応えた。

 ターフスレイヤーは、息を吐き、云った。

 

「ありがとう」

 

 感謝であった。セキト・ニンジャが言われた事のない、不思議な響きの言葉だった。

 

「私は、サヨナラは言わないよ」

 

 そして、別れを惜しむ言葉だった。

 対し、セキト・ニンジャは。

 

(((……ああ、少し……眠るだけだ)))

 

 ゆっくりと、暫しの別れを告げた。

 

「ああ、おやすみ。セキト・ニンジャ=サン」

 

 眼を閉じ、祈る。魂の同居人が良い夢を見れますように。

 そして、眼を明けると、ターフスレイヤーの右目は、血の様な赤ではなく、ルビーの様な紅に変わっていた。

 

 さて、とターフスレイヤーは両頬を叩き、気合を入れた。

 今後の事、身の周りの事、眼前に迫ったライブの事。やる事はいっぱいだ。

 

「トレーナー」

「メンター」

「お師匠様」

「モルモット=サン」

「トレーナー=サン」

「師匠」

 

 背後から、自分を呼ぶ声がする。

 ターフスレイヤーは振り返り、愛すべきウマ娘達を見た。

 

 世界最高の、愛してやまないウマ娘たち。

 

 彼女たちのお陰で、前に進める。

 彼女たちがいたから、今の自分がある。

 

「……ああ。お待たせ、みんな」

 

 夢幻の蹂躙者は、朗らかに微笑んだ。

 

 

 

 こうして、ターフスレイヤーというウマ娘は、新たな一歩を踏み出す事ができたのである。




 次回、エピローグ。
 22時に投稿します。

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