例によって今回もやっちまってます。ご注意。
初めて歩く地下バ道は、蹄鉄の音が響く静寂の一本道であった。
この無機質な道の向こうにはメイクデビューという乾坤一擲の勝負が待っている。それを意識すると、アオギリホウオウの心臓はいっそう跳ねた。
時は初夏。
晴天の空。今日、この日がアオギリホウオウ初の出走となった。
阪神・芝2000m
フルゲート 9人
右回り。バ馬の状態は良。
学園から遠く近畿西方。兵庫県は宝塚市。阪神レース場の中距離戦がアオギリホウオウの初陣だ。
とうとうこの日が来た。つい二か月前、太陽の沈む公園で師と出会い、始まったのだ。
アオギリホウオウは浮つきそうになる心を静めるように、小さく息を吐いた。
夕陽の下の邂逅。あれから、色んな事があった。
伝説的ウマ娘達の集うチームで、アオギリホウオウは様々な経験をした。
トレーナーの献身。先輩の偉大さ。親身になって支えてくれる人たちの応援。
また、チームの先輩方に対しては、ターフスレイヤーへ向けるものとは別種の尊敬を抱くようになっていた。。
葦毛の怪物・オグリキャップ。
彼女の凄さは会う前から知っていた。単身地方から来訪した彼女は、瞬く間に中央レースの頂点に立ってみせたのだ。今や彼女は地方のみならず中央を含めた全ウマ娘達の星である。
実際会ってみると、純朴で大食いなウマ娘だったのだが。
そんな彼女との併走は、間違いなくアオギリホウオウの糧になっている。
坂路の申し子・ミホノブルボン。
執念の鬼・ライスシャワー。
彼女等の蹄跡は並んで語られる事が多い。同じチームの二人がクラシックを含むGⅠを席巻していた時期があるからだ。
常に切磋琢磨し、共に多くの障壁を乗り越えざるを得なかった二人は、今やトゥインクル・シリーズの在り方を象徴する存在だ。
実際会ってみると、どうにも変わったツッコミ不在のデコボココンビに見えたのだが。
そんな彼女等との練習は、間違いなくアオギリホウオウの糧になっていた。
超光速の皇女・アグネスタキオン。
彼女の戦績は決して多くない。だが、その蹄跡はあまりに深く、重い。レースにおけるその勝ちっぷりは潔いほど圧巻で、見る者に希望と絶望を植え付ける。中距離最強のウマ娘を問われた際、アグネスタキオンを挙げない人はモグリだろう。
実際会ってみると、よく分からない事を研究しているよく分からないウマ娘なのだが。
そんな彼女とは、あんまり練習してなかった。けれど、知らない事を訊くと、わかりやすく教えてくれたりしたものだ。
ともかく、アオギリホウオウは意識をレースへと切り替えた。
尊敬するトレーナーと、尊敬するようになった先輩方。そして友人の助けを受けて、自分はここにいる。
アオギリホウオウは、強張る心そのままに強く拳を握った。
その時である。
「アオギリホウオウ=サン」
「ひゃあ!」
真横から声、アオギリはびっくらこいて大げさにバックステップした。見るとすぐ横のコンクリ壁がぺらりと剥げて、腕組み仁王立ちのトレーナーが現れた。
なぜか、ニンジャトレーナーは忍者めいて壁に隠れていたのである。
「控室は混んでいたのでな。ニンジャらしく隠れてスタンバっていたぞ」
そう言うトレーナーだったが、その様相はいつものニンジャスタイルではなく、煌めく尾花栗毛を晒すターフスレイヤースタイルだった。カタナめいた流星の間、赤と青の瞳がアオギリホウオウを見つめている。
「師匠はここ来てええんですか?」
「グレー寄りのホワイトだ。妨害目的以外なら許されてる」
「そうなんですか」
ごほん。小さく咳払いし、ターフスレイヤーの異色の双眸がアオギリホウオウを見据えた。
自身と同じ左の魚目と、自身とは違う右の紅目。その目は常になくシリアスで、切実な色を帯びている様に見えた。
珍しい表情だとアオギリは思った。
「メイクデビューの前に言っておこうと思ってな。聞いてくれ」
「はい」
広く、堅い地下バ道で、ウマ娘とトレーナーが向かい合う。遠く聞こえる喧噪が透明な壁を作っているかの様である。
ターフスレイヤーは腕組み姿勢を解くと、まっすぐアオギリの目を見た。身長差の関係で、アオギリが見上げ、トレーナーが見下ろす構図になる。
ほんの僅か、柔らかな風に乗って芝の匂いが運ばれて来た。熱戦はすぐそこだ。しかし、二人の間には柔らかな静寂があった。
沈黙の中、ターフスレイヤーの薄い唇が開いた。
「これまで、オヌシはよく頑張ってきた。トンチキじみた訓練やスパルタ気味なしごきにもオヌシは耐えてきた。それだけでも十分に凄い事だ」
言葉と共に思い出されるのは、どれも辛く苦しいトレーニングだ。だが、アオギリホウオウは一度として練習を止めたいと思った事はなかった。
課せられるトレーニングメニューには、アオギリホウオウを慮る意思と信頼が感じられたからだ。
だからこそ、信じ抜く事ができたのだ。
「だからと言ってこのレース、必ずオヌシが勝つとは断言できない。何故なら、他のウマ娘もまた、オヌシと同じように過酷なトレーニングを積んできたのだからな」
承知している。当然の事だからだ。でなければトレセン学園には入れないし、居続けられる訳もない。トゥインクル・シリーズを目指すウマ娘は、みな等しく努力し続けなければならないのだ。
「ここから先は、何もかもがオヌシを篩にかけてくる。知っているだろうが、中央とは選ばれし者の集いだ。そして、デビューしたとて一勝もできずに引退する事も珍しくない。それがトゥインクル・シリーズという魔窟だ」
であっても、ウマ娘はレースを走る。それは白面片魚目のアオギリホウオウとて同じ事。何故ならば、ウマ娘は走る為に生まれてきたとさえ言われている種族だからだ。
走って勝って己を証明する。レースの本質とはごくシンプルなのである。本能に根差した興行だからこそ、トゥインクル・シリーズは古今東西で人気なのだ。
「……その上で言う」
一呼吸の後、ターフスレイヤーの眼は真摯なトレーナーの眼差しに変化していた。
「全力で走ってこい、アオギリホウオウ」
「押忍!」
二人は掌を合わせ、それぞれの居場所へ歩いて行った。
ーーーーーーーーーー
阪神に響く歓声は遠く、えも言われない熱気に満ちていた。
トゥインクル・シリーズが世界的興行であるのは確かだが、そのメイクデビューを見に来るようなファンはよっぽどのレースフリークくらいだ。そして、だからこそその熱視線は凄まじい。
そんな異様な喧噪の中に、妙に場慣れした雰囲気のおっさん達がいた。
「ヒューッ! 見ろよアオギリって奴の筋肉を! まるで鋼だ、こいつはやるかもしれねぇ」
「しかし一番人気のミニコスモスには勝てねぇはずだ」
「いや待て、あの抑えたviolenceは……!?」
顔の濃いおっさんズはあれこれ言いつつ、アオギリの鍛え上げられた肉体に感嘆していた。
パドックでもそうだったが、アオギリホウオウを見たレースフリークはそのジュニア級とは思えぬ肉体の仕上がりに驚くのである。
まず、見る人が見ればアオギリの脚回りの筋肉に目がいくだろう。見栄えのする大腿の筋肉は当然として、一見地味な大腿下部後面の筋肉――人間でいうところのハムストリングス――がこれ以上なく鍛え上げられている事に気がつく。
そして腕や背中も同様だ。絞ってばかりのひょろひょろウマ娘では成り得ない。食べて走ってよく眠る、ウマ娘という種族の理想形に近い肉体を、ジュニア級のアオギリホウオウは体現しているのである。
「「「土台が違うよ! 土台がぁ!」」」
キャラの濃いモブおじ達の野太い声援が飛ぶ。アオギリは自分への声援だと思わずスルーした。
「アオちゃーん! がんばってー!」
聞き慣れない声量、聞き慣れた声。
アオギリホウオウが観客席の方を見渡すと、そこに知った顔を見かけた。大量の焼きそばを食べているオグリキャップ。手をにぎにぎしてこっちより緊張しているライスシャワー。ぼんやり何を考えているのか分からない表情をしているミホノブルボン。タブレット端末片手に何やら打ち込んでいるアグネスタキオン。そして、腕組み仁王立ちでアオギリホウオウの目を見つめるニンジャトレーナー。チーム・アルデバラン、全員集合であった。
よく見れば奥の方に学友のカブもいた。さっきの声援は彼女のものだ。遠く宝塚市までよく来てくれたものである。それがどうにも、純粋に嬉しかった。
アオギリホウオウは顔見知りの方に大きく手を振った。すると、知り合いの近くにいた見ず知らずの人達の小さな声援が返ってきた。訳も分からずキョトンとしたアオギリホウオウだったが、少しだけ燻っていた緊張が和らいだ。
そうこうしていると、ファンファーレが鳴った。GⅠとは違い、今流れているのは録音によるもので、そういえばよく観ていたレース映像では生演奏のものばかり耳にしていたのを思い出した。今はその推しがトレーナーだ。
やがて、ゲート入りの時が来た。
メイクデビューだ。この為に頑張って、この後の重賞で勝つ為にトレセンに入った。ふぅ、と息ひとつ。アオギリホウオウは練習の時を思い出し、本番に備えた。
次々とゲートに入るウマ娘たち。各々、緊張故か強張った表情をしている。アオギリホウオウも自身の枠に収まると、狭い四角の中で呼吸を整えた。
「すぅー、ふぅー」
鼓動の音。血液の流れ。芝の感触。
ウマ娘が揃い、運命のレースが始まるのだ。
閉所の薄闇の中、アオギリホウオウはその意識を自身の奥底に沈めていった。
鍛錬によって得た、深い深い集中の中、アオギリホウオウは無心になった。心を殺すのでなく、心を離して眺め見る。
心の手綱を握った。眼を開ける。息を吐く。脚が地面を踏みしめる。
そしてやけにあっさりと、ばたんとゲートが開いた。
「さぁ各ウマ娘一斉にスタート! 緊張からかバラバラのスタートになりました。先頭争いは4番ミニコスモス突っ込んだ! 2番ツーリングバイク追走します!」
序盤は上手くスタートダッシュを決めた逃げウマ娘とそれを追うウマ娘の先頭争いになった。
アオギリホウオウは先頭集団すぐ後ろの位置に着き、左右後方を伺う事なく、ただじっと前を見て走っていた。その背はスタートから一貫して低く、その腕は大袈裟なほど空を裂いていた。
「おい、あの白面のウマ娘……ちょっと走り方変じゃね?」
「ストライドが広い。というか、跳んでる?」
観客の一部が気づく、一人だけ妙に大股で走るウマ娘がいる事を。何を隠そうアオギリホウオウだ。アオギリはデビューに向けての鍛錬の最中、その走行フォームをかつての大跳び走りに戻していたのである。
大きく腕を振る。大きく脚を出す。たった一歩で常より前に身を飛ばす。それは幼少の走りの延長であり、かつレースに最適化された大跳びである。走るという意識で身体を動かせばこうなるように、矯正ではなく教育されて得た走りだった。
長い歩幅は回転率が低い。絶好のスタートを切ったアオギリだったが、元のズブさも相まって先頭集団を追いかけるポジションを走っていた。パッと見、良くない位置で藻掻いているように見える。
観客と非担当トレーナーは思う、位置取りに苦心して、掛かっている。だが、それは半分正解で半分間違いだ。あえて、掛かっているのだ。
アオギリホウオウはひたすら心の火に薪をくべ続けていた。じっと、ただ前だけを見て、今にも飛び掛かる獣のように息をひそめていた。鋭い魚目が逃げウマ娘を捉えている。分かりやすい目印。狩りやすい獲物。アオギリは猛る心そのまま脚を回していた。
「ハナに立ったのはミニコスモス。だがすぐ後ろツーリングバイク。並んでトモエナゲ。後ろ2バ身遅れてエキサイトスタッフとすぐ外アオギリホウオウ。その外パカパカ。おおっとツーリングバイク距離を取る! ミニコスモスも加速! これは掛かったか!?」
先頭を走っていた逃げウマ娘は嫌な予感を感じ取ったか中盤前に脚を早めた。それを追うようにアオギリホウオウより前と内のウマ娘がスピードを上げていく。
アオギリホウオウは掛かる心そのままに、あえて先頭集団に食らいついた。無心のまま、アオギリは師の言葉を思い出していた。
(((アオギリホウオウ=サン、オヌシには天稟がある)))
脚が逸る。心が跳ねる。けれど頭はクールに、意思は一途に。アオギリホウオウはこれまでの鍛錬の成果を愚直に遂行した。
「かなりハイペースのレースとなっています。もう一度順番見ていきましょう。先頭はミニコスモス、ほぼほぼ並んでツーリングバイク。トモエナゲが……」
逃げウマ娘は何を思ったか暴走気味に前を走っている。まるで何かに追い立てられているかのように。それを追う先行ウマ娘が焦って脚を進め、差しウマ娘が訝しみつつ距離を詰めていく。
その中心に、アオギリホウオウが跳んでいた。
(((だが、オヌシにシンボリルドルフやマヤノトップガンめいた才覚はない。ここで言う才とは、レース中の立ち回りの事だ。オヌシの持つ天稟は、もっと本質的で原始的な特性だ)))
憧れのウマ娘の言う、アオギリホウオウに合った戦法。
敬愛する師匠はアオギリホウオウにとって分かりやすく教え、分かりやすいやり方を考えてくれた。
決して上品な策ではない。
決して簡単な訳ではない。
そして、誰も真似したがらないたった一つの冴えたやり方を。
「第4コーナーを抜け直線に入ります。先頭は以前ミニコスモス。脚色は衰えない。ツーリングバイクはどうだ。先頭集団はやや失速気味か? 後続がどんどん迫っているぞ! 先頭集団持ち直すか!?」
ジュニア級で2000mレースを走るのは難しい。それでもこの距離をメイクデビューに選んだという事は、ここにいるウマ娘は皆、ある程度スタミナに自信があり、かつ距離の適性が合致している証左に他ならない。それでも逃げウマ娘が無理やり引っ張り上げていくようなハイペースには、さしもの中距離ウマ娘も想定外であったのだろう。
既に限界が来ている逃げウマ娘。加速する脚を残せていない先行ウマ娘。迫ってくる垂れウマに惑って右往左往する差しウマ娘。このレースはグダグダの泥試合になっていた。
たった独り。その特異点を除いて。
(((まだトゥインクル・シリーズが始まる前、その頃のレースには現在あるような緻密な作戦や駆け引きといった概念は希薄だった。今よりずっと適当で、今よりずっと我武者羅なレースだったらしい)))
胸が熱い。身体が軽い。視界良好、むやみやたらと気分が良い。遠くにゴールがあって、視界の奥に競争相手の背中が見える。
上手く走る気など、既にない。速く走る気さえ、どうでもいい事だ。アオギリホウオウは、無心で猛っていた。
(((スタートから只々ひたすらに走り、我武者羅になってゴールを目指す。追い越し追い込み追い抜かれ、バ群に飲まれようと知った事かと前を往く。今にして見るととても子供っぽく、あまりにもお粗末なレースだった)))
「ウチは勝つ……」
心の呟きが口から漏れた。だが、アオギリホウオウはそれを自覚していなかった。
(((だが、細かい事を考えずにただひたむきになって走る彼女らは、ウマ娘という存在そのものの輝きを放っていた)))
アオギリホウオウは、生まれてこの方自分という存在に自信を持った事など一度もない。そう見えるのは、そう見せようとするからだ。
それは何故か、推しのウマ娘が自信満々に笑う姿に憧れたからだ。
憧れに近づきたい。自分もああやって笑いたい。競走ウマ娘・アオギリホウオウのオリジンは全てそこから来ていると言っても過言ではない。
故に、あえてレースの最中にこそ笑うのだ。
(((先の選抜レースでのオヌシの姿、私はその背に時代の輝きを見た)))
極限の集中。アオギリホウオウの意識は、ウマ娘の本能に寄り添うように爆発の前兆を待っていた。
「ウチは強い……!」
白面片魚目尾花栗毛のウマ娘・アオギリホウオウ。
彼女に駆け引きは必要ない。何故ならば、レースにおいてそれは彼女を縛る鎖にしかならないからだ。
アオギリホウオウというウマ娘は、追いかけられると弱くなり、追いかけていると強くなる。そのくせ、本人に駆け引きのセンスや差し切りの鋭さはない。あまつさえ基礎的なスピードに欠けるウマ娘だ。
しかし、彼女には凡そ現代ウマ娘らしからぬ天稟があった。隠れた特質。非科学的な特性。時計を逆回転させるかの如き不可解極まる異端の異能。
(((単純な話だ。最初から最後まで、掛かれ。前だけ見て、絶対に後ろを振り向くな。逆算も配分も戦術も、レースの中では全て無意味と断じて走れ)))
師曰く、すべからく古のウマ娘は駆け引きに応じず、仕掛けず。焦る事なく、ためらう事なく、どこまでも本能に忠実に走るべしと習ったらしい。
理性で鍛錬し、野生を解き放つ。凡そ近代レースにあるまじき時代錯誤の神掛かり。
「おおっと、中段ウマ娘ここで掛かったか前に出る! 先頭集団はズルズルと下がっていくぞ! 後ろのウマ娘は上手く前に出られるか!」
滲み出た本能が伝播し、ウマ娘の魂に訴えかける。並ぶ者はいない。並んだ者から掛かっていく。チクショウ負けるかと心の炎を燃焼させる。それはまるで、プロスポーツの試合を子供の喧嘩にまで貶めるちゃぶ台返し。
みしり、と。ターフの歪む感覚を、その時アオギリの近くにいたウマ娘は本能で嗅ぎ取った。
飢えた獣が目を覚ます。
獲物をよこせと唸りをあげる。
力と力のぶつかり合い。原初の走りが勝敗を分かつ。
この先、根性のある奴だけが、アオギリホウオウと競り合えるのだ。
(((群れに答えはない。常識は敵だ。タブーなど、所詮他者の作るモノに過ぎない)))
「ウチは最高のウマ娘や……!」
(((オヌシは時代をひっくり返すウマ娘になる)))
脚を振り上げる。そして、芝に杭打つように、それは大地へと叩きつけられた。アオギリホウオウ、原風景の疾走。大きな跳びに超がつく。
――瞬間、その場にいる全てのウマ娘が“何か”に動揺し、ためらった。
「抜け出したアオギリホウオウ! いつの間に! アオギリホウオウが先頭との距離をグングン詰めていく! 後続も追いすがる! バ群を連れてきたが伸びる伸びる! 残り100! ミニコスモス伸びない!ツーリングバイクはどうだ! 詰める詰める後続が! いやアオギリホウオウが詰める!」
あまりに低い姿勢。非合理極まる手の動き。そして、信じられない超大跳び!
観客がざわつく。転ぶんじゃないか? 事故が起きるのではないか? だが、そんな心配を、当の本ウマは跳ね返す。一度として、転んだ事などないのだから。
追い風を感じる。平時から溜め込まれたフラストレーションが解き放たれ、野生の豪脚が炸裂する。疾走というより暴走。暴走というより驀進。脚は遅いが何のその、掛かりに掛かればこの通り。絶好調の片魚目が、ギラリと獲物に食らいつく!
「ヒィッ……!?」
スパートの最中、誰か追い抜いた気がしたが、アオギリホウオウにとってそれはほんの一瞬の出来事であった。
追い風が止む。この時のアオギリホウオウの中にあったもの、それは歓喜であった。
思い切り走る解放感。
風を押し出す優越感。
力を出し切る倦怠感。
それら全てを一身に味わったアオギリホウオウは、あまりの激情に気が狂いそうになっていた。
――レースが楽しい!
「アオギリホウオウ速いアオギリホウオウ速い! アオギリホウオウだ! わずか捉えてゴール! 2着はミニコスモス! 3着はトモエナゲです!」
ゴール板を通り過ぎた。
今、レースが終わった。
しばらく走って気が付いたアオギリホウオウは、ゆっくりゆっくり速度を落とし、歩幅を狭めていった。ジュニア級で2000mを走った後にも関わらず、アオギリのスタミナにはまだまだ余裕があった。
今になって、遠く歓声が聞えてきた。
音の方を見ると、そこには沢山の人がいた。人数こそGⅠレースには遠く及ばないが、皆レースを見て楽しんでいたようで、一部の客は飛んだり跳ねたり笑ったリしていた。応じるように、片手を挙げてみると歓声はいっそう大きくなった。
チームメイトの方を見ると、各々拍手したりタブレットを弄ったりでバラバラだったが、等しく祝福の念を感じられた。キツネのニンジャが手を振っている。
カブの方を見ると、両手を上げてぴょんぴょん跳ねていた。そっちにも手を振ると、その動きはさらにオーバーになった。
歓声の中。ふと、アオギリホウオウは昔の事を思い出した。
夕暮れの田舎道。
そこには幼いアオギリしかいない。走っていると、誰も彼女に追いついてくる存在はなかった。
虫の声。遠く響くサイレン。いやに大きな軽トラックのエンジン音……。
かつて、アオギリホウオウは一人で走っていた。
現在、アオギリホウオウはレースを走っていた。
意識が戻る。アオギリホウオウは脚を緩め、やがて立ち止まった。
空を見る。青い。雲がある。遠い。
視線を下げて、観客席を見た。
瞬間、アオギリホウオウを讃える声援が確かな実感をもって聞えて来た。
なるほど、これが勝利の感覚か。
アオギリホウオウは無意識に拳を握った。感情の向け先が分からなかった。どうすればいい? この気持ちをどう発散すればいい? あふれ出る激情に、どう折り合いをつければいいのか、分からなかった。
その時、アオギリの脳裏に閃く記憶があった。ターフスレイヤー、日本ダービーの光景。拳を突き上げ、万来の喝采を受ける勇姿。
「ウチが、勝った……?」
おずおずと、アオギリホウオウは拳を突き上げた。歓声が増した。
「ウチが勝った……!」
拍手が鳴っている。多くの視線を感じる。嘲りはない、悪意や敵意も感じない。そこには、レースという舞台における普遍的感情の熱があるだけだ。
それなら、アオギリは理想へと近づける。
歯をかみしめる。喜びが溢れる。安堵と感謝と達成感が心と体を駆け巡る。
坂路、筋トレ、走法回帰。追いつけない先達の背と、追いかけて来た栄光の導き。砂に塗れ、汗を流し、勝つ為だけにやってきた。
トレーニングの成果が今、成ったのだ。
「……よっしャあッ!」
力強く、拳を突き上げ咆哮する。
大歓声。頑張った甲斐があった。忍耐の甲斐があった。アオギリホウオウは、今ようやく勝ちウマ娘へ舞い戻った。
母は地方未勝利だった。アオギリは、その叶うはずもない夢の再現の為、その一歩目を貫徹したのである。
拳を突き上げたまま、アオギリは遠く青空を眺めた。こんな自分がレースで勝ったという事を、遠く両親のところまで知らせるように。
その時、同じレースを走っていたウマ娘の担当トレーナーはこう思った。
今回は緊張して実力を出せなかった。
他のウマ娘にしてやられて、掛かってしまった。
課題は見えた。対策すれば、大丈夫だ。
台風の目を見て思う。次は勝てるはずだ。
常識的に考えれば、そうだろう。
理屈で考えれば、次負ける道理はない。
「まあ、ヒトはそう考えるよな」
術中とも知らず。
ーーーーーーーーーー
ウマ娘という生き物は基本、その運動量相応に多くのエネルギーを必要とする。当然として、程度こそ違えど殆どのウマ娘は人の子より健啖家であり、食べる事自体が好きな傾向にある。
であれば、ウマ娘への最高のもてなしとは、やはり食事であろう。
「アオギリちゃん、メイクデビュー勝利おめでとう!」
「「「「おめでとーう!」」」」
コツン、とガラスコップのぶつかる快音。
意外な事に宴会の音頭を取ったのはライスシャワーであった。次いで各々の語彙で勝者への賞賛が贈られた。宴の中心にいるのはアオギリホウオウだ。
暖色の灯に照らされた畳張りの個室には、チーム・アルデバランが勢揃いし、卓を囲んでいた。
レースもライブもインタビューも終えた現在、アオギリホウオウ達が集まっているのは阪神レース場近くにある個室居酒屋である。ここはレース終わりのウマ娘が利用する事も多いという、味と量と気密性に長けた優良老舗だ。
一同が囲むテーブルには色とりどりの料理が並んでいる。どれも居酒屋らしいメニューだが、如何にもウマ娘が好きそうなものばかりだった。にんじんサラダは艶やかな緋色に煌めいて、地元名物神戸牛を使った料理が主役面して堂々鎮座している。山盛り枝豆やフライドポテト等パーティメニューを筆頭に、各々の前には好みを反映した料理が置かれていた。
「いただきまーす!」
そんなご馳走を前に、さっそくアオギリホウオウは目の前の神戸牛ステーキ串にかぶりついた。レース後の半飢餓ウマ娘ボディに肉と脂と塩気が染みわたる。あまりの美味しさにアオギリの口角は自然と持ち上がった。
「ゥンまああ〜いっ」
他のメンバーも似たようなもので、各々好きな料理に舌鼓を打っていた。
ご馳走を前にしたオグリキャップは言わずもがな怪獣めいて貪食の限りを尽くし、ミホノブルボンは栄養素とpH値のバランスを整えた料理を食べ、ライスシャワーは種々様々な料理を少量ずつ口にし、アグネスタキオンは三大栄養素を満遍なく取っていた。大黒柱たるターフスレイヤーは冷奴に夢中だった。
「ウチ、こういうトコ初めてです」
しばらく談笑していると、場に酔ったアオギリはふわふわした気分になっていた。その手にはキャロットジュース。
他の面々も居酒屋特有の浮ついた気分になっており、他愛もない会話が面白くて仕方ない。
「うむ。ここは食べ放題な上に味も良いからな。こっちに来た日はよく来るのだ」
「ああ、ここはとても良い店だ。料理は美味しいし、食べ放題だ。その上いくら食べても定額だし、ご飯が美味しい」
ターフスレイヤーに続くように、オグリキャップはトートロジーめいて補足した。ちなみに彼女は先のレース場でも山盛りゴルシ焼きそばを食べていたが、その食欲は止まる事を知らない。塩ゆでキャベツは三分保たず全滅していた。まるで外星侵略者を前にした軍隊のようである。
「お料理もたくさんあっていいよね」
言いながら、ライスシャワーはつるんと枝豆を頬張った。その様はどこか小動物めいて、美少女×枝豆という組み合わせには一種のギャップ萌えがあった。
そんなライスシャワーを見て、アオギリはふわふわした気分のまま訊いた。
「ライス先輩、その豆って美味しいんですか?」
「うん、美味しいよ。食べた事ないんだ」
「オトンがビールと一緒に食べとったんで、おっさん専用の豆や思ってました」
「ふふ、そんな事ないよ。ほら、ここを持ってね、出てくる中身を食べるの」
アオギリホウオウ、メイクデビューに続き枝豆デビューであった。
早速言われた通り鞘に入っていた豆を食べてみると、絶妙な塩加減がたまらない。決して濃い味でもないし、決して絶品という訳でもないが、アオギリはけっこう好きな味だった。
「んっ、これアレですね! なんかもうずっと食べれちゃいますね!」
ひょいひょいひょいと、枝豆山脈は崩されていくのであった。
「アオギリホウオウ=サン、そこの醤油を取ってくれないか」
「はい!」
「ドーモ」
手渡された醤油を、ターフスレイヤーは大根おろしを載せた卵焼きにほんの少し垂らした。真っ白なおろしが僅か色彩を変えていく。
「師匠、その卵焼き甘いヤツですよ。醤油かけちゃってええんですか?」
「これが美味いのだ」
と言って、卵焼きを頬張るターフスレイヤー。その姿を見て、アオギリの脳裏に過る光景があった。
「あっ、それオトンもやってました!」
「実際美味い。どれ、アオギリホウオウ=サンのも一つ繕ってやろう」
長方形の卵焼きの上に、雪めいた大根おろしを載せ、そして醤油をひと垂らし。おろしが淡い薄茶色に変わったところで、アオギリは差し出されたそれを恐る恐る口にした。
瞬間である。
「か、革命や……!」
暖かい卵の甘さと、冷やっこいおろしの僅かな辛みに醤油のしょっぱさ。それらが喧嘩する事なく一つの味の究極系として降臨したのである。この日、アオギリの味覚には革命がもたらされた。
例えるならメラとヒャドの合成呪文。スクルトとピオリムとバイキルト。堀■雄二のシナリオに対する鳥▲明のキャラクターデザインみたいな感じだった。あまりにも神々しい。
神戸牛に枝豆にだし巻き卵with大根おろし&醤油などなど、この日だけでアオギリの美味しい物ランキングは変動を繰り返していた。
そんな中、鉄板に運ばれて来たクソデカ焼きおにぎりがエントリーしてきた。
「え、何すかこれ」
「見ての通り、焼きおにぎりだが」
「おっきいね~」
丸い鉄板の上には、北条家の家紋の真ん中みたいな感じでクッソ大きな焼きおにぎりが鎮座していた。鉄板の熱でジュージュー焦げる醤油の匂いが否応なく食欲を刺激してくる。
「これ、兵庫のB級グルメやったりするんですか?」
「いや全然?」
「このだし汁と合わせるのが美味いんだ」
クソデカ焼きおにぎりをしゃもじで真っ二つにすると、焦げ目のついた表面と真っ白な断面が実に鮮やかだった。
真っ先にオグリが盛ると、湯気の立つお椀に熱々のだし汁を注いだ。ぶわりと舞い上がった湯気には、焦げた醤油とだし汁の匂いが混じって堪らない。
各々行き渡ったところで、熱いだし汁をひと啜り。
「美味しいですねこれ!」
そうして、またもアオギリ美味しい物ランキングが更新されるのであった。
熱いので十分気を付けて食べていると、アグネスタキオンは硬水片手に言った。
「気を付けたまえよホウオウ。そうゆっくり食べていてはオグリが食いつくしてしまうからねぇ」
「いやいや、そんな訳……」
言いつつ、焼きおにぎりの残りを確認すると……。
「……すまない、ほとんど食べてしまった」
「оh……」
哀れ、巨大だったはずの焼きおにぎり君はおこげ一つ残っていなかった。
「釜めしもあるぞ、頼むか?」
「お願いします」
「うむ、私のは別で頼むとしよう」
まだ食うのかよ、というツッコミ役はアルデバランには誰一人として存在しなかった。オグリの貪食ぶりに慣れた面々からすると、アオギリの食いっぷりにも全く動じる事は無かったのである。
「……バッドステータス“やけど”を感知しました」
次々運ばれてくる料理は自然と出来立てであり、揚げたての天ぷらを食べたミホノブルボンは口内に軽度の火傷を負ってしまったようである。
「ブルボン先輩、ジュースジュース!}
「ドーモ、ありがとうございます」
そんなブルボンに、パッと気づいたアオギリがスパッと冷えたキャロットジュースを注いでやる。ターフスレイヤーは上がりかけた膝を戻した。
注いでもらったジュースをちびちび飲みながら、ミホノブルボンはニューロンのデータベースを探る。
「……最適なパターンを検出」
そして、それは電気信号となってブルボンの前頭葉を刺激した。
「アオギリホウオウ=サン、貴女も一杯ドーゾ」
「あ、これはどうも」
そう、注ぎ返し。日本のサラリマン達が飲みニケーションの場でたびたび執り行われるビールの注ぎ合いである。今回はビールがなかったので、キャロットジュースで代用。何も問題はない。
トクトクトク……と、アオギリのグラスが見る見るうちに人参色に染まっていく。
「あの、入れ過ぎちゃいますか?」
「表面張力があるのでダイジョブです」
「いやいやいや!」
「ジョジョで見たな。コイン入れるやつ」
「グッド」
「全然グッドじゃないと思うなぁ」
ぴたりと、それは完璧なタイミングで終了し、表面張力ギリギリまで人参色の液体が注がれたのであった。
それを手に持つアオギリはプルプル震えそうになっていた。そして仕方がないので啜った。
そんなこんな、机上の料理が少なくなってきた頃、アグネスタキオンは最初に箸を置いた。
「タキオン先輩、もうお腹いっぱいですか?」
「まぁね。こういうのは腹八分目くらいがちょうどいいのさ。というより、君たちが例外なんだよ」
タキオンの視線の先、そこには葦毛と黒鹿毛と白面のウマ娘がいた。
「よく言われる」
「あまり言わないで……」
「ウマ娘やし、こんなモンやないですか?」
「おっと、ここは例外が半数を占めているんだったねェ。私のデータも喜んでいるよ」
ちなみにターフスレイヤーとミホノブルボンは割と平均的であった。
「それにデザートもあるからね。ほどほどにしておきたまえ」
「デザート?」
そうして全ての料理が片付いた後、運ばれて来たものは……。
「わぁー! でっかいキャロットケーキ!」
最後にエントリーしてきたもの、それは全ウマ娘の大好物キャロットケーキであった。
ライスシャワーが感嘆する。つまり、見た目も鮮やかなKAWAIIケーキであるという事だ。
ニンジンが交じった橙の二段生地に、クルミとレーズンが同居している。表面には暖かみのある色合いのクリームチーズが塗ってあり、高級ブランド人参がケーキの真ん中にぶっ刺さっていた。
そして、ケーキの上のプラチョコプレートには「アオギリホウオウ メイクデビュー勝利記念!」と書かれていた。
運ばれて来たケーキを見て、アオギリホウオウは喜びより先に驚愕が上回った。
綺麗な作りのケーキだ。シンプルながらこれ以上ないクオリティの高さを感じる。プレートの文字を見ると、改めて中央レースで勝った事を認識した。
アオギリホウオウは、震える声を自覚せぬままトレーナーに向き直った。
「これ、ウチのメイクデビューに合わせてもろたんですか?」
「無論」
ターフスレイヤーはドヤ顔で腕組みしていた。その顔を見たタキオンはちょっと呆れた目をしていた。
「ありがとうございます! 師匠! 皆さん!」
要するに、事前の用意はさせていたという訳で、ターフスレイヤーはアオギリの勝利を信じていたという事だ。
担当ウマ娘を信じないトレーナーなど、いるものかという話である。
「イヤーッ!」
と、甲高いカラテシャウトが響き渡り、キャロットケーキはミリ単位の誤差もなく六等分された。なんたるケーキナイフの冴え、実際タツジンと言わざるを得ない。
そうして断面の橙も鮮やかなキャロットケーキはアルデバラン・メンバーへ配られた。
アオギリホウオウが恐る恐る一口食べると、優しい甘みが口いっぱいに広がっていった。
「ウチ、こんな美味しいケーキ食べたん初めてです!」
掛値の無い言葉であった。実際、今ここで食べたケーキは世界一美味しいとアオギリには断言できた。
その跡もライブの話をしたり、レースでの立ち回りの事を話したり、色々な話題で盛り上がった。
楽しい時間だった。
すっかりお腹いっぱいになり、アオギリホウオウは大の字になって幸せを享受した。
チーム・アルデバラン、そこにはアオギリがこれまで得られなかった関係性があった。
憧れのトレーナーがいて、尊敬できる先輩に囲まれ、ここにはいないが無二の親友がレースを見に来て応援してくれた。
そして、アオギリホウオウはトゥインクル・シリーズのメイクデビューで見事勝利してみせたのである。
ここからだ。ここから、クラシック三冠という大舞台に脚を進めるのだ。
険しい道のりだ。自分以上に努力してきた、自分以上の怪物たちが立ち塞がる。鬼才秀才が鎬を削る、群雄割拠のクラシック。全て、制さねばならない。
しかし、それは少し先の話だ。
今日は勝った。次も勝つ。勝ち続ける為、走り続けねばならない。
けれど、今だけは少し止まっていたかった。
瞼の裏、好きな人たちの話し声が聞こえてくる。
暖色の灯りがアオギリの安らかな寝顔を照らしていた。
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