肉体能力において、人間ではウマ娘には敵わない。
例えそれが、成人と子ウマ娘であったとしても。
この世界には“しつけ鞭”というモノがある。
幼くとも強大な力を持つ幼少のウマ娘をしつける為の、文字通りの愛のムチだ。
だが、そういった風習は時代と共に薄れていき、現代では非ウマ道的であるとして忌避されるものとなった。
そう、現代では。
時代がそうだからといって、スイッチひとつで切り替わる程、人の価値観はそう簡単に変化しない。
例えば旧家の納屋に。
例えば歴史資料館に。
例えば片田舎の常識として。
ウマ娘を叩く鞭が、未だ残っているのである。
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今年もまた、レースの季節がやってくる。
来るクラシック路線最初の皐月賞を前に、クラシック級に蹄鉄を進めたウマ娘たちはよりいっそうトレーニングに励んでいた。
そんな中、トレセン学園のトレーニングコースにて、GⅠウマ娘となったアオギリホウオウはいつにも増して自分を追い込んでいた。
「はぁ……! はぁ……! はぁあああっ……!」
滴る汗を拭うでもなく払い、アオギリホウオウは荒い息を吐いていた。
併走に次ぐ併走。アオギリの脚は異常なほど熱を発し、露出した身体からは滝の様に汗を流している。過剰収縮した筋肉は悲鳴をあげ、脈打つ心臓は暴れっぱなしであった。
無論、これはトレーナーの意図するものではない。トレーニング開始からかれこれ二時間。オーバーワークにしても許容の外に出ていた。
「休憩だ」
有無を言わせぬニンジャトレーナーの命令。
対し、白面の奥の魚目は眼光鋭くキツネ面を射抜いた。
「も、もう一回だけ! 走らせてください!」
爛々と光る右眼には、確かな熱と生命力が宿っている。だが、身体は完全に限界を突破していた。
確かに、これまでアオギリホウオウは常に限界を超えるようなハードトレーニングをこなしてきた、しかしそれは身体に悪影響の出ないギリギリを計算し、都度見極めて行われていたものであって、今回のオーバーワークは異常に過ぎる。
トレーナーの観察力は既にアオギリホウオウの疲労の程を正確に認識していた。
精神が肉体を超越している。それはまだ、いい。いつもの事だからだ。だが、その動機が曖昧の様に見える。そこに冷や水をかけた場合の影響も未知数だ。
ニンジャトレーナーは意識的にコンマ以下秒で思考する。怪我のリスク。未来の天秤。鍛錬の精度……。
普通のトレーナーなら、ちゃんとしたトレーナーなら、ここは何が何と言おうと止めるだろう。
トレーナーは隣の黒鹿毛を見て、決断した。いざとなれば自分が何とかする。怪我だけは絶対にさせない。
「ライス=サン、頼めるか」
「うん、わかったよ」
アイコンタクトで意思が伝わる。心優しいライスシャワーはアオギリホウオウの転ばぬ先の杖として準備を進めた。
「私も行こう」
何を思ったか、捕食を食べ終えたオグリキャップも自主的に併走に付き合うと申し出た。
マイペースなオグリが実際珍しい。だが、信頼はできる。澄んだ双眸に頷きを返し、ニンジャトレーナーは腕組み仁王立ちの姿勢を取った。その靴底はいつでも駆けだせるよう地面を噛んでいた。
トレーナーが見守る中、今日何度目かの併走トレーニングが始まる。
先頭を走るのはオグリキャップ。それから2バ身遅れてアオギリホウオウ。ライスシャワーはアオギリの後ろにぴったり張り付いていた。その意図は明白であったが、当のアオギリは分からないでいた。
悠々流して走るオグリキャップとライスシャワー。対するアオギリホウオウはいつもの走りが出来ておらずその速度はじわじわ減速していった。得意な間隔にも関わらず、力を出し切れていない。その事に気づいてもいなければ、併せて減速している二人にさえ意識の外にあった。
集中はできているが、意識が前にあり過ぎて肉体疲労を感知できていない。ニンジャトレーナーの油断なき観察眼はそのように見抜いていた。
まるで、初めて公園デビューをした子ウマ娘の様だった。
どうにも、ちぐはぐだ。
「鬼気迫るものがあるねェ」
手元の情報端末を見ながら、アグネスタキオンは興味なさげに呟いた。
「やる気があるのは良い事だ」
そう返すトレーナーも、思案げに低い声色を出した。その意思が言葉通りではないのは明らかだった。
レース後、さすがにこれ以上は許可できないとアオギリホウオウは無理やり椅子に座らされ、有無を言わせず筋弛緩マッサージを受ける事になった。
施術を受けると、さっきまで走りたがっていた脚が上手く反応しなくなっていた。ここにきて、やっと肉体の疲労が脳に伝わったらしい。
肉体が落ち着けど、心の熱がくすぶっている。アオギリホウオウは補水液を飲みつつ、まっすぐ前を睨みつけていた。
「はぁ……! はぁ……! ……ふぅ」
少しどころでなく、走り過ぎた。
オーバーワークだ。非効率だ。トレーナーの信頼を裏切っている。アオギリの冷静な部分が自分自身をたしなめる。全て、わかってはいる。わかった上で、心が走りたがっているのである。
しばらくすると、休憩中のアオギリに歩み寄ってくる葦毛の影があった。オグリキャップだ。
オグリキャップは手に手にパックド・スシを持っていた。そのパックには決断的な書体で「完全食な」「カラテを回復」と書かれていた。
「お疲れ様、アオギリ」
言って、スシを渡すオグリキャップ。パックにはタマゴやマグロ等の色鮮やかなスシが入っていた。
「どうも、ありがとうございます。オグリ先輩」
アオギリホウオウはお礼を言いつつ、手渡されたそれを受け取った。
トレセン学園でスシ? と訝しむアルデバラン・メンバーはいない。アオギリホウオウとて、既に慣れた。
このスシは補食だ。何故かアルデバランで供される補食はスシなのである。しかも市販の惣菜ではなく、曰くターフスレイヤーが握ったものなのだという。
スシと言えば回転寿司しか知らないアオギリからすると、タフスレ・スシはそれはもうべらぼうに美味かった。
手を吹き、箸を取って、小さくいただきますをしてから、アオギリはまずタマゴ・スシを食べた。冷えた卵は甘く、酢飯には程よく酸味がある。柔らかな味わいが疲れた身体に染みるようだった。
よく噛んで、食べる。そよぐ風が髪を揺らし、汗ばんだ肌をなぜた。遠くの方でウマ娘たちの笑い声が聞えてくる。
そうしていると、脚を促す衝動が沈静化していく様であった。
それにしてもと、アオギリは隣で食事を取るオグリキャップの横顔を眺め見た。
綺麗な葦毛だ。綺麗な瞳だ。そして何より、あまりにも美しい精神の持ち主だ。オグリキャップとはそれほど長く過ごしてきた訳ではないが、多少なり彼女の心根には感じるものがあった。
じっと見つめていると、目が合った。絶えず口をもごもごさせながらもオグリキャップがこちらを伺っていた。
この先輩は、素直で純朴だが、口が回る方ではない。とはいえ良くも悪くも言葉に迷う方でもない。なら、それでも口にし難い話題だろうか。それとも気遣ってくれているのか。
言い出しづらそうだったので、アオギリホウオウは口内のスシを飲み込むと、かねてから気になっていた事を訊いてみる事にした。
「あの、師匠が仰ってました。オグリ先輩って、地方のトレセンから来たんですよね」
「ああ」
オグリは頷いて、遠くの景色を見た。自身とは違う蒼空を映す瞳は遥か遠い故郷を見ていた。
「私は向こうでデビューしてから中央に来た。トレーナーとはカサマツからだな。中央に来たのも、トレーナーに誘われてだ」
葦毛の怪物・オグリキャップ。
その名はトゥインクル・シリーズの歴史に燦然と輝く一等星だ。
当時、今よりなお高かったとされる地方と中央の隔たりを、その豪脚で以て踏み越えてのけた異端のウマ娘。
地方から中央へ。盟友たちとの激闘。正体不明の新人トレーナー。そのどれもが庶民受けする物語性を生み、レースフリークのみならず日本中を熱狂させた。
海外遠征が主となった現在においてもマイルから長距離。芝やダートを含むいくつもの重賞を制してきた生ける伝説。それがオグリキャップなのだ。
そんな伝説のウマ娘は、同チームの後輩に何かを伝えようと一生懸命に話す順序を考えていた。
もぐもぐと、スシを食べながら。
「色んなところに行ったし、たくさんのレースを走った。だが、私ひとりでは府中やアメリカを走る事はできなかっただろうな」
自嘲げな笑みは、如何なる感情から来たものか。やがて、小さく息を吐くと今度はアオギリホウオウの目を見て云った。
「私は中央に来て、地方の皆の期待を背負うつもりで走ったんだ。トメさん、タケさん、それからトレーナーも」
「師匠もですか?」
「ああ。連れてきてもらった恩もあるが、トレーナーも私に“何か”を見ていたからな」
そういえば、オグリやタキオンも不思議なウマ娘だが、アルデバランにはもう一人一等摩訶不思議なウマ娘がいるのだった。
ターフスレイヤー、またの名をニンジャトレーナー。アオギリは大のタフスレフリークだ。ターフスレイヤーの映像記録は擦り切れる程見てよく知っていたが、けれどもニンジャトレーナーとしての経歴はあまり知らなかったように思う。
アオギリホウオウは、何故だか寂しい気持ちになった。
オグリキャップは過去を懐かしむように、ゆっくり箸を置いた。食べ終わっていた。
「地方で走って、中央で走って、いつの間にか夢や期待や、色んなものを背負うようになっていた。私自身、どこか誇らしかった。私に夢を託すみんなの為にと、励む力になっていたからな」
紡がれるのは、彼女が積み上げてきた歴史だった。
決して記事にならない本心は、オグリキャップというウマ娘を表すように淀みなく、澄んでいた。
「競走相手の夢を破りもした。引退したウマ娘に後の事を託された事もある。そんな、色んな人の色んな想いは、間違いなく私にとって走る力になっていたが、もしもの……不安の種にもなっていた。絶対に負けられないレースで負けた時は、自分でもおかしな事になっていたと思う」
純粋で、高潔で、精錬なウマ娘。
そんな風に思っていた先輩の口から零れた言葉は、アオギリホウオウの胸に腑に落ちるものを与えていた。ほんの僅か、共感があった。
同じだ、とは思わなかったが、それでも理解できる部分はあったのだ。
「そんな時に一番近くで支えてくれたのは。トレーナーだった。なにしろ、当時は私とトレーナーの二ウマ三脚だったからな、お互い未熟で実績もなくて、脚を引っ張り合うような時もあった」
同じような気持ちに、トレーナーに対しても感じた。
今でこそ名トレーナーの一人として確固たる地位を確立しているターフスレイヤーだが、そんな彼女にも未熟な時期があったのは、至極当たり前の事ではあったのだ。
「走って、走って、日本だけじゃなく海外のレースも走ったりして……。色んな事があって、ふと思った事がある」
オグリキャップは水筒のお茶を飲んだ。
そうして、青い空を見ながら云った。
「結局のところ、ウマ娘が走る事に大した理由はいらないんじゃないか、とな」
その言葉は、字面ほど単純な意味はないのだろう。
それだけの経験と確信が、葦毛の怪物と呼ばれるウマ娘から滲んでいた。
しっかりと、目が合う。どこまでも澄んだ瞳の奥に、アオギリホウオウの片魚目が映っている。
オグリの目を通すと、アオギリの魚目はけっこう綺麗に見えた。
伝説の怪物は、いつも優しい目をしている。
綺麗なだけじゃない、強い瞳をしていた。
自分で道を選んで、自分の意思で立っているウマ娘だ。
「私は葦毛の怪物として走る。今では胸を張ってそう言えるよ」
覚悟と、矜持。
今のアオギリホウオウには無いものだ。
だが、いつか、自分もこういう風になりたいと、素直に憧れる事のできる格好良さがあった。
「えーっと、だからな……何だったか……?」
葦毛の怪物・オグリキャップ。
大食いで、ぼんやりしてて、方向音痴。
綺麗で、強くて、誰より多くの夢を背負うウマ娘。
間違いなく尊敬できる先輩だ。
「……すまないアオギリ、私は何を言いたかったんだろうか?」
「あー、うん。はい。伝わってますよ」
「そうか。ならよかった」
正直、何も伝わってはいない。
だが、なんだか地に脚ついた感じになれた。
思えば、焦っていた気がする。インペラトリーチェとの約束に、急ぎ足になっていた。
心が重要とは説かれたが、心だけでも勝てないのがレースというものだ。さっきまでは、心だけで走っていた。
ゆっくり、息を吸う。
一歩一歩、大切にするべきなのだ。
「……よし」
しっかりと、次のレースを見据えていこう。
オグリキャップモターフスレイヤーも同じだった。未熟な時があって、手探りで進んで、一歩進んで二歩下がる。そうやって、彼女らの蹄跡は刻まれていぃたのだ。
決意を新たに、アオギリホウオウは空を見上げた。
次走は、弥生賞。
あと少しで、クラシックへと手が届く。
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「4コーナー曲がりまして各ウマ娘仕掛けてきます! ミニコスモス先頭!
先頭はミニコスモスです! バイトアルヒクマはどうだ! アオギリホウオウが迫ってきます!
アオギリホウオウ! アオギリホウオウ差し切れるか!
ミニコスモス粘る! 行けるか!? 行けるか!? エキサイトスタッフも上がって来た!
アオギリホウオウだ! アオギリホウオウだ!
ミニコスモスどうだ! エキサイトスタッフも上がっているが!
アオギリホウオウ、今! ゴォォォールイン!」
時は春。気の早い桜が咲き始める頃。
中山レース場。弥生賞。
半バ身の差をつけて、アオギリホウオウは皐月の前哨戦を見事勝利してみせた。
初の一番人気での勝利は、アオギリにとって確かな自信を与えてくれるレースだった。
「よしッ!」
アオギリホウオウは勝利の歓声を浴びながら、遠くにいるチームメイトへと手を振った。
チーム・アルデバランは、一身上の都合で重賞及びGⅠレースにおいては専用の関係者室で観戦している。外からは、その姿は遠く見え難い。
けれど、彼女らが見守ってくれているのを知っているから、アオギリは勇気を以て走れたのだ。
歓声に応える中、アオギリホウオウは会場の奥の方に見知った姿を見かけた。
先っちょがクルッとしている栗毛のウマ娘、インペラトリーチェだ。その脚には既にギプスはなく、杖もまた持っていなかった。無事、完治したのだ。
「リーチェさーん! 勝ってきましたー! ウチ、勝ってきましたよー!」
アオギリは勝った喜びを一旦退かし、両手を振って勝利報告をした。対するインペラトリーチェも小さく手を振って返してくれた。
しばらくして、例の如くアオギリの周りに再戦を誓うべく出走ウマ娘たちが集まって来た。
かしましいバ群に飲まれ、一人一人と握手するアオギリホウオウ。もう何度も走っているウマ娘と固く手を握り、初めて走ったウマ娘からは熱烈な抱擁を受けていた。
端から見ると、彼女もまたスターに他ならなかった。
「生で見たのは初めてだが、あれがアオギリホウオウの走りか」
そんなレース場の片隅に、腕組み仁王立ちで観戦する黒鹿毛のウマ娘がいた。
その瞳は凛として鋭く、やがて来る強敵とのレースを注視していた。冷静な観察眼の奥に、静かな熱が灯っている。しかし、その眼光は聊か以上に剣呑な光を放っていた。
「あら、貴女も来ていらしたの」
「ああ、リーチェか」
黒鹿毛のウマ娘が振り向くと、そこにはインペラトリーチェの姿があった。
その立ち姿はあくまでも優雅であり、怪我明けとは思えない壮健ぶりだった。
「貴女もアオギリさんに興味が?」
「興味、という程ではないよ。警戒に値するとは思うが、それだけさ」
言って、その鋭い眼差しを再び件のウマ娘へと向けた。
視線の先、アオギリホウオウは獣めいて凄絶な笑みを浮かべ、競り合ったウマ娘たちと握手などして健闘を讃え合っている。
一見、爽やかな光景に見える。
勝者と敗者との理想的な関係がそこに在るように、外からは見えるのだろう。
だが……。
「あれは……無責任な走りだ」
狂奔の暴走。野生への回帰。走って競って、立っていたが故の勝利。
勝者にあるまじき振る舞いだ。
敗者にあるまじき振る舞いだ。
考えを押し付ける気はないが、気に入らないのもまた事実だった。
敗者が勝者を讃える、これは分かる。それにより、敗者は自身の至らぬところが分かり、より良い走りへの改善につながるのだから。
だが、アオギリのあの態度は何だ。敗者の方を見ているようで、その目には誰も映っていない。鏡のように、ロボットのように、相手の物言いに従っているだけの、利口なだけの幼年ウマ娘の様ではないか。
ぎり、と。我知らず、黒鹿毛のウマ娘――スペードテンは歯噛みした。
「あら? ああいうのも素敵だと思うけれど?」
「君の感性にケチをつける気はないよ。けれど、私は気に入らない」
「珍しいですわね。貴女がそこまで感情的になるなんて」
「誇りがあるんだよ、私の家には」
スペードテンは背を向け、歩き出した。これからウイニングライブやインタビューがあるのだが、それには興味がないらしい。
決断的な足取りで、世代四強の一人は去っていく。
ふぅ、とため息ひとつ。インペラトリーチェは、相手の目を見ずに言った。
「ひとつ、言いたい事があるのですけれど」
背後から声。振り向いて、インペラトリーチェの後ろ姿を見る。
令嬢の瞳は、アオギリホウオウを見ていた。スペードテンは、背中越しに声をかけられていた。
「……今の貴女、心と言葉が合ってませんわよ」
その言葉の意味するところを、スペードテン自身把握はしていた。しかし、分かっていても認めたくない事というのはあるものだ。
「……忠告感謝するよ、リーチェ」
僅かに芽生えた感情を飲み込んで、黒鹿毛の優駿は今度こそ去っていった。
黒騎士・スペードテン。
朝日杯フューチュリティステークス勝者。世代四強の一人にして、名家出身のウマ娘。
柔よく剛を制し、剛よく柔を断つ。王道にして猛き走りを魅せる者。
そして王道とは、真に強いからこそ王道なのだ。
「栄誉は譲らん。アオギリホウオウは、この私が倒す……!」
故も知らぬ因縁が、アオギリホウオウを狙っていた。
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